この論文の目的は、中国の大量破壊兵器(WMD)の不拡散に関する政策(以下、WMD不 拡散政策と省略)が、協調と対立が絡みあう米中関係においてどのように展開したか、また その主要な背景について、できる限り朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とイランの問題に も言及しつつ、基本的な分析を試みることにある。
1 問題の設定
中国のWMD不拡散政策、北朝鮮およびイラン問題を、米中の協調と対立が交錯するダイ ナミックな関係と関連づけた分析という巨大なテーマの追求のためには、まずWMD不拡散 からみることが妥当なアプローチである(1)。なぜなら、北朝鮮やイランの核問題は、地域イ シューであるとともに、WMD問題の側面も同時に備えており、共通部分から分析すると全 体がみえやすいからである(2)。
北朝鮮とイランの核をめぐる問題はそれぞれ大きな地域安全保障のイシューであるばか りでなく、パキスタンやインドの核開発のほか、台湾問題までも加わって(Garver, 2006, 202 ページ)、互いに関連して動いてきた(3)。また、北朝鮮とイランの問題には、アメリカによる 体制変革の試みに対する両国の対策という面もあり、このほうが本質的だという意見もあ る。さらに、中国のWMD不拡散政策は、カザフスタンなどの中国の周辺諸国や、サウジア ラビアなどエネルギー供給国などとの関係とも関連してきた。中東をみると、2005―06年 の時点で、中国にとり、サウジアラビアは第1位、イランは第2位の石油供給元である。
このように、中国のWMD不拡散政策には、さまざまな要因が絡んでいるが、対米政策と しての性格がきわめて強い点を見逃してはならない(阿部純一、2006〔2004〕。末尾「引用文 献」参照。以下同様)。中国は、アメリカに正面から挑戦するつもりはほとんどないが、完全 にアメリカの言うとおりにするつもりもなく、米中関係は協調と対立が交錯することにな る。また、阿部純一が指摘したように、中国のWMD不拡散政策は、核戦力構築という、す ぐれて軍事的な問題とも深く関連していた。
つまり、中国のWMD不拡散政策は、問題の位置づけからみれば、ひとつの機能的(func-
tional)な問題というだけでなく、北朝鮮やイラクなどの核やエネルギー供給などの争点とも
かかわり、多国間、大国間の関係や核戦力構築など複数のイシューと密接に連動してきた(4)。 言い換えれば、中国のWMD不拡散政策は、グローバルな国際政治、中国周辺の地域的な国 際政治、中国の安全保障政策スキームという異なるレベルが重なるダイナミクスのなかで
動いてきた(5)。したがってWMD不拡散政策は、道徳的にも至上の使命というよりも、国家 の現実的な対外政策のひとつとして、他の課題と競合する側面をもつという仮説が成り立 つ。以下では、米中関係と中国のWMD不拡散政策の絡みを、グローバルなレベルにおける WMD不拡散レジームとの関連を中心にみていき、北朝鮮とイランという地域的問題も議論 する。
2 中国とWMD多国間レジーム―中国の一国主義と米中関係
中国のWMD不拡散政策とWMD不拡散レジーム(6)のかかわりの主な特徴は何か。ここで は、鈴木祐二(2004)による研究をもとにして議論を始めよう。鈴木は、多国間レジームに おける中国のWMD不拡散政策の主要な特徴として、一国主義の強い傾向と、それが米中関 係と深くかかわるという2つの結論を導いた。
第1に、中国が一国主義的な行動をとってきたというのは、中国が、WMD拡散防止の多 国間輸出管理レジームに一括してではなく、選択的に関与し、利用してきた点からの結論 である(鈴木、2004、207―208ページ)。中国は、核兵器不拡散条約(NPT)、化学兵器禁止条 約(CWC)、生物兵器禁止条約(BWC)、包括的核実験禁止条約(CTBT)については、締約 国・署名国となっている。原子力供給国グループ(NSG)には、2004年5月加盟した。しか し、オーストラリア・グループ(AG)、ミサイル技術管理レジーム(MTCR)、ワッセナー・
アレンジメント(WA)には参加していない。しかし、ザンガー委員会だけには参加した(7)。 そして、中国は自主的なかたちで国内法の整備を進めてきた。中国のWMD不拡散政策は、
いくつかのレジームへの参加・不参加を自主的に決め、WMDの管理もレジームによるので はなく、中国政府による自主的な管理という側面が強い、というのが鈴木の見解である。
第2に、鈴木は、中国のWMD不拡散政策は、米中関係という二国間関係のなかで展開し てきたと結論した。このアプローチは、中国がMTCRのレジームに加わっていないため、
