1
問題の所在―多国間協議への埋没振り返ってみれば、冷戦終結後の韓国の対北・対外政策の支柱は朝鮮半島の非核化と平 和体制樹立―軍事停戦体制の終焉―にあった。前者については、「朝鮮半島の非核化に 関する共同宣言」(1991年
12月31日採択、92年2
月19日発効、以下「南北非核化共同宣言」
)で、南北双方が「原子力をもっぱら平和目的にのみ使用する」(第
2
条)と謳う一方、「ウラン濃 縮施設および核再処理施設を保有しない」(第3
条)ことを確約した。後者については、同時 期の「南北間の和解・不可侵、交流、協力に関する合意書」(1991年12月13日採択、92
年2月19日発効、以下「南北基本合意書」
)で、南北双方は「軍事停戦体制を南北間の堅固な平和体制に転換するために共同で努力し、それが成就されるまで現軍事停戦協定を遵守する」(第
5
条)と謳った。これらの文書は、韓国が冷戦終結による外交的優位を背景に、朝鮮半島の紛 争要因を主導的に解決しようとする紛争「局地化」の取り組みの所産でもあった。もとより、これらの合意文書は、国際核不拡散レジームによる検証、あるいは第三国の 関与を排除してはいなかった。「南北非核化共同宣言」は、南北双方が国際原子力機関
(IAEA)との保障措置協定を遵守することを前提として採択された。「南北基本合意書」も 南北双方が平和協定の署名者になると謳ってはいたが、軍事停戦協定の事実上の署名者で ある米国と中国を排除したわけではなかった。しかし、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
の核不拡散条約(NPT)脱退宣言(1993年
3
月12日)から米朝「枠組み合意」の署名(1994年10月21日)
に至る「第1次核危機」は、これらの合意文書を履行する韓国の当事者能力の限界をみせつける結果となった。北朝鮮は
IAEAからも脱退し、
「南北非核化共同宣言」を形 骸化させたうえ、「新しい平和保障体系」の下に米朝平和協定を主張した。金泳三大統領(当時)は北朝鮮の顕著な対米傾斜のなかで「南北当事者原則」を主張したが、みるべき成 果を生むことはなかったのである(1)。
それから
10
年近くを経て、盧武鉉政権が発足したとき、すでに朝鮮半島は北朝鮮の高濃 縮ウラン(HEU)計画の発覚に端を発する「第2次核危機」に突入していた。盧武鉉は大統 領選挙以前から、①北朝鮮の核開発は容認できず即刻中止すべきである、②核問題は国際 的協力を通じて平和的に解決しなければならない、③政治家と国民の団結のうえに政府の 外交的努力がなされなければならないという「三つの基本原則」を挙げ、平和体制樹立に ついても「これ以上先送りできない重要課題」と位置づけていた。さらに、盧武鉉は就任演説で自身の対北・対外政策を「平和繁栄政策」と命名しつつ「南北当事者原則」を掲げ、
韓国が核問題解決と平和体制樹立に「主導的役割」を果たす意思を明らかにした(2)。
「南北当事者原則」とはいえ、盧武鉉が「国際的協力」に言及したように、それは周辺諸 国の協力を不可欠としていた。ところが6者会談は、国際連合安全保障理事会がIAEAから 北朝鮮による保障措置協定不遵守の報告を受けたにもかかわらず、米国と中国が公式審議 を回避する形で開いた米朝中3者会談(2003年4月23―
25日、北京)
を原型としていた。米 中両国は国連安保理での審議を当面避け、地域レヴェルで北朝鮮に安全の保証、経済支援 などの融和的措置を示して核放棄を促し、にもかかわらず北朝鮮が核開発に固執すれば、それに対しては国連安保理が懲罰的措置をとる可能性を示唆し、それが核放棄のための集 団的圧力として作用することを意図した(3)。
このように、米朝中 3 者会談が国連安保理での審議を地域的に代替する多国間協議であっ た以上、韓国を含む 6 者会談に拡大しても、そこに韓国が埋没していったのは不可避であっ たのかもしれない。しかし、韓国は朝鮮半島の非核化とともに平和体制樹立問題を取り上 げることで、「主導的役割」を果たそうと考えた。以下、韓国政府が提唱した「包括的アプ ローチ」の展開を明らかにし、北朝鮮のミサイル発射(2006年7月
5
日)および核実験(2006 年10月9日)の後、韓国の対北・対外政策のなかで6者会談を改めて捉え直してみたい。
2
局地からの企図―「包括的アプローチ」(1)「重大提案」―CVIDとの整合性
6者会談が国連安保理による懲罰的措置を回避しつつ、当面北朝鮮に地域レヴェルで安全
の保証、経済支援など融和的措置を提示して核放棄を促す多国間協議であったとはいえ、
北朝鮮による保障措置協定不履行が報告され、北朝鮮も
NPT
から脱退したと主張している 以上、その非核化原則は懲罰的にならざるをえなかった。米国は第2回 6
者会談(2004年2月
25―28
日、北京)以降、北朝鮮にNPT第4条で「すべての締約国の奪い得ない」とした原子力平和利用の権利行使を認めないとする「完全で、検証可能で、不可逆的な核解体(CVID:
Complete, Verifiable, Irreversible Dismantlement)
」の原則を掲げた。しかし米国は第3回 6
者会談(2004年6月
23―26日、北京)
で、北朝鮮がすべての核活動についての完全なリストを提出す るなど3ヵ月の「初期準備期間」の措置に応じ、核関連施設と物資の無能力化などの全般的 なアプローチに合意すれば、米国を除く参加国が重油を供給することを提案した(4)。これを 受けて第3回6
者会談の議長声明では、北朝鮮が主張してきた「約束対約束・行動対行動」との原則に言及し(5)、北朝鮮を段階的に核放棄に導くことに合意がみられたのである。
