キリスト教的平等主義者としてのジョン・ロック
最近のロック研究への批判的評価(4)
伊藤 宏 之
1、はじめに
ジョン・ロック(1632−1704)の没後300年にあ たり、現代がロックの遺産の何をどのように継承 すべきか、という問題意識を持った研究が続いて いる。前編まではZ.ラウ、J.タリー、Rアル ネイユの研究を見てきたが(1)、本稿では、ジェレ
ミー・ウォルドロンJeremy Waldronの新研究、
6b4五〇〇左畠8刀ゴ吻θ8抗ア 6五r競加∫;bαη曲直加5f刀 五〇〇左〆51b1源081訪。〃幼 ,Ca皿bridge U.P.2002を論 評することにしたい。
今回、ウォルドロンの著作をとりあげた理由の 一つは、これがロック思想の宗教的実質の重みを ふまえた上で、さらに「平等原理」というところに
ロック思想の基軸性を析出しようとしていること で、ロック研究に新機軸を開いたと見倣されるか
らである。第二は、このウォルドロンの新著の検 証によって、ロックについてのこれまでの拙論に 対する批判への応答が可能になる、ということ である。中村恒矩氏や友岡敏明氏は、英国に固 有の重商主義者としてのロックという私の見解 ではロックの普遍的意義が見えないとの批判を 寄せている。私はそうしたロック像が現代にお いて(日本においても)、とりわけ政治論や経済 論でなお学ぶべきものを持っていると依然とし て考えている。しかし、それにとどまらずに、
哲学者ロックというより広い視点からこの重商 主義者ロックを位置づける必要性を両氏の批判 から読みとるべきであろうと思う。ウォルドロ ンの新研究はこの作業を促す格好の素材である。
拙論は、ロックが神の法=自然法の認識論的研
究を基礎として自然法的社会秩序の具体像を探究 していること、そしてその具体像が議会制重商主 義体制であった、というものである。つまり、哲 学者ロックがその方法を駆使して見い出した社会 像が議会制重商主義体制というのである。しかし、
その体制にロックは固執したわけではなく、ロッ クの哲学はその社会像の見直しに向けて開らかれ ているという点での積極的な理解の提示がいま求 められていると思う。ウォルドロンの新著はこの ことを痛感させるものである。
さて、ウォルドロンは本書の目的を次のように 述べている一
「おそらく、ロック自身のアプローチに親和的 で少なくともその平等理論が現実には神学的基礎 を必要と才るという見方に積極的に敵対しない基 盤の上で、だれかが彼の平等主義の神学的基礎を 解明する時である。私が本書で試みるのはこれで
ある。」(p.15)
「本書は、ロック思想における基本的平等と宗教 原理との間の関係に係るものであり、それは『統 治論』第1編がまき1と探究したものである。第1編 はまさしく人間が基本的に相互に平等であるとい う命題の弁証である。それは第2編が話を進める基 盤の弁証である。第1編での確信的な議論が聖書か
らの観点からのものであるのは確かである。しか し、それは『汝らはすべてお互いに平等である』
ということが天からとどろいたことが語られてい るということではない。第1編では、一般的平等の ため議論は、微妙で複雑で実のところ明確な聖書 の言葉を自然法や伝統的神学といういっそう広い 枠組の中に織りこまれている。」(pp.19−20)
本書は最近の研究のうち、とくにR.ドゥキン
(Ronald伽orkin)とJ.ダン(John Dunn)への批判 を蔵している。著者によれば、ドゥキンの平等理 論は「平等関係の本質や基礎づけについては何も 語っていない」(p.3)のであり、他者からの平等理 論批判に応答できない、ということになる。
他方、ダンに対して次のようにいう一 「ダンが、〔キリスト教的特質を持つ〕ロックの
政治哲学と現代の多くの人が平等理論の中に期待 するものとの間の〔ロックの神との関係を重視す るか否かという〕不調和を指摘し、ロックの神学 的前提は現代では死んだものと見倣すのはおそら く正しいであろう。しかしながら、私はそれが確 実だとは思わない。我々が一現代において一 何らかの宗教的基礎から全く離れて基本的な人間 の平等についての十全な概念を作り弁証しうるこ とは明白だとは、私には実際のところ考えられな い。私は、その基礎がいかに特有なもの、あるい はセクト的なもの、あるいは聖書的なものである べきかは、全くのところ未解決の問題だと思う。」
(pp.13−4)
ウォルドロンは『統治論』第2編の言葉をあげ ながら、ロックの平等原理のキリスト教的基礎を 次のように析出している。(以下、〈……〉はロッ クの言葉、Gは『統治論』、Uは『人間悟性論』の略 記、「……」はウォルドロンからの引用を示す。)
「神は我々のすべてを次のような状態において 創造した。それは道徳的に言えば、〈すべての権 力と裁判権が相互的であり、だれも他の人より以 上のものを持たない〉((}一一皿一4)のであり、我々 のすべてが主人であり君主であり、我々はそれぞ れ、〈神に対して平等であり、だれにも従属しな い〉(G−n−123)。そして、国王、将軍、司教、
教師、学者、父、夫、雇用主、地主、植民者、あ るいは奴隷所有者の権力についていわれることは 何であれ、この基盤の上に樹立されねばならない し、基本的平等についてのこの真実の原理に照し そのもとで正当化されたのである。」(p.6)
以下、具体的に見ていこう。
2、キリスト教的平等原理
男性への女性の「自然な従属』について、ロック は周知のように次のように述べている。
〈私の見るところでは、この〔創世記、3−16 の〕物語において、神はアダムにイヴに対する、な いしは男性に女性に対するいかなる権威をも与えて いないし、ただ女性の宿命について、彼女が夫に服 従することを摂理によって秩序づけることを語って いるのみである。そして一般に人間の法や諸国の慣 習がそのように秩序づけているのであって、これに は自然の中に根拠がある、と私は認める。〉((}一1
−47)〈夫と妻は、一つの共通の事柄に関心を持つ のであるが、別々の悟性を持っているが故に、しば しば別の意志を持つことは避けがたい。そこで最終 的な決定、つまり支配がどこかにおかれなければな らないとするなら、それは当然により有能で力強い ものthe abler and the strongerとしての男性の ものとなる。〉(ひ一H−82)
ウォルドロンはここで、このアダムヘのイヴの、
あるいは男性への女性の「従属」が平等原理に背反 するかどうかを論点とする。ウォルドロンはこれ らの章句を次のように読む一一ロックにおいては、
