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近世における本邦の置付放牧に関すろ地理的研究
(そ の 1)
安
田 一初雄
1.置付放牧と置付牧
(1)置 付 放牧
一つの牧内に,四季を通じて牡牝共「置付」に放牧し,自然の繁殖にまかせておく放牧を置 し付放牧と呼ぶことにする.この語は南部藩牧馬取扱方問答個条書中の「四季押通し置附にいた
ひらカ ひらまき
し候放牧」からとワた.津軽藩では平野又は平牧とよんだ.この藩では昼間放牧を「追込牧」,
くの四季を通じ昼夜放牧するのを昼夜平牧,或は平野といった.宝永元年5月3日の記に「今度御
ロ
牧馬平野二被仰付候,尤冬二至候而モ差図無之候而野取仕間敷候.附,追込詰候儀堅可無用事」
とある.置付の意味はわかるが,平野叉は平牧は如何なる語源をもつものか不明である.しか し,その意味するところは置付と同じでしかも津軽藩では南部藩のそれを手本にして初めたも のである.このような放牧を,幕府管下の下総の諸牧や伊豆諸島では,野飼とよんでいた.中 くの世の奥州における尾鮫の牧の野飼も,同様にこのような置付放牧をさしている.しかし野飼の ての語は,単に放牧と同義に使用される場合もあり,置付放牧ばかりを示す語でない.置付放牧は 周年放牧の一種であるが,輪換周年放牧や牧畑放牧とは区別される特性をもワている.発達史 的にみると,本邦の牧の大部分はかワて置付放牧をやワていた如くであるが,それを他の型の 放牧から区別する適当な語がなかったので,便宜上置付を採用した.
(2)置付牧の経営と景観
一般に牧の経営には大きな資力が必要で,近世においても同様一般民間人の手で経営するの は仲々困難であワた.特に置付牧の経営はそうであワたから,その大部分は幕府叉は藩の経営 にかかわり民間のものは稀であった.組織がととのっていてしかも民間経営であワた置付牧は,
く くぼり
牡鹿半島の十八成組の牧,即ち大原牧場が唯一の例であろう.但し,これも藩の援助を得て発
足した、
置付放牧は一般に丈夫な牛馬を生産することを目標として行い,牧の経営は甚だ粗放的であ ワた.中には伊豆諸島の例の如く,繁殖のための管理を殆んど行はないものもあった.そして 野獣をとると同じようにこの野飼の牛馬が必要に応じて捕えられたのである.しかしかくの如
きものは極端な場合であって,一般には保護繁殖をはかるため種々な方法で放牧牛馬の管理を やっていた・東日本では雪にそなえる乾草を貯え資必要もあワたが・南国でも犬狼の害を防い だり,病牛馬の世話をしたりする仕事があワた.優良な牛馬を生産するために種牡牛馬をかえ,
よくない母駄を整理し,種牡馬だけは冬季舎飼を行うなどの管理も一部では行はれていた.
牡の数は牝馬数十頭に対し1頭とするのを適当として,優良種を選んで種牡にした牧もある.
くの
南部藩では「弍才以上牝馬五七拾疋ヨリ百疋程之牧江,牡馬一疋之割合ヲ以放来候」として,
くの
木崎野の如き大牧で,牧馬800頭を越えるものでも,種牡は5頭以上にならなかワた。もウと も経営が一層粗放な牧では種牡の選定やその数などは余り問題になっていなかワた如くである.
置付牧には放牧家畜の身隠山即ち庇蔭樹林が必要である.木崎野で置付を初めるよう建策し
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モのた一戸五右衛門の書面に,庇蔭のための立木をたてれば,冬飼即ち舎飼の労を省くことができ るとある.日本では野焼即ち原野の火入れを制限さえすれば大方の場所に庇蔭樹林ができた・
くの
一戸の建策中に,r若し新に土手を築き,野焼を制せば,小河原沼に傍ふ丘陵は,小田頭より北 八幡館に至るまで,五ケ所は皆山林を設くるを得べし」とある.一般の原野と同様に,温暖季 放牧の牧では良草をはやし,だにを駆除することを目的に,毎春火入れをやるのが普通であワ た.置付の牧では,これに反し多くの場合火入れが許されることはなかワた・庇蔭樹林を立て る必要があるばかりでなく,冬季も牧内に牛馬が放牧されているからである・そのため放牧や エの 野捕に邪魔になるほど,樹木が繁茂するところもあワた.1775(安永4)年3月10日の記に・
じ し
「北野立林山に相成差支候間,当春より五六ケ年中も,野火時節に火相通為 勢私等被仰付候
り し の の
様仕度趣 委細帳面を以伺出候処 御沙汰可有之申渡置候 野火に而立林焼候儀者相控,侍浜,
じ白前両村塩釜焚火に為切取可申候,其上草喰場能程に切取早俄取申間敷候はば,野取の節模様
し次第二三日宛も人足相懸年々為切取,草飼場宜相成候様手入可為仕事」とある.これは南部の 北野で火入を出願し,許されなかワたことを示す.立林を焼かずに,切って侍浜,白前両村の 製塩用燃料にあてよというのである.1760年に許可されていた塩役御免の塩釜四工に使用する 燃料であろう.
木崎野でも野焼を制し,置付を開始して20年後には,立木が邪魔になるほど繁ワてきた.そ れで塩煮薪に伐採し製塩用にあてることを願出て許された.即ち1786(天明6)年2月9日の
くの し
記に「五戸木崎御野前々より柏木生立,卯年以前迄人足四百人程宛懸切捨候処,卯年凶作以来,
活残御百姓極窮にて,切捨不申に付.御野取之節追立に甚差支相成候由,全体御村遠き御場所 故,薪等にも勇取候儀無之故,次第に生立甚差支候之旨 然処三沢村於浜 塩煮候儀ニケ年御 免被成下候はば,右塩煮薪に切取可申候 尤御礼金一ケ年二歩づつ上納致可仕候間 願之通被 仰付下度旨,三沢村左衛門五郎,弥兵衛願出候趣 五戸代官御野馬別当末書を以申出 願之通 御用人中江申渡」とある.卯年は天明3年で,この年の凶作の生残り百姓が困窮し,立木の伐 採をやらなかワたため,柏の木が繁茂した.1758年置付開始以前は,毎年火入れを行ワたので,
耐火力の強い柏が焼け残り,20年後に繁茂したのであろう.
ロの 安房の嶺岡牧でも,松林や雑木林の切すかしを行った.1726(享保11)年正月の記に,「東
し
野牧之内 知行所上小原村に附候松林,野馬の為に障候間,此度切すかし候様可被致候,尤御 勘定奉行へ委細可被承合候……柱木牧之内知行所川谷村に附候雑木林 野馬の為障候間此度切 かわやつすかし候様……」とある.上小原は安房郡長狭町の大字,川谷は同郡丸山町に属する.切透を くエり
する目的の一つは,日当りをよくし,野馬の喰草を豊富にすることにあワた.茨が生え茂って,
柱木牧ではその焼払を命じたこともある.
日本馬政史挿入の三崎牧之図には,「松木不磯焼為成候所」とか,「此処小袖道より向全部 焼為成候所」とか,「此処御野馬八戸御領境野原にて,木立御尽〔焼か〕為成候所」と註記が ロ きある.1791(寛政3)年3月,三崎の内猫ケ平,栃浜,砂子崎の三ヵ所を野焼したというから,
置付牧でも火入れをすることがあったのであろうか.しかし一般には火入れをやらないのか普 通で,その為切透御用が必要である程であったところをみると,多くは森林状の牧野景観が卓 越していたわけである.ただ牛馬の立所付近には原地或いは草飼場があった.小金牧古図に註 記された相之野原野馬立場原地,高田台野馬立場原地などいづれもその例である。ここには開 潤な草地状牧野が所在した.
