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どんぐりと山猫と大正時代 - 단국대학교

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(1)

뺷どんぐりと山猫뺸と大正時代

48)

朴 京 娫 *

❙要旨文❙

本稿においては大正時代に書かれた宮沢賢治の童話뺷どんぐりと山猫뺸の登場人物を4段階に区分し分析 して、登場人物間の関係を通し大正時代の支配階級と被支配階級が存在する社会的構造、それによる社会 的位置、教育環境、社会像、作家賢治の作品の中での意図をなどを社会的背景と比較しながら考察する。 

明治維新以来、日本は外的に万民平等を叫んだが、内的には市民の地位も人権も教育面においてはその出 発点にすぎない時代であったと言える。そのような傾向は、大正時代の様々な国内実情と国際関係の変化を 通じて、教育制度の変化と共に維持されていた。

明治時代の学制的には、国民皆教育が徐々に国を中心とし国民養成教育に変容していった時期であり、大 正時代には、第1次世界大戦、大戦後の国際社会の思想の影響で自由主義思想の流入と西洋化が顕著に見ら れ、学校教育でも子供中心の教育が重要視された。大正7年には全教育段階での教育制度の完成と自由教育 運動が全国各地で行われ、新たな教育実践という試みがなされた。 

賢治の第一の関心事は、農民であった。この作品を通して農民を代弁している人物として馬車別当に照点 を当てた。一郎に見られる別当に対する関心は、これに起因すると見て、別当という人物を通して、その当時 の世相、教育環境も推測することができた。また、山猫と別当の関係から当時の雇用関係、貧富の差と上下 階級社会を見ることができ、その時代の社会風刺の角度で解析した。山猫と別当の関係における一郎の登場 により、さまざまな視点から、その時代の社会像と作家賢治の思想を垣間見ることができる。どんぐりの競争 構図と一郎の最後の判決を通じ、自己中心の競争構図の中の価値観から解放しようとする作家の意図に注目 した。

[キーワード] 宮沢賢治、大正時代、教育、階級社会、社会風刺

❘目 次❘

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.四つの段階の登場人物の分析

Ⅲ.人間関係図から見られる構造

Ⅳ.別当から見られる大正の教育環境

Ⅴ.おわりに

* 단국대학교 강의전담 조교수 / [email protected]

(2)

Ⅰ. はじめに

大正時代は西洋文化が急速に受容され大きな変化が見られた時代で、また本来の人間の生き方を追求し ている時代でもあった。外的な西洋文化、学問、当時の流行りにおいてもやはり人間主義が基本で、本来の 人間はそこに新しい世界を見出そうとして、学問に価値を置くようになった。西洋技術は外面だけであり、

ルネサンスの人本主義にも限界がある。

農村から出てきて都市生活をすると段々人本主義になる。神仏ではなく一番が人間である人本主義は、

大正時代の物質、技術に偏り見失っている部分がある。本来の人間が追求しようとする内面に焦点を当てて 人間中心主義に入ろうとした時代とも言える。けれども人権が確実に成り立っておらず、例えば殴られて も、ひどい場合には殺されても訴えることがまだできない時代であった。

뺷どんぐりと山猫뺸1)を通して、登場人物による人間関係図から賢治流の考えを見ることができる。色々な

角度から作品が分析されているが、本研究は作品の中の登場人物を中心に4つの段階に分析し、その中の関 係図を通して大正時代の教育環境、社会状況、人間の在り方などを研究する。

Ⅱ.四つの段階の登場人物の分析

뺷どんぐりと山猫뺸の主な登場人物は山猫、一郎、どんぐり、別当に絞られる。山猫は判事、別当は山猫 の馬車受けとして主従関係で登場する。作品が書かれたその当時において支配階級である山猫と被支配階級 である別当に見られる社会的な構造、教育環境、各登場人物の社会的位置づけに注目する。

先行研究として作品の舞台を学校にした信時哲郎は、この作品を学校を舞台にして、山猫は先生、どん ぐりは生徒、別当は用務員として見て、一郎は改革者、宗教的な同志として登場、判決のお説教を通して 仏教的な価値観から信仰により分かち合える。どんぐりの争いから競争に走る現実の学校制度の批判とも言 える。2)

また、川島秀一は学校で比較されながら競争し、勉強している学童のどんぐりは人生の意味そのものが無 くなり、既存の考え方や価値観を一郎が登場して解決する。黄金のどんぐり、はがきのことを出し、世の中 はむなしく意味を探しながらも探せずに、現実に浮遊し疲れている人間模様を表現していると抽象的、哲学 的に語っている。3)

1) 뺷教本宮沢賢治全集뺸 第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, pp.9-18.

