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明治30年代後半の音楽論にみる日本音楽観

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率欝公三許1瞬治蟹}無代後睾の器楽講書こみる麩本官楽鰻

明治30年代後半の音楽論にみる日本音楽観

    田中正平の日本音楽観とその評価を通して

平 蟹 公 子

王 はじめに

 瞬治縫代、我1蟹に藩洋音楽が輸入されて鉄来、

残本音楽の懸穂は醤洋膏薬との娩較の中で問われ てきた。そして、その比較の串で、羅楽麟成、農 本音楽の改良ということが縫会鶴難題になって

いった。

 もともと公教育における唱歌教育の実義を躍 るために、瞬治i2隼ほ87湧に設置された』音楽取 講掛は、文藻騨寺島宗欝宛の「音樂取調二極見込 書」の中で、音楽についての三つの説を示し、東 西二洋の音楽を折衷して、今嚢の我国に適する音 楽を麟定するよう努めるべきとする再説が当を得 たものとみなし、そのために落手すべき三つの事 業の第二は「將來國樂ヲ興スベキ入舞ヲ養成スル 事」であるとした緯。しかし、この再説を具体的 に実施することは葬常に難しく、礬水音楽と癒洋 音楽の違いは鱗確にされないまま、両者の類轍点 のみか「発見淫され、日本音楽と西洋音楽は疑ビ であるという考えのもと、国楽麟絞の基礎として の小学唱歌の編成が進められた麟。また、音楽取 講掛が東京音楽学校となっていく申で、将来の薮 本の覆楽を翻成するには、懸洋音楽と艮本音楽跨 薩}方を習得する入綾1を養成することが必要である という、当擁の瑳念は変質し、薩洋音楽藩究及び その奪溺家の養成と、唱歌教育を行う教員の養絞 が分離していった鋤。そして、霞洋音楽覆究、及 び、唱歌教育よ弩高等な音楽を習得する薄絹家養 成が、東京畜楽学校の中心的活動にな警、東京音 楽学校はやがて醤洋音楽中心の教育機縫となって いった。

 麗学博士の醸寧笙平(鰺鑓一謄薦1は、瞬治32 隼(鰺9鱗に欝隼醐のドイツ留学から爆鬱した。

そして、瞬治37年(董鱒透)に公した「我部費樂の 餐達に就て」において、我遷では歎州楽(醤洋音 楽/は一つの麟激鞠、参考麹として奨励されるべ

きではあるが、それをそのまま蔭本の羅楽とする ためではないとした繊。ごの音楽講は当蒔の音楽 罪に大きな波紋を投げかけ、これに鮭発される形 で様々な音楽論が発表された。それらの申で、懸 申の名蔚をあげつつ、獲中の詮じた縫題を中心に 据えている主な音楽論は、聾上哲次蔀の継本音 樂の籍來」、上灘敏の「樂語」、露草樂入のヂ崇拝 すべき邦樂操存家《遜中博士の野我鄭音樂の獲達 に就て」を讀む灘、由穣源…臨め確璽疑樂の將來達 である織。この懸魚の音楽論は、それぞれ異なる 立場から馨中の音楽論を詳慰しているが、その詩 嚢絃蕉に、当縛の様々な醤本音楽観を捲し示すこ

とにもなっているのであるG

 ところで、欝中死票に絶する先行羅究としては、

蟹避羨叢譲沖正平詮」、「懸串豊平先生の懇ひ灘、

緋藤完夫藝醗中正平と純藍講遺、浅購玉兎「麩中 正平先生のこと猛、吉辮英史「明治の醤本音楽観雄、

矢島ふみか「瞬絵雛難楽譲の展溺3、平塚知子窪発 達蓋する9承音楽一蟹串豊平の理想と実践を めぐって一匪等がある織。中でも、平塚譲文 は欝申の音楽観の全体像を瞬確にしてお彗、本譲 の灘申の日本音楽観の拷握はこの譲文に絞るとこ ろが大きい。しかし、いずれの先行観究も、匿中 のこの音楽詮が、瞬濤灘隼代後半の音楽譲におい てどのように評懸されたかという点については、

ほとんど講じていない。

(2)

蕩鶴大学教育学鋸講集第驚讐

 従って、本論においては、髭ず「我邦音樂の獲 達に就て」における繊串の欝本音楽観を瞬確にし、

次に遜中の譲じた聡題を中心に耀えている響点の 論文において、遜申の馨本音楽観がどのように評 麺されたのかを譲じることを還して、明治3§年代 後半の舞本奮楽観にづいて考察したい。

琵 田中正平の費本音楽観

瞬 鑓中墨平の酪歴簿

 醗中蓬平は東京大学運学部勃還学科を卒業後、

鰐治艀無縫8縫}にドイツに留学し、ヘルムホル ツの指導を受け麹饗学を学んだ。留学中1ま著名な 音楽家や鷺楽藩究考と親交を持ち、齪案した純正 調オ湾ノガンは非常に簸鎌構雫難iを受けた。明治32年

(総鱒/蔦隼馨の留学から帰覆後、鉄遊技簸とし て聾務する傍ら、多くの醤本音楽の楽譜を作成し たむ、嚢本音楽の鑑賞毯棒としての「美音会」や、

ヒ流欝綴に讐本音楽を教授する機離としての「美 音撰楽部」の活嚢を行った。晩隼、緯距調の醗究

を再鬱し、屡本でも純亜講オルガンを製造した。

/21甦本春楽の現状

 音楽議}において、先ず、醗中は馨本音楽を護洋 音楽との比較によって評慰する。蟹中によれば、

欧蠣ではいつの時代にも魅会において奮楽が叢ん じられてお鯵、藤津音楽が窺在に至る歴史を歩ん できたのは鶴然ではないのである。それに髭べて、

「彗本樂の現状は激灘樂の綾地に於ける有様と事 かは諺、誠に微々たる姿である」麟とされる。ξ講 本においては、いずれの音楽も流濠に分かれて発 達し、義から子へあるいは緬薮から弟子へ伝えら れ、飽の流濠と交わることがなかった麟。また、

籠楽を除いて鰹の沓楽は遊芸とみなされ、もっぱ ら、芸人の手にゆだねられ藩売道具とみなされて いたことによって、理想的な発達を遂げることが できなかったのである鯵。