アメリカ政府が進めた面もあり、ミサイル不拡散の分野では、1988年から89年にかけて、3 つの覚書からなる米中宇宙貿易協定を結び、中国にMTCRの基準遵守を認めさせた。これ は、単にアメリカが中国に多国間レジーム参加をうながしたというよりも、そのころ進ん でいた中国のイランに対する核協力を阻止する意図が絡んでいた。
その後アメリカが数度にわたって中国のMTCR基準の違反行為を指摘し、あるいは経済 制裁を課し、結局2002年8月、中国は「ミサイルおよび関連品目・技術輸出規制条例」を制 定した。
全体として、中国は、アメリカの圧力もあり、WMD不拡散レジームへの関与を進めたが、
全面的参加ではなく、米中では協調と対立が並存したと言える。以下では、このWMD不拡 散をめぐる米中の協調と対立を、時系列的にみてみよう。
3 WMD不拡散をめぐる米中の協調と対立
ひとつの手がかりは、2003年12月に発表された『中国の拡散防止政策と措置』白書の発 表である。この白書は、WMD不拡散が独立したテーマとなった白書としては最初のもので
あった。10月の曹剛川国防部長(国防相)の国防部長としては7年ぶりの訪米と12月の温家 宝国務院総理(首相)の初訪米というタイミングでの発表であったことから、鈴木は白書の 発表が米中関係を計算に入れたものと推定している(鈴木、2004、238―241ページ)。
しかし、この白書は、中国の指導者訪米だけのために発表されたのではなかった。それ は、2003年9月にCTBTの発効促進会議が開かれていただけでなく、2005年には、5年ごと のNPT運用検討会議が予定されていたことから推定できる。CTBTの発効促進会議には、ア メリカは参加しておらず、白書という形での中国による多国間WMD不拡散レジームの強調 には、間接的に対米批判を行なうとともに中国の国際的なイメージを改善する意図があっ たと言えよう。そこで、WMDをめぐる米中関係の展開をもう少し詳しくみてみよう。
2001年のブッシュ米政権成立以後、12月にワシントンで、また2003年1月と7月には北京 でボルトン国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)と王光亜外交部副部長(外務次官)の間 で軍備管理と不拡散の問題が話し合われていたように、不拡散は米中間の重要な議題のひ とつとなっていた。この流れは、2002年に中国がWMD不拡散関連の法律や規定を次々に公 布し、対外的にも国連小火器議定書にも署名するという結果をもたらした。
2002年10月25日に行なわれた米中首脳会談では、多国間軍備管理、WMDの拡散防止な どに関する外務次官級の協議の開始も合意された。また、北朝鮮の問題では、非核化に向 けた協力の強化で合意し、またその核兵器開発問題を平和的手段で解決すべきであるとい う点でも一致した。2003年2月訪中したパウエル米国務長官は、胡錦濤(党総書記)や江沢 民(国家主席、中央軍事委員会主席)らと、イラクに対する武力行使を容認する国際連合安全 保障理事会の新決議案と、北朝鮮の核問題における協力について意見交換を行なった。中 国側は、米朝二国間の早期直接対話という従来の立場を主張し、米中間の意見の相違は解 決しなかった。
まとめると、中国のWMD不拡散政策は、一方的な行動というよりも、ほかのアクターと の相互作用のなかでのもので、特に米中関係と密接に関連し、しかもアメリカからの圧力 に対応した性格があったと言える。しかし、以上のプロセスだけからは、米中の協調と対 立という矛盾をはらんだダイナミズムは十分にはみえてこない。そこで、WMD多国間レジ ームをめぐる米中関係をもう少しさかのぼってみてみよう。
WMDをめぐる米中の協調と対立という錯綜した関係は、中国について言えば、中国が、
不拡散レジームにはアメリカ一国の利益を守るという独善的な目的があるという見方をと っていたところにも理由のひとつがある。それは、軍備管理と軍縮に関する中国のハンド ブックである『軍備控制与裁軍手冊』(『軍備管理と軍縮ハンドブック』)から読みとることが できる。たとえばこのハンドブックは、ミサイル不拡散レジームであるMTCRの位置づけ について、米ソが激しく対立した1960年代に、米ソは開発途上国の一部にそれぞれミサイ ル技術を広め、1980年代には30ヵ国余りが弾道ミサイルを配備するようになったが、1980 年のインドによる人工衛星打ち上げ成功後、アメリカ政府はミサイル拡散の抑制を必要と 考え、1982年11月にレーガン政権はミサイル拡散のコントロールを戦略防衛構想(SDI)に 組み込むことにしたもの、と当時の状況を分析していた(『軍備控制与裁軍手冊』、382ページ)。
