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青年期における死の意識について

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問題と目的

わが国は, 医療や科学技術の進歩により, 65歳 以上の高齢者人口が総人口に占める割合で20%を 突破し, 世界最高水準の長寿国となった。 その反 面, 自殺者は年々増加傾向にある。 また, 終末期 医療や延命治療の在り方のような死にかかわる問 題に対する関心が高まってきている。 壮年期にお いては悪性新生物, 事故などによる死が3万人以 上とも言われている。 尊い生命が毎日のように失 われている今日, 日本社会において人々は人間の 死をどのようにとらえているのだろうか。

牧野 (1996) は, 「子どもが死をどのようにと らえるか」 について, 小学生を対象に調査を行っ ている。 その結果, 終末期医療では, 死という 問題がクローズアップされているが, 学校では死 が問題にされていない。 最近では死が子どもたち から遠ざけられている。 身近な人の死に出会う機 会がないのである。 肉親の死に立ち会った子ども は, 死体に手を当てたとき 「ズシンと冷たい。 あ の冷たさは忘れない」 ということを実感した子も いる。 リアルな死に直面して死とはどういうもの かを考える場も必要なのではないか, 死に立ち会 うということはかけがえのない体験であると考え る としている。 このように, 学校教育や社会教 育において 「死」 を課題とした教育が行われてい ないのが現状である。 死生観や死への意識は, 人 間の成長発達の段階において, 社会環境や自然環 境により形成されるものであり, それぞれの発達 段階に応じた教育が必要なのではないだろうか。

死という問題が個人にどのように扱われ, それが 個人の発達とどのようにかかわってくるかに関し ては, Piagetの認知発達レベルとの密接な対応関 係を示すという結論が出されている。 また, 心理・

社会的発達を提唱したErikson (1950) の発達論

では, 「死」 はすべての人に所有される 「必然 の時」 であり不可避の課題ではあるが, 私たちは そのようなことを毎日考えて過ごしているわけで はない。 それは個別に訪れ個々人に対して個性的 な受容を要請している。 日常的には, どれほど快 適に共生者との生を亨受し得たとしても, これだ けは己れ一人で迎え入れ, 単独で対処しなければ ならない課題である とされている。 これらのこ とから, 死は人間にとって成長のプロセスであり, 死をマイナスのイメージとしてだけとらえるので なく, 考え方によって良くも悪くもなるというこ とを考える必要がある。

厚生労働省 「17年度人口動態調査特殊報告」 に よる家庭死から病院死への時代的変還を見ると, 1947年には家庭死90.8%であったものが, 1977年 には病院死が家庭死を50.6%と上回り, 1991年に は病院死が75%とさらに上昇している。 その後, 施設での死がさらに増え, 1996年には80%を超え た。 2004年には家庭死12.4%, 施設内85.0% (う ち病院死が79.6%), その他2.6%であった。

家庭死というのは, 病院死とは異なり, 身近な 人に死が近づいてくる過程を目の当たりにするた め, 死に対する考え方に大きな変化を起こすので はないかと考える。 病院死が増えている現在, 人々 は死というものに接する機会も減り, 死というも のを深く考える機会が減ったのではないかと思わ れる。

死と生という問題は高齢者のみならず, どの発 達段階においても重要なテーマである。 死と生と いうテーマは, 心理学だけでなく, 医学, 哲学, 社会学などさまざまな分野で取り上げられ研究さ れている。 特に近年は, 自殺, 事故, 災害など身 近に死が起こりうる可能性も大きく, 現代を生き る誰もが関係している問題である。 Deeken (1986) によれば, 私たちは生きているうちに 「死への準

青年期における死の意識について

齊藤 嘉子

(久保克彦ゼミ)

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備教育」 を受ける必要があり, 死を考えることが 人間的成長の糧となりうること, 自分の生き方の 自覚を促すことなど多くの意義が認められると述 べている。

中学生と高校生の間では死についての考え方に 違いがあるのだろうか, また 「命の大切さ」 や

「死」 について何歳ごろから考えられるだろうか ということをも視野にいれて考えていく必要があ る。 本研究は, 青年期 (中学生と高校生) と壮年 期においてはどのように違いがあるかということ に注目した。 近親者の死の経験を含めた社会的経 験の豊かな壮年期の成人が考える死の意識と, ま だ社会的経験が乏しく, 身体的にも, 精神的にも 発達の途中でもある青年期の中学生や高校生の死 の意識との間に違いあるかということを調査する ことを目的とする。