「力は必ずしも権利ではない。そこで、男性支配 の権利は男性の力強さという単なる事実によって は樹立されえない。」(p.30)rロックの示唆は、男
性のカと能カー夫婦関係の中での仕事をする上 での相対的にすぐれた能力という意味での力強さ と能カーが権威の権原となるということである
かもしれない。」(p.31)
この解釈がより妥当だと判断するウォルドロン の典拠は、『統治論』H−54でのく年令や徳〉、〈才 能や業績〉による差異であり、そこでも前に見た
とおり平等原理が語られているというものである。
そしてウォルドロンは結局のところ次のように
いつ一
「私は提示すべき整然とした解答を持つことがで きない。妻の自然的従属についてのロックの見解 は、彼の普遍的平等理論にとって一つの障害であ る。……我々に残されたのは混乱である。」(p.40)
しかし、ウォルドロンはここにとどまってはい・
ない。それは、ロックが『聖パウロの手紙への訳 解』において、『第一の手紙』第11章の3節から13 節での祈りをしたり預言をしたりする時には女性 は頭におおいをつけるとの物語について、「ロッ クはその章句が正しいと見ることを拒否してい る」(p.41)こと、この『訳解』を読んだジョサイ ア・マーチン(Josiah Martin)が、ロックに同意 して、祈りや預言の適格性や教会での発言の自由 が女性にも男性と平等にあることを述べているこ
と、さらには、1696年にロックがレベッカ・コリ アー(Rebecca Collier)の説教を聞いた際に、「女 性がはじめて、愛の主の復活を公にする名誉をえ た」と賞讃し、彼女に手紙を書いたことなどを紹 介した上で、「前述のとおり、我々はロックが首 尾一貫性のある見解を持っていたということがで きるとは思わない。しかし、ロックがジョサイ ア・マーチンに残した印象は記憶に値いする」
(p.43) と結んでいるからである。
著者が掘り出したこれらのことはどのように評 価できるか。著者は、『統治論』での男女平等の
「混乱」をそのままにして、これらがキリスト教的 平等原理に親和的なロックにふさわしいものとい う。しかし、これらの事例は、むしろ、ロックが 新しい事実に直面することによって、「より有能 で力強い」男性像を修正し、女性の男性への対等 性を、あるいは端的に人間としての平等性を物語 るものとの原理の再確認に到ったことの端緒を示 すもの、として評価できないであろうか。
次にウォルドロンは、人類の平等についての
『統治論』第2編のロックの発言に注目する。
〈〔自然状態は自然法の範囲内ですべての人が 自らの行動を律し、適当と思うままにその所有物 と身体を処置するような完全に自由な状態である し〕、それはまた平等の状態でもあり、そこでは すべての権力と裁判権が相互的であり、一人の人 間は他の人よりもより以上のそれらを持っていな い。なぜならば、同一種、同一等級の被造物はす べて同等に自然の恵みを受け、同等の能力を利用 するように生まれついているのだから、あらゆる
被造物の主であり支配者である神がその意志を明 白に表示して、ある人を他の人の上に据えてはっ きりした命令によって疑うべからざる領有権と主 権を与えるのでないかぎり、すべての人は相互に 平等であるべきで、従属や服従はありえないとい うことは、何よりも明白であるからである。……
我々は同等の能力を与えられ、すべて一つの自然 の共同体に加わっているのだから、人間より下等 な被造物が我々のために造られているのと同じく 我々も他の人の利用のために造られているかのご
とくに、相互に殺し合うことを権威づけるような 徒庸蘭操を我々の間で考えることはできない。〉
((}一一1】[一4・6)
著者は、この発言を典拠として、ロックが例え ば、「皮膚の色や性器のような皮相な特徴を本質 的なことと見倣して人間の不平等を説く思考を峻 拒していること」(p.63)、そして何よりも神与の 能力を備えたものとしての人類という一定の類似 性を重視していること、さらにこれがr神学的真 理の光の中でのみ確立されている」(p.81)ことを 析出している。そして著者は、この人間の能力を 人間が「神の作品」としてその責務を果すために使 用する能力、「抽象的な概念を形成し巧みに使い
こなす能力」(p.83)という。
その上で著者は「民衆の知性」についてのロッ クの言説の特徴を析出する。典拠は主には『人 間悟性論』と『キリスト教の合理性』(以下、RC
と略記)であり、とくに労働貧民が合理的知性を 欠くとのマクファーソンのロック解釈の問題性 をつくものである。
ウォルドロンも、『人間悟性論』においてロッ クがマクファーソンの典拠になる発言をしてい ることを認める。〈人類のほとんどすべては、労 働に明け暮れてしがない境遇の必要事の奴隷に なり、生涯を生きる備えにだけすり減らす状態 にある。……余暇・書物・語学を欠如し多様な 人々と交わる機縁を欠く者が現に在って、人々 の社会でこの上なく重大と判定される命題の多 くを、いや、ほとんどすべてを、証するに必要 な証言や観察を集めたり、あるいは自分の頼る
論点を信ずるのに必要と考えられるほど大きな 確信の根拠を見出したりするのに必要な証言や 観察を集める境遇にあることは、まったくでき ないことである。〉(U−W−20−2)
しかし、ウォルドロンは『人間悟性論』の基 調がむしろこれに続く第4部20章3節にこそある
ことを強調する。
〈神は人々にその日の職業がその人たちに余 暇を容認するとき、人々が自分の取るべき道に 真剣にたずさわろうとさえすれば、人々をその 道に指図するのに十分な機能をあてがいたもう てあると、そう認容しなければならない。いっ たい、自分の霊魂について考え、宗教問題で教 示される、余裕の時間をまったく持たないほど、
生きる手段にのみかかりきりの人間はいないも のである。〉(U−W−20−3)
著者はさらに「富者や余暇のある人」における「証 拠を利用する意志の欠如」をロックが指摘している こと(U−W−20−6)、〈すべての人が誤りにおちい りやすく、ほとんどの人が多くの点で情念あるいは 利害によって誤りに誘惑される〉(U−W−20−17)
とのロックの発言をあげる。さらに例えば、〈これ ら学識ある討議者たち、これら全知の博士たち、そ うした人たちにもかかわらず、学院風でない政治家 にこそ世界の諸政府はその平和と防衛と自由とを負 うのであり、(不評の名前である)無学で蔑まれる職 人からこそ、諸政府は有用な技術の進歩を受けとる のである〉(U一一皿一10−9)をもあげる。
『キリスト教の合理性』についても同じことが いえると著者は説く。マクファーソンがその中に 労働者階級の合理性の欠如を見い出すのに対して、
