韓国近代の文学におけるディアスポラ−張赫宙文学
を中心に
著者
孫 才喜
雑誌名
JAPANESE STUDIES AROUND THE WORLD 2010
巻
12
ページ
137-153
発行年
2006-08-01
その他のタイトル
Kankoku kindai no bungaku ni okeru diasupora
URL
http://doi.org/10.15055/00003785
韓 国近代 の 文学 にお け るデ ィアス ポ ラ
ー 張 赫宙 文学 を中心 に一
孫 才 喜SOHNJaehee 龍 谷 大 学 ゆ 〃々o舷 砺 加z吻 ノは じめ に
近代 の 日本 帝 国時 代 、 日本 に は留 学 や就 労 な どで 多 くの朝 鮮 人 が移 住 して お り、 また 朝鮮 に も多 くの 日本 人 が移 住 して い た。 敗 戦 の際 、移 住 日本 人 た ち は朝 鮮 か ら引 き揚 げ た が 、 日本 の 移 住 朝 鮮 人 の 帰 国状 況 は経 済 的 、 政 治 的 状 況 に よ り複 雑 な 経 路 を た ど る こ と に な る。 そ れ に 今 日言 わ れ る 「在 日1」 の 始 ま りが 見 出 され る 。移 住 朝 鮮 人 と移住 日本 人 の なか で は各 々 の 地 で 文 学 活 動 を した 人 々 が お り、植 民 地 朝 鮮 か ら帝 国 日本 に移 住 し、最 も旺 盛 な 文 学 活 動 と多 くの作 品 を発 表 した小 説 家 と して張 赫 宙 が あ げ られ る。 本 論 は 日本 帝 国 時 代 、 日本 文 壇 の デ ビュ ー を契 機 に 日本 へ 移 住 した朝 鮮 人 作 家 の 張 赫 宙 を デ ィ ア ス ポ ラ2の一 人 と見 な し、 デ ィ ア ス ポ ラの 文 学 と い う 観 点 か ら張 赫 宙 文 学 を分 析 す る こ とで 、韓 国 近代 に お け るデ ィアス ポ ラ知識 人 の有 り様 を考 察 す る試 み で あ る。 張 赫 宙(一 九 〇 五 ∼ 一 九 九八)の 生 まれ た年 に は 、 日露戦 争 の終 結 に よ る 日 露講 和 条 約 締 結 が あ り、 当時 の 大 韓帝 国 が 乙 巳保 護 条 約 締 結 に よっ て事 実 上 日本 の植 民 地 と な っ た 。張 赫 宙 は旧韓 末 の軍 人 で あ っ た父 に正 妻 が い て 、普 通学 校 ま で母 と慶 州 で 暮 ら した。 十 四歳 の時 、父 の家 に引 き取 られ た張 赫 宙 は七 、 八年 間 同居 した が 、庶 子 へ の差 別 が残 っ て い た 当時 、 張 赫 宙 の 出 自 は 彼 の成 長 と生 き方 に影 響 を与 えた と思 わ れ る。 張 赫 宙 は慶 州普 通 学 校 で 日本 語 を 「国 語 」 と した教 育 を受 け 、大 邱 の 官 立 高 等 普 通 学 校 に入 る。 一 九 二 六 年 卒業 後 は教 員 をす る か たわ ら、小 説 家 を め ざ して習 作 に励 み 、日本 の 雑 誌 に 投稿 す る 目 的で 日本 語 の小 説 を書 き始 め た 。 一 九三 二 年 、 「餓 鬼 道 」 が 『改 造 』 の 懸 賞 に 当 選 し、 文 壇 デ ビ ュ ー を果 た し て以 来 、創 作 に専 念 す る。 当 時 の大 邱 は朝 鮮 の 近 代 文 化 の 中心地 ・京 城 とは 遠 く、張 赫 宙 に と っ て 京 城 へ の 旅 行 は容 易 で は な か っ た3。 文 学 の た め 近 代 文 化 の 中心 地 に出 て い く必 要性 を痛 感 して い た張 赫 宙 は、 東 京 と大 邱 を往 復孫 才 喜sOHNJaehec しな が ら創 作 活 動 を し、一 九三 六 年 の 夏 に東 京 へ 移住 す る。 この年 、野 口圭 子 と結 婚 して 終 生 ま で一 緒 に暮 らす こ とに な る4。植 民 地 の周 辺 か ら宗 主 国 の 中心 へ 移 住 し、 植 民地 機 構 の崩 壊 後 も移 住 民 で あ りつ づ け た張 赫 宙 は 、 ま さに韓 国 近 代 にお い て 、 もっ と も早 い時 期 の デ ィアス ポ ラ知 識 人 の 一 人 とい え よ う。
1.朝 鮮 人作 家 の 日本 文壇 デ ビ ュー
日本 文 壇 の デ ビ ュ ー と 日本 語 で書 く こ とにつ いて 、 張 赫 宙 は 「朝 鮮 民 族 ほ ど悲惨 な民 族 は世 界 に も少 な く」、 「この実 状 をど うか して 世 界 に訴 へ 」 るた め に 、 「朝 鮮 語 で は 範 囲 が狭 小 で 」、 「日本 の 文 壇 に出 な く て は な らな 」 か っ た と語 っ て い る5。張 赫 宙 の住 ん で い た地 方 都 市 の 大 邱 か らす る と、 文 化 の 中 心地 ・京城 や東 京 の両 方 か ら離 れ て お り、 また京 城 文 壇 よ り東 京 文 壇 の ほ うが大 きか っ た だ ろ う。張 赫 宙 は 日本 語 で創 作 しそれ を朝 鮮 語 で 反 訳 す る試 み を して お り、創 作 に お い て は 朝 鮮 語 よ り 日本 語 が優 位 に あ っ た 。 日本 語 「=国 語 」 の 教 育 を受 け た 「張 赫 宙 の 日本 語 は、 初 め て 会 っ た と きに 既 に朝 鮮 の 人 とは感 じ られ ぬ ほ ど流 暢 な もの だ っ た」6。 文 壇 デ ビ ュ ー後 書 か れ た 朝 鮮 語 小 説 の 「虹 」、 「黎 明期 」 な ど が、 日本 語作 品 よ り出来 の悪 い とい う諸 評 価 は 、 この よ うな脈 絡 で 理 解 す る こ とが で きる7。 当時 の植 民 地 朝 鮮 に お いて 日本 語 と は 「敵 国」 の言 語 で あ る と同時 に 、近 代 的 な文 化 や 世 界 、 また は その 通 路 と して の 含 意 を もつ 二 重 性 が あ っ た。 ま た、 張 赫 宙 の 日本 語 の選 択 に は近 代 朝 鮮 語 と近代 日本 語 の成 立 状 況 が 関 わ っ て い る。 近 代 の 国 語 の制 度 は表 現 の 道 具 の 問 題 だ け で な く、政 治 的思 想 的側 面 を も って い る。 明 治 中期 以 後 「国 語 」 の 用 語 が 定着 して い っ た近 代 日本 語 は8、 す で に 日本 の近 代 文 化 、 近 代 日本 文 学 の 言 語 と して 成 立 して い るの に 対 して 、 近 代 朝 鮮 語 は そ の近 代 日本 語 の 関係 の なか で後 発 的 に形 成 して い っ た。 なお 、 朝 鮮 民 族 の統 一性 を構 築 す るべ き近 代 朝鮮 語 は 、 そ の形 成 過 程 で 日韓 合 併 に よ って 国 家 とい う背 景 を喪 失 し、朝 鮮 人 の標 準 語 は 日本 帝 国 の 国 語=日 本 語 と され 、 朝 鮮 語 は地 方 語 と位 置 づ け られ た 。 した が っ て その 後 、 朝 鮮 語 は植 民 地 主 義 に対抗 す るた め の思 想 を表 象 す る言 語 と転位 され 、言 語 共 同 体 の 理 念 を媒 介 とす る民 族 運 動 が展 開 され て い くの で あ る。朝 鮮 語 が前 近 代 的 な空 間 の 言 語 と して転 位 され た時 期 に、張 赫 宙 は青 年 期 を送 っ て い た。 こ れ に よ って 張 赫 宙 文 学 に お け る 日本 語 は単 な る 「親 日」 の 証 で は な く、 「近代 的 な 空 間 の言 葉 の 獲 得9」 の 意 味 を もつ の で あ る。 「文 壇 ペ ス ト菌 」 事 件 は10、 この よ う な 日本 語 の もつ 二 重 性 と関 わ っ て い韓 国近代 の 文学 にお け るデ ィア スポ ラ る 。 この 事 件 は 、一 九 三 二 年 の 日本 文 壇 デ ビュ ー と 日本 語 で創 作 活 動 を す る 彼 に対 す る朝 鮮 文 壇 か らの 冷 笑 と罵倒 に奮起 した張 赫 宙 が 、朝 鮮 の 雑 誌 『三 千 里 』 に 「文 壇 ペ ス ト菌 」 とい う文 章 を掲 載 した こ とで あ る。 朝 鮮 文 壇 座 談 会 か ら 自分 へ の批 判 を読 ん だ張 赫 宙 は、読 者 か らの 手 紙 を引 用 して 、朝 鮮 文 壇 人 の 「猜 忌 と憎 悪 」 を文 学 の ペ ス ト菌 と し、激 し く批 判 し た 。 こ こに見 られ るの は張 赫 宙 が 東 京 文壇 か ら受 け る歓 迎 的 な雰 囲 気 と は違 う、朝 鮮 文 壇 の 冷 淡 な態 度 に 対 す る張 赫 宙 の 失 望 と憤怒 で あ る。 