タイ農村の「豊かさ」に学ぶ
外国語学部フランス語学科4年 A0653072 渡辺春菜
国際関係副専攻
下川雅嗣准教授演習 ゼミ論文
2 目次
はじめに
第1章 近代化と農業・農村 第1節 タイ農業の移り変わり
第2節 所得格差の拡大
第3節 農村における生活面での変化
第2章 プラヨン・ロンナロン氏の農村コミュニティ計画 第1節 プラヨン・ロンナロン氏の歩み
第2節 マイリエン地方の様々なコミュニティ・ビジネスとその広がり 第3章 メーター郡協同組合とグリーンネット協同組合
第1節 メーター郡の歩み
第2節 グリーンネット協同組合の働き 第4章 結論
おわりに 参考文献
3 はじめに
「今はロンガンの収穫の時期で、村の人たちは畑に出ているから、今週は機織りはやっ ていないのです。」
2009年夏、タイ北部の都市チェンマイから約80km南西に位置する山間部にあるドー イタオ郡を訪問した。フェアトレードの民芸品を作っている人々を訪問しようと思って村 に来た筆者にとって、案内を受けている時に聞いたこの一言が印象的であった。タイの労 働人口の約4割がそうであるように、この村の人たちも農家であり、彼らの生活の中心は 農業であった。
以前から関心があったフェアトレードが、本当に途上国の人々の自立支援になってい るのかという疑問を持っていた。そこで、タイのフェアトレード団体と連絡をとり、生産 者訪問ツアーを企画してもらった。訪問したドーイタオ郡では、村の女性たちが伝統的な 手法で織物製品を手織りしている。この製品は、フェアトレード団体を通してバンコクの 定期市でフェアトレード商品として販売されている。村を訪れる前、私はこの村が「織物 の村」つまり織物を主な産業としている村と思いこんでいた。しかし実際はそうではなく、
訪問を通して彼らの生活における農業の重要性を実感することとなった。フェアトレード 商品の生産は現金収入を増やすためであり、この取組が始められた原因は農業収入が低い ために村を去る人が多いからであった。実際に村のリーダー的存在であり織物の取り組み に積極的なトゥイ氏も「子どもたちが村を去らなくていいようにやっている」と話してい た。この経験から、筆者の問題意識の軸がフェアトレードから農村の在り方へと変化した のであった。
タイには家族の生活のために出稼ぎにいく若者が多く、中には売春婦になる女性もいる。
現金収入を増やすために出稼ぎをするしかないという農民生活の現状がある。近代化、消 費社会の影響を受ける前の農村社会には、人と人のつがなりを大切にし、協力し合う「豊 かさ」があった。しかし、より高い収入を求めて働き手である多くの若者が村を離れてお り、村の共同体意識の低下が進んでいる。農村が経済活動の場となり、住民同士のつなが りが維持されるにはどうすればいいのだろうか。タイ農村の2つの事例を比較する中で、「豊 かさ」のある持続可能な農村の在り方へのキーポイントを探りたい。
そこで本論第1章では、タイの近代化・経済成長にともない、農業や農村の生活がどの ように変化してきたのか論じる。第2章では、「豊かさ」を持った発展の事例として、タイ 政府の農村開発計画としても採用されたプラヨン・ロンナロン氏によるマイリエン地方の 農村コミュニティ計画を取り上げる。第 3 章では、筆者がドーイタオ郡の後に訪問してき た持続可能な農業を目指すメーター郡の協同組合とその取引先であるグリーンネット協同 組合について紹介する。第 4 章では、2つの事例を比較しタイ農村が持つ「豊かさ」を維 持していくための鍵を分析する。そこから先進国に住む私たちが学ぶことは多くあるはず である。
4 第1章 近代化と農業・農村
1. タイ農業の移り変わり
タイの近代化が始まったのは、1855年大英帝国と「ボーリング条約」を結んだ時と いわれている1。この条約によってタイの鎖国政策は終了し、以後輸出作物の生産が増大し た。それまでのタイの農村社会は自給自足が基盤で、森林から得られる多様な林産物の収 穫によって生活する自然経済社会であった。しかし、欧米諸国や日本と通商条約を結んで いった結果、米、錫、チーク材、ゴムといった輸出品に頼るモノカルチャー経済へと変わ っていった。タイは、植民地化しプランテーションでのゴムやパームオイルに特化した生 産を行うようになった周辺国の労働者への食糧を供給する役割を果たしたため、米の輸出 が特に盛んに行われた。20世紀初頭、輸出金額における米の割合は8割を占めていた2。
1950年代末以降、「アジアの米びつ」といわれるほどに米の生産・輸出を積極的に行って きたタイの農業に変化が現れた。畑作物を中心とした農業多角化が進んだのである。この 背景には、1958年に政権を握ったサリット陸軍司令官が民間資本と外資を優遇する政策を 開始したことにある。サリット政権は、世界銀行調査団の政策提言を受け入れ、経済開発 計画を導入し、国内の道路輸送網を整備していった。こうした政策によって、外資系商社 による買い付けが増え、日本や欧米市場の需要に合わせた作物が生産されるようになった のである。トウモロコシ、キャサバ、サトウキビ、ケナフの生産量・作付面積が増大し、