ウォルドロンは、同時に〈この世の論争者ないし は賢者たる学識豊かな学者のみがキリスト教徒で あるべきとか彼らが救われることを神が意図して いたのなら、……さまざまな思弁と些細な事柄、
曖昧な術語と抽象観念で満たされることになった であろう〉(RC、p.158)などとのロックの批判的 発言の中に、〈福音の単純さ、つまりイエスがキ リストである〉ことのロックの重視を看取すべき であるとの見解を示す(p.104)。こうして著者は、
ロックの平等原理が「民衆の知性」論として生きて いる、というのである。
『人間悟性論』や『キリスト教の合理性』の基 調をキリスト教的平等原理として読むウォルドロ ンの主張は、説得力を持っている。むろんロック が人間に対して造物主への責務を説くことを著者 はふまえている。したがって神から見れば個人相 互間の能力や業種や徳の差異はほとんど意味を持 たない、とはいえ、その差異を神への人間の責務 に照らしてどのように位置づけるかは問題となり
うる。この差異を、平等原理の具体化としてウォ ルドロンはどのように説明しているのであろうか。
3、多数決論
ウォルドロンは、ロックが政治的な関係におけ る差異や区分の中に平等原理をどのように貫徹さ せようとしている、と見るのであろうか。親子関 係の場合について、r両親の意志は両親の意志へ の子供の従属を序々に不必要としていくものであ ること、つまり子供は大人と平等な状態に向けて 養育される」(p.114)との解釈を示す。その上で、
著者は、参政権についてのロックの思想を分析す る。ウォルドロンは次のようにロックを読みとり、
説得力のある根拠をも示している。
(1)慎慮に係る事と原理に係る事とは区分さ れている。例えば何が適当な政治形態であるか、
という点は慎慮の問題である。
(2)政府は(国民が自分自身で、あるいはそ の代表者によって同意を与えるのでなければ、国 民の所有権に税を課してはならない〉(G−n−
142)とのロックの発言は、財産所有者(例えば40 シリング納税者)に限定して参政権を認めるもの と見倣されがちであるし、またロックもそれを否 定しているわけではない。しかし、『統治論』で のロックの原理は、「何らかの方法で、所有権の 所有者一税を免れえない何らかの所有権者一 は代表されねばならない」ということであって、
財産保有者以外の人をすべて排除しなければなら ないということではない」(p.119)のである。
(3)女性もこの点で参政権者の中に含まれて いると解すべきである。既婚の有無を問わず女 性が「所有権の保有者」であることなどがその理
由である。
焦点の一つは多数決についてである。ロックは、
〈ある共同体を動かすものは、それを構成する個 人の同意だけであり、そして一つの団体は一つの 方向へ動くことが必要であるから、その団体はよ り大きな力が引っぱっていく方向へ動かなければ ならない。そしてこの大きなカというのは多数者 ゐ向意である。……一つの団体に結集している各 個人は、それが一体となって行動することに同意 したのだから、すべての人はその同意によって多 敷者に拘束されるべく義務づけられているのであ
る〉(G−H−96)と述べている。
著者はこれを次のように解釈する。
(1)同意は個人の権威づけに係ることである。
政治的影響力は一様ではないし、それは道徳的力 であって物理的強制力でも純粋な政治的権力でも ない。この両面で、「我々は平等であって、数に よる説明は正しい」(p.130)のである。
(2)政府が同意(信託)に反した場合、それが たとえ多数決に基づくものであっても、多数の悪 用である。ロックは「多数決主義の悪用の是正と して、それより以上の多数決主義をあげてい
る。」(p.131)そ.の典拠は「(国民自らが適当と思 う)新しい立法部の確立」(G−H−222)である・
ウォルドロンは、信託背反がロックにおいては、
r基本的平等原理を阻害し国民を奴隷として扱う」
(p.149)ことを意味していることも併せて指摘し ている。
ウォルドロンの〈新しい立法部〉=rより以上 の多数決主義」とのロックの読解は、その典拠とと もに首肯できる。しかしロックがこのr新しい立法 部」という場合の正統性の根拠について、著者のよ
うに「平等原理」の具体化というだけでは、ロック に十分に内在した解釈とはいえない。『統治論』H
−226で、ロックは、r立法部が国民の所有権を侵 害して信託に反する行動をした時には、国民は新 しい立法部によって新しくその安全を守る権力を
持つというとみ学説ほ、〔自然法に敵対する〕叛乱 1と寿ずる良もよギ・吻壁であり、それを阻止する最 も蓋然性(確率)の高い手段だ、というのが、私の 答えである」とのべている。ここには多数決論を支 える認識論的根拠が示されている。すなわち、こ れは旧立法部の行為を国民の所有権の保障ないし は全人類の保全(二自然法)という統治の目的に照 して実施検証していく作業に基づいた多数決主義
=同意理論である。この検証作業、つまり、国民 の蓋然性(確率)の高い共通認識の形成過程の裡に、
r新しい立法部』は位置づけられている。後に改め て見るように、この点は、ウォルドロンにおいて は看過されていて、r新しい立法部」はr平等原理」
の具体的適用という把握にとどまっている。
4、経済論
ウォルドロンは、ロック所有権論について次の ようにいう一
「ロックの議論は〈大地の不釣合いで不平等な 保有〉を説明し正当化することを目的にしている が、それが意図していたのは、決して17世紀の現 状をそのまま擁護することではなかった。……平 等主義のようなものが、ロックの所有権理論には
充満している。」(p.152)
まずアメリカ植民について。
ウォルドロンは、ロックが「アメリカには専有 されていない荒無地があるということを認めてい たが、それはヨーロッパ的偏見に基づくものでは ない」(p.168)という。ではその理由は何か。
ロックは、〈神は世界を人間に共有物として与 えた。しかしそれを人間が利用し、できるだけ多 くの生活の便宜をそこから受けとるようにとして 与えたのであるから、神がそれをいつまでも共有 で未開のままにしておくようにというつもりで あったとは考えられない〉(G−H−34)と述べて いる。これをふまえて、ウォルドロンは次のよう にロックの植民論を読みとる一
もし、アメリカ先住民がその不快な貧困にも かかわらずその生活形態の維持を本当に望むの
