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Gendai o ikinuku nogaku

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Academic year: 2021

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 現代を生き抜く能楽 川口, 晃平(Kawaguchi, Kohei) 慶應義塾大学理工学部 2017 人間教育講座 : 社会を知る自分を知る自分を育てる (2017. ) ,p.61- 95. Book http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO50001001-20170000 -0061.

(2) 現代を生き抜く能楽.

(3) 昭 和 五 一 年 漫 画 家 か わ ぐ ち か い じ 氏 の 長 男 と し て 生 ま れ る。. 晃平. シテ方観世流能楽師 梅若会所属. 川口 か わ ぐ ち・ こ う へ い. 慶應義塾大学文学部在学中に能に魅せられ、卒業後の平成一三年、五六世梅若六郎. ︵現・玄祥︶に入門。その年復曲能﹁降魔﹂にて初舞台。平成一九年独立の後、今ま. で に、 能﹁ 翁 ﹂ の 千 歳、 能﹁ 石 橋 ﹂﹁ 猩 々 乱 ﹂﹁ 道 成 寺 ﹂ を 披 く。 謡 と 仕 舞 の 教 室・. 緑龍会、能楽ユニット・三人の会を主催。全国各地で舞台に立つ傍ら、能楽普及の レクチャーを行う。. 62.

(4) 能との出会い. シテ方観世流能楽師の川口と申します。私は二〇〇一年に慶應の文学部を卒業して、能楽師になりま. した。プロフィールにもありますように、私は能の家の生まれではございません。能というのは基本的. には世襲で、能の家の子が能楽師になるというふうにして代々引き継がれてきているものです。私は親. が作家をしている関係で、ちゃんと就職しようというよりは、何か自分の好きなことで身を立てたいと. 思いながら子供時代から過ごしていました。また、日本の伝統的なもの、古くて美しいものが、ないが. しろにされている時代なのではないかなと思いながら育ちました。自分はいったい何が好きなのだろう. かといろいろ探しているなかで、大学に入る直前ぐらいに、能というものに出会いました。. そのきっかけは能面の写真集でした。私は実は絵描きになりたかったのですが、自分が描きたいと思. う顔がまるでカタログのように、その能面の写真集にはありました。それを見て、これはひとつ能を見. てみなければならないと思ったのです。そこで大学に入学して早々に、慶應観世会という歴史のある. サークルに入りました。慶應日吉キャンパスのすぐそばに稽古場があるんですね。そして、ちゃらんぽ. らんな部員としてですが、能を見たり、謡を謡ったりすることに夢中になりました。お酒を飲んでいる. か、能を見ているか︱︱本当にそういう生活を送っていました。とにかく、能というものに魅せられて しまったといったほうが正しいかもしれません。. そのころ能楽堂に行っては、本当に貪るようにいろいろな演目を見ておりました。そのなかで、明ら. かにこの人の舞台は格段に違うという方がいらっしゃいました。それが、後々私の師匠になります梅若. 現代を生き抜く能楽. 63.

(5) 玄祥先生︵当時は梅若六郎︶です。子供時代から表現者になりたいと生意気にも思っていた私にとりま. しても、その玄祥先生の舞台は、同時代の文筆・音楽・造形・演劇・映画などさまざまなジャンルの表. 現者たちの中でも私をいちばん感動させてくれるものでした。能は古いものですけれど、いちばん自分. が突き動かされて、揺り動かされる︱︱そんな舞台表現を目の当たりにしたわけです。能にはまったと. いうのもありますけれど、もしかしたら玄祥先生の舞台にはまってしまったのかもしれません。. 能の世界に入る. 玄祥先生の娘さんは、実は慶應出身なのです。私とは代がかぶっていないのですが、ご関係の中には. 慶應の方がたくさんいらっしゃいまして、共通の知り合いがいました。その知人に﹁そんなにファンな. んだったら、梅若家に遊びに行こうよ﹂と言われて、初めて梅若家に連れて行ってもらいました。. 当時、師匠の事務所では男手が少なくて、重い荷物を持ったり、一日にカレンダーを何千本も発送し. たりといったバイト的な仕事がいろいろありました。お手伝いをしているうちに、ある日、玄祥先生が. ﹁川口君、手先は器用?﹂とお聞きになるので、 ﹁どちらかというと器用です﹂とお答えしたところ、 ﹁舟. の碇を作れるかなあ。一メートルぐらいで、三又になっている碇なんだけど﹂とおっしゃいました。大. 学三年の頃だったと思います。そこで、事務所にあったダンボールとハンガーを利用して、舟の碇を作. り、 ﹁これでよろしいでしょうか﹂と伺ったところ、師匠は﹁そうそう、こんな感じ。こんど使うから 見に来なよ﹂と言ってくださったんです︵図1︶。. 64.

(6) 私が作った碇が使われたのは﹃碇潜﹄という、壇ノ浦の合戦の最後に、平家の滅亡を見守った平知盛. が碇を引き上げて入水するという能でした。その碇が梅若家になくて、どこの馬の骨ともわからない、. まだ何回かしか会ったことのない私に、﹁こいつはなんか能が好きそうだな﹂ということでお声掛けい ただいたと思うのですが、思えばそれが私の就職活動になっていたわけです。. その後しばらくして、師匠と鍋を囲んでいたことがありました。私が四年生だった頃だと思うのです. が、 ﹁川口君、能、好きだよね。本当に好きだったら、能楽師にならないか?﹂とおっしゃっていただ. く機会がありました。能というのは、子供の頃からやっていて、道具類や本、着物、袴、お扇子などは. 代々親が持っているという世襲制の世界です。そして、知識や、幼少期に植え付けられなければいけな. い感覚などもいろいろとあります。そういったものがまったく無く、ただ能を見るのが好きな私という. もちろん普通に考えたら、﹁ちょっと考えさせてください﹂と申すところを、私は﹁はい!﹂と即答. 人間に、そう声をかけていただいたわけです。. してしまいました。﹁表現者として、この人ほど尊敬できる人はいな. い。この人の表現ほど魅力的なものは世の中にない﹂と思っていたそ. 企 業 に 就 職 し た い、 こ う い う 仕 事 を し た い と い う 確 か な ビ ジ ョ ン が. の人から、一緒に能をやらないかと言われたわけです。もし私が仮に. あったとしたら、﹁ちょっと考えさせてください﹂と言ったかもしれ. ませんが、その当時の私は表現をしたかった、そして師匠の芸にとに. 碇. かく惚れていたので、その人から﹁一緒に能をやろう﹂と言われて、. 現代を生き抜く能楽. 65. 図1.

