• Tidak ada hasil yang ditemukan

日本農芸化学会西日本支部の黎明期とその時代背景 - J-Stage

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2023

Membagikan "日本農芸化学会西日本支部の黎明期とその時代背景 - J-Stage"

Copied!
3
0
0

Teks penuh

(1)

書 館 化学 生物

126

化学と生物 Vol. 51, No. 2, 2013

日本農芸化学会は1924(大正13)年7月に設立以来,89 年の歳月を経て,今日に至っている.人間で言えば,来年で 卆寿を迎えることになる.この間,和文誌も「日本農芸化学 会誌」から「化学と生物」へ,欧文誌も “Agricultural Bio- logical Chemistry” から “Bioscience, Biotechnology, and Bio- chemistry”  へと改められ,さらに2012(平成24)年4月か ら公益社団法人へ移行し,新たな一歩を踏み出すことになっ た.

農芸化学会が幾多の変遷を経て,今日のような大きな学会 へと発展を遂げてきた要因はいくつか考えられるが,その一 つに地域に根差した活発な支部活動が挙げられる.ここで は,日本農芸化学会西日本支部(以下,西日本支部)の黎明 期における支部活動について時代背景を交えながら述べる.

西日本支部は,関西支部に次ぐ3番目の支部として1936

(昭和11)年に発足した.

これに先立ち,同年2月24日九州帝国大学農学部農芸化学 教室に有志が相集い,支部設置について会合がもたれた.同 年3月2日には,鹿児島高等農林学校校長であった吉村清尚 を有志代表者として発起人会を招集し,直ちに西日本在住の 正会員に支部設置に対する賛成を求め(図

1

,3月19日まで に79名の会員の賛同を得,必要書類をとりまとめて日本農 芸化学会に申し出た.これを受けて,同年3月24日,鈴木梅 太郎会長,平塚英吉副会長,藪田貞次郎前副会長をはじめ,

常議員7名の出席の下に開催された日本農芸化学会常議員会 において西日本支部設置について諮られた.その結果,西日 本支部は,愛媛,島根,広島,山口,福岡,佐賀,長崎,熊 本,大分,宮崎,鹿児島,沖縄の諸県ならびに朝鮮に在住の 会員をもって構成し,1936(昭和11)年4月1日から設置す ることおよび支部事務所は九州帝国大学農学部農芸化学教室 内に置くことが承認された.また,最初の支部役員について は,支部長に上述の吉村清尚,幹事として九州帝国大学農学 部農芸化学科の奥田 譲,濱田松吉郎,平井敬蔵の3氏が委 嘱された(図

2

.このような経緯を経て,同年4月1日西日 本支部が誕生し,中四国・九州・沖縄・朝鮮

*

1  を包括する 学術の府として本格的な支部活動が開始さるようになった.

同年5月10日には,早速,西日本支部創立総会が九州帝国

大学農学部において開催され,初代支部長の吉村清尚が西日 本支部設置の経緯について説明するとともに,将来に向けて の希望,農芸化学発展の必要性を力説した.創立総会には,

日本農芸化学会を代表して東京から春日新一郎氏が出向いて 祝辞を述べるとともに,会員挙げて学会発展のために貢献さ れたい旨の激励の弁が述べられた.創立総会終了後に第1回 講演会が開催されたが,この講演会は日本農芸化学会と同西 日本支部との合同で開催され,全国から43演題(うち,西 日本支部関係15題)

*

2 が寄せられた.いずれの発表も内容が 濃く,今日のように研究環境が整備されていないなかで,こ れほど優れた研究成果を上げた先達者たちに畏敬の念を禁じ えない.なかでも,北川松之助氏(九大農化)の

α

アミノ

γ

オキシ酪酸よりカナリンの合成 と題する講演は,同氏に よってタチナタ豆から発見・構造決定が行われた既報のカナ バニンに関する研究と並んで世界に冠たる研究として高く評 価される.なお,この大会には台北帝国大学理農学部や台北 中央研究所をはじめ,朝鮮農業試験所,大連満鉄研究所など から海を越えて合計9件の発表が行われており,学会発表に 対する当時の研究者の意欲が並々ならぬものであったことを 物語っている.

講演会終了後に行われた懇親親睦会は,日本農芸化学会,

日本土壌肥料学会などと合同のもとに約100名の出席を得て 開催された.各方面から西日本支部誕生に対する祝辞,激励 の弁が述べられ,西日本支部に対する関心と期待の大きさが うかがえる.ちなみに,支部創立および創立記念行事に要し た費用6,535円は,昭和11年度支部交付金10,000円の一部を 充てたとの記録が残されている.