であれば、内陸の無主の土地にひきこもるかま たはヨーロッパ的農業と隣り合せで共存するこ とができる。そうではなくて、アメリカの〈大 きく豊かな領域の王〉(G−H−41)よりも土地を 持たない日雇労働者の方が私有経済において衣食 住でよりよい状態になったということを知って、
アメリカ人は農業主導の経済の中で機会をとらえ ることもできる。ロックはたしかに定住農耕の優 位性を主張している。しかしロックの真意は、そ こにあるのではない。というのは、「ロックの平 等の尊重を意図する議論は、植民者だけでなく、
アメ.リカ先住民も含めてすべての人々の利益に注 意することを考えているのであって、耕作がすべ ての人をより良くすることを求める議論を創造し ている」(p.170)からである、と。
続いて私有経済の全体的枠組への平等原理の貫 徹について。
著者は、ロックには私的所有経済についての三 つの限定があるという。腐敗制限、充分制限それ に慈善の原則である。
(1)ウォルドロンは、貨幣の導入以後に腐敗 制限は解消されたとのマクファーソンの解釈をと らない。もし市場経済が何らかの理由で腐敗をな くすことができない場合には、「この制限条項は 腐敗をとがめる基礎として有効であり続ける」
(p.172)からである、という。
(2)ウォルドロンは、先住民のアメリカ経済へ の不満足の多い参入よりも、イギリス経済への最貧 の参入の方がより良いとの判断をロックがもってい る、と見る。その生存チャンスの保障、つまり充分 制限への対応は、「すべての平等主義者の気に入る ことではないが、基本的に平等主義的アプローチで あることは否定できない」(p.176)という。
では、〈金銀は、……ただ人々の同意によって のみ価値をもつ。……人々はその暗黙の同意や自 発的な同意によって、その生産物を自ら利用しう
る以上の土地を正当に所有する方法を発見し、不 均合いで不平等な大地の所有にも同意したのだ、
ということは明らかである〉(G−E−50)との ロックの発言をどうみるか。
このロックの発言について、ウォルドロンは、
「所有の不平等によって最も損害を負いがちな 人々は、貨幣慣行に(その貧困の故に)最も少なく しか参入しえないし、したがって金銀への慣行的 な価値の承認において暗黙の同意者として含まれ ることも非常に少ない」(p.177)という理由で、
「これが説得力ある議論だとは思わないし、『統治 論』第2編の中で最悪の議論の一つである」
(p.177)という。しかし、同時に、この議論に ロックは確信をもっていたこと、そして、「この 点について同意に、つまり自由で平等な個人に とって意味のあるこの同意という観念に、自らの 議論を基礎づけようというロックの欲求は、マク ファーソンのロック解釈の趣旨とすでに背反して いる」(p.177)と述べている。
(3)ウォルドロンは「慈善の原理」を特に重視 している。「この慈善の原理こそ、富者と貧者が 基本的に相互に平等だという思考にとって明白な 貢献をしている」(p.177)とウォルドロンはいう。
ロックの自然法における全人類の保存への「能動 的で積極的な責務」がそれであり、『統治論』第1 編第42節での財産所有者の余剰への貧者の権利は、
「神の原初の贈与を各人が共に分つ権利」(p.186)
に基づいている、とウォルドロンはいう。
そして、救貧法に関するロックの論文について は、「〈貧者の真で適当な救済は一一かれらのた めに仕事を見出すことである〉とのロックの見解 は、慈善の原理の平等主義的前提と対立するもの ではない」(p.187)とウォルドロンはいう。
ウォルドロンはさらにロックが三種類の奴隷 についてのべているという。生まれながらの奴 隷についてロックが否定していること、正当な 戦争による捕虜としての奴隷について、『統治 論』n−179を典拠に、「きわめて厳格な制限の ある条件」(p.203)で正当化していることをまず ウォルドロンは説く。では、売買による奴隷に ついてロックはどのように考えていたのであろ うか。アメリカのカロライナやその他の地域で の奴隷制と正当な奴隷化についてのロック自身 の非常に限定された理論とは調和する可能性が
ないこと、またロックが奴隷狩りの方法を熟知 していて、取引される奴隷が正当な戦争で打ち 負かされた侵害者ではないことを知っていた、
とウォルドロンは強調している。そして、「アメ リカにおける当時の奴隷制にほんのわずかでも正 当性を与えるものがロックの理論にはないこと、
アメリカにおけるアフリカ奴隷は、ロック自身が まきこまれた一つの現実であったこと」(p.206)が 明白だ、とウォルドロンは結論づけている。
ウォルドロンはロックの私有経済の是認が自然 法(=全人類の保存)基準に、つまりr平等原理」基 準によるものとの解釈を示している。つまり「平 等原理」に反する私有経済はロックの容れるとこ ろではない、というのである。これによって、
ロックにおいて、先住民と入植者、雇用者と被雇 用者あるいは救貧者との共存が可能となる,と著 者は説く。確かに、神与の共有物への労働投下に 基づく私的所有や商品交換による富の格差もそれ 自体がロックにおいて是認されるというのではな い。しかし、貨幣導入の「同意」は、著者のいうよ
うに「平等原理」を示すものにとどまるのではなく、
もし、それによって自己保存権が保障されないと いうのであれば、その「同意」は新たに見直しの契 機になるのであって、自然法基準は、そうした見 直しの作業という媒介を通じて植民論にも貨幣経 済論にも解除されることなく生きるのである。著 者は、「平等原理」をあまりに直接的に(無媒介的 に)植民論や貨幣経済論に適用している。これは 著者の「慈善の原則」の強調にもあらわれている。
奴隷についてのロックの所説の読みとりはほぼ 首肯できる。しかし、奴隷制正当化へのロックの 厳しい限定条件の理論的付与とロックの現実への コミットメントという事実との問の著者による峻 別のみでは、双方の連関の解明の可能性を閉すこ
とになろう。
5、寛容論
ウォルドロンはロックの哲学がキリスト教的平 等原理を基軸としていることを説いている。その
平等主義的政治的包摂は、しかし、r限界」を持っ ているとウォルドロンはいう。それが『寛容につ いての書簡』(以下、LCTと略記、ページ数は平野 歌訳)におけるカトリック教徒と無神論者の寛容 対象からの除外である。