そ の 一 方 、 朝 鮮 文 壇 か ら見 放 され た こ と を惜 しむ こ と な く、 「朝 鮮文 人 とな る栄 光 は永 遠 に望 ま な い」 と言 い 切 って い る張 赫 宙 か らは 、逆 に東 京 文 壇 へ の 期 待 と自 負 が うか が われ る 。一 九 三 〇 年 代 の 日本 文壇 は 、 プ ロ レ タ リア文 学 の 急 速 な 退 潮 に よ っ て その 空 洞 を埋 め るべ き もの が必 要 で あ っ た11。 それ に この 時 期 植 民 地 出身 の作 家 が登 場 す る背 景 が あ り、 また植 民 地 朝 鮮 の異 国的 で 未 知 の 物 語 の 素 材 を持 つ 張 赫 宙 の 朝 鮮 農 民 の 小 説 が あ っ た。 この 事 件 で東 京 移 住 へ の 気 持 ち が 固 ま っ た張 赫 宙 は翌 年 の夏 、 日本 に移 住 す る。 この 事 件 の延 長 線 土 に 、 四年 後 の 「朝 鮮 の 知 識 人 に訴 ふ 」 の 文 章 が あ り、 多 くの 朝 鮮 知 識 人 の 反 響 を呼 ん だ 。 こ こで張 赫 宙 は朝 鮮 の 知 識 人 た ちの 民 族 心 理 や朝 鮮 民 族 の 欠 陥 につ い て 、 「文 壇 ペ ス ト菌 」 と 「文 学 界 」 の 日本 文 人 た ち の意 見 を借 用 して語 って い る が、 これ に は兪 鎮 午 や 玄 民12、 李 明 孝 、金 史 良13な ど が各 々評 論 を書 い て い る 。張 赫 宙 に対 す る朝 鮮 文 壇 人 の 嫉 妬 と軽 蔑 とい う錯 綜 した感 情 は 、 「親 日」 と近代 性 の 獲得 とい う重 層 性 か ら来 る も の で あ る が 、 その よ うな状 況 は後 に も変 わ る こ とが なか っ た。 当時 、 満 洲 文 学 や 朝 鮮 文 学 な どの 評 論 を多 く書 い て い た 浅 見淵 の 文 章 か らも それ が よ くわ か る14。 張 赫 宙 が 朝 鮮 文 壇 か らの批 判 に敏 感 で あ る こと は、 す で に 日本 の 文 壇 人 と して 「日本 」 の 作 家 に な って い て も、 同 時 に朝 鮮 人 の 作 家 で も あ っ た か らで あ る。 その 両 義 性 の なか で 「揺 れ 」 を生 きて い くこ とが 移 住 朝 鮮 人 作 家 の張 赫 宙 の 存 在 証 明 に な り、 張 赫 宙 文 学 は そ れ に よ っ て規 定 され て い っ た と い っ て い い だ ろ う。 張 赫 宙 の 初 期 作 品 は 主 に朝 鮮 の農 村 を素 材 に して お り、 朝 鮮 の 伝 統 的 な両 班 制 度 や 小 作 人 制 度 、 早 婚 制 度 な どに よ る弊害 と農 村 現 実 の 悲 惨 さ が リアル に描 か れ て い る。 デ ビ ュ ー作 の 「餓 鬼 道15」 は農 民 の労 働 争 議 の物 語 で 、貯 水 池 工 事 の 過 程 で社 会 主 義 的 考 え を もっ た 農民 達 が待 遇 改 善 を求 め て 争 議 を 起 こ し、勝 ち取 るの で あ る。 「追 はれ る人 々」 は一 九三 二 年 一 〇 月、 『改 造 』 に発 表 され た短 篇 小 説 で あ る。 小 作 人 た ちの 地 主 が 朝 鮮 人 か ら東 洋 拓 殖株 式 会 社 に替 わ って い くプ ロ セ ス と 、 自作 農 や 小 地 主 が 小 作 人 に転 落 す るプ ロセ ス が描 か れ て い る。 こ の背
孫 才 喜sOHNJaehee 景 に は 、 当時 東 拓 との絡 み 合 い や 農 村 の 自力更 生 を ス ロ ー ガ ン と した金 融 組 合 の 策略 な ど 、農 村 の再 編 と移 民 政 策 の推 進 とい う植 民 地 経 営 政 策 が あ った 。 しか し この作 品 で そ れ を知 る こ と はで きな い 。 そ の上 注 目 され るの は 日本 か らの移 住 農 民 に対 す る視 点 で あ る。 朝 鮮 に移住 して き た 日本 農 民 も 、同 じ く 故郷 を追 わ れ た人 とい う同情 的 な 見 方 が あ り、対 立 構 図 は あ ま り読 み と りに くい 。 この よ うな 点 は 「迫 田農 場 」 に も同様 に見 られ る。 「迫 田 農 場 」 は 朝 鮮 で 大 農 場 を経 営 す る 日本 人 地 主 と朝 鮮 人 の 小 作 人 を巡 る争 議 の物 語 で あ る が 、 日本 人小 作 人 と朝 鮮 人 小 作 人 の あい だ に 、 対立 や境 界 線 は ほ と ん ど描 かれ て い な い 。 日本 人 と朝 鮮 人 の 関 係 性 よ り、 地 主 と小 作 人 の 搾 取 と被 搾 取 とい う 関 係性 だ けが浮 き彫 り され て い るの で あ る。民 族 や国 民 よ り階 級 的 関 係 性 に 焦 点 が 置 かれ る傾 向 は 、 張 赫 宙 文 学 の 戦 後 ま で通 底 して い る こ とで あ る が 、 早 くか ら 日本 文 壇 デ ビュ ー を望 ん で い た 張 赫宙 に は朝 鮮 の 視 点 に 日本 の 視 点 が付 加 され る よ うに な っ た と考 え られ る 。 文 壇 デ ビュ ー後 、東 京 に移住 す る まで 、張 赫 宙 は朝 鮮 と 日本 の 居 住 地 を巡 って悩 ん で い る が 、彼 自身 それ が 創 作 と関 わ りを もつ と認 識 して い た こ と は 「特 殊 の 立 場16」 の エ ッセ ー か ら よ く分 か る。 朝 鮮 文 壇 を 通 り過 ぎ、 日本 文 壇 で生 きて い こ う とす る張 赫 宙 に とっ て 、創 作 活 動 の た め東 京 移 住 の 必 要 が あ る と しな が ら も、 それ に よ って 自分 の 朝鮮 の視 点 が薄 れ る こ と に 自戒 の 念 と不安 を もっ て い た 。 そ して 東 京 移 住 の 決 行 に よ って 、 それ は確 実 な もの と なっ て い く。 2.「 東 京 」 で 「京 城 」 を 書 く 第 一 創 作 集 の 『権 と いふ 男 』(一 九 三 四年 六 月 、改 造 社)は 、 文 壇 デ ビ ュ ー か ら一 九三 四年 の半 ば まで の 二 年 間 の創 作 を収 録 し、主 に農村 が素材 とな って い る 。 第 二 創 作 集 の 『仁 王 洞 時 代 』(一 九 三 五 年 六 月 、 河 出 書 房)は 、 そ の翌 年 の一 九三 五 年 の 半 ば まで の 一 年 間 の創 作 で 、都 会 や 小 都 市 の サ ラ リ ー マ ンを作 中人 物 とす る特 徴 を持 つ 。 この両創作集 は文壇デ ビュー直後か ら 東 京 移 住 前 に執 筆 され た もの で あ る。 第 三 創 作 集 の 『深 淵 の 人 』(一 九三 七 年 四 月 、 赤 塚 書 房)は 二 作 品 が収 録 され て い る。 この 創 作 集 の主 と な る 「深 淵 の 人 」は 、東 京 移 住 の 翌 月の 一 九 三 六 年 九 月 執 筆 の 中 篇 小 説 で あ る。 第 二 と第 三 の創 作 集 の 共 通 点 は、 公 共 性 を捨 て個 人 の 価 値 を優 先 す る知 識 人 や サ ラ リー マ ンた ちの 出現 に あ る。 これ らは 文壇 デ ビ ュ ー後 の 東 京 往 来 と東京 移 住 直 後 の 東 京 体 験 に よ る もの で あ る 。
韓 国近 代 の文 学 に おけ るデ ィア スポ ラ 第 二 創 作 集 収 録 の 「愚 劣 漢 」は社 会 主 義者 の敗 北 の物 語 で あ る 。郡 庁 の 役 人 で あ っ た秋 坡 は 、民 族 主 義 か ら社 会 主 義 に転 向 し、都 会 の運 輸 労 働 者 を集 め た労 働 会 を組 織 す る。 警 察 か ら 自由 な活 動 の た め 、秋 坡 は労 働 者 出身 の 光 一 を労 働 会 長 に立 たせ る。 しか し秋 坡 を継 承 す るべ き光 一 の反 動 に よ って 、秋 坡 の計 画 は完 全 に失 敗 に終 わ るの で あ る。 こ こで注 意 され るの は作 品 構 図 で あ る 。作 品全 体 は全 知 的 語 り手 を も って い るが 、最 初 は秋 坡 の 「僕 」 が直 接 読 者 に話 しか け 、秋 坡 の 内面 に沿 った 語 りが採 用 され て い る 。 が 、次 第 に光 一 を 中 心 に 据 え た語 り が強 くな り、 秋 坡 は疎 外 され 、相 対 化 され て しま う。 巧 み な語 りの 構 図 に よ って 、 この 作 品 は 、労 働 運 動 の失 敗 の 原 因 が 日本 警 察 の懐 柔 や弾 圧 に あ るの で はな く、 も っぱ ら、光 一 を会 長 にで っ ち あ げた 秋 坡 の失 策 に よ る 自滅 の物 語 とな っ て い る ので あ る。 