 そして、能楽、義太夫、箏曝、尺八、長曝等は それぞれ特徴を寓してはいるが・全体として見る と、「露本樂には麟玄、美麗なる情趣は各所に散

2轡む3年鷺舞

布して額はれて居毒、特に嚢本流の風雅なる趣は 充ちて曇るが、その組織概ね簿輩にて、宏量錐人 なる情趣に乏しいのである」鱗とされる,、

 しかし、藪洋音楽と比較して織々たる姿でしか ない§本音楽ではあるが、鐵申は、歴史は纒然で はなく、また人為的に左有すべきものでもなく、

一定の顯淳と法麟を有していることを聡確にする。

 擁も一一戻族糟糠的事麹の獲達には、…定の 瀬序と法則とがあって、決して靄然に成る者で なく、又人爲を激て妄瞬こ之を左右し得べきも のでもない、必ずやその民族歴史上の根底なく しては決して健全なる獲達は望むべからざる者 で、艶事實は古今東西の歴艶に徴しても瞬肖で ある、鹸に我錦將來の昆樂に於ても隊上達べた る各樂風の特長が種子とな琴、之に幾多の改良 が施されて灌衣嚢育進乾し來るの外、飽の顛序 方策によ辱、眞釜の獲達を麟る1雄琴巌望むべか

らざること・患はれる。膿

織 霞楽の基礎

 薄洋音楽が我轡に輸入されて以来、将来の轡楽 饑歳については、様々な主張がなされてきた。

 講中は、舞本妻楽はどれをとっても藷洋音楽と 比べて葬常に貧弱なものであるとみなしたが、音 楽のような民族の精神的事勃の発達には、一定の 顯準と法購があることを認める鹸に.露戻の懇懇 酌・感椿鶴翼嶺や嗜好に合わないものは決して進 歩が望めないとする。

 元來音樂は藝備中最も深遠なるもの・一…つ で、密に癒民の懇懇的、感構的の習覆及び嗜好 に適合せざるに於ては、その進歩は決して望む べからざるものである。敵に音樂は諸般勃質的 の事業に於ける顛く、之を外睡に懲ひ、又は善 通一般の手頚に依琴て、その歳幾を難し得べき

ものではない,鱗

 ここから、奮洋音楽については、あくまでも「我 素樂罪の睡醸を擾被し、その改善を促し、脅樂懇

(3)

平醗公子:鱗治講年我後審の舞楽鍮にみる講本膏楽観 3

懇を進むる爲、一の麟撃薦、参考鞠として逮ふる は實に結購なることである3鯉とされる。従って、

懸中によれば、茜洋膏薬を将来の誉本の羅楽にす べきであるという考えは、葬常に突飛なものであ

るということになる。

 では、将来の霞本の醗楽を翻威するためには{薄 書婁£・要漆}というと、瞬申は、境在の音楽雰は蓬猛こ 大燐な邊護鱗にあるので、東西の音楽をよく醗究

し、そこから将来の羅楽たるべき材料を作るべき であるとする瞬。そして、新將來義幾樂の基礎た垂〉、

素材たるものが、我難産來の奮樂の夕報まない」1欝 とするなら、B本音楽をいかにして改良するかが 重要であるとする。その上で、ヂ家庭に於て盛に 霞樂を行ふに於ては、窪然三絃を灘みる必要が生 じるであろう」雛と逮べ、國楽の基礎とすべき音 楽は三昧綴音楽であるとする。

 三昧線は廃託論まで唱えられたことがあるよう に、一一蔀の人々にとっては最も卑しまれ嫌われた 楽器であるが、懇中はそのような三昧線に対する 考えに異議を購える。三味線は上流社会では卑し むべきものとして嫌われたが、その応濡は極めて 鋲1姦であって、音楽離縁途は最も広いとみなす。

また、 三昧線音楽を野卑で淫穣とする考えは、音 楽の本質を羅帯鞠と混霧しているとし.「俗離に 繋する轟一一の葬難は三絃樂の懸講が綴じて聾攣な

辱淫俄な鞍といふのである。之は膏樂の本質を瞬 帯事1梅とを混請し、購帯事勃の賠き半瀬を見て本 質に於ける美灘をも没隷し去る譲法である、さて その離幣事魎とは簿ぞ、第一一には樂器たる1三三絃の 績途、第二二には歌詞である」瞬と述べる。

 さらに、田中は、音楽を宗教や鍮理等の麟駁を 受1量るべきではないとし、「発來音樂は人の情感 を基としたる美術であって、人心を歓ばしめ之を 慰むるを以て其本鎮とし、之を聴けば、焼惚とし て入逡の喜憂を醜し、無我の境に彷復するに薫っ て始めて音樂の鐵妙を見るのである。決して宗教、

総理等の舞講堂を憂くべきものではない」鰺とする。

 銭一紅のことから、遜申は「擬三際洋縛潅1以一艶の櫨會 に於ても、麟然三二三絃を泥中よ1)救ひしげたる糟糠 にて、遷當の消毒を撫へ、之をして再び其愚悪に

浴せしむる必要があるのであらう」騰とし、国楽 の基礎となるべき轟楽を三昧線膏楽とするので

ある。

 このように、三三瞭線音楽を将来の国楽の基礎と した欝中であるか.綾にとって羅楽とはどのよう なものなのだろうか。

 ところで、覆楽という難語は、すでに瞬治7年

(賂7虜神総孝平の「縁樂ヲ振興スヘキノ誕珪麟 に見られるが、霞賀醗種太鄭の「我公学二唱歌ノ 諜ヲ興スベキ仕方二村私ノ見込」においては、雅 楽はあま瞬こ高く俗楽はあま辱に卑しく、霞洋音 楽はそのままでは醤本の羅楽にはならないので、

現状においては馨楽はまだない敏、今後、農本の 雅総の音楽の善良なるものを醗究し、建物ない漸 は西洋音楽から取諺、貴賤、雅総の騨なく嚢本の 醤畏誰でも歌うべき醗歌、奏すべき醗講を表すも のとされていた1221。羅中毒書篋茎楽を、 嚢賀霧の言う 愚昧と大きく異なる意練で綾覆しているとは考え

られない。しかし、すでに達べたように、将来の 覆楽の基礎とされたの1ま三昧線音楽であったこと から、霧中にとっての麟楽は、あくまで民衆の音 楽である民楽を基礎としていたのである.従って、

羅中にとっての将来の欝楽は、将来の長楽でもあ るというような意線合いを持っていると誉えるの ではないだろうか。

鶴 醸本鷺楽の発達

 将来の麟楽麟戒の基礎となるべき費楽は、羅本 舞楽鎮外にないとした鐵中は、雑本音楽の発達を 促すためには侮が必要かについて運べる。そして、

作藏蓄、演奏考と素養のある公衆の三三養が備わら ないかぎを)、羅楽の発達は望めないとする脳.そ こから、霞下の急務は「樂入に音樂家としての普 通教畜を授くること、縫會公衆に彦樂ヒの常識を 得せしむることである。是實に瞬樂獲達の唯一の 基礎であると鑑ずる」餐と遠べる。

 さらに、13本音楽そのものの状態については、

「我戻楽髪il評の状態は、方に危急存亡の域に臨っ て屠るので、社會は速にその不振の療露を除去

し、、之が培養獲脊にカめねばならぬのであるが、

(4)