(3)牧袋と野捕
置付放牧では,一定の時期を定め,或は必要が生じたときに,牛馬を追い集めて野捕を行ワ た.野捕を執駒,野馬追又は野馬掛などと呼んだところもある.南部藩では置付の牧馬を毎年 夏に追い集め,2才駒を牽上げた.2才駄即ち2才の牝馬は母駄になるから,焼印をつけて牧
安田:近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その.1) 27
に放した.愛鷹牧では主に3才駒を捕えたが,3才に限ワたわけではなく・4〜5才以上のも
のも野捕した,伊豆諸島では野捕の時期を一定せず,必要がある毎に捕えた。野捕はどこでも 多数の人が集ワて,にぎやかに行はれた.追う人,逃げ場をふさぐ人などは,近くの村から大 方村高に応じ人足としてかり出されてあてられた.野馬を捕える捕手を職とする人もあワた.追いつめて野馬に縄をかけるのは勇壮な見物であワたから,見物人も多数群ワた、中でも薩摩 と相馬の野捕は広く世間に知られた年中行事であった.南磐の西遊記に,「薩州にて牧の荒駒 を捕ることあり,稀代の見物事なり,(中略)このこと奥州相馬にもあり」とある.小金及び くゆ佐倉諸牧の執駒も,同じく稀代の見物事であワたであろうことは,多くの観執駒記で知れる、
牛馬を野補するのに,それを追込む施設があれぽ都合がよい。この施設を一般に牧ともいワ おろたが南部藩では牧袋,薩摩では韮,小金,佐倉および愛鷹牧では込叉は捕込と呼んだ・込とか 大込の地名が残っている例もある.千葉の東葛飾郡鎌谷村大込などはその一例である・この追 込は土塁又は木柵でかこまれ,狭い入口がつけてある。入口の両側には普通外に向ワて末拡が
りに土塁又は木柵が設けてある.勢子が野馬を追い立て,次 第に袋の中に導くのである.袋に追い込んで入口を塞ぐと,
野馬は逃げだせないようになワていた、木崎野,大能,福山 野などでは土塁でかこんだ牧袋即ち韮を設けておいた.相馬 では野馬追の際に毎年木柵で牧袋を作ワた.木崎野および又 重なども,古くは木柵のみの牧袋であワたが,1691(元禄4)
年以後に,土塁に改造された・このことは同年8月7日の
く り記事に「木崎,又重,御野馬立所毎年秋野馬取候節垣無之候 得バ不罷成候,毎年柴株取候得ノミ,山モツキ候,百姓共困窮 仕候由,依之御野馬立所辺二百間四方ノ土手築置,御馬共取 上申候得バ,御費モ無之段,御代官木村又助申上下河原勘衛 門,上田八郎右衛門取次遂披露候処,尤二被為思召i当年ヨリ 土手築候様ニト被仰付」とあるのでわかる.又重のように温 暖季放牧を行った牧でも牧袋の施設があったから,牧袋は置 付牧のみの施設とはいいないが,
えていた例は知られていないから,
と思う.
置付牧の野捕は殊に手数がかかワた.
では数日がかりで,牧袋に追い込んだ.
および三崎野では野田代官下の村々から,1日400人,
くゆ 々から夫々勢子がだされた.
が勢子・として使役された.
足が860人以上であり,
払,
野捕の時期は例外もあるが,多くは盛夏の候であワた.
善」とされていた.相馬の野馬追は5月中の申に一定していた る.小金および佐倉の諸牧でも古くは夏に執駒を行った.
書 磨殉 輻蟹嫉τ 事 蓄
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炉
第1図 高田台捕込平面図
又重以外の温暖季放牧の牧で,土手をめぐらした牧袋をそな この施設は置付牧独特のものであワたとみても大過はない
勢子として近村から多数の人足が集められ,大きな牧
木崎野では五戸代官下の村々から,1日376人,北野
大間および奥戸では田名部代官下の村 厩馬新論によると,小金および佐倉の諸牧では,その近郷の農民 佐倉捕馬之節村々より出候人足触状によると小間子牧のみでも出人 ロの小金の上野および高田台両牧の牧付76力村出人足816人に達した・内 夜番,立切,追勢子,捕手および牽人足など夫々割i当てられた仕事があワた.
南部封域志によると,「非九夏中不 太陽暦では6〜7月に相i当す 夏に執駒を行うのは,「馬陽物也,
喜寒畏熱,如冬春之際,強桿難制,至夏力衰・故本以六月始」と再製執駒記にのべ.てある・
くの1759(宝暦9)年,北御野守,肝煎等から一戸五右衛門に届出た書面に,つぎの記事がある.
「当年は御野取に付,段々御野馬見揃置可申旨,先達度々被仰付候得共,雪中の劒は例年共に 馬共木立に引籠罷在候故,日々見廻の儀は無油断相廻候得共,確と見揃兼申候間,段々雪消申
28 福島大学学芸学部論集第9号 1958−3
呼付,.¥三月末より所λ・に居候御野馬相尋候処,御野馬不足に相見得候共,例年共に暑気に相 成候得ば御馬とも木立より野原へ相出候故,其瑚右不足御馬と相出可申候哉と奉存候,其内所 所遠方迄相尋罷在候処,此間暑気に罷成御馬共段々諸所野原へ相出候間,相改候処,御馬数二 十二疋不足に御座候 不及是非毛性長共に別紙を以て御訴仕候(下略)」.これによると暑気 が激しくなれば,野馬が野原に集ワてくる様子がよくわかる.
日射の強い夏の日中,放牧牛馬は群をなして集り,雲がかりて涼しくなると分散する習性は よくみられる.夏でも雨天の際は野馬が木立に入ウて,野捕に不都合なことは,次の一戸五右
くユ ン
衛門の御野馬捕法日記(明和3)でわかる.
七月朔日(晴天)
一.土取牧場へ母駄十匹,駒二才三匹,当才三匹追入ル.
一 沢牧へ母駄,駄二才已上三十二匹,駒二才六匹,駒当才四匹追入ル.
一一
M啓上仕候,先頃御訴申候通,去月二十八日 三崎野出立,喜多御野へ引移申候へ共,廿八日終日大雨し
ニテ御人足共難申二付,小家懸等相成兼翌廿九日小家懸仕候 晦日モ雨霧強ク,野馬共木立へ入,御野元 へ相出ズ候二付,御野取成条候処,昨日天気二罷成,沢牧へ母駄,駄二才己上四十二匹,駒二才九匹,駒当 才七匹,右ノ通追入申候,此段御訴仕候.
3月に野捕を行った牧
もある.嶺岡や愛鷹の諸 牧はそれである.後者で はこの季は妊馬のために よくないという理由で時 期を変え,初冬から仲冬 (19)に野捕をやることにした.
嶺岡でも冬に時期を変え る議が問題になワたが,
地元の村 々の反対にあっ てそのままになっていた ようである.
相馬藩や薩摩藩では野 馬追を藩士の錬武の手段
とした.そして相馬藩の ように駒の生産を主目的 にしないものもあワた.
ここでは野馬追で2頭の 野馬を捕えるが,妙見社 の祭事がすむと牧に放す のを例としていたのであ る.しかし一般の置付放 牧は牛馬の生産を目的と したから捕えた牛馬は藩 用に供し,又は民間に払 下げた.