特に飼料用トウモロコシは、1960年代末から 70 年代初め、タイの総輸出額に占めるシェ アが米と並ぶまでになった3。トウモロコシ生産者の中には、国有地・保有林を不法占拠し 焼畑耕作を行っていたものも多い4ことからわかるように、農業多角化は丘陵地・山地の畑 作地としての開墾を意味した。森林の破壊は急速に進み、土壌流出や土壌養分枯渇を招い た5。
サリット政権の政策は農業多角化をもたらしただけでなく、輸入代替工業化を推し進め た。そして1972年からの第三次国家経済社会開発計画では、輸出志向工業化への転換が進 められた。以後 GDP に占める製造業の割合は拡大し、農業部門のシェアは低下していく。
1971年にはGDPの24%の構成比だった製造業を含む第二次産業が、1988年には32.2%
まで伸びたのに対して、1971年32.2%だった農林水産業の割合は、1988年16.9%まで低 下している6。就業人口の推移でみても、1970年4.1%だった製造業の就業人口が1987年
には10%に割合を伸ばした一方、第一次産業の就業人口の割合が減尐傾向にあることから、
工業化による産業構造の変化が明らかである。タイはその後、1980年代後半には高度経済 成長を経験し、経済的に中進国の仲間入りをしつつある。農業のGDP比率はさらに減尐し、
2005年のデータでみると、9.9%(1988年価格)となっている。しかし就業者比率を見る と農林水産業に就く人は38.6%となっており7、工業化が進んだ中でも、以前として農業国 としての特徴を残しているのである。
5 2. 所得格差の拡大
国が高度経済成長を果たす一方で、産業別、地域別の所得格差は拡大し、タイの農民 を取り巻く社会環境は変化してきた。まず、産業別の所得格差を見ると、農業部門と非 農業部門の所得格差は著しく、かつその格差は拡大している。1984年の農業における一 人当たり所得は5,224バーツであったが、1990年には7,137バーツへと37%上昇した。
しかし、同じ期間の非農業部門の一人当たり所得は43,543バーツから85,343バーツと、
ほぼ2倍の伸び幅を見せている。このことから、1984年には約8倍であった農業と非農 業の所得格差が、1990年には約12倍へと拡大したことになる8。その後も格差は拡大し、
約15倍になったといわれている。1996年タイ政府の8次国家社会経済開発5カ年計画 では、所得格差是正にむけて90年当時の12倍が実現目標とされた。
地域別にみると、バンコク首都圏と地方の所得格差は顕著である。地域別の所得を、
各地域の人口で割って一人当たり所得を示した数値を見てみると、タイ全国の水田面積
の55%を有する農村地帯である東北部の所得は20,235バーツで、バンコクの所得の10
分の1であり、全国平均の3分の1の所得水準ということになる9。高度経済成長期のバ ンコクにおける貧困世帯10の割合が増加傾向にあることも、東北タイなどの農村地帯か らの出稼ぎ農民の都市部への移動を反映していると考えられる11。このようにタイの急 激な経済成長を支えた低賃金労働者の多くは出稼ぎ農民であった。
3. 農村における生活面での変化
首都圏や地方大都市に通勤ができる範囲内の農村では人口の減尐は見られないが、遠隔 地農村の若者や親夫婦の通年的出稼ぎは一般的であり、村の人口は減尐し、若者がほとん ど見られなくなっている。都市近郊、工業地帯周辺の農村に住む若年層も、在宅のまま通 勤をして農外就労をしているのが現状である。このような農外産業に従事する兼業農家の 増加は、農村生活への商品経済の流入につながっている。電気製品などの消費財への欲求 は高まっており、電気が通っている村にはテレビ・電気釜・扇風機などがごくふつうにみ られる12。オートバイや自動車の普及率も上昇している。ラジオやテレビなどのメディア を通じて都市生活や消費文化が一層広まり、購買意欲の高まりは、農繁期においてさえも 所得の高い都市に出稼ぎに行く農民を生み出している13。また、村の家族に収入をもたら すために、都市に出て売春婦として働く女性も多い。その数は年間 20~30 万人といわれ、
これは15歳~44歳の全女性人口の2.2%に当たる14。1980年代中ごろからはタイでエイ ズ患者が出始めた。売春産業が発展しているため急速な広がりを見せ、HIV 保持者に対す る差別など社会問題となっている。
出稼ぎ農民の増加、消費文化の広まりによって、家族形態や村の構造の変化もみられる