(7) 他に選択肢がなかったのです。そういうわけで、即答してしまったんですね。. そして、大学卒業後七年間、住み込みの内弟子をしました。朝六時過ぎに起きて掃除をして、師匠の. 朝ご飯を作って、運転手をして、師匠の着物を用意して、能装束を出したり片付けたり、楽屋の掃除を. して、師匠におやすみなさいを言うと、もう夜の一一時過ぎ、一二時近くなんですね。毎日がその繰り. 返しです。年休は四日ぐらいで、休みの日も朝一〇時から夜一〇時までと門限付きです。日当はなく、. 食と住だけは確保されていて、私は楽屋に寝泊まりしていました。この話を始めると三時間ぐらいか. かってしまうので、詳しくは割愛させていただきますが、その後、二〇〇七年一二月八日に﹃石橋﹄と. いう独立披露能をさせていただき、お礼奉公ということでまた一年近く内弟子仕事を続けたあと、卒業 して今に至ります。. 能とは何か?. 能については詳しい方もいらっしゃるかもしれませんが、よく聞かれる質問に答えていくようなかた ちで、ちょっとお話をさせていただこうと思います。. ﹁どうして能というのですか?﹂とよく聞かれますが、能とはまさに能力の能です。役者が発揮する. ︵1︶能とは何か?. 技 の こ と を 能 と い い ま す。 当 時 の 役 者 の 魅 力 と し て 一 番 人 気 だ っ た の が 演 劇 を す る こ と だ っ た の で、. 66.

(8) ﹁能﹂といわれております。. 能は現存最古の芸能です。何世紀も続いてきた芸能としては、世界で最も古い芸能です。もちろん紀. 元前後にもいろいろな音楽や芸能がございました。ただ、それらはみんな断絶しています。ギリシャ悲. 劇にしても断絶してしまっているのです。ただ能だけが、七〇〇年近く今の形のまま続いてきていると いうことで、現存最古ということ、まさに伝統の芸能なのです。. おそらく伝統の価値というのは、古さにあるのではないと思います。いろいろな時代を超えてアップ. デートしてきた、その履歴、蓄積の厚みにこそ価値があるのだと思います。つまり、いろいろな時代の. 流れに対処できてきたという、その厚みにこそ伝統の価値があり、それこそが伝統というものだと思う. のですが、例えば森林の樹木を伐採してしまえば森林がなくなるように、この伝統というものも一回手. 放してしまえばもう取り戻すことはできません。先人たちがその荒波を超えて見事に私たちに手渡して. くれたものですから、これは絶対に手放してはいけない。私は能というものをそういうふうに見て生活 しています。. 能は仮面を使う歌舞劇です。歌舞劇というのは、歌と舞によって心情をあらわしたり、筋を進めたり. する劇です。セリフ劇というよりは、もっと音楽的な劇ですね。そして、仮面を使う。世界を見回して. みても、仮面を使って役に扮するというのはだいたいプリミティブな社会の芸能です。能はそのプリミ. ティブさを保ちつつも、洗練の極みに達しているということが、珍しく、また素晴らしいのではないで しょうか。. 現代を生き抜く能楽. 67.

(9) ︵2︶能の流派はいくつある?. 能と狂言はどう違う?. これもよく聞かれる質問なのですが、観世・宝生・金春・金剛・喜多という五つの流派があります。. 喜多流以外はみんな室町時代から続いている芸能の一派で、喜多流だけが江戸時代に出来た流派になり. ます。われわれが所属している梅若家は、江戸時代の初めに観世流に組み込まれた家です。. よく狂言と能と何が違うのですかと聞かれますが、狂言というのは、大きな意味で能という芸能の中. のコメディ部門です。能では、どちらかというと神秘的な話や悲劇的な話が多いのですが、狂言はもっ. と地に足のついた、市井の人々が日常の中で感じるような﹁ちょっとおかしい﹂﹁ちょっとくすっとさ. せる﹂ような、 ﹁わかる、わかる﹂というような世界を格調高く喜劇にしています。﹁狂言回し﹂という. 言葉がありますが、能の中には狂言の役者さんが登場します。その違いは足袋の色を見ていただければ. わかります。能楽師はみんな白足袋を履きますけれど、狂言の方は白色に遠慮をして黄色もしくは薄茶 などの色のついた足袋を履いています。. これもはっきりしたことはわかりません。教科書的にいうと、飛鳥時代や奈良時代に伎楽や舞楽、雅. ︵3︶能のルーツは?. 楽とともに伝来した散楽がルーツであるとも言われます。それは滑稽な所作、中国雑技団のようなアク. ロバティックな技を見せる芸能だったようです。直接には、神社や寺の祭礼で演じられ始めた猿楽の流 れです。 ﹁さんがく︵散楽︶﹂がなまって﹁さるがく﹂になったともいわれます。. 68.

(10) ︵4︶誰が作ったのか?. 能という芸能を演じ始めたのは誰かというと、これも教科書的にいうと、観阿弥・世阿弥親子が今あ. る形に仕上げたとされています。だからルーツはもっと古い。七〇〇年以上、いや、もっと古いと思い. ます。それを今の形である能という芸能にしたのが観阿弥・世阿弥親子です。この観阿弥・世阿弥のそ. れぞれの頭文字をとったのが観世流です。ですから、観世流の家元は世阿弥から数えると、今で二六代 目になります。 ︵5︶彼らは何者だったか?. 彼らは大和︵奈良︶出身の芸人集団で、神社やお寺に仕えていました。どういうことをやっていたの. かと申しますと、大きな神社仏閣は追儺と言って、必ず﹁鬼は外、福は内﹂という儀式を行います。つ. まり一年の邪気を祓って、福を招き入れる儀式です。その時に、鬼の仮面をつけて、祓われる邪気の役. をやっていたのが、能楽師の先祖たちです。つまり非常に身分の低い、﹁河原者﹂と呼ばれた人々が今. の能の根本を作ってきた人たちなのです。彼らは、邪気として祓われるわけですが、社会的にみても、. カースト外といいますか、社会にも居場所がなく、祓われる存在であったわけです。それが代々、鬼の. 仮面をつけて演じていた芸人たちは、放逐されていった鬼たちの気持ちを演劇として描き出す。鬼の中. に自分たちを見い出していく。もっと言うと、﹁鬼の中に人を、人の中に鬼を見る﹂というのが、能と. いいますか、日本の演劇の出だしなのではないかなと思います。鬼を演じるという年月の中で、祓われ. ていった存在たちにシンパシーを感じ、それを自画像として描く、能という芸能を作り上げていったの. 現代を生き抜く能楽. 69.