㈲ 置付牧の分布 置付放牧を行ワた牧の
第2図 置付牧の分布(1,幕末の置付牧 2,幕末には廃されていたもの)
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安田:近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1) 29
分布を図示すると,第2図の如くである.その大部分は太平洋斜面の海岸帯にある.特に東北 日本ではこの傾向が顕著で,海岸から多少離れているのは,津軽の5牧ばかりである.もっと もこの5牧は僅々2年間だけ置付放牧を実施して,追込牧にかえてしまった.関東以西では海 岸から20粁ばかり離れた置付の牧があって,東北日本とは多少異ワている.
地形上からみると,洪積台地や海岸段丘を利用した牧が多く,南部藩の木崎野,関東の小金 および佐倉の諸牧は洪積台地の上に拡り,大間,奥戸,北野および三崎野は海岸段丘上にある.
火山の裾野も諸種の条件がこれらに似ていて,津軽では津軽坂以外の4牧は,すべて火山麓の 台地,火山斜面を利用していた.愛鷹の諸牧は,同名の火山の東南表にあり,主な立所はその 裾野の火山扇状地上にあワた.薩摩の諸牧の多くは,旧姶良火山の裾にあたるシラス台地上に 存在した.
高度が低く,起伏が小さい丘陵上に開設された置付牧もあった.津軽坂,嶺岡,笠山野など はその例である.置付牧の海抜高度は概して低く200m以下のものが多い.ただ一つの牧の一 部に高度が500mを越えるところがあワて,低地牧場と高地牧場を兼ねたのがある.
島は放牧家畜の逸出を防ぐに便利であり.島内のどこでも海岸からの距離が大して大でなく,
古くから牧に利用されたものが多い.伊豆の大島,新島,神津島,三宅島,八丈島,薩摩の長 島,上甑島.肥前の生月島,平戸島,黒島,五島列島の諸牧などはその例である.半島も又陸 に接続する部分が狭いほど,島に近い性質をもっていて,牧に利用するには土畳や柵垣の設備 も少なくてすむ.南部の三崎野,豊後の神馬牧,日向の都井御崎,薩摩の野間などはその例で
ある.
気候的条件に就いてみると,置付放牧の障害になる要因は,本邦では積雪をもって第一とし,
気温とか温暖季の長さなどは余り重要ではなかワた.積雪が多いと笹や草が雪に覆われてしま うからである.灌木まで雪の下にかくれる程の雪では,その樹皮をかじることも不可能になる.
ハラ
.雪が少なければ,北海道でも置付放牧が可能であった.下北半島の大間,奥戸では1721(享保 く り6)年,例にない大雪で置付が困難になった.この間の事情は同年2月4日の記事で明瞭である・
公儀よりの御指図により,大間野牧御馬を放置せしに,其年大雪にして小柴,根笹の類を掘り給することも能は ざる状態にして野馬飢渇の実況なるによP,御野馬別当石井新三郎よロ盛岡御用人に上申し,且つ野捕の上牽上 べき哉伺たるも,御用人にて取計難く公儀へ伺の為め飛脚を以て江戸邸へ急報し,其の間干草を賦り養ひたり,
而して公儀より臨時野捕すべき旨江戸邸へ達したるを以て,老中へ通知あ凱
一.田名部大間野,奥戸野面御野馬,大雪:にて痛喰物等無之,野廻り成果候段,先達江戸へ申遣候処に,桑山内 匠頭.工藤弥七郎を以て,委細被申上候処,御承知被成最早段々雪も消可仕処,今以雪深にも有之に付,野捕 致雲消候て野放可致之旨,追而被為達上聞,御挨拶之旨申来云々
この折の事か,その後か確かではないが,享保年間の大雪では,奥戸で75頭の死馬をだし,
く う
その屍が5尋も高い樹枝にかかワていたという.18世紀中葉のこの牧の最多頭数128疋をとワ て,当時の頭数とみなすと,半数以上が死馬になったことになる、
置付の牧でも平常の年の牧馬の死亡率は,温暖季放牧の牧と余り異らない.このことは南部 の9牧の史料によワても知れる.ここでは置付も温暖季放牧も,大方10%以上の死馬を出して いた.大雪の年には次頁の表に示す如く置付牧の死馬の数が多い.
1798年には木崎野で略3分の1の馬が死んだ.大雪の程度が不明であるが,場所と年によっ に うて可成り差があったのであろう.この雪中の惨状については広沢翁の記事がある・木崎野では
この降雪にそなえ,犬落瀬村などに年々乾草を貯えさせ,又牧内にも刈集めて用意しておき,
便宜散布して与えた.1m位までの雪では,馬もよく凌ぐことができたが,それ以上に達する と,行動の自由を失ったという.北野や三崎でも萩や乾草を,雪にそなえて用意していた.三 本木海岸平野は青森県でも雪が少なく,根雪期間は短い。大間および奥戸付近は,下北半島中で
30 福島大学学芸学部論集第9号 1958−3
置 付 放 牧
温暖季放牧 (24}
年副区分1大間1奥戸:木崎i北野1三崎1佳谷1相内隊重蟻渡
1798 馬 数 118疋 100疋 644疋 70疋 83疋 38疋 63疋 123疋 46疋
(鰍1・)i死
苳n @ll% 1%2翫逡% 9%一言%、塁%一髪% 葦%
1湧…馬数 121疋 117疋 474疋 66疋 87疋 55疋 47疋 137疋 52疋
(鰍11)死
苳n @翫協銑琵%二 §%1皇% き% 1%
数馬 比馬死
一︶
74
80
サ
−文 ︵
96疋 104疋 710疋 95疋 67疋 41疋 48疋 140疋 77疋
1214−16623114213
412% 13% 23% 24% 16% 9% 4% 9% 5%
〔註〕この表で馬数は前年の総数をとった.死馬は当年の数であるが,当年生れのものの死馬を含むかどうかは 不明である。
く のは殊に雪が少ない.木崎野はいくらか多いが,平年の最深積雪は50〜60Cmであったであろう.
く の 北野や三崎は一層雪の少ない所にあるが,それでも雪の為に事故を出している.
く つ
雪と置付放牧との関係は,南部藩の牧馬取扱方問答個条書がよくあらわしている.即ち「海 辺之内雪吹払,枯草冬も相見得候程之場所は,四季押通置附にいたし候放牧も有之 雪多降積,
冬置附難相成場所は,三四月草萌候頃見合,牧に馬共相放,九十月頃厩二牽入候」とある.こ れによりて雪の少ない牧でばかり置付をやワたことが知れる.
牡鹿牧場や妙見神馬の牧以南では,根雪が殆んどなく,雪害からはかなり解放されていたが,
相馬の妙見神馬の牧でも,積雪時には木戸口で飼料を与えるなどの管理を必要とした.小金諸 牧でさい野馬の喰草が雪の下になって困ったことがある.
冬の低温は特に北日本の牧が海岸にあるためか,問題になっていない.木崎野では三沢付近 で最低の極が一15〜一16。Cに達したであろうが,このような時には比較的に温暖な海岸や湖 岸に避難することもできた筈である.広沢翁も「馬能く便宜を知り,北風には南に避け,西風 くハンには南東に廻るという如く,夫々に択ぶ所あり」とのべている.北海道の有珠場所でも,厳冬 く うに二をま海浜に:、馬力:集った.