2) 信時哲郎, 「뺷どんぐりと山猫뺸論改革者として学童」, 뺷上知大学国文学論集뺸 27, Sophia University, 1994, pp.1-17.

3)川島秀一, 「意味に㶐かれた人間の物語–뺷どんぐりと山猫뺸から出発 –」, Journal of Yamanashi Eiwa College10, Yamanashi Eiwa College, 2011. pp.33-48.

(3)

その他の観点からの研究として寺杣雅人は、この作品が元々論理的に組み立てられており、論理的分析 を前提として書かれていると考察している。生態系と非生態系、生物と無生物から自然に存在する全種類が 登場していることから登場人物達の概念図を表し、山猫を探しに行く一郎が自然との奇妙な問答によって北 の方の山を目指したと推理して結論を出している。どんぐりの裁判は明確な前提をおいて裁かれるのは単純 明快な論理であるが、全ての人には納得されにくく、客観的な妥当性がないと語る。4)

村上呂里は、美しい標準語と読み書き能力のリテラシーが重要だとする近代社会の文化に対して、方言 と昔そのままの土俗文化を二元化して捉えている。近代文化が土俗文化を侵略して植民地化していると見て おり、学校を舞台に標準語にこだわっているグループの代表的な人物としての一郎と、別当のようにそこに 属さないグループで分けられる。従来の土俗文化では喜び、悲しさなど人間本来の自然な感情が見られる が、近代学校の空間は制度化されているので豊かな感情が否定されている。競争し序列化されている近代の 学校を批判し、学生をどんぐりに例え、どんぐりの内面を一郎のお説教として表し、近代社会に参入する資 格としてリテラシーの必要性、その境界線を近代と土俗文化が産み出す厳しい抑圧を別当が浮彫りにしてい ると分析している。5)

黄金のどんぐりをとおして現実社会に疲れている人間模様に対する風刺、生態系から登場人物達の概念 図を表し、そこから客観的な妥当性がないという見方、近代文化による土俗文化の近代と土俗文化が産み 出す厳しい抑圧などの多様な面から研究されている。

色々な角度からの先行研究があるが、本研究では、作品の中での各個人の役割として、大きく上中下、

上の山猫、中の一郎とどんぐり、下の別当と分けることができる。

1. 支配階級の山猫

山猫は判事である。豊かな生活をしている象徴として黄色い陣羽織、繻子、巻きタバコなどによって表し ている。ひげをぴんとひっぱって、お腹をつきだし威張って話している姿から普段、威圧的な言動を取って いる支配者を連想させる。作品の中で、何カ所もでてくる行動から見られる金持ち、支配者のイメージは当 時の上流層の人たちを感じさせる。

黄いろな陣羽織のやうなものを着て、緑いろの眼をまん円にして立つてゐました。6)

見ると山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつ

4)寺杣雅人, 「宮沢賢治 뺷どんぐりと山猫뺸考論理的分析の試み–」, Faculty of Artistic Culture(8), 尾道大学芸術文化学部, 2008, pp.59-68.

5)村上呂理, 「뺷どんぐりと山猫뺸(宮沢賢治)の読みと授業の可能性」, 뺷国語科教育뺸 46, The Japane se Te aching Socie ty of Japan, 1999.3, pp.103-96.

6) 뺷教本宮沢賢治全集뺸 第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.13.

(4)

てゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。7)

山猫はなるほどといふふうにうなづいて、それからいかにも気取つて、繻子のきものの胸を開いて、

黄いろの陣羽織をちよつと出してどんぐりどもに申しわたしました。8)

山猫を象徴するものとしてひげの場面が3つ見られる。ひげをきれいに伸ばし、ひげをぴんとひねる様子か ら、権威主義的な上流層、支配者のイメージを連想させる。

山猫はひげをぴんとひつぱつて、腹をつき出して言ひました。9) 山猫がひげをぴんとひねって言いました。10)

一郎が 「ええ、かまひません。」 と申しますと、やまねこはまだなにか言ひたさうに、しばらくひげ

をひねつて、眼をぱちぱちさせてゐましたが、たうたう決心したらしく言い出しました。11)