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ようになった。出稼ぎによる家族の居住地の分散が起きていて、農村には母と子、老夫婦 と孫で暮らしている家庭がみられる。家族の生活のために出稼ぎに出るはずだが、離れて 暮らすことによって家族の関係が疎遠になり、出稼ぎ先で新しい家族をもち農村の妻子の もとに帰らない夫や、子供や両親を見捨てる夫婦もでてきている。また、賃労働者化が進 んだことによって、近隣・村内に住む親族の間の日常生活の相互扶助の度合が低下してい る。伝統的に行われてきた田植え・稲刈りを助け合う「ゆい」の慣習が薄れてきているの である。金銭貸借、土地・機械貸借も以前より尐なくなっている。こうしたことから、農 村における共同体意識が低下しているといえる。
第2章 プラヨン・ロンナロン氏の農村コミュニティ計画 1. プラヨン・ロンナロン氏の歩み
近代化に始まった農村社会における様々な変化の流れの中で、住民同士の協力を基盤と した「豊かさ」を持つ農村の発展の事例として、タイ南部ナコーンシータンマラ―ト県マ イリエン地方におけるコミュニティ・ビジネスがあげられる。取組のリーダーは、この地 方のゴム農園の農民の一人であったプラヨン・ロンナロン氏である。
プラヨン・ロンナロン氏は1937年生まれで、マイリエン地方から約6km離れたナカチ ャ郡で育った。彼の家族は、3ヘクタールの土地に自家消費用の米と野菜・果物を育て、
現金収入のためにゴムの木の栽培をしていた。1961 年、プラヨン氏は 24 歳でマイリエン 地方の女性と結婚し、彼女の父からプランテーションのすでに樹液のとれるゴムの木を任 され、自分自身でも2ヘクタールの土地に苗木を植えて、マイリエン地方での生活を始め た。この頃のタイ政府の政策として利潤追求のための農園の開発政策がとられ、農村の暮 らしは自然の中での調和した生活様式に代わって、金がなければ生活できない、消費生活 の影響を受けて変化してきていた15。
プラヨン氏は順調にゴムの木を育てて、樹液を加工して収入を得ていた。しかし1970年 代後半になると、ゴムの価格は低いままであったが、他の物にかかるコストは上がってい き、生活が厳しくなっていった。また、地域の農家は個別に加工を行っていたが、商人は 全ての加工品を合わせて品質を判定するので、一番品質の悪いもので価格が決まってしま っていた。ゴムの価格を上げるには、共同で加工して、全て高品質なゴム製品を生産する 必要があった。そこでプラヨン氏含む同じような問題意識を持った12人が集まり、自分た ちが直面している現状について話し合い、問題は主に「1、ゴム事業は天候に左右される こと。2、市場の本当のニーズを知る必要があること。3、価格が常に生産者ではない他 の誰かに決められていること」にあるとした16。天候についてはどうにもできないので、
残りの二つについて取り組むことにした。
ゴム加工工場への見学など、2年間にわたり情報を集め、ついに1984年には、37世帯で
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協同組合を始めて、集めた資金で共同の小さな加工施設を建てた。これによって高品質か つ均質なゴム加工品が作れるようになったため、高価格で売ることができるようになった。
工場を完成させるための資金もでき、次第に協同組合のメンバーも増え、現在 186 世帯が 参加している。17 また、NGOであるヴィレッジファウンデーションが、ナコーンシータ ンマラート県の他のコミュニティのリーダーにもマイリエン地方の取り組みを伝えたため、
10のゴム加工工場が出来上がり、彼らは品質管理やマーケティング、販売方法などにつ いて協力し合うネットワークを作った。
しかし、プラヨン氏と他のコミュニティのリーダーが、タイのゴム産業の歴史について 研究し、地域資源の活用や地域での解決策についての彼らの計画を一般の農民に対して知 らせるために公聴会をしようしたとき、政治家の介入にあって参加者が予想したより大幅 に尐なかった。このことからプラヨン氏やコミュニティの人々は、共同で工場を運営して も、ゴム農家はやはり不利な立場にあり、仲買人やその他の外的なアクターがゴム産業を 支配していると実感した。「私たちは天候に左右されているだけではなく、国際市場つまり はグローバル化によっても左右されている。ゴムは食べられないし、ゴムの木の栽培だけ では生活できない。コミュニティの生活を支える別の方法を考えなければならない。」18と プラヨン氏は語った。1994年工場の移転の際に、隣接するスペースでゴムへの依存を減ら すための取り組みについての話し合いが始まった。このスペースは後にコミュニティの「学 びと発展のセンター」になったのであった。
2.マイリエン地方の様々なコミュニティ・ビジネスとその広がり
この話し合いは、1996年にはマイリエン地方の8つの村の代表委員会となり、1つの村 から5人ずつで計40人が月1回集まって、それぞれの村が抱える問題について話し合うよ うになった。コミュニティの自立を目指して、生活に必要なものは自分たちで作って支出 を減らす計画が立てられた。