夏の高温は今日牛馬に対するほど,昔の牛馬には次にしるす理由によワて障害にならなかワ たと思われる.然し高温をさけるためにも,海岸に近い位置の牧は好都合であった.
(5)放牧家畜と置付牧の廃止
置付の放牧家畜は馬が主であワた.中には嶺岡,大分の神馬,伊豆の諸島の如く牛を置付に した牧もある・伊豆の大島では,小笠原の野羊島と同様に野羊も置付にした.但しこの種の例 は他にはない.この牛馬は日本の土産種であった.都井牧場の御崎馬,北海道の土産馬に就い くぬき
ては,三村一,松本久喜氏の研究がある.北海道の土産馬は南部馬の系統である.これらの野 駒の体高は4尺内外で,いづれも小形である.5尺以上の名馬も時には出たが,昔は馬尺の低 いものが喜ばれたという.馬尺の比較のみでその品種を云々するのは危険であろうが,それは 品種判別の一つの資料にはな
@種 別1体副備 考㎝)
るであろう.
三村氏の御崎馬の研究によ ると,この種の馬は粗食に耐 え,体質は強健,疾病に対す る抵抗力が極めて高いという.
一般の在来種の馬はこれと同 様の特性をもワていたとみて
馬種戸野 馬馬馬原
堆奥 叢 道部㌦肆意 海 軽岡
北南大木 御御津嶺 寸寸寸寸3892
尺尺尺尺4434
4尺3寸
3尺9寸4尺3寸
3尺9寸27頭平均(河田力)
7頭李均(河田力)
24頭李均(明和3,2才駒)
38頭平均(明和3,2才駒)
4頭平均(三村1,2才駒)
24頭早均(西田氏)
29頭卒均(宝暦13)
26頭ZF均 (元緑14)
安田・近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1) 31
よい.この特性は置付放牧を実施するのに都合がよかワた.これに対し外来種の馬は,必ずし も日本の置付放牧に耐えうるものばかりではなかワた.薩摩藩が洋種を導入した際の経験がこ れをよく示す.即ち幕末に伊敷比志島に放した洋種はまもなく衰弱して,舎飼することになつ
くむき
たという.南部や小金などに導入した「はるしゃ馬」の類も同様であワたろう.これによって みると,今日のような改良種では,置付放牧が困難であワたと思われる.
牛の品種については,充分な資料はないが,嶺岡の白牛以外,馬同様に在来種であったこと は想像に難くない.これについても馬と類似の関係を認めることができる.
置付放牧の慣行は,明治初年にその大部分が終末をつげた.木崎野は1869(明治2)年に開 拓のため野馬の処分をはじめ,同年中牧を廃してしまった.大間および奥戸は1870(明治3)
年斗南藩の支配下に入ワたが,牧の収入だけではその維持が不可能なので,まもなく廃止され くぶき
た.岩手県に所属した北野および三崎は,1873(明治6)年に廃止された.
薩摩藩の福山野,末吉野,重富高牧,鹿屋高牧等は1886(慶応2)年,伊敷比志島牧はその ゆ前年に廃止された.明治維新をまたずに廃された理由は不明である・
くゆ
平戸藩では幕末に8乃至11あワた牧が,明治元年頃には神崎および春日の2ヵ所になってし
まワた.
駿河,小金および佐倉の幕府の牧では,一部を除いて,明治維新後まもなく廃止された.幕 府がたおれ,藩が廃されると,それに所属した諸牧は大方廃止された.牧の管理に殆んど手を わづらわさなかワた,相馬の所謂妙見神馬の牧や伊豆諸島では,農民が経営していた大原牧場
(牝鹿半島)等と共に,維新後しばらく持続した.
置付牧の多くは,低地放牧地であったから,その頃すでにそこを粗放的な土地利用にゆたね ておけない時代になっていた.一方牧の維持には可成りの経費がかかって,牧の収入ではまか な得いない状態であワた.それで経営主体が崩壊したから維持費がかさむ牧の経営を廃止して しまワた.その跡地の多くは開拓地になった.
藩から農民の手に移された都井岬の牧は,今日でも続いている.しかしその牧内の大部分は 造林地になって,主牧地は極めて狭小となった.小間子や嶺岡などで後まで残った置付牧もあ
るが,洋種の導入によって,馬格が変ワたことも,置付の存続を短くしたようである.
置 付 牧 一 覧
牧 名 所 在 地 〔北海道〕
浦 河 目高国浦河郡浦河村
有珠胆振国虻田郡虻田町・有珠郡伊達町
〔青森県〕
津軽坂
入 内 雲 谷
滝野沢 枯木李 大間野 奥戸野 木崎野
〔岩手県〕
北 野
三崎野
〔宮城県〕
青森市鶴坂
〃 入内
〃 雲谷
〃 旧横内・荒川両村 中津軽郡岩木村枯木李 下北郡大間町大間
〃 〃 奥戸 上北郡大三沢町・百石町
久慈市侍浜・自前
〃 三崎
牧 名 所 在 地
コ コ コ
原原県馬県能野県野台西野野子沢作 日島神城 葉 田 間 福見茨 千 大七︹妙︹大桜︹上高印中下小柳矢
牡鹿郡牡鹿町・大原。鮎川・荻浜 刈田郡蔵王町・新地原肺湘騨飯鮒
久慈郡小里村・多賀郡高岡村 水戸市。見川町。丹下野
柏市豊四季。東葛飾郡流山町
〃 高田原・十余二 印旛郡白井村十余一,印西町 松戸市初富五香六実 船橋市三咲町。二和町 印旛郡八街町小間子
〃 〃
香取郡大栄町・多古町十余三・
32 福島大騨芸学部諭聯9号 1958−3
牧 名 所 在 地
取 香 内 野 高 野 油 田 嶺岡西一牧 嶺岡西二枚 嶺岡東上牧 嶺岡東下牧
桂木牧
〔東京都〕
成田市+余三 成田市取香・三里塚 印旛郡富里村七栄 印旛郡富里村+倉。両国 佐原市油田九美上
安房郡長狭町・大山・準久里中
〃 〃 北風原・丸山町大井
〃 長狭町・曾呂村・嶺岡東上牧
〃 鴨川町・曾呂村・嶺岡東下牧
〃 丸山町柱木山
(伊豆大島)三原山
(新 島)
(神津島)
(三宅島)雄山
(八丈島)西山
〔静岡県〕
兀 野 尾 上 新 牧 霞 野
〔岡山県〕
長 嶋
〔大分県〕
神 馬
〔宮崎県〕
御 崎
牟礼野
〔鹿児島県〕
吉 野 寄 田
瀬崎野 伊佐野 長嶋野 市山野
沼津市柳沢・鳥谷等
〃 沢田 駿東郡長泉村長窪
〃 原町浮島
邑久郡裳掛村長嶋
北海部郡佐賀関町牧山
串間市都井岬 北諸県郡西岳村
鹿児島市吉野町 薩摩郡高江村寄田 出水郡内 日置郡伊作町 田水郡長嶋大岳野 薩摩郡上甑村
1牧 名
所 在 地下甑野
唐松野 穎娃野 笠山野 市来野 野間野 高牧野 比志嶋 立目野 福山野 春山野 鹿屋野 末吉野 青色野
長 野
〔長崎県〕
崎袋属日岳崎島崎島島
神江生春日大高褥黒福
岐宿楠原牧
〃 下甑村 指宿郡頴娃町
〃 〃
薩摩郡上東麹村笠山 日置郡市来町 川辺郡笠沙町野間 鹿児島郡吉田村 鹿児島市比志島 肝属郡佐多村 姶良郡福山町佳例川 国分市春山原 鹿屋市 囎於郡末吉町 姶良郡蒲生町 薩摩郡入来町浦之名