薦轟大学教欝単離詩集第75号

さて差し欝む注視すべき黙1隷舞繕といふに、是翼 よ辱多々あるぺけれども、§下大いに其鉄醸を感 じ、之が救済改善を急務とするは、←}1歌詞に不穏 鴬の欝多きと、に1樂譜の鉄乏、及び鷺教授趨織の 不備の王難である」憾と達べられ、欝本音楽にお いて改善すべき主な三点は、歌詞の開題、楽譜の 存姦しな継こと、そして教授綴織の不備であると

される。

 特毒こ、欝懸の激詞に翼題オ憲あるということ嘉ま従 来よ鞍言われたことであ弩、また、歌詞の難題寮 総懸霞体の発達を懸害しているということも事実 である。従って、歎詞1こは是葬とも改嚢が饑えら れるべきであるとされる。しかし、恋愛を歌うこ とがすべて購題なのではないともされる懇むまた、

楽譜につ恥ては、音楽を学習するためにも、楽 譲を保存するためにも、また、新しい麟を俸麟す るため等にも必要であ軽、音楽の生命が楽譜にか かっていると言っても選言ではないとされる雛。

さらに、教授綴織については、野蛮な教授法を改 め楽譜を購いる等、正式の教授法に沿って行われ ることが必要であるとされる!麟。

 ところで、以上見てきた懸中の音楽1論には、音 楽が発達するという音楽観が見られる。瞬治2{》・

3倉年代においては、音楽は発達するものであ吟、

その発達という幌点から見ると、舞本官楽よ弩西 洋音楽が進んでいるという音楽観が一廉綴麟であっ た。東京音楽学校の畷治26隼(鰺93/の卒業式の 演説で、校長の村騰範為髄は、音楽の進歩の度合 いには第一類の最も幼稚な時代の単音鶏、第二鱗 の複音購、第三難の秘声簸があ鞍、日本音楽は第

一一リと第二鱗の串縫に、西洋沓楽は第三鞘に位置 するとし、露本畜楽に穂薄を慰す等の改良をし、

第避難に進ませる方法を攻究することが緊要であ るとした欝!。また、瞬治認年(墨鱒韓には、高新 属一が「穂洋講秘樂と時代趣練」において、「鍛金 へ今醤の舞木樂が美妙であると卒した露で鍵歓灘 樂の報聲的妙味は決して無い榛な次第であむます から私は先づ西洋風の翻聲的妙味を帯びた響本樂 が段々獲達する様望むのであむます」鰭と違べた。

 従って、当鋳一般的であった進歩・発展詮約音

2奪奪3隼至2舞

楽観に基づき、欝中は醤洋音楽を模範として、楽 譜使罵や教授法の改善を目指したと言えよう。楽 譜のあ鯵方も教授法も、それぞれの音楽を支える 一部であるので、欝本音楽に護洋音楽を模籔とし て楽譜を使篤した鯵、教授法を整えるということ は、まぎれもなく§本意楽を露洋音楽に逓づける ということになるであろう。しかし、進んだ茜洋 音楽を模範とした改善こそが、当時は嚢本畜楽の

欝捲すべき方鶴と考えられていたのである。

 さて、ε我1邦音樂の護達に就て3には触れられ ていないが、覆車はドイツ留学申に、蒙本音楽に はハーモニーがほとんどないが、将来、いずれハー モニーを要求するようになる蒔、どのようなハー モニーの土台を難ったらよいかと先生(ヘルムホ ルッ)に尋ねたが、それに鰐して先生は、欝本音 楽は露洋音楽のように平均律によってではなく、

純整調に基づく秘声を嬉めるのがよいと言われた ことを、後の論考で園顕していることを付け換え ておきたい織。

璽 田中正平の鑓本音楽観の評極

(重/井上醤次鄭の場合

 聾上哲次郎(i855−19艦〉は畢速、ζ帝国文撃茎 の瞬治37隼(墨鱒のの嚢年号(ナ巻一號/に慾 本音樂の將來藤を発表する。井上は震顫で、ギ理 學博士露準正単氏其著蓼我邦沓樂の獲達に就て遷 の一篇を寄遂せらる、鑓弩て鉾夜燈を劉って之を 閲議するに、然羅の墾を以てβ本の音樂を識じ、

戴は之れを西洋の音樂に覚し、或は之れを我難の 歴i艶毒こ籔し、一・々其長篶壽馨失を説くこと、猶ほ掌 を指して之れを示すが翻し、吾人競れに密むて頗 る得る辮あ1碧瞬と遠べ、「馨本音樂の將來」が 腿串の音楽…講の舞多響のもとに書癖着れたことを示し ている。

 さて、井上は東京大学で日本人として最擁の哲 学教授に錘ぜられた哲学者であ雛31、もちろん膏 薬を主たる仕事としているわけではない.しかし、

ドイツに留学して隊来音楽会には畿入舞し、音 楽を友としてきたことによ鞍、B本の音楽につい

(5)

平欝公子:瞬治鎗年畿後半の音楽鍮にみる露本書楽観

ても霧らの瞬見を遊べたいと弩う髄。また、音楽 というものの鶴果は偉大であることを懲覚する以 上、醤本現今の畜楽が難韓なる挨態にあるかとい う瞬題について、文学者たちも等幣に慰すべきで はないとされる騒。当鋳は、哲学巻、文学者等の 蟻識人が盛んに音楽について発言していたのであ

吟、井土に穫ったことではないG

 売ず聾ま二は、音楽は聴く人に蝶々な効果をあげ ることができるが、いずれにしても、大紫社会に とって一嚢も欠くことのできない衣食と講むもの であるとみなす㈱。そこで、暮本の音楽は絵醤や 建築と髭較しても改良が進まず、歓州楽輸入獄来、

馨に嚢に消滅しつつある状態であるが、決して滅1 ぼしてしまって良いものではなく、尊重し、保存 を図寮)、その妓籍を奨励すべきであるとされる繍。

そして、蕪本音楽が尊重され保存されるべき第一 の選鐙としては、蟹中の「今我織縫に向って歓澱 樂ならざるべからずと命ずるは、漫鱗こ人の高溝 なる快樂を禁ずる舞1きもので、貧富の差露なく我1 舞人の全部に西洋食を強塗ると殆んど違ひがない のである」醸という捲摘が引驚され、「…般大渓 は巻鬚を要せずといふにあらず、故に高綴なる歎 灘樂を嗜むこと饒はざる代は瞬こ、段邦鍵來の音 樂によ琴て、其美的性欲を充たすべきな瞬繍と 逮べられる。第二の理密としては、慕本音楽は響 水鬢族の特質を表し、馨本畏族にとっては露我の

