︵一︶
石 川 大 浪 と 蘭 画 ︵ 一 ︶
磯 崎 康 彦
石川大浪は︑江戸後期の幕臣で︑蘭画家である︒一度︑大浪について書いてみたいと思ったが︑不明な点が多く︑かつ資料不足などによりまとめることができなかった︒今回︑必ずしも全資料がそろったわけではないが︑入手できた範囲内でまとめておきたい︒
石川大浪は︑出生からして問題があった︒幕府が威信をもって編纂した﹃寛政重修諸家譜﹄︵巻第百二十四︶によれば︑乘加 甲吉︑七左衛門︑母は政栄が女︑明和八年六月四日遺迹を継︒時に七歳︑廩米四百俵︑天明四年十二月二十二日はじめて浚明院殿に拜謁し︑八年十二月二十五日大番となり︑後的を射て時服をたまう︒妻は前川玄徳雄が女とある︒大浪は︑遺迹を継いだ明和八年︵一七七一︶︑﹁時に七歳﹂とあるから明和二年︵一七六五︶に出生したことになる︒
一方︑﹃赤沼掃墓叢書﹄を調べた森銑三氏によると︑名乘加︑通称七右︵左︶衛門︑文化十四年十二月二十三日五十六法号︑智徳院殿勇健日進居士とある︒大浪は︑五六歳で死亡したさいの戒名を伝えるから︑逆算して宝暦一二年︵一七六二︶に出生したことになる︒﹃寛政重修諸家譜﹄の記述より三年前である︒現在︑宝暦一二年出生説が多い︒﹃寛政重修家譜﹄には︑実際の年齢と異なり︑表向きの年齢を書く場合があるらしい︒それにしても年齢を加算するのが一般的だが︑大浪の場合︑どうした理由かわからないが︑減算しているのである︒
天明四年︵一七八四︶一二月︑大浪は﹁浚明院殿に拜謁﹂した︒浚 明院は一〇代将軍徳川家治の諡号である︒家治は天明六年︑五〇歳にて他界したから︑二三歳の大浪は︑家治四八歳のとき御目見したことになる︒
大浪二五歳のとき︑﹃諸家系譜﹄︵内閣文庫蔵︶に︑同︵天明︶六年七月十六日十七日本所出水居床上迄水付四十両拝借とある︒この年は六月から雨が降りだし︑七月になると大雨となり︑同月中旬︑増水した隅田川が決壊した︒小石川︑深川︑浅草のみならず︑大浪の住む本所も多くの家が床上浸水となり︑甚大な被害をこうむった︒そこで大浪は︑四〇両を借りたのである︒
天明八年︵一七八八︶一二月︑大浪二七歳のとき大番となった︒大番組は幕府の軍事組織で︑一二組からなりたった︒その編成は︑大番頭・組頭・番士・与力・同心である︒大浪は一一番組の組頭を勤めた︒大番組は︑幕府の諸番組のなかでも︑名誉ある職種であり︑かつ通常四人からなる組頭に抜擢されているから︑大浪家は由緒正しい家柄であったと判断できる︒大番組は江戸城二ノ丸・西ノ丸の警護にあたり︑江戸市中の警衛にもあたった︒こうした職務のほか上方在番もあり︑二条城と大坂城の警護は︑一年交代で二組ずつ在番した︒
大浪の属した一一番組は︑大番頭が白須甲斐守で︑卯と酉の年が二条城在番で︑子と午の年が︑大坂城在番であった︒前者は四月︑後者は八月の交代である︒すると大浪が︑天明八年に大番となって以後︑寛政元年・同七年・享和元年・文化四年・同一〇年が︑卯と酉の年に
︵二︶
あたり︑寛政四年・同一〇年・文化元年・同七年・同一三年が︑子と午の年にあたるから︑大浪はこれらの年に︑京都並びに大坂に赴いたことになる︒
これらの年のうち︑寛政四年︵一七九二︶と同一〇年︵一七九八︶は︑別の資料からも確認できる︒安永八年︵一七七九︶から享和二年︵一八〇二︶まで書きとめた﹃蒹葭堂日記﹄である︒この日記に︑