もとより、そこで北朝鮮がHEU計画を認めたわけではなく、北朝鮮も米国の提案には批 判を加えていたが、国連安保理への付託がいったん遠のいたのは確かであった。これを受 け、韓国は北朝鮮に核放棄を促す支援策を構想し、その領域で盧武鉉が強調する「主導的 役割」を演じようと考えた。韓国の支援策が即座に輪郭を整えたわけではなかった。これ が具体性を帯びて北朝鮮と相互作用がみられたのは、北朝鮮の「核保有宣言」(2005年2月10 日)を受け、核問題の国連安保理への付託が議論されるなか、それを回避するために韓国が
対北朝鮮支援策を急務と判断してからであった。
後に鄭東泳統一部長官が明らかにしたように、対北朝鮮支援策は統一部が中心となって 錬られ、それが北朝鮮に伝えられたのは南北次官級実務会談(2005年5月16日、開城)であ った。さらに盧武鉉は、2005年
6
月10
日の米韓首脳会談でブッシュ大統領に対北朝鮮支援 策を考慮していることを伝え、南北首脳会談5周年を記念して平壌で開催される民族統一大 祝典に鄭東泳を大統領特使として派遣した。鄭東泳は金正日国防委員会委員長との会見を 実現させ、そこで「重大提案」と称する方案を提示した。その内容は、北朝鮮が核放棄に 合意すれば、韓国は朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の軽水炉事業終了に同意する代 わりに、200万kWの電力を北朝鮮に送る送電線工事に着手し、3年内の北朝鮮の核放棄と同 時に、電力供給を行なうというものであった(6)。韓国が米国の
CVIDとの整合性に苦慮したことは、
「重大提案」の内容がよく示していた。この提案は韓国からの送電であり、北朝鮮に原子炉を供給するものではない。振り返れば、
KEDOの任務は、約 100万 kWの軽水炉2
基(計約200万kW)
の建設と年間50万トンの重油供 給であった。また、KEDOを生んだ米朝「枠組み合意」も、北朝鮮の核活動凍結と米朝関係 改善を並行させ、北朝鮮を核施設の解体に導くことを骨子とするもので、そこで南北朝鮮 関係の改善は副次的に言及されたにすぎなかった。したがって、「重大提案」は、米朝「枠 組み合意」における米朝関係と南北朝鮮関係の主従関係を逆転させ、韓国が対北朝鮮支援 で「主導的役割」を担うことを意図した提案であったと言ってよい。ここで指摘すべきは、韓国の「重大提案」が北朝鮮の原子力平和利用の権利にも関連し ていたことである。鄭東泳によれば、「重大提案」を提案したとき、金正日は朝鮮半島「非 核化」は金日成の「遺訓」としつつ、「南北非核化共同宣言」は有効であり、NPTに復帰し
IAEA保障措置を受ける用意もあるとも述べたという。北朝鮮は HEU計画の発覚後、
「南北非核化共同宣言」は「死文化」したとしていたが、金正日はその立場を一転させたことに なる(7)。確かに、「南北非核化共同宣言」は第3条でウラン濃縮と再処理施設の放棄を謳って いる。これに従えば、北朝鮮もHEU計画―それが平和利用目的の低濃縮ウラン(LEU)計 画であっても―を放棄しなければならない。しかし他方、この文書は第2条で、南北双方 が原子力平和利用の権利をもつことを確認している。したがって、北朝鮮が
NPT
に復帰す る意思をみせ、「南北非核化共同宣言」が有効であるとの立場をとれば、当然NPT第4
条と「南北非核化共同宣言」第2条を根拠に、原子力平和利用の権利を主張することになる。
(2)「包括的アプローチ」の中核―朝鮮半島固有の安全の保証
他方、韓国が6者会談で固有の利害を反映させ「主導的役割」を果たそうとすれば、平和 体制樹立問題にかかわらざるをえない。確かに、これは一義的には、朝鮮半島固有の安全 保障取り決めの問題である。しかし、朝鮮半島がいまだに法的に戦争状態にあることに米 国からの脅威の源泉があるとして北朝鮮が核開発を正当化したことを考えれば、平和体制 の樹立は北朝鮮から核開発の動機を奪う安全の保証の意味をもつ(8)。それまで、南北将官級 会談が開かれ南北間の軍事的信頼醸成のための対話が実現したが、軍事停戦協定を平和協 定に転換するという制度的な議論には達していなかった。平和体制が南北主導であるとし
ても、軍事停戦協定の事実上の署名者である米国と中国の関与を必要としていることから、
韓国がこの問題を米中両国が参加する6者会談で提起しようと考えたのも自然であろう。
この問題でも主導権を握ったのは統一部であった。鄭東泳は2005年1月のベルリンでの演 説と世界経済フォーラム(ダヴォス会議)で、①戦争不可、②平和共存、③共同繁栄の「3 大平和戦略」を示し、①
6
者会談を通じた実質協議の早期再開、②北朝鮮の核放棄の決断、③米国の「包括的アプローチ」と前向きな協議追求を「3大実践課題」に挙げた。米国が第
3回 6者会談で多国間の安全の保証を与える用意をみせたにもかかわらず、
「包括的アプローチ」を求めたことは、鄭東泳が北朝鮮の核放棄を促すうえで多国間の安全の保証では不十 分と認識していたことになる。ここで鄭東泳が2005年を朝鮮半島における冷・戦・構・造・解・体・の 転換点とすべきと述べたことに着目すれば、「包括的アプローチ」の核心は平和体制樹立問 題であったとみてよい(9)。
その後、盧武鉉も「包括的アプローチ」を追認する演説を行なっていた。盧武鉉は
2005
年4月の訪独の際、「南北関係全体が改善しなければなりません」と述べたうえで、「南北非 核化共同宣言」に言及した。また、盧武鉉は「南北間平和協定、宣言は南北間で意思を合 わせて合意されねばなりません。1991年の南北間で平和共存と交流の基本協定(「南北基本 合意書」を指す)が結ばれましたが守られませんでした。その最も大きな理由は核問題でし た」(括弧内は引用者)と述べた。また、盧武鉉はここで6