委員会はゴム事業に依存しない多様な生産を目指して、住民を世帯ごとにグループに分 けて、得意なものをコミュニティに必要な分量生産するように計画した。2004年までには、
11のグループができていた。例えば52世帯は、地鶏の飼育とメンバーへの飼育の技術指 導を担当して、また別の32世帯は淡水魚の養殖を担当していてナマズやカエルの交配をし て育てて市場にだしている。他にも、きのこ、有機野菜、果物、ぶた、薬草、有機農業の ための肥料、石鹸やシャンプーを生産するグループがある。こうしたグループでの活動が 収入を生みだすようになると、村レベルでの貯蓄計画ができ、住民の健康、教育のための 社会保障基金となった。
また、「学びと発展のセンター」では様々な作物の研修を行って、住民の技術向上、主体 的な問題解決への意識を高めている。例えば、高級品質のマンゴスチンの栽培を研究する プログラムを通して、自分たちの問題を解決するプロセスを学ぶ機会を作っている。これ
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は1年間のコースで月に 2 回の栽培地研修を行う。住民同士が自分の経験を共有しあいな がら、輸出できるマンゴスチンの栽培方法を学ぶ。また、販売方法についても学び、個人 ではなく共同で出荷することによって輸出業者との交渉を有利にできるようになる。
こうしたコミュニティ・ビジネスが活発に行われるようになって、住民同士の交流も深 まったとプラヨン氏は語る。19 以前は将来に希望が持てずに、ギャンブルをしたり強盗を はたらいたりする住民もたくさんいたが、現在は犯罪率も減って人々はより安定した生計 を立てられるようになったのである。
2004年、プラヨン・ロンナロン氏はアジア地域で社会貢献などに功績を果たした個人や 団体に贈られる、ラモン・マグサイサイ賞を受賞した。2005年には農村の問題解決の取り 組みとして有名になったマイリエン地方の計画が、農村コミュニティ計画(メイボットチ ュムチョン)という名でタイ政府の農村開発計画に採用された。2007 年には全国約 1000 の地域で取り組まれていて、現在も海外からの開発にかかわる人などの見学が絶えない。
このように広がりを見せる農村コミュニティ計画であるが、ここで注意しなければならな いのが、プラヨン氏が「同じような目的意識を持った小さなグループ」をサポートするこ とが重要としていることである。それぞれのグループの規模が大きくなりすぎると意見交 換がしづらくなってしまうので、小さなグループ同士が協力関係にあることが大切なので ある。つまり、農村コミュニティ計画とは人々に「考えて、学んで共同でなにかをするこ と」を伝えるものであるから、計画の内容はそれぞれのグループによって違うのである。
プラヨン氏の理念が、政府の計画によって全国に伝わったのか、今後の展開に期待したい。
第3章 メーター郡協同組合とグリーンネット協同組合 1.メーター郡の歩み
織物製品を作っているドーイタオ郡でのホームステイの翌日、私は「持続可能な農業」
を掲げ有機農業に取り組む、チェンマイから約80キロ程南東に位置するメーター郡を訪問 した。ここでは、協同組合の事務所において代表のヌカナジャン氏と二人の若い女性スタ ッフが地域の歴史や取り組みについて話してくれた。農村の在り方について学ぶことが多 かったので紹介する。
1960年代以前、メーター郡では自給自足の生活が行われており、住民の間には相互 扶助の精神があった。1960年代以降はトウモロコシ、タバコ、豆類、イモ類といった 換金作物を栽培し売って生活するようになり、村の環境と人々に変化が見られるようにな った。生産量を上げるため、農薬を使用した結果、健康被害を訴えるものがでてきた。ま た、森林を破壊して農地を拡張したため、森林から採取できるものが減り、地域を流れる ター川の魚も減尐したという。消費社会の影響を受けた人々の間では、金を持っているこ とが村で権力を持つことを意味するようになり、助け合いの精神が失われていった。一方
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中には、換金作物を作る生活への転換の過程で、新しい農業経営方法に適応できなかった 農民もいた。価格は市場に左右される上に、価格交渉の際に仲買人に儲けを取られてしま うのである。彼らは借金を抱えて、家族と離れて他の地域に出稼ぎに行ったり、しまいに は土地を売って村を出なければならなくなったりした。そんな中開発は進み、村には電気 が通って新しい道もできたが、人々はお金を求めるばかりで、以前のような人々の間の共 同体の意識は薄れてしまった。
1980年代後半、民間の開発コンサルティング会社が調査をしにきたことをきっかけに、
