「自らが担うべき十字架を他人へ 押しつけてはならない」
── 近世ドイツ都市ケルンにおける非公認プロテスタント宗派の内部抗争 ──
鍵和田 賢
は じ め に
「今日カトリックの君主たちは以前彼らがそ うしたようには行動しないだろう。かつて敵と 味方は王国の境界と領地で分けられた。…今日 その境界はカトリックと異端者の間に置かれね ばならない。カトリックの君主は全世界のカト リックを友とせねばならず,同じく異端の君主 は全ての異端者を友および臣民──彼自身の臣 民か他人の臣民かに関わりなく──とせねばな らないのだ」(Schilling 2008, p. 74)
上の発言はフランス・ユグノー戦争(1562-98)
中のあるギーズ派(カトリック陣営)構成員によ るものであり,宗派対立期における外交関係のあ り様を説明したものである。この発言からわかる ように,近世の宗派対立期においては,宗派への 帰属が国家間の関係を規定する主な要因となっ た。
これは国家のレベルに限った話ではなく,同様 の状況は人びとの日常生活においても存在してい た。近世ヨーロッパで宗教改革が何らかの形で影 響を及ぼしたほぼ全ての地域において,対立する 宗派の構成員が同一地域内,都市内,あるいは家 庭内で併存する状況が生じていたのである(Saf- ley 2011, pp. 7-9)。そのような状況下では,国家 レベルで存在したのと同様の,宗派間の分断と対 立の力学が日常生活のあらゆる局面に浸透してく ることとなる。まさに,個々人の日常生活での一 挙手一投足が「政治的」な意味を帯びることとなっ た。
近年の近世宗教史研究はこのような環境を前提 として,人びとがどのように日常生活を送り,平 和的な「共存」のシステムを構築し,どのように 紛争に対処したのかを考察している(1)。その過程 で明らかにされてきたのは以下の事柄である。す なわち,日常生活のあらゆる局面に宗派が浸透し てくる環境は,個々人を宗派間の対立関係のなか に恒常的に組み込むこととなった。しかし,この ことは必ずしも個々人の行動を制約するだけのも のではなく,ある局面では個々人の主体的な行動 の余地を拡大する効果も持ったという。
このような見解を述べる代表的な研究として,
オスナブリュック司教領における異宗派婚を分析 したフライストが挙げられる(Freist 2009)。異 宗派婚をめぐっては,配偶者への信仰の強制,配 偶者の宗教行為の制限,子供の養育方法などをめ ぐってトラブルが多発していた。トラブルの当事 者となった個々人はしばしば公的機関に訴えを起 こし,司教領の各宗派教会と世俗権力が宗派的利 害に基づき介入するなかで,宗派同権の原則に基 づいて法廷闘争が行われた(2)。フライストによれ ば,こうした家庭内トラブルの「宗派問題化」の 結果として,家庭内の弱者(女性・子供)も家父 長(男性)に対して対等の立場で自らの宗教的権 利を主張することができたという(Freist, pp.
221-222)。
これらの複数宗派の共存の実態を分析する諸研 究(「宗教的寛容の社会史研究」)からは,宗派対 立期の社会の実態について多くの示唆を得ること ができる。しかし,これらの研究に共通する傾向 として,宗派「間」の関係・接触に関心が集中し
ている点を指摘できる。それに対して宗派「内」
の問題,すなわち個々人が属する宗派集団(各地 域の宗派教会,信徒共同体など)については,宗 派政治上のアクターとして,非常に結束が取れた 存在として描かれる傾向がある。
このような解釈には若干の問題があるように思 われる。すなわち,近世の宗派集団については,
集団としての結束を疑わせるような事例,つまり 個々人が自身の帰属する宗派集団から離脱する
「改宗」が恒常的に発生していた。踊共二氏は近 世スイスを対象に,各邦の積極的な改宗者支援政 策を背景として,時にはそれらを個人的願望の達 成のために利用する改宗者たちの姿を描き出した
(踊 2003)。また,南ドイツ諸領邦における改宗 を取り上げたコーピスは,複数宗派が混在する都 市網のなかを,出稼ぎや結婚,勉学のために移動 を繰り返す若年人口の間で頻繁に改宗が生じてい たことを示した(Corpis 2014)。コーピスによれ ば,宗派教会や世俗権力,あるいは家長は,出稼 ぎ等の理由で一端自身の共同体から地理的に離れ てしまった構成員に対して,たとえその人物が同 一宗派の支配下にある領邦か,複数宗派が同権で ある都市に暮らしていたとしても,その人物の宗 派的帰属意識を維持するために影響力を行使する ことが極めて難しかったという(Corpis, ch. 5)。
その結果として改宗が頻発することとなったが,
コーピスの分析から明らかになるのは,同一宗派 に属する諸統治権力・諸共同体は,宗派的利害に 基づいて結束・連携して行動していたわけでは必 ずしもないということである。
コーピスの研究は,宗派対立期の宗派教会の内 部が必ずしも一枚岩ではなかったことを示唆して いる。しかしコーピスは,個々人の改宗を分析す るに際して,個々人を改宗に至らしめた直接的な 要因,とりわけ元々帰属していた宗派集団に内在 する何らかの要因が改宗に与えた影響については 掘り下げた分析をしていない。複数宗派が共存す る社会の実態解明にあたっては,宗派「内」の要 因,すなわち個々の宗派集団内部の要因と,それ が改宗などの個々人の行動に与えた影響にも眼を
向ける必要がある。
本稿は以上の問題関心に基づき,当時の宗派集 団内部に存在していた諸問題を明らかにするため に,17世紀前半にドイツのカトリック都市ケル ンに暮らす改革派プロテスタント共同体で生じ た,「秘密典礼」をめぐる内部抗争を取り上げる。
以下の分析を通じて,宗派対立期の非公認宗派共 同体はいかなる対外的・対内的困難を抱えていた のか,共同体内で個々人と共同体はいかなる関係 にあったのか,共同体内部のいかなる力学が個々 人を改宗に至らしめたのか,が問われることにな る。以下の分析では,主にケルンの改革派高地ド イ ツ 語 共 同 体 の 長 老 会 議 議 事 録Protokolle der hochdeutsch-reformierten Gemeinde in Köln von 1599-
1794(以下Prot.と略記)を史料として使用する。
1. 17世紀前半ケルン改革派共同体の概況
17世紀のケルンは,およそ4万2千の人口を 擁する北西ドイツ最大の帝国都市であった。宗派 的には宗教改革期を通じて一貫してカトリックの 単一宗派体制を維持し,北ドイツにおける「カト リ シ ズ ム の 砦 」 と し て の 地 位 を 有 し て い た
(Bergerhausen 2004)。
しかし,そのようなケルンにも近世を通じてプ ロテスタント住民が暮らしていた。ケルンにはル ター派,改革派の各プロテスタント集団が存在し たが,規模が大きかったのは改革派であった。改 革派はネーデルラントの対スペイン反乱が激化す る1560年代から,戦禍を逃れて流入する移民を 主体として増加を続け,70年代には信徒の使用 する言語に応じて高地ドイツ語,フラマン語,ワ ロン語の3共同体が成立した(Löhr et Kastner
1990, pp. 11-13)。ルター派も含めたプロテスタン
ト住民全体の人口は,1600年頃で4,000人程度と 見積もられている(Bergerhausen, p. 202)。
各改革派共同体とも「長老会体制」を採用して いた。共同体は複数の「管区」(Quartiere)に分 けられ(高地ドイツ語共同体の場合は4),管区 ごとに長老(Ältesten)と執事(Diakon)が置かれ,
彼らが管区の信徒を管轄するとともに,長老と執
事が集まる長老会議が共同体全体の事柄を討議・
決定した(Bergerhausen, p. 203)。
ケルン都市参事会はカトリック護持の立場で一 貫しており,公式には市内のプロテスタントの存 在を認めていなかった。しかし,プロテスタント 住民の交易活動が都市経済に恩恵をもたらしてい た側面もあり,参事会はプロテスタントが市内で 公然と宗教行為などを行わない限り,居住を黙認 す る 姿 勢 を 取 っ て い た(Schwering 1908, pp.