者会談で非核化が達成されれば、「平和宣言」も可能であると述べた(10)。「平和宣言」が平和協定と区別して用いられたこと を考えると、これは平和協定締結、国連軍司令部解体などの措置をとる以前に平和協定が 南北間で結ばれることを改めて宣言するものであり、それは「南北基本合意書」を再確認 するものにほかならない。あるいは、平和体制が米国と中国の関与を排除しないとすれば、
米中両国が参加する多国間協議で発表されることもありえよう。
その後、鄭東泳は上に述べたとおり、金正日に「重大提案」を提起したが、そこで鄭東 泳は中断状態の南北将官級会談の再開など、軍事的緊張緩和の問題を協議していくことで も金正日からの同意を得た(11)。これは平和体制の樹立という制度的措置に直結する問題では ないが、平和体制を信頼に値するものにするには軍事的信頼醸成が伴わなければならない。
鄭東泳も南北将官級会談を通じた軍事的信頼醸成と並行して、制度的措置を整えることを 考えたに違いない。北朝鮮は2005年
7
月9
日の外務省代弁人談話で6
者会談への復帰を発表 したが、すでにこの頃には非核化と平和体制樹立問題が渾然一体となって議題になろうと していたのである。3 6
者会談共同声明と「包括的アプローチ」―触媒としての多国間協議(1) 原子力平和利用の権利―平和体制樹立問題への連動
2005年 7
月末から第4回6
者会談が開催されたが、韓国は6
者会談が触媒となって、過去南北間で合意されながら履行されなかった「南北非核化共同宣言」と「南北基本合意書」
の有効性を再確認することを期待した。「南北非核化共同宣言」についてはライス米国務長 官も、北朝鮮の核計画はこれに違反すると明言していた。さらにライスは、北朝鮮の核放
棄を前提として第3回
6
者会談で示された重油支援は有効であるとし、韓国の「重大提案」もその関連に位置づけた(12)。また、韓国が平和体制樹立について米国との初歩的な意見交 換を始めたのはこの年の
7
月初旬であったという(13)。韓国は6者会談で非核化と平和体制樹
立問題を包括的に扱うことについて、米国の理解を得たと判断していたであろう。第4回
6者会談開会後、北朝鮮首席代表の金桂冠が「南北非核化共同宣言」を対米要求の
根拠としていたことは明らかであった。金桂冠は基調演説で「朝鮮半島の非核化」という 語を用いて韓国内の「核兵器」を問題にした(14)。さらに金桂冠は原子力平和利用の権利を 主張するとともに、軽水炉供給を要求した。ヒル米国首席代表は、「NPTでは北朝鮮にも原 子力の平和利用が認められることに異議はない」として、NPT復帰を前提に権利保持につい ては理解を示す一方、「その権利を行使することには異議がある」(15)として権利行使につい ては否定的な認識を示した。これは米国がCVIDを掲げる以上は当然と言ってよいが、金桂 冠は原子力平和利用の権利は保持するだけではなく、行使できなければならないと主張し たという(16)。ヒルはそれに同意せず、6者会談は休会に追い込まれることになった。
北朝鮮による軽水炉供給の要求は、韓国の「重大提案」とも強く関連していた。休会中、
ブッシュが北朝鮮に原子力平和利用の権利を認めない理由として韓国の「重大提案」を挙 げたように(17)、北朝鮮は「重大提案」を受け入れることで、軽水炉要求の根拠が失われる ことを懸念した。別言すれば、北朝鮮が「重大提案」を受け入れるには、北朝鮮が目にみ える形で原子力平和利用の権利を行使していることを示すため、軽水炉供給は譲れない条 件であった。休会中、鄭東泳が
CVIDを掲げる米国と「立場の違い」があるとまで明言し、
北朝鮮の原子力平和利用の権利を認める発言を行なったのもこの背景からであった(18)。も とより、鄭東泳は北朝鮮が「NPTに加盟し
IAEA
の査察を受ければ」と強調しており、無条 件で原子力平和利用の権利を行使できると考えたわけではなかった。ところが、鄭東泳の 発言のなかで「軽水炉を建設することは一般的権利」とした部分は、原子力平和利用の権 利保持と行使を峻別しないまま、北朝鮮の軽水炉供給の主張を擁護したと受け止められた。しかも上述のとおり、鄭東泳は「重大提案」の内容を明らかにした際、北朝鮮が核放棄に 同意すれば、韓国も軽水炉事業の終了に同意すると述べていたが、ここで鄭東泳は軽水炉 事業を廃棄せず「凍結がよい」と述べていた。鄭東泳は北朝鮮に軽水炉を供給し原子力平 和利用の権利行使を認めることで、「重大提案」との両立を図ったことになる。鄭東泳の念 頭には、原子力の平和利用の権利を謳った「南北非核化共同宣言」があったであろう(19)。
なお休会中の8月
15
日、ソウルで民族大祭典が開かれ、北朝鮮からも金己男祖国平和統 一委員会副委員長を団長とする代表団が参加したが、ここで韓国側代表団の団長を務めた 鄭東泳は「韓半島の対決と停戦状態を終息し、恒久的な平和体制を構築しよう」(20)と呼び かけた。また、6者会談の再開はその間途絶えていた南北政府間対話の再開にもつながった。休会中の第
4回 6
者会談が9
月13日に再開されたのに合わせるかのように、9
月16日には第16回南北閣僚級会談が平壌で開催された。すでに米国と平和体制樹立についての初歩的な
意見交換を始めていた韓国は、この問題を北朝鮮に提起し南北間の平和協定について合意 を得ようと考えた(21)。このように、韓国は「重大提案」を実現させるべく、北朝鮮の原子力平和利用の権利を条件付きにせよ認めることで南北対話に誘導しようと考えた。そして、
それは「包括的アプローチ」の中核である平和体制樹立問題にも連動していたのである。
(2) 多国間協議の重層化―6者会談・4者会談・南北対話