地域の50の村からリーダーや住民が集まってこれら様々な問題を解決するために話し合い を行うようになった。しかし、人数が多すぎたので、9か10の村にグループを小さくし て話し合うようになった。コンサルタントとしてNGOも関わっていたという。この話し合 いから、1つのグループで住民同士が信頼によってお金を貸し合う貯蓄プログラムができ、
医療費などの面で協力し合うようになった。この取組がうまく行ったので、他のグループ にも広まった。しかし、依然として環境の問題や収入の問題が解決されていなかったので、
小さなグループから 2 人ずつ代表を出して、新たな話し合いの場を設けた。この代表委員 会は、農村の環境を改善するために、農地と森林を分ける土地利用に関する法律を作るこ とを行政に提案した。そして1993年5月には、地域の環境を守り、人々が収入を得て暮ら していける地域にするために、有機農業を取り入れることにした。
有機農業はタイでは他に中部のスパンブリーと東北部のチャイヤプームにしか取り組ん でいる所がなく、メーター郡はタイにおける有機農法の先駆者である。そのため、開始当 初から試行錯誤を続けてきた。第一回目のシーズンには、14世帯が20種類ほどの野菜の栽 培を試みたが、チリ、カボチャ、豆類、トマトの 4 種しか育たないということがあった。
次第に栽培する季節を把握してくるなど技術が向上し、生産量が増加したため、市場に出 せるようになった。住民たちは自分たちが食べる分を育て、余った分を市場に出すという スタンスをとっている。チェンマイやタイの有機野菜のショップに卸したり、地域の野菜 市場で直売をしたりしている。取引先の1つである、卸売業務を行っているグリーンネッ ト協同組合に出荷する際の価格交渉は、生産者メンバーとグリーンネットとの話し合いに よって両者にとって適正な価格が決定されるという。市場価格が変動しても、この話し合 いによって決定された価格は変更しないため、生産者にとっては安定した収入になる。
小さなグループのネットワークは、現在メ―タ―郡協同組合となり、約 400 世帯がメン バーである。そのうち有機農業をやっているのは 100 世帯ほどである。この協同組合の役 割は、メンバーに有機農業を取り入れることを奨励し、転換期のサポートをすることと、
直売の際に顧客に有機野菜が環境や生産者の生活の向上につながっていることを伝えるこ とである。商品経済のもとで換金作物を売って生活してきた住民の中には、高い収入を求 めない、自給自足を基盤とした農業を受け入れられないものもいる。そういった人々の意 識を変えるのは難しいと代表のヌカナジャン氏は話していた。また、有機農業を取り入れ ると決めた住民に対しては、有機農業の理念を理解できるように教育プログラムを用意し
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ている。資金が足りない場合は協同組合の貯蓄プログラムを使用できるようになっている。
転換期は生産性がよくなく、失敗して慣習農法に戻してしまう農民もいるので、こうした 組合のサポートが重要である。
有機農業に取り組むメンバーの1人であるトン氏の田畑を見せてもらった。トン氏は4,
5年前から有機農業を始めたそうで、米、様々な野菜や果物、パクチなどを育てていた。
見たところ 20、30 代の青年で、「家族が食べる分を栽培していて、余った分を売っている んだよ」と笑顔で自分の田畑を案内する姿が輝いていた。また、代表のヌカナジャン氏は
50、60代の男性で、自分の3人の子供が、全員このコミュニティで農業をしているという
ことを誇らしげに話してくれた。この地域には、出稼ぎをせずに村に残る選択をする若者 がいるのである。タイ国王がかかげる国家開発の基本哲学「ほどほどの経済(足るを知る 経済)」がここでは生きていることや、「村に残る」という選択肢が複数の若者によってな されているという点で、メーター郡の取り組みはまさに「持続可能な農業」なのではない かと感じた。
2.グリーンネット協同組合の働き
メーター郡で作られる有機野菜のうち、生産者が消費しない余った分を買い取ってバン コクにある有機野菜を取り扱う商店に卸しているのは、グリーンネット協同組合である。
有機野菜は通常の価格より15-20%高値となっているので、農村に比べて所得水準の高い 首都圏での需要の方がより見込まれるのである。近代化がすでに進んだタイの社会におい て、以前のような自給自足だけの生活をすることは非現実的である。モノカルチャー経済 に陥らずに多様な作物を育て、共同体を保つことを前提とした上で、自分の作った作物が 労働に見合った対価を得るということは、若者が農業を続けるインセンティブとして重要 であると思う。グリーンネット協同組合が農村の在り方に果たしている役割は、教育費や 医療費を賄うための現金収入を出稼ぎではなく農業で得られるようにしていることである。