青年期と壮年期の特徴

青年期とは, 一般に, 12歳から10代後半までで, 中学・高校・大学の時期を 青年期 としている。

またErikson (1989) は, 人を中心とした社会的 人間関係でのやりとりの中で同一性の形成をして いく心理社会的発達を提唱しているが, 青年期を 定義することは非常に難しいとされている。 青年 期とは, 産業革命以前の世界には, 子どもと大人 の二つの区分しか存在しなかった。 そこでは, 経 済的に自立して生活できるか否かの区別しかなかっ たとされている。 産業革命以後, 人々の生活に余 裕が出来始め自分の人生をどのように生きるかを 自由に選択できるようになった。 それとともに登 場したのが, 教育制度である。 時が経つにつれ, 教育期間は長く親への長期にわたる依存状態にお かれた 「青年期」 が成立した。 つまり, 青年は一 人前に働く能力を持ちながら, 親に学費を払って もらい社会的役割を猶予してもらっている。 ここ に, 身体的発達と社会的発達のずれが生じている ことが窺える。 Davis (1994) は 「青年期とは, 身体的発達と社会的発達とのずれがはじめて顕著 になる時期である。 社会が複雑になるにつれて, このずれは大きくなり, 社会的に定義された青年 期が生物的大人期にまで入り込んでくる」 と述べ ている。 また, 園原 (1977) は 「発達的事実は直 接には観察されない。 発達は一つの観点であり,

成長的事実, あるいはもっと広く一般に比較的長 い時間的経過のなかに起こる事象の変化を, 完態 に発展する機能的な関連過程として体系化する方 法であるともいえる」 と述べていることから, 体 の変化 (第二次性徴) だけでなく心にも大きな変 化をもたらすといえる。

中学生という時期は青年前期の思春期にあたる。

この思春期は英語のpubertyにおおよそ相当する 言葉である。 pubertyと言う語は 「恥毛」 に由来 している。 思春期は第二次性徴の到来とともに始 まるのである。 男の子, 女の子でなく, 男性, 女 性としての自分を新しく作り始めていくことにな る。 子どもからおとなへの移行期 (前進と後退の 繰り返し) に当たる時期である。 成長とは, 身体 および精神の両面に大きくかかわってくる。 平井 (1979) は, 中学生という時期を次のようにまと めている。 まず, 身体面の特徴として, 身長や体 重などが急増し, 体格的に大きくなる形態発育, 第二次性徴の発現に代表される性的成熟, 運動能 力や体力の発達の3つの側面がある。 こうした身 体的発育の中で人間関係に影響を及ぼすものとし て, ①おとなとしての体格と体力の獲得, ②自己 の性別の自覚, ③性的欲求の出現が考えられる。

精神面の特徴として 「感受性」, 「不安定性」, 「持 続的な表出性」 がある。

第1の 「感受性」 ということについていえば, ささいな刺激に対しても敏感に反応する。 何気な い一言や行動に, 腹を立て反抗的な態度を示すこ ともある (反抗期)。 第2の 「不安定性」 とは, 青年の感情が極端から極端へと大きく揺れ動く性 質を意味している。 自己の小さな失敗に絶望的な 気持ちになったり, 友達に対しささいなことに憎 しみの感情を抱くなど青年の感情は大きく変化す る。 第3の 「持続的な表出性」 とは, 青年が自分 の殻に閉じこり, 陰うつな表情を持続的に示すと いう特徴を意味しているとしている。 この時期, しっかりと命の尊さを教えなければ自殺などといっ た行為により自ら命を失うことにもなる。

高校生という時期は, 次のようにまとめられる。

心理的にも社会的にも子どもからおとなへの過渡 期にあたり, 社会的に制約を受けることもあるこ とから, 情緒的刺激に過敏である反面, 抑制しな ければならないことも多い (齊藤2002)。 男性も

青年期における死の意識について

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女性も身体的には大人に近づくが, 精神的にはま だ未発達な部分がかなり残されている。 人格的に も発達途上にあり, 自分は誰か? 自分はこれ からどこに行くのか? といったアイデンティティ (自己同一性) の模索が行われる。 気弱さを見せ たかと思うと自己主張してみたり, 従順かと思え ば反抗したり, また甘えた態度を示すなど様々な 姿を見せる中で自己を受容し, 個人としてのアイ デンティティを確立していくのである。 成長する ことは, 各発達段階での課題を達成することであ り, 「健康な子どもは, 適切な指導さえ与えられ るなら, 発達の内的法則に従うという点で信頼で きる」 とErikson (1959) は述べている。 しかし, それはおおよその枠組みとしてのことであって, 健常者とみなされる人の中にも, 様々な歪みがあ るのもやむを得ない事実である。 園原 (1980) は, 人間の心理学的発達に限定していうと, 「発達は, 事象そのものを指すのではなく, 事象を捉え意味 づける視点である」 としている。 さらに園原は,