かくして、第
4回 6者会談は初の合意文書となる共同声明
(2005年9月 19日)
を採択した(22)。 この文書はまず、米国が「朝鮮半島に核兵器を保有しないこと」を約し、韓国も「核兵器 を受領、配備しないとの約束を再確認した」としたうえで、「南北非核化共同宣言」は「遵 守かつ実施されるべきである」と明記した。ただし上述のとおり、「南北非核化共同宣言」はウラン濃縮と再処理施設を放棄すると謳った点で、北朝鮮に
HEU計画を放棄させるうえ
で有効な文書であったが、共同声明は北朝鮮が「すべての核兵器および核計画を放棄する」と言及するにとどまった。米国はこの文言に
HEU計画も含まれると解釈したが、北朝鮮は
この会談でもHEU計画を認めようとはしなかった。また、「南北非核化共同宣言」は南北双 方が原子力平和利用の権利をもつことを確認しているが、この点につき共同声明は、「原子 力平和利用の権利を有する」とする北朝鮮の発言を、他の参加者が「尊重する」と述べた にすぎず、軽水炉供給についてもその問題を「適当な時期に議論を行なうことに合意した」と言及し、北朝鮮の要求は留保されたのである。
さらに共同声明は、「重大提案」についても韓国が「再確認した」と言及するにとどまっ た。確かに北朝鮮は、この提案を受け入れれば、韓国に電力供給源を握られ南北対話に政 治利用されることを懸念したであろう。しかし、「重大提案」が北朝鮮の原子力平和利用の 権利に関連していたことを想起すると、共同声明が原子力平和利用の権利を有するとの北 朝鮮の発言に他の参加者が「尊重する旨述べた」と言及するにとどまり、軽水炉供給の要 求も留保されたことで、北朝鮮も「重大提案」の受け入れを留保したと考えられる。
また振り返ってみても、北朝鮮は「第
1
次核危機」の際、「南北非核化共同宣言」と「南 北基本合意書」をほぼ同時に形骸化する行動をとっていた。北朝鮮の認識においてこれら の文書が表裏一体であったとすれば、共同声明が「南北非核化共同宣言」に言及しながら も、北朝鮮の原子力平和利用の権利と軽水炉供給に留保条件をつけたことが、平和体制樹 立問題にも波及したとも考えられる。あるいは、北朝鮮は「南北基本合意書」に従って南 北平和協定を再確認することで、米国が平和体制樹立問題で果たすべき責任を回避するこ とを懸念したのかもしれない。これについて共同声明が「直接の当事者は適当な別の話し 合いの場で朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する」とし、「南北基本合意書」に触れられなかったことは、韓国にとって不満が残る結果であったのかもしれない。これ と同様に、第
16回南北閣僚級会談では、韓国が南北間の平和体制樹立を主張したにもかか
わらず、共同報道文では南北将官級会談の早期開催については合意をみたものの、平和体 制樹立については言及されなかった(23)。しかし、北朝鮮が多国間文書で平和体制樹立を確約したことの意義は大きい。なぜなら、
この文書による限り、北朝鮮が平和体制樹立のプロセスから韓国を排除し、米朝間の排他 的平和体制を主張してきた「新しい平和保障体系」はもはや有効ではなくなるからである。
「直接の当事者」が軍事停戦協定の事実上の署名者とすれば、6者会談のなかでかつての
4者
会談を構成した韓国、北朝鮮、米国、中国が平和体制樹立のための多国間協議を開くこと になる。
そもそも、「包括的アプローチ」は、北朝鮮の核問題を平和体制樹立問題という朝鮮半島 固有の安全の保証に配慮して解決を試みるアプローチであった。したがって、共同声明に は「南北基本合意書」が明記されなかったとはいえ、6者会談という非核化のプロセスに平 和体制樹立のプロセスが組み込まれた以上、「包括的アプローチ」で韓国が意図したことは 概ね共同声明には反映されたと言ってよい。南北間の平和体制樹立は将来の課題として残 されたが、韓国は6者会談と並行して南北対話を行ない、「南北基本合意書」を再確認すれ ば、「適当な別の話し合いの場」は、南北間の平和体制を米中両国が保障する多国間協議と なりうる。宋旻淳韓国首席代表も共同声明の意義を「韓半島で冷戦を終息し恒久的平和を 根づかせ、東アジアの平和と繁栄という新しい地平に向かうわれわれの共同意志の勝利」(24)
と位置づけていた。盧武鉉もまた、「韓半島の非核化を実現し、平和体制を構築して戦争の 危険を恒久的に除去していくでしょう」(25)と述べ、6者会談と並行して南北対話を深めてい くことに意欲を示した。その延長線上に、「南北基本合意書」の再確認が位置づけられてい たのは言うまでもない。
4
核実験と「包括的アプローチ」の余地―朝鮮戦争終結宣言の効用共同声明を採択したとはいえ、その後の6者会談が韓国の言う「包括的アプローチ」に従 って展開したわけではなかった。共同声明は第3回
6
者会談の議長声明を再確認する形で、「約束対約束・行動対行動」の原則に言及していたが、具体的な履行の手順について合意を みたわけではなく、原則合意に近かった。さらに共同声明直後、米国が発動した「金融制裁」
は北朝鮮の反発を招き、第5回6者会談第
1
セッション(2005年11月9
―11日、北京)の決裂 以降、北朝鮮は「金融制裁」の全面解除を6者会談再開の条件とした。しかし皮肉にも、6
者会談が空転するなか、むしろ韓国はその打開のため「包括的アプローチ」により積極性 をみせ、それは2006年2月、国家安全保障会議事務次長の李鍾 が統一部長官に就任してよ
り顕著となった。実際、李鍾 は就任辞で「韓半島平和の制度化にわれわれのすべての力量 を集中する」(26)と述べ、盧武鉉も5月のウランバートルでの演説で、北朝鮮に「制度的、物