3-4)。市内のプロテスタント住民は,市内での典
礼実施を避けて,市外の近隣都市に赴いて典礼に 参加する「越境典礼」などを行っていたが,禁を 犯して市内で典礼を行う「秘密典礼」も並行して 行っていた(Löhr et Kastner, p. 25)。しかし,市 内での典礼が発覚した場合は財産没収・市外退去 などの処罰が科される可能性があり,秘密典礼の 実施には大きなリスクが伴った。今回取り上げる 内部抗争は,この秘密典礼の発覚・処罰をめぐり 高地ドイツ語共同体内で発生したものである。
2. 内部抗争の原因:秘密典礼の発覚と召喚
内部抗争のきっかけは,信徒の自宅で挙行され た秘密典礼の参事会への発覚であった。1627年3 月5日の高地ドイツ語共同体長老会議議事録にそ の経緯が記されている(Prot. I, Nr. 1056)。それ によれば,改革派信徒ペーター・ギューリヒPe-
ter Gülichの自宅で行われていた典礼が密告によ
り参事会に発覚し,ギューリヒの自宅が踏み込み に遭った。参加者は既に帰宅した後だったものの,
参加者の人数が明らかにされるとともに,ギュー リヒが参事会に召喚されたという。数度の取り調 べのなかで,参事会はギューリヒに対し典礼参加 者の氏名を明かすように要求する。要求に応じな い場合は100金グルデンの罰金を科した上で都市 から追放するという脅しがかけられるとともに,
参加者の氏名を何名かでも明かせばギューリヒの 処罰は免除されるという取引も持ちかけられた。
ギューリヒはこの申し出を拒否したため投獄され てしまう。
このギューリヒとはどのような人物だったの
か。議事録によれば,彼の職業はリボン織工とさ れる(Prot. I, Nr. 1075)。リボン製造は繊維製品 製造業の一部門であるが,当時のケルンでは絹布 の交易と関連加工品の製造・輸出が基幹産業の一 つであるとともに,絹布交易にはプロテスタント 商人も大規模に参入していた(Gramulla 1975, pp.
469-470)。ギューリヒは恐らく,絹布交易を扱う
改革派商人の傘下で加工品製造に従事する手工業 者だったのだろう。
ギューリヒがケルン改革派高地ドイツ語共同体 の一員になったのは,比較的最近であった。1626 年2月5日の議事録において,それまでケルンに 居住していたもののミュールハイム(ライン川を 挟んでケルンの対岸に位置していた小都市)の改 革派共同体に所属する人物としてギューリヒが登 場し,彼が改めてケルン共同体への加入を希望し ている旨が報告されている(Prot. I, Nr. 1019)。
その二週間後の2月19日に,ギューリヒはケル ン共同体に正式に加入し,ハインリヒ・ヴァイヤー
Heinrich Weyerが長老を務める管区に所属するこ
とが確認された(Prot. I, Nr. 1021)。
秘密典礼の発覚とギューリヒの投獄は共同体に 深刻な動揺を引き起こした。上述の3月5日の議 事録では,共同体内に深刻な不安が広がっている ことが報告されているが,議事録の記述のなかで ギューリヒに対する露骨な不信感が表明されてい る点が特徴的である。すなわち,ギューリヒは「信 仰の土台がどれほど強固なものか我々には十分知 られていない新参者」(3)であり,加えて「無学で 精神薄弱」(ungelehrt und schwach)であるため,
参事会の要求に容易に屈服してしまうことが危惧 されているのである(Prot. I, Nr. 1056.1)。この記 述においては,ギューリヒが共同体に加入して日 が浅い「新参者」であることが不信感の根拠となっ ている。ギューリヒは既に「長い間」(ein Zeit- lang : Prot. I, Nr. 1019)改革派信仰を実践してき た宗派上の同胞であるが,共同体にとっては宗派 への帰属よりも地縁的な信徒共同体への帰属の方 が信頼性の基準として重要だったことになる。そ れでは,何故ギューリヒのような人物の家で典礼
が挙行されたのか疑問が湧くが,この問題につい ては後段で検討したい。
また議事録には,ギューリヒ本人に加えて,「こ の十字架を担う[他の典礼参加者を守るため自ら が犠牲になる]ことを望まない彼の妻は激しく抵 抗し,この都市と生活を捨て去るくらいならば,
むしろあらゆることを試みる」(4)(史料引用中の
[ ]は筆者による補足。以下同様),つまり参事 会の要求に応じることを仄めかしている,とも記 されている(Prot. I, Nr. 1056.1)。
さらに,ギューリヒの投獄については,典礼の 挙行に際して注意を怠った当人に責任があるとも されている(Prot. I, Nr. 1056.1)。長老会議は,総 じて問題の責任を全てギューリヒ個人に負わせ,
突き放そうとする姿勢が顕著である。
ともかく,長老会議としては,ギューリヒに対 して都市を退去すること,すなわち参事会の要求 を拒否し処罰を甘受するよう説得するという方針 を採用した(Prot. I, Nr. 1056.1)。しかし,これは ギューリヒに対して大きな経済的負担を強いるも のであることから,補償として300ライヒスター ラー(5)を支払うことも確認された(Prot. I, Nr.
