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パネルディスカッション

1. 内閣の危機管理機能強化の経緯

私は平成15年1月~平成20年5月の約5年4カ月間、内閣危機管理監 を務めました。それは、イラクで人質が取られたりする一方で、新 潟で二つの大きな地震があったころです。そのときは神戸から大変 なご支援を頂いて助かりま

した。今日は日本政府が危 機管理のためにどういう体 制を取ってきたかをお話し します。平成7年1月に阪神・

淡路大震災が発生し、その 年は、3月に地下鉄サリン事

件もありました。翌年の平成8年には在ペルー日本国大使公邸占拠 事件、その翌年の平成9年1月にはロシアタンカーナホトカ号海難・

油流出事故が起きました。阪神・淡路大震災のときに、官邸では必 ずしも十分な危機対応は取れていませんでした。それまでは、災害 というのは政府が直接、防災・減災に大変な努力をしなければいけ ないという認識ではなく、復旧・復興については政府を挙げてやら なくてはならないと思っていましたが、対応については各都道府県 にしていただくというのが原則でした。従って、各省庁の大臣まで は現場の状況を報告することがあっても、それを内閣官邸まで報告

報告1

「日本政府における危機管理」

野田 健(元内閣危機管理監)

するというふうには、必ずしも考えていませんでした。

ですから、阪神・淡路大震災が起きたときも、官邸では初めのう ちは何が起きたのかさっぱりつかめませんでした。テレビその他で 報じられているのを聞いて、「こういうことのようだ」という具合 でした。私は内閣危機管理監になる前の平成3 ~ 5年の間、内閣総 理大臣の秘書官として官邸にいたので、当時官邸がどういうことを していたかを知っています。旧庁舎の時代なのですが、旧官邸の大 食堂と小食堂の間に内閣総理大臣がお客さまを迎えすると記念写真 を撮ったりする空間があるのですが、そこに机を運び出してきて、

電話機をつないで、官邸対策室を立ち上げてやっているというよう な状況でした。ですから、官邸でも対策室ができるまでに最低でも 2時間ぐらいはかかりますし、勤務時間外になると3時間も4時間も かかるということで、慌てて官邸に報告するというセンスがなかっ たのです。阪神・淡路大震災のときも、あの日は火曜日で閣議の日 ですから、閣議が始まったころになって、どうも大勢亡くなったよ うだという話が入って、それは大変だということになり、それまで の間は必ずしも分からなかったということです。

そのように、初期段階での情報の収集や報告体制がなっていない ということがありました。

例えば、今は内閣府の防災 担当審議官がいるのです が、当時は国土庁防災局が 防災担当で、組織はあるの ですが当直はいないので、

午前6時前に起きたものが

即刻報告されるということは全くありませんでした。私が秘書官を していたとき、奥尻島で大地震の後の津波があって、100人以上の 方が亡くなりました。そのときも夜中の11時半ごろ、私はいつもの ように家の下で新聞記者の取材を受けていたのですが、一人の記者 が「さっき大津波地震警報が出た」と言うので、たちまち取材を打 ち切ってもらって部屋に戻って、そこらじゅうに電話を掛けたりし て状況をつかみました。当時はテレビは夜中は放送しませんし、ラ ジオのニュースその他でやっと分かるという状況でした。

もう一つ、よく注意しなければいけないのは、小さな災害のとき はどういう状況かが割合よく分かるのですが、とんでもない大きな 災害になると、災害発生地は情報発信能力をなくすので、何が起き ているかは周りから情報を取りにいかないと分からないということ です。現地からの報告を受けると同時に、今度は官邸サイドから考 えれば、「必要な情報が来ていないぞ、ここはどうなっているのだ」

と調べてもらうような手配をしないと情報は集まらないということ です。

また、官邸は、秘書官が一人孤軍奮闘するような仕組みになって いて、今のように危機管理を担当する職員はいませんでした。従っ て、平素からそういう訓練もしていないので、たまたまそういうこ とがあると、いつもは他の目的で使っている部屋に対策室をつくり、

そこに総理府から職員に集まってもらっていました。

警察で言うと、警察庁までは画像も来たし、無線も来ましたが、

そこで止まって官邸までヘリコプターで撮った画像を送るというセ ンスはなかったというのが実情です。阪神・淡路大震災のときは非 常に残念だったのですが、自衛隊にいざというときに応援してもら

うという認識が、必ずしも都道府県、市町村レベルでなく、かなり 要請が遅れました。この反省に立って、都道府県ではなく、市町村 長にも要請権限を与えようという改正が後で行われました。

もう一つ残念なことは、警察・消防・自衛隊という最初に動かな くてはいけない実動機関が、それぞれ応援の体制をつくっていたと しても、お互いに連携する体制が十分にできていなかったことです。

消防も阪神・淡路大震災のときに、市町村消防ということでありな がら、大勢の部隊が神戸まで来てくれたのですが、残念なことに応 援をいつも考えて体制を取っていないので、放水するためにホース をつなごうと思っても、うまく合わずにできなかったということが ありました。