「深 淵 の 人 」には朝 鮮 の民 族 主 義 者 や知 識 人 の 転 向 と憂 鬱 を描 いて い る。 民 族 主 義 運 動 団 体 、 「新 幹 会 」 会 員 の 弁 護 士 、曹 勲 は朝 鮮 の 民 衆 か ら尊 敬 され る人 物 で あ る。 あ る 日、 文 とい う男 に助 け を求 め られ 、文 の 救 済 の ため 積 極 的 に動 き回 る。 文 は社 会 主義 運動 の嫌 疑 と父 殺 しの濡 れ 衣 で 投 獄 され 、 廃 人 同様 に な って い る。 文 の 再審 理 の準 備 に奔 走 す る な か 、曹 勲 は急 に 自己 嫌 悪 に陥 り、 文 の 救 済 を諦 め て しま うの で あ る。 しか し曹 勲 の急 変 に は必 然 性 が欠 け て い る。 曹 勲 の 「新 幹 会 」 の 脱 会 理 由 は最 初 ほ どの 情 熱 が な くな っ た こ とだ け で 、 その 他 の 理 由 は は っ き り して い な い。その 割 に曹 勲 の 心情 は 「裏 切 的心 理 の 変 遷 に非 常 な 羞 恥 と自責 を感 じ」 て い る の で あ る。 む し ろ 「全 民 衆 に敬 仰 され 」 る曹 勲 に対 して 、 「彼 一 人 の 生 活 の 安 定 と地 位 を得 る こと の方 に意 を用 ひ るや うに な り」、 「新 幹 会 」 か ら 脱 会 す る と い う全 知 的 な語 りの 間 に は 距 離 が 存 在 す る17。同志 宛 に脱 会 の趣 旨 を書 い た 手紙 には挫 折 とか 絶 望 で も な く、底 知 れ ぬ虚 無 が あ るだ けで あ る。 その虚 無 とい う穴 に落 ち た曹 勲 は 、文 と同 じく 「深 淵 の 人」 と言 え る。 作 品 の構 成 は文 の手 記 が配 置 され た作 品 の 前 半 部 と、 曹 勲 の 心 理 状況 に重 点 が 置 か れ る後 半 部 に成 って お り、文 と曹 勲 の 二 人 の 焦 点 人 物 の 配 置 は 作 品 の 主 題 を よ り鮮 明 な もの に して い る。 これ まで の 張 赫 宙 の 作 品 に は見 られ な か っ た複 雑 な 語 り方 法 と構 成 力 が働 い て い るの で あ る。 それ に も関 わ らず 、 この 作 品 か ら平 面 的 な 印象 を受 け ざる を え な いの は 、曹 勲 の 人 物 像 に お け る リア リテ ィの 欠 乏 に あ るよ うで あ る。 東 京 移 住 の一 週 間後 、張 赫 宙 は 『文 学 案 内 』 に 「東 京 へ 来 て 虚 無 を感 ず る 18」の 文 章 を載 せ て い る。憧 れ と向 上 心 に燃 えて 辿 り着 い た帝 都 ・東 京 の 町 で 、張 赫 宙 の 眼 に入 っ た 人 々 の無 気 力 と虚 無 感 は衝 撃 で あ っ た。 か つ て 訪 問 者 の張 赫 宙 に は見 えな か っ た東 京 の 日常 が 、居 住 者 と な った 途 端 見 えて きた の で あ る。 文 壇 デ ビュ ーか ら東 京 移 住 までの 約 四 年 間 、 張 赫 宙 は東 京 と大邱
孫 才 喜SOHNJaehee を何 回 も往 来 して お り、 一 ヶ月以 上 東 京 で 滞 在 す る こ と もあ っ た 。 お そ ら く 京 城 よ り東 京 の ほ う に頻 繁 に通 っ た はず で あ る。 都 会 の サ ラ リー マ ンの 登場 す る小 説 は 、京 城 や 釜 山 が背 景 とな って い る もの の 、 東 京 体験 が ベ ー ス に あ る と考 え られ る。 一 方、朝 鮮 を離 れ た張 赫 宙 に は故 郷 喪 失 の 心 情 が あっ た 。 東 京 に 出 る前 年 の 「文 壇 の ペ ス ト菌19」 事件 で 朝 鮮 文 壇 か ら見 放 され た 張 赫 宙 に とっ て は 、 い く ら 日本 文 壇 が魅 力 的 で あ っ た と して も、寂 しさ は変 りが な か っ た だ ろ う。 日本 文 壇 か らす る と 、 当然 なが ら張 赫 宙 は朝 鮮 人 作 家 で しか な く、 作 家 ・張 赫 宙 よ りは朝 鮮 人 作 家 ・張 赫 宙 で な け れ ば な らな か った 。 この よ う な張 赫 宙 の立 場 と心 境 が東 京 移 住 直 後 の 「深 淵 の人 」 に反 映 され て い る。 「深 淵 の人 」 の な か で 、必 然 性 を もた ない ま ま 自己嫌 悪 と虚 無 に陥 り、 公 共 性 を失 って い く朝鮮 知 識 人 、曹 勲 の人 物 像 は、張 赫 宙 の東 京 体 験 に よ って 作 られ た もの と 思 わ れ る 。 この 時 期 朝 鮮 の 都 会 を素材 とす る作 品 が集 中 的 に書 か れ 、 その 作 中人 物 た ち は 、社 会 や民 族 な どの公 共 性 か ら遠 ざか り、経 済 的 な安 定 と幸 福 な家 庭 生 活 の た め 、利 己主 義 に走 る朝 鮮 人 サ ラ リー マ ンで あ る。 その なか で 秀 作 とい え る 「一 日」 は 、京 城 の銀 行 員 で あ るキ ム ・ヘ チ ュ ーの 一 日の 生 活 を描 い た 短 篇 小 説 で あ る 。商 業 学校 卒 で金 融 組 合 の 職 員 とな っ た ヘ チ ュ ーの 念 願 は 、 「西 洋 風 の庭 」 と 「文 化 住 宅 」 を もつ こ とで あ る。 その た め に は 計 画 的 な支 出 は も とよ り、給 料 の減 額 や 解 雇 にな らな い た め に遅 刻 に さ え恐怖 を感 じ る、 脅 迫 的 な 心理 を もつ 。 その 日、 出勤 す る と業 務 内容 の変 更 で 貸 付 係 に まわ さ れ る こ とが告 げ られ る。 この 仕 事 は前 述 した 「追 はれ る人 々」 にお け る窮 地 に 追 わ れ る農民 た ち を生 み 出 して い くの で あ る。 この よ うな 自分 の 仕 事 、 す な わ ち 金 融組 合 の農 民 へ の 貸 し付 けの 本 質 が 分 か るヘ チ ュ ー は悩 ま ざる を え な い 。 しか し解 雇 を恐 れ るヘ チ ュ ーに とっ て 、 そ の悩 み は一 日 も経 た ない うち に 消 え去 る。 守 るべ き家庭 が彼 の 悩 み を解 消 させ 、 「憂 鬱 な仕 事 」 を正 当 化 し て くれ た の で あ る 。 この時 か らヘ チ ュ ー は尊敬 して い た社 会 主 義 者 、 リ ・ヒ ョウス の 家族 へ の援 助 を打 ち切 り、 一 層 サ ラ リーマ ンの小 市 民 性 を呈 して い くの で あ る。 これ らの作 品 か ら三 ・一 運 動 以後 の民 族 主 義 の退 潮 、社 会 主 義 の 弾 圧 と朝 鮮 知 識 人 の 転 向 、 また農 村 の 疲 弊 と都 会 労働 者 の 急騰 、 サ ラ リー マ ン階 層 の 形 成 な ど、 一 九三 〇 年代 の植 民 地 朝 鮮社 会 の 多様 な側 面 を見 る こ とは可 能 で あ ろ う。 しか し張 赫 宙 は創 作 に おい て 「民族 的 な嗜 好 に適 す る もの 」 と 「一 般 的 嗜 好 に適 した もの20」 を分 け る方 法 的 な 意 識 が あ った 。 それ は必 ず し も 張 赫 宙 の 欲 求 や 自 発 的 な意 志 と は云 い が た く、 それ に は朝 鮮 人 作 家 と して の
韓 国近 代 の文学 にお け るデ ィアス ポ ラ 義 務 感 が あ った の で あ る。 日本 語 で書 くこ とは 当然 日本 人 の 読 者 、 日本 文壇 を意 識 せ ざ る を えな い 。 張赫 宙 が これ ほ ど 多 くの作 品 を発 表 で きた の は 、 朝 鮮 人 作 家 ・張 赫 宙 に対 す る 日本 文 壇 や読 者 の 期 待 、つ ま り異 国 や 「地 方 色 」 へ の 関 心 に応 え るか た ち で可 能 な こ とで も あ った の で あ る。
3.東
ア ジ アの移住民 たち