1056.1)。ギューリヒはこの長老会議の方針を受 け入れ,参事会に対し罰金を支払い財産を放棄し たうえで,ミュールハイムへと移り住んだ(Prot.
I, Nr. 1075)(6)。
しかし,ギューリヒの一件はこれで決着しな か っ た。1627年7月21日 の 議 事 録 に お い て,
ギューリヒが上述の長老会議の措置に不満を示し ていることが報告された(Prot. I, Nr. 1064)。長 老会議の側では引き続き当人を説得することが確 認された。同年10月20日には,ギューリヒが補 償金を返還したことが報告された(Prot. I, Nr.
1067)。つまり彼は,補償金を受け取る代わりに 参事会の要求を拒否して都市を退去するという,
共同体との取り決めを拒絶する意志を示したので ある。慌てた長老会議は,ギューリヒがかつて所 属していた管区の役員たちに,改めてギューリヒ の 要 求 を 聴 取 す る よ う 指 示 し た(Prot. I, Nr.
1067)。
11月7日になるとギューリヒからの要求内容 が明らかになった(Prot. I, Nr. 1069)。すなわち,
ギューリヒは「臆面もなく」(sich nicht schämet)
1,000金グルデンの支払を要求し,要求が容れら
れない場合は「邪悪な想念に基づく意思を実行に 移す」(seinen bösen gefaßten Willen ins Werk zu stel- len)と言明した。つまり,参事会に対し秘密典 礼参加者の情報を提供する,もしくはそれに類す る行為を通じて共同体に危害を加えることを示唆 し,共同体を脅迫したのである。
さらに追い打ちをかけるように,12月3日に は後述するように速やかな補償金の支払を要求す る何者かからの「脅迫状」が共同体宛に届けられ た(Prot. I, Nr. 1075.2)。12月17日にギューリヒ からの要求が改めて確認され,ギューリヒは以前 に支払われた(一端返還されたが)300ライヒス ターラーに加えて,800金グルデンを要求した。
ただし今回は,800金グルデン以外のものをこの 他に要求することはない旨約束した(Prot. I, Nr.
1071)。
これに対し長老会議は,「二つの災いからより 良い方を選択」(aus zwei Bösen das beste erwählet)
するという判断を下し,800金グルデンの支払い に応じることを決定した(Prot. I, Nr. 1075.3)。12 月28日に,ギューリヒに対して上記の金を3期 に分けて支払う提案がなされたことが報告された
(Prot. I, Nr. 1072)。ギューリヒから支払期間が長 過ぎるとの不満が表明されたため再度の調整が必 要になったが(Prot. I, Nr. 1073),翌年の1月26 日の議事録において,ギューリヒに対して次の「聖 母マリアお清めの祝日」(2月2日)までに全額 を支払うことが約束された。1月26日の議事録 では,これにより騒動が決着するだろうという見 通しが述べられている(Prot. I, Nr. 1074)。
小括
ここまでの叙述から明らかになる点をまとめ る。
まず改革派信徒は都市内で秘密典礼を挙行して いたが,秘密典礼発覚の原因をギューリヒ個人の
注意不足に帰していることからもわかるように,
個々の典礼の挙行について,長老会議が明確に管 理統制していたわけではなかったことがわかる。
長老会議議事録に秘密典礼の開催について取り決 める記述が見当らないことからすると,典礼の開 催形態や開催場所などは各管区のイニシアチブに 委ねられていたようである。
また,秘密典礼の挙行には大きなリスクが伴っ たこともわかる。典礼参加者が検挙され当人が処 罰されることはもちろんだが,共同体全体にとっ てより危険なのは,尋問された信徒から共同体構 成員の情報が漏出し,他の構成員や共同体組織に 被害がおよぶことであった。ギューリヒの事例か ら読み取れるのは,そのような事態に際して長老 会議は,まずもって共同体全体を守ることを優先 させたということである。すなわち,不幸にして 検挙された信徒については,補償を与えた上で都 市から退去させる,つまり共同体から切り捨てる という方針が存在したことがわかる。
またこの事例からは,改革派信徒共同体の「他 者」認識についても明らかになる。すなわち,信 頼するに足る宗派的同胞と見なされるには,同一 宗派への帰属だけでなく,地縁的な信徒共同体へ の帰属も要求されたということである。ケルン改 革派共同体は,本稿冒頭のギーズ派の発言とは異 なり,単純に宗派の違いのみで敵・味方を識別し ていたわけではなかったようだ。
このギューリヒをめぐる騒動は,ギューリヒと 共同体間の争いのみに終始したものではなかっ た。共同体は,ギューリヒの要求に見合った補償 金を支払うことを決定したものの,この金を誰が 負担するかをめぐって共同体内で深刻な対立が生 じていたのである。この補償金負担をめぐる対立 は,共同体内での個人と共同体の関係を考える上 で示唆に富む事例であり,次章ではこの対立を取 り上げる。
3. 内部抗争の発生「誰が十字架を担うのか」:
前章において,長老会議の評価では「無学で精 神薄弱」の「新参者」たるギューリヒが,何故秘
密典礼の挙行という大役を任されたのか,という 問を提起した。史料からは直接的な解答を導くこ とができないものの,この問題を考えるにあたっ ては,上述したように秘密典礼の挙行においては 管区がイニシアチブを持っていた可能性を考慮す る必要がある。秘密典礼の挙行に関しては,管区 が相対的に自立した利害集団として存在してお り,長老会議のギューリヒに対する評価とは異な る関係性が,管区とギューリヒとの間には存在し ていた可能性がある。実際に,ギューリヒの件に 際しては,彼が所属した旧ヴァイヤー(ギューリ ヒ)管区(7)は長老会議と対立する姿勢を示した のである。以下,ギューリヒの件をめぐる長老会 議,旧ヴァイヤー管区,その他の管区の動向を中 心に,補償金の負担をめぐって共同体内部で生じ た対立を検討する。
ギューリヒに対して補償金が支払われただろう 期日の直後の1628年2月9日の長老会議におい て,前年3月以来のギューリヒの一件の経緯と,
それに対する長老会議としての見解をまとめた文 書が作成された(Prot. I, Nr. 1075.1-6)。この文書 には,これまでの議事録には記載されていなかっ た諸事実が含まれている。これらの事実は,長老 会議がその時点では把握していなかったか,把握 していたものの何らかの事情で長老会議の議題に 上げることが見送られたものと思われる。これら の事実からは,ギューリヒの一件をめぐって,旧 ヴァイヤー管区が長老会議の意向とは異なる独自 の行動を取っていたことが明らかになる。
上述したように1627年12月17日の議事録に おいて,ギューリヒから800金グルデンの要求が 提示された旨が報告されている。この要求に至っ た経緯について,2月9日の文書では,ギューリ ヒが当初支払われた補償金300ライヒスターラー に不満を示し,彼がこの状況から「私利」(seinen Nutzen)を得ようとしたと述べている(Prot. I, Nr. 1075)。そして,ギューリヒは,補償金の増額 を求めて旧ヴァイヤー管区の長老・執事を脅迫し たとされる。すなわち,彼は「長老と執事たちは 彼の損害の補償として1か月以内に100金グルデ
ンを工面すべきであり,あるいは彼が被った損害 はさらに高い金額に相当すると主張した」(8)とい う(Prot. I, Nr. 1075)。それに対し旧ヴァイヤー 管区の前長老ハインリヒ・ヴァイヤーは,「[ギュー リヒが]ある時は上述の長老の住居の前で,はば かりもなく激情的に大騒ぎまでしたため,上述の 元長老[ヴァイヤー]は,教会[長老会議]への 相談なく無断で,彼に対し800金グルデンを工面 することを約束した」(9)のだという(Prot. I, Nr.