︵
寛政五年︶三月十三日石川甲吉
八月十五日石川甲吉殿朝立ツ京橋ニ送リ申候とある︒大浪は︑おそらく寛政四年八月に来坂し︑やがて木村蒹葭堂を知り︑三月に蒹葭堂宅を訪れ︑一年間の大坂在番を務めて八月一五日帰京するにあたり︑京橋まで蒹葭堂に送ってもらったのである︒
﹃蒹葭堂日記﹄の寛政一〇年︵一七九八︶の項には︑
八月朔日石川七左衛門旅宿ニ行
石川甲吉改七左衛門上坂︵上段︶
同 四日石川七左衛門来
同 七日石川七左衛門
同 八日石川城入︵上段︶とある︒大浪は寛政一〇年八月︑大坂に赴き︑蒹葭堂と頻繁に会って交遊をかさねた︒大浪はこの年︑通称甲吉を七左衛門と改めたことがわかる︒一年間の大坂在番を勤めた大浪は︑寛政一一年︵一七九九︶八月に帰京する予定であったが︑どうしたわけか大坂に留った︒﹃蒹葭堂日記﹄の寛政一二年︵一八〇〇︶の項に︑
二月八日石川七左衛門□行蜂巣彦三郎始逢
六月十九日早朝登城七左衛門□昼過帰
七月十七日行城内行石川七左衛門 石川頼母
七月丗日石川七左衛門 蜂巣彦三郎 佐橋左源太始逢
八月十一日早朝六時石川七左衛門京橋とある︒大浪は寛政一二年に大坂にいて︑大番組一〇番の蜂巣彦三郎︑ 大番組一二番の石川頼母︑大番組九番の佐橋左源太らと会った︒こうした大番の面々と会っているところをみると︑勤番制に問題が生じたのかもしれない︒ともあれ大浪は︑寛政一二年八月帰京することとなり︑同月一一日の早朝︑蒹葭堂は︑淀川舟で大坂を立つ大浪を京橋まで見送ったのである︒
江戸に戻った大波は︑休む間もなく翌享和元年︵一八〇一︶春︑京都在番の任にあたった︒﹃蒹葭堂日記﹄の享和元年の項に︑
六月廿九日京広嶋ヤ忠兵衛︑京扇ヤ広嶋ヤ忠兵衛来 石川七左衛門出入︵上段︶
七月四日 京石川様取次ノ人広嶋屋忠兵衛来
七月廿九日京広嶋ヤ忠兵衛とあ
葭堂に遣わしていたのである︒ る︒京都にいた大浪は︑出入りの扇屋忠兵衛なる人物を大坂の蒹 1
日他界した︒ きつづけた日記を欠かすことはなかったが︑正月中旬床につき︑二五 ある︒享和二年︵一八〇二︶︑蒹葭堂は病身でありながら︑二四年間書 ﹃蒹葭堂日記﹄からわかる大浪と蒹葭堂との関係は︑享和元年までで
二︑石川大浪とターフェルベルク
大浪は西洋画の研究のためか︑多くの蘭学者と交遊した︒なかでも大槻磐水との交わりは深く︑磐水が唱えた寛政六年︵一七九四︶のオランダ正月に参加していた︑と想定できよう︒寛政一〇年のオランダ正月には︑多くの蘭学者が芝蘭堂に集まり︑太陽暦の新年を祝した︒このとき︑全国の蘭学者を相撲番付一覧表とした﹁洋学者相撲番附﹂が︑余興として配られた︒その西方前頭一七枚目が︑﹁江戸石川七左衛門﹂こと石川大浪である︒
大浪は︑大浪なる号のほか︑ターフェルベルクなる蘭号を用いた︒ター
︵三︶ フェルベルク︵Tafelberg︶とは︑山の先端が尖ったり︑丸くなったりせずに平たい山のことで︑当時机山と訳された︒大浪はターフェルベルクを蘭号としても︑そのスペリングを書くことができなかった︒そこでその綴りを友人に頼んだのであろう︒
寛政一〇年春︑出島の商館長らは︑江戸参府をおこなった︒三月一三日︑ヘイスベルト・ヘンミ︵Gijsbert Hemmij︶︑レオポルト・ウィレム・ラス︵Leopold Willem Ras︶︑ヘルマヌス・レッケ︵Hermanus Letzke︶ら一行は江戸に着き︑定宿長崎屋に入った︒三月二五日︑桂川甫周︑息子の甫謙︑大槻玄沢︑杉田伯元︑松本玄之らは長崎屋を訪れた︒そのとき次のような話をしている︒