当時 の 朝 鮮 の農 村 と都 会 の 現 状 を一 通 り描 き終 え た張 赫 宙 は次 の創 作 方 向 に 悩 ん で い た21。 日 中戦 争 の 勃 発 と政 局 の変 化 で文 学 作 品 が次 々発 禁 と な る な か で着 目 した の が朝 鮮 の古 典 と歴 史 で あ る。 これ は 「春 香伝 」 が村 山知 義 の依 頼 で書 か れ た よ うに 、 日本 文 壇 で 張 赫 宙 が朝 鮮 人 作 家 と して で き る仕 事 で も あ っ た。 第 三 創 作 集 の 刊 行 以 後 、 同年 十 二 月 に は戯 曲 「春 香 伝 」、一 九 四一 年 に は放 送劇 「沈 清 伝 」 が朝 鮮 二 大 古 典 作 品 を題 材 に 執筆 され る 。翌 年 春 東 京 で上 演 され た 「春 香 伝 」 は、 同 年 一 〇 月 に は朝 鮮 で も上 演 され 、張 赫 宙 は忙 しい 日々 を送 る 。 一 九 三 九 年 に は文 禄 ・慶 長 の 役 を素 材 に して そ の 戦 争 で活 躍 した 四名 の 将 軍 た ち を各 自 の視 点 か ら描 く長 編 小 説 の 四 部 作 を構 想 して い る 。 その 一 作 目 が 同 年 の 四 月 『加 藤 清 正 』(改 造 社)と して 書 か れ 、 二 作 目の 『浮 き沈 み 』 (河 出書 房)は 一 九 四三 年 に発 表 され た 。 し か し戦 況 の悪 化 な ど も伴 い 、 つ い に 四部 作 は完 成 され ず 、実 際 は加藤 清 正 と小 西 行 長 の二 人 を作 品 化 す る こ とに終 わ っ た 。 『加 藤 清 正 』 か ら二 年 後 、 そ れ を改 作 、改 題 した 『悲 壮 の 戦 野 』 の 「後 記 」 に は 、七 年 にか けた 戦 争 を 「七 年 の嵐 」 とす る構 想 の 全 貌 が 書 いて あ る22。 この 時 期 、 張 赫 宙 が 歴 史 小 説 に強 い 関心 を 見せ た の に は 当時 の 社 会 的 、 文 学 的状 況 も考 え られ る 。 日中戦 争 の長 期 化 と戦 争 地域 の拡 大 、 日本 内 の 出 版 と言 論 統 制 の 強 化 な ど 、社 会 的 状況 の変 化 に 伴 っ て 日本 文 壇 の 歴 史 小 説 の 流 行 が あ っ たの で あ る。 この 二 作 品 に共 通 す る特 徴 は 、一 つ の 事 実 を多 面 的 に 把 握 しよ う とす る作 家 の 志 向 に あ る。 文 禄 ・慶 長 の 役 は 日本 と朝鮮 と明の 中 国、 東 北 ア ジ アの 三 国 に まつ わ る歴 史 で あ り、 三 国 の 交 わ りを描 くの に い い題 材 で あ っ た 。 それ に 「東 亜 三 民族 の 文 化 を総 合 的 に描 か う」 とす る構 想 は 、 当 時 の 政治 的 な状 況 にお け る限 界 が あ る もの の 、 その 戦 争 に対 す る各将 軍 の視 点 で 作 品化 す る こ とで 、 そ の 多 面 化 と相 対 化 が 可 能 に な るはず で あ ろ う。 「小 西 行 長 に は行 長 の 「誠 」 が あ り、 清 正 や 舜 臣 に は夫 々の 「誠 」 が あ り、沈 惟 敬 に は ま た惟 敬 流 の 「誠 」 が あ る と思 つ て ゐ る。 その 「誠 」 を書 くの が 、 この 長 篇 の眼 目で 、 戦 役 そ の も孫 才 喜sOHNJaehee の は二 の次 で あ る。23」 とい う言 葉 か ら、 彼 の 四 部 作 構 想 の 意 義 が読 み とれ る 。 当然 な が ら、 作 品 の 構想 に は その 作 品 創 作 との あい だ に距 離 が 生 じ る も の で あ る。 しか し少 な く と も 『加 藤 清 正 』 と 『浮 き沈 み 』 に は張 赫 宙 の構 想 が充 分 生 きて い る と い え る 。小 西 行 長 を描 い た 『浮 き沈 み 』 は 『加 藤 清 正 』 と対 に な る作 品 で 、 その 両 作 品 を読 み合 わせ る と 、二 人 の 将 軍 に対 す る作 家 の 中立 的 な姿 勢 が よ くあ らわ れ て い る。 張 赫 宙 は歴 史小 説 と並 行 し、 い わ ゆ る 「開 拓 文 学 」 を 多 く書 い て い る が 、 満 洲 一 帯 に 限 らず 、 朝 鮮 の 国境 地 帯 の 新 興 都 市 を 題 材 と して い る。 と く に 『緑 の北 国 』 は 同 年 刊 行 の 『人 間 の 絆 』、 『美 しい 抑 制 』 の 三 部 作 の 第 三 巻 に 当 た る作 品 で あ る 。一 部 と二 部 に は南 朝 鮮 を舞 台 に早 婚 や庶 子 の 差 別 な ど旧 風 習 を生 き る世 代 とそれ に苦 しむ 新 世代 間 の齟 齬 が形 象 化 され て い る。 三 部 は旧習 か ら 自由 に な るた め 、早 婚 の 妻 と子 供 を捨 て 、恋 人 と満 洲 の 間島 に逃 げだ した 人 々 の 開拓 地 の生 活 を描 い て い る。 こ こで満 洲 は過 酷 な環 境 条 件 で あ って も、彼 等 に とっ て は 閉塞 した 朝鮮 か ら解放 され る 自 由 の新 天 地 と され て い る。 一 九 四 三 年 に は万 宝 山 事 件 を題 材 に満 洲 開 拓 民 の 現 実 を描 い た長 編 小 説 『開墾 』(中 央 公 論 社)が 発 表 され た。 張 赫 宙 の 「開 拓文 学 」 の傑 作 とい え る 『開墾 』 は 、後 半 部 に プ ロパ ガ ン ダの 内容 が挿 入 され て い る もの の 、 「日中 の 政 治 力 学 の 谷 間 で 、現 地 人 との軋 轢 の 中 に 苦 悩 しつ つ生 き抜 く農民 の姿 を描 くこ とが 、実 は何 よ り も中心244p」 とな っ て い る。 この作 品 に お け る満 洲 は、 張 赫 宙 の初 期作 品 の 「追 は れ る人 々」 の 新 天 地 、 す なわ ち 東 拓 と地 主 に よ っ て故 郷 を立 ち漂 流 者 と な っ た 人 々 の 新 天 地 で あ る。 そ の一 方 、 『緑 の 北 国 』 の 満 洲 は 、朝 鮮 の 小 ブル ジ ョアの 新 世 代 が 旧 習 か ら逃 れ る解 放 空 間 で あ り、 多様 な階 層 が混 じ り合 う世界 で もあ る。 満 洲 移 民 の 初 期 、 開 拓 民 の 悲惨 を書 い た 『開墾 』 と、 小 資 本 家 や逃 亡 者 の世 界 を書 い た 『緑 の北 国 』 を通 して 、 朝 鮮 人 の 満 洲移 民 の 多様 な側 面 を見 る こ とが で き る。一 九三 五 年 の エ ッセ ー 、 「あ る感 覚25」 の な か で 、張 赫 宙 は 朝 鮮 と 日本 、 満 洲 の 民 族 移 動 につ い て 書 い て お り、 早 くか ら民族 の移 動 に関 心 を も って い た の が わ か る 。 新 羅 の都 、慶 州 で成 長 して普 通 学 校 卒 後 二 年 ほ どの 考 古 学 の 学 習 経歴 を も つ 張 赫 宙 は 、小 説 家 よ り考 古 学者 に な りた か った26。 な お植 民 地 時代 とは そ れ 自体 、植 民 す なわ ち移 民 の 時代 で もあ っ た。 満 洲 移 民 に対 す る歴 史 的 視 点 の重 視 は その よ う な張 赫 宙 の 境遇 と も関 わ っ て い る。 一 九 三 七 年 の 「満 洲 移 民 につ い て27」 に は 、満 洲 の 多民 族 の 共 生 に お い て 、各 民 族 の歴 史 を尊 重 す る態 度 が 読 み とれ る。 張 赫 宙 は満 洲 地 域 の 流 民 の 歴 史 に も詳 し く 、紀 行 文 「間 島 ・圖 們」 に そ れ が よ く見 られ る。 張 赫 宙 は政 治 的 な優 位 とは 関係 な く、 各 民族 の 歴 史 と立 場 を尊 重 しあ う地 平 を探 っ て お り、 この よ うな観 点 は 「開
韓国 近 代 の文 学 に お ける デ ィア スポ ラ 拓 文 学 」 や 歴 史 小 説 に お け る中立 的 で 多面 的 な視 点 と通 じて い るの で あ る 。 「開拓 文 学 」 の 各 民 族 に対 す る 中立 的 な 視 点 は 満州 国 の建 国理 念 、 「五 族 協 和 」 と文 脈 上 重 な る こ とは 確 か で あ る。 しか しこ の よ うな重 層 性 に よ って 作 品 の 成 立 が 可 能 とな っ た と も考 え られ る の で あ る 。 ま た文 禄 ・慶 長 役 は任 辰 倭 乱 とい い 、 朝 鮮 に とっ て は 莫大 な被 害 と民 衆 の 苦 難 が強 い られ た 日本 の 侵 略 戦 争 で あ り、 植民 地 下 の朝 鮮 に お い て は政 治 的 な文 脈 で 読 まれ る可 能 性 が 充 分 あ る。 日本 に お い て も高 揚 す る 昭和 ナ シ ョナ リズ ムの なか 、 政 治 的 な 文 脈 で消 費 され る こと は推 測 しやす い。 と ころ が張 赫 宙 は 「内鮮 一 体 」 にお い て も移 民 の 視 点 か ら考 えた側 面 が 見 られ る。 「内 鮮 一 体 」 を題 材 とす る作 品 は、 す べ て 日本 へ の 移 住 朝 鮮 人 が主 人 公 で 、移 住 地 の 日本 で の 日常 生 活 者 の 立場 で描 か れ て い る。 