北松浦郡李戸町神崎
〃 〃 江袋
〃 生月村
〃 獅子村
〃 手戸町白岳
〃
佐世保市高島 北松浦郡
〃〃
岐宿+二河牧 三井楽桐木牧 玉ノ浦飛月坂牧 玉ノ浦大中尾牧 玉ノ浦岳牧 1玉ノ浦毛津連牧 久賀島久賀牧 若松村佐尾牧
黒島村 福島町 南松浦郡岐宿町
〃〃〃〃〃〃〃〃
〃三井楽町 玉ノ浦町
〃
〃
〃
久賀島村 若松村
〔匡〕
(1)津軽藩御日記 日本馬政史二281頁
(2)後撰和歌集
(3)大槻丈彦:大言海
(4)南部藩牧馬取扱方問答個条書,古事類苑,地 部,牧
(5)九ヵ所御野馬員数智識古記書抜年表
(6)日本馬政史.二 230頁
(7)広沢安任・奥隅馬誌,青森県叢書二 29頁
(8)南部藩記録
(9)同上
(10)亨保集成綜編録,古事類苑,地部,牧
(11)千葉県史料・安房国下,84,入会山之儀,
358頁
(12)日本馬政史三,82頁
(13)古事類苑,地部,牧
(14)南部藩記録,日本馬政史二,228頁
安田:近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1) 33
(15)広沢安住:前掲書26頁
(16)上野牧一件,高田台牧一件,須賀家文書
(17)日本馬政史二243頁
(18)同上247頁
(19)同上三 49頁
(20)浦河牧一件,近世地方経済史料 第6巻
(21)南部藩記録
(22)広沢安住=前娼書 29頁
(23)広沢安任・前掲書 28頁
(24) (5)を参考にして作製
(25)高橋正雄:青森県新誌 78頁
(26)日本馬政史二222頁
(27)古事類苑,地部,牧
(28)広沢安任 前掲書 26頁
(29)日本馬政史三 58頁
(30)岡部利雄編:日本在来馬に関する研究
(31)11,26,31の文献により作製
(32)日本馬政史三 138頁
(33)久慈家文書,北牧場
(34)日本馬政史三 136頁
(35)山口麻太郎:壱岐産牛史,社会経済史学 7/11
一.南部藩の置付放牧
(1)五個所の置付牧 くり
南部の九牧中置付放牧を実施したのは5牧である.大間,奥戸,木崎,北野および三崎がそ れである.大間および奥戸は下北半島の北西隅,下北郡大間町に所在する.両牧共10m乃至50 mの海岸段丘上に拡がり,奥戸は1639(寛永16)年,大間は1646(正保3)年に御野即ち藩営 の牧となった.木崎は上北郡大三沢町および白石町にあり,9牧中最も広大で,南北9里,東 西2里と称せられ,小川原沼の東部から奥入瀬川の北岸に及ぶ洪積台地上にある.近世の木崎 牧は1630(寛永7)年に開設され,後土豪下田氏が献上した土地を併せて,牧を拡張したから,
御野の内には山中ジ根井,岡三沢,浜三沢,古間木,鶉久保,木下,前正前および深谷の各村 が含まれていた.
北野および三崎は岩手県の九戸郡東部にあり,北野は久慈市侍浜および白前にある花崗岩か らなる海岸段丘上に,三崎は久慈湾南岸に突出した石英斑岩からなる三崎の海岸段丘上に拡る.
いづれも高度100m乃至180mの波浪状の平坦面を広く残している海蝕台地で,浅い谷間の方々 には湧泉もある.三崎は硬い岩質からなるため,その名の如く東方に突出し,北,東および南 の三面は,高い海蝕崖でかこまれている.北野牧の開設は寛文年中といはれ,馬政史の著者は 1664(寛文4)年「御野守をおいて牧場の形をなした」としている.三崎牧は1658(明暦4)年 御野守をおいた.
これらの諸牧は牧開設当初,夫々温暖季放牧を行ワていたが,大間および奥戸は1719(享保 ゆン4)年幕府の指図をうけ,翌年から置付放牧を初めた.北野および三崎は1734(享保19)年,
木崎は最もおくれ1758(宝暦8)年置付を開始した.これらの諸牧の飼養頭数は,南部の九牧 のそれの70%を越え,産駒の数も多かったから,南部藩にとっては重要な牧であった.
南部藩では御野馬の管理に,御野馬別当,御馬責,御馬医などの馬役をおき,各牧には御野 守,馬肝煎,馬見名子,御野係百姓などを置いた.叉種牡および母駄の精撰につとめ,老齢に 達した種牡は優秀なものとかえ,老駄は払馬にだした.諸国の置付牧中では比較的に管理がゆ
きとどき,2才駒の牽上数も,年女野馬総数の1割内外に及んだ.
(2)大間および奥戸牧
下北半島北西隅,大間岬付近にあった大間および奥戸の両牧は,田名部代官下にあり,南部 の諸牧中では中庸の広さをもワていた.即ち大間は長さ1里半,横20丁余,奥戸は長1里,横 24丁余と見積られていた.
大間牧は大間町の東方にあたり,その大部分は10m乃至20m,と25m乃至5Qmの二段の海岸
34 福島大学学芸学部論集第9号 1958−3
段丘上の平坦面を占め,一部にある丘陵でも高度は100mにすぎない.奥戸牧は大間町奥戸の くユン
北方にあり,25m乃至40mの段丘と,40m乃至100mの緩斜面からなる.邦内郷村志によると,
大間牧は「海浜塩風強,生木ならず」とあり,奥戸は「海浜諸木不生」とある.平年の積雪量 は2㏄m乃至3㏄mにすぎず.半島の一隅で海にかこまれているから,冬の寒さも凌ぎ易いと見 え,南部藩では幕府の指図によワて,1720(享保5)年の冬から置付をはじめた.同藩の置付 牧としては最初のものである.しかるにこの冬は殊の外雪が多く,1721(享保6)年2月に至
ワて,幕府の承認を得て舎飼を行ワたことは既述の如くである.もワとも之れは臨時の処置で,
同年冬以降は又置付をやワた.南部では普通2才駒を牽上げたが,ここでは3才まで置付にす るよう命ぜられていて,狼害が甚だしかりた.幼馬が狼にねらわれるからである.それで幕府 のに伺ワて,1725(享保10)年からは冬は舎飼することになったから,置付開始後5年で中止さ
れた.
くの
その後1736(元文1)年にいたり,再び置付を初め,1776(安永5)年大間は「当時馬百疋 くの余置付」と記されるに至った.
③ 木 崎 牧
木崎牧は上北郡大三沢町および百石町にあワた。建保承久の頃(1213〜1219年)牧にとりた て,尾駁の牧から牝牡馬を移して放したと伝えられる.その頃も置付であワたようで,大雪で けン全部斃死し,その後中絶していたという.1508(永正5)年馬焼印図に「キサキ(八千匹のま
き也)印有丈字」とあるのは,この中世の木崎牧を示す.8,(X)0匹というのは少し大げさであ るが,妙野とならぶ大牧であワたろう.