(11) だと思います。 ︵6︶どういう物語を扱っているか?. ですから、能にはいろいろなジャンルがあります。めでたいお話から、古典文学、人情話、SF風な. 演目もあります。ですが、いかにも能らしい演目というのは、生前哀れだったり、非業の死を遂げたり. した人物の幽霊が、自分の思いを語りにこの世に現れるというものです。そういう存在に出会うのはた. いていお坊さんなのですが、観客の代表であるお坊さんに自分の思いを語って、やがてまた死の世界に. 帰っていき、夜が明ける。そして、お坊さんは夢だったのか現だったのかわからず、朝の風景の中に立. そういった意味で、亡き者の魂を慰める鎮魂の芸能、あるいは鎮魂のうえでの寿ぎの芸能でもあると. ち尽くす、というような演目が多いのです。 いうのが、能ではないかなと思います。. 能といえば、武家の芸能であるとよくいわれますが、武家と能の出会いはある一日でした。一三七四. ︵7︶能のパトロンとなる武家との出会いは?. 年か七五年のこと、室町幕府三代将軍の足利義満︵当時一七歳︶が、京都の東山にある今熊野神社でやっ. ていた観阿弥の興行の舞台を見に行ったんです。将軍がそんな河原者の芸を見に行くなんてことは許さ. れないわけですが、好奇心旺盛な歳若い将軍は見に行った。そうしたところ、観阿弥の芸はおもしろい、. すばらしいと感動したわけです。その舞台には観阿弥の息子の世阿弥も出ていました。彼は当時、一説. 70.

(12) では鬼夜叉と名乗っていました。鬼の芸能の家の幼名ですから、鬼夜叉です。鬼夜叉は当時一二歳。そ. の美少年ぶりに義満は一目惚れしてしまい、鬼夜叉を寵童として手元に置くようになります。. そして、義満は当時の都の最高の文化サロン全部に彼を連れて回った。そうしたところ、そんな身分. の低い人物を連れて回るのはよくないというところを、世阿弥の美少年ぶりに周りの貴族もほだされて. いくというか、魅入られていくんですね。当時のいちばんのインテリである二条良基から、﹁藤若﹂と. いう雅び過ぎる名前を鬼夜叉はもらいます。二条良基などはその日記の最後に﹁藤若君を見ていると、. 老ぼれの私がぼーっとしてしまう﹂というようなことを書いたりしているぐらいでした。そのぐらい文. 化サロンを巡らされていたということは、それだけ教養を叩き込まれていったわけです。. そういう中で、武家と猿楽は非常に近しいものになっていき、江戸以前の戦国大名はほとんど能を. ︵8︶なぜ江戸時代になって式学となったか?. 舞っております。さらに江戸時代に至ると、武士はみんな能をやり始めます。それはなぜか。式楽とい. う難しい言葉がありますが、政治に参画する支配者階級の身分の人たちには式楽が必要だったんです. ね。どういうことかと申しますと、政治の現場で儀式があるたびにいわゆる政治家たちは一人のプレー. ヤーとなれなければならなかった。平安時代の貴族はみんな雅楽や舞楽ができたわけで、例えば﹃源氏. 物語﹄の光源氏はいろいろな楽器や舞の名手です。それが、時代を経て、貴族の時代が終わり、武家が. 中心となる時代が来る。こうした時に、武家にも式楽が必要になった。武家の出だしである平家はみん. な雅楽をやっておりました。もっと武家らしい武家になっていくと、﹁そうはいっても、いまさら篳篥. 現代を生き抜く能楽. 71.

(13) や琵琶、笛なのだろうか﹂となる。そうした時に室町将軍が可愛がっていた猿楽︵能︶が見いだされて、. 武家の式楽としての能というのが成立していきます。というわけで、戦国時代には名だたる武士はみん な能マニアです。. これにはいろいろな理由があります。侵略戦の時には、部下に与える土地が手に入る。しかし防衛戦. の時には、守った恩賞を与えるのに、茶器などを与えたわけです。それがやがて能装束や能面を与える. ようになりました。そういうこともあり、例えば信長・秀吉・家康はみんなそうで、秀吉などは贅を尽. くした装束を作っておりました。さらに、自分が活躍した時、例えば明智光秀をやっつけた時の話を能. にして、自分で演じたりもしています。師匠の家の蔵には、戦国時代の能の番組の写しがありまして、. そこには家康・秀吉・前田利家の三人の共演があったと書いてあります。しかも、五番ある能のうち三. 番は秀吉が舞っている。たぶん秀吉はあまりうまくなかったと思います︵笑︶。社長がゴルフでOBを. 出しても、部下は﹁ナイスショット﹂と言わなければいけないような感覚で、たぶん部下たちは褒めて いたのではないかなと思うんですが、そういった時代がありました。. ですから、能の装束、面、小道具など能にかかわるものは、その時代の大名が威信をかけて作るよう. になるわけですね。能装束や小道具はどんどん豪華になっていく。それがいまだに受け継がれておりま す。だから大変なんです。 ︵9︶なぜ六五〇年も演じ継がれてきたか?. 式楽となった能は、現代にも受け継がれて演じられています。六五〇年以上も、なぜ能がこれほど時. 72.

(14) 代を超えてきたのか。それは、能のテーマが人間の本質にピントを合わせているからだと思います。時. 代の好みなどその時代にアジャストしすぎたものは淘汰されます。人間の変わらない部分というところ. にピントを合わせ、そこを舞台の上にどう立ち上がらせるかというところに苦心してきたのが能です。. ですから、余計なことはしません。今、平成の世に起こった芸能で果たして六五〇年後にまで続く芸能. があるかどうか。私はちょっと難しいのではないか、でも能はもしかしたらまだ演じられているかもし. 例えば、演劇や映画などの中では、海の場面や戦の場面、宮殿の中の場面などさまざまな場面が登場. れない︱︱それに賭けたいと思います。. します。歌舞伎では、後ろに書割を出します。映画であれば、特撮だったり、いろいろロケをしたりし. てやるわけですが、能にはそういうものはなく、常に松が描いてあるだけの白木の舞台だけです。演技. もそうで、例えば、悲しい、涙を流す、号泣するという場面なら、日本の最近の映画では﹁そんなにな. るのか﹂というほど、のたうちまわって泣き叫ぶような演技が多い気がするのですが、能では、能面を. 傾けて少し目頭を抑える所作︵﹁しおる﹂︶だけです。これほどシンプルなフォルムで﹁悲しみ﹂を表現. する。ということは、見ているお客さんがその姿の中にどういう悲しみがあるのか、想像しているわけ. です。このイマジネーションというものは古びません。書割や、映画で映し出された画像などは古びる. かもしれないけれど、イマジネーションというものはその時代時代の人の心の中にあるものですから、 時代を超えても古びないわけです。そういったものを利用するのが能なのです。. ですから、このままで海の場面、戦の場面、宮殿の中の場面を演じ、お客さんが想像しているわけで. す。ただ想像させるような工夫はしておりますが。そういった意味で、イマジネーションに訴えかける. 現代を生き抜く能楽. 73.