■…狽ナあるので、この醤本畜楽を軽蔑することは 奏我を軽蔑することである、さらに、この§本昆 綾の整吏及び境遇に臠することを音楽に表現する には、欧州音楽そのままではできないということ があげられる麟。霞中の音楽講の一部が引馬され ていることからもわかるように、嚢六畜楽が尊重 され、保存されるべきとする鉾至のこの考えは、

音楽は芸備中景も深遠なものの一一つであ弩、蟹鍵 の懇懇的・感構醜な習穫や嗜好と密接に結びつい ているものである、従って、外蟹に激ったとして も、決してうまくいくようなものではないとする 鐵中の音楽観を評癒するものであろう。

 しかし、井しも蜜串縫様、藍1本音楽をそのまま の彫で肯定しているわけではない。蕪本音楽には

蝶々な煙霧がある鍍、これらを改善することが必 要であるとしている.井上は八点の改善すべき点 をあげているが、その第一は規模が装小であるこ と、第二は単調なること、第三はメ雛ディーはあ るがハーモニーがないこと、第露は楽譜がないこ と、第五は楽器の改良オζないこと、第六は音声の 錬磨が不足していること、第七は歌詞が高講では

ないこと、第八は授業する霧がないことである(類。

そして、聾上はこれら八点の中の第羅、第七、第 八は懇中の捲摘と属じであるとしている顯。しか し、第一、第二、第三についても、匿串が舞本音 楽を「その綴織概ね懇讐にて、宏薩雄大なる欝趣 に乏しいのである」麟としていたことや、後の講 考において、羅本音楽も将来ハーモニーを持つよ うに発達することが望ましいと考えていたことを 回顧していることから、懇率は拝上と瞬じような 考えを持っていたと需っても良いのではないだろ

うか。

 鉄上、音楽は蟹提の懇懇的・感蟻釣習縷や嗜好 と密接に結びついているので、舞本音楽は滅んで 喪いものではなく尊重されるべきであるが、決し てそのままの形では欝定できないという点で、井 上は霞申を評織していた.しかし、井上は、三昧 線音楽を将来の欝楽の基縫とすることには繰れて いないし、また、欝本音楽の改善すべき点を、よ

辱多く指摘していた。

鱗 上瞬敏の場合

 詩人、評註家.英文学者である■L醗敏(露踵一 欝童緋 も講じ『帝鐡文學涯の明治37年(欝縫)の 新年号に「樂話」を発表する。一重二懸は「樂青碧の 讐頭で、我欝の音楽の将来に臠して議論があるが、

畜楽についての知識や経籠等よ辱発て、逓類最も 注馨すべき一議は、遜中の影我邦音樂の嚢達に就 て1であること、そして、醗中は久しく大陸に留 学し蕗洋音楽の現状を知るのみならず、一種の新 楽器を発隣して畿響の名誉を博せられたことであ るから、披の説は専鍔家の参考に資すべきもので あるとする薩。そして、上露褻身は、罎中の誕に ついて精しい幾評を試みたが、未だ考の熟せざる

(6)

§ 蕪島大学教官単離論集第75聾

翫もあむ、さらに醗究を進めなけ矛tぱならない点 もあるので、今はただ思いついた一一一・二の管見を 運べるとして論を始める鱗。

 先ず、日本音楽が西洋音楽と比較されて.「今 騒の歎灘妾樂は、現縛の渥本妻樂よ鞍隻かに獲達 したものであることは、少しでも音樂の獲史を檎 べた人の決して否定することの鐵來ない事實であ

る」繍と遠べられる。.ヒ鐵によれば、日本音楽の

…種は、古代のギ解シア音楽に類してお量)、その 後発達した串縫鉄縫の齊洋音楽よ辱見れば、幼稚 なる域に盛まっているのである鯵。音楽は発達す るものである、そして、その発達という視点から 見ると、茜洋音楽は嚢本春楽よ吟発達したもので あるという帝楽観は、曙中の童楽観と共通するも のであろう。

 では、上墨は蕪本音楽の将来については、どの ように考えているのだろうか。

 上灘は、東醤の音楽を癬哀し講報ずることは、

ほとんど不可能であ鯵、また、再縫であったとし ても望ましくないとする瞼。すでに、上露は鱗治 33隼(i蜘/の東京音楽学校における講演で、「音 樂の麹き高尚な勃は一韓一夕に鐡來る勃ではな

い涯1欝1ので、「資本のメロデイイば 漆醤}の音樂1こ 麟洋のハアモニイを韓けるとどうであるかと云ふ と、鎌ってあま鯵感心しな赫思ひが起るでは緯整 いませんか」懸と遽べているのである。ここには、

後(大正6隼1のぎ現代の蔓穂丞において明らか に遽べられる、音楽を含む芸術は各覆民の性情に 基づいたものであ鯵、露畏の盤椿に合わないもの は発達しないとする考えが窺えるが麟、この考え も毯申と共通するものであろう。

 そして、一と露は我縫音楽鼻の急務は民謡の蒐 集であるとする憩。文瞬の慈及に痒って民謡が滅 びそうであるので、今のうちに集めて保存するこ とが必要であるというのみならず、将来の醗幾音 楽を大絞する縛、罠謡が材料となるという考えに 鎚っているのである驚。上露が民謡を麟艮音楽の 大絞の基礎とみなすのは、「私がこの醇朴なる民 譲を重んずる所獄は、更に一つある。蕎も霞民の 聲となるべき大音樂は、健全なる基礎の■1二に立た

2馨舜3年董2録

ねばならぬ。それで、在寮の日本奮樂のどれがこ の資賂を備へてをるかゴ騒という考えに鍵るので

ある。

 上里姦こよれ1ぎ、三昧線音楽は、教育;があ弩見識 のあるt流人には行われず、狭斜の地で青まれた

ものであること1から、ある種4〉齢艶な趣練はある ものの、国罠全体の性精に基づいているとは言い 難いのである欝。この三昧線音楽についての.ま二懸 の考えは、瞬らかに鐵中と異なる。これについて

、L露は、「私は編羅な考えを以て墜絃樂を葬難ず るのでは無いが、縫目の堂々たる大音樂を作る基 礎としては、その醗鞍に拘れて片意地で普遍なも のでないのを危ぶむのであるといふこのところ、

私の尊敬する懸申博士と多少意見を異にするユ騰 と達べる。

 以.ヒのように、上懇は、舞本音楽は茜洋音楽と 箆較して発達の遅れたものであるが、音楽は轡餐 の性精に深く根ざしたものであるので、東藩の音 楽を極蓑することは望ましいことではないという 点で露串に瞬謁した。しかし、将来の羅疑音楽の 基礎は民謡であるとし、遡練線音楽とした鑓中の 考えに異論を唱えた。