「内 鮮 一一体 」 の ス ロ ー ガ ン は 、 当 時 の 朝 鮮 総 督 、 南 次 郎 の 皇 民 化 政 策 を推 進 す る方 法 論 で あ っ た。 日中戦 争 開始 で 朝 鮮 の 兵 站 基 地 と して の重 要 性 が増 し、朝 鮮 人 を皇 軍 や 戦 争 協 力 者 にす る必 要 が あ った 。 日中 戦 争 以後 、志 願 兵 訓 練 所 の 設 置 、 海 軍 特 別 志 願 兵 令 の 施 行 、徴 兵 制 の 実 施 な どの 情 勢 変 化 は 、 朝 鮮 人 の生 活 を益 々 逼 迫 し、 貧 民 と流 民 の 急 増 を もた ら した28。 日本 へ の 移 住 朝 鮮 人 に お いて も状 況 は変 わ ら なか った 。 内地 人 と朝 鮮 人 を一 つ と し、義 務 と権 利 を も平 等 に な る と され た 「内 鮮 一 体 」 は 、被 差 別 側 朝 鮮 人 や 移 住 朝 鮮 人 か らは歓 迎 され 、 日本 人 側 で は相 対 的 な剥 奪 感 を抱 く者 も、一 部 にお い て 、存 在 した。 「あ る青 年 の告 白」 に は彼 らの視 点 が盛 り込 まれ て い る。 張 赫 宙 が 「内 鮮 一 体 」 を作 品 化 した最 初 の作 品 が 「或 る青 年 の 告 白」 で あ る 。林 昇 三 郎 と創 氏 改 名 した林 鐘 三 は 、 京 都 の 写 真 屋 で働 く内 鮮 人 で あ る。 半 島 出 身 の 作 家 、 「私 」 を訪 れ た林 は、 自伝 的 な映画 シナ リオ を持 ち込 んで 、 映 画 化 の 手 助 け を求 め た の で あ る。 そ れ は 「半 島 人 に理 解 の 薄 い 内地 人 や 知 覚 の な い半 島 人 仲 間 」 に見 せ 、 「内鮮 一 体 」 を啓 蒙 す る ため で あ る。 そ の シ ナ リオ と は、 朝 鮮 生 れ で 内地 育 ち の青 年 が 、数 々の 差 別 を受 け る内地 生 活 に 疲 れ 、 差 別 の 克 服 手段 と して 「軍 人 に なつ て 、国 家 の ため に大 きな 事柄 をた て 」 る と 「半 島 人 を見 直 して くれ るだ ら う」 と思 う。 しか し軍 人 に もな れ ず 絶 望 した と こ ろ、 今度 の 「内鮮 一 体 」 を積極 的 に受 け入 れ よ うとす る。 こ こで は 「内 鮮 一 体 」 の ス ロ ー ガ ンが 逆 説 的 に捉 え られ て い る29。 「私 」 の 語 り と林 の シナ リオ の二 重 的 な語 りの構 造 が その よ うな 作 品 内容 の主 題 を 支 え る効 果 を もた ら して い る。 この作 品 は後 に書 か れ る作 品群 、一 九 四 四年 の 『岩 本 志 願 兵 』 とは 距離 が見 られ る。 しか し当時 日本 帝 国 主義 の皇 民 化 政 策 の 政 治 的 文 脈 で読 まれ た 可 能 性 は高 い だ ろ う。 「岩 本志 願 兵 」 は 「内 鮮 一 体 」 の 根 拠 と され た 「日鮮 同 祖 論 」 を描 い た作 品 で あ る。 志 願 兵 の創 始 名 、 岩 本 の 追 体験 を求 め て高 麗 神 社 を訪 問す る内 鮮 人 作 家 の 「私 」 は 、高 麗 神 社
孫 才 喜SOHNJaehee 詣 を しな が ら 「同 根 同 祖 」 の 証 拠 をみ つ け よ う とす る。 「同根 同 祖 」 が 「同 じ皇 民 精 神 」 を もつ 「同 じ皇 国 の兵 隊 」 の 根 拠 とな っ て お り、 当 時 の 日本 の 政 治 的 文 脈 に忠 実 な もの とな って い る。 これ に は張 赫 宙 の混 同 、 す な わ ち歴 史 的 、学 問 的 「日朝 同祖 論」 と政 治 的 「日朝 同 祖 論 」 との 混 同 が あっ た とい え よ う30。同 時 に それ に は 日本 人 妻 と子 供 を も ち 、移 住 民 と して生 き る張 赫 宙 の 困難 が あ っ た と考 え られ る。 これ らの 作 品 が政 治 的 な 文 脈 と重 な りな が ら、常 に移 住 民 の 視 点 が持 ち込 まれ て い るの は 、 この よ う な張 赫 宙 の あ り方 との深 い 関 わ りが あ る。 4.新 た な る 「揺 れ 」 張 赫 宙 の 移 住 朝 鮮 人 と して の 視 点 は 、戦 後 の作 品 に も表 われ て い る。 敗 戦 後 、 い ち 早 く書 か れ た の は一 九 四六 年 の 長編 小 説 『孤 児 た ち 』 で あ り、 その 翌 年 に は短 篇小 説 集 『人 の善 さと悪 さ と』 が 発 表 され た 。 この両 創 作 集 の収 録 作 品 は 敗 戦 直 後 の 東 京 を背 景 とす る もの が 殆 どで 、 そ の廃 墟 を生 きる人 々 の 日常 が 描 か れ て い る。 また敗 戦 直 後 の 東 京 とい う、書 か れ る時 間 や空 間 と 書 くそれ とが 一 致 して お り、 そ こか ら敗 戦 の 東 京 を体験 す る作 家 の姿 が垣 間 見 られ る。 『孤 児 た ち 』 は東 京 空 襲 で家 と親 をな く し た陽 子 と戦 災孤 児 た ちの 生 活 を 書 い た作 品 で あ る。 終 戦 で 疎 開地 か ら東 京 に戻 っ た十 五歳 の 陽 子 は、 同 じ く 戦 災 孤 児 の 幼 い 兄 弟 に出 会 う。毎 日の食 べ 物 が手 に入 ら ない 現 実 に屈 す る こ とな く、 陽 子 は彼 等 の世 話 を しな が ら、 明 るい 未 来 へ の希 望 を持 ち続 け る 。 しか し敗 戦 直 後 の 東 京 の 現 実 が リア リテ ィを もっ て い る反 面 、 陽 子 の 未 来 へ の肯 定 と希 望 に は逆 に リア リテ ィが乏 しい 。陽 子 の希 望 は 、む しろ作 家 張 赫 宙 の祈 りに近 い もの で あ っ た ろ う。作 品 の 「後 記」 で 、 「私 は そ れ を書 く時 、 巧 み な小 説 にす る意 志 よ り もただ 事 実 を あ りの ま ま に書 き た い衝 動 にか り立 て られ て ゐ た 。/事 実 を あ りの ま ま に描 くと い ふ こ とが 到 底 不 可 能 で あ り仮 りに可 能 で あつ て も決 して真 実 性 を具現 しな い こ とは そ の後 十 五 年 の 作 家 生 活 で よ く解 つ て ゐ な が ら、私 は この 「孤 児 た ち 」 も亦 事 実 を あ りの ま ま描 き た い 衝 動 を禁 じ得 ない の で あ る 。275p」 と張 赫 宙 は言 っ て お り、 デ ビ ュ ー 作 「餓 鬼 道 」 の執 筆 と同 じ心 情 で 書 い た と吐 露 して い る。 この よ うな張 赫 宙 の 態 度 と作 品 に関 して 批 判 的 な見 解 が あ る31が 、厳 しい 状況 に 陥 って い る民 衆 に対 す る張 赫 宙 の 同 情 の 眼 差 し を、直 ち に 日本 帝 国主 義 へ の容 認 だ と見 なす こ とは必 ず しも適 切 とは 思 え ない 。 これ は 専 ら帝 国主
韓 国近 代 の文 学 に おけ るデ ィア スポ ラ 義 と民 族 主 義 の 視 点 か ら張 赫 宙 文 学 を切 断 し よ う とす る暴 力 で は ない だ ろ う か 。論 者 の 指 摘 の よ うに 、 日本 と朝 鮮 に 「対 等 な位 置 」 に い る こ と は不 可 能 で あ る。 可 能 な こ と は それ へ の 到 達 で は な く志 向 で あ ろ う。 それ を志 向 す る こ とは 「揺 れ 」、 不 安 定 を生 きる こ とで あ る 。 「対 等 な位 置 」 へ の 志 向 、 す な わ ち 日本 と朝 鮮 の あい だで 「対 等 な距 離 」 を取 ろ う と した張 赫 宙 の 志 向 を見 出す こ と は さほ ど難 し く ない 。 この よ うな張 赫 宙 の 志 向 は朝 鮮 戦 争 を描 い た小 説 『嗚 呼 朝 鮮 』 と 『無 窮 花 』 の 中 に も形 象 化 され て い る 。 『鳴 呼 朝 鮮 』 は 朝 鮮 戦 争 の 最 中 に執 筆 され 、一 九五 二 年 五 月発 表 され た。 一 九五 〇年 起 きた朝 鮮 戦 争 は、 い わ ゆ る 「共産 主 義 」 と 「民 主 主 義 」 が 武 力 で衝 突 し、第 二 次 世 界 大 戦 以 後 の 冷 戦 時代 の幕 開 け と な っ た 戦 争 で あ る。 この作 品 の特 徴 は 、 北 朝 鮮 の標 榜 す る 「共 産 主 義 」 と南 朝 鮮 ・韓 国 の 「民 主 主 義 」、 ま た は社 会 主 義 的 民 族 主 義 、 ブル ジ ョア民 族 主 義 な ど、あ らゆ る近 代 的 な 「主 義 」 に対 す る懐 疑 と拒否 の眼 差 しに あ る。 