「発達的事実は直接には観察されない。 発達は一 つの観点であり, 成長的事実, あるいはもっとひ ろく一般に比較的ながい時間的経過のなかに起こ る事象の変化を, 完態に発展する機能的な関連過 程として体系化する方法であるともいえる」とし ている。

壮年期 (中年期) という時期は, 年齢の範囲と しては明確には規定されてはいない。 歴年齢で何 歳から何歳までとするかは異論があるが, Levinson (1978) は, 40歳から45歳を人生半ばへの移行の 時期, 60歳から65歳を老人への過渡期とし, 比較 的長い期間 (40歳から65歳) を壮年期とみなして いる。 また, WHOでも65歳以上を 「老人」 と定 義しており, それまでの時期が成人期であるとし ている。 男性は働き盛りで家族を養う責任も大き く, また仕事に対しての責任や創造も大きい。 し かし, 壮年期には2つの考えがあるといわれる。

一つは人生の転換期, 個人を取り巻く環境の中で, 昇進, 配置転換, 仕事上の責任の増加によるスト レス, ケガや病気 (ガンの好発年齢) といった健 康上の問題, また自己変容, アイデンティティの 再構成という自己の存在を揺り動かす課題に直面 するという不安定な時期でもある, もう一つは

「働き盛り」 と言う言葉のとおり心身共に充実し

それぞれの価値観や役割に基づいて, 確固たるラ イフ・スタイルが築かれ, 自信や充実感が高まり 安定した時期でもある。

近年, 子どもが巻き込まれる事件や事故が多く 起きている。 毎日のように起こっている殺人事件 や死亡事故のニュースが報道されていることに怒 りさえ覚える日々であり, 尊い命が失われている ことが日常化して, 一種の慣れのような感情を否 定することができずにいる。 かつては, 命に関す る教育は, 自然の中での遊びや経験を通して, 命 に触れ合い学んできたものであった。 しかし, 今 では, ゲームの世界で命や死について擬似体験し ているために, 現実と非現実の区別がつかないで いるのではないだろうか。 長崎県内で起こった事 件の 「会って謝りたい」 という言葉からも考えら れるように, 小学生の高学年においても死という ことがわかっていないことから, 年齢に合った発 達段階の教育を行うことの必要性を感じる。 また, 身近で死の体験がなければ, 死ということは考え ないであろうと思われる。

学校で死に関する教育がされていない現状から, このような形でしか死を捉えられない現代の若者 の 「死に対する意識」 を理解する事ができればと 考え, 本調査を行った。

仮 説

仮説1 中学生と高校生の間には, 死についての 意識が違うのではないか。

仮説2 臨終経験がない青年期の中学生と高校生 よりも, 臨終経験がある青年期の中学生と 高校生の方が, 死に関する意識が高い。

仮説3 青年期の中学生と高校生よりも, 壮年期 の成人の方が死に関する意識が高い。

方 法

1. 調査の対象

調査対象はA県の中学生 (12歳〜15歳) 90名 (男性47名 女性43名), B府内の高校生 (15歳〜

32歳) 99名 (男性62名, 女性37名) であり, 合計 189名であった。 また, 壮年期 (40歳〜69歳) 56 名 (男性30名, 女性26名) にも同様のアンケート 調査を行った。 その後, 記入漏れのあったデータ を除き最終的に中学生89名 (男性47名, 女性42名),

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平均年齢14.4歳であった。 高校生73名 (男性45名, 女性28名), 平均年齢18.8歳であり, 中学生と高 校生では合計162名であった。 壮年期の成人は48 名 (男性24名, 女性24名), 平均年齢54.1歳であっ た。 これらを有効回答として用いた(表1)。

表1 対象者の発達期別・性別人数及び平均年齢

2. 調査期間

2007年7月〜8月 (A県中学生・B府内高校生) 2007年10月 (B府内壮年期)

3. 調査の方法

本研究においては, Dickstein (1972) のDeath Concern Scaleを採用した。 Death Concern Scale は, 死の現実感と死の否定的評価を考慮して作成 されたものであり, 尺度は30項目から構成されて いる。 本研究においては, 研究目的に沿った25項 目を選択した。 回答方法は, 無記名の自記式とし, 回答者個人の情報が漏出しないように充分配慮し た。 さらに各質問項目に対しては同意程度を 「5=