(15) 74. ということは、それだけお客さんを信頼しているということでもあります。つまり、われわれの先祖た. ちは、信頼を非常に受けた、ある意味、感覚のすぐれた人たちだったのではないかなということを、私. は能に携わっていて、非常に強く思い、また同時に反省するところでもあります。 ︵ ︶老松. うと思います。8ビートでできております。ですから手拍子に合わせて謡えます。一回私が謡ってみま. ちょっと話が大げさになりましたが、そういった感じでこの﹁老松﹂をみなさんと一緒に謡ってみよ. ます。これは能楽師が全員経験していることでもあります。. 間が折々にありまして、そういう時に別に悲しい能ではなくても、感動して涙が出てしまうことがあり. なくてはいけないと思ってきた、戦国大名も含めたさまざまな時代の人の声が和して聞こえるという瞬. それだけではなく、この能というものの素晴らしさを感じ、本当に楽しみ、そして次世代に受け継がせ. が聞こえるような気がするからです。世阿弥と一緒に謡っているような気がすることがあるんですね。. ラス隊である地謡に出ていて泣いてしまうことがあります。それは自分の肉体を通して、世阿弥の肉声. たぶん、信長も秀吉も家康もみんな謡ってきた。明治の文豪たちも謡ってきた。ときどき私も、能のコー. さらに、これは有名な曲ですので、世阿弥が作って以来、名だたる人たちはみんな謡ってきました。. 正月の行事には必ずこれを謡っていました。. という謡は、松ゆえに、松平と名乗っていた徳川家が非常に大事にしていたもので、謡い初めというお. では、ここで、世阿弥が作った﹁老松﹂という能の最後のところを謡ってみましょう。この﹁老松﹂. 10.

(16) すので、みなさん、まず聞いてみてください。 齢をさずくる この君の ゆくすえ守れと 我が神託の 告を知らする 松風も梅も 久しき春こそ めでたけれ. この﹁老松﹂は、先ほど申しましたけれども、徳川の江戸城で毎年正月に謡い初めとして謡われてい. た一節です。みなさん、この﹁老松﹂を謡うことで歴史上の人物とつながっていく、その感覚をどこか. でぜひ味わってみていただきたいなと思います。また、姿勢を正して大きな声を出すのは非常に体にい. いことですので、みなさん覚えて帰っていただいて、機会があればまた謡っていただければと思います。. 現代を生き抜く能楽. 75.

(17) 能舞台の特徴 次に、能の舞台の特徴についてお話ししていこうと思います。 ︵1︶舞台︵図2︶. 能舞台はちょっと変わった形をしています。能楽堂にいらっしゃったことがある方はわかると思うの. ですが、屋内なのに屋根があります。これはもともと能舞台が野外にあったからです。これには音響の. 効果もあります。能舞台が屋内に入ったのは明治以降ですが、屋根をつけたままの舞台になりました。. べての登場人物が登場します。あの幕の向こうは遠い世界なんです。そして. 舞台の左側に幕があります。緞帳ではありません。幕です。あの幕からす. ︵2︶幕︵図3︶. す。. いとおっしゃっていました。能舞台はこういう方にもお貸ししたりしていま. が、 能 舞 台 の 場 合 は 横 か ら も 見 ら れ る。 イ ン ド 舞 踊 の イ ン ド 人 も や り に く. だいたいどんな劇場でも正面のお客さんに向かって演技をすればいいのです. れるので、他の分野の方が能舞台でやると非常にやりにくいのだそうです。. そして舞台はお客さんのほうに張り出すように作られています。これだと、お客さんから横から見ら. 能舞台 図2. 76.

(18) 屋根のついている正方形の舞台が、今、目の前にある世界です。遠いところから目の前に何者かが登場. し、その何者かに出会うというのが、能という芸能です。ですから、幕の向こうは、あの世であったり. 遠い国であったりする。そして、そのあの世や遠い国から現れた人物がまた遠い国に帰っていきます。. 緑、黄、赤、白、紫の五色というのは陰陽五行説の木火土金水であり、要するに万物の元素の色を表し. ております。ですから、ここからすべての存在が生成して出てくる。そして、その生成したものがまた. ここに消えていくという、宇宙の循環のようなものが舞台で表されて いるわけです。 ︵3︶橋掛り︵図4︶. 幕から舞台までの廊下のようなところは﹁橋掛り﹂といい、遠いと. ころから現れる存在が通ってくる遠い道のりを表しております。﹁遠. い道のり﹂といっても一〇メートルぐらいしかないじゃないかと思わ. れるかもしれませんが、能を実際に見ていただくと、ゆっくりとした. 出囃子にのって、人物が何分もかけて出てきたりします。あの世から. この世に出てくるというのは、それだけ大変な道のりであるというこ とを表現していたりもします。. 現代を生き抜く能楽. 77. 幕 図3 橋掛り 図4.

(19) ︵4︶松. 橋掛りの前に松が三本立っていますが、舞台に近い方から一の松、二の松、三の松といいます。幕に. 近いほど、つまり三の松に行くに従って低くなります。これは遠近法を利用しています。つまり限られ. た空間で、幕の向こうが少しでも遠く見えるようにという能舞台の素晴らしい工夫です。橋掛りも真横. ではなくて、少し後ろ目に角度をつけています。これにも遠近法的な効果があります。. 能舞台は音響も非常に優れています。大きな古風な能舞台になると、檜の舞台の下に甕が埋められて. います。私の本拠地である梅若能楽堂の場合は、甕ではなく、コンクリートで甕のかたちを作っており ます。 ︵5︶鏡板. 正面にある松が描かれた壁面を﹁鏡板﹂と呼びます。必ずどの能舞台の鏡板にも松の絵が描かれてい. ます。これは何を表現しているのか。松というのは常緑の神聖な木です。常緑のものに神は寄ってくる. というのが日本の古い信仰のかたちですね。お正月に門松を立てるのは、﹁うちの門にも福を連れてお. 正月の歳神様が来てください。ここですよ﹂という目印にするためです。それと同じように、この松に. は神が降りており、つまり、神に見せている芸能ですという建前を数百年間保存しているわけですね。. 芸能というのは、古代に遡れば遡るほど純粋に神に捧げる﹁儀式﹂であり、現代に近づけば近づくほ. ど﹁娯楽﹂となり、人を楽しませて日銭をもらう生業になってきます。もちろん、﹁儀式﹂はおもしろ. くない、 ﹁娯楽﹂はおもしろい。そういうグラデーションというか、神から人へ、﹁儀式﹂から﹁娯楽﹂. 78.