1980年代の中国は、1986年3月、「中国人民による世界平和維持」大会において中国代表 が述べたように、WMD不拡散政策では、米ソという最大の核兵器保有国の核実験停止、核 兵器の生産と配備の大幅削減と廃棄が、すべての核保有国が参加する軍縮の国際会議開催 の前提であると主張していた。つまり米ソの核軍縮がなければ中国も多国間交渉には応じ ないという立場であった。1989年5月の国連軍縮委員会における中国代表の演説もほぼ同じ 骨格である。なお、1988年には、外交部長の銭基 が国連で演説し、核軍縮のほか、通常 兵器の軍縮、宇宙軍備競争の停止(8)、化学兵器や海軍の軍備管理と軍縮について述べた。
しかし、1991年までには、米ソの核軍縮を求めてきた中国の主張は軟化し、中国は既存 のWMD不拡散をめぐる多国間レジームに徐々にかかわるようになった。1995年11月の
『中国の軍備管理と軍縮』白書の発表は、この年5月のNPTの無期限延長の決定が背景にあ り、中国の既存のWMD不拡散レジームへの積極的関与をアピールするものとなった。また この白書は、宇宙空間における軍備競争に反対し、さらに1998年の『中国の国防』(国防白 書)も宇宙について詳細に論じたように、中国の宇宙空間への関心は高まっていった。
このような既存のWMD不拡散レジームへの参加はその後も続き、1997年4月に外交部に
「軍控司」(軍備管理軍縮局)が新設され、10月にはザンガー委員会に加盟した。1999年3月 のジュネーブ軍縮会議における江沢民演説は、最高指導者がWMD不拡散政策の基本方向を 示したもので、米ロを批判し、国連の機能向上を主張しながら、NPTが国際的核不拡散体制 の基礎であり、核軍縮プロセスを進める前提条件であるとし、核兵器不拡散と核兵器の全 面撤廃は互いに補完しあうものであるとして、既存の不拡散体制を認めた(9)。
一方、中国は1996年7月に核実験を行なった後、核実験の暫時停止を宣言した。中国の核 実験は1995―96年の台湾海峡危機における中国の台湾に対する圧力であったと同時に、核 不拡散レジームの強化の流れと関係していたと思われる。CTBTは、それまで交渉が難航し ていたが、ついに1999年9月、国連総会で採択された(10)。CTBTは、国際監視制度(IMS)、 協議および説明、現地査察、信頼醸成措置から構成される検証制度を規定した。中国は台 湾問題による米中関係の悪化を望まず、WMD不拡散レジームへの参与を続けることになっ た。そして、それは核開発を進めていた北朝鮮に対しても無言の圧力となったであろう。
1990年代前半におけるWMD不拡散政策の積極推進へ、という転換の背景には、1989年の 天安門事件による国際的孤立がある。中国は国際社会復帰のために、対外政策も現実的な 傾向をみせ、既存の国際秩序への適応という態度を示した。既存のWMD不拡散レジームへ の参加はそのひとつであった。1993年の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム
(ARF)参加決定も、このような背景から理解できよう。それまで、中国は同盟締結や多国 間枠組みへの参加には消極的であった。このような努力は、1993年11月のシアトルにおけ るアジア太平洋経済協力会議(APEC)非公式首脳会議に江沢民が出席し、アメリカなど主 要国首脳との会談成功に結実した。
米中などの二国間では首脳会議が困難と考えられていたため、APECという多国間枠組み を利用した成功は、多国間枠組みが中国にとっても利益があるという学習効果をもたらし た(11)。中国の対外政策では、WMD多国間レジーム参加も、至上の道徳的命題というより、
このような多国間枠組みのひとつとして位置づけられていた側面が強かった。
中国のWMD多国間レジームへの参与は、さらに続いた。すでに述べたように、2004年5 月に中国は、NSGに加盟した。NSGは、核兵器関連の輸出管理に関する紳士協定で、NPT非 締結国に対する核関連輸出管理レジームである。2005年9月1日には、『中国の軍備管理、軍 縮と不拡散の努力』白書が発表され、それまでの中国のWMD不拡散の活動が紹介された(12)。
2005年は中国にとっても不拡散問題が大きな外交課題のひとつとなった年であった。中