1075)。
ここで述べられている経緯には,これまでの議 事録の説明と異なる点がある。以前の議事録では,
当初の補償金に不満を示したギューリヒに対し,
共同体の指示により旧ヴァイヤー管区の役員が要 求の聴取を行い,それに対する回答としてギュー
リヒから1,000ないし800金グルデンという金額
が 提 示 さ れ た こ と に な っ て い る。(Prot. I, Nr.
1067, 1069, 1071)。それに対し2月9日文書では,
800金グルデンという金額はギューリヒ自身が当 初要求したものではなく(彼が要求したのは100 金グルデン),前長老ヴァイヤーが長老会議の許 可を得ずに独断で提示したものだというのであ る。
2月9日文書において,長老会議はヴァイヤー らの行動を厳しく指弾する。すなわち,ヴァイヤー らはギューリヒに対して「上述の金を共同体が世 話することになる,などと偽りを述べ」(vorgebend, ... dieselbe sollte gem. Geld verschaffen),特にヴァイ ヤーは「この騒がしい男[ギューリヒ]をどうに か家へと帰らせようとし,むしろ彼からの脅迫を 増大させた」(10)と非難する(Prot. I, Nr. 1075)。こ うして長老会議は,ギューリヒの不当な要求の責 任は全面的に旧ヴァイヤー管区の指導部にあるこ とを示唆しているのである。
ちなみに,ヴァイヤー宅に乗り込むのではなく 自宅前の街頭で大騒ぎをしたギューリヒの行動 が,意図的なものかそれとも「突然の怒りや激烈 な感情」(jähem Zorn, heftigen Gemüt)に陥りがち な彼の精神状態(Prot. I, Nr. 1056.1)に起因する ものかは定かではないが,この行動が,対立する
宗派の信徒が都市内に混在するという状況下にお いて,特別な意味を持つものであったことは確か である。すなわち,ギューリヒの行為は,街頭と いう都市の公的な空間で,カトリック市民たる通 行人の衆人環視の下で,この家の住人(ヴァイ ヤー)が改革派であり,非合法である市内での秘 密典礼の挙行において責任ある立場にある人物で あり,さらに「仲間」を見捨てるような不道徳を 働く人物であることをアピールすることになるの である。この行為は,都市内に潜在する宗派間の 対立関係を刺激し,このトラブルを公的な宗派問 題に転化させ,最終的には参事会に対してヴァイ ヤーに対する何らかの行動を取ることを余儀なく させる可能性がある点で,ヴァイヤー個人に与え る打撃が非常に大きかったものと思われる。
2月9日文書では,続いてギューリヒからの 800金グルデンの要求に対してどのように対処す べきか,共同体内で議論されたことが記されてい る。まず,先ほどの記述から察するに,ヴァイヤー らはギューリヒに対し800金グルデンの補償金を 約束した際に,この金は共同体が組織として負担 する旨を伝えたようである。
それに対し,2月9日文書ではその他の管区の 長老たちから激しい抗議が生じたと報告されてい る(Prot. I, Nr. 1075.1)。すなわち,共同体の「共 有財産は説教師および貧民の扶養のために設けら れたものであり」(das gemeine Gut ... zur Unterhal- tung der Diener göttliches Wortes und der Armen ge- stiftet),しかも現下の情勢下で減少し続けている ため,そのような目的のために支出すべきでない,
とされた。むしろ,他管区の長老たちは,この件 に責任を負っている旧ヴァイヤー管区の長老と執 事たちが個人的に負担すべきであり,「自らの同 胞に危機と苦難をもたらすのではなく,むしろ喜 んで責苦と痛み,そして最後には死を選んだ多く の聖人たちの手本に眼を向けるべきである」(11)と 主張した(Prot. I, Nr. 1075.1)。つまり,ギューリ ヒの一件に関しては,共同体全体のためにヴァイ ヤーらが犠牲になるべきだ,ということになる。
この主張からは,仮にヴァイヤーらが補償金を支
払えないのならば,そこから生ずるギューリヒと の争いについては彼らの責任で解決すべきであ る,という意志を読み取ることができる。すなわ ち,──そのように明言しているわけではないも のの──共同体としては補償金の支払いにこれ以 上関与すべきでない,という要求が示されている ように思われる。
以上の他管区長老からの意見は,ギューリヒか らの要求金額が提示された1627年11月17日か 12月17日の会議の場で述べられたものと思われ るが,長老会議はその後もギューリヒの問題に関 与せざるを得なくなる。そのような状況をもたら したのが,先述した「脅迫状」である。2月9日 文書によれば,27年12月3日に,共同体の会計 係を務めていた信徒の下へ,面識のない「外国人 の少女」(ein fremd unbekanntes Mädelein)から共 同体を脅迫する内容の書簡が届けられた。以下,
この「脅迫状」の内容について検討する。
「脅迫状」は,当時他管区の長老を務めていた アブラハム・キュフラーAbraham Küffelerに宛て られ,アンドレス・メルテンスAndreß Mertens なる署名が付されていたが,長老会議は「偽物の 署名」(falschen Pittschaft und Unterschrift)と断じ ている(Prot. I, Nr. 1075.2)(12)。
「脅迫状」の主旨はギューリヒに対して速やか に補償金を支払うことの要求であるが,同時に補 償金の負担方法についても注文をつけている。す なわち,他管区の長老たちが補償金支払の責任を ヴァイヤーら旧ヴァイヤー管区指導部に負わせよ うとしていることに対して,「皆は52年間この教 会に奉仕してきた年老いた男ハインリヒ・ヴァイ ヤーを見殺しにしている」(13)と非難する。そして,
「君たちが何れにせよペーター・フォン・ギュー リヒに対して1,000金グルデンを支払うのであれ ば,君たちはそれを君たちの金[共同体構成員の 個人的負担]からではなく,共有の金から支払う べきだ」(14)とし,補償金を共同体の財源から支出 することを要求する。