/31露華樂人の場合

 次に、露草樂人なる人鞠が、ぎ音樂之友遜五巻 獲號(瞬治37隼(至904〉2月〉と叢巻五號(明治 37年(墨鮮場 3月)の2穰にわたって、「崇拝す べき邦樂保存家《蟹中博士のド我邦音樂の獲達に 就て」を讀む》」を発表する。この入舞は奮楽譲 の内容に入る羨に、懸中について、ヂ複製と直諌

との詩什に鋳径せる、たよむなき我弗音築島にあ 鯵て、獲紛議も吾等の望みを驕し將来を頼羅敷く 思ふものは、深遠なる學識と、博大なる懇懇と、

健全なる學識とを讐有し、常に鎭重なる醗究と熱 心なる毛・苦とに患實なる懇中豊平嚢其人である」

簾と逮べる。そして瞬時に、騰中の譲文を贈られ 喜んで一…夜で読んだオ§、 欝身の平常の所感と溺じ であ弩、譲中の弗楽保存の健全たる説等に最も称 賛追慕して抹まないとする講。

 音楽論の内容については先ず、音楽は芸術中

(7)

解鐡公畢1鱗治3§年代後半の襟楽麹にみる欝本官楽観

最も深遠なものの一つであ弩、露疑の懇懇離・感 婚約習濃や嗜好に合わないものは決して進歩が望 めないとする遷中の考えに賛請し、ゼ誠に今離歌 灘樂の流行に迷へる一濠の高擦漣が、濫静に風土 の嶺習、民心の牲鷲をもわきまへずして、輩に西 洋樂の流行にのみ産れる者を購笑し以て音樂の趣 陳が霞浸み思想と、穰{享はざれば、とても完全な る眞の音樂は灘來ざるものであると譲ぜられたる は、至極健全なる音楽譲であると吾人は緩ずるも のである葺麟1とする。そこから、歎州楽は一一つの 麟激勃として義覆の音楽饗にとって必要なもので あるが、決して、そのままで馨本の騒楽とすべき ではないという蟹串の説に対しても.一屡賛属し て休まざる所であるとする繍。

 そして、遡陳線音楽が野寧で淫族であると非難 されるのは音楽の本質を欝欝麹と混濁し、奮楽の 本質を見ていないとする霧中の説に対しては、「全

く本誌社説ぎ三絃俗歌酸良説遷に於て講じた違警、

至極吾人の構賛すべき議論である」麟と遽べ、蟹 中を評纒する。さらに、「是等総懸の聾卑淫獲な

鞍しは、歌毒羅の罪と一一つは箋悪者の趣鐸衆愚懇力濃墨き

がためた継しことで、決して麟講夫れ岩身の罪悪 ではない、(中略1我蔀の音樂の多くは俗鶴に弄 ばれ蔵擁軸會に接透せし結果蝕}異こ野卑なる籔羅 に嚢達流行を來たせしため、かくは激ふ所の歌詞、

聴く駈の入麺、自然卑獲に流れてために今嚢の繁 き献態とな弩た鞭たれども、決して奉ずる所の醸 講に至善ては巧妙なる音樂として吾人の簸も講美

し恥ずべきものではない韮鱒と運べる。

 また、懸申が墜練線音楽を泥中よ辱救い上げて、

改良を換え、再び恩恵に浴せしむる必要があると したことも評無し、「氏は飽く迄で三絃樂の生命 を動勢し、幾難を受くべき麺趨に就ては一々消毒 を施しても三絃の高雅にして艶麗な趣陳を保存し やうと言ふ天晴な見識、慈悲深かき精糖には、吾 人益々我邦音樂の嚢達士大に喜びの欝なかるべか らざる次第で、誠に氏の党議、氏の着警、氏の思 想こそ騰灌にして慈悲深く、轟雅にし趣練津々、

暖く究め深く學毒ま蕊た思想であると云ふことを吾 人は深く認識し感激して抹まざるものである」懸

とする。

 さらに、霧中は楽懸の保存、新蕪の控蕪、天才 の発達の青議等のため、楽譜の必要性を主張した が、それに臠してもこの人勃絃.野獣灘の記譜法 に依静て種々な新懸を書き表し作絵穫したれば、

嬬羅程音樂の嚢連音樂の上に一大幸編を輿へるこ とであらう〕か達麟1と評慰する。

 以.L、露草樂人なる人勃葬ま、譲文のタイトルも 示すように、懸申を霞本音楽の保存家とし、彼の 音楽譲を欝本膏薬の保存という方向において評慰 するという類海が多少見られるが、ほぼ全面的に 睡中の醤本妻楽観を評慰していると言えよう。

 ところで、この露草樂λなる人鞠は、一体簿者 なのであろうか。解瞬のヒントになるのは、譲考 申の「本誌社説『三三絃俗歌改良説裏に於て議}じた 通舞、至極吾人の構賛すべき議詮である」購とい う簿所と、「余が昼って本誌第五巻第壷號の雑纂 中重秘洋講報樂に就て選と題する文中に書ひし」

(鍛という簸勝である。これらの籔翫から瞬らか になることは、本誌とは『畜樂之友遜であ鯵、こ の入勃は「秘洋調秘樂に就て」という記事を書く と瞬時に、桂説を書く立場にあるということであ る。そして、この「秘洋調報樂に就て斐という嘉 事を見ると、巖本捷治という入麺の講演の大略で あることが記されている鱗。次に巖本縫治(懲叙 級欝麟という入麺を調べてみると、東京音楽学 校藩籬藻を卒業し㈱、ぎ音樂之友蓋の舞鐸1に麗わっ た大効の一人であることが瞬らかになる総。醗霧 に麗わった入綾1であれば、教説を書いたというこ ともうなずけることであろう。以上のことから、

この露草樂入という人鞠は巌本捷治であると言え

よう。

瞬 鐵馨源一郎の場合

 薩蔽1源一一鄭(総総一姶271は、穿音樂新幸灘二 巻一騰(醗治38年(i鱒5/3月〉に魑幾樂の將 東」を発表する。出経1は東窟音楽学校専鰺藩を卒 業後、東京音楽学校の劾教授、教授等を歴任した

瞑麟、雑誌蓼音樂新鞭墨を麟臠したり、また、羅 本歌麟の蟹作者の一人でもあるような人鞠であ

(8)

篠島大学教奮学鑛鍮集第75号

る韓/e

 露獲は先ず、蜜中の真意が誤解され.ているので はないかとし、「量には博士等の糞意を豊らず、

箪に博士等を雛て濫琴に激灘樂を以て我羅疑牲 に合せざるものとし、我在來の三絃樂を漿織せ らる・が麺く麟解するの縫なきを保せず、爲めに 縦束歓灘樂を醗究する青隼子女の憐熱を醒まし薄 て真薦途に疑惑を胞かしむる恐れなき能はざるな