そうである」, 「4=どちらかといえばそうである」,

「3=どちらともいえない」, 「2=どちらかとい えばそうではない」, 「1=そうではない」 の5件 法で回答させた。

さらに, 死に関する意識に影響を与えると思わ れる近親者の臨終への立ち合い経験を問う 「ご家 族, 親戚の方の臨終に立ち会った経験」 という項 目と, さらにその経験がある人に対しては 「臨終 に立ち会った場所は病院か自宅のどちらか」 とい う項目を追加した。

本研究ではさらに, 田中ら (2001) の 「死に関 する意識」 の比較研究で用いられた死に関する意 識の質問項目, 25項目においてその構成要素を因 子分析した結果を用いた。 その抽出された因子に おいて 「死を考える」 は1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) の項目を, また 「死の不安・恐怖」 は9) 11) 12) 15) 16) 19) 20) 25) の項目となり, 本研究

は, この2つの因子の各項目について取り上げる。

結果の処理

中学生群と高校生群の 「死に関する意識」 につ いての25項目の質問に対する回答内容について, 項目毎にカイ二乗検定を行った (表2)。

次に, 青年期 (中学生と高校生の合計であり以 下, 青年期とする) 群と壮年期群において, 「死 に関する意識」 についての25項目の質問に対する 回答内容について, 項目毎にカイ二乗検定を行っ た (表3)。 次に, 中学生群と高校生群において

「死を考える」 「死の不安・恐怖」 の各項目におけ る割合 (%) を算出した。 さらに 「臨終経験があ る・ない」 および, またその場所が 「病院か自宅」

についてはカイニ乗検定を行った (表4・表5)。

次いで, 青年期と壮年期において 「死を考える」

「死の不安・恐怖」 の各項目における割合 (%) を算出した。 「臨終経験がある・ない」 および, またその場所が 「病院か自宅」 についてはカイニ 乗検定を行った (表6・表7)。

結 果

中学生群と高校生群において 「死に関する意識」

のそれぞれの項目ごとにカイ二乗検定を行った結 果, すべての項目において, 統計的に有意な差は 認められなかった。

青年期群と壮年期群において 「死に関する意識」

のそれぞれの項目ごとにカイ二乗検定を行った結 果, 項目2) 6) 7) 8) 9) 21) 23) において 統計的に有意な差が認められた (p<.05)。

中学生群と高校生群において 「死を考える」 に ついて, その割合 (%) は, 項目1) 「私は自分 自身の死について考えたことがある」, が中学生 68.5%, 高校生76.7%, 項目4) 「私は死ぬ時期 がわかったら, それまでの時間をどのようにふる まうか考えることがある」 が中学生47.2%, 高校 生63%, 項目5) 「私が死んだとき, 身内の人達 がどう振る舞い, どう感じるかを考えることがあ る」 では, 中学生55.1%, 高校生57.5%, 項目6)

「私が病気のとき, 死について考えることがある」

では, 中学生20.2%, 高校生35.6%であった。

「死の不安・恐怖」 について, その割合 (%) は 項目11) 「私は自分が死ぬと考えると不安になる」

青年期における死の意識について

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表2 中学生 (n=89) および高校生 (n=73) の死に関する意識項目のX検定

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青年期における死の意識について

表3 青年期 (n=162) および壮年期 (n=48) の死に関する意識項目のX検定

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では, 中学生42.7%, 高校生37%, 項目12) 「私 にとって大切な人の死を考えると不安になる」 で は, 中学生78.7%, 高校生80.8%, 項目15) 「私 は死ぬことが恐ろしい」 では, 中学生41.6%, 高 校生52.1%, 項目19) 「死後の世界があって欲し いと思う」 では, 中学生59.6%, 高校生43.8%で あった。 また, 項目別では, 項目17) 「私は死に ついて考えることは, 時間の無駄だと思う」 では, 中学生58.4%, 高校生52.1%, 項目21) 「大切な 人の死について考えることがある」 では, 中学生 49.4%, 高校生が64.4%であった。 項目22) 「交 通事故で死ぬかもしれないと考えることがある」