上に見られるように山猫の動作、仕草からもその当時の支配者達の様子を窺うことができる。登場人物の 中で主人公が誰なのかを考えると、賢治がこの作品を通して言いたいことは何か、どこに焦点を当てている のかによって違ってくる。作品の題目から山猫とどんぐりが重要なようであるが、本研究では一郎と別当に も大きな位置づけがしてあるとみる。

2. 一般市民の中の知識人のような一郎

一郎は知識人の立場で、言葉でどんぐり達を制圧するところから弁護士のような感じで登場する。山猫は 弁護士の役割を願って招待したかも知れない。はがきを学校のかばんにしまっている様子から学生、学校関 係の人のようにも考えられる。山猫は判事で、最後に山猫は一郎に名誉判事の担当を願う。作品の中で一郎 は優雅に登場して優雅に意見を言うところからも知識人のイメージである。

山猫が一郎にそつと申しました。

「このとほりです。どうしたらいいでせう。」 一郎はわらつてこたへました。

「そんなら、かう言ひわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちやくちやで、まるで

7) 뺷教本宮沢賢治全集뺸 第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.14.

8) 뺷教本宮沢賢治全集뺸 第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.16.

9) 뺷教本宮沢賢治全集뺸 第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.13.

10) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.15.

11) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.16.

(5)

なつてゐないやうなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」12)

どんぐりの争いの対しての一郎の判決である。一郎の判決に対して牛山恵は一郎の判決はその場逃れの価 値観でどんぐりに自分の価値観を押し付けていると解釈している。本質的にどんぐりの悩みは解決できず、

個人の個性が尊重されていないと批判の目でみた。13)

本研究では違う角度で捉えてみた。作品の中で一郎は山猫の代わりにどんぐりの社会問題を解決する知 識人の役割をする。どんぐりと別当を含めて、一番偉くない人が一番偉いという一郎の結論は自分の意見で ある。自分が一番偉いと言い張って争い合っているどんぐり達を見て一番馬鹿で、一番偉くない人が一番偉 い、肩を張り合っている様子は意味のないことであるというお説教は仏教思想を背景とした価値観による社 会風刺、皮肉、批判であると思われる。

3. 一般市民としてのどんぐり

どんぐりは300人以上も登場し一般社会の市民として、法廷に立ち裁判の中で自分の意見を言い、争い あっている立場の、基本的な人権がある大衆としてとらえられる。デモクラシーの失業者とも言える曖昧な 位置づけの存在の役割をしているとも考えられる。別当よりは人間扱いされており、ある程度は教育も受け て意見も主張することができ、学校を卒業してから各分野で色々仕事をしながら争いあっている様子が見ら れる。その当時、残っていた上中下の身分制度の中からどんぐりの位置づけは難しい。

「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減に仲なほりをしたらどうだ。」 山ねこが、すこし心配さう

に、それでもむりに威張つて言ひますと、どんぐりどもは口々に叫びました。「いえいえ、だめです、

なんといつたつて頭のとがつてるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがつてゐま す。」 「いいえ、ちがひます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」 「大きなこと だよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」 「さう でないよ。わたしのはうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおつしやつたぢやないか。」 「だめだ い、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」 「押しつこのえらいひとだよ。押しつ こをしてきめるんだよ。」 もうみんな、がやがやがやがや言つて、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつつ ついたやうで、わけがわからなくなりました。中略

「いえいえ、だめです。なんといつたつて、頭のとがつてゐるのがいちばんえらいのです。」

「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」 「そうでないよ。大きなことだよ。」 がやがやがや がや、もうなにがなんだかわからなくなりました。14)

12) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, pp.15-16.

13) 牛山 恵, 「뺷どんぐりと山猫뺸論」, 뺷横浜国大国語研究뺸 7, Yokohama National University, 1989.3, pp.25-34.

14) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, pp.14-15.