吟」縫と達べる。そして、由露は濯率の真意を、「要 するに鯨毒に歎灘樂に陵喜渇課して欝欝の特性を 忘蟻すなと云ふに露養するが擁し」磯と葬常に限 定麟に解職するのである。

 このように、懇中の音楽i論の甕濤を解繧をした 由懇は、三昧綴音楽についての次のように逮べる。

 博士等とてまさかに縫來の墜絃樂のみを嶽て 満足さる・にはあらじ、難構にかして現代の歎 灘樂に優るとも劣らざる立濠なものにして見た

しとの熱望を有せらる・なるべし、我輩とて艶 然に就ての希望は敢て博士等に譲らざる積なれ

ども憾むらくは其希望たるや恐らくは空想に終 るなきやを深し難きな鞍霧

 また、楽器としての三昧線については、「構造 輩続にして麟簸の攣牝に富めるは歎羅弩のヴァイ オ琴ンにも箆すべく、殆んと完壁に達した弩とも 去ふべきか、鹸によむ鉄.t之に改良を旛さんは頻 る醗難なる幾麗なるべし果して然らば簸の嫁き輩 純なる樂器に敏弩て作懸者の偉大なる礫懇、演奏 音の雄大、豪壮なる礫懇を實現量んこと到底望む べくもあらじ」曝とされる。そして、三昧線音楽 は瀬戸時代の花擁雰で嘗てられたものであ吾)、瞬 治の麟幾姓に合わないということを、「三絃樂に

よって豪壮、崇高、偉大等の繕念を現はさんこと 所講本によって魚を求むるよ童}葵に難しと致ふべ

きオ、、我輩1ま懇ふ、今嚢の二三絃樂は江第報寺{量のぞ老

梅の巷に於ける意気とか粋とか云へる極めて賢卑 繊弱なる懇懇の灘影にあらざるかと、鍵鋳代の響 屡國幾、少くとも花榔雰の有様は能く表現され馨 れるが撫し、僻して畷治の懸罠牲には又大に講者

2轟轟3年i2§

と異れる懇懇を表はせるが故に現代の態民性を表 はし又鍵羅浸性に適合せしめんには窃ら櫓當の顯 摩方法を要する漸鉄な鱗灘と運べる。

 ここから、霞蟹は、瞬治の羅畏性に合う音楽 はまだ一定しないが、歓舞楽か姥較麟時代の要求 に合うも6〉であるとし、「要するに明治の國見性 に恰好なる音樂未だ一定せざれ共義輩は歓灘樂を 鉄て箆較麟時代の要求に近接せるものと儀ずるな 鯵j!霧とする。しかし、縫欝といえども、欧州楽 そのものをそのままで国幾楽とすることはできな いとし、鉦我輩と難も境縛の激灘樂を以て縁頭徹 尾我羅民樂となすべしと云ふには葬ず、餓鍔せん 從來の難き蒔代遅れの三絃樂を以て新詩代の縫浸 樂の基礎となさんには欝鱗こ幼稚に、蝕弩に臆弱 なるを、産れば比較雑輩懸なる嚢底を有し比較釣 進歩の實蹟ある瞬〔灘樂を玩味し、1璽曝し、酵化し、

善導して之を我麹となすに努め嶽て將來の國幾樂 を興起する素地を建設せざるべからざるな糾鰺

とする。

 まだ一定しないと言いつつも.西洋音楽が瞬治 の蟹浸性に最も違い音楽であるという蜜露の考 えは、懸串の考えと全く異なるものであると言え よう。すでに運べたように、懸串か最も突飛なも のであるとしたのが、薩洋音楽を将来の饗本の露 楽にするという鐵蟹のような考えであったので

ある。

 ところで、東京妾楽学校専修藻を卒業し、卒業 後母校で教鞭を執っていた幽懇が、西洋畜楽を将 来の舞本の羅楽の基礎と考えたことは注慕すべき ことであろう。というのは、東茜二洋の音楽を新 裏することによって、今濤の我蟹に適する音楽を 鱗定するよう努めるという音楽取調掛の理念が、

東京音楽学校においては変質しているということ が窺えるからである。もちろん、幽邃一一人の音楽 譲のみから籔定することはできないが、鷺補の理 念は実質変質し、西洋音楽が蔭本人にとっても音 楽の基礎であるという、音楽観に取って代わられ ていたのではないかと叢灘できるのである。そし て、裏時そのような音楽観をり一ドしていたのが、

出遜のような東京音楽学校を卒業した弩、教鞭を

(9)

雫羅公子・1明治謎年伐後楽の欝楽譲にみる1葺本意楽観 9

執った人鞠であったとも言えよう。

 鉄上、露点の音楽講における欝中の舞本音楽観 の評懸を見てきたが、日本音楽の境栽は藪洋音楽

と箆較して無常に貧弱なものであるが、暮本音楽 は欝本の麟蔑性と深く轄びついてお弩、西洋畜楽 に取って代わられるようなものではない、従って、

将来の国楽の基礎にな弩得る音楽は§本音楽しか ないという点、蜜鐙を除く三人に評麺されていた。

醗中のこのような1音楽観オミ評麺されたとレ}うこと は、幽灘に箆られるような西洋畜楽率毛・の音楽観、

すなわち、音楽取講掛、東京音楽学校を中心に形 成された音楽観に対して満足しない、新たな畜楽 観が瞬治灘年代後半になって購確に彫を成したと いうことであろう。

W おわ琴に

 以上、先ず「段邦音樂の獲達に就て」における 里中の凝本音楽観を聡確にし、次に囲点の音楽論 において、欝中の蓉本音楽観がどのように評儀さ れているかについて考察してきた。

 ここでは、それらの考察を通して見ることので きた明治3{}年代至愛半の嚢本音楽観を、1霧単毒こまと めたい。

 第一に、雛本音楽は藩洋膏楽と比較して、発達 の遅れたものであ1)、馨本官楽の現駅は貧弱なも のであるとみなされていた。そして、当時は、音 楽は発達するものであるという音楽観が一般離で

あった。

 第二に、屡本官楽は霧治の霧本人にはもはや合 わないものであ弩、まだ一一定はしていないが、明 治の馨本の麟氏姓に最も近い音楽は西洋音楽であ

り、将来の醗楽の基礎は藪洋音楽であるという鷺 楽観があった。そして、このような音楽鰻を、出 醗のような東豪音楽学校を卒業した弩、東窟音楽 学校で教鞭を執った入鞠がり一ドしていた。この ことは、音楽取講掛の峯襖の遅念が、東京畜楽学 校において、実質変質したのではないかと推灘さ 量るものであった。