理的支援」を行なう用意をみせた(27)。この演説で盧武鉉が朝鮮戦争に触れたことを考えて も、ここで言う制度とは平和体制樹立に関連していると考えてよい。共同声明でみたように、韓国の「包括的アプローチ」が6者会談に組み込まれたことを考 えるとき、7月
5
日未明の北朝鮮によるミサイル発射で韓国が危惧したのは、ミサイル脅威 そのものよりも、それによって6者会談が失速し「包括的アプローチ」の基盤が動揺するこ
とであった。韓国政府は北朝鮮に対する政府次元のコメ・肥料支援を保留する一方、北朝 鮮の6者会談への早期復帰を求める声明を発表したが(28)、その後間もなく、国連安保理決議 第1695号(S/RES/1695)が採択された。冒頭で述べたとおり、6者会談には、国連安保理の 審議を避けつつ、地域レヴェルで北朝鮮に融和的措置を示して核放棄を促す一方、北朝鮮 が核開発に固執すれば国連安保理が懲罰的措置をとるとすることで北朝鮮に集団的圧力を加えるという二つの効用があった。北朝鮮の核問題が国連安保理で審議された時点で、6者 会談の二つの効用のうち集団的圧力という効用は大きく殺がれたと言ってよい。
ここで指摘すべきは、これ以降、韓国政府内部で
6者会談の膠着状態を打開する方法が議
論され、米韓首脳会談(2006年9
月14日、ワシントン)
で提示されたことである。韓国外交 通商部によれば、米韓両首脳はここで、共同声明履行のため「共・
同
・
の
・
包括的アプローチ」
(傍点は引用者)をとることに合意をみたという(29)。もとより、盧武鉉も「実務レヴェルで折 衝中」(30)とし、この時点でその内容の詳細に合意したわけではなかった。しかし、盧武鉉 は帰国後、「共同の包括的アプローチ」を北朝鮮に知らせ、北朝鮮からも否定的な見解はな かったことを明らかにした(31)。韓国が提唱した「包括的アプローチ」の中核が平和体制樹 立問題であったことを想起しても、「共同の包括的アプローチ」は米韓共同で北朝鮮を南北 平和体制に誘導する目的をもっていたと考えてよい。ヒルが米韓首脳会談を受けて改めて、
米国が平和体制樹立を切望する韓国を支持すると発言したのもこの文脈であろう(32)。 それにもかかわらず、2006年
10月 9日、北朝鮮が核実験を強行した直後、一時期は 6
者会 談の続行さえも困難と考えられたのは当然であった。ミサイル発射で非難決議を採択した 国連安保理が、核実験に対してそれ以上の措置をとることは確実と考えられ、この時点で6 者会談は集団的圧力という効用を完全に失ったと言ってよい。韓国も政府声明を発表し、核実験が「南北非核化共同宣言」への違反行為にあたることを強調し厳しく非難した(33)。 確かに、「南北非核化共同宣言」は国際核不拡散レジームを支える局地的取り決めであり、
北朝鮮が核実験を強行し、北朝鮮の国際核不拡散レジームへの復帰が共同声明採択時より も困難となっている以上、この文書の履行を通じた核放棄は説得力を失わざるをえなかっ た。しかし、盧武鉉も北朝鮮に対しては国際社会との協調のうえで断乎たる措置をとると 述べる一方、「包括的アプローチ」については「ひとつのオプションに変化した」としなが らも、それを放棄するとは断言しなかった(34)。10月
14
日、国連安保理決議第1718
号(S/RES/1718)が採択されたが、それは「包括的アプローチ」に希望を繋いでいた盧武鉉を一 面安堵させる内容となっていた。なぜなら、この決議は北朝鮮の核実験に対して国連憲章 第7章に言及しながらも、禁輸対象を大量破壊兵器に関連する物資と奢多品に限定し、「6者 会談の早期再開を促進するというすべての関係国による努力を歓迎し、さらに奨励する」
と言及したからである。共同声明で「包括的アプローチ」が6者会談に組み込まれたことを 想起すると、国連安保理決議でも6者会談が否定されなかったことで「包括的アプローチ」
の核心である平和体制樹立問題が議論される余地は残されたのである。
北朝鮮が10月末に
6
者会談への復帰を発表したのも、中国の仲介もさることながら、国 連安保理決議第1718号が経済制裁という懲罰的措置を盛り込む一方で、6者会談を否定しな かったことを考慮した結果であった。北朝鮮の核実験により集団的圧力という効用が失わ れたにもかかわらず、北朝鮮が6者会談に復帰するのは、そのいまひとつの効用である融和
的措置を期待してのことであろう。また、それは他の参加者にとっては、核実験後も6者会 談を継続しようとすれば、北朝鮮に融和的措置を提示しなければならないことを意味する。ここで指摘すべきは、アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会談(2006年
11
月18― 19
日、ハノイ)での米韓非公式首脳会談である。ここでブッシュは盧武鉉に対し「北朝鮮が核を放 棄すれば、朝鮮戦争終結宣言を検討することもできる」(35)と述べ、韓国とともに安全保障 取り決めをつくることの重要性を指摘した(36)。韓国が提唱した「包括的アプローチ」が平 和体制樹立問題を中核とし、9月の米韓首脳会談でも米国から原則的同意を得たことを想起 しても、ここで米国は朝鮮戦争終結宣言という形で韓国と共同で推進することを明らかに したと言ってよい。朝鮮戦争終結宣言は同時に、盧武鉉が2005年4月の訪独の際に言及した
「平和宣言」とも軌を一にしていた。本来、朝鮮戦争終結には、平和協定締結、国連軍司令 部解体などの措置が伴うが、朝鮮戦争終結宣言は宣言措置であり、それ自体に具体的な行 動が伴うわけではない。米国は、核実験で共同声明に逆行した北朝鮮を再び共同声明に立 ち返らせるうえで、そこに謳われた「約束対約束・行動対行動」に着目したに違いない。