近世に入ると古間木の地名がでてくる.古間木村,向古聞木等である.これは一時廃絶した 中世の木崎牧の一部か,牧袋をさしてよんだものであろう.1630(寛永7)年3月,南部重直 がこの木崎牧を再興し,母駄30匹を放した.1639(寛永16)年には土豪の下田洛太夫が,木崎 野の接属地を南部氏に献じ,牧の面積が拡大された.この近世の木崎牧は北は小川原沼の排水 口付近の湊脇から南は相坂川(奥入瀬川)まで30㎞,西は姉沼(姉戸沼)から東方海岸まで 8㎞に達した.海岸平野の一部で,海抜40m以下の,広く原面を残す台地上に拡り,小川原 沼,仏沼,姉沼などの湖沼の外,小さな沢が多くあって水の便に恵まれ,塩分は近くの海岸で 容易に求められた.
近世の初頭,木崎牧では温暖季放牧を行・っていた.置付を初めたのは1758(宝暦8)年であ る.当時まで南部の9牧中,大間・奥戸・北野および三崎は置付であワたが,他の5牧は温暖 季放牧を行りていた.ところが木崎野以外は,野馬を冬飼する村が夫々牧に隣接して所在した が,木崎野ばかりは近くの村がいづれも村高が少なく,そこには冬飼の割i当ができなかワた.
その為20km余も離れた二戸の福岡に冬飼を担当させた.初め福岡は村高が1万石を越え,100
頭前後の野馬を預るのは過重でなかワた. (宝暦5年木崎野の野馬数,112頭)しかるに
1754〜55(宝暦4〜5)年両年の凶作で戸数が減少し,村高も7千石余りになワて,百姓の野 馬預りの負担が大きくなワた、その上野続の村と異り,牧までの距離が長いから,春秋野馬を 牧に送迎するのが容易でなかワた.かくの如くであワたから御野馬別当,一戸五右衛門は置付 を建策したのである.木崎野は野場が広いので,延享寛延の頃(1944〜50年)から宝暦の初までに,秋の野捕りに 捕りもらしの野馬があワた.捕りもらしの野馬の中には殊に敏捷で元気の良い馬があったため でもあろうが1肉付もよく丈夫に育ワていたという.かくの如くであれば置付が可能であると いうのでこの建策となワた.
置付牧の管理は温暖季放牧の牧のそれとは異る.置付牧では御野馬身蔭しの庇蔭樹林が必要 であった.木崎野でも置付開始以前は毎年火入れを行ったから,三沢村の近くに多少松林があ
安田:近世における本邦の畳付放牧に関ナる地理的研究(その1) 弱
ったばかりで,充分な庇蔭樹林がなかワた.それ故多数の野馬を置付にするには「土手を築き,
くの
野焼を制し」山林を仕立てる必要があワた.土手を築く費用は,冬飼の労をまぬがれる福岡の 村民に,御野馬置付料として年額310貫文を課し,その中300貫文を以ワてあてることにして,
i758(宝暦8)年7月工事を初めた.長さ3,370間,高さ7尺,幅1間の土堤,および牧袋が
8月中に完成した.又牧内の根井村には近村から10戸を移して,御野守の名子とし,開墾する くの地所を与え,立林の見守その他の仕事に従事せしめた,置付を初めると,冬半年も野馬の見廻りをする必要があワた.木崎御野御用の三沢村名子は,
それだけ仕事が増加し,そのため一時藩から手当が支給された.
なの 安永七年+月六日
一.五戸木崎野馬,宝暦七年迄秋野坂被仰付.福岡御代官所へ被預置,春に成候へば野放為致候処,同八年より 野元に直に置付に致し,九月より翌三月中旬迄名子の者五+軒へ日々見廻申付候に付,右為御手当同年より明 和四年迄十ケ年中,代物五十貫文宛被下候処,右年数相済候間,当年より七ケ年中五十貫丈被下度旨申出.願 之通被仰出
木崎野は小川原沼東方から相坂川北岸に及んだが,野馬の立所は北半部即ち小川原沼および 姉沼の東方に偏在していた.それは次の事実によって証せられる.
㈲ 湊脇,三沢見および玄蕃場に設けられた三つの牧袋がいづれも三沢村以北にあること.
ほり既述の如くこの牧袋は置付開始以前,即ち1691(元豫4)年に設けられた.後に凄腕の牧袋は 木藤内に移したけれども,それも三沢村の北東部にあたる.牧袋は立所の近くに設けるのが普 通である.
ロ ラ (B)1758(宝暦8)年8月の書上に,
木崎御野馬当年初めて置付に被仰付,此度御野馬居処書上仕候様被仰付,御野守助右衛門へ右之趣申付遣し候処,
左之通書上候 覚
一・五十匹 高の沢 一.十匹 さひしろ 一.五十匹 みなと脇 一.三十匹 笹森 一.二十一匹 黒坂 一.十七匹 頭無
とある.8月であるから馬は大きな群をなして立所に集る時期である.温暖季放牧でも普通立 所が定っている.この居処は立所を示す.笹森は笠森であろう.高の沢は高井沢の西方台上に あり,湊脇は小川原沼の排水口付近にあり,さひしろは淋代平であり,笠森および頭無は小川 ゆ原東畔の屋上にあたる.最後の二個所では幕末でも野馬が群棲していた.黒坂は百石町内の地 名であるが,はたしてここが立所であったかどうかは不明である.黒坂は別としても総馬数
178匹中大部分が三沢村以北にいたことはこの記事でも明瞭である.
⑨ 谷地頭,根井および山中など御野取の折,役人および人足の宿所になる村々が,木崎野 (14}の北部にあり,三沢村に宿を取ると遠くて困ワた.即ち1758(宝暦8)年12月の記事に「木崎 御野馬御野取之節,御野馬別当始御用係の者共,前々より根井村谷地頭と申処罷有,人足は根 井村,山中村両所に指置候而御野球仕来候処,凶作以来右村々過半相潰れ,三ヵ所共に家数不 足に相成,人足宿成兼候に付,其以後三沢村に罷在候処,牧場迄遠所に而差支候由,依之根井 村御蔵高之内畑形八斗代程,屋敷地御野守助右衛門へ被下置同人名子之者二三男之内,鼓給所 よりも段々被引越家数十軒に仕,直に助右衛門名子に被仰付候間,右屋敷地近所出精為切抜候 様可仕候はぽ,右畑は引越候者へ被下置,御野御用は三沢名子の者同様に右之者共助右衛門へ 御預,三カ年中にも右検断為引越可申候,尤家材木は三沢御山にて被下置旨,此度御野馬別当 一戸五右衛門へ被仰付」とある。
(D)御野馬身隠山を,根井,山中,八幡館,平沼街道から西,姉戸沼端までの間に設け,そ の立林の保護をはかったこと.即ち上と同じ記事に,「根井村より山中村,八幡館平沼往還よ
り西は姉戸沼端限り御山立林被仰付,右拾軒之名子の者,姓同所御蔵給所百姓共心添仕,立林 見守候様,尤御野馬野取之節,助右衛門得差図,三沢名子の者同然に相勤候様被仰付,右に付
36 福島大学学芸学部論集第9号 1958−3
マ マ
木崎御野取人足,虹又重御野馬年々冬中御預被成候飼料卯時ともに両役御免被成下」
ロの
㈲ 1760(宝暦10)年一戸五右衛門から御用人に伺出た書面に「木崎御野は深沼余計御座候 故,御野馬右沼杯へ入,死馬に相成候て算候に格別不同有之儀に御座候」とある・三沢村以南 では相坂川口の川跡湖以外に沼沢はない.
この外にも証拠があるが省略する.思うに御野を拡大する以前には,三沢村以北に牧があワ たのでは1あるまいか.