また,速やかに支払がなされない場合,「直ぐに 明らかになるであろうきわめて邪悪な目論見」(15)
が存在するとし,ギューリヒかあるいは他の何者 かによる何らかの深刻な報復が共同体に対してな されることが示唆される。最後に,「私は君たち に友人として今一度忠告する。君たちはこの男
[ギューリヒ]と妥協すべきであり,さもなけれ ば良くないことが生じ,この教会の破滅へと至る であろう」(16)という不吉な脅し文句で閉じられて いる。
長老会議は「脅迫状」の出所を明らかにするこ とができず,出所を明らかにする他の史料も存在 しない。補償金の負担を個人もしくは管区で負わ されることを回避したい旧ヴァイヤー管区指導部 によるものとも考えられるが,補償金支払が個人 負担となることで支払が滞ることを警戒する ギューリヒ側からのものである可能性もある。あ るいは,両者の共謀という解釈もできるかもしれ ない。何れにせよ,ヴァイヤーおよび旧ヴァイヤー 管区とギューリヒ両者の利害を代弁する内容であ ることは確かである。また,「脅迫状」の主張か らは,共同体に属する個人に生じた災難に対して は,共同体全体で負担を分かち合うべきという,
共同体と個人の関係に関わる理念を読み取ること ができる。
この「脅迫状」は共同体に深刻な動揺を与え,
長老会議は「兄弟たちは,最終的に,共同体の不 利益になるのではあるが,この恐喝に譲歩するこ とを決議せねばならない」(17)として,誰がどのよ うに負担するかは別として,ギューリヒに補償金 を支払うことを決定した(Prot. I, Nr. 1075.3)。こ れが,前章で触れた1628年12月28日の,補償 金を3期に分けてギューリヒに支払う提案の前提 となった決定である。
ただし,この時点ではギューリヒに支払う補償 金を実際に誰が負担するかをめぐっては結論が出 ていなかった。2月9日文書では,その後に生じ た共同体内の論争が記録されている。
旧ヴァイヤー管区以外の長老たちは,ヴァイ ヤーらが負担すべきという意見を繰り返した。す なわち,「彼らは彼らの十字架を担う責任を正当 に負っており,それを他人へ押しつけてはならな
い」,「教会の金はそのような目的のために寄進さ れたのではない」というのである(18)(Prot. I, Nr.
1075.5)。自らが担うべき十字架を他人へ押しつ けてはならない,という発言には,個人の過失に 起因する教会の損害については,個人が責任を負 うべきという考え方が表れている。
それに対してヴァイヤーは,補償金を共同体全 体で負担すべきであるとして抗議した。すなわち,
ギューリヒの件は教会全体の問題であり,個人と しての彼が責任を負うべきものではないと主張し た(Prot. I, Nr. 1075.6)。補償金については,ヴァ イヤー個人が「自身の割当額」(seine Quoten)を 負担することを承諾しているのと同様に,「全て の者が自身の十字架を担う責任がある」(ein jeder sein Creutz zu tragen schuldig sei)としたのである。
ここには,教会としての活動に起因する損害につ いては,組織としての教会が責任を負うべきとい う考え方が表れている。このことと関連して,長 老会議による聴取のなかで,ギューリヒの件にお ける彼の行動(恐らく長老会議に無断でギューリ ヒに補償金支払を約束したこと)について問われ たヴァイヤーは,「良き支援や援助が全く存在し なかった」(weil kein besser Hilf noch Beistand ge- habt)ことを理由として自己の行動を弁明してい る(Prot. I, Nr. 1075.6)。ここからは,ギューリヒ の件は本来共同体全体で対処すべき事柄であった にも関わらず,共同体がその役割を果たしていな かった,そのために長老会議に諮らずに補償金支 払を約束せざるを得なかった,というヴァイヤー の主張を読み取ることができる。
また,長老会議から件の「脅迫状」への関与に ついても問われたヴァイヤーは,自らの関与を強 く否定した。すなわち,彼は「罪深き徒党たるコ ラ,ダタン,アビラム(19)を生きながらにして地 獄へと追放したかの神が,この脅迫・警告状に責 任がある男もしくは女を罰し給うことを望む」(20)
という誓言を行った(Prot. I, Nr. 1075.6)。
論争はどのように決着したのだろうか。長老会 議は最終的に,補償金を共同体の財源から支出し ないことを決定した(Prot. I, Nr. 1075.4)。また,
ヴァイヤー管区の指導部の諸個人に対しては,補 償金に充てるために共同体内で献金を募ることが 指示された(Prot. I, Nr. 1075.4)。つまり,補償金 支払の責任はヴァイヤーらに負わせたものの,非 強制という形ではあるが,共同体の各構成員が負 担を負う形となった。他方で,ギューリヒの件に 関してヴァイヤーらが過ちを犯したことも明記さ れた(Prot. I, Nr. 1075.4)。全体としては,原則上 は責任を個人に帰す他管区長老側の立場が認めら れたものの,実態としては責任を負わされた諸個 人の負担を出来る限り軽減するという,妥協的な 決定となった。
その後,1628年3月23日の議事録において,
ギューリヒの一件が最終的に決着したことが報告 された。すなわち,ギューリヒが補償金を受け取 り, 領 収 証 に 署 名 し た の で あ る(Prot. I, Nr.
1079.1)。領収証の全文が議事録に転記されてい る。すなわち,ギューリヒは自らが被った損害に 対する補償として,300ライヒスターラーおよび 800金グルデンを受領したことを証言した。さら に彼は,この件に関与した共同体の構成員および その子孫に対して,今後ギューリヒ夫妻の名の下 でいかなる苦情や要求も行わないことを誓約し た。領収証には,ギューリヒ本人は字が書けない ため,ミュールハイムの説教師ともう一人の証人 が 代 筆 し た 旨 も 記 載 さ れ て い る(Prot. I, Nr.