また、ブッシュは胡錦濤中国国家主席にも同様の発言を行なっていた(37)。米国は共同声明 にある「適当な別の話し合いの場」で朝鮮戦争終結宣言を行ない、これに対して北朝鮮も 改めて核放棄を宣言するという「約束対約束」を再確認し、やがて「行動対行動」に移行 することを期待したのかもしれない。そうだとすれば、「行動対行動」段階に至れば、米韓 両国が国連軍司令部解体など、朝鮮戦争終結に必要な行動的措置をとるのに対して、北朝 鮮は核放棄の具体的な行動をとらなければならない。
北朝鮮の核実験後、「平和繁栄政策」が国内外の批判に晒されるなか、李鍾 は統一部長 官辞任に追い込まれたが、「包括的アプローチ」に対する韓国の積極性は変わることがなか った。それは、核実験後も6者会談を継続し、平和体制樹立問題を中核とする「包括的アプ ローチ」の必要性が米国と共有されたことによるところが大きい。実際、その後も韓国は、
6者会談の枠内で「適当な別の話し合いの場」を開く一方、南北平和体制のための南北対話を
深めていく方針を堅持した。李鍾 の後任として統一部長官に就任した李在禎も就任辞で、6者会談と並行して「平和プロセスに向けた南北対話を推進しなければならない」と述べ、
共同声明とともに、「南北基本合意書」との意義を改めて強調していたのである(38)。
5
結語―「北京合意」と「包括的アプローチ」北朝鮮の核実験後、6者会談が当初の集団的圧力の効用を失っただけではなく、いまや北 朝鮮に対する集団的支援の枠組みに転化したことは、再開後の
6者会談での議論がよく示し
ていた。第5回6者会談第 3
セッション(2006年12月18
―22日、北京)を経て、第5回6
者会 談第3セッション(2007年2
月8―13日、北京)
では、共同声明履行のための初期段階措置に 関する合意文書が採択された(「北京合意」)(39)。そこではCVID
の原則に従って北朝鮮にHEU計画を含む完全な非核化を求めるよりは、稼動中の核施設を閉鎖させ、北朝鮮にプル
トニウムをこれ以上蓄積させないことに力点が置かれていた。また、「北京合意」では、初 期段階措置を北朝鮮の核施設の閉鎖と核施設の無能力化に分け、それぞれに対して多国間 で重油供給を行なうほか、関係国が作業部会を設置して米朝・日朝関係正常化のための協 議を開始するなどの措置が提示されていた。そこでは北朝鮮がすでに保有したとする核兵 器の解体は、初期段階措置の後に先送りされる形となっていた。なお、「北京合意」でも、共同声明に謳われた「適当な別の話し合いの場」で平和体制樹 立問題が議論されることが再確認されたが、その過程で「包括的アプローチ」について米 韓間でその必要性が改めて共有されていたことは強調されてよい。千英宇韓国首席代表は すでに第
5
回6
者会談第3
セッション以前から、韓国が米国との協議の下に、初期段階措置 を推進していることを強調し(40)、「北京合意」の採択に際しても、「適当な別の話し合いの場」を通じて「平和体制に代替する問題について論議」の必要性に触れていた(41)。欧州歴訪中 の盧武鉉は事前に米韓間だけではなく、南北間の協議も同時並行していたことを明らかに し(42)、青瓦台も米国との「共同の包括的アプローチ」が「北京合意」の基礎を築いたと強調 し、韓国が「主導的役割」を果たしたと自賛した(43)。確かに、核実験後、北朝鮮の国際核 不拡散レジームへの復帰がより困難となっている以上、朝鮮半島という局地、周辺諸国を 交えた地域的次元から北朝鮮の核放棄にアプローチするしかない。しかし、共同声明に示 されているように、平和体制樹立を中核とする「包括的アプローチ」は、6者会談という非 核化のプロセスに組み込まれている。「適当な別の話し合いの場」も、協議の形態では「別」
であっても、力学のうえでは分かちがたく結びついているはずである。平和体制樹立問題 が6者会談のなかで韓国が「主導的役割」を演じることができる領域であることに異論の余 地はないとはいえ、「北京合意」が共同声明の初期段階措置に関する合意であることを考え るとき、韓国が6者会談全体の非核化のプロセスよりもその「主導的役割」を優先すること は、北朝鮮が核兵器保有を既成事実化する可能性を孕むことになりかねない。
(1) 国際核不拡散レジームと「南北非核化共同宣言」の関連、金泳三の「南北当事者原則」は、倉田 秀也「朝鮮半島多国間協議の『重層的』構造と動揺―『局地化』『国際レジーム』『地域秩序』」、 岡部達味編『ポスト冷戦のアジア太平洋』、日本国際問題研究所、1995年を参照。
(2) 倉田秀也「北朝鮮の『核問題』と盧武鉉政権―先制行動論・体制保障・多国間協議」『国際問
題』第518号(2003年5月)、23―24ページ。また、平和体制樹立問題に対する盧武鉉政権発足当初
の取り組みについては、同「南北首脳会談後の平和体制樹立問題―制度的措置と軍事的措置の 交錯」、小此木政夫編『危機の朝鮮半島』、慶應義塾大学出版会、2006年、56―62ページを参照。
(3) 倉田秀也「六者会談の成立過程と米中関係―『非核化』と『安保上の懸念』をめぐる相互作用」、 高木誠一郎編『米中関係―冷戦後の構造と展開』、日本国際問題研究所、2007年を参照。
(4) “Dealing with North Korea’s Nuclear Programs, James A. Kelly, Assistant Secretary for East Asian and Pacific Affairs, Statement to the Senate Foreign Relations Committee, Washington, DC, July 15, 2004”(http://www.