西日本支部では,創立以来,1940(昭和15)年12月まで の5年間の黎明期に通算19回にも及ぶ支部例会講演会が開催 された.会場の大半は九大農学部であったが,鹿児島高等農 林学校(現鹿児島大学農学部)や宮崎高等農林学校(現宮崎 大学農学部)など福岡県外においても開催された.なかで も,朝鮮総督府水原高等農林学校における2回の開催は,特 記すべき事項であろう.また,1939(昭和14)年5月にキリ ンビール広島工場で開催の支部例会は,現在,支部年間行事

*1太平洋戦争後は中四国・九州・沖縄の3地域

*2講 演 者,題 目,要 旨 な ど は,農 化 誌,12巻,171A 〜 188A 

(1936),本会記事欄を参照.

日本農芸化学会西日本支部の黎明期とその時代背景

山﨑信行

(2)

127

化学と生物 Vol. 51, No. 2, 2013

の一つになっているビール工場における支部例会の発端と なったものとして興味深い.このように,支部活動も本格的 になり,支部会員数も増加し,1937(昭和12)年度末には,

会員数293名となり,支部交付金は15,000円に増額された.

なお,1938(昭和13)年度から,支部長 湯川又夫(新任), 幹事 奥田 譲(再任),山崎何恵(新任),濱田松吉郎(再 任)(いずれも九大農化)の体制で支部活動の推進が図られ るようになった.

西日本支部設立の当時は,1920年代に相次いで起こった 経済恐慌や関東大震災など混乱した時代の後を受けて,軍部 の台頭が著しく,青年将校たちによるクーデターやテロ事件 が頻発した時代でもあった.ちなみに,西日本支部設立を目 指して西日本地域の会員有志が会合したのは,二・二六事件 の2日前のことであり,同じ頃,陸軍皇道派青年将校たちに よってクーデターに向けて綿密な準備が進められていたこと は容易に想像できる.このような国情のなかで,2月24日の 会合からわずか1カ月余りの短期間で西日本支部の設立が実 現できた背景には,先人たちの研究に対する情熱と西日本に

おける農芸化学と関連分野を活性化しようとする意気込みが あったことは疑う余地もない.さらに,1936(昭和11)年 が九州帝国大学農学部創立15周年に当たることもあって,

研究面でも西日本の中心的な役割を担うべきであるという農 芸化学関係者の使命感と地域社会の大きな期待も支部創立を 後押ししたものと思われる.

しかし,西日本支部が必ずしも順風万帆のスタートを切っ たわけではない.実は,支部事務室が置かれたとされる九大 の農芸化学教室は,1931(昭和6)年の火災で全焼したた め,創立時の事務室は仮設校舎に置かれていた.このよう な,困難な環境のなかで誕生した西日本支部であるが,1938

(昭和13)年9月に鉄筋3階建ての農芸化学教室が完成し,

この新校舎が1972(昭和47)年まで支部活動の中心として その役割を担うこととなった.この間,太平洋戦争の影響に より,1944(昭和19)年12月2日の支部例会を最後に,支 部活動を中止せざるをえなくなったが,終戦とともに,支部 会員のなかから,例会講演会を再開しようと言う声がしだい に高まり,1947(昭和22)年6月7日,113名もの多数の参

図2西日本支部の初代役員 支部長

吉村 清尚

幹事 奥田 譲

幹事 濱田 松吉郎

幹事 平井 敬蔵 図1日本農芸化学会西日本支部創立のための趣意書

(3)

128

化学と生物 Vol. 51, No. 2, 2013 加のもとに九大農学部において戦後初の支部例会が開催さ

れ,それ以降,今日に至っている.なお,2001(平成13)

年4月に中四国支部が設立されたことに伴い,西日本支部の 構成地域が九州・沖縄のみとなるため,支部の名称について 再検討されたが,創立以来の「日本農芸化学会西日本支部」

を継承することになり,現在,支部会員600名による活発な 支部活動が展開されている.

上述のように,西日本支部は戦前,戦中,戦後という困難 な時期を乗り越えて,今日に至っているが,70有余年にわ たる西日本支部の歴史を振り返るとき,今日のように通信手 段も整備されていない黎明期に,支部の設立とその後の学術 活動の推進のため,綿密な計画を立て,それを着実に実行に 移された先達者の努力は並々ならぬものであったと推察され る.なかでも,西日本支部の初代幹事奥田 譲先生

*

3の存 在はあまりにも大きいことから,以下に書き留めることとし た.