(6)

どんぐりは“どんぐりの背比べ”のように自分の意見を主張し、言い争っている。この作品を斎藤寿始子は

<デクノバウ礼讃>に見られるように外的な面に価値を置かず、内面に価値を置く宮沢賢治の価値観を表し ている。人間の基準を外的なものから上下に区別するのではなく、仏教的な世界が決め、飾り無くありのま まの姿に価値を置く絶対価値観にあるとみた。15)

どんぐり達の主張は個々にとっては重要な問題であり、市民の意見として尊重されている。それに反して 別当は、山猫から命令を受け、草を刈り、ベルを鳴らす雇用人の姿である。これはどんぐりより下の位置づ けとして、農民、一般庶民として捉えられる。どんぐり同士の争いの舞台の中に入れない雇用人の身分で、

完全にどんぐりとの差が表れている。基本的に人権が認められていない人のレベルである。뺷どんぐりと山猫뺸 の中の登場人物の中でどんぐりより別当に焦点を当て、当時の社会的な問題点を訴えたかったのかもしれな いと思われる。

4. 被支配階級の別当

別当は外貌がぶさいくな人物として最初から登場する。外的な面からも背が低く、美しくなく、足が曲 がって山羊のようで、気味が悪く、人が見たら逃げるような醜い姿でおかしな男として表現されている。外 面からも弱者の立場である。

その草地のまん中に、せいの低いおかしな形の男が、膝を曲げて手に革鞭をもつて、だまつてこつ ちをみてゐたのです。一郎はだんだんそばへ行つて、びつくりして立ちどまつてしまひました。その男 は、片眼で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上着のような半天のやうなへんなものを着て、

だいいち足が、ひどくまがつて山羊のやう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたち だつたのです。一郎は気味が悪かつたのですが、なるべく落ちついてたづねました。16)

外面的な描写以外にも社会的にも弱者の立場の別当のイメージは人間関係からも表われている。山猫の 前で緊張している様子、タバコが吸いたくて泣く姿、パワハラされる場面からも貧困層にいる弱者の別当が 見られる。

一郎の言動から表われている視点から推測して、この作品における別当の位置づけは批判的ではなく、好 意的な立場を取っている。賢治が作品の中で言いたいことが何か、それに焦点を当てると別当が重要な存在 になってくる。賢治自身の心を別当に映して、何かを言わんとしていると感じられる。

別当に対して、米村みゆき17)が言うように教育落伍者として別当を差別視しているかのような賢治を批 15) 斎藤寿始子, 「宮沢賢治뺷どんぐりと山猫뺸論童話集뺷注文の多い料理店뺸をめぐって」, 뺷大谷学報뺸68: 1, 大谷学会, 1988,

pp.16-28.

16) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.11.

17) <おかしな>字、文章を書く教育落伍者下層労働者の別当が身体的な<異形>と結びつけられている 点は、神聖化さ

(7)

判する角度とはまた、別の考察をしている。次の人間関係図から詳細に見てみる。

代表的な四つの登場人物の中、作品の題目は뺷どんぐりと山猫뺸である。何故一郎と別当ではないのか問 題提起される。

Ⅲ.人間関係図から見られる構造

山猫、一郎とどんぐり、別当の登場人物から見られる関係図に注目してみる。山猫と別当の架け橋の役 割をするのが一郎で、また、一郎は自然から聞いて答えをもらう立場をとっている。

田中実は主人公は一郎で、主人公と実質的に関わる唯一の相手として異形の者である別当は極度の劣等 意識でおびえ、威圧的な山猫は別当に悪意を持つことから、山猫の人物像を権力を追求していると深層批評 の目で見る。別当は山猫に支配され、物語が言葉の微妙なニュアンスで登場人物を裁いているとみた。18)

その他に、山猫と一郎の関係に注目した萬田勉は、最後に一郎が黄金のどんぐりをもらったのは自分の欲 として俗世間を象徴するのであると解釈する。山猫は、それをもらい俗化した一郎はもう必要性がなくなっ たので、その後、連絡しなかったのだと推測する。19)

題目は山猫とどんぐりであるが、作品の中の位置づけとして一郎と別当ではないのかについて考察する と、世の中の構造として支配階級の山猫と一般大衆であるどんぐりを表面に出して、それに対比し世相と作 品の意図を表す隠された主人公としての一郎と別当であるとも考えられる。

1. 山猫と別当、どんぐり

山猫は別当に対して命令、服従の階級社会のなごりがまだ見られる。支配階級と被支配階級の関係で支 配の立場は人間扱いされていない被支配の立場に完全にパワハラしている。それを当たり前に考える当時の 状況である。

現代社会では、雇用する立場と雇用される立場はお互い基本的人権は保障され、人間的な面として訴え ることができる。引用文から見られるように山猫の命令に従う別当の間に経済的に雇用して、雇用されても 自分の言う通りにしようとするパワハラがまだ残って存在している時代であると思われる。

れた賢治像に捉えられることなく批判的に論じるべきではなかろうか。米村みゆき, 「周縁人物 別当について宮沢賢治 뺷どんぐりと山猫뺸と教育の問題–」, Japanese Literature44: 8, Japanese Literature Association, 1995.8, pp.63-72.