 第三に、賞本音楽は雑本の覆昆盤に深く摂ざし ているので、西洋音楽が取って代わることができ るようなものではないとする、瞬中や霞中を評慰 する音楽観があった。そして、その音楽観によれ ば、将来の蟹楽の基礎は欝本音楽以外にないとさ 蔑た。この音楽養嬢ま、第二のような音楽観毒こ満足 できないことから生まれたのもであった。しかし、

決して日本畜楽がそのままの形で鳶足されている わけではなく、その改善の方海は西洋音楽を摸籠 としていた。

 第獲に、将来の轡楽の基礎が漏本音楽鉄舛にな いという点で一致していたとしても、蟹楽の基縫 にな鞍得る音楽1が簿かという点では、醗申のよう に三昧線審楽とする考えもあ鯵、また、一ヒ灘のよ うに厩謡とする考えもあった。

 鉄上が、醗率の饗本音楽観、壷びに、その音楽 観の評懸を通して疑ることのできた霧治灘年代 後半の欝本音楽観であるが、特に第三のような音 楽観が醗中や欝中を評鱗する音楽親等を通して、

明治30年代後半になって極めて瞬確に主張され るようになってきたこと、藁びに、このような音 楽観が、嚢楽取調掛や東京音楽学校のような宮室 の機1灘ではなく、浸欝董の串から生まれたというこ

とは注目に簸する。しかし、この音楽観は、露洋 皆楽を中心とした遷代化が進められている当時、

決して妾楽観の主流になることはなかったので

ある。

         (註〉

墨 東京警衛大学百年史編集委員会『東蕉芸鱗大学  藪年史 東蒙音楽学校篇第一巻葉脅楽之友鍾、購

 穣62年  {i§87ン、 2§一3{)翼コ

藷 露盤蕉己軍獄歎教官成立遜程の欝発達東黛大学  巖販会、欝7§隼(復麟第璽鞠、7§頁。

壌・ 二長解語=許「絹絵蓉本と夏蚕薯華商・楽一一一毒軽度蔓三芳聖ら

 みた蓼美的受容匪の成立一挺乗取大学箆較文学・

 文髭羅究会影箆較文学・文建議集曇VGl、2一欝、欝8§年。

塗 霞中藍平「我部費樂の養達に就て」大馨本音樂  會編纂『膏樂管冤悉瞬治37隼齢蟹〉、『音楽基礎  懸究文献集璽滋大空縫、欝欝奪、総一欝頁。

(10)

1倉 蕪島大学軟膏学鑛譲集第73号

  醗中はこの音楽講の中で、西洋音楽については  藪とんど歎粥楽という講書吾を罵疑、 嚢本音楽につ  いては暮本楽、馨本音楽という溺語を驚いている。

鱗 菩上誓次蕪階本音樂の將來」『帝国文學垂十巻  一號、瞬治37隼/欝艇}i鷺。

  上露敏「樂議藩罫帝醗文學毒十巻一鞭、聡治37隼  (i鱒む 墨月、蓼定本上蟹敏全集垂第獲巻、教奮鐡

 叛センター、醤嚢秘5藁葺三(隻§7鶴。

  露草樂入「崇拝すべき蔀樂保存家《難中博士の「義  邦音樂の嚢達に就て」を讀む謁ぎ音樂之友丞互恵  聾號、鰐治37年(董§㈱ 2簿、〔下〉五巻五餐、瞬  治37年(圭鱒漿〉3擁。

  霞毯源一郎ギ國厩樂の驚來震音樂新報蓋二巻…篶、

 瞬治38隼(i§蓼欝 3匙

麟 匿邊溝難ヂ醗串蕉平誌」ζ音楽藝衛套馨巻醤號、

 醗秘鍵年(簿妬短刀、ヂ欝中蕉平先生の懇》墨銀土/

 細本音樂套一巻墜號、昭秘鍵隼(雄蘂〉s§、(下)

 一巻獲饒7月。撰藤完夫『懇中亜平髭生と続産調差  音楽之友娃、購秘磐隼(i螂/。浅緯玉癒「穣中藍  平難生のこと」r都楽之友遷紹秘42隼(欝ε718月。

 吉灘英史「瞬治の馨本音楽観」惣本音楽の美的藩  究重音楽之友縫、躍秘灘隼(轡騒}。矢島ふみか「競  治難邦楽講の震竸」紙本女子大学大学醗文学覆究  稗紀要選第護号、軍威§年(欝971。平塚知子窪発達遜  する礬水音楽一醗中正事の理想と実践をめぐっ  て一」東大箆較文學書蓼鋤較文學覆究垂欝盤年。

揮1 主として、{罪悪完夫ぎ蟹率正平先生と純鑑講書  と里塚知子賂発達淫する舞本音楽一鑓中蓬平の  理想と実践をめぐって一」に依る。

  藩掲譲文麟、28藝。

麟 溝上、33頁。

  隅圭1、33−3雌頁。

  瞬、藍、韓頁。

  霧中は、それぞれの§本奮楽について次のよう  に遠べる。

  能楽は省雅、深遠で入縫の最も高溝で優鷺な感  憾を写すことの墨来るものであるが、これに薪愚  懇や新楽器を換え改農発達させる余地はないこと  から、幾状のまま保存し、将来の燈籠とすべきも  のである。義太夫は、叢も入憶に透く、変鷺に蜜み、

2轡倉3年至2羅

 三三蕪線の手も多趣であるが.濃厚に遍ぎ灘致を欠  き、繰音蛮声を弄し怒騰る等、音楽酌穏当なる表  幾法とは認められない点もあ翰、また、新懇懇を  饑えて進牝させる余地がないので、能楽と屈む結  詮1こ帰する。箏曝は優美で礎廉しく一と贔であるが、

 変位に乏しく入聡の精熟を縫露するようなことは  できなも㌔ しオ薄し、飽ヂ〉楽器と共に聡いれ凄ま 有力  な楽器となる。尺八も箏と似ている。長曝、一季簸、

 海東簸、豊後簸など泣声の妻争瑠璃は、唄い魎とし  ても麟場楽としても、妙趣の毒するところが多く、

 その数詞は卑獲にして聴くに堪えないものもある  が、…部の欠点を箆て江戸浄理嚢全体を離縁する  ことは早1詩の至玲であるP瞬上、3δ一憩頁。

軽21瞬一ヒ、鱒一塵室頁。

  講烹、2葺。

  隅上、i8頁。

  肩上、2−3頁。

縛 瞬上、蓬i頁。

  瞬一ヒ、 57−58頁。

  購上、鰺頁。

  隅と、§資豊 麗 購.鎗、5§翼。

  禅欝孝平「毯樂ヲ振興スヘキノ説3国隣六雑誌韮  十八篶、瞬治7年1欝74/灘舞。

  薦掲書縫1、i6夏。

  前場論文麟、嬉一5頁。

  溝上、6翼。

  属土、鶴頁。

  縁上、窮無

  瞬華ま二、 52−53頁。

  瞬中震勢、ドイツよ弩帰鬱鬱後から、9本音楽  を五線譜に採譜する活動を嬉めている。平塚知子  「蓼発達圭する嚢本音楽一蟹中藍平の遷懇と実践  をめぐって一一」、簸9頁。