1079.1)。
小括
以上,ギューリヒの一件をめぐって共同体内で 生じた論争を見てきた。この論争から見えてくる のは,個人と共同体の関係をめぐる二つの相反す る原理の対立である。
第一のものは他管区の長老たちの主張であり,
信徒共同体は個々人の信仰生活を円滑に維持する ための補助的な役割に徹するべきというものであ る。「共有財産は説教師…の扶養のために設けら れたもの」という先の発言からもわかるように,
彼らは,共同体の支出は説教師の雇用など全構成 員の信仰生活に直接的に影響する最低限の範囲に
留めるべきと考えていたようである。従って,共 同体は,長老会議が管轄しない個々人の宗教行為 に起因する損害の補てんなど,「私的」な領域に は介入すべきではないということになる。
第二のものはヴァイヤーらの主張であり,共同 体は個々人の信仰生活の維持・管理に責任を持ち,
個々人の活動に積極的に介入すべきというもので ある。長老会議に対するヴァイヤーの,ギューリ ヒの件に際して「良き支援や援助が全く存在しな かった」という非難の言葉には,そのような考え 方の表れを読み取ることができる。すなわち共同 体は,個々人の宗教行為に対して共同体として責 任を負い,宗教行為に起因するトラブルには共同 体が全体として対処すべきということになる。
この二つの原理は,何れもこれまでの研究にお いて指摘されている,宗派対立期の社会の底流に おいて進行した二つのプロセスと相通じるもので あり,信仰分裂の時代の産物と捉えることができ る。すなわち,第一の原理は宗教的信条を個人の 内面の問題として公的領域から分離する「信仰の 個人化」の思想に連なるものであり,第二の原理 は公権力による人々の社会生活へのより積極的な 介入・統制を志向する「社会的紀律化」の思想に 連なるものである(21)。ギューリヒの一件をめぐ る共同体内の論争からは,ローカルな信徒共同体 のレベルにおいては,これら二つのプロセスが競 合しつつ共存していたことがわかる。
4. ギューリヒ事件のその後の展開
1628年3月に,ギューリヒが補償金の領収証 に署名したことをもって,ギューリヒの件は決着 したものと思われた。しかし,2年を経た後に,
ギューリヒの名は再び長老会議議事録に登場す る。
1630年2月12日の議事録において,長老会議 が入手した「信頼に足る情報」(glaubwürdige Er- fahrung)として,ギューリヒが「彼の確固たる 証書[上述の領収証]および我々からの善意[補 償金]に反して,現在ほかならぬ当地[ケルン]
に滞在しており,教皇主義を告白し,参事会に対
して[市民権取得の]嘆願を申し立てたという。
さらにこれに加えて,彼は様々な脅し文句を吹聴 している」(22)との報告がなされた(Prot. I, Nr.
1125)。すなわち,ギューリヒはカトリックに改 宗してケルンに帰還し,市民権取得に向けて動い ているというのである(23)。さらに,恐らくその 過程で,ギューリヒはかつての仲間であるケルン 改革派共同体構成員の情報を参事会に提供したの であろう。ギューリヒは,これらの情報提供を通 じて,自身の市民権取得もしくはその後のケルン での生活におけるプラスの作用を期待したのだろ う。まさに,改革派共同体が最も恐れていた事態 が生じたのである。
都市ケルンの『新市民登録簿』を確認すると,
1630年2月13日の項にPeter Gulichsの名が見え,
市民権取得に成功したことがわかる(Neubürger I, p. 375)。
ギューリヒが改宗という決断を下した直接的な 理由については知る術がない。あるいは,ケルン からの退去に当初から強く抵抗していたギューリ ヒの妻の意向が強く働いたのかもしれない。何れ にせよ,信仰を理由に追放された後,改宗を経て 帰還するというギューリヒの行動は,改革派信仰 よりも都市ケルンとの地縁的結びつきを優先した ものと解釈することができる。
実際に,ケルンからの退去がギューリヒに与え た影響は甚大であったと考えられる。第一に,
ギューリヒは,ケルンからの退去によってそれま での経済的基盤をほとんど失ってしまっただろ う。多額の補償金を手にしたとはいえ,ケルンと は経済規模の全く異なる小都市ミュールハイムに おいて,リボン織工としての経済的基盤をケルン 同様に築くことができたとは思えない。
第二に,ケルンからの退去,補償金をめぐるト ラブルによって,ケルンにおいて彼を支えていた 人間関係も失われたものと思われる。ケルン改革 派共同体の同胞たちとの関係も切れてしまったの だろう。そして,ケルンの改革派同胞たちとの別 れが友好的なものではなかったことは,補償金を めぐるトラブルや,ケルン帰還後にかつての同胞
たちを参事会に告発していることから推測でき る。
ギューリヒは,ケルン退去によって,それまで 彼を経済的・精神的に保護してきたつながりを 失っていった。それと同時に,彼を改革派信仰に つなぎとめてきた信徒共同体の結びつきからも断 ち切られていった(24)。これは,改宗に対する社 会的・心理的障壁を低くすることになっただろう。
このように,それまで個人を保護し,同時に束縛 もしてきた結びつきを一つ一つ失っていった先 に,改宗という決断が浮上してくるのかもしれな い。
ギューリヒによる「様々な脅し文句」は,すぐ に改革派共同体に深刻な影響を与え始める。1630 年3月14日の議事録において,当時の改革派共 同体の説教師ハインリヒ・ヴィルツィウスHein-
rich Wirtziusが,ギューリヒを原因として「かな
り名前が知られてしまい」(ziemlich bekannt wor- den)共同体に危険が生じていると報告された
(Prot. II, Nr. 3)。ヴィルツィウスは共同体とギュー リヒとの交渉の際に,しばしば仲介役を務めてい た人物であるが,ギューリヒの告発か何らかの発 言の結果,参事会にその素性が知られてしまった のであろう。長老会議は,ヴィルツィウス本人と 共同体への危険を避けるために,ヴィルツィウス を一時的に説教師から解任し,市外へ逃がすこと を決めた(Prot. II, Nr. 7)。
また,同年9月3日には,フランツ・レオンハ ルトFrans Leonhards,N. N. ケーニスホーフェン Königshofen, ヨ ハ ン・ メ ー ル フ ェ ル トJohan
Meerfeldの3名の共同体構成員が,ギューリヒ
の件に関わって参事会に召喚され尋問を受けたこ とが報告された(Prot. II, Nr. 13)。この3名の信 徒とギューリヒとの直接的な関係は議事録からは 明らかにならない。しかし,レオンハルトとメー ルフェルトは,間に1名の人物を挟んで順番に執 事職を継承しており,同一管区の新旧の執事で あ っ た も の と 思 わ れ る(Prot. I, Nr. 1012, 1070, 1121)。またレオンハルトはトーマス・ロイスベ
ルクThomas Reusbergなる共同体構成員の代父
を務めていた。このロイスベルクが,妻がカトリッ クでることを理由として共同体の集会への参加を 停止させられた際に,彼の参加を押し止める役を レオンハルトが担っており,それと同時に(恐ら く長老の職務として)ハインリヒ・ヴァイヤーが ロイスベルクの身辺調査に当たっている(Prot. I, Nr. 1047)。従って,きわめて間接的な根拠ではあ るが,これら3名は旧ヴァイヤー管区の構成員で あり,そのうちの2名は当該管区の執事を務めて いた可能性が高い。ギューリヒは,かつての所属 管区で見知った仲であり,補償金をめぐって微妙 な関係となった旧ヴァイヤー管区指導部を標的に
「策動」していたのであろう。
ただし,ギューリヒの告発の標的として最も可 能性が高かったヴァイヤーが召喚されたという記 述は見当たらない。ヴァイヤーについては,1628 年3月にギューリヒの件が一端決着した後,ほと んど議事録に登場しなくなる(25)。上述の「脅迫状」
において,ヴァイヤーが52年間共同体に奉仕し たという記述があることから,彼はギューリヒの 一件が生じた際に既に相当な高齢だったのだろ う。ギューリヒがケルンに帰還した1630年の時 点で既に死去していたものと思われる。