(20) へ、つまらないほうからおもしろいほうへという芸能の流れというものがあると思います。そして、神. を喜ばせ人も楽しませる、ちょうど古代と現代、﹁儀式﹂と﹁娯楽﹂の中間にあるのが﹁奉納﹂ではな. いかと思います。もちろん神に捧げるのですが、ともに人も楽しむ。この能というの芸能は、鏡板に松. を描くことによって、神が宿る木のもとで芸能をしながら、人もともに楽しむ﹁奉納﹂である、つまり. 古代と現代のちょうど中間にある絶妙な一点をこの数百年間保ち続けてきた、そして未来も保ち続けて. いく。そういう座標にある芸能なのではないかなと思います。そのひとつのシンボルが鏡板の松なので す。. ちょっと脱線しますが、海外でも数多く能の公演を行っております。二〇一〇年にはギリシャ・アテ. ネのアクロポリスの丘にあるイロド・アティコス音楽堂で能をやりました︵図5︶。これは、一世紀の. ローマ時代に作られた舞台で、その横には有名なディオニソス祭に使った古い劇場があります。そして、. ここから上方を見上げると、パルテノン神殿が見えるんですね。私も夜、この舞台に立った時に見上げ. てみたのですが、ライトアップされたパルテノン神殿が見え. ました。その時に﹁あっ、この舞台は奉納の舞台だな﹂と、. 神に捧げる、そして人が楽しむという、非常に能の世界観に. 近いものをこの舞台に感じました。この世界はキリスト教に. よって駆逐されてしまうわけですが、この時代にはまだ奉納. があったんだなとわかって、本当に鳥肌が立ちました。. 現代を生き抜く能楽. 79. ギリシャ 図5.

(21) 80. ︵6︶装束. 儀式や奉納、神社仏閣の祭礼に使う衣装のことを装束と言います。能の場合も、能装束といいます。. ですから、能というのは奉納であるという意識があるわけです。現代劇では装束とはいわず、衣装とい. います。例えば歌舞伎なら松竹衣装というのがありますよね。ここにも違いがあるかなと思います。. り﹁おまーく﹂といえばゆっくり開けますし、きっぱりと﹁おまくっ!﹂. 幕の開き方が変わります。聞こえるか聞こえないか、低い声でゆっく. こ の 幕 を さ っ と 開 け る わ け で す。﹁ お ま く ﹂ の 声 の か け 方 に よ っ て、. て、その棒を持っていて、能面をつけた人が﹁おまーく﹂と言ったら、. に は そ れ ぞ れ 棒 が つ い て い ま す。 両 端 に 紋 付 袴 を 身 に つ け た 人 が い. 装束をつけ、能面をつけたら、幕の前に立ちます︵図7︶。幕の端. ける専用の空間がこの鏡の間です。. 一し、いい時間になったなと思ったら能面をつけます。その能面をつ. 束を身につけて、椅子に座って、鏡の中の自分の姿を見ながら精神統. の大きな鏡の前にある椅子に座って、私たちは能面をつけます。能装. の間﹂と呼ばれる場所があります︵図6︶。舞台が始まる前、鏡の間. 舞台の袖を見ていきましょう。舞台から幕の中に入るとすぐに、 ﹁鏡. ︵7︶鏡の間. 鏡の間 1 図6 鏡の間 2 図7.

(22) と言えばさっと開けます。能楽堂で能をご覧になることがあれば、ぜひその﹁おまく﹂がどう言われて いるか、聞いてみてください。 ︵8︶切戸口. 舞台には、登場人物以外の、地謡︵コーラス隊︶、囃子方、後見︵黒子的な役割︶などの人たちもい. ます。彼らが出入りするのは、登場人物が出入りする幕ではなく、鏡板の松に向かって右手にある切戸. 口です。これは、にじり口のようなもので、非常に低いのです。頭をぶつけることがたまにあります。. 杉並能楽堂の切戸口は特に低くて、みんなが頭をぶつけることで有名です。いわゆる登場人物ではない. 人物は堂々と出るのではなく、こっそりと出て行くという意識がどこかにあるのではないかなと思いま す。 ︵9︶囃子方. 囃子方は、笛、小鼓、大鼓、太鼓の四人で、これに謡いの人を加えると五人になり、お雛人形の五人. 囃子というのはこの能の五人のことです。すごいなと思うのは、笛の人は口の高さに笛を持ち、小鼓の. 人は肩の高さに、大鼓の人は腿の高さ、そして唯一バチで打つ楽器である太鼓は地面の高さにあります。. 右から左に行くに従って音が出る位置が低くなっていっているんですね。もしもこの順番が変わってし. まったら、居並ぶ姿の美しさ、音色のまとまりはないかもしれません。こういうふうに細部に至るまで. 美意識が生きているのが能舞台です。僕らは当たり前のように見ていますし、当たり前のようにしてい. 現代を生き抜く能楽. 81.

(23) 82. ることですが、ちょっとしたところにちょっとしていない美しさが隠されて. いるので、能舞台に能をご覧に行く機会がありましたら、ぜひ何か美しいも. のを探していくのが能のおもしろさであり楽しみ方だと思っていただければ と存じます。 ︶大道具. 先ほど、能はイマジネーションを使う芸能であると申しましたが、これは. 湖なんですね。それがすごいなと思うところです。材質は必ず竹でできてお. 巻いて、能は大道具を作ります。これをポンと置かれたら、もう舞台は海や. 舟です︵図8︶。CGの根本的な造形のようなワイヤーフレームに白い布を. ︵ 10. ります。竹は日本中どこにでも生えております。能楽師はかつて文字通りの. 旅芸人でしたが、布だけを持って行き、現地で竹を割いてこ. れを組み立てる。能が終われば、解いて捨ててしまっていま. した。今は捨てませんが、いまだに大道具を作り置きしない. のが、能の世界です。要するに、旅先で作っているという感. これは神社で︵図9︶、これはお寺あるいは宮殿です︵図. 覚をいまだに持っております。. ︶。違いがわかりますか。屋根の向きが違うんですね。屋 10. 作り物神社 図9. 作り物舟 図8.

(24) ︶能面. ないかなと思うんですね。 ︵. 根の妻が横を向いていれば神社、正面を向いているのがお寺. であり宮殿です。ぜひご近所の神社に行ったら、屋根がどう. いう向きについているか、ご覧ください。七∼八割の神社は. ︶。. 11. 師匠が﹁世阿弥﹂という新作能を作ったのですが、その時につけた能面は、世阿弥の時代のものであ. たり前にやっているけれど、本当は当たり前じゃないんじゃ. こ れ が 能 の 大 道 具・ 小 道 具 の お も し ろ さ で も あ り ま す。 当. こういうちょっとした工夫が非常によく考えられている。. 妃の宮殿になります︵図. けです。さらに、この宮殿に鬘帯を垂らすと、こんどは楊貴. 僕らは﹁あ、これは神社だ﹂﹁こちらはお寺だ﹂とわかるわ. はひさし側が正面になってます。これだけの差なのですが、. 神宮の正殿にはさまざまな付属物があっても、建物そのもの. るようになっています。伊勢神宮を想像してください。伊勢. ﹁流れ造り﹂といって、妻が横にあって、ひさしの方から入. 作り物宮殿 図 10 作り物楊貴妃 図 11. る能面の写しです。オリジナルは世阿弥の長男・元雅が奈良の山奥にある天河神社に奉納したものです。. 現代を生き抜く能楽. 83. 11.