冬になると野馬は小数の群に分れ牧の外にまで出て冬籠をやった・馬政史所収の木崎牧の古 図がそれを示している.この古図は製作年代が明かでないが・一川目・二川目等の川目集落が・
五川目まで記入しあり,下田村が下田将監,百石の堀切村が米田吉右衛門の知行地になワてい るなどからみて,幕末に近い頃の木崎野を示していると推定される・相坂や三本木の近くまで 野馬が分散した・その為三本木の開拓地で麦作や苗代の苗語荒され・再三苦情を申込むことに
(16)
これらの事故は多くは12月からなワた.乙供付近でも木崎の野馬が苗代を荒したことがある.
4月の間に起った.この時期に野馬がよ く牧外にでた.もワとも三本木以外で は,古くから里馬の自由放牧を行ってい たから,屋敷や耕地の周囲をませ垣でか 1蜘
こんでいて,野馬の被害も少なくてすん だに違いない.三本木は開拓地のために ませ垣の用意がなく,野馬に荒されたの であろう.
置付を開始して以来,一両年は野馬の iooo 損傷も多少あった模様である.年をふる
につれて野馬も置付になれ,冬は樹蔭に よらずむしろ砂丘や丘陵の上で,風のよ く吹き通る所を撰んで集りた.そこは雪 が浅く枯草をあさるのに便宜だからであ
萄oo る.当時この牧の草生はすこぶるよく,
海岸近くの草は,積雪期にも雪に埋れな く の
いほどであったという.一方管理もよく 野馬の数が次第に増し,1760(宝暦10)
年には.「近年覚無之i当才出生駄駒も七 ロヨン
十三匹出生仕候」と御野馬別i当が報告し 構。
たほどである.この年の2才以上の母駄
第3図
は220頭程であったから,100頭につき
33頭の出生率である.
くハン
殖へ候御野無之」といわしめたほどである、
が率が低かワたが後には余り差がなくなワている,
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1
ゆOO l8『o 南部の九牧及び木崎牧の野馬数変塁
v大雪
後に此の率が45に達したこともあるが,当時としては「此の御野程御馬 温暖季放牧と比較すると,概して一時は置付の方
かくして「明年明後年迄には三百匹余りも罷成,四五年も有之候はば,四五百匹には相成可 申候……数百匹に罷成候ては相改め悪しく相成,御野守共名子の者共日々御野にて相改候に当 き
才余計故算え違有之,過不足に計出し一同心済無之由申出候」というほどになった・この予想 はそのまま実現はしなかワたが,8年後には野馬数が300を越え,30年後には500を越えた.
1820年代は木崎牧の最盛期で,野馬数は800を越え,1820年(文政3)には2才駒85匹を捕え て,御野守および老名等が褒賞をうけた.
安田・近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1) 3ア
出生率の比率(但し3才以上の母駄100につき出生数)(21,
年度
建轍 描穰
1787 1788 1789 1790 1791 1792 1793 1794
508 345
鎗娼硯 331曹撃
鴛 覗1
25 R6 T7
28 Q1 R3
32i岨
233 151 17951796い797
32 S5 R6
29 S9 U5
35 S3 S8
18・7]18・8い副181・18111812181318141815い聯11817
鎗姐諺 39 T0 R4
967 344 262 311
熱i囲
39ー45 %3715 菊櫨731
∩ソ77註:一木崎は置付牧,久重および蟻渡は温暖季放牧の牧 き
文政元年八月十六日
一.金二百疋 木崎御野守 小比類巻嘉茂助
看者木崎御野取並御除駄御用出精殊に牽上駒も多く有之に付,為御褒美被下置,猫又出精相勤候様可申渡候 一,同三百疋 老名名子共へ 右同断に付被下直之(下略)
この年85匹の2才駒を捕え,その内申以下の駒23匹を諏払して,良馬62匹を盛岡の厩に牽着 けたのである.この褒賞が効を奏してか,翌4年には出生247頭,野捕り112頭内挿払32.牽上
く の
80に及んだ.しかし同6年には60頭の行衛不明馬がでて,係員が見分に出張している・800頭 を越える野馬の管理は広大な野場で容易でなかったに違いない.御野境土手があるのに,野馬 が牧外にでて冬籠したのもそのためであろう.初秋に行う野捕に,毎年2旬或は3旬を要した のはこうした事情によるのである.
(の 北野および三崎野
北野は岩手県久慈市侍浜および白前にある.ここは170乃至180mの海岸段丘上にあって・そ の平坦面はゆるく東方に傾いている.侍浜および自前は盛岡領の飛地で,北,西および南は八 戸領にかこまれていた.寛文年中閉伊郡田鎖の野馬を移して,この牧を開設したが,野田掃部 が南部重直に土地を献じて牧を拡張したという、三崎は久慈湾の南にある半島の海岸段丘にあ る.広さは北野より狭いが,地形はそれによく似て,高度180mに達する。ここは北,東およ び南の三面が高い海崖でかこまれ,西北は八戸領の村々に接していた.
北野および三崎野は,1734(享保19)年から置付牧になワた.その頃は野に柵垣がなく,両 野の野馬は隣接した八戸領にばかり入り込んで棲む情況であった.かくして三崎野の野馬が八 戸領の麦作を喰い荒し,又野捕りに日数がかかワて困ワていた.そのため御馬別当が「土手築 て り
堀」の建築をやった.1757(宝暦7)年別当一戸五右衛門の覚書に次の記事がある.
ロ リ じ し の じ
野田三崎野は大場に無之候得共,御野取早我取不参儀は,御野馬共八戸御領に許P立居候故,右山野よη御野に 追込候処,十四,五里も御野の間御座候へば,八戸御領追廻候内,日数相懸候・依之拙者存付候は右御野へ久喜 浦より上は.木戸口より八戸御領境立石と申処,西北の方土手簗場仕候へば御野馬多くは八戸御領へ参間敷候.縦 令土手を越候ても其の節に御野へ追込差置,御野守出精見守候へば可然奉存候・右之通被仰付候得ば・小場の御 野敵猫又御人数も入申まじ,只今迄よPは随分御野取早我取可申奉存候につき・堀土手被仰付候様仕度奉存候・
併困窮の時節故一度には相成果可申候聞,明年より三カ年の内成就仕候様被仰付候はば・百姓痛にも相成間敷奉 存候故,右場所十六七町も可在御座候,其内土手に不相成難所の場所も御座候間・其処は栗雑木沢山の所故・柵 に為仕指置可然奉存候.尤土手堀等損候節は御野取の拗,大勢の御人足故一両目相懸P候得ば,繕可申奉存候.
_両日も相懸ワ候儀は御人足迷惑に可及可被思召置候得共・御野馬御野の内に居候得ば・毎度七八日も相懸り候所・
三四日にも相済候得ば,御百姓痛には相成不申・尤例年寧野昏び厚領罪解・.孝穿呼呑申節は・其筋御代官より野 田代官へ届有之,御人足被仰付御野の内追参候得共,翌日にも相成候得ば,又立戻候に付,右御人足一年に五度 も七変も入申儀に御座候.堀土手成就仕候得ば,彼百姓の冤に相成可申奉存候.以上.
同年北野では14頭の野馬が行衛不明になり,別当,属役,人夫共に数日がかりで,20〜30 はの里の山野を尋ね,遂に発見にいたらなかった.1759(宝暦9)年には北野で又22頭の野馬が行
38 福島大学学芸学部論集第9号 1958−3
くカき衛不明になった.そのため御野守から別当に次のような届書を出した.