18) 田中 実,<すきとほつたほんたうのたべもの><あなた>宮沢賢治뺷どんぐりと山猫뺸の深層 批評–」, Japanese Literature 59: 2, Japanese Literature Association, 2010.2, pp.32-42.

19) 牛山 , 前揭書, 再引用, p.26.

(8)

山ねこは、ふところから、巻煙草の箱を出して、じぶんが一本くわい、「いかがですか。」 と一郎に 出しました。一郎はびつくりして、「いいえ。」 と言ひましたら、山ねこはおほやうにわらつて、「ふふ ん、まだお若いから、」 と言ひながら、マッチをしゆつと擦つて、わざと顔をしかめて、青いけむりを ふうと吐きました。山ねこの馬車別当は、気を付けの姿勢で、しやんと立つてゐましたが、いかにも、

たばこのほしいのをむりにこらえてゐるらしく、なみだをぼろぼろこぼしました。20)

山猫と別当の貧富の差がはっきりしているところである。山猫と別当の関係が命令と服従の関係だとすれ ば、山猫とどんぐりの関係とは異なる。山猫はどんぐりに対して自分の思う通りに命令したりはできない。

一応どんぐりは学校を卒業して社会の各分野で仕事ができる人として、自分の意見を主張して競争しあって いるデモクラシーの状況の中、山猫とどんぐりは高級公務員、管理人と一般市民として考えられる。支配層 の山猫が力があっても、市民に納得してもらわないと、権力、お金だけで自分の思う通りにはできない時代 背景が見られる。このような背景からの必要性として一郎を呼び出した。どんぐりに対する山猫の様子から ある程度民主主義になり、その分社会が平等になって行く時代であることが分かる。このようにどんぐりと の裁判に困った山猫は一郎を招待するようになる。

別当と山猫との位置関係がはっきりしている部分である。弱者の別当はどんぐりとは違い、山猫に雇用さ れぞんざいに扱われているので人間らしい待遇をうけられず、一般市民の枠に入っていない存在である。

2. 一郎と別当、どんぐり

山猫と別当においては厳しい上下関係が見られ、一郎と別当の関係においては賢治と農民の姿がクロー ズアップされ、連想させる。賢治は農民に多くの関心を持っており、作品の中で農民を別当の立場に置き、

一郎の言動を通して自己の考えを表している部分が見られる。一郎は知識人として最初の手紙の中でコンプ レックスを持っている別当をフォローしている。

斎藤寿始子は東北の山岳信仰を源に、少年とイメージされる一郎が様々な困難を克服しながら大人に なっていく儀礼、別当は山の神の特徴を持ち山の神に属する存在として解釈し、民俗信仰をベースにした伝 承、民話、童話によく見られる修業的通過儀礼という観点からみている。21)

本稿の視点からは、一郎は別当が劣等感を持っていることを知り応援する立場を取りながら慰めてあげて おり、実際存在してない大学の5年生は大学を卒業した基準を言おうとしているのではないかと思われる。

するとその奇体な男はいよいよにやにやしてしまひました。「そんだら、はがき見だべ。」

「見ました。それで来たんです。」 「あのぶんしやうは、ずいぶん下手だべ。」 と男は下をむいてかな 20) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.13.

21) 斎藤寿始子,「宮沢賢治뺷どんぐりと山猫뺸論–童話集뺷注文の多い料理店뺸をめぐって」, 뺷大谷学報뺸68: 1, 大谷学会, 1988, pp.16-28.

(9)

しさうに言ひました。一郎はきのどくになつて、「さあ、なかなか、ぶんしやうがうまいやうでしたよ。」 と言ひますと、男はよろこんで、息をはあはあして、耳のあたりまでまつ赤になり、きもののえりをひ ろげて、風をからだに入れながら、「あの字もなかなかうまいか。」 とききました。一郎は、おもはず笑 ひだしながら、へんじしました。

「うまいですね。五年生だつてあのくらゐには書けないでせう。」

すると男は、急にまたいやな顔をしました。「五年生つていふのは、尋常五年生だべ。」 その声が、

あんまり力なくあはれに聞えましたので、一郎はあわてて言ひました。

「いいえ、大学校の五年生ですよ。」

すると、男はまたよろこんで、まるで、顔ぢう口のやうにして、にたにたにたにた笑つて叫びまし た。「あのはがきはわしが書いたのだよ。」22)