カトリックについては、しかし、ウォルドロン は、これが誤解であるという。ロックは、たしか に〈その教会に加わる人がみな、そのとと自体に よって他国の君主の保護の下に入り、それに服従 することとなるというような教会は、為政者に よって寛容に扱われる権利を持ちません。という のはこんなやり方がされれば、為政者は自分の領 土の中に外国の支配権の及ぶ場所を提供すること になるからです〉(LCT、p.79)とのべている。こ のロックの言葉はふつうカトリックヘの寛容否定 と読まれているが、ウォルドロンはこの言葉の前 後から、これはカトリックのみではなく、「ある ムスリムの宗派」でも政教一致を主張した場合に ついての一般的言及だ、という(p.221)。さて、
ウォルドロンが重視するのは、「無神論者」につい てのロックの批判である。ロックが同じく『書 簡』で、〈神が存在することを否定する人々は、
決して寛容に扱われるべきではありません。とい うのは、人間社会の絆である結束とか、契約とか、
誓約とかは、無神論者にとって確固不動で侵しが たいものではありえないからです。神が否定され れば、これらいっさいのものは崩れ去ってしまい ます〉(LCT、p.79)とのべていることはよく知ら れている。ウォルドロンは、無神論が「人間社会 の絆」の崩壊をもたらすとのロックの発言を、「無 神論者は人間の平等の思念を抱くことができない」
ととらえかえす。その上で、ロックの無神論批判 を次のように整理する。その要点は二点である。
(1)ロックは『キリスト教の合理性』の結論で、
キリスト教的平等は知識人のための概念としてで はなく、貧しい者や無学な者などの手にゆだねら れた場合に最もよく働くと考えている。「平等はそ れが同等な人として正当化する人々の間で受け入 れられなければ、機能しえない」(p.243)のである。
(2)ロックはこうした大衆的寛容が宗教的教
説における原理的基礎から離れては不可能である、
と確信している。
ウォルドロンは、その上で、現代においては ロックとは別に平等原理の大衆的受容が可能で ある、との見通しを持つ。しかし、その場合、
rロックは我々が危険をおかしてきていると考え るだろう」(p.243)との困惑をウォルドロンは率直 に表明しぞいる。
ロックの無神論に対するウォルドロンの評価は 説得力があるとはいえない。著者は一方でロック の無神論批判を否定的にみているが、他方では ロックのキリスト教的前提を解除することに不安 を示しているからである。したがって現代におけ る寛容=宗教的「平等原理」の展望を積極的に展開 することができない。著者の限界は後に見るよう に、ロックの寛容論におけるキリスト教的前提を 問い直す契機を見い出しえないことにある。
6、蓋然性論
ウォルドロンは本書でロックのキリスト教的 平等原理がその思想全体に貫徹しているとの新 しい解釈を提示している。ロックにおけるキリ スト教の実質的重みについては、すでにジョ ン・ダンや加藤節それに友岡敏明氏らが考究し てきているところであるが、ウォルドロンはさ らにそれを「平等原理」でもって積極的に示した のである。つまりロック思想におけるさまざま な「差異の問題」は平等原理によって内在的理解 が可能になるというのが著者の見解である。
むろんすでに見たように著者自身もその平等原 理からはみ出すものがロックの中にあることを認 めている。しかし、それらもぎりぎりのところで 平等原理に包摂できるのではないかというのが著 者の主張である。しかしそれらも含めてすでに見 たように、著者の主張が説得力をもっているとは 見倣しがたい論点がある。これらをどのように考
えたらよいのであろうか。
私は著者も指摘している、ロックにおける原理 と慎慮の区別を重視すると同時にそれら双方を媒
介するものに注目することによってこれらの問題 が解決できるのではないかと思う。ロックがキリ スト教的平等原理、あるいは神の法#自然法を価 値基準としてその実現を図ろうとしたことを著者 は正当に析出している。しかし、その実現の具体 的政策についてはロックは必ずしも自分自身が十 全な判断をしていないことを自覚している。だが、
その政策上の判断の不十分さを見直す方法をロッ ク自身が用意している。それはロックの蓋然性論
(確率論probability)である。『人間悟性論』にお いてロックが絶対確実性の認識を断念したこと、
そしてそれに代るものとして個人相互が寛容の中 でより蓋然性の高い認識を見い出していくことを、
いいかえれば、ある慎慮=判断が蓋然性レベルに とどまるのであるから、それを実地検証を経なが ら自然法基準に近づけていくことを人間の責務と して説いたことの意味は、決して軽視されてはな
らない(2)。
〈蓋然性は、真でありそうだということである。と いうのも、〔蓋然性という〕この言葉の表示そのも のが、真と通用させる、あるいは受けいれさせる、
証明ないし立証のあるような命題を意味表示するか らである。この種の命題に心が与える待遇は信念・
同意・あるいは臆見であり、これは、ある命題が真 であるという絶対確実な真知なしにその命題を真と 受けいれるように私たちを説得すると見出される証 明ないし立証に基づいてある命題を真と許容する、
いいかえれば、受けいれることである。……/した がって蓋然性は私たちの真知の欠陥を補い、真知が 案内し損なうところで、私たちを案内するはずであ る。したがって、蓋然性はいつも、絶対確実性がな くて、ただ真と受けとるある誘因があるような命題、
そうした命題にかかわる。その根拠は、要約すると、
次の二つである。
第一は、ある事物と私たちの知識・観察・経験
との合致。
第二は、他人がその観察と経験を保証する証言。
他人の証言では、次の諸点を考察すべきである。
一、数。二、誠実〔ないし無欠点〕。三、証人の熟 練。四、書物から引用された証言の場合は著者の
意図。五、関係の諸部分・諸事情の整合性。六、
反対証言。
蓋然性は、直観的明証すなわち知性を謬りなく 確定して絶対確実な真知を産む直感的明証を欠如 する。したがって、もし心が理知的に進もうとす れば、心は、蓋然性のあらゆる根拠を検討して、
蓋然性に基づいてある蓋然的命題に同意したり同 意しなかったりする以前に、その根拠がこの命題 に対する賛否の多少をどのようにして作るかを見 て、全体を適正に差引きしたうえで、蓋然性の いっそう大きな根拠が〔賛否の〕どちら側に優勢 であるかに釣合うように、大なり小なり固い同意 をもって、命題を拒否したり受けいれたりすべき である。〉(U−W−15−3・4・5)
私はロックが神意の実現を探究したことを著者 と共に認める。同時にロックがそのために具体的 な政策として提出したものは、英国に固有な重商 主義政策であったと見ている。しかし、それは ロックの慎慮のレベルでの判断である。従って、
その政策がもし神意の実現にとって不十分だとい うことが検証されればその政策の見直しが必要で ある。その方向がロックの蓋然性論には用意され