では, 中学生53.9%, 高校生56.2%という結果で あった。

「臨終経験がある」 および, またその場所が

「病院か自宅」 によるカイニ乗検定を行った結果,

「臨終経験がある・ない」 については, 項目6) 10) において統計的に有意な差が認められた (p

<.05)。 また, その場所が 「病院か自宅」 につい ては項目6) 11) において統計的に有意な差が認 められた (p<.05)。

青年期群と壮年期群において 「死を考える」 に ついて, その割合 (%) は, 項目1) 「私は自分 自身の死について考えたことがある」 では, 青年

表6 壮年期群の臨床経験の有無による 「死に関する意識」 の比較 表4 中学生および高校生の臨終経験の有無による 「死に関する意識」 の比較

表5 中学生および高校生の臨床経験場所の違いによる 「死に関する意識」 の比較

表7 壮年期群の臨床経験場所の違いによる 「死に関する意識」 の比較

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期群72.2%, 壮年期群60.4%, 項目4) 「私は死 ぬ時期がわかったら, それまでの時間をどのよう にふるまうか考えることがある」 では, 青年期群 54.3%, 壮年期群56.3%, 項目5) 「私が死んだ とき, 身内の人達がどう振る舞い, どう感じるか を考えることがある」 では, 青年期群56.2%, 壮 年期群50%, 項目6) 「私が病気のとき, 死につ いて考えることがある」 では, 青年期群27.2%, 壮年期群54%であった。 「死の不安・恐怖」 につ いて, その割合 (%) は項目11) 「私は自分が死 ぬと考えると不安になる」 では, 青年期群40.1%, 壮年期群45%, 項目12) 「私にとって大切な人の 死を考えると不安になる」 では, 青年期群79.6%, 壮年期群79.2%, 項目15) 「私は死ぬことが恐ろ しい」 では, 青年期群46.3%, 壮年期群39%, 項 目19) 「死後の世界があって欲しいと思う」 では, 青年期群52.5%, 壮年期群35.4%であった。 また, 項目別では, 項目17) 「私は死について考えるこ とは, 時間の無駄だと思う」 では, 青年期群55.6

%, 壮年期群35.4%, 項目21) 「大切な人の死に ついて考えることがある」 では, 青年期群56.2%, 壮年期群70.8%であった。 項目22) 「交通事故で 死ぬかもしれないと考えることがある」 では, 青 年期群54.9%, 壮年期群56.2%という結果であっ た。

中学生と高校生において, 「死の不安・恐怖」

と 「臨終経験がある・ない」 および, またその場 所が 「病院か自宅」 によるカイニ乗検定を行った 結果, 項目6) 「私が病気のとき, 死について考 えることがある」, 項目11) 「私は自分が死ぬと考 えると不安になる」, において統計的に有意な差 が認められた (p<.05)。

青年期群と壮年期群において, 「臨終経験があ る・ない」 およびその場所が 「病院か自宅」 での 違いにおいて, カイニ乗検定を行った結果, 有意 な差は認められなかった。

項目6) 「私が病気のとき, 死について考える ことがある」, では臨終経験の 「ある」 と回答し た者では14.6%, 「ない」 と回答した者は29.2%

であった。 同じく青年期群と壮年期群において項 目10) 「私は死ぬことはほとんどきにしない」 で は, 臨終経験の 「ある」 と回答した者は5.6%,

「ない」 と回答した者は28.1%であった。

考 察

本研究では, 中学生と高校生との 「死について の 意 識 」 の 違 い を , Dickstein が 作 成 し た Death Concern Scale 25項目を用いて調査を行った。 す でに田中ら (2001) は 「青年期および壮年期の死 に関する意識の比較研究」 を行っている。 田中ら (2001) の研究では対象年齢を19歳から29歳とし ているおり, 本研究とは年齢差がある。 本研究で は青年期は中学生及び高校生を対象としており, その年齢は定時制高校生徒を含めると, 13歳から 32歳であるが, これは現在, 義務教育及び学校教 育を受けていることを条件とした。

さらに, 田中ら (2001) の調査結果では, 壮年 期に比べ青年期では死について考えているという 結果であり, このことから青年期は臨終に立ち会っ た経験や介護の経験が壮年期に比べ少なく, 実生 活の中で死を考える機会が少ないと思われ, その ため青年期に対する死の教育が必要であると考察 している。

本研究では, 「死についての意識」 の調査にお いて, まず, 仮説1として, 中学生と高校生の間 では 「死に関する意識」 の違いがあるとして調査 を行ったが, 有意な差は認められなかった。この ことは, 田中ら (2001) が述べているように, 学 校教育や社会教育において, 「死」 を課題とした 教育が積極的に行われていないことが現状として あるのではないだろうか。 また, 柏木 (1993) は, 核家族化と病院死の増加を背景に, 死を家族内の 出来事として経験したことのない若者が増えてい ると述べている。 これらのことから, 学校や家庭 からも 「死」 が遠ざけられていると考えられない だろうか。 調査の結果からも, 臨終体験が 「ない」

と回答した青年期群 (中学生は70.5%, 高校生は 61.6%) は, 「ある」 と回答した青年期群 (中学 生は29.5%, 高校生は38.4%) よりも多い結果で あったことからも同様のことが言えるのではない かと考える。