別当の描写から見られるように別当は誰からも嫌われ好感を持たれない姿で描かれている。別当はどんぐ りの争いに入れない存在で、醜い姿で登場することがまず農民の姿の表われであると思われ、一郎はそのよ うな別当をフォローしてあげている。

一郎と別当の中間層がどんぐりと言える。一般市民の枠に一郎とどんぐり、市民の中でも経済的な下層 の庶民として雇用されているのが別当である。一郎とどんぐりは経済界であれば自立して活動し、政治界で あれば其々の自分の主張ができ、教育界であれば教師など各分野で社会で独立して仕事ができる立場であ る。山猫、一郎、別当の三角構造の中の人物としてどんぐりは曖昧な位置づけである。

3. 山猫と一郎、その中の別当

山猫、一郎、別当の三者は対比的に描かれ、その中で権力者、お金持ちのシンボルである山猫に対して 一郎は知識人として登場する。一郎は山猫から葉書をもらって、栗の木、笛ふき滝、ぶなの木、栗鼠などの 自然に聞きながら山猫を探していく。一郎が登場してどんぐりの争いがすぐ終わって、それを山猫は感謝 し、一郎に名誉判事を願うようになる。山猫は一郎に別当が書いたはがきの文句について意見を聞く。

「それから、はがきの文句ですが、これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてどう でせう。」 一郎はわらって言いました。

「さあ、なんだか変ですね。そいつだけはやめた方がいいでせう。」

山猫は、どうも言いやうがまづかつた、いかにも残念だといふふうに、しばらくひげをひねつたま ま、下を向いてゐましたが、やつとあきらめて言ひました。

「それでは、文句はいままでのとほりにしませう。そこで今日のお礼ですが、あなたは黄金のどんぐ り一升と、塩鮭のあたまと、どつちをおすきですか。」23)

22) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, pp.12-13.

(10)

山猫の文章は比較すると別当のはがきよりは随分きれいで標準語であるが、それより別当の文章に賛同す る。山猫の別当が書いたはがきの文句に対して、一郎は山猫と別当の間で正しい標準語ではなくても別当の 肩を持つ。それは教養、学問の水準がポイントではないということを強調していると解釈できる。

山猫は自分の方に一郎を連れてこようとしたが、はがきのことで一郎は別当の肩を持つ。それでこれ以上 招待状はこないようになる。山猫の思う通りにはならながったと思われる。一郎は弱者を守り、市民を尊重 する立場を取る。当時の農民の生活状況はすごく貧乏で、特に岩手県は農業が難しい地域で、学校へ行きた くても行けない場合が多く、教育水準がほかの地域より低い。一郎と別当は賢治と農民の関係として連想さ れる。別当のイメージから表われているように学習欲が高く、それを何とか助けてあげたい立場にいるのが 一郎である。

別役実は違う角度から山猫を父性原理、一郎と別当を母性原理を表すものとしてみる。価値を決定する のは父性原理であり、母性原理は<価値をあらかじめ不毛なもの>とすると考え、山猫は価値を決定しよう とする過程を繰り返すことで、かえって混乱を招いてしまっていると特別な角度で解釈した。24)

また、恩田逸夫は一郎、山猫、別当の皆はそれぞれが社会性を持って苦悩しながら生きる現代人の姿そ のものとして受け止めている。25)

山猫と別当から、その時代まだ残っている身分制度、山猫とどんぐりを通して社会風刺、一郎と別当を 通して一郎の弱者に対する関心と愛情と今後現実を改善したい意志が見られる。登場人物の人間関係図か ら見られるように、其々接触しながらお互いの価値観が違いやずれを感じさせ、それが作品の楽しさの一つ でもあると思われる。

Ⅳ.別当から見られる大正の教育環境

明治時代から新しく始められた教育は、大正時代になっても子供たちが経済的困窮のため学校に行けな い状況もあり、学習欲があっても思いどうりにならない場合も多い時代であった。経済システムがまだ確率 してなく、一般労働者の地位や人権がかなり低く、人間扱いされていない階層もあった時代なので、明治維 新から表面的に万民平等にはなっても実は建前であったとも言える。上の人が下の人を所有物のように扱う ようなことが多々見られた時代でもある。

明治5年の学制領布により一大教育改革が実施され、教育に関する法改正を繰り返すことにより国民皆教 育が次第に国家中心の国民養成教育へと変容していった時期である大正には第一次世界大戦、大戦後国際

23) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, pp.16-17.