ている(3)。
このことについて、これまでとりあげた論点に 即してやや展開してみたい。
(1)女性論。ロックは確かに男性を〈より有 能で力強いもの>と述べている。だがこれは、
〈結婚の目的〉ニ〈種の存続〉(G−H−79)に 資するためのものでなくてはならないことはいう までもなく、またキリスト教的平等原理に照して 実地検証してみた場合、必ずしも神意にあてはま らないということになれば見直しを迫られざるを えない。つまり「人間の法や慣習」は見直しを求め られる。この点は少なくとも可能性として開かれ たものとロックに即していうことができる。著者 の指摘するジョサイア・マ∵チンの例はこのよう に位置づけることができるのではないだろうか。
だが「女性の宿命」についての聖書の言葉はロック の前提として失われることはない。
(2)統治論。著者も指摘するようにロックの
多数決主義は固定的ではない。rより以上の多数 決主義」が政治的決定以後の検証によって追究さ れるからである。その追究と判断の主体は「第三 者」ではなく国民であると著者も正当に指摘して いる。しかし、著者の分析は国民の検証作業の 過程や「革命」については及んでいない。私は高 度の蓋然性についてのロックの発言はこの点で
も有益だと思う(4)−(5)辱(6)1(7)。『統治論』第2編の
209・210節及び226節は、『人間悟性論』第4巻第 16章第6節の蓋然性論=認識論に呼応しているか らである。むろん革命と叛乱はロックにおいて厳 密に区別されている。
〈不法な行為が国民の大多数に及ぶとか、あるい は危害や抑圧は若干の人にしか及ばなくとも、先 例や結果から見て、すべての人の脅威になると思 われ、そして法も、またそれとともに財産、自由、
生命も、更に恐らくは宗教も危険に晒されている と国民が良心において確信してしまったなら、そ のような場合には、国民が自分たちに対して用い
られている不法な強制力に抵抗することを、いか にして止める事ができるか、私にはわからない。
このことは、実を言うと、統治者が広く国民から 疑いの目をもって見られるようになることを引き 起こした場合に、きみまらな統治の場合でもつき まとう弊害なのである。これは統治者が陥る可能 性のある最も危険な状態であるが、これははるか に容易に避けられることなのであるから、そのよ
うな統治者はそれだけ憐れに思われることは少な いのである。統治者がもし本当に、国民の福祉を 願い、国民とその法の保全を願うのであれば、そ のことを国民が見たり感じたりしないはずがない。
一しかし、口実と行為とが別であることが世間 に知れ渡り、法をくぐるために術策が用いられ、
国王大権(それは国民を傷つけるためにではなく、
国民の福祉のために君主に信託されているいくら かの事柄についての任意の権力である)という信 託が、その本来の目的とは逆のことに用いられて いることがわかったとすれば、そしてまた、その ような目的にかなうように、大臣や下級の統治者 が選任され、これらの者がその目的を促進するか、
それに逆らうかに応じて、優遇されたり免職され たりしていることに国民が気づくとすれば、そし て、また恣意的な権力が何回か行使され、そうし た権力を持ち込むのに最も好都合な宗教がひそか に恩恵を受け(表向きはそれに反対する宣言が出 されていても)、そのために策謀している者が、
できる限りの支援を受けまた支援を受けられない までもやはり好意を受け喜んで迎えられているこ とを国民が見るならば、そして、二連あ告莇1と窯 らして議会もすべてがその方向に向かっているこ とが明らかとなれば、人は心の中で、事態がどの ように進行しつつあるかを知り、自らを救うため にいかにすべきかを考えざるをえないであろ
う。〉(G−H−209・210)
〈立法部が国民の所有権を侵害して、信託に反す る行動をしたときには、国民は新立法部によって 新しくその安全を守る権力を持つというとみ学説 は、叛乱に対する最もよい防壁であり、それを防 止する最も蓋然性(確率)の高い手段だ、というの が私の答えである。〉(G−n−226)
〈似通った場合に私たち自身および他人の観察が いつも決まって一致するある個々〔特殊〕の事物 が、これについていうすべての人の協同報告に よって認証されるところでは、私たちは、仮りに 絶対確実な真知であったとしたときと同じように、
これを容易に受けいれ、これに固く依拠し、仮り に完全な論証であったとしたときと同じように、
まず疑わずに、これに基づいて推理し行動する。
一私たち自身と他人の恒常的観察が同じようだ といつも見いだしてきたものは、たとえ私たちの 知識の届く範囲内にこなくとも、ゆるぎなく規則 正しい原因の結果だと断定して当然なのである。
・こうした蓋然性は、絶対確実性にきわめて近 いので、もっとも明白な論証と同じように絶対的 に私たちの思惟を支配し、同じように遺漏なく私 たちのすべての行動に影響する。私たちは、自分 にかかわりのあるもので、こうした蓋然性と絶対 確実な真知とをほとんど、あるいはまったく、区 別しない。こういう根拠の私たちの信念は権信に まで高まるのである。〉(U−W−16−6)。
(3)経済論。著者は貨幣制度導入について のロックの説明をr最悪の議論の一つ」という。
しかしロックは貨幣制度の導入それ自体につい てアンビバレントな評価を示している。著者は
『利子・貨幣論』をなぜか本書で扱っていない が、そこでロックは高利子が産業活動を圧迫す るとして法定利子率を政策的に提示している。
これは農工の産業活動の奨励が神意にふさわし いものとの判断によるものである。貨幣はそう した基準に照して規制されるべきとのロックの 判断は、結果として資本主義の形成の根幹に なっている。だがそうした政策が仮りに神意の 実現にふさわしくないということが検証によっ て明らかになれば、その政策に固執するという ことはロックの立場ではない(8)。したがって ロックにおいては方法的に資本主義の見直しさ えも用意されているといってよい。
(4)宗教論。著者は「無神論」についてのロッ クの態度をキリスト教的平等原理からの例外であ るととらえている。その点は首肯できる。しかし、
著者も指摘するようにロックが無神論者を寛容の 対象から除く理由は、「人間社会の絆」を破壊する
というものである。ここでは、もし無神論者が