長老会議は,3名の召喚を受けて,危険回避の ために彼らを共同体から脱退させることを決める
(Prot. II, Nr. 13)。しかし,1630年10月18日の 議事録において,ギューリヒの件についてそれ以 上何事も生じなかったので,上述の3名を共同体 に復帰させることが決定された(Prot. II, Nr. 14)。
この3名の召喚を最後として,参事会からそれ以 上何もアクションがなかったということなのだろ う。ギューリヒに関する記述もこれを最後として 議事録から消える。最初の事件発生から3年半を 経て,ペーター・ギューリヒに関わる騒動は漸く 終結したのである。
終 わ り に
最後に,本稿における考察を振り返ることで結 びとしたい。
第一に,本稿の考察からは,宗派対立期の非公
認宗派共同体が対外的・対内的に抱えていた困難 が明らかになった。すなわち対外的には,非合法 下で参事会による検挙の可能性が常にあるなか で,秘密典礼を挙行する困難である。また,実際 に検挙がなされた際には,検挙された個々人に危 険が生じるだけでなく,個々人から漏れる情報に より共同体全体に危険が及ぶ可能性があった。改 革派共同体は,共同体全体への危険を避けるため に,そのような場合には個々の構成員に「十字架 を担って」もらう判断を下すことがあったが,こ のことは対内的な困難をより深刻化させることに つながった。
また,対内的に抱えていた困難について,ケル ン改革派共同体は宗派政治上のアクターとして決 して一枚岩ではなかった。その内部には,共同体 の役割および共同体と個人との関係に関する複数 の競合する理念が存在しており,今回のギューリ ヒの一件のような問題が生じた際には,それらの 理念が激しく衝突する様相を示したのである。ま た,ケルン改革派共同体の組織・個人のなかには,
宗派的アイデンティティとともに,場合によって はそれと対立する地縁的アイデンティティも存在 しており,ある局面では前者よりも後者が優先さ れることがあった。すなわち長老会議は,地縁的 共同体への加入年数が短いギューリヒに対して,
宗派的な同胞ではあるものの露骨な不信感を抱い ていた。またそのギューリヒは,宗派への忠誠よ りもケルンでの生活を優先しカトリックに改宗し た。宗派間の分断・対立の力学が社会全体に浸透 したとされる近世社会においても,地縁的共同体 のアイデンティティは依然として強力に存在し続 けていたのである(26)。
近世社会に生きる諸個人は,精神的なもの,物 質的なものを含む様々な宗派的・地縁的「絆」に 絡み取られて生活していた。これらの絆は,個々 人を保護するものであるのと同時に,既存の共同 体に束縛するものでもある。ギューリヒの事例か ら明らかになるように,これらの絆が一つ一つ断 ち切られていくことで,個々人の生存が脅かされ ると同時に,個々人の行動を縛り付けていた障壁
が消えていく。その先に改宗という行為が存在し た。そして,改宗に踏み切ったギューリヒは,か つて彼を保護・束縛し,そして不幸な出来事の結 果断ち切られてしまった絆の「記憶」を最大限に 利用して,新たな生活を築いていこうとしたので ある。
(2022年4月28日受理)
注
(1) 代表的な研究として(Kaplan 2007),および(Safley 2011)に収録の諸論稿を参照のこと。
(2) オ ス ナ ブ リ ュ ッ ク 司 教 領 は1648年 の ヴ ェ ス ト ファーレン講和条約の決定により,カトリックとプ ロテスタントの司教が交替で統治する体制が取られ ていた。領内では両宗派の勢力が拮抗していた。
(3) noch ein Neuling, dessen Fundamenta der Religion uns daher nicht allerdings bewußt wie stark
(4) seiner eigenen Hausfrau, welche dies Kreuz ganz un- gerne tragen wollte fast sehr angelaufen, die lieber alles zu tun vorgab, dann die Stadt und ihre Nahrung verlas- sen
(5) 当時のケルンでは,石工職人の年収が74ライヒス ターラーと見積もられている(1667年)(Gramulla, p. 496)。従って,300ライヒスターラーは石工職人 の4年分の年収に相当する。
(6) この時にケルン改革派高地ドイツ語共同体からも脱 退したのか否か,移住先の改革派共同体であり,自 身がかつて所属していた共同体でもあるミュールハ イム改革派共同体に復帰したのか否かについては,
史料からは明らかにならない。
(7) ペーター・ギューリヒが所属した管区の長老は ギューリヒの検挙が生じる直前の1626年12月9日 にハインリヒ・ヴァイヤーからトーマス・フォン・
ギューリヒ(件のギューリヒの血縁者ではなかった ようである)に交代していた。しかしその後の議事 録では,依然としてヴァイヤーがトーマス・フォン・
ギューリヒと共同で管区の職務を担っている記述が 見られ,ギューリヒの一件に関する議事録にもヴァ イヤーの名前が度々登場することから,当該管区で は長老交代後もヴァイヤーが強い影響力を行使して いたようである。この点を踏まえて,また新任の長 老がペーター・ギューリヒと同姓であることから,
当該管区を記載する際は「ギューリヒ管区」ではな く「旧ヴァイヤー管区」とした。
(8) sie sollten ihm 100 Ggl. in Monatsfrist zu Ersetzung seines Schadens verschaffen, oder es würde sie ein meh- reres kosten
(9)einstmals vor desselben Vorstehers Behausung ohne Scheu heftig tobet, so sind ihm von gem. gewesenem Vor- steher, jedoch ohne Rat und Vorwissen der Kirche : 800 Ggl. zu verschaffen zugesagt
(10)wollten ... den unruhigen Mann jedwedem zu Haus senden ; und viel dergleichen Bedrohung mehr
(11)sie viel hätten zu betrachten die Exempel vieler Heiligen, welche vielmehr Marter und Pein und endlich den Tod lie ber erwählt, als ihre Mitbrüder in Gefahr und Be- schwer zu bringen
(12)宛名がキュフラーとされた理由は推測するしかない が,当時の状況からすると,ギューリヒへの補償金 の共同体全体での負担に対し強硬に異議を唱えてい た他管区長老がキュフラーだった可能性が高い。た だし,書簡の文面では呼びかける相手が常にeuch
(君たち)と書かれているため,書簡の訴え自体は 共同体全体へ向けられている。また,差出人のメル テンスなる人物は議事録の他の箇所には一切登場し ない。全くの架空の人物の可能性が高い。「脅迫状」
の全文は(Prot. I, Nr. 1075.2)に転記されている。
(13)Ja, den alten Mann Hendrich Weyer, der 52 Jahr der Kirchen gedienet hat, lest man nun im Stich
(14)Und wan ihr dem Pitter van Güllich schon 1000 Glgl gibt, so gebt ihr es doch nicht ausdem euren, sondern aus dem gemeinen Gelt.