24) 牛山 恵, 前揭書, 再引用, p.26.

25) 牛山 恵, 前揭書, 再引用, p.27.

(11)

的な社会思想の影響を受け、自由主義思想が現れ、教育面でも学校教育での児童中心の教育が叫ばれるよ うになった。大正7年には、全教育段階での教育制度が完成し、大正デモクラシーが風靡し、自由教育運動 が興り全国各地で新しい教育実践が試みられた。26)

一般庶民の中でも貧困層、弱者と言える代表的な存在が農民である。身分制度が無くなったとは言って も実は農家出身の人はまだ学校に行ってない場合が多く、行っても小学校までなど、大正になっても中学校 に行ける人は少なかった時代である。その当時は色々な面で苦労が多かった時代であったので、それを作品 の中の別当という人物を通して感じることができる。上下階級構造の中にいる別当が書いた作品の最初の部 分のはがきによって当時の教育水準が見られる。

おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

かねた一郎さま 九月十九日

あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。

あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。とびどぐもたないでくなさい。

山ねこ 拝

こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらゐでした。27)

山猫の名前で出した別当の手書きのはがきである。上手に書きたい学習意欲がある別当は耳まで真っ赤に なって自分が書いたのを一郎に告白する。別当としては学力に劣等感を持っており、自分が書いたはがきに 対して自信がないのを明らかにしている。

米田利昭ははがきで拝という謙譲語が使われたことは、一郎を喜ばした部分であり、山猫と結びつける きっかけを作り、親しみを感じさせる役割をした。一郎のきれいな標準語と別当の方言の対比がポイントで あると見て、この物語の言語空間を形成し飛翔させたのが拝であると解釈する。28)

本稿では、はがきの内容から“あなたは”のように直接には使わない部分、“おいでなさい”のように命令形を使 い、また、“けっこです”、“めんどなさいばん”のように適切な表現を選べない文章力から教養不足が見られる。

このはがきを書いた別当は外面からも弱者で、ぞんざいに扱われる下級労働者で高等教育をうけなかった 落ちこぼれとして設定してある。経済的に貧乏で、教育的には落伍者、外貌も醜い社会的弱者である。はが きが上手に書けない別当は賢治の作品でよく登場する弱い立場の存在である。賢治の作品の主人公は弱い物 の味方になる傾向が強い。この作品では、別当の味方になっている人物が一郎である。一郎にはがきが来た ことが、日常生活から非日常空間のファンタジーの世界に行けるきっかけになる。無邪気に喜んで一郎は別

26) 松本芳子, 「近代における島根県下の教育について–大正時代を中心に–」, 뺷仏教大学大学院紀要뺸 33, 仏教大学, 2005.3, pp.167-178.

27) 뺷教本宮沢賢治全集뺸第十二卷 本文篇, 筑摩書房, 1995, p.9.

28) 米田利昭, <山ねこ 拝>の読賢治と言葉–」, Japanese Literature35: 10, Japanese Literature Association, 1986.

10.10, pp.80-86.

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当が書いた山猫の招待状に応じる。

どんぐりは発言権を持ち社会の舞台で活躍しているが、別当には発言権がなく、社会の舞台に入り込んでい ない存在と言える。農民の中にも経済的な差はあるが、別当はその当時の貧農の立場で描かれている。彼らは 生活が大変で、食べるために一日を使い、労働で一日が終わる。教育水準も低く、上の人にひたすら従わなく ては収入の道がない立場である。それに比べ、どんぐりは自分の意見が堂々と言える立場であり、教師、商人 のような存在であると推測できる。農民の厳しい現実、生活環境の過酷さを別当を通して表している。

山猫が変更したはがきの内容を一郎が良しとせず、上手とは言えないはがきを書いた別当の肩を持つとこ ろから、別当のように教育が不十分でもこれから未来が広がる可能性があることを読者に感じさせているの ではないだろうか。

Ⅴ.おわりに

賢治の第一の関心事は農民のことである。この作品の中でその農民を代表的に表わしている人物として別 当が挙げられる。別当から感じられるその当時の教育状況は、まだ平等と人権が細部に徹底していない時代 であったことが推測される。