「人間社会の絆」を破壊しないということが経験的 に検証されれば、その理由は成り立たないことに なる。少なくともロックの蓋然性論はこの方向に 開かれている。その場合は、「人間社会の絆」を破 壊するものとのロックの前提が崩壊するだけでな く、キリスト教的前提そのものが問われることに なる(9)。この点についてはロックがキリスト教的 前提に必ずしもこだわることなく、例えば次のよ
うに述べていることが想起されなくてはならない。
〈ガルシラン・デ・ラ・ヴェガの『ペルー史』に あるように、無人島で二人の人の交易などの約束や 取引は、あるいはアメリカの森林でのスイス人とイ ンディアンのそれも、彼らに対して拘束力を持って いる。もっとも、その場合、彼らは相互に完全に自 然状態にいるのである。真実と約束を守ることは、
政治社会の成員としてではなく、人間としての人間 の義務なのだからである。〉(G−H−14)
著者は本書でロックの中にキリスト教的平等原 理を見い出し、それがロック思想に生かされて いるとの見解を示している。しかし、ロックの具 体的な社会=歴史像にはこれに収まりきれないも のがある。その矛盾は、ロックにおける原理と慎 慮との区別にとどまらず、それらの連関について ロック自身の蓋然性(確率)論を適用することに よって解決の方向がえられる。それは同時にロッ クのキリスト教的前提にはらまれる問題を解決す る端緒をなすものでもある。
現代が生かすべきものは、ロックのキリスト教 ではなく、全人類の保存という価値基準を持った この蓋然性(確率)論という方法であろう。ロック の蓋然性論は、多数決論に典型的に認められるよ うに、一回かぎりでなく再帰的=循環的な社会契 約としての意味を保持している(生。)。たしかにその 蓋然性(確率)論は古拙だというそしりはまぬがれ えない。したがって、その精緻化は必要であるに
しても、方法的枠組として継承すべきものをそれ は持っている。ロック没後300年にあたりロック思 想の普遍的意義を我々がいうことができるとすれ ば、これをおいては他にはないであろう。
注
(1)拙稿「契約論者としてのジョン・ロックー最近の ロック研究への批判的評価(1)一」、本論集、第 59号、1995;同「重商主義者としてのジョン・
ロックー最近のロック研究への批判的評価(2)
一」、同上、第60号、1996;同「植民地主義者と してのジョン・ロックー最近のロック研究へ の批判的評価(3)一」、同上、第61号、1996.
(2)ロックの蓋然性論の重視という点で、私はN.
ウッドと一致する(Nea ood,肪θ1bli i㏄of 伽汝θ 5朋マ05q吻∫肋5bofa15助rof物恥81 伽0θ血刀9〃㎞刀嗣θf5勧みηザ,Universityof California Press,1983)。ウッドは『人間悟性論』
第4巻におけるロックの『確実性Certainty』と 『蓋然性Probability』についての論述に止目 し、ここに、ロック哲学の核心を見る。「ロッ
クが導出した『人間悟性論』の実質的な結論は、
世論の法と不確実性によって支配される日常生 活の只中において、人間は思考と行為の基礎と して蓋然性の最も高い程度を求めて、理性を独 立的、批判的かつ方法的に行使すべきである、
というものであった。……ロックは、蓋然性と いう中心的な概念をもつ認識論を、市民的秩序 と経済的繁栄の基盤であるにちがいないと彼が 考えた寛容への議論を堅固にし強化するために 用いたのである。……つまり『人間悟性論』第 4巻はロックの社会観の本質的な構成に焦点を 向けているのである。」(pp.172−173)しかし 『統治論』と『人間悟性論』との間には「論理 的であれ何んであれ知的関連はない」(p.180)と いうウッドの見解は首肯しがたい。なお、ウォ ルドロンはこのウッドの著作に言及していない。
また、B.」.Shaph o,み。ゐaゐflf ■a必6br 8fηまア∫刀
5θF醸θθ励伽紐 ㎏勧41983.PrincetonU、P.は 参照されるべき研究である。
(3) 一ノ瀬正樹氏は『人格知識論の生成一ジョ ン・ロックの瞬間一』(1997年、東京大学出 版会)で、「ロックの人格論のなかで同意概念が 果す普遍的な機能jを次のように析出している。
r『自然法論』や『知性論』の生得説批判以 来のロックの経験論の底流には、認識という のは何かを探り求めそしてその何かに同意す るという実践によって確立するという、同意 概念を基軸とした着想が脈々とそして滔々と 流れ満ちていた。そこで注目された同意 (assent)は、……『知性論』第4巻第16章で扱 われる蓋然的知識に関して語られる同意だけで はない。およそロックにおいて生得説は認めら れず、すべての観念や知識は『現に知る』とい う実践によって確立する限り、そうした同意と は、確実とされる直感的知識や論証的知識など をも包摂する、きわめて根底的かつ基本的な次 元の同意であった。」(291ページ)
rこうした確認から直ちに原理的に出てくるの は、貨幣制度や国家権力への同意はあくまでも 自然法への同意、つまりそうした貨幣制度や国
家権力が自然法にかなっているという意味での 同意であって、貨幣制度や国家権力それ自体に 向けた端的な同意ではない、よってそれは差し 当たって同意されたにすぎず、そうした制度や 権力は原理的に安定していない、という論点で ある。……それゆえ、制度や権力が変容したな ら、再びそれが自然法にかなっているかどうか を絶えず探究していかなければならない。こう した意味で、制度や権力への同意は、決して固 定的で絶対的ではなく、本質的に差し当たって のものにすぎない。」(287ページ)
これらの解釈は首肯できる。しかし、「ロック 哲学とともに、理論と実践という区分を架橋しよ う」(p,v)というのであるならば、蓋然性論レベル でのロックの具体的政治経済像を視野の外におい て、「ロックは、原理的には、特定の所有財産を 支持してはいない」(247ページ)というだけでは、
「実践」への架橋としては不十分であろう。
(4)ジョン・ダンは、現代においてロックから継承 すべきものとして、政治的権威の理解に関する 契約論的アプローチをあげている。それは、
「人間性の深い両義性の中に信託の可能性と不 確実性を位置づけている」からである、という。
そしてダンは「政治社会の目的は信託を節約す るeconomizeのことである」と主張しているが、
しかし、その具体的方法は明示していない。
JohnDunn,WhatisLivingandWhatisDeadin
thePoliticalTheoryofJohnLocke?,inJ.Dunn,
配θψrθ加8んノf fo81泥θ5ρo刀鋤∫1f砿1鷺s8■5 1981−1989, Pol ity Press,1990.