問
或号ヲ大浪ト称シ蘭客ニ﹁ターヘルベルク﹂トイフ文字ヲ書セ與ヘヨトイフヲ筆者阿蘭陀ニ乞フテ書シム談次其山ノ事ニ及フ
ラス答
余カープ滞留中霖雨フリツゝキ此山ニ登臨セシ故ニ︑コレヲ詳ニセストイヘトモ﹁カープ﹂ノ岸ヲ距ルコト数里山ノ頂上平坦ニシテ盤ノコトシコレ﹁ターヘル﹂盤ヲイフノ名アル所以ナリ︑山麓ノ左右ニ小山有リ︑自ラ獅子頭尾ノ形ヲ成ス︑故ニ﹁レー 獅ウ・コッ 頭プ﹂︑﹁レーウ・スター 尾ルト﹂ノ名アリ猶富士﹁ベルク﹂ノ宝永山有ルカコトシト ︑此山格別ノ大山ナラ子トモ︑海上ヨリ渡海ノ人ノ験號 アテトナリ︑洋船此山ヲ見ツクレハ曷叭布刺エ程ナク着岸スル事ヲ喜フナリ︑故ニ和蘭人コレヲ名ケテ︑此港ヲ﹁グー好 テ・ホー望 プ・デ・カー峰 プ﹂ノ名有リト按ニ明人ノ喜望峰ト訳スルコノ所ナリ
ある︒ 自らターフェルベルクに登った体験を話し︑そのスペルに答えたので フェルベルクのオランダ語スペルを尋ねたのであろう︒するとラスは︑ ﹁或号﹂とは大浪の号であり︑おそらく大浪と親しい大槻玄沢が︑ター
大浪は︑ターフェルベルクのスペル︿Tafelberg﹀を知るや︑すぐ自らの蘭号として使用したと思われる︒というのは木村蒹葭堂著﹃蘭音 カープ 類聚﹄に︿Tafelberg﹀なる号が書かれていたからである︒﹃蘭音類聚﹄は︑オランダ人や蘭学者から聞きとった事項や言語などを百科全書風に書き連れた書籍である︒この書は残念ながら︑大正一二年の関東大震災で焼失してしまい︑現在見ることはできない︒しかし震災前︑新村出氏がこの書を発見され︑﹃史伝叢考﹄に﹁蒹葭堂の一遺著﹂として紹介された︒この書の最後に︑明和六年︵一七六九︶から寛政一〇年︵一七九八︶までの江戸参府の商館長︑商館医︑通詞らの名前が列挙されており︑蒹葭堂が寛政一〇年頃︑﹃蘭音類聚﹄を執筆したと想像されるのである︒
さて新村氏の報告によると︑東京帝国大学図書館に架蔵されていた﹃蘭音類聚﹄の表紙見返しに︑
Tafelberg ターヘルベルグ︵横書き︶
大浪山 石川七左衛門号とあった︒すると大浪は︑寛政一〇年頃から︿Tafelberg﹀なる蘭号を使った︑と考えられる︒
そもそも大浪なる号は︑マテオ・リッチ︵Matteo Ricci ︶こと利瑪竇の﹁坤與万国全図﹂にのるアフリカ南端に書かれた﹁大浪﹂からとられた︒イエズス会士アレーニ︵G. Aleni︶こと艾儒略の﹃職方外紀﹄の世界図に︑大浪の文字が書かれているかどうか︑わからない︒﹃職方外紀﹄は江戸時代︑しばしば書写されたが︑世界図まで伴った写本は少なく︑今もって世界図を見ていない︒﹃職方外紀﹂は︑江戸後期の地理研究者に多大な刺激を与えた︒その一人が︑山村才助である︒才助は寛政八年︵一七九六︶︑﹃外紀西語考﹄を著した︒﹁外紀﹂とは︑﹃職方外紀﹄のことである︒ここに地名・国名・河川名・島名などが漢字で書かれ︑その下にオランダ語とラテン語を加えている︒後述する大浪と才助との交友関係をみると︑地理学に詳しい才助が︑大浪なる地名やターフェルベルクなる山名を石川大浪に教えたのでなかろうか︒
大浪のように蘭名を用いることは︑蘭学者にとって珍しいことでな