そこで、グリーンネット協同組合の成り立ちと事業について紹介する。
グリーンネット協同組合は1993年に消費者と生産者のグループによってバンコクで設立 された、有機農業の普及とフェアトレード事業に取り組む団体である。タイ国内8県に有 機米、果物、野菜、綿製品などを生産する12のグループを持ち、生産者とスタッフを合 わせて約1200人の規模で活動している。メーター郡からは主に有機ベビーコーンやロ ンガンを仕入れている。グリーンネットは、タイで最初の有機野菜の卸売業者で、タイ独 自のオーガニック認証機関であるACT(Organic Agriculture Certification Thailand)の 立ち上げを行った。いわば、タイの有機農業のパイオニアである。生産者グループが作っ た作物の消費者への販売とともに、農家への有機農業の技術指導も行ってきた。2000 年には22人の職員から成る姉妹組織のアースネット財団を設立した。有機作物の研究開 発や品質保証、生産者グループでの農業学校の実施といった、有機農業の仕組みの開発や
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導入指導をアースネット財団が行い、グリーンネットはマーケティングを担当することと なった。現在20 品目以上の有機農産品を国内の約40の小売店に卸している。グリーンネ ットは価格設定を生産者グループとともに行うので、市場における価格の変動があっても 取引価格を変更しない。そして、生産者に公正な対応をするため、利潤、収入、費用を全 メンバーに公開し事業の透明性を図っている。
また、グリーンネット協同組合はヨーロッパへの有機ジャスミン米の輸出を行っている。
これは主に東北部と中部の生産者グループが栽培している。輸出量は年間800トンで、
ヨーロッパでフェアトレードライスとして販売され、グリーンネットの売り上げの8割を 担っている。一般的なタイの米の流通過程を見ると、精米業者や集荷業者といった人々が バンコクの輸出市場や卸売市場の価格を見て、自分たちに儲けがあるように設定するため、
生産者の所得や生産にかかった費用は配慮されない。20そのため、特に単位面積あたりの収 穫量が尐ない東北タイなどでは採算割れがおきてしまう。グリーンネットとの取引の場合 はこういった心配はないため、農民は安定した収入を見込める。また、こうした有機米が 先進国に輸出されることによって、先進国の人々が生産者の生活に関心を持つようになり、
結果的に自分たちの生きる社会の問題点を見直すきっかけとなる。フェアトレードは、生 産者にとっては労働に見合った価格設定への参画や、それを通したコミュニティの組織化 をもたらすということで、主にNGOが貧困者の自立支援を掲げ推進しているものではある が、一方でそれ以上に先進国の人々の意識の変革の可能性を持っている。フェアトレード 商品に触れることは、日常生活の中で貧困問題、社会構造の歪みについての問いかけを持 つことにつながるのではないかと思う。
第4章 結論
第2章と第3章で2つの農村における地域事業を取り上げたが、この2つの事例を比較 して、私が考える「豊かさ」である、人と人のつがなりを大切にし、協力し合うことを前 提とした上で、継続的な収入の機会がある生活、を新自由主義的グローバル化の流れの中 で維持していく鍵を探りたい。
まず、2つの事例で共通していることは「小さなグループでの話し合い」である。プラヨ ン・ロンナロン氏がグループの規模が大きくなってしまうと意見を出し合うのが難しくな るといっていたのと同じように、メーター郡でもグループの人数を減らした結果、話し合 いが進んだのであった。自分たちが抱えている問題を解決するためには、まずその抱えて いる問題の本質がなんなのか、どうしてそうなっているのか知る必要がある。しかし、こ れまで意識してこなかったこと、うまくいっていないことを、変えよう、改善しようと思 うとき、想像以上の精神力が必要である。そのとき話し合いの規模が多すぎると、自分の 問題であるのに、他人事ですまそうとしたり、他の人が考えてくれるからいいやと責任を 感じない人がでてきてしまったりするのではないだろうか。そうすると、意見の数は減る
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ので、結果的にいい改善策も生まれない。一人一人が地域の問題に対して責任感を持って 考える、そのための「小さなグループでの話し合い」が「豊かさ」の実現の重要点なので ある。