奥田 譲先生は,鈴木梅太郎先生の下で生物化学を学ばれ た後,1921(大正10)年開設直後の九州帝国大学農学部に 助教授として赴任,翌1922(大正11)年から初代教授とし て生物化学講座を担当された.先生は,奥田氏沃素法で知ら れるシスチン・システインの新定量法を開発され,さらに,

「システインがタンパク質の構成アミノ酸である」という画 期的な発見をされた.教育面でも情熱をもって人材育成に努 められ,筆者の恩師 船津 勝先生

*

4をはじめ,有為の人材 を数多く輩出された.一方,農学部長という多忙ななかに あって,西日本支部の設立のために奔走され,誠実な人柄と

「和をもって貴とする」をモットーに黎明期の支部をまとめ,

今日の礎を築くことに心血を注がれた.もし,奥田先生の存 在がなければ,冒頭に記した 西日本支部は,関西支部に次 ぐ3番目の支部として と言うくだりは書き改めなければな らないと言っても過言ではない.ここに,偉大な先達者に対

して重ねて敬意を表する次第である.

最近,「学会の幹事をしているので雑用が多くてたいへん です」という声を耳にすることがある.学会に対する考え は,人それぞれであるが,学会を人材育成の場と位置づけれ ば,「人が組織(学会)を造り,組織(学会)が人を育てる」

という解を得ることはさほど困難ではないように思われる.

最後に,日本農芸化学会ならびに同西日本支部のますます の発展を祈念し,奥田 譲先生が残された次の句をもって本 稿を締めたい.

「何時にても散りて悔なき老桜      続く若木の数多ければ」

プロフィル

山﨑 信行(Nobuyuki YAMASAKI)  

<略歴>1962年九州大学農学部農芸化学 科卒業/1967年九州大学大学院農学研究 科 農 芸 化 学 専 攻 博 士 課 程 修 了(農 学 博 士)/1967 〜 1969年 米 国Sloan-Kettering 癌研究所客員研究員.以後,九州大学農 学部助手,愛媛大学農学部助教授,九州 大学農学部助教授を経て,1990年九州大 学農学部教授(生物化学講座担当).2001 年九州大学定年退職、九州大学名誉教授.

以後,九州栄養福祉大学教授,放送大学 客員教授を経て,2005 〜 2010年九州女子 大学・同短期大学学長.現在,学校法人 福原学園理事.この間,2001 〜 2003年日 本農芸化学会監事,2007年日本農芸化学 会終身会員<研究テーマと抱負>タンパ ク質の構造・機能相関の解明から応用に 向けて<趣味>野球.これまでに選手,

監督,部長としてかかわってきた学生野 球の将来を楽しみにしながら,自身も 生涯現役プレーヤー を目指して白球を 追い続けている.

*3奥田 譲 1883(明治16)〜1979(昭和54)年,九州帝国大学農学 部農芸化学科生物化学講座教授1922(大正11)〜 1943(昭和18)年,

九州帝国大学総長1945(昭和20)〜1949(昭和24)年,福岡女子大学 学長1950(昭和25)〜1960(昭和35)年,元日本学士院会員

*4船津 勝 1913(大正2)〜 2008(平成20)年,奥田 譲教授の下 で卒業論文研究.九州大学農学部農芸化学科生物化学講座教授 1959(昭和34)〜1977(昭和52)年,元日本生化学会会長,元日本農 芸化学会西日本支部長,日本農学賞および西日本文化賞受賞

Referensi

Dokumen terkait

4, 2012 308 本研究は,平成23年度日本農芸化学会大会(開催地 京都) における「ジュニア農芸化学会」で発表予定であったが,東 日本大震災によって大会が中止となった.日本農芸化学会和 文誌編集委員会では,発表申し込みのあった中から本研究を 優れたものとして選定した. 本研究の目的,方法および結果 【目的】

5, 2012 383 本研究は,平成23年度日本農芸化学会大会(開催地 京都) での「ジュニア農芸化学会」において発表予定であったが, 東日本大震災によって大会が中止になったため,日本農芸化 学会和文誌編集委員会によって発表予定の中から選定し,掲 載することとなった.動物細胞の培養には増殖に必要な成長 因子などが含まれる血清を用いるが,生物由来でロット差が