︵四︶
かった︒幕府の医官である桂川甫賢はウィレム・ボタニクス︵Willem Botanikus ︶︑中津藩士の神谷源内はピーター・ファン・デル・ストルプ︵Pieter van der Stolp︶︑阿蘭陀通詞で天文方の馬場佐十郎はアブラハム︵Abraham︶といった蘭名をもっていた︒これらは︑商館長ヘンドリク・ドゥフ︵Hendrik Doeff︶から文化年間に贈られた蘭名であった︒大浪がラスに書いてもらったターフェルベルク︵Tafelberg︶は︑蘭学者のうちでも比較的早い時期の蘭名であった︒
大浪は︑蘭名を気に入ったのであろう︒すぐに自らの作品に蘭名を書き加えた︒大浪がターエルベルクと款記した最初の作品は︑寛政一一年︵一七九九︶の﹁ヒポクラテス﹂であろう︒大浪は寛政一〇年︵一七九八︶︑友人の大槻玄沢からヒポクラテス像を描くよう頼まれた︒このことは︑﹃磐水存響﹄の﹁磐水漫草﹂にある﹁兮撥哈拉跕 テ斯伝 寛政己未八月﹂からわかる︒前半に医聖ヒポクラテスの伝記や医師のあるべき姿が述べられ︑末部に次のような文章がある︒
頃得可鹿涅乙吉描師肖像︑神彩如生︑使人悚然起敬于二千載之下︑九万里之表矣︑欽嚮之餘︑請太浪子模写︑訳其要語及所出履歴︑以為小伝︑題諸其上︑以配二聖云︑
これによると︑玄沢は近ごろ﹁可鹿涅乙吉の描く師︵ピポクラテス︶の肖像を得た︒﹂この肖像は二千年をすぎた今でも︑尊敬の念をおこさせ︑景慕のあまり﹁大浪子に請うて模写し︑その要語・所出・履歴を訳し︑もって小伝をなし︑これをその上に題し︑もって二聖に配すという﹂とある︒玄沢は寛政一一年八月︑ピポクラテスの画像を見て感動し︑すぐ大浪に画像を模写してもらい︑そこに自らの画賛を加えたのである︒
以上の寛政一一年八月の大浪画﹁ヒポクラテス﹂は︑残念なことに今もって所在不明である︒さらにこれと似た大浪の﹁ヒポクラテス﹂があり︑こちらも玄沢の依頼によった作品だが︑所在がわからない︒しかしこちらは︑昭和九年︵一九三四︶日本医学会総会医史展示会で 陳列され︑玄沢の画賛ともいうべき﹁西哲兮撥蛤蠟跕 テ斯真容図幷要語﹂が︑写真で残されている︒この要語の末に﹁寛政十一年己未仲秋吉旦﹂とあるから︑先の寛政一一年八月の﹁ヒポクラテス﹂と前後して描かれた作品とわかろう︒弦沢の﹁西哲兮撥蛤蠟跕斯真容図幷要語﹂の末部に︑
頃偶閲可児涅乙吉書︑視師之真容図︑拝儀可想︑神彩可尊︑以所其甞欽嚮︑ 乃請太浪子令再模写之︑図上題所既私訳之要言︑附訳其小伝︑以作一幅併懸炎黄之画幅︑以合祀云
2
とある︒ここでも玄沢はヒポクラテス像を景慕し︑﹁大浪子に請うてこれを再模せしめ﹂︑画像の上に自らの要言を付したという︒
現在所在のわからないこれら二点の﹁ヒポクラテス﹂は︱︱寛政一一年八月の作品と寛政一一年仲秋吉旦の作品︱︱ともに玄沢の画賛に﹁可鹿涅乙吉描くところの師の肖像﹂とか︑﹁たまたま可児涅乙吉の書を閲し︑師の真容図視たり﹂とある︒つまり玄沢は︑﹁可児涅乙吉﹂のヒポクラテス像に感激し︑大浪に模写させたのである︒
緒方富雄氏は日本にあるヒポクラテス画像を調査し︑それらを歴史的に秩序づけて解説した労作﹃日本におけるヒポクラテス賛美﹄を著した︒しかしこの書では︑重点ともいえる﹁可児涅乙吉﹂について最後まで解決できなかった︒