仮説2においては, 臨終経験がない青年期群よ りも, 臨終経験がある青年群の方が, 死に関する 意識が高いとした。 調査の結果, さらに, 臨終経 験が 「ある」 「ない」 によるカイ二乗検定を行っ た結果, 項目6) 「私が病気のとき, 死について

青年期における死の意識について

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考えることがある」, 項目10) 「私は死ぬことはほ とんど気にしない」 において統計的に有意な差が 認められた (p<.05)。 項目6) については, 臨 終経験が 「ある」 と回答したものは14.6%であり,

「ない」 と回答したものは29.2%であり, 死につ いて考えることをしない者は, 臨終経験が 「ない」

と回答した者の方が多かった。 項目10) について, 臨終経験が 「ある」 と回答したものは5.6%であ り, 「ない」 と回答したものは28.1%であり, 臨 終経験が 「ない」 と回答した者の方が多かった。

これらのことから, 家族など身近な人の臨終を経 験することにより, また質問内容は 「自分の死」

に関するものでもあり, 自分を含めた 「死」 を考 える機会になっているのではないかと思われる。

仮説3においては, 青年期の中学生と高校生よ りも, 壮年期の成人の方が死に関する意識が高い とした。 調査の結果, 臨終経験が 「ある」 「ない」

によるカイ二乗検定を行った結果, 統計的に有意 な差は認められなかった。 これは, 対象者数が少 なかったことによるものと思われる。 しかし, 田 中 (2001) によると, 老年期, 青年期, 壮年期の 三世代間の 「死に関する意識」 の比較研究で得ら れた結果は, 心理社会的成熟と年齢が増すと死の 不安は軽減するという結果を得ている。 これは, 年齢とともに死生観が育成され, 死に関する意識 に安定感が増すことを示している。 本研究では, 臨終経験が 「ある」 「ない」 において, 統計的に 有意な差は認められなかったが, 調査の結果から も, 臨終経験が 「ある」 と回答した壮年期群は70.

8%, 「ない」 と回答した壮年期群は29.2%であり, 青年期群とは逆に臨終経験があると回答した者が 多い結果であった。 このことから, 青年期群と壮 年期群では, 加齢に伴う社会的経験の違いがある と推測できる。

青年期群において 「死を考える」 因子に該当す る各質問項目を検討すると, 項目1) 「私は自分自 身の死について考えたことがある」 では, 中学生 が68.5%, 高校生が76.7%と半数以上が何らかの 形で漠然と死を考えていることと考えられる。 項 目2) 「私は若死にすることを考えたことがある」

では, 中学生22.5%, 高校生28.8%, 項目3)

「私は寝る前に死について考えたことがある」 で は, 中学生16.9%, 高校生32.9%, 項目4) 「私

は死ぬ時期がわかったら, それまでの時間をどの ようにふるまうかを考えることがある」 では, 中 学生が47.2%, 高校生が63%と, 約半数が死ぬま でに自分は何かをしなければならない, したいこ とがあると感じ取っていると考えられる。 項目5)

「私が死んだとき, 身内の人達がどう振舞い, ど う感じるかを考えることがある」 では, 中学生が 55.1%, 高校生が57.5%であり, 半数以上が自分 が死を迎えたとき, 家族がとってくれる態度を予 測することができていると思われる。 項目6)

「私が病気のとき, 死について考えることがある」

では, 中学生が20.2%, 高校生が35.6%, 項目7)

「私は自分の死について空想することがある」 で は, 中学生30.3%, 高校生24.7%という結果であっ た。

これらのことから, 青年期にある中学生及び高 校生たちは 「死を考える」 ことを, 約半数の者が 経験しているにも関わらず, それを日常生活の中 で体験する機会がほとんどない。 前述したように, 統計的に見ても家庭死から病院死や施設死に変わっ た現代では, 牧野 (1996) がいう 「終末期医療で は, 死という問題がクローズアップされているが, 学校では死が問題にされていない。 最近では死が 子どもたちから遠ざけられている。 身近な人の死 に出会う機会がないのである」 ということではな いだろうか。 個人の死は, その人にかかわりのあ る人々に多大な影響を及ぼす。 死に出会う機会 とは, 葬式だけに出席するといったことではなく, 死にゆく人と過ごした時間, そのとき交わした会 話は, 家族にとって貴重な思い出となり, 時には 残された家族の生き方をも規定する (袖井 2007)。

また, 河合ら (1996) は 「わが国では死は長い間 タブーとされ, 不吉で避けるべきものとされてき た歴史がある。 命の終末を平穏に迎えるためには, 普段から死を自分の問題として意識し, 死ぬべき 存在としての自己を受け入れることが必要である と思われる」 と述べている。