焦点 人 物 の聖 一 は大 学 卒 業 後 ア メ リカ に留 学 し、生 計 を立 て よ う とす る英 文 学研 究 の志 望 と敬 虔 な ク リスチ ャ ン とい う設 定 か ら、聖 一 が特 定 の 「主 義 」 を志 向 して い な い こ と と、そ れ らが絡 み 逢 う ア ジ ア的 地域 世 界 か ら抜 け だ し、 広 い 世界=普 遍 的世 界 へ の欲 望 を見 る こ と が可 能 で あ ろ う。 戦後 の張 赫 宙 が 晩 年 の一 九 八 ○年 代 か ら十年 間以 上 を英 文 小 説 の 創 作 を試 み 、英 文 の長 編 小 説 を書 い た こ と に通 じる もの が あ る32。 ソ ウル で は韓 国軍 と北 朝 鮮 軍 が交 替 に 占領 軍 と な り、 そ の 度 、 聖 一 は対 立 す る 占領軍 の 「主 義 」 を強 制 され る。 その なか で 現 存 の政 治 勢 力 を無 力 化 しよ う とす る第 三 の 「主 義 」 も現 れ る。 聖一 は そ の すべ て の 「主 義 」 の 選 択 を拒 否 し、 最 も素 朴 で基 本 的 な人 間の 営 み 、 す な わ ち 「生 活 」 を掲 げ る よ うに な る の で あ る。 『嗚 呼 朝 鮮 』 は朝 鮮 戦 争 の 二 年 間 に 当 た る期 間 を 中心 に 、朝 鮮 の 植 民 地 状 態 か らの 解 放 か ら朝 鮮 戦 争 まで が 描 か れ た共 時 的 空 間 で あ るの に対 し、 『無 窮 花 』 は祖 父 母 と父 母 と玉 姫 の 兄 弟 とい う三 世 代 の物 語 が描 かれ た通 事 的 空 間 と言 え よ う。 『無 窮 花 』 の焦 点 人 物 は 旧 家 生 ま れ の 十五 歳 の 少 女 、 玉 姫 で あ る。玉 姫 の 世 代 は こ の戦 争 で 兄 弟 と従 兄 た ちの よ うに 、朝 鮮 半 島 の 人 々 の 幸 福 を 目的 に 、異 な る 「主 義 」 の も とで 戦 い 合 っ て い る戦 争 遂 行 の 世 代 で あ る 。玉 姫 の 父 の 世 代 は植 民 地 時 代 、 同 じ 目的 を も ちな が ら、民 族 主 義 と社 会 主 義 の 方 法 的 違 い に よ って 対 立 と矛盾 を抱 え込 む 世代 で あ り、父 と叔 父 の 兄 弟 関係 で よ く形 象 され て い る。 祖父 と祖 母 は 文 明 開花 期 、近 代 的 世 界 秩 序 の 形 成 と朝 鮮 の 日本 植 民 地 へ の 編 入 の 時 期 を生 きた 世代 で あ る。 この 戦 争 の 最 後 まで 生 き残 っ た玉 姫 の 拠 り所 は 、 一切 の 近代 的 な 「主 義 」 が剥 ぎ取 られ た 世 界 で あ る。 す なわ ち 、開 花 期 と植 民地 時代 とい う近代 を潜 り抜 けて 守 って き た祖 母 の 「心 に生 き る信 仰 」 の世 界 が そ れ で あ る。 それ は家 族 主 義 と もい
孫 才 喜SOHNJaehee え る 「家 」 と して形 象 され て お り、 『鳴 呼 朝 鮮 』 で 聖 一 が求 め る 「生 活 」 に 通 じて い る。 それ は 、様 々 な近代 的 な 「主 義 」 を否 定 した 「主義 」 で あ るが 、 反 近 代 主 義 で は な く、 非近 代 主 義 とい える もので あ る。 植民 地 か ら独 立 した朝 鮮 半 島 は政 治 的 な イ デ オ ロ ギ ー で分 裂 し、 日本 の移 住 朝 鮮 人 の 帰郷 は事 実 上 不 可能 とな る。 植 民 地 時代 に お い て 日本 と朝 鮮 との 「対 等 な距 離 」 を求 め て 「揺 れ 」 を生 きて き た張 赫 宙 か らす る と、 その 緊 張 と不 安 定 が解 消 され よ う と した と き、 朝 鮮 半 島 の 二 分 化 に よ っ て 、 新 た な 「揺 れ 」 が た ち あ が って き たの で あ る 。朝 鮮 戦 争 の 最 中 、 「帰 化 」 の 手 続 き を とっ た張 赫 宙 は 、否 応 な しに朝 鮮(半 島)と 日本 との あい だ で 「揺 れ 」 の 新 局面 を迎 え る よ う に な る。 その 後 の 張 赫 宙 文 学 は、 これ らの 「主 義 」 の 否 定 、 つ ま り 「主 義 」 が作 品 内 で限 りな く淡 化 して い っ た世 界 と して表 われ る。 それ が療 養 所 の 結 核 患者 の 生 活 を描 い た 『黒 い 地帯 』(一 九 五 八 年)や 、癌 病 棟 を素 材 に人 間 心理 を 描 写 した 『ガ ン病 棟 』(一 九五 九 年)で あ り、 そ の なか に見 られ る の は 限 り な く透 明 な モ ラ トリア ムの 世 界 で あ る。
お わ りに
以上 の よ うに植 民 地 朝 鮮 か ら宗 主 国 日本 に移 住 し、朝 鮮 人 作 家 と して 創 作 活 動 を続 け た張 赫 宙 の 文 学 につ いて 、 デ ィア ス ポ ラの観 点 か ら考 察 を お こ な っ た。 張 赫 宙 文 学 は植 民 地 朝 鮮 で 生 まれ 成 長 した 作 家 が、 日本 語(=国 語)を も って 植 民 宗 主 国 の 文壇 で デ ビュ ー し、創 作 活 動 を した こ とに よ って 大 き く 規 定 され て い る。朝 鮮 と 日本 の あい だで 生 き る張 赫 宙 の 「揺 れ」 は 、文 壇 デ ビ ュ ーか ら始 ま り、 敗 戦 に よ って 、一 応終 結 に向 か っ た か の よ うに思 われ た が 、朝 鮮 戦争 で新 た な 「揺 れ」 が生 じて きたの で あ る。 プ ロ レ タ リア文 学 の傾 向 を もつ 作 品 に よ って 日本 文 壇 に迎 え られ た張 赫 宙 文 学 の 初 期 に は 、 朝 鮮 の 農 民 を素 材 とす る作 品群 や 都 会 の サ ラ リー マ ンが登 場 す る作 品 群 が 書 か れ た。 そ れ らの作 品 に は朝 鮮 人 の 視 点 の他 に 、 日本 人 の 視 点 が付 加 され て い る。 また張 赫 宙 の東 京 居 住 に よ って 、 東 京 とい う近 代 的 都 市 体 験 が 朝 鮮 の 京 城 や 釜 山 な ど を背 景 とす る都 会 小 説 に反 映 され て い る。 主 に満 洲 を題 材 とす る 「開拓 文 学 」 に は、 満 洲 に集 ま る多 民族 に よ る開拓 と衝 突 の 状 況 が 描 か れ 、政 治 的優 劣 に拘 らな い 中立 的 視 点 で 、 移住 民 た ち の 生 活 が作 品 化 され て い る。 この よ うな傾 向 は文 禄 ・慶 長 の 役 の 歴 史 を題 材 と す る作 品 に も同 様 に見 られ 、 東 ア ジ ア の朝 鮮 と 日本 、明 の 中国 を三 つ の視 点韓国 近代 の 文学 にお け るデ ィア ス ポ ラ で相 対 化 す る こ とで 、 客 観 性 と多 面 性 を獲 得 しよ うと した意 図 が よ く窺 わ れ る。 しか しな が ら、 傀 儡 的 な満 州 国 が 樹立 して 「東 亜 共 栄 圏 」 が 唱 わ れ た時 代 、 これ らの 作 品 は当 時 の 政 治 的 な文 脈 か ら逃 れ る こ と が出 来 た とは言 い が た い 。一 方 、政 治 的 な文 脈 を取 り込 む か た ち で しか作 品 の成 立 が 出来 な か っ た 、 時 代 的 また 作 家 的 状 況 が存 在 した こ と も看 過 す べ きで は な い と思 わ れ る。 敗 戦 直 後 、戦 災 民 や 戦 災 孤 児 を ヒュ ー マ ニ ズ ム的 眼 差 しで 描 い た作 品群 、 そ して資 本 主 義 や 社 会 主 義 な ど一 切 の 「主 義 」 に加 わ る こ とな く、 中立 的 な 観 点 で 、朝 鮮 戦 争 を描 い た作 品群 に は、 移 住 朝 鮮 人(デ ィア ス ポ ラ)、 張 赫 宙 の立 場 が よ く表 わ れ て い る 。 『孤 児 た ち』、 『人 の 善 さ と悪 さ と』 の 作 家 の そ の眼 差 しに は他 者 と して の 日本 人 は存 在 しな い。 そ して朝 鮮 戦 争 を作 品化 した 『鳴 呼 朝 鮮 』 と 『無 窮 花 』 で は、朝 鮮 人 と して の 自己 と同 時 に 、他 者 と しての 朝 鮮 人 が 見 事 に 表 象 され て い る 。
注