という︒ kroniekkronikある︒もっとも現在のオランダ語では︑クロニーク︵﹇・・﹈︶ ﹁chronyck可児涅乙吉﹂とは︑オランダ語のクロネイク︿﹀の音読で
ドイツ人聖職者ヨーハン・ルートヴィヒ・ゴットフリード︵Johann Ludwig Gottfried︶は︑一六三〇年﹃歴史年代記﹄を書いた︒この本は好評を博したため︑一六六〇年にアムステルダムで蘭訳され︑さらに一六九八年レイデンで再版された︒オランダ語の標題は︑
ヨーハン・ルートヴィヒ・ゴットフリードの歴史年代記︵Jon. Lud. Gotfridi Historische CHRONYCK
︶ 3
︵五︶ という︒玄沢が﹁可児涅乙吉﹂と言ったのは︑この蘭書の標題を指していたのである︒
蘭訳本﹃歴史年代記﹄は︑巻頭の第二表にギリシアの哲人二四名の胸像を載せる︒第一はアテネの将軍ミルティアデス︑第二がその息子のキモン︑第三が政治家で将軍のテミストクレス︑そして第四がここで問題となる聖医ヒポクラテスである︒その胸像の蘭文説明は︑
ヒポクラテス︑優秀な医師であり︑すべての医師の教師
4
とある︒画像は横向きで︑頬ひげをはやし︑はげ頭の痩せた人物である︒大浪はこの胸像をもとに︑右手を胸元にあげて指を開かせ︑対話しているような姿のヒポクラテスを描いた︒この右手の表現が︑大浪の発想であった︒前述した所在不明の寛政一一年八月と寛政一一年仲秋吉旦のヒポクラテス像も︑これと似ていたと想像される︒
大浪は︑この右手を胸元にあけた横向きのヒポクラテス像をなん点も描いた︒大垣藩の蘭方医吉川宗元に所蔵されたヒポクラテス像も︑その一点である︒これは寛政一一年の制作で︑画像として残るわが国最初のヒポクラテス像である︒画面下方の楕円形にヒポクラテスがおさめられ︑次のような蘭文が書かれる︒
HIPPOCRATES coüs, in Griekenland. Getekent in quanseij 11, door I : H : Tairou 訳は︑﹁ヒポクラテス︑ギリシアのコス︵島の出身︶︑寛政一一年
I・
Tairou ず︑︿﹀の号を用いてる︒款記の getekend ︿﹀の誤りである︒ここではターフェルベルクなる蘭名を使わ Hgetekent・大浪によって描かれた﹂となる︒もっとも︿﹀は︑
Iと
あろうか︒ Hは︑なにを意味するので
Iは石川の頭文字︑
とする説がある Hは七左衛門の頭文字を謝って読んだ
︒しかしまだ解決されていない︒ 5
大浪は京都在番や大坂在番中︑木村蒹葭堂以外にも小石元俊としばしば会ったと考えられる︒元俊は大坂の生まれで︑名は道︑字は有素︑丈愚と号した︒元俊ははじめ漢方医学を学ぶが︑オランダ医学の 精確なるのを知り︑江戸の蘭方医らと交わうようになる︒天明六年︵一七八六︶︑大槻玄沢は本材木町に芝蘭堂を設立して︑子弟の教育にあたった︒元俊は︑芝蘭堂で学んで蘭学の知識を深めるばかりか︑罪人死体の解剖を自らおこなって大坂に蘭学をおこした︒のち京都に移り︑京都蘭学の祖ともなった︒
寛政一二年︵一八〇〇︶︑大浪はこの年八月まで前述のように大坂にいた︒そのためこの年に描いた﹁ヒポクラテス﹂は︑何月か款記されていないが︑八月以前の制作ならば︑大坂で描かれたことになる︒大浪は︑前年と同様の右手を胸元にあげた横向きのヒポクラテスを西洋画の陰影画法をもとに描きあげ︑小石元俊に送った︒画像の下に次のような款記がある︒