(25) 84. なかなか世阿弥と同時代の能面ってないんですね。これは間違いなく世阿弥の時代のものであるという. 能面です。その写しを師匠はつけていたわけです。実際の能面を天河神社で見てきましたが、物として. も迫力がすごくて、時代を超えてきたという凄みと、三〇歳ぐらいで殺されたんじゃないかなという悲. 劇的な夭折の天才であった元雅の思いのようなものが、この能面にこもっているんじゃないかなと気が して、非常に感動してしまいました。. この面はよく世阿弥の顔ではないかといわれます。私は、個人的に何の科学的根拠もありませんが、. 世阿弥ではなく、観阿弥ではないかと思っています。世阿弥はきびきびと気の利く小男だったし、観阿. 弥は大柄で鷹揚な芸風であった。能の創始者の鷹揚さのようなものが、この面にはあるなという感じが. 観世宗家には世阿弥がつけていたといわれる小飛出という面があります。これが大変な名品で、何度. して、私は勝手に、これは観阿弥じゃないかなと思っています。. か舞台で拝見しているのですが、もう物が違うといいますか、とてつもない。舞台の幕が上がっただけ. ︶直筆本. で、舞台までパワーが満ち満ちるようなものすごい名品です。 ︵. ンテリ層に受けなければいけないということで、能を進化させたのが世阿弥であるといえるわけです。. ら教養を叩き込まれたので、漢字もひらがなも片仮名も書く、非常にインテリに育ったわけですね。イ. 人たちはおそらく文字を書けませんでした。観阿弥も書けなかったのではないか。世阿弥は少年時代か. 観世宗家は、世阿弥の書いた本、﹃風姿花伝﹄の直筆本をお持ちです。すごいです。世阿弥以前の芸. 12.

(26) さらに、能の台本も書き残しています。そこには非常に頭がいいんだなと感じる、漢字と片仮名を使い. 分け、節などが書いてあるのですが、芸能の教えとしてこういった台本を残すことにも世阿弥は非常に 力を注いでいたんだなと感じ取ることができます。. 観阿弥・世阿弥のやったこと ︵1︶観阿弥と﹃風姿花伝﹄. 先ほど能を大成した観阿弥・世阿弥親子のことをお話ししましたが、この時代に何があったのか。室. 町初期というのは、さまざまな庶民の芸能が花開いた時期です。その良い所取りをしたのが、もっと品. のない言い方をすれば、ぱくったのが、観阿弥・世阿弥親子です。能の中に有用なものをどんどん取り 入れて、いらないものはそぎ落とし、デザインしました。. 観阿弥はとてつもない天才だったんですね。先ほど謡っていただいた﹁老松﹂は8ビートです。あれ. は﹁大ノリ﹂という、能のなかでもいちばんゆったりとしたノリの8ビートです。もっと細かい8ビー. トもありますし、いろいろなリズム形態があるのですが、これを能の中に取り入れたのが観阿弥です。. ビートに乗せて謡を謡う習慣がなかった昔の猿楽・能の中に、この8ビートを取り入れた。これはとて つもない変革です。. 世阿弥の著作の﹃風姿花伝﹄には、現代のビジネスマンにも通じる教えがいろいろ書いてある、ある. いは子育てにも使えるなど、さまざまいわれています。実は﹃風姿花伝﹄というのは、観阿弥が世阿弥. 現代を生き抜く能楽. 85.

(27) に教えたことを世阿弥が三〇歳代ぐらいで書きとめたものなのだと言われます。つまり観阿弥の教えと いうことです。観阿弥の教えが今に伝わっているのが﹃風姿花伝﹄です。 ︵2︶世阿弥と複式夢幻能. では、世阿弥は何をやったのか。先ほど申し上げた幽霊が出てきて、現代人と出会い、そしてまた死. の世界に帰って行き、夜が明けるという形式は、複式夢幻能と呼ばれています。複式というのは、前半. と後半があるということです。前半は、幽霊が化身で出てきて、ほのめかして、消えていく。そしてお. 坊さんが夜すがら、例えば﹁あの人はもしかしたら源平合戦のあの武将だったのではないだろうか﹂と. 思って弔っていると、そこに在りし日の姿でその武将が出てきて、実は生前こういう思いで生きており、. こういう思いで死んだのだと語ります。能の最初は現代で始まるのですが、どんどん過去に遡っていく。. へたをすると、古事記や日本書記の時代にまで遡っていきます。そして、その人が生きていた時代が舞. 台上に現れる。それが能の終わりになるに従って、過去は手放され急激に現代に戻っていって、幽霊は. 消え、僧は夢から覚めて、﹁ああ、夢だったのだろうか、現だったのだろうか﹂という舞台展開をする。. それが複式夢幻能というものです。そして、これを作ったのが世阿弥であり、彼の一番の発明です。. つまり、この形式をとることによって、能は常に現代劇であることが可能になっているのです。過去. の物語にしても、登場してきているお坊さんは現代人です。だから能を見に行ったら、われわれと同時. 代の人間と考えていい。ということは、こんなに古い芸能なのに、六五〇年間ずっと現代劇をやってき ているといえるわけです。. 86.

(28) これはおそらく歌舞伎や落語にはできません。落語ではある意味、江戸時代のある一日が展開されま. す。ですから今から百年後に、落語で語られる江戸時代の生活にリアリティがあるかといったら、わか. りません。もしかしたら、もう落語の香りは失われてしまうかもしれません。もちろん話術のおもしろ. さは残っても、われわれがまだギリギリ想像できる、嗅ぐことのできる江戸時代の匂いみたいなものは、. 百年後にはもしかしたらもう蒸発して、ないかもしれない。われわれがまだイマジネーションの中に何. かある江戸というものは、百年後の人からするともう射程外になってしまっているかもしれない。そ. ういった宿命を芸能というものは帯びているのかもしれない。そう思ったところ、能だけはたぶん百年. 後も現代劇の中に太古の人たちを登場させることができるという非常に優れた様式を持っているんです ね。これが世阿弥の最大の発明ではないかなと思います。. なぜ、世阿弥はこう思ったのか。おそらく少年時代に宮廷やさまざまな文化サロンに出入りしていた. 中で、彼は日本の文化として伝わってきたものをさまざま目にしたはずです。特に和歌。和歌というの. は、弥生時代か縄文時代かわかりませんが、そのあたりの神代におそらくイメージの源泉があると思い. ます。そういった和歌という悠久の時代を超えてきた詩歌の様式がある。様式があるからこそ、時代を. 超えてきた。例えば短歌なら五七五七七という優れた様式があるからこそ、そこに時代時代の人の思い、. 時代を超えていく人の思いというものを保存できる。百年、二百年、千年経っても、いまだに私たちは. 万葉集の歌をわがことのように感動できる。というのは、やはり和歌という様式があるからです。様式. のない言葉というのは、絶対に淘汰されてしまう。様式の中におさまるように研磨されたからこそ、太. 古の人の思いというものが自分の心に今、伝わってくるわけですね。これは私の勝手な想像なので、非. 現代を生き抜く能楽. 87.