1移 住 朝鮮 人 の場 合 は経 済 的 な理 由 や朝 鮮 の政治 的な事 情 に よ って残 留 す る人 々 がい る な か 、一 九五 〇年 朝 鮮戦 争 の勃 発 で 、事 実上 帰 国 が難 しくな る。敗 戦 当 時 、約 二 〇 〇万 人 で あ った移 住朝 鮮 人 は朝 鮮戦 争 勃発 まで その半 数 が帰 国 し、 その後 も 日本 で住 み続 け る人 々が 、所 謂現 在 の 「在 日」 の 始 ま りと され て い る。 しか し 「在 日」 とい う定 義 に 関 して は諸説 があ り、 本稿 にお い ては 、考 察す る時期 が主 に植民 地 時代 と敗 戦直 後 とな っ て お り、移 住 朝鮮 人 と移 住 日本 人 とい う言葉 を用 いて い る。 2本 論 で は 、ユ ダ ヤ人 の民 族 離散 状況 を意味 す る狭 義 の デ ィア スポ ラで は な く、 中心 と 周辺 、或 い は現在 の場 所 と ホー ム との あい だで絡 み 合 っ た揺 れ と緊 張 の 関係 、 ま たそれ を もつ 人 とい う広 義 で 使 っ て い る。張 赫 宙 の 場 合 は、 エ ドワー ド ・サ イ ー ドの 言 う、 「エ グザ イル 知 識人 」、つ ま り複 数 の文 化 と社 会 の境 界 に存在 し、 そ の両方 に関係 しな が らその どち らに も帰属 しない 「境 界 的知 識人 」 に近 い とい え よ う。 3張 赫 宙 「離 京 の悲 しみ」 『文藝 通信 』3-5号193533p 二 月 の 中旬 に上 京 して 、約 一 ヶ月 間私 は 東京 にゐ た 。 いつ も さ うで あつ たが 、 今度 も 私 は帰 りた くなかつ た。 文化 の 中 心地 か ら離 れ た くなかつ た か らだ 。(中略)私 は今度 の 上 京 中 、生 まれ て初 め て美 術 展 覧 会 な る もの をみ た。 友 人M君 が 私 を上 野 の 東 光展 に 連 れて いつ て くれ た。朝 鮮 に も京 城 に年 一 回の鮮 展 が あ るが 、大 邱 か らは か な り遠 い し、 今 まで 見 る機 会 が なかつ た。 4東 京 移 住 時 、張 赫宙 はす で に結 婚 した身 で あ った が単 身 で 日本 に渡 って お り、そ れ以孫 才 喜SOHNJaehee 来 再 び そ の妻 と同 居す る こ とは なか っ た。 これ は張赫 宙 の 自伝 的 な小 説 、 『嵐 の 詩 日 朝 の谷 間 に生 きた 帰 化 人 の航 路 』(野 口赫 宙 講 談 社1975.4)に 書 かれ て あ り、彼 の 伝 記 的 な事実 につ い て は未 だ よ く知 られ て い ない とこ ろが 多 い。 5張 赫宙 「我 が抱負 」 『文 藝 』1934 .4116p 6石 塚 友二 「交 友 関係 か ら」 『民 主朝 鮮 』1946年7月 号75p 7白 川 豊 「張 赫 宙 の 初 期 長 篇作 品 につ い て 「虹 」 「三 味 線 」 「黎 明 期 」 を 中心 に」 「史淵 』123輯1986.331p/南 富 鎮 『近代 文 学 の く朝 鮮 〉体 験 』勉 誠 出 版2001. Il270p 8倉 島 長正 『「国語 」 と 「国語 辞 典」 の 時代 』上 小 学 館1997 .11100p 9南 富 鎮 『近代 文 学 の く朝 鮮 〉体験 』 勉誠 出 版2001 .11269p lo張 赫 宙 「文壇 の ペ ス ト菌 」 『三 千里 』1935 .10253p-254p 私が 東京 文 壇 に進 出 した と自慢 して まわ った こ と もな く、 故郷 に隠居 して い るの に、 どう して私 が憎 まれ る こ と を した の だ ろ う。 しか し私 の固執 も強 く、 罵倒 、 冷 笑 、辱 説 だ けが(ソ ウ ル文士 諸 氏 の)私 の耳 に伝 達 さ れ るか 、私 は朝鮮 語 の勉 強 が 不 足 な こ と もあ り、朝 鮮 文壇 に対 す る愛 着 が全 く残 らず 、 無 くな るの だ。(中略)私 は出 来 の悪 い 小 説 で あ っ て も朝 鮮 語 で書 い て み る気 は どう して も しな い のだ 。(中 略)私 は私 の小 説 を も しそ れが 良 い もの であ る と き よ く受 け入 れ て くれ る 所 で楽 し く仕 事 をす るべ きで、 こ ともあ ろ うに悪 口を 聞 き なが ら仕 事 す る必 要が ど こに あ るの か と思 う。(韓 国語 原文 の拙 訳 に よる 。) 11中 根 隆行 「文 学 に おけ る植 民地 主 義一 一 九 三 〇年 代前 半 の雑誌 メデ ィア と朝 鮮 人 作 家 張 赫 宙 の誕 生 一 一 」(『植 民 地 主 義 とア ジ ア の 表 象 』筑 波 大 学 文 化 批 評 研 究 会 1999.3)161p l2玄 民 「張 赫 宙 へ 朝 鮮 の一 知 識 人 と して 」 帝 国 大 学 新 聞 帝 国大 学 新 聞 社 1939.1.30 13『 モ ダ ン 日本(朝 鮮 版)』1939 .11261p 東 京 で言 はれ て ゐ るや うに、朝 鮮文 壇 が張 赫宙 を嫉妬 して ゐ る と一概 に解す るに は、 現在 朝 鮮 の作 家 は余 りに 自分 た ちの 仕事 に悦 び を感 じて ゐ る し、 また その惨 苦 と努 力 も 余 りに真剣 す ぎる と言 へ よ う。 14浅 見淵 『文学 と:大陸 』 図書 研 究社1942 .483p 現代 朝 鮮作 家 の うち で は一 ば んわが 国 で有 名 で ある 。 ま た、 相 当 な仕 事 も して ゐ る。 それ に も拘 らず朝 鮮 文 壇 で は努め て 張赫 宙 の存 在 を無 視 しよう と して ゐる とい ふ 。 もちろ ん、 これ に は、 張赫 宙 が久 し く離 れ て ゐて 、彼 が現 在 の朝鮮 の現 実 を知 らぬ といふ とこ ろか ら起 る軽蔑 感 や、 朝鮮 作 家 の うち わ が 文壇 で ひ と り有 名 に なつ て ゐ る こ とに起 因す る嫉 妬 感、 さ ういつ た もの も原 因 に な つ てゐ る。 が、 最 大 の原 因は、 張 赫宙 が 朝鮮 語 で な くして 日本語 で 書 いて ゐ る こ とに他 な らぬ 。 15張 赫宙 「餓鬼 道 」 『改 造 』1932 .4
韓 国 近代 の 文 学 に お けるデ ィア スポ ラ 16張 赫宙 「特殊 の 立場 」 『文 芸 首 都 』1-21933 .266p-67p 私 は朝 鮮 を離 れ て朝 鮮 人 の 生活 をよそ に して は私 の作 品 は半 分 の価 値 もない と思 つ た か らだ つ た。 私 は朝 鮮 人 の中 に埋 もれ、 朝鮮 人 の 苦 悶 を苦 悩 しつ つ創 作 しな け れ ばい け ない と思 は れ た。 東 京 にゐ たつ て朝 鮮 が忘 れ られ朝 鮮 の 苦 悶が 無 くなる訳 で はな いが 、適 応性 の多 い 私 は幾 分 それ らの こ とが うす ら ぐで あ らう こ とは良 く知 つ て ゐ た の だ。(中 略)し か し時 々私 は 日本 文 壇 が私 の特 殊 文 学 を どの程 度 まで包 容 して くれ る だ ら うか と思 ふ と、 又 一種 の不 安 を感 ず る 。異 端 視 しない だ らうか と も思 ふ。 17『 深淵 の 人 』赤 塚書 房1937 .4107p 吾 々 自身 は何 も困 る こ と はない で は ないか 。 こ の個 人 の幸福 は吾 々の 運動 を客 観 視 し、恰 も他 人の 不幸 のや うに感 ず るや うに なつ たの だ 。私 が この文 といふ 男 を救 は う と思 つ た の と全 く同様 の 心理 なのだ 。吾 々の運 動 は もう成 功 は 出来 ま い。 共産 主 義 者 の攻 撃 を うけ て も仕 方 が ない のだ 。吾 々運動 の 主体 を な して ゐる もの は多 か れ少 な かれ 私 と同様 の 人 間が 多 いの だ。 私 の文 を救 は う といふ 熱 が段 々 とさめ たや うに さめて しまふ 人 間 ばか りだ。 18張 赫 宙 『文 学案 内 』1936 .833p ど ういふ 言葉 で 表現 して よいか 直 ち に正 しい 思案 は浮 か ば ない の だが 、 ほの ぼの とあ る もの を感 じず に は ゐ られ ない ので あ る。 虚無 的 な とこ ろ もあ る。 な げや りな どうに か な る とい ふ 諦 め、 考 へ て も仕 様 が ない と言 つ た 考へ 、 さ ういつ た もの を彼 の心 底 に見 るや うな気 がす る。/し か し私 は もつ と深 く彼 等 の 生 活 や人 生 や社 会 へ の 関心 な どを研 究 して 見極 めぬ 中 は正 しい こ と は言へ な い。(中 略)東 京 の 人 々 を 研 究 す る こ とは大 変 重 要 な こ とに なるの で あ り、私 が 東京 に住 み た い と思つ た の も 実 はそ こ に主 な理 由が あつ た。 19張 赫 宙 「文壇 の ペ ス ト菌 」 『三 千 里』1935 .10254p 20張 赫 宙 「私 の場 合一 我 が文 学修 業一 」 『月刊 文章 』1939 .4 私 は最 近 「朝鮮 知 識 人 に訴 ふ」 といふ 文章 を発 表 した が、 これ は むろ ん朝 鮮 民族 改 造 を願 ふ こ とが 第 一 義 であ るが 、潜 在 意識 的 に は、 私 に課 せ られ た、 二つ の外 部 作 用 か ら逃 れ るた め で もあつ た。/従 来 私 の作 品 は二 つ の方 面 に向 け書 か れ た 。一 つ は民 族 的 な嗜 好 に適 す る も の、他 は一般 的嗜 好 に適 した も ので あ る。/た とへ ば 「餓 鬼 道」 とか 「追 はれ る人 々」 「奮 起者 」 な どは 、半 島 の 人 々や そ れに 同情 して ゐ る人 々 の 間 に よろ こば れ た。 とこ ろが 「権 といふ男 」 や 「ガ ルボ ウ」 は 、 内地 の読 者 や 文学 的教 養の 高 い 人 々は 反対 し、 エ キゾ チズ ム に迎 合 した と罵 るの で ある。 21白 川 豊 『植 民地 期 朝鮮 の作 家 と日本』 大学 教育 出 版1995 .7183p 22張 赫 宙 『悲 壮 の戦 野』 洛 陽書 院1941 .4 この 七年 の 戦役 の全 貌 と、常 時の 東亜 三民 族 の文 化 を総 合 的 に描 か う と してゐ る。 〈七 年 の嵐(四 部 作)〉