次に、2つの事例で異なる点は、生産した作物・加工品の取引先である。マイリエン地方 で作られた農産品や魚、ゴム加工品は住民自身の力で商品力が高められ、一般の商人と取 引されている。一方メーター郡協同組合は、自家消費、地元の野菜市場、有機野菜ショッ プといった流通の選択肢を持っているものの、グリーンネット協同組合と長期的なパート ナーシップを結んでいるため、グリーンネットの仕組みに依存してしまう恐れがある。グ リーンネットの生産者グループにとって、市場価格が変動してもグリーンネットと話し合 って決めた価格は変わらないので、安定した収入が得られることになる。一方で、一般の 仲買人と交渉する機会はその分失われるのである。価格決定に参画するときに、生産者が 主体的に市場について知ろうとしないならば、価格交渉能力は育たないのではないだろう か。そうすると、もし有機野菜の需要がなくなってグリーンネット協同組合が存続できな くなったときに、生産者グループは作物を有利に売りに出すことができないために、組織 が崩れてしまう可能性がある。環境が変化しても生産者自身が解決策を実行できるように なるには、主体性を維持しながら自分たちを取り巻く世界を知ることが重要である。また、
グリーンネットのような生産者の生活の向上を目指す組織は、生産者自身の意志や主体性 を尊重しなければ、長期的な生活の改善に役立つことはできない。
「小さなグループでの話し合い」によって生まれる住民一人一人の責任感と主体性が、
タイ農村が経済活動の場として存続し続け、住民にとって生きがいのある暮らしが生まれ る鍵である。これはタイより個人主義が広まり、協力し合うことを怠っている日本人の私 たちこそ学ぶべき姿勢である。所得の面だけで考えると「貧しい」タイ農村部における、
人間らしさと表現できるような、共同体への想いのある取り組みは、筆者含め先進国の人々 に現代社会の在り方について疑問を投げかけているように思う。
おわりに
本論第3章のフェアトレードの意義についての部分は、このゼミ論の主旨である農村の 在り方を論じることから尐し脱線していると自覚しながら書いた。フェアトレードの限界 や問題点を知りながらも、筆者の大学生活においてフェアトレードが大きな意味を持って きて、常に考えてきたことであったのであえて論じることにした。
下川先生のゼミへの参加、タイ訪問を通して、私のフェアトレードに対する考えは変化 してきた。以前は、フェアトレードは途上国の貧しい人々に仕事の機会を与えることによ る自立支援で、買い物を通してできる国際協力であると認識していた。しかし、下川先生 のゼミを通して、貧困者自身の持つ力や可能性、グローバルスタンダードが貧困者に与え る影響などについて考えるようになって、フェアトレードについても徐々に懐疑的になっ
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ていった面があった。そもそも「仕事を与える」という姿勢に問題があるのではないか。
フェアトレードって先進国の人々の価値観の押しつけなのではないか。そんな疑問を持ち ながら、タイで実際にフェアトレード製品の生産者に出会った。
彼らに出会う前の筆者の中の「生産者」のイメージは極端にいえば、「貧しくて、自分た ちでは何もできない」といったものであった。しかし、タイで出会った織物の村のリーダ ーも、メーター郡協同組合の方々もしっかりした想いや目標を持って生活していて、とて も生き生きとしていた。彼らにとってフェアトレードは地域を活性化させる一つの手段で しかなく、実際は自分たちで直売も行っていて、NGOに頼りきりといった姿勢ではなかっ た。彼らの持つ、伝統を大切にするあたたかさや、芯の強さは筆者を勇気づけてくれたよ うに思う。よってフェアトレードが果たしたことは、途上国の人々への援助というよりは、
筆者への「国際交流」であった。フェアトレードだけでは社会構造は改善されないが、そ の商品の生産者グループが明確なため、途上国の生産者の生活を知る始まりとなるのであ る。タイを訪問し商品を通した「顔の見える関係」を実感した自分自身の経験から、フェ アトレード商品を手にすることが先進国の消費者にとって、「ちょっといいことをして満足 できること」では意味がなく、「自分たちを含めた世界全体の問題について考えるきっかけ」
となり、そこから深く広がるようなものであるべきだと強く思うようになった。そして、
タイ農村社会に関心を持ったことによって、自分がどれだけ日本社会について無知である かに気づかされたのも事実である。今後はもっと日本の社会問題に目を向け、問題意識を 持って考えていきたい。
1 新津晃一、秦辰也『転機に立つタイ―都市・農村・NGO』(東京、風響社、1997年)p.157
2 日本タイ学会編『タイ辞典』(東京、めこん、2009年)p.18
3 長谷山崇彦『アジアの農業と食糧問題』(東京、東洋経済新報社、1975年)p.145
4 北原淳『開発と農業―東南アジアの資本主義化―』(京都、世界思想社、1985年)p.96
5 同上p.97
6 亀谷きよし『米輸出大国・タイ米産業の光と影』(東京、富民協会、1991年)p.127