(上略)御局数二十二疋不足に御座候故,不及是非毛性長共に別紙を以て御訴仕候,尤所々唯今迄相尋候家弟左 に申上候.
一.相尋候場所御野の内は不及申上,八戸御領中野山,二つ屋山,帯島山,夏井山,芝倉山通心当Pの処不残,
当村御百姓共へ私共付添色々相尋候得共,相見得不申,暑気にも罷成候はば,木立に引舘居候御馬共も相揃可 申と奉存候.唯今迄御訴延引仕候、頃日暑気に罷成候得共,弥相見得不申候間無拠此度御訴申上候.
八戸御領中,中野,二つ屋,帯島,夏井等の山は,九戸郡大野村および夏井村の地内で北野 から5乃至6㎞離れたところにある.三崎および北野でかくの如く,野馬が他領にでるのは,
御野に柵垣がない為である.三崎野の如く狭少な御野でも「三ケ年の内成就仕候様」と計画す るほど土手築堀の工事がかかるのであれば,いづれは新規の工事とみなけれぽならない.宝暦 7年の一戸の覚書に「土手築堀仕候へば,御野馬多くは八戸領へは参間敷」と記したのは,当 時,この御野に土手柵垣がなかワたことを示すものであろう.当時の作と推定される北野およ
く の
び三崎野の古図には,柵垣の記載がない.北野の図に就いては時代を推定する手がかりが今の ところみあたらないが,三崎野の図は1760(宝暦10)年以前の作と推定される.この図には今 日の駒形神社の位置に正善堂が書いてあり,近くに御野守又+郎,同半右衛門(同図に伺平右 衛門とあるは誤記である)の家がある.半右衛門は御野守の勤務不行届でのかど,1762(宝暦
て ゆ くのン
12)年追放になり,三崎野は勿論,他の野にも立入を禁止され,又十郎も同時に戒告を受けた.
これによワて半右衛門が追放になる前の図であることが知れる.柵垣の記載がないという事実 だけでは,柵垣がなかったことを証明する積極的理由にはならない.しかし同図に御野守の役 宅その他の民家が大きく図示してあるのをみると,柵垣や木戸があれば当然記載されたであろ うという推定は,大間,奥戸などの図の例からみて充分許される.このごとは1802(亨和2)
くきり
年の次の記事があり,少くも北野では1760年の杭垣工事が最初でありたことは明瞭である.
当年北御野御再建被仰出,御馬牽入茂首尾好相済恐悦至極奉存候,随而此節何哉御鮪節茂可然御座有哉工夫仕候
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処,宝暦+年北御野初而杭垣御普請二就被仰付候,木戸ニケ所御建右之番人私共持前に被仰付,御膳銭分.並白 前村侍浜村御野附御百姓共小村に而,御馬見廻方難儀仕り候二付,御救旁々塩釜四工御役銭御免被成下(下略)
北野では1801年夏御野馬全部84頭を,御野からひきあげてしまワたが,翌年8月木崎および くロシ奥戸から計31頭をもワてきて野放している.「当年北御野再建」というのはこの間のことをさ
している・土手築堀とはなく,杭垣とあるから,三崎野とはこの点異るようであるが,この時 相垣を初めて設けたことは,両牧とも同じであろう。
南部藩では野馬の放牧場を牧といわず御野とよんだ.牧又は牧場は牧袋を意味した.囲いの ある場所を牧というのである.後に御野境の土手を設けても御野の呼び名が長く残ワていた.
これはかワて御野をかこむ柵垣がなかワたためではなかろうか.
1766(明和3)年,北野(喜多御野)の野取には,杭垣があるためか1日で半数近い野馬を
く ン ロ
牧袋に追い込んでいる.その牧袋は土取牧場,沢牧である.1783(天明3)年の御野馬別当川 くゆ村甚左衛門の書面に,「去当両年に御駕相馴,去年は三日当年は一日に而駒二才御野球仕候」
とある・柵垣御溝の費用と労力は相当のものであワたが,野取が容易になワたことは確である.
7〜8日も野取にかかったのは柵垣がなかったためである.
しからば柵垣なしで,如何にして御野の経営が可能であったかの疑問が生ずる.これは次の 事情に依ワて解答があたえられる.
放牧地をかこむ柵垣がなくて,放牧を行う如き原始的方法は,今日では例が少ないが,然し 決して絶無ではない.近年まで自由放牧を行ワていた本邦の各放牧地域では,昨今まで放牧地 を別に限定していなかワたから,牛馬を放牧するところは,柵垣で囲まれてはいなかワた.そ のかわり宅地や耕地は,放牧牛馬が侵入しないように,ませ垣をめぐらしていた.かくして北 上高地の北部の山村には,今日でも九戸郡出形村の平庭牧場の如く,柵垣も木戸も設けていな
安田:近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1) 39
い放牧地がある.
北野の付近でも畑の周囲にませ垣をめぐらしていた.ここでは畑垣と呼んでいた.1859(安 政6)年この野の北方に,御足野を出願した折に,御足野の柵垣は一部畑垣を利用するから,
くゆ新しく設ける柵垣は少女ですむとのべた北御野守の書面でも,畑垣の所在が明瞭である.侍浜 くヨの やその枝村の外屋敷では,御野馬の世話をするかたわら,農耕を行って,牛馬も飼養していた.
この牛馬を自由放牧していた.付近の村汝でも今日の放牧地域内の山村に広く残存している馬 垣(馬除垣,ませ垣,畑垣)があったに違いない.そのために御野に柵垣がなくても,野馬の 被害は比較的に少なくてすんだ.その上牛馬の習性として,少なくも夏の間は,一定の立所に 群棲するから,柵垣がなくても行衛不明の事故がおこる機会は,比較的に少ないのである.御 野を限定して放牧していても,柵垣がないのであるから,i当時の北野や三崎野は,限定放牧と
自由放牧との中間的な放牧をやワていたわけである.
〔註〕
(1)安田初堆:近世の南部の九牧に関する歴史地理 的研究 東北地理 8/2
(2)南部藩記録,日本馬政史二,228〜229頁
(3)大巻秀設,邦内郷村志,安政5
(4)南部藩記録 日本馬政史二229頁
(5)広沢安住;奥隅馬誌,青森県叢書二,26頁
(6)大巻秀詮・前掲書
(7)永正五年馬焼印図,日本馬政史一,848頁
(8)広沢安住・前掲書 27頁
(9)南部藩記録,日本馬政史二,232〜233頁
(10)同上 226頁
(11)同上 228頁
(ユ2)岩手県馬産誌,日本馬政史二,232頁
(13)三沢村の古老談
(14)南部藩記録 日本馬政史232〜233頁
(15)岩手県馬産誌
(16)三本木原開拓誌下
(17)安田初堆:前掲書 71頁
(18)広沢安任:前掲書 28頁
(19)岩手県馬産誌,日本馬政史二,243頁
(20)九ケ所御馬員数智減古記書抜年表によると文化 9年に42
(21)同上書により計算
(22)岩手県馬産誌
(23)南部藩記録 日本馬政史三,96頁
(24)九ケ所御野馬員数㊨減古記書抜年表
(25)南部藩記録,日本馬政史二,232〜234頁
(26)広沢安任 奥隅馬誌
(27)岩手県馬産誌,日本馬政史二,243頁
(28)日本馬政史二 巻末
(29)南部藩記録,日本馬政史二,222頁
(30)同上
(31)久慈家文書 北御野記録
(32) (24)に同じ
(33)日本馬政史二:,247頁
(寓)同上222頁
(35)久慈吉野右衛門,北御野記録,久慈家文書