HIPPOCRATES Cüs In Grieken Land. Getekent in Quanseij 12, door I. H. Tafel Berg
ラテス︑ギリシアのコス︵島の出身︶︑寛政一二年 前年の画像とほぼ同じであるから︑訳す必要もないと思うが︑﹁ヒポク ︿cüscoüsGetekentGetekend﹀は︿﹀の誤り︑︿﹀は︑︿﹀の誤りである︒
I・
ベルクによって描かれた﹂となる︒ H・ターフェル
また画像の上には︑次のような坪井信道の詩がある︒
西方有美人 鶴髪皓如銀
雙眼睨寰宇 片言驚鬼神
高天仁不極 大海知無垠
赫々吾医祖 光輝照万春
辛丑晩春拜題為小石学契 坪井信道謹書
︵
西方に美人有り︑鶴髪皓き銀のごとし︑双眼睨寰をにらむ︑片言鬼神を驚かす︑高天の仁きわまらず︑大海の知かぎりなし︑赫々たりわが医祖︑光輝万春を照らす︶
末尾に﹁辛丑晩春﹂とあるから︑天保一二年︵一八四一︶の詩である︒つまり大浪がこの画像を描いたときは︑信道の詩はなく︑四一年もあ
︵六︶
とに書き加えられた画賛なのである︒
これらのほかにも︑制作年の不明な二点のヒポクラテス像がある︒一点は左向きの胸像で︑下部に︿Tafel Berg﹀と記し︑上部に吉雄権之助の蘭文画賛がある︒豊かなひげを蓄えたヒポクラテスは︑下方をじっと見つめているが︑粗い描写である︒
画賛を記した吉雄権之助は︑吉雄耕牛︵幸作︶の子で︑父を継いで阿蘭陀通詞となり︑父と同様に蘭語に長けた︒権之助の画賛は︑一部語句の省略があるが︑クルムスの蘭訳本﹃オントレードクンディヘ・ターフェレン﹄からとった文章である︒この蘭書の第一章は︑﹁解剖学一般﹂︵Van de Ontleedkunst in
,t
gemeen︶で︑﹁コスのヒポクラテスは︑解剖学のもっとも古い記録を自らの原稿にまばらなかたちで書き残している︒そのなかに解剖学の特別な本がある︒かれは紀元前四三二年に︑ギリシアで︑マケドニアの第二世ペルディカスの治世下で生まれ︑一〇四歳︱︱一説には一〇九歳︱︱まで生きた︒今日に至るも︑医者の間で高祖としてあがめられている︒﹂とある︒この文章を画賛としているが︑これより︑次のような追記がおもしろい︒
Ao : 1831 ten verzoek van den beroemde doctoor Saijtoo Hoosak geschreven door Josiwo Gonnoskij訳は︑﹁一八三一年︑有名な斎藤方策博士の依頼により︑吉雄権之助により︵画賛が︶書かれた﹂となる︒斎藤方策は小石元俊︑橋本宗吉らから教えをうけ︑大坂で蘭方医学を開業した︒この方策博士から一八三一年︑つまり天保二年に画賛を依頼されたというから︑大浪がヒポクラテス像を描いたとき︑蘭文画賛はなかった︒大浪はこの画賛が書き加えられる十数年前に死亡している︒
もう一点制作年不詳の﹁ヒポクラテス﹂は︑﹁因泰西画法 大浪写﹂と款記された墨画である︒大浪が描くヒポクラテス像のなかで︑もっとも良く西洋画法が駆使され︑ヒポクラテスは︑怒れる力のみなぎった老人として表現される︒画面上部に次のようなシーボルトの画賛が ある︒