国の主要なシンクタンクのひとつである中国現代国際関係研究院の報告書は、2005年には 国際的なWMD不拡散レジームの拡大のトレンドとアメリカの核抑止能力強化が矛盾し、そ のためにNPT交渉の中断、ジュネーブ軍縮交渉の行き詰まり、核分裂物質原料の規制や宇 宙の軍事化などに関する議論の見送りやCTBTの挫折に至ったのであり、それらはアメリカ のせいであるとした。9月には、CTBTの発効促進会議が開かれ、早期の署名と批准を求め る要請を主な内容とした宣言が採択されたが、前回の2003年同様、アメリカ政府はこの会 議に参加していなかった。
またこの報告書は、不拡散の「死角」として宇宙があり、アメリカが防御的な手段〔ミサ イル防衛(MD)のことであろう〕で現在の時点における宇宙の平和利用を確保し、攻撃的兵 器によって将来の宇宙の平和利用を確保しようとしていると分析した。
さらに、この報告書は、アメリカは現有の不拡散メカニズムがなまぬるいとして、武力 による不拡散を進めようとしてきたとみて、特に拡散防止構想(PSI)はアメリカの武力に よるユニラテラル(単独主義的)な動きの典型であると厳しく批判した(『国際戦略与安全形 勢評価 2005―2006』、2006、258―265ページ)。これらは、表現こそ異なるが、不拡散政策の 進展を中国も願うが、邪魔をするのはアメリカという規定をする点では、おおよそ2004年 12月に発表された『国防白書』と同じような骨格と言える。WMD不拡散レジームへの参加 という点では、中国はPSIへの参加に消極的であったように、全面的ではない、選択的な関 与が続いたと言える。中国はPSIの原則には賛成したが、参加はしなかった。
WMD不拡散政策は、その後発表された関連する白書でも数多く言及された。そこでは間
接的な形の対米批判を読みとることができる。2005年12月に発表された『中国的和平発展 白書』(『中国の平和発展の道』)は、不拡散政策がもつべき基本方針として「公正性、合理性、
全面性、均衡性の原則」を強調した。1995年11月に発表された『中国の軍備管理と軍縮』
白書も使ったこの表現は、既存のWMD不拡散政策をそのままでは認めないという意味に解 釈できよう(13)。間接的だが、アメリカのイニシアティブに対する不満を述べているわけで、
国際的なWMD不拡散政策が不合理で、なかなか進まないのもアメリカのせいであると言っ たと考えられる。2006年12月に発表された『国防白書』は、CTBTの履行の措置として、人 民解放軍総装備部における弁公室の設立、中国国内での11ヵ所の監視観測所の建設承認、
管理規定や実施細則の制定、ハイラルと蘭州での地震学的監視観測所、北京、広州、蘭州 の3ヵ所での放射性核種監視観測所の建設計画を紹介した。またこの白書は、中国による輸 出管理法規体系の整備や、輸出審査の厳格な執行ぶりを強調した。
要するに、中国はアメリカを重視しながらも、その主導による国際秩序には満足せず、
アメリカも強い影響力をもつWMD不拡散レジームへの参加を通して逆に中国の影響力を増 し、間接的なかたちでアメリカに対する立場を強めようとしてきたと言えるであろう。
次に、WMDという機能的な問題が、中国が関係する地域イシューという性格もあわせも った北朝鮮とイランの問題を簡潔に議論する。
4 北朝鮮とイラン
日本では、北朝鮮やイランの核問題は、主に地域の安定の問題としてとらえられがちで、
多くはそれぞれ個別に議論が進められてきた。しかし、中国が絡むWMD不拡散とアメリカ の対外政策という異なる構図からは、かなりニュアンスの異なる分析を行なうことができ る。つまり、アメリカは主に北朝鮮、イラン、パキスタンなどへの核とミサイルの拡散を 重視し、これらの国々と中国との協力を阻止しようとした。これは、1980年代から本格的 にみられたことだが、2001年の「9・11」テロ事件以後、アメリカとパキスタンの関係は著 しく改善された。ここでは、北朝鮮とイランの事例を、主に2001年以後に限って簡潔に議 論する(参考文献は省略する)。
(1) 北朝鮮
2003年8月に初めて開かれた朝鮮半島問題をめぐる6者協議は、中国の積極的な斡旋があ ったから実現したと言われている。2001年のブッシュ米政権発足当時の厳しい対中態度は、
「9・11」以後にアメリカ政府が対テロ対策を優先すると、かなり軟化した。ただ、それは 一面にすぎず、中国の安全保障担当者からみれば、アメリカの単独主義とその尖鋭な表わ れである先制攻撃は大きな懸念の材料となっていた。それとともに、これには中国の国内 政治の転換が深く関係していた。江沢民は米朝二国間交渉を主張して、中国が関与しない 立場をとっていたが、2002年11月の第17回中国共産党全国代表大会(党大会)で誕生した 胡錦濤政権は、朝鮮半島問題への関与を進めるようになった。