state.gov/p/eap/rls/rm/2004/34395.htm).
(5)「第三輪六方会談主席声明」(http://www.fmprc.gov.cn/chn/ziliao/wzzt/cxbdhwt/dslbjlfht/. . .).
(6)「〈北核解決のための対北直接送電計画〉鄭東泳統一部長官『重大提案』説明記者会見要旨
〈2005.7.12国家安全保障会議結果報告〉」、2ページ。鄭東泳は2003年末に停止されたKEDOによる 軽水炉事業を停止期間の延長を提案し、事業の凍結を主張していた(『中央日報』2004年8月24日)。
(7) “Significance of Presidential Special Envoy Chung Dong-young’s Visit to North Korea,” Korea Policy
Review, July 2005, p. 11.「第2次核危機」における「南北非核化共同宣言」の位置づけについては、
倉田秀也「北朝鮮の米朝『枠組み合意』離脱と『非核化』概念―新たな核開発問題と地域的解 決の模索」、黒澤満編『大量破壊兵器の軍縮論』、信山社、2004年を参照。
(8) Hideya Kurata, “A Conceptual Analysis of the Six-Party Talks: Building a Peace Regime through Security Assurances,” Asian Security, Vol. 3, No. 1(2007).
(9)「特別寄稿文〈6者会談を超え韓半島冷戦構造解体へ〉、2005.9.28.」(http://unikorea.korea.kr/common/
jsp/popup_news_print.jsp?_id=90062933)。『中央日報』2005年1月31日。Thomas Crampton, “Optimism Emerges on Diplomatic Breakthrough for Koreas,” International Herald Tribune, January 31, 2005. ただし、
「包括的アプローチ」は、韓国語を忠実に訳出すると「包括的接近方案」となる。
(10)「南北間の合意・約束は守られ、尊重されなければ(同胞懇談会で北韓の協力・対話追求)、
2005.4.11.」(http://www.president.go.kr/cwd/kr/archieve/popup_archive_print.php?meta_id=. . .).
(11)「6・15民族大祝典政府代表団派遣②―鄭東泳長官、特使資格で金正日委員長と面談」(http://
unikorea.korea.kr/warp/webapp/news/print_view?id=57ae6ed2738a0265629d. . .).
(12) “Press Availability with South Korean Foreign Minister Ban Ki-Moon, Secretary Condoleezza Rice, Seoul, South Korea, July 13, 2005”(http://www.state.gov/secretary/rm/2005/50349.htm).
(13) 李鍾 「2・13合意と韓半島冷戦構造解体」『情勢と政策』第131号(2007年4月)、2ページ。
(14)『朝鮮民主主義人民共和国月間論調』2005年8月、11ページ。同様の主張として、ペク・ムンギ ュ「朝鮮半島非核化に寄与する協商の場とならなければならない」『労働新聞』2005年7月24日を 参照。なお、金桂冠の基調演説に対してラポルテ在韓米軍司令官は、「1991年以降、在韓米軍には 核兵器は配備されていない」と述べた(「聯合」2005年7月29日)。
(15) “Fourth Round of Six-Party Talks: Evening Return to Hotel, Christopher R. Hill, Assistant Secretary for East Asian and Pacific Affairs, Beijing, China, July 29, 2005”(http://www.state.gov/p/eap/rls/rm/2005/50694.htm).
(16) “Fourth Round of Six-Party Talks: Early Afternoon Transit to St. Regis, Christopher R. Hill, Assistant Secretary for East Asian and Pacific Affairs, Beijing, China, August 7, 2005”(http://www.state.gov/p/eap/rls/rm/
2005/50869.htm).
(17) “President Meets with Economic Team, Bush Ranch, Crawford, Texas, August 9, 2005”(http://www.
whitehouse.gov/news/releases/2005/08/20050809-3.htm).
(18)「北、軽水炉の平和的利用は当然の権利」(http://feature.media.daum.net/Printpage/interview/deepe
N0131.shtm). 伊豆見元「『六カ国協議』と韓国」『東亜』第464号(2006年2月)、36ページ。
(19) 後に鄭東泳は、北朝鮮の核放棄の検証過程に必要ならば、「南北非核化共同宣言」による相互査 察を受け入れるとの意向を明らかにした(『2005年国政監査統一外交通商委員会会議録』、ソウル、
国会事務処、2005年、66ページ)。なおそれ以前、韓国政府は北朝鮮が在韓米軍を含む韓国内の施 設への相互査察を要求した場合、それを受け入れる方針を下していたという(『東亜日報』2005年 10月2日)。
(20)『8・15南北当局共同行事、成果および意味』、ソウル、統一部、2005年8月17日、2ページ。
(21)「第16次長官会談で韓半島平和問題論議」(http://unikorea.news.go.kr/warp/webapp/news. . . ).