(29) 88. 常に生意気なことを申しておりますが、それをおそらく世阿弥は能で、芸能でやろうとした。そういっ. た意味で、それまで芸能が持ち得なかった優れた様式を、世阿弥が死ぬ気で一生をかけて作ったものが 複式夢幻能なのだと思います。. 世阿弥は非常に悲劇的な生涯を送りました。長男を失ったり、自分も島流しに遭ったり、迫害された. りと、特に後半生は悲劇的です。そんな折々にこぼした、後世自分が作った能が伝わらないのではない. かという世阿弥の嘆きなど伝わっています。しかし、そういった中でも諦めずに、時代を超える様式を. 舞台上に咲かせるということに一生を賭けた人が世阿弥ではないかと思います。そういった意味で本当. ︶。. に世阿弥という人の生涯には感動を覚えます。おそらくすべての能の感動の根本には、世阿弥の生涯に 対する共感があるのではないか、と思います。. 梅若家と明治維新. ここで、初世梅若実という私の師匠のひいおじいさんに当たる方を紹介したいと思います︵図. 自分たちの技の価値をわかってもらえる相手が日本からいなくなったということです。江戸時代まで、. す。明治維新によってその武家がいなくなってしまった。要するに、自分たちが食べさせてもらえる、. どうして危機だったかと申しますと、能の芸人たちというのは、江戸時代武家に雇われていたわけで. いうのが実はありました。それが明治維新です。. 先ほどからずっと述べておりますが、能はいろいろな危機の時代を超えてきたわけです。最大の危機と. 12.

(30) 庶民は能をなかなか見ることができませんでした。年に一回見られる. かどうか。城下町では見られますが、普通の日本人は能を見てはいま. せん。それだけ能というものは武家だけが独占していたわけです。そ. の武家がいなくなった。そして文明開化の時代になった。. ということで、明治維新をきっかけに、能はいちど滅びかけます。. 能楽師が能をやらなくなってしまう。能をやっていたところで、その. 日に食べるものが得られないという時代です。やっていられないです. よね。能面や能装束を売って生活する人、農家になる人、タバコ屋になる人、殿様について田舎に引っ 込んでしまう人、さまざまな人たちがいました。. ただ一人、この梅若実と隠居名で名乗る師匠のひいおじいさんだけが、東京と名を変えた江戸に残っ. て、能の火を絶やしてはいけないと、編み笠を被って橋のたもとで謡ったとか、門付けをしたとか、江. 戸時代だったら絶対にありえない苦労をしながら、ひとり苦しい生活の中で頑張っていたわけです。先. ほど申しました五色の幕も得られないので、風呂敷を縫い合わせて幕にして、杉の舞台で能を演じてい. る。そういった時代にもけっして能を手放さずに、能を行っていたのがこの梅若実です。. そうしたところに、やはりそういった思いはどこかに通じるのか、欧米を訪問していた岩倉具視の訪. 欧団の一行らが、欧州各国でバレエや室内楽などその国の国楽のようなものを見せられて帰ってきまし. た。近代国家となった日本にも何かそうした国楽はないかとなった時に、何もなくなってしまっていた. わけです。雅楽も滅びている。能もなくなっている。落語というわけにはいかない。歌舞伎というわけ. 現代を生き抜く能楽. 89. 実師 図 12.

(31) にはいかない。祭囃子じゃだめだ。格調のある芸能や音楽というものはないのかと思っているところに、. 能を今でもやっている梅若という者がいるという情報が入り、岩倉具視が﹁その者に能をさせよ﹂とい うことで、天覧能などさまざまなことを始めます。. また、実先生が素晴らしかったのは、新しい明治の能を作ったことです。江戸時代に式楽として儀式. 張ってしまった能というものを、文明開化の時代の人がもういちど世阿弥の時代のように楽しめるよう. にした。間違えないためにやることを減らしていったのが江戸時代の能だとしたら、削りすぎてしまっ. た能にもういちど肉付けをして、娯楽として、しかも格調ある娯楽として楽しめ、そこから学べるよう. な新しい明治の能というものをこの方が作ったわけです。その手腕というか、感覚というのは、本当に. すばらしくて、それがあったからこそいまだに能が続いているのだと思います。そして、そういった舞. 台上の手腕だけでなく、能を続けるにはどうしたらいいか、能を子々孫々続けていくにはどうしたらい. いのかということを必死に考えて、八〇歳を超えるまで舞台を演じ続けたのが、この明治三名人の一人 といわれている梅若実です。これはまさに世阿弥と同じ考えだと思います。. この実先生が明治に能を復興したわけですが、そこまで肩入れがあったということは、梅若で能を独. 占できたわけです。実先生は息子達を含めた素晴らしい弟子たちを育てていましたし、梅若一派だけで. 能を独占できたのに、地方に散らばっているさまざまな名手や大物をもう一度東京に呼び寄せて、一緒. に催しをしました。そうすると、能ができなくなって苦しんでいたり、諦めかけていたりした役者たち. がもういちど能をやる。そして、能全体が底上げされていくわけです。梅若一派だけでなく、能全体を 復興させたということで、実先生は能楽の中興の祖だと私は思っています。. 90.