朝鮮半島をめぐる対外環境をみれば、2003年3月に始まったイラク戦争が5月にはブッシ ュ大統領によって終結が宣言されたばかりであり、6者協議はアメリカが次に北朝鮮をすぐ には武力攻撃しないという間接的な意味ももっていた。しかし、泥沼化したイラク情勢に アメリカがはまり、北朝鮮は、アメリカによる武力介入がないとおそらく判断し、2005年2 月、核兵器保有を宣言した。これに対して、2005年9月、アメリカ政府が金融制裁を実施す ると、北朝鮮は2006年7月にミサイル発射実験を、また10月に核実験を行なった。
2006年7月のミサイル発射実験以後、国連安保理では、制裁条項を盛り込んだ制裁決議案 をめぐり駆け引きがあり、北朝鮮に対する制裁決議採択で中国は、制裁を義務づけない内 容に弱めることに成功した。中国は、決議採択に拒否権の発動によるアメリカとの対決を 避けながら、北朝鮮への国際的な反発を緩和するという戦術をとったのである。
2006年10月の北朝鮮の核実験に対しては、胡錦濤が北朝鮮に対して国際社会の強烈な反 応を知らしめる必要があると発言して北朝鮮を公然と批判するなど、態度の硬化が目立っ た。このため日本では、中朝関係に変化発生かとの憶測もなされた。ミサイルや核実験の 前に中国は北朝鮮に実験を思いとどまるよう求めたが受け入れられず、また朝鮮戦争54周
年記念行事参加のため訪朝した副首相に金正日総書記が会見しないという外交上の礼儀に 反した行動に対して、胡錦濤が激怒したとも伝えられている。確かに、10月14日の国連安 保理の北朝鮮制裁決議には、中国も賛成にまわった。しかし、日本が望んだ国連憲章第42 条の軍事的措置は盛り込まれず、非軍事的制裁に限定された。制裁の緩和には、中国の働 きかけがあった。ただ、2006年12月に発表された『国防白書』は北朝鮮を批判するととれ る表現で朝鮮半島情勢が語られていた。
しかし、中国には、北朝鮮に対する支持の完全停止は、北朝鮮による絶望的戦争を招き かねないという懸念があった。中国にとり、北朝鮮のWMD問題は、不拡散レジームという よりも、自国の安全保障に直結する地域の問題としての性格が強かったのである。
(2) イラン
イランの核開発をめぐる問題は、2002年8月、核関連施設の秘密建設が明らかになり、
2003年6月の国際原子力機関(IAEA)理事会が、イランに対してIAEAとの完全な協力、早 期また無条件の追加議定書の締結および履行を求める議長総括を発表した。9月、IAEA理 事会が非難決議を採択すると、10月にはウラン濃縮の一時停止にイラン政府が合意した。
しかし、2004年にはイランの核開発の継続が明らかになり、9月に再びIAEA理事会が非難 決議を採択した。これらは2005年8月のアフマディネジャド政権の発足以前のことである。
アフマディネジャド大統領は、就任直後にウラン転換作業再開をIAEAに通告し、9月には IAEA理事会がついに国連安保理付託を警告する決議を採択した。
それにもかかわらず、イラン政府は強硬な態度をくずさず、2006年1月にはウラン濃縮実 験の再開をIAEAに通知した。2月にIAEA理事会は国連安保理付託決議をついに採択すると、
イランは追加議定書の暫定的適用を中止して、ウラン濃縮実験の作業を準備し始めた。3月 には、国連安保理でイランに対してウラン濃縮関連の活動停止を要求する議長声明を採択 した。それでもイランは活動をやめないため、国連常任理事国5ヵ国とドイツは、「包括的 見返り案」と呼ばれるウラン濃縮の全面停止をすれば安全保障対話や経済協力を進めると いう妥協案を示しつつ、7月には国連安保理が制裁を警告する決議をついに採択した。イラ ンは見返り案の交渉継続を表明しながらも決議を拒否し、核開発を継続した。
このような流れのなかで、中国政府は、たとえば2006年の議長声明にみられるように、
アメリカが制裁決議の採択を主張したのに対して、議長声明というより穏健な方法による 対応を国連安保理にとらせることに成功した。中国のこの態度をイラン寄りとみることも できるが、必ずしもイランを強く支持してアメリカと鋭く対立したわけでもなく、対話を 通した解決を求めたというのは、中国への原油供給元として第2位のイランが武力衝突など によって混乱することを望んでいないという側面が強い。
イランと中国の関係は実利が絡み、2004年11月に李肇星外交部長がイランを訪問したと きに、イランの核問題は国連安保理ではなく、IAEAの枠内で解決すべきと主張して、イラ ンの立場を擁護すると、イラン側は中国への天然ガス供給の覚書に調印し、さらに中国に 油田開発の権益も与えた。ただ、一方では、中国は石油輸入の供給源多様化を進め、アフ リカからの石油輸入を増大させた。