(22) 以下、6者会談共同声明からの引用は、“Joint Statement of the Fourth Round of the Six-Party Talks Beijing, September 19, 2005”(http://www/state/gov/r/pa/prs/ps/2005/53490.htm)による。
(23)「第16次南北長官級会談共同報道文」(http://unikorea.go.kr/kr/KUN/KUN0210Rjsp).
(24)「全体会議開催時わが代表発言(2005.9.19.北京)」(http://www.mofat.go.kr/mofat/mk_a008/mk_b083/
mk_c165_/1206153_5409.html). なお、「第4次6者会談成果と意味―韓半島の恒久的平和定着転機
をつくる」、ソウル、国家安全保障会議事務処、2005年9月20日も併せて参照。
(25)「第256回定期国会施政演説(2005年10月12日)」『盧武鉉大統領演説文集(第3巻)』、ソウル、
大統領秘書室、2006年、420ページ。なお、盧武鉉は後に、6者会談における韓国の「主導的役割」
について「現在の6者会談で言うなら、反映されている」と述べた。これについては、「ソウル常 駐外信支局長団懇談会(2005.11.8.)」(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/archive/archive_view.php?meta_id=
vip_word&page=4&. . .).
(26)「就任辞 統一部長官李鍾 」、ソウル、統一部、2006年2月10日、6ページ。これ以降、統一部の 出版物にも「韓半島平和の制度化」が頻繁に言及されることになった。例えば、『参与政府3年 平
和繁栄政策成果』、ソウル、統一部、2006年、17ページを参照。
(27)「モンゴル同胞懇談会(2006.5.9.)」(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/archive/archive_view.php?meta_id=
vip_speeches&page=9&category=&sel_type=1&keyword=&id=f518a4a9cea. . .).
(28)「北韓はミサイル発射事態の責任をとらねば―政府声明発表…『挑発的行為中断、6者会談復 帰追求』(2006.7.5.)」(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/archive/archive_view.php?meta_id=. . .).
(29)「第2次官内・外信定例記者会見(2006.9.20)」(http://mofat.korea.ke/common/jsp/popup_news_print.
jsp?_id=155134255).
(30) “President Bush Welcomes President Roh of Republic of Korea to the White House, The Oval Office, Office of the Press Secretary September 14, 2006”(http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/09/print/20060914- 5.html).
(31)「[MBC100分討論①]対北問題主導はわれわれの役割(2006.9.28)」(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/
vip_speeches/popup_print.php?meta_id=&page=5&category=&. . .).
(32) “The U.S-Republic of Korea Alliance: Christopher Hill, Assistant Secretary for East Asia and Pacific Affairs, Statement to the House International Relations Committee, Washington DC, September 27, 2006”(http://www.
state.gov/p/esp/rls/73269.htm).
(33)「北韓核実験、断乎として対処―NSC開催、政府声明発表(2006.10.9.)」(http://www.president.
go.kr/cwd/kr/archive/archive_view.php?meta_id=hotis_2&id=3156aefd2417c3bf3d9bcd67).
(34)「北核、国内国際社会と調律された措置をとる― 盧大統領記者会見、『経済波及最小化努力』
(2006.10.9.)」(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/archive/archive_view.php?meta_id=hotis_2&id. . .).
(35) “Press Briefing by Press Secretary Tony Snow, Thang Loi Hotel, Hanoi, Vietnam, Office of the Press Secretary, November 17, 2006”(http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/11/print/20061117-16.htm).
(36) “President Bush Meets with President Roh of the Republic of Korea, The Sheraton Hanoi, Office of the Press Secretary, November 18, 2006, Hanoi, Vietnam”(http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/11/print/
20061118-4.htm).
(37) “Press Gaggle by Tony Snow, Abroad Air Force One, En Rout Ho Chi Minh City, Vietnam, Office of the Press Secretary, November 19, 2006”(http://www.whitehouse.gov/news/releases/200606/11/print/20061119-5.
htm).
(38)「就任辞 統一部長官李在禎」、ソウル、統一部、2006年12月11日。なお2007年1月末、ステフ ァン米国務省アジア太平洋担当首席副次官補が訪韓し、平和体制樹立問題について韓国政府関係 者と意見交換を行なったという(『東亜日報』2007年1月30日)。
(39) “North Korea-Denuclearization Action Plan, Office of the Spokesman, Washington, DC, February 13, 2007”
(http://www.state.gov/r/pa/prs/ps/2007/february/80479.htm).
(40) 千英宇「次期6者会談で非核化ロードマップ早期動力を」『統一時代』2007年2月、25ページ。
(41)「第5次3段階首席代表閉会辞(2007.2.13)」(http://www.mofat.go.kr/mofat/mk_a008/mk_b083/mk_c 165_/1219684_5411.htm).
(42)「イタリア同胞懇談会参席(2007.2.16)」(http://cwd.go.kr/cwd/kr/vip_speeches/php?meta_id=&page=
2&category=&sel. . .).
(43)「北核問題解決過程、遂に本格進入―わが政府膠着状態ごとに代案提示で突破口(2007.2.15)」
(http://www.cwd.go.kr/cwd/kr/archive/popup_print.php?meta_id=hostis_2&id. . .).
くらた・ひでや 杏林大学教授 [email protected]