(15)Dann es beruhet nach ein sehr böses Vornehmen, welches sich anders bald herfürtun wird.
(16)Derhalven raht ich euch nochmalen, als Freund, daß ihr ein End mit diesem Mann macht, sonsten wirts nit woll zugehen und der Untergang der Kirche sein.
(17)die Brüder ... endlich resolvieren müssen dieser Extor- sion wiewohl zum Nachteil der Gemeinde Platz zu geben
(18)sie billig ihr Creutz zutragen schuldig wären, und andern nicht auf den Hals zu schieben hätten ; das Geld der Kirchen zu solchem Ende auch nicht gestiftet
(19)何れも『旧約聖書』「民数記」に登場する,モーセ に反抗したために神によって生きながら大地に呑み 込まれ滅ぼされた者たち。組織に対する「反逆者」
の象徴。
(20)er Gott, der die gottlose Rott Korah, Dathan und Abiram lebendig zur Höllen hat verstoßen, denselben oder diesel- ben wolle strafen, die daran schuldig sein
(21)「信仰の個人化」については(Asch 1998)を参照。
ただし,アッシュは宗派間の関係が法的に厳密に規 定された神聖ローマ帝国においては,西欧諸国のよ うな「信仰の個人化」が生じなかったとしている。
神聖ローマ帝国における法的な宗派体制と個人との 関係については(Whaley 2000)を参照。「社会的紀 律化」については(エストライヒ 1993)を参照。
エストライヒの議論では国家が主体とされている が,同様の運動が自律的な村落共同体などでも生じ ていたことについては(Schmidt 1997)を参照。
(22) der Peter Gülich ... wider seine starke Verschreibung und unsere Guttaten sich nunmehr allhier niedergesetzet, pa- pistisch erklärt, und darauf beim Rat supplicando angeben ; geht auch daneben mit allerhand Drohworten um
(23) 都市ケルンにおいては,市民権を持つことにより,
都市参事会員の選挙権,都市法による保護,市内で の小売営業権などを得ることができたが,市民権を 持たずとも市内居住は可能であり,近世にはそのよ うな市民権非保持住民が多数存在した。17世紀初 頭までは,プロテスタントであっても市民権取得が 可能であったが,1617年に市民権取得時の資格審 査の項目にカトリック信仰の保持が導入されたた め,それ以後はカトリック以外の市民権取得は困難 となった。市外からの転入者については,資格審査 を通過した後に,各々の生業に応じて課される徴収 金を納付すると市民権が付与された。ケルンの市民 権については(Deeters 1987)を参照。
(24) ケルンから追放された後のギューリヒは,移住先の ミュールハイム改革派共同体に復帰した可能性もあ る。しかし,ギューリヒが改革派信仰を棄ててケル ンに帰還したという事実は,仮に彼がミュールハイ ム改革派共同体に復帰できていたとしても,当該共 同体との結びつきは彼のケルン帰還を思いとどまら せるほど強力なものではなかったということを示し ている。あるいは,ミュールハイム改革派共同体は,
自分たちの下から他の共同体へ「乗り換えた」人物 を,あまり歓迎しなかったのかもしれない。もっと も,ギューリヒがミュールハイム改革派共同体から ケルン改革派共同体へ移ったそもそもの理由につい ては明らかでない。
(25) 1628年3月以後,1件のみヴァイヤーが議事録に登 場するが,それは彼の娘が結婚したことを報告する ものであり,彼自身の存命を示すものではない
(Prot. I, Nr. 1081)。
(26) 宗派信仰と地縁的共同体への帰属意識の関係につい て,改革派が公認宗派であったオランダ・ユトレヒ ト市を分析した安平氏は,カトリック住民が自らの 信仰を維持しつつ,自らの都市共同体への貢献・忠 誠という言説を超宗派的な文脈で用いることで生存 を確保していたという示唆に富む指摘を行っている
(安平 2022)。
引 用 文 献
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安平弦司「多宗派時代の市民権──宗教改革後ユトレヒト における都市共同体再編とカトリック──」『史学雑 誌』131-1(2022),pp. 1-39.
附記
本稿は科学研究費助成事業(若手研究)課題番
号: 20K13211「近世ドイツにおける「宗教的寛容」
概念に関する社会史,思想・法制史の横断的研究」
の研究成果の一部である。
“sie billig ihr Creutz zutragen schuldig wären, und andern nicht auf den Hals zu schieben hätten”
Infighting in a religious minority Community in the Early Modern German City Cologne
KAGIWADA Satoshi
In recent studies about the early modern multiconfessional society, historians have analyzed how people managed to live together with different religious neighbors. In those important studies however, historians tended to focus on the ‘inter-’confessional relationship between different religious groups. Because of this, historians have often described ‘inner-’ confessional communities as relatively united, harmonized organiza- tions.
This article, considering an infighting occurring in a Protestant Presbyterian church in the early seven- teenth century German catholic city Cologne, analyzes inner-confessional problems, particularly what rela- tionships have individual believers with the church organization and what inner-confessional problems make individuals choose to convert to another confessions.
As conclusions of our analyzation, this article indicates following points. First, Protestants of City Co- logne gave equal importance to what confessional church an individual belongs to, and what local community this one belongs to. In other words, these Protestants often distrusted a ‘new comer’ of their local commu- nity, although he/she has same faith. Secondly, in the Protestant church of the city, people had two opposite concepts about relationship between individual believers with the church organization, specifically to what ex- tent the church organization should have responsibility for ‘illegal’ acts by individual members. Thirdly, as a result of that individuals step-by-step lost their local bonds which had protected/tied them, they made up their minds to convert to another confessions.