しかし、2006年6月の上海協力機構(SCO)の首脳会議にオブザーバーとして出席したア フマディネジャド大統領の強烈な反米演説に中国は同調せず、イランの正式加盟も見送ら れた。2007年1月にイランのラリジャニ最高安全保障委員会事務局長が訪中したときも、胡 錦濤は、中国は核問題に対してイランが真剣な対応をすることを希望すると述べたように、
決してイランを支持していなかった(14)。米中関係の安定だけでなく、中国社会や経済の混 乱を招きかねない石油供給の断絶や価格の混乱を懸念しなかったとは言えないであろう。
中国にとり、イラン問題はWMD不拡散とともに、エネルギー供給という側面も強かった。
5 WMD不拡散レジーム参加と米中関係
中国における米中関係に関する見解は多様で、互いに矛盾する面をもっていた。李而炳
(軍事科学院政治委員、少将)が進めた共同研究によれば、中国におけるアメリカに対する見 方は、おおよそ3つに分けることができる(李而炳、2004、329―332ページ)。つまり、アメリ カを脅威とみるグループ、敵でも友でもないとみるグループ、また戦略的パートナーであ るとみるグループで、主流は敵でも友でもないとみるグループであるという。李而炳の研 究は、中国においても対米政策をめぐる意見の分岐の存在を示唆している。
米中関係に対する相矛盾する見解は、アメリカが主導権を握る多国間レジームへの中国の 参入についての見解にも大きく影響した。2000年代におけるWMD不拡散政策をめぐる中国 の政策決定の背景には、中国がWMD不拡散レジームだけでなく、世界貿易機関(WTO)加 盟(2001年)を含む、包括的な多国間レジームへの参加を進めた時期であったということが 決定的に重要である。WMD不拡散レジームは重要ではあるが、問題のすべてではなかった。
王逸舟(中国社会科学院世界経済と政治研究所)は多国間枠組みこそは、いわゆる平和的発 展(平和的台頭)の最も重要な手段のひとつであると積極的な議論を展開した。彼は、多国 間枠組みへの積極的な参加は、中国が大国らしさを示すよい機会であるとともに責務であ るという議論を展開した。WMD不拡散について言えば、国連安保理の一国として、アメリ カのミサイル防衛(MD)の推進も、また核拡散も認めるわけにはいかない(王逸舟、2003、
274ページ; 王逸舟、2006)ということになる。
李而炳は、多国間協力を通しての米中の共通利益の追求や共通認識の強化と、多くの 国々の力を利用してアメリカの単独主義とバランスをとる政策を主張した。そしてより具 体的には、米中両国の間で重大な利益が交錯するが一致はしない地域的なホット・イシュ ーに対する多国間協調を積極的、主導的に進めて、共通認識を拡大するよう提言した。6者 協議はこのひとつの戦術であり、中国の「責任ある、成熟した」大国イメージを作り上げ ることに有利であるという計算があった(李而炳、2004、335ページ)。
このような王逸舟や李而炳の議論は、逆に言えば中国国内において多国間レジームへの 参加促進に対する深刻な懸念が存在したことを示唆している。当然、それは安全保障の面 からの懸念であったであろう。
だからこそ、中国社会科学院の張貴洪は、米中間の安全保障上の相互依存を深めるため、
経済だけでなく、対テロ対策やWMD不拡散で対米協力を続けるべきだとした(張貴洪、
2005、34ページ)。一方、中国国際問題研究所の潘振強(人民解放軍の少将を退役)は、中国 のWMD不拡散政策にもかかわらず、アメリカがWMD保有を続け強化するから、中国自身 の軍事力の近代化が必要だと述べ、WMD不拡散レジーム参加は軍事力近代化の正当な理由 となると強調した(潘振強、2006。また、王逸舟、2006)。彼らの議論から、中国が既存の WMD不拡散レジームへの関与をめぐる議論がいまだに沈静化していないことが推測できよ う。同様に、北朝鮮やイランをめぐる意見も分裂していておかしくない。
確かに、中国のWMD不拡散政策は、レジームの全面的容認ではなく、選択的な関与とし ての性格が強い。しかし、長期的な流れをみると、NPTレジームの実効性に不満をもつアメ リカが設立したいくつかのレジームには、徐々に参加するようになった。このことから、
中国のWMD不拡散政策に表われる一国主義的傾向は比較的弱いと言える。
しかし、中国の積極的なWMD不拡散政策と対米政策との間にリンクがあるという前提は、