孫 才 喜sOHNJaehee ① 第一 部 「悲 壮 の戦 野 」:文 禄 、慶 長役 の主 戦論 者 で あ り、 主君 に最 も忠 誠 を励 ん だ清正 を主 人公 に 、当 時 の 陸戦 の模 様 を主 と して 描 き、 清 正 以下 の 将兵 の 悲壮 な気 持 を叙 述 した もので あ る。 ② 第二 部 「智 者 の悩 み 」:文 禄 、慶 長役 を通 じて 外 交 に心 血 を そそ い だ小 西行 長 を 主 人公 に、和 戦 両面 を描 き、 こ とに当 時 の 日本の 文化 と政 情 と、 外 交 の経 緯 を描 い た 。 ③ 第三 部 「義 将 の最:後」:朝 鮮側 の海 軍 の名 将李 舜 臣 を主 人 公 に、 当時 の 海戦 の模 様 と、 彼 を め ぐる政 争、 政 敵 とを書 き、 併せ て 当時 の朝 廷 と民 情 、文 化 を描 く。 ④ 第 四部 「驕 れ る使 者 」:明 国側 の特使 と して派 遣 され 、 始終 行 長 と外 交 交渉 を し て ゐた 明使 、 沈惟 敬 を 中心 人物 に、 明側 の外 交 の模様 と朝 廷 と民 情、 文 化 を描 く。 23「 後記 」張 赫 宙 『浮 き沈 み 』 河 出書 房1943 。11 24白 川 豊 「張 赫宙 ・作 『開 墾』 につ い て(解 説)」 『開 墾 』 日本 植民 地 文学 精 選集 〔朝鮮 編 〕3ゆ まに書 房2000.9 白川 氏 は 『開墾 』 につ い て、 「張 は しか し激す る こ と な く淡 々 と、 しか も常 に 公 平 な立 場 か ら描 こう と努力 して い る よ うに見 え る。 表面 上 、 こ の作 品 はや は り 「国 策物 」 の 中 に入 れ ざ るを得 ないが 、 中 立的 視 点 に基 く多 面 的描 写 や構 成 力 な どの 点 で なか な かの秀 作 で あ る と言 え る。5p」 と、卓 見 を示 して いる 。 25張 赫 宙 「あ る感覚 」 「文 芸 首都 』1935 .8122p 私 は特 に興 味深 く感 じる のは民 俗 乃 人類 の移 動 だ。 満 洲 の先 住 人 と朝 鮮半 島の先 住 人、 そ の後 の 人類 大移 動 と混淆 、 さ らに視 野 を移 して 、 朝鮮 半 島 よ り日本 へ の移 住 の跡 と現 在 の状 況 、例 へ ば鹿児 島や長 崎 、福 岡 あ た りへ の大 量 移住 者 の跡 や 、 島 根 、 鳥 取 あ た りの裏 日本 との 関係 な ど、 私 は学 力 と資 金 が 出 来た らそれ らの地 方 を 是非 歩 い てみ たい と思 つ て ゐ る。 26野 口赫 宙 『韓 と倭 天 孫民 族 は ど こか ら来 た か 』 講 談社1977 .107p 27張 赫 宙 「満 洲移 民 につ い て」 『文芸 首 都 』1937 .1192p-93p 日本民 族 の 眼か らすれ ば これ らの 先住 人達 は何 れ も一 様 に土 着民 族 にみ え るの だ らうが 、満 漢 蒙鮮 四 族 を再 々 くわ し く検 討 してみ る と、 満族 の他 は皆 土 着人 とは言 へ ない 。漢 や鮮 はむ ろ ん、 蒙古 人 も内蒙 古地 方 の他 は満 洲 人 に とつ ては外 来 民族 で あ る。 しか し、 蒙 古 人 は数 に於 い て非 常 に少 く、 所 謂 闖入 と いふ 考へ は しな いが 、 漢 と鮮 は、 満 人の 眼 か らみ れ ば明 か に 闖入者 であ らう し、鮮 は又 漢 に とつ て も闖入 者 にみ え よ う。 万 宝 山事 件 を例 に とつ て もそ の 間の 消息 が よ く分 る。/し か し、 以 上 の 諸民 族 か らみ る と、 日本 移民 は最新 の闖入 者 であ る。 28『 朝鮮 民衆 と 「皇 民 化 」政 策 』宮 田節 子 李榮 娘訳1997 .6三 信 文化 社54p 29張 赫 宙 「或 る青 年 の告 白」 『金 融組 合 』1940 .4149p 人 間 に は変 りはな いん だ か ら、 何 人で あ らう と、 どん な名 をつ け よ う と、 変 りな い こ とで して、 私 の これ まで の苦 しみ な ん て もの は 、(中 略)内 地 に来 て ゐ る人 だ
韓 国 近代 の 文 学 にお け るデ ィアス ポ ラ けで も百 万 人居 りま すか らね。 そ れ らの 人た ち の子 孫 は殖 え る一方 だ し、 そ れが い つ まで も同 じや うな苦 しみ を く りか へ して ゐて は な らな い と思 ひ ます の で、 はい 、 内鮮 融和 、 いや 、 一体 と 申す や うに なつ た さ うです が 、 ほ ん との 内鮮 一体 に なつ て もらはね ば な らい の です よ。 30三 谷 憲 三 「日本 近 代 の 《朝 鮮観 》 一 〈日朝 同祖 論 〉 を視座 と して 一」 仏教 大 学総 合 研 究所 紀 要2000.336p 31『 戦後 非 日文 学 論 』林 浩治 新幹 社1997 .1117p-18p 土 地 を奪 わ れ、 言葉 ・名前 ・習慣 ・民俗 まで も奪 わ れ た朝 鮮 人 と して、 敗戦 とい う 日本 の悲惨 を描 く心 情 は持 ち得 る はず が なか っ た。 しか し、張 赫 宙 は これ を描 い た。 『孤児 た ち』 は そ うい う意 味 で特 異 で あ りな が ら、現 代 の 無節 操 な 「戦争 被 害 論 」 に まで 通 じる 普 遍性 を もって い る。(中 略)張赫 宙 は 日本 に も朝 鮮 に も対等 な位 置 で あ ろ う と して い た のだ ろ うが 、侵 略 者で あ っ た側 の 責任 を問 う こ とな く、 どち らも軍 国主 義 の被 害 者で あ っ た と、 いか に も大 人ぶ った規 定 をす るの は、 結 局、 帝 国主 義 に利す るだ け であ る とい うこ とに気 がつ か なか った のだ ろ うか 。 32白 川豊 「戦 後の 張(野 口)赫 宙」 『朱夏 』 五号 せ らび 書房199332p 白川氏 に よる と、 張赫 宙 が 四つ の英 文 の長 編小 説 を計 画 して お り、 そ れ まで十 年 間英 文小 説 を書 きた めて い た こ とにつ いて 、張赫 宙 か ら直接 聞か さ れた そ うで あ る。 33張 赫 宙 は太 平洋 戦 争 末 、野 口赫 宙 、 野 口稔 と日本名 を使 っ た こ とが あ るが 、帰化 した の は一 九 五二 年 で あ る。 『鳴 呼朝 鮮 』 は張赫 宙 と して の最 後 の作 品で 、 『無 窮花 』 以後 は 野 口赫 宙文 学 と も言 えよ う。 李洗 任 の 「帰化 行 政 に見 られ る 日本 政 府 の韓 国 ・朝鮮 人 処 遇 対 策」(『交 錯 す る国家 ・民 俗 ・宗 教 』 戸上 宗 賢 編 、不 二 出版2001.3)に よ る と、 日本 帝 国 時代 、移 住 朝鮮 人 は朝鮮 戸 籍 の 「日本 人」 で あ っ た。敗 戦 後 、 日本政 府 は朝 鮮 人 の 日本 国籍 を剥奪 す る一 方 的 な通 達 を出 した。 それ は一 九 五二 年 四 月二 八 日の サ ン フ ラ ンシス コ平 和 条約 発効 か ら十 日ほ ど前 、一 九 日の こ とで あ る。 その時 、 自発 的 に帰 化 申請 を しな い と 日本 人 で な くな る。 多 くの人 はそ の ま ま日本 国籍 が剥奪 され外 国 人 と さ れ た 。 当時 朝鮮 半 島 の状 況 と日本 の家 族 等 を考 慮 す る と、 張 赫宙 の 「帰 化 」 は 「亡 命 」 的 な性 格 を もつ と考 え られ る。