近年, 子どもたちの犯罪が注目されている。 な かでも, 殺人にまで至った子どもたちの中には,

「人が死ぬところを見たかった」 「死んだらどうな るか知りたかった」 と述べたり, 亡くなってしま い, 会えないはずの被害者に対して 「会って誤り たい」 と言ったりしていると言う。 このように死

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が取り返しのつかないものであることを理解でき ていない言葉を聞くと, 心臓が止まる, 呼吸が止 まるといった物理的・身体的レベルでの 「死」 は 理解していても, 前述した"死に出会う機会"がな いことにより, 心理的な意味を含んだ 「死」 を理 解できないでいるのではないだろうかと思われる。

たとえば, 喪失感, 悲嘆, 悲哀, 寂しさ, 思い出 に浸るなつかしさ, といったような感情の体験は, 子どもの頃から死にゆく人との交流によって育ま れるものではないだろうかと考える。

青年期群において 「死の不安・恐怖」 因子に該 当する各質問項目を検討すると, 項目9) 「私は 周囲の人々以上に, 死について不安が大きい」 で は, 中学生12.3%, 高校生6.8%, 項目11) 「私は 自分が死ぬと考えると不安になる」 では, 中学生 42.7%, 高校生37%という結果であり, 項目12)

「私にとって大切な人の死を考えると不安になる」

では, 中学生が78.7%, 高校生が80.8%と半数以 上が身近な他者のことを大切に思っていると考え られる。 項目15) 「私は死ぬことが恐ろしい」 で は, 中学生41.6%, 高校生52.1%であり, 半数近 くが死を恐ろしいと感じていると考えられる。 項 目16) 「私は人生が短いことを考えると, 気持ち が動揺してくる」 では, 中学生29.2%, 高校生 35.6%であった。 項目19) 「死後の世界があって 欲しいと思う」 では, 中学生59.6%, 高校生43.8

%であり, 約半数が死後の世界というものを考え ている。 項目20) 「私は自分が死ぬと考えると不 安になる。 考えると憂鬱になる」 では, 中学生9.

0%, 高校生16.4%, 項目25) 死後の世界がある かどうか, 私は不安である」 では, 中学生16.9%, 高校生5.5%であった。

厚生労働省による人口動態統計特殊報告 (2003) によると, 20歳以上45歳未満の人の死亡原因第1 位が自殺であるとしている。 さらに, 田中 (2001) の研究によると, 老年期では 「死を考える」 人は, 死を不安・恐怖として捉えることが多く, また, 青年期は, 死を考えている頻度が三世代のうちで 最も高いにもかかわらず, 「死を考える」 因子と

「死の不安・恐怖」 因子の二因子の関連が低いこ とから, 青・壮年期は死を考えることが, 必ずし も死の不安や恐怖に結びついていないと考えられ るとしており, また, 「自殺が青年期の死因の上

位を占める現状を踏まえると, 青年期にはいのち の尊厳を重視した死の教育が重要になることが示 唆された」 と述べている。

「死の不安・恐怖」 について過度に考えること は必要ない。 しかし, 適度に考えることは健康的 な心理状態でもある。 また, 死を考えることは, いかに生きるかということを考える機会でもある といえよう。 このことについて, 袖井 (2007) は,

「死への準備教育」 は 「生への準備教育」 である と述べている。 Deeken (1986) は, 「死への準備 教育」 が生きることを教えるためには, 四つのレ ベルをあげている。 第一に, 死へのプロセス, 悲 嘆のプロセスなど, 死と生に関わる体験をするこ とであるという。 これは前述した 死に出会う機 会 ではないかと考える。 第二に, 自己の価値観 の見直しと再評価を通して確固とした自分なりの 生死観を確立することが求められる。 このことは, 青年期におけるアイデンティティの確立の過程に 含まれるのではないだろうか。 第三に, 死と対決 し, 死に対して無意識のうちに抱いている情緒的 反応を自覚的にコントロールすることを学ぶ必要 がある。 どんなに科学が発達したとしても, 人は 永遠に生き続けることはできない。 どこかで死を 受け入れて生きていくことを学ぶことが重要では ないだろうか。 第四に, 技術の習得をあげている。

知的, 価値的, 感情的なレベルの学習を踏まえて, 生・老・病・死の現場における体験学習に基づい ているとしている。 近年, 中学生や高校生におけ る福祉施設などの職場体験やボランティア活動を 行っている学校があると聞く。 このような体験を 通じて, 生死観を培っていくことが必要になるで あろう。