実は自明ではない。阿部純一はひとつの見方として、2001年に訪米した胡錦濤(当時、国家 副主席)がアメリカ政府からWMD不拡散政策の推進を強く求められ、江沢民(当時、党総 書記、国家主席)も、それまでのWMD不拡散政策を対米政策のテコにしてきたやり方をや めて、両者を切り離したという説を紹介した。また、阿部は、中国のWMD不拡散政策が対 米政策と密接にリンクしてきたという、相反する見解も紹介した(阿部、2007)。
しかし、繰り返しになるが、当時の中国の政策決定者や分析者たちが直面したのは、
WMD不拡散レジームだけではなく、WMD不拡散レジームがその一部であるさまざまな既 存の多国間レジームへの態度を、それぞれにだけではなく、全体としての利害を計算する という巨大な問題であった。そこでは、対米関係はもちろん考慮されるが、それはあくま でアメリカの懐に飛び込み、また同時に中国の国際イメージを改善するという性格が強く、
その結果、外部からは明確で強い因果関係を特定できにくいものであった。しかし、多く の白書に繰り返し表われる間接的な表現からも、リンクは明らかに存在し、切り離されて も戦術的な意味合いが強いという仮説が成り立つ。
ただ、北朝鮮やイランの問題において一辺倒にならない中国の立場は、それぞれ周辺の 安定やエネルギー供給との関連もあったが、同時にアメリカの単独主義(体制変革の試みを 含む)を多国間で抑えようとする背景もあった。しかし、周辺の安定やエネルギー供給、単 独主義の抑止という複数の目標はしばしば優先順位を争い、また事態の推移は不確実性が 強く、明確な態度表明がもたらしかねない米中正面衝突や対米完全屈服もともに選択でき ないものであった。
したがって、多少言い過ぎだが、北朝鮮やイランに関連する中国の政策は、交渉技術や 言辞をめぐるいわばマージナルな分野にほぼ限られてきた。しかし、中国の洗練された対 外戦略もあって、中国の台頭を強く感じる国々は、これらの問題における中国の影響力を 大きく見積もる傾向が強かった。イランはともかく北朝鮮は、中国の衛星国ではなく、中 国に対する自律性を追い求めてきた事実は一般には十分に認識されなかったため、中国の これらの問題における役割が十分に理解できなかったとしても不思議はない。中国にとっ ても、期待は歓迎できるが、過大だと失望を招くし、貢献しても屈服とみなされる危険が
ある。
まとめると、中国のWMD不拡散レジームに対する態度には、協調と対立が交錯する米中 関係との関連が明らかに存在し、そのために参加は選択的であるが、国際的公共財としての 性格が強いと広く考えられたこのレジームへの参加によって、中国の国際的イメージの改 善や軍事力近代化の正当性を得るという観点から、徐々に参加の度合いを強めたという背 景があった。しかし、北朝鮮問題などが示すように、このレジームは必ずしも中国にとり十 分に歓迎できるものではないが、完全に中国の利益になるレジームも他になく、孤立より はマイナスが少ないレジームへの参加拡大を進めるほかなかった(王逸舟、2003、279ページ)。
なお、伝統的なWMD不拡散レジームが、宇宙兵器の拡散にみられるように、先端的軍事 技術の少数の国の独占による国際秩序維持という機能を十分に果たさなくなったという議 論から、中国のWMD不拡散政策を分析することもできよう。また、中国に対する国際社会 のイメージ改善が、米中間の安全保障のジレンマを緩和できるという理論的議論もすでに あるが、これらは別に論じたい。
(1) WMDに関する先行研究では、納家正嗣・梅本哲也の研究のほか、日本国際政治学会とアジア政 経学会の定期刊行物や研究発表、『東亜』や『国際問題』などを主に参照した。
(2) 日本でもWMDに対する関心は強い。日本国際政治学会(2006年10月13―15日)の安全保障分 科会では、「大量破壊兵器の不拡散体制と国際秩序」(責任者:梅本哲也)がテーマとなり、浅田正 彦、佐藤丙午、秋山信将の3氏による報告の後、黒澤満、加藤朗によるコメントがあった。また、
アジア政経学会全国大会(2006年10月28―29日)では、共通論題2「アジアの核開発と拡散防止 レジーム」(責任者:安田淳)が設けられ、阿部純一、平岩俊司、伊藤融、立山良司の4氏による 発表があった。
(3) 1992年9月、アメリカ政府が台湾にF-16戦闘機の供与を発表すると、中国はイランへのM-11ミ サイル供与を進め、さらに原子力発電所の建設計画にも署名した。しかしその後、中国はこの計 画を破棄した。これは中国への最恵国待遇に反対する米議会の反発を恐れたためとも考えられる。
2006年のアメリカによるインドの核開発容認も、中国を牽制する意味がこめられていたと推定さ れている。