(5)下川潔『ジョン・ロックの自由主義政治哲学』
(2000年、名古屋大学出版会)はロックの多数決論 について、「ロックの同意理論を制度改革や権力 制限の実践的武器として用いる場合には、それが 多数派の意志を過度に信頼している点に注意しな くてはならない。・一ロックの想定とは裏腹に、
各人の同意と『国民の同意』との間には予定調和 は成り立たないのである」(234ページ)という。し かし、各個人の同意と国民の同意とを結びつける 回路は、ロックの蓋然性論の中にある。
(6) 関谷昇氏は、『近代社会契約説の原理』(2003年、
東京大学出版会)において、「『全体』と『個』
の弁証法的総合の構図において、政治的全体性 に取り込まれない『解釈する自我』の不断の展 開が見出されたのである。……ロックにおいて この問題〔権力の制度化に伴う(個々人の)『原 子主義』化という問題〕を回避するとすれば、
それは道徳存在論と法の支配〔神の法=自然 法〕に立脚しながら、政治の領域における共同 行為を通して権力の連鎖を組み直していく、
個々人の自己解釈性に求められる。あくまでも、
その可能性が担保される限りにおいてのみ、
ロックの政治思想はその有効性を維持し続けて いる」(198−199ページ)と述べている。これは福 田株一氏の社会契約説の意義についての見解、
すなわち、明確に自然と区別された「政治社会の 根拠としての一回の社会契約に代るべき過程的 理解への手掛り」(福田『近代政治原理成立史序 説』、1971年、岩波書店、399ページ)を人間理性 にすえたとの所説と同一である。このr権力の連 鎖」の組み直し、あるいは、政治社会の根拠とし ての過程的理解はロックにおいては蓋然性論と
してある、というのが私の見解である。
(7)中神由美子氏は『実践としての政治、アートとし ての政治 ジョン・ロック政治思想の再構成 』(2003年、創文社)で、ロックの「第一の政 治学、即ち人々の自然的自由や平等を前提とする 正当性の問題を扱う政治学と、〈アートとしての 政治〉〈政治的慎慮〉に関する第二の政治学とが 絶妙に統合されている」(242ページ)こと、これが r自然のみならず人間までをも操作する対象と見 徹し、操作知・長衛菊をひたすらさせてきた20世 紀的な知のあり方、或いは政治のあり方から脱却 するための一助となり得る」(242−243ページ)と 述べている。ロックの第一の政治学と第二の政治 学の絶妙な統合を可能にする媒介はロックの蓋然 性論に求められるべきではなかろうか。
(8)下川氏は前掲書で、「もし市場経済が非所有者の 購買力を増し、いずれ所有権をも与えるのであ れば、この財産所有権論は自由尊重の立場と一
致することになるだろう。しかし、一市場経済が そのようにうまく機能しない場合には、各人の 自律を尊重する立場が、政治社会に対して所有 権の法的規制を要求し、諸個人の自律の増大を 促すべきである。これこそは、ロックの自立 テーゼの帰結であり、ロックが本来受け容れる べき結論である。」(198ページ)という。しかし 「所有権の法的規制」は『利子・貨幣論』の法定利 子率にすでに見られるし、市場経済がr全人類の 保存」に適合しない場合の見直しは、ロックの蓋 然性論の中に方法的に用意されている。
(9)下川氏は前掲書で、ロックの無神論評価について、
「無神論者を社会に受け容れるためには、理論的 な無神論者が実際には必ずしも社会の基本道徳に とって危険ではないことを認識するか、あるいは、
立法者である神を前提としない世俗的倫理学を構 築する必要がある」と述べている。しかしこの方
向は、ロックの蓋然性論の中に用意されている。
(10)下川氏の前掲書は、ロックの自由主義政治哲学 の基本原理を概念と正当化というレベルで解明 した上で、さらにそれをr世俗化し、平等にする 方向で検討」し、「より魅力的な自由主義政治哲 学へと修正する方向」を示そうとするものである。
「ロックの政治哲学から神学的基礎を取り去り、
なおかつ彼の概念や議論を尊重しそれを発展的 に活用するのが、ここで言う世俗化の方向であ る。他方、ロックの財産所有権正当化の議論に 一定の制約を加え、それによって彼の自由主義 政治哲学の基本原理を非所有者にも解放するこ と、これが平等化の方向である。」(p.五) この 下川氏の作業はすでに注記したいくつかの有益 な成果を生んでいるが、なお、前述のように ロックの蓋然性論の持つ方法的重要性を生かす 余地がある。
John LockeasaChristianEgalitarian
CritiqeofarecentLocke sstudy(4)
ITOH Hiroyuki
」ere皿yWaldr。n・sO・4五・鵬認五σ面 ア(2002,Ca皿bridge甑P・)intendst・exp1・retheCh「isti㎝
f。undati。ns。fL。cke・Segali慮i㎝ism・nabaisthatiss抑pathetict・L・cke sapPr・ach・ratleat n。tactivelyh。Stilet。theviewthatathe・ry・fequalitymightactuallyneedthe・1・gical f。undati。ns.Acc。rdingt。Waldr・n,L・ckeregardsmankindas pr・miscu・uslyb・mt・allsame advantages。fNature,andtheuse・fthesamefaculties (丁凧・伽 i5θ畠H−4)ands・explains bytheprinciple・fequalitythedifferencebetweenhusbandsandwives・maste「sandse「vants・
。wnerSandpaupers,fa皿ersandlab・rers,maj・ritiesand・ut−v・tedmin・rities・n・blesand c。㎜。nerS,Subjectsandmagistrate,Plantersandnative㎞ericans・andc・nquer・rsandvanguished aggreSSOrS in a jUSt WaL
But,L。ckedidn。tincludethedifferenceandtheinequality・fwives・paupersandatheists・etc・
inhiSthe。rysuccessfully.lthinkthatthispr・blemiss・1vedbyL・cke sthe・ry・fpr・bability・
BecauseL。cke・Sthe。ry。fpr。babilitypr・videstheenterprisewiththeepistem・1・gicalf・undati・n thatevaluateSap。1icyt。minimaizetheinequality・rthelaw・fnature・Waldr・nhasfailedto find。utthesignificance・fthepr・babilityinL・cke sphi1・s・phy・