(32) しかも、この方、梅若家の実子ではなく養子です。もともとは鯨井という商売をされているお家の生. まれでした。幕末の梅若家当主は遊び人で、宵越しの銭は持たないと言い、伝来の物を売っては、その. お金で吉原に行ってしまうような方だったそうです。そのせいもあって、当時の梅若家は鯨井家に何千. 両という莫大な借金をしていました。鯨井家の当主はその借金を帳消しとし、息子を跡継ぎのいなかっ. た梅若家に入れて名家の没落を防いだ。その子が維新や苦難を乗り切って能楽中興の祖となったわけで. 師匠のおじいさんに当たる先先代の梅若六郎は、二世梅若実と名乗る名人です。先代の梅若六郎、つ. すから、本当に驚くべきことです。. まり師匠のお父さんは、男前でとても有名な方でした。あの時代に一七〇センチメートル以上身長が. あって、三兄弟なのですが三人とも高身長で男前でしたので、当時、浅草にあった梅若屋敷の塀には女. 学生がよじ登って、この三兄弟を覗いていたという逸話が残っています。そして、現梅若家当主が私の 師匠です。. 梅若家は、実は大和ではなく丹波出身です。丹波猿楽という芸能の流れなんですね。これはよく話す. お話ですが、戦国時代、丹波を治めていたのは明智光秀です。ということで、梅若家は明智家の家臣に. なり、直属は明智家ですが、信長にも仕えていました。よく大河ドラマなどで、安土城で家康を接待す. ることになり、接待役に明智光秀が選ばれるというシーンが登場します。そこで、能を見せ、食事を出. したところ、 ﹁食事がまずい﹂﹁魚が腐っている﹂と言われて折檻されるわけです。能を見せれば見せた. で、 ﹁能が下手だ﹂といって折檻される。その折檻される原因となったのが梅若家なので、そういうシー. ンがあると、ちょっと残念な気持ちになってしまいます。よっぽど、当時の梅若太夫は明智光秀に思い. 現代を生き抜く能楽. 91.

(33) があったのでしょう。本能寺の変の時に明智側として出陣して、その後討ち死にしています。. その関係からか、梅若家の裏家紋というのは、明智家と同じ桔梗紋です。明智光秀は生きていて、日. 光東照宮を作った家康の腹心である天海僧正になったのではないかとよくいわれており、その証拠とし. て、日光には天海が名付けた明智平という地名がある、東照宮の門には桔梗紋がたくさんついている、. などがかなりまことしやかにいわれています。この話にはある程度信憑性があるなと私は思っておりま. その明智光秀の娘に﹁たま﹂という娘がいます。細川忠興に輿入れをしたのちさまざまなことがあり. す。. まして、キリシタンの洗礼を受け細川ガラシャと名乗ります。運命に翻弄される生涯でしたが、最期は. 石田三成の軍に包囲され、自害を禁じられたキリシタンの身ゆえ腹心の部下に自分の胸を突かせ、屋敷. に火をかけて、自分の死体もろとも焼き払って亡くなります。私が学生の時、先祖が明智光秀の家臣で. あった師匠によって、サントリーホールで﹁ガラシャ﹂という新作能が上演されました。四〇〇年の時. を超え、因縁ある子孫によって繰り広げられた鎮魂の舞台、すごく感動したことがありました。. 能周辺の危機. 先ほどから少しずつ申し上げておりますが、明治維新以降いちばんの危機が今、能には訪れているの ではないかと思っております。. まず、ほぼすべての能の催しは赤字でやっております。つまり、持ち出しです。なぜか。集めた役者. 92.

(34) たちにお礼する出勤料、舞台の使用料、チラシなどを作る諸経費、これらを全部足して、それを能楽堂. というキャパの小さい劇場の席数で割ってパーになると考えて、私たちは催しをやっているからです。. では、もっとチケットを高くすればいいじゃないかと思われるかもしれません。高くして、はたしてお. 客さんが来るかどうか。もし高くして、お客さんが来なかったら、まぁ生々しい話ですが、もっと赤字. になります。では安ければいいか。安くすると、満席になっても足りない。そこで、だいたい満席にし. て︵なかなか満席になることはないのですが︶、プラマイゼロになることをねらって能をやっておりま す。. 昔はパトロンがいました。財閥などが能を愛好した時代もありましたが、その時代も過ぎ、今は私も. そうだったように、普通に生活している方たちが能を愛好してくださっています。そういう方たちに能. 変な言い方をしますと、能楽師が富まないと、能面、能装束、扇子などの小道具を作れなくなってく. を教えたり、能を見に来てもらったりして、私たちは何とか能を続けていられるわけです。. るんです。今、そういった業者さんはバタバタと無くなっています。そうはいっても、秀吉の時代のレ. ベルから落とすことはできません。もちろん、もう秀吉の時代のものは作れませんけれども、能装束と. いう格は落とせないんですね。もっとペラペラの装束でいいじゃないかといわれても、そういうわけに. はいかない。やっぱり高まった美意識を私たちは少しでも落としたくないと思っております。. 伊勢屋という江戸時代から続く足袋屋さんは、多くの能楽師が﹁本番は伊勢屋の足袋じゃないと演じ. られない﹂と言ったぐらいのお店でしたが、一〇年ぐらい前につぶれました。これは、経営が立ち行か. なくなったからというよりも、職人がいなくなったからです。つまり、足袋職人の息子が足袋職人では. 現代を生き抜く能楽. 93.

(35) なくなってしまった。継ぐ人がいない。. 京都にあるお扇子屋さんも﹁二〇年後にはもう作れません﹂と言っております。六五〇年続いてきた 能の命が、もしかしたら二〇年後に潰えてしまうかもしれないわけです。. 能周辺のあらゆる分野で、七、八十代の職人さんが一人が倒れたらその技術は終わり、そのような危. 機的状況です。われわれ能楽師の生活もけっして楽ではないのですが、お金を貯めて、装束であったり、. 扇子であったり、能面であったり、着物であったり、そういったものをちょっとずつ手に入れることで、. そういった美意識や職人たちの世界を滅ぼさないようにしております。これは能だけではないと思うの. ですが、私が生々しく感じるのは能の世界なので、はじめに申しました伝統の蓄積が今、急激に失われ. 能は、国からまったく保護を受けておりません。文楽は受けていますね。歌舞伎は松竹という会社が. ていると非常に危惧しております。. 付いている。だから非常に厳しいと言われながらも回っています。能は、能楽師という非常に商売下手. な人たちの手に委ねられている。世界にも類を見ないようなこれほど高い美意識の結晶である能が、今、. そういった非常に危険な状態にあるということを、ぜひ皆さん、心にとめていただきたいなと思ってお ります。. 厳しくなっていく一方ですが、それでも能楽師たちがけっして能を手放さない、能をやめない、無理. してでも能装束を作る、小道具を作ることを絶対にやめないのは、能に魅入られているからです。能の. 素晴らしさを強く信じているからですね。直属の先輩や師匠、また師匠の師匠、もっと遡れば世阿弥の. 時代まで続く大先輩たちが残してくれた素晴らしいものが、今、自分の手の上に渡されているわけです。. 94.

(36) これをけっして落としてしまってはいけない。. ということで、何とか厳しい中でも手渡し伝えていきたい、行かねばならぬと思っているのがわれわ. れです。日本文化の屋台骨の一角を担っているんだという気概をもって、能楽師をやっておりますので、. どうか能を見に来ていただき、そしてできれば習っていただき、できれば能に興味がありそうな人にど んどん広めていっていただければと思います。. 現代を生き抜く能楽. 95.

(37)

Gambar

図 1 碇
図 4 橋掛り 図 3 幕
図 5 ギリシャ
図 12 実師

Referensi

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