  緩上、53頁。

  藩掲書類.蓬雛一鶴§頁。

  高新霧……「秘洋調秘樂と蒔代趣味j匿音樂之衰耄

 ■と巻醤霧、霧治38年(獄》5/2月、7頁。

綴 翫中藍平「縄正調発案の動機」鞍本音響学会誌盤  二號、躍秘欝隼(欝鱒〉.鋳頁。

(11)

甲絹公子:鱗治3§年代後響の審楽叢1にみる蕪本影楽観

  瞬中の音楽講は、風俗改良會で講演されたもの  であるが、原稿が様々な人々に寄贈されたことか  ら、ぎ音樂管見垂として公鷺される薦に、種々の音  楽譜の中で謡講されたのである。

  渡避難蟻「井上哲次衰麹麺本大貫科全書i灘小  学館、謄87、5磐頁。

  麟掲譲文鰺、i頁,、

  繕.k、2頁。

鵬1瞬上。

懸 瞬上、5頁。

  離掲譲文141、 27屡{。

  講掲譲文麗}、5一§頁。

  隅、紅、6無   海上、アー亜聖頁。

贈 遜上、ii頁。

  薦掲譲文轡.韓頁。

鱗 上遜敏罫樂譲」、3鰓嚢。

  瞬島

  霧、熱、35倉頁。

鮪 講ヒ。

磯 溝上。

  ■と鐙敏「透織の音樂講達/東唐音樂學較に於ける 秘 井.ヒ哲次郎級本音樂の驚來婆、i頁。

 講演〉、瞬治33年縫蜘/、ぎ定本上麩敏全集垂第羅巻、

 教育縫1版センター、紹秘5姦年縫97鱗、3唾?頁。

驚 購三熱、3瓠頁窃

1麟 、鉦灘敏蓼現代の藝講嚢、實業之騒本縫、大盃6年  礁儀鶉、r定本上露敏全集叢第鳶巻、教奮患蔽セン  ター、昭幸羅53年韓978)、§7春夏。

  蕪鶏譲文麟、3鴉頁。

  瞬上、35翫35i頁。

  一ヒ霞は醗戻音楽という解語を、麟楽とほほ1観じ  愚昧で使濡していると考えられる.

  瞬上、35i頁。

  瞬上、353頁。

  属土。

脚 露華樂入「崇拝すべき蔀樂保存家《穣率博士の「義

 郷音樂の幾達に就て」を讀む懲、壌一逢2頁。

  属土、煙2頁。

  講上。

懸 鶴上、透3頁。

  属土。

  露草樂入「崇拝すべき郵樂保存家《羅中博まのヂ義  邦音樂の獲達に就て」を譲む》/下)」、欝一6昏頁。

  構、ヒ、6§頁。

  溝上.

  薦掲譲文麟、逢3頁。

  属土、44翼。

  巌本捷濤「『穂洋講秘樂遷に就て」罫書樂之友垂  煮巻一號、瞬治36年(董鱒3/i窮、嚇頁.

轄 東京芸籀文単音楽学藻瞬声会蓼会員名簿豊平威

 慧隼(2群青2/、27頁。

 i導8i隼、 獲6凄蚕。

  由懇毒ま瞬治22隼  (至889〉 カ}ら瞬治38奪三 (董§{}5〉

 まで東京音楽学校に窪織し、主に唱歌を教えて  いた。美徳覆究振興雛鐡、東京芸術大学頁年史編  集委員会罫東京芸徳大学百年史 東窟音楽学校篇  第二奏達膏楽之友続、平成蔦年(2奪馨31、蔦77頁、

 茎58重責。

  蔚揚書鱒1、壷びに、牛蜜充、宮沢縦…一「オペラ(騒  本のオペラ月、3璽頁。

  由懇源一郎「鍵幾樂の將薬注、藍嚢。

  虚羅はこの譲文を欝準のみならず、聡治37年  (至鮮場にゼ新樂灘講垂を著した坪碗逡遙にも癖け  て書いている。

  瞬一と。

  疑一と。

  講、1二、里一2頁。

  瞬.臨、2頁。

難 馬騰健「音楽概評(醤本/鍔音楽大事典i雲平蔑縫、

ウ罫

瞬■塗上。

購■島

1舞蟹は婁糞舞三楽という舞舞碁を、

昧で綾耀していると考えられる。

睡楽と毒ま1蓄講じ意

(12)

12  福島大学教育学部論集第75号 2003年l2月

The Views of Japanese Music in the Musical Views in the Latter Half of the 30's of the Meiji Era

‑  Through Shohei Tanaka's View of Japanese Music and Its Evaluation‑

Kimiko HIRATA

Shohei  Taaaka  (1862‑1945)  came home from his stay in Germany as a student after fifteen  years and pubfished  ?Wagakuniongaku no hattatsu ni tsuite  (About  the development of Japanese  music)'' ifl the37th year of the Meiji era (1904)̲ His musical view had major repercussions̲

The purpose of this paper is to study the views of Japanese music in the musical views in the  latter batt of the30s of Meiji era through Tanaka sylow of Japanese music and its evaluation̲

Tanaka regarded Japanese music as inferior to Western music̲  But  he thought that Japaflese  music had its roots deep in the Japanese nationai charactersand it couidn tbe replaced by Western  music.  And he regarded Japanese music.especia報y shamisen music. as a basis of establishing  national music‑. different注y f:rom Ongaku  Torishirabe Gakari  (Music  Research Institute)  and  T‑okyoOngaku Gakko  (Tokyo Academy o;f Music).  But he thought that Japanese music should be 

improved in the wordsof songs the notations and the teaching methods̲

Tetsujiro Inoue,Bin Ueda and Gakujin Tsuyukasa  (Shoji Iwamoto)  estimated Tanaka's view  of Japallese music highly. But Ueda regarded folk songs as a basis of estabtishing  national music''  differentily from Tanaka.

On the other hand.GenichiroYamad2Lwho had graduated from TokyoOngaku Gakko and was  teaching there.didn testimate Tanaka sview of Japanese music highly.  And he regarded Western  music as a basis of establishing national music‑.

Tanaka s view of Japanese  music and that of Inoue,Ueda and Tsuyukusa,who estimated  Tanaka s view highly,resulted from the dissatisfaction of the musical view of Ongaku Torishirabe  Gakari and TokyoOngaku Gakko and took shape in the latter half of the30s of the Meiji era.  But  they couldnt form the mainstream of musical views. 

Referensi

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