7 日本タイ学会編『タイ辞典』(東京、めこん、2009年)p.20
8 山本博史『アジアの工業化と農業・食糧・環境の変化―タイ経済の発展と農業・農協問 題に学ぶ―』(東京、筑波書房、1999年)p.91
9 同上
10 ここでの貧困世帯とは、衣食住の最低生活に必要とする所得に満たない世帯のこと(同 上)
11 同上p.93
12 北原淳『開発と農業―東南アジアの資本主義化―』(京都、世界思想社、1985年)p.140
13 新津晃一、秦辰也『転機に立つタイ―都市・農村・NGO』(東京、風響社、1997 年)
14 p.239
14 同上p.240
15 下川雅嗣「アジアにおける貧困者のあゆみとコミュニティ・ビジネス」内田雄造編著
『まちづくりとコミュニティネットワーク』(解放出版社、2006年)p. 159-185
16 Ramon Magsaysay Award Foundation 「The 2004 Ramon Magsaysay Award for Community Leadership Prayong Ronnarong Biography」(2004年8月31日)
(http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Biography/pdfbio/PrayongRon.pdf)2009年11月16 日
17 稻本悦三『タイ南部、マエリエン地区にて 9月22日、プラヨン・ロンナロン氏(72 歳)に聞き取り』
18 Ramon Magsaysay Award Foundation 「The 2004 Ramon Magsaysay Award for Community Leadership Prayong Ronnarong Biography」(2004年8月31日)
(http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Biography/pdfbio/PrayongRon.pdf)2009年11月16 日
19 Ramon Magsaysay Award Foundation 「The 2004 Ramon Magsaysay Award for Community Leadership Prayong Ronnarong Lecture」(2004年8月31日)
(http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Lecture/LecturePrayongRon.htm) 2009年11月19 日
20 山本博史『アジアの工業化と農業・食糧・環境の変化―タイ経済の発展と農業・農協問 題に学ぶ―』(東京、筑波書房、1999年)p.47
15 参考文献
新津晃一、秦辰也『転機に立つタイ―都市・農村・NGO』(東京、風響社、1997年)
日本タイ学会編『タイ辞典』(東京、めこん、2009年)
長谷山崇彦『アジアの農業と食糧問題』(東京、東洋経済新報社、1975年)
北原淳『開発と農業―東南アジアの資本主義化―』(京都、世界思想社、1985年)
亀谷きよし『米輸出大国・タイ米産業の光と影』(東京、富民協会、1991年)
山本博史『アジアの工業化と農業・食糧・環境の変化―タイ経済の発展と農業・農協問題 に学ぶ―』(東京、筑波書房、1999年)
下川雅嗣「アジアにおける貧困者のあゆみとコミュニティ・ビジネス」内田雄造編著『ま ちづくりとコミュニティネットワーク』(解放出版社、2006年)
Ramon Magsaysay Award Foundation 「The 2004 Ramon Magsaysay Award for Community Leadership Prayong Ronnarong Biography」(2004年8月31日)
(http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Biography/pdfbio/PrayongRon.pdf)2009年11月16 日
稻本悦三『タイ南部、マエリエン地区にて 9月22日、プラヨン・ロンナロン氏(72歳)
に聞き取り』(2009年9月22日)
Ramon Magsaysay Award Foundation 「The 2004 Ramon Magsaysay Award for Community Leadership Prayong Ronnarong Lecture」(2004年8月31日)
(http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Lecture/LecturePrayongRon.htm) 2009年11月19 日
中島由夏、“タイ経済発展と農村”、外国語学部アジア文化副専攻卒業論文(東京、上智大学、
1995年)