今日の話題
272 化学と生物 Vol. 51, No. 5, 2013
コムギの種子休眠性を制御する遺伝子
MFT 遺伝子の発芽抑制機能
コムギは,うどんやパンなど私たちが食べるさまざま な食品の原材料として世界中で広く利用されている作物 である.この作物の生産上の大きな問題点として,穂発 芽による大規模な被害が発生しやすいということが知ら れている(図
1
).この被害は,収穫時期が梅雨などの
雨の多い季節と重なる日本などの国で特に問題になる.穂発芽は,種子の休眠が弱いために,降雨などにより種 子が収穫前に発芽してしまう現象である.穂発芽する と,胚乳に蓄えられたデンプンが
α
アミラーゼにより 分解されてしまうため,穂発芽したコムギからひいた小 麦粉は,糊状にしたときの粘度が上がらないなど加工適 性が劣化,良質なうどんやパンが作れなくなってしま う.この穂発芽を防ぐには,強い休眠性をもち雨にぬれ ても発芽しないような品種を開発する必要がある.コム ギの休眠性の強さは未知の複数の遺伝子によって調節さ れており,もし,これらの遺伝子が明らかになれば,DNAマーカー選抜法などにより強い休眠性をもつ品種 をより簡便に開発すことができる.こうした理由から,
筆者らは,コムギの種子休眠の強さを決めている遺伝子 の探索を試みてきた.そのなかで,最近,
( ) 遺伝子がコムギの休眠制御に重 要な役割を果たしていることを見つけたのでここで紹介 する(1)
.
コムギは異質6倍体でゲノムサイズも17 Gbpと大き くいまだゲノム配列が決められていない最後の主要穀物 なため,よく用いられるマップベースクローニングなど の手法による遺伝子単離が,非常に難しい.そこで,筆 者らは,発現解析手法により休眠制御にかかわる遺伝子
を絞り込めないかと研究を始めた.解析のために注目し た現象は,コムギ種子の休眠の強さが種子発達過程の気 温に大きく影響を受け,登熟(開花・受精してから種子 が成熟するまでの過程)期間の気温が低いほど休眠が強 くなる現象である(2)
.たとえば,
「農林61号」という品 種では,25℃で登熟させた種子は休眠が見られず,吸水 させるとほとんどの種子が発芽するのに対して,13℃で 登熟させた種子はほとんど発芽せず強い休眠を示す.同 じ品種でも,登熟過程の気温の影響を受けて種子の休眠 性が大きく変化することから,ゲノム配列の違いではな く,転写レベルなどの制御が関係していると考えられ た.そこで,マイクロアレイを用いて13℃と25℃で登 熟した種子の遺伝子の発現の強さを比較したところ,13℃で登熟した休眠の強い種子で強く発現している少数 の遺伝子のなかに 遺伝子が見いだされた.
図1■コムギの穂発芽の様子
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化学と生物 Vol. 51, No. 5, 2013
遺伝子は,ホスファチジルエタノールアミン結合タンパ ク質 (PEBP) ファミリーに所属する遺伝子である.
PEBPファミリーは,微生物から高等植物まで広く生物 界に分布し,そのタンパク質の立体構造がよく保存され ていることが知られている.植物では,MFT, Flower- ing locus T (FT) および Terminal Flower 1 (TFL1)
の3つ の サ ブ フ ァ ミ リ ー に 大 き く 分 か れ る.FTや TFL1サブファミリーには,その名のとおり,日長の変 化に応答して開花を促進する花成ホルモン・フロリゲン の正体であったことで有名な 遺伝子や,その反対の 開花抑制作用をもつ 遺伝子が所属する.これまで の詳細な研究から,これらサブファミリーに所属する遺 伝子は,日長や温度などの環境情報に基づき成長点の活 性を調節するためのシグナル因子と考えられている(3)
.
それに対して,MFTサブファミリーの遺伝子について は,種子特異的な発現が知られていたが,その機能につ いては全くわかっていなかった.しかし,筆者らの発現 解析結果と,構造がよく似た や 遺伝子の機能 から考えると,温度に応答して発芽という開花と並ぶ植 物成長相の転換を調節する因子である可能性が考えられ た.そこで,筆者らは,さらに,この 遺伝子の分 子遺伝学的な解析や形質転換体を使った相補性実験を進 め,この遺伝子が,コムギのなかではとても休眠が強い とされる品種「ゼンコウジコムギ」の休眠の強さを決め ている主要な遺伝子であり,その原因がこの遺伝子のプ ロモーター配列上の一塩基多型であると考えられること を明らかにした.さらに,一過性発現解析による実験か らも, 遺伝子が発芽抑制機能をもつことを確かめ た.つまり,直接, 遺伝子の発現部位である種子 の胚盤にユビキチンプロモーターにより発現誘導される 遺伝子を導入して 遺伝子を強く発現させる と,単離未熟種子胚の発芽が抑制されることを明らかに した(図2
).
遺伝子の機能については,シロイヌナズナの変 異体の詳しい解析から,発芽に対するアブシジン酸の負 の調節因子であると2010年に報告されている(4)
.アブ
シジン酸は,発芽抑制効果をもつ植物ホルモンであるこ とから,コムギとは逆の作用である.しかし,この実験 は,低温処理により休眠を覚ました種子を材料に用いて おり,本来の休眠に対する効果を調べた実験ではない.筆者らの論文が出た後に,シロイヌナズナの種子の休眠 性の季節変化と遺伝子発現の変化を調べた結果が報告さ れた(5)
.そのなかで,
遺伝子の発現の強さと休眠 の強さの間にコムギと同じように正の相関があることが 報告され,シロイヌナズナでも, 遺伝子が発芽の 抑制に働いている可能性が示唆されている.筆者らの研 究により, 遺伝子が,発芽抑制に働いていること が初めて明らかになったわけだが, 遺伝子が,や 遺伝子のように成長点の制御を通じて発芽を制 御しているのかなど,その詳細は,まだわからないこと が多く,今後の解析が待たれる.
この研究の本来の目的であるコムギ品種改良への利用 であるが,プロモーター配列上の一塩基多型を含む配列 が制限酵素の認識部位であることを利用することによ り,簡便に利用できるDNAマーカーが開発できた.休 眠性の品種間差の原因となる配列多型を直接識別できる 有用なDNAマーカーとして品種開発の現場ですでに実 際に利用されている.
1) S. Nakamura : , 23, 3215 (2011).
2) 中園 江他:日作紀,82, 183 (2013).
3) 平岡和久他 : , 19, 3 (2008).
4) W. Xi : , 22, 1733 (2010).
5) S. Footitt : , 108, 20236
(2011).
(中村信吾,農業・食品産業技術総合研究機構作物研究所)
プロフィル
中村 信吾(Shingo NAKAMURA)
<略歴>1987年北海道大学農学部農学科 卒業/東京工業大学大学院総合理工学研究 科生命化学専攻(理学修士)/京都大学大 学院農学研究科林産工学専攻修了(農学博 士)/農業生物資源研究所(科学技術庁特 別研究員)/1997年農林水産省東北農業試 験場研究員/カリフォルニア大学サンタ バーバラ校研究員/2002年農研機構・作 物研究所主任研究員<研究テーマと抱負>
誰もが知っているのに、よくわかっていな い種子休眠の制御機構の研究<趣味>キュ キュと鳴いてエサをねだる二匹の金魚のエ サやり
図2■ 遺伝子の発芽抑制効果
遺伝子を未熟種子胚に導入して一過的に強く発現させると,
胚の発芽が抑えられる(写真右).対照区は, 遺伝子を導入 していない種子胚.培養10日目の様子.