(4) 政策決定過程からみれば、人民解放軍を含む複数の組織や官庁などもかかわる。これも重要なテ ーマだが、省略する。また、指導者の世代交替も北朝鮮などへの中国の態度の変化と関係してい る。朝鮮戦争の経験者や北朝鮮の指導者と個人的に親しい世代とそれ以後の世代では、北朝鮮へ の思い入れが異なる。
(5) ほぼこの立場に立った、地域軍備管理に関する優れた分析として、夏立平(2002)がある。
(6) WMD不拡散レジームとは、WMD不拡散をめぐる多国間の原則、規範、手続きなどの集合体で、
たとえば核兵器不拡散条約(NPT)、包括的核実験禁止条約(CTBT)など、と定義しておく。この 論文では、NPTなどの個々のものとともに、これら全体の集まりのこともまとめてWMD不拡散レ ジームと呼ぶ。
(7) これらのレジームへの参加・不参加の状況は、SIPRI年鑑(2006年)の「多国間の兵器と技術移 転管理レジームのメンバーシップ」と題する表(776ページ)でもわかる。
(8) 1985年10月、 小平はマダガスカル大統領との会見で、「スター・ウォーズ計画」(米国のレー
ガン政権が進めたSDI)に反対すると述べたことがある。彼によれば、「スター・ウォーズ計画」
は軍備競争の質的エスカレーションで、軍備競争はコントロールできないところに至ってしまう
と警告した。
(9)「新安全保障観」というコンセプトが発表されたのも、このときである。
(10) 条約発効の条件として、発効要件国が定められ、中国は署名したものの、批准していない。
(11) 主にコンストラクティヴィズムの観点から学習や社会化に関する議論は多いが、この観点から中
国のWMD不拡散政策を分析したものとして、周宝根(2003)がある。
(12) この白書の公表時に、外交部軍備管理軍縮局長であった張炎が5項目の提案を行なっているが、
スペースの関係上、省略する。
(13) この表現は1991年、中東の軍備管理について国連安保理常任理事国5ヵ国が協議した際に、中国 によってすでに使われたらしい。
(14) ここでは、中朝、中イ関係をみてきたが、北朝鮮とイランの関係も軽視できない。1980年代後 半、北朝鮮によるイランへのスカッド・ミサイル輸出以後、両国の核とミサイルの協力が進んだ。
2006年に両国の核問題が国連安保理で取り上げられると、両国の外交提携も進められた。しかし、
イラン政府指導者は、北朝鮮の核問題の外交交渉による解決を望むと発言するなど、外交的な接 近はアメリカに対する共同の軍事対決を意味していない。今のところ、両国の問題はWMD不拡散 政策の側面を強くもつ個別の問題として展開し、問題間の関連はあまり強くない。
■引用文献
(日本語文献)
阿部純一(2007)「米中関係における大量破壊兵器拡散問題:アメリカの対中経済制裁を中心に」(未発 表論文、日本国際問題研究所の研究会報告論文)。
―(2006)『中国と東アジアの安全保障』、東京:明徳出版社、第6章「中国の大量破壊兵器不拡散 への対応:米中関係からの視点」、180―209ページ。初出は霞山会(編)『中国研究論叢』第4号
(2004年7月)。
鈴木祐二(2004)「中国」、浅田正彦(編)『兵器の拡散防止と輸出管理―制度と実践』、東京:有信堂、
227―244ページ。
(中国語文献)
王逸舟(2006)「和平発展会談的中国国家安全―一項新的議程」『国際経済評論』第9―10期。
―(2003)『全球政治和中国外交』、北京:世界知識出版社。
夏立平(2002)『亜太地区軍備控制与安全』、上海:上海人民出版社。
周宝根(2003)「中国与国際不拡散機制的一種建構主義分析」『軍備控制研究与進展』第1巻第1号、24―
29ページ。
中国現代国際関係研究院(編)(2006)『国際戦略与安全形勢評価 2005―2006』、北京:時事出版社。
張貴洪(2005)「美印戦 伴関係与中国―影響和対策」『当代亜太』5月、28―34ページ。
潘振強(2006)「試論国際制止大規模殺傷性武器拡散及中国的対策」『世界経済与政治』第8期、1―13ペ ージ。
劉華秋(主編)(2000)『軍備控制与裁軍手冊』、北京:国防工業出版社。
李而炳(主編)(2004)『21世紀前期中国対外戦略的選択』、北京:時事出版社。
(英語文献)
Garver, John W.(2006)China and Iran: Ancient Partners in a Post-Imperial World, Seattle: Universiry of Washington Press.
*
[付記]未発表論文の利用を快諾していただいた阿部純一氏に心より感謝する。
あさの・りょう 同志社大学教授