総合考察

「死とは何か」 を問うことは, 「生命」 に関して は学校教育のなかで行われ, 「いのち」 に関して は主に家庭教育や地域社会などの日常の生活場面 における大人と子どものやりとりのなかから自然 に身につけていくものと考えられてきた。 しかし, 家庭死から病院・施設死に変わり, それはまた, 高齢者を家庭で介護し最後を看取ることは, 多忙 な現代社会では困難な面があると考えられるとい えよう。 こうした, 子どもたちから死が遠ざけら

青年期における死の意識について

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れている現状を踏まえて, 今回の研究を行ったが, 青年期の中学生や高校生が 「死」 について十分考 えていることは窺えた。 "死に出会う機会"がある ことによって, 身体的・心理的発達が活発な青年 期においては, 情緒・感情面でより豊かな発達を 促すことが考えられた。

死は人間の成長の最終的なプロセスであり, 人 間は死ぬまで成長する。 「死」 というものは誰に とっても恐怖であるが, それはまた誰にでも訪れ るものである。 この 「死」 の恐怖を乗り越えて, 最後まで人間らしく人生を全うすることができ, 成長することができれば, Erikson (1989) が示 す老年期の心理・社会的危機を乗り越え, 英知を 示し統合された人格へと成長が可能となり, 「死」

の持つ本当の意味が達成できると考える。 「死」

は決してマイナスのイメージのものではなく 「死」

を考えたり死に出会う機会を持つことは, 多くの ことを学ぶ機会となり, よりよく生きることへつ ながり, 得ることも多いと考える。

謝 辞

本研究においてご指導いただきました久保克彦 先生はじめ, 大学院院生, 京都学園大学の久保 ゼミの皆様, また, 多忙な中, 質問紙の実施にご 協力頂いた, 中学校, 高等学校の生徒, 教職員の 皆様に厚くお礼申しあげます。

引用文献

1) 青木省三 (2001):思春期の心の臨床 金剛 出版

2) デーケン, アルフォンス・メジカルフレンド 社編集部 (編) (1986):「叢書」 死への準備 教 メジカルフレンド社

3) 馬場禮子・永井徹・共編 (1997):ライフサ イクルの臨床心理学 培風館

4) Erikson, E.H (1950):Childhood and society.

仁科弥生 (訳) (1977):幼児期と社会 みす ず書房

5) Erikson, E.H (1959):Identity and the life c ycle. 小此木啓吾 (編訳) (1973):自我同一 性 誠信書房

6) Erikson, E.H (1982):The life cycle comple ted a review. 村瀬孝雄・近藤邦夫 (訳) (19

89):ライフサイクル, その完結 みすず書 房 2−4.

7) 平井 久 (1979):「情動の成熟」 吉田裕 (編) 現代青年の意識と行動 誠信書房, 54−61.

8) 井上枝一郎・尾入正哲 (1997):サイコロジー 労働科学研究所出版部

9) 柏木哲夫 (1993):生と死を支えるホスピス ケアの実践 朝日新聞社 東京 145−147.

10) 河合千恵子・下仲順子・中里克治 (1996):

老年期における死に対する態度 老年社会科 学 17 (2) 107−111.

11) Levinson, D. (1978):The Seasons of a ma n's' Life. alfred a .knopf. 南博 (訳) (1992):

ライフサイクルの心理学 講談社

12) 齊藤誠一 (2002) 青年期の人間関係 倍風館 13) 袖井孝子 (2007):死の人間学 金子書房 14) 園原太郎 (1979):子どもの心と発達 岩波

書店

15) 園原太郎・黒丸正四郎 (1980):3歳児 日 本放送協会

16) 田中愛子 (2001):共分散構造モデルを用い た老年期と青・壮年期の 「死に関する意識」

の比較研究 山口医学 50 (6) 801−810.

17) 田中愛子・後藤政幸・岩本晋・李恵英・杉洋 子・金山正子・奥田昌幸・國次一郎・芳原達 (2001):青年期および壮年期の 「死に関する 意識」 の比較研究. 山口医学50 (4), 697−7 04.

参考文献

1) Erikson,E.H. (1982):The Life Cycle Compl eted a Review.・村瀬孝雄・近藤邦夫 (訳) (1989):ライフサイクル, その完結 みすず 書房

2) 小林司 (1990):「生きがい」 とは何か 日本 放送出版協会

3) 関

一 (1996):青年期からの自己実現 ナカニシヤ出版

4) 山田剛史・村井潤一郎 (2005):よくわかる 心理統計 ミネルヴァ書房

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青年期における死の意識について

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青年期における死の意識について

Referensi

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