Afbeelding van den vermaarden Geneesherr Hippokrates. Dezima den 15 Sioguats Anno 1825 Dr. von Siebold あえて訳す必要がないかもしれないが︑﹁有名な医師ヒポクラテスの肖像 一八二五年正月一五日 出島 シーボルト﹂となる︒シーボルトが一八二五年にこの賛を書いたとき︑出島の商館医に任じられて三年目︑二九歳であった︒大浪が没したのは文化一四年︵一八一七︶であるから︑シーボルトの画賛は︑大浪がヒポクラテス像を描いたときはなかった︒おそらく大浪の﹁ヒポクラテス﹂は出島に持ち運ばれ︑シーボルトによって画賛が書かれたと想像される︒
江戸や大坂の蘭方医らは︑漢方医の神農図と対抗するかのように西洋医学の医聖ヒポクラテス像を求めた︒大浪は︑この要請に応え︑蘭書﹃歴史年代記﹄に載るヒポクラテス胸像を参照に︑さらに自らの工夫をこらし︑わが国最初の医聖像を描きあげた︒右手を胸元にあけた横向きのヒポクラテスで︑この胸像こそ医聖像の典型として︑のちの洋風画家たちにさかんに模写されたのである︒
︵平成二十二年十月七日受理︶
註︵
︵ せていただいた︒ 氏の﹁石川大浪と孟高について﹂︵﹃大和文華一〇五号﹄︶一二ページを参照さ 1︶ ﹃蒹葭堂日記・︵復刻版︶﹄に﹁寛政十二年﹂の項が欠損している︒勝盛典子
︵ ジ 2︶ 緒方富雄﹃日本におけるヒポクラテス賛美﹄︵日本医事新報社︶一一一ペー
︵ 四七六︱四八四ページ 3︶ 磯崎康彦﹃江戸時代の蘭画と蘭書﹄上巻︑︵ゆまに書房︑二〇〇四年︶
︵ Leermeester.-﹀ Hippocrates, der treffelijcke Artz, en der selver aller 4︶ 蘭文は次のようにある︒︿
5︶ 1の前掲書︑一一八ページ
︵七︶
Ishikawa Tairo als Portratmäler Hippokrates und die Malerei im Holländischen Stil
ISOZAKI Yasuhiko
Ishikawa Tairo war einer der direkten Vasallen des Shoguns, und gehörte der militärischen Gruppe, die das Edo Schloss verteidigte. Er war auch ein Maler, der sich die Darstellungsweise der europäischen Malerei aneignete.
Die meisten Rangaku-Bekannten waren die Gläubigen der holländischen Medizin, daher galt der griechische Weise, Hippokrates als Ahnherr der Medizin und wurde auch häufig dargestellt. Ishikawa Tairo hat selbst nach einen auf dem holländischen Buch >Gottfrieds Historische Kronych< gestandenen Kupfer- stich die Porträte Hippokrates gamalt.