山猫と別当の関係から見られるように、現代の雇用関係とは違い、その当時の雇用人は不当な扱いを受 けるような関係が残っていた時代である。別当は自分の権利がないので、完全な弱者で、上の人の言うこと を聞くしかなく、命令に従うしかない。現代は経済システムと人権は別のものであるが、当時は人権に対す る認識が低かった時代であったことが分かる。権力者の立場である山猫と下級階級である別当を通してその 当時の階級社会の風刺にも繋がっている。

一郎は最初のはがきが来たときから、別当に好意をもっていたことがわかる。どんぐりとは違う視点で、

賢治が一郎の姿を借りて別当を通し、社会風刺をしたいことが読みとれる。別当とどんぐりの関わりは作品 の中で登場しない。その理由としてどんぐりの場合は社会で活動しているので社会の枠の中にいる一郎と同 じ立場であると思われる。社会活動の枠に入る立場として一郎とどんぐりは同じ系列である。

最後に一郎はくだらないことに時間をかけて、みんな自分が偉いと言いながら競争し、無駄に争っている ことに対して、そうではなく一番偉くない人が一番偉いという結論を出している。表面から見られる部分で はなく、宗教的な価値観による内面的なところに価値があると言っているようにも解釈できる。争っている 市民はみんな自己中心的なので、自分の利益を中心にして争っていると感じ、それではいつまでも争いが終 わらず、そのような価値観では発展がないため、賢治は不毛な争いではなく生産的で建設的な在り方と共に 自由と平等な社会を模索したかったのではないだろうか。

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<参考文献>

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<関連資料>

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藤井義博, 「宮沢賢治뺷どんぐりと山猫뺸のすきとおったたべもの」, 뺷藤女子大学人間生活学部紀要뺸 52, 藤 女子大学, 2015.3.

* 이 논문은 2016년 8월 26일에 투고되어,

2016년 9월 9일까지 편집위원회에서 심사위원을 선정하고, 2016년 9월 27일까지 심사위원이 심사하고,

2016년 10월 4일 편집위원회에서 게재가 결정되었음.

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❙국문초록❙

뺷도토리와 산고양이뺸와 대정시대

박 경 연*

본고는 대정시대에 쓰여진 미야자와켄지의 동화 뺷도토리와 산고양이뺸를 통해서 등장인물을 4단계로 구분 하여 분석하고, 등장인물들간의 관계도를 통하여 대정시대의 지배계급과 피지배계급이 존재하는 사회적 구 조, 이에 따르는 사회적 위치, 교육환경, 사회상, 작가의 작품속 의도 등을 연구한다.

명치유신 이후 외적으로는 만민평등을 외쳤으나 내적으로는 시민의 지위도 인권도 교육면에서도 출발점에 지나지 않았다. 그러한 경향은 대정시대의 다양한 국내상황과 국제관계의 변화를 통하여 교육제도의 변화와 함께 유지되고 있었다.

명치시대의 학제는 국민제교육이 점차 국가중심의 국민양성교육으로 변용해 간 시기였다면 대정시대는 제 1차세계대전, 대전후 국제적 사회사상의 영향으로 자유주의사상의 유입, 교육면에서도 학교교육에서 아동중 심의 교육이 중요시되었다. 대정7년에는 전교육단계에서 교육제도의 완성과 자유교육운동이 전국각지에서 새로운 교육실천으로 시도되었다.

켄지의 제일의 관심사는 농민이었고 이 작품을 통하여 농민을 대변하고 있는 인물로서 마부 벳토를 조명 하였다. 이치로가 벳토에게 보이는 관심은 이에 기인한다고 보았고, 벳토라는 인물을 통하여 그 당시의 시대 상, 교육환경도 추측할 수 있었다. 산고양이와 벳토의 관계에서 당시의 고용관계, 상하계급사회와 빈부의 차 를 볼 수 있고, 그 시대의 사회풍자의 각도에서 해석하였다.

산고양이와 벳토의 관계에서 이치로의 등장은 다양한 시각에서 그 당시의 사회상과 작가 켄지의 사상을 엿볼 수 있다. 도토리들의 경쟁구도는 이치로의 최후판결을 통하여 자기중심의 경쟁구도에 일침을 가하고 자 기중심의 가치관에서 벗어나게 하려는 작가의 의도라는 점에 주목하였다.

[주제어] 미야자와켄지, 대정시대, 교육, 계층사회, 사회풍자

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❙Abstract❙

뺷Acorns and Wildcats뺸 and the Taisho Period

29)Park, Kyoungyeon*

Through the various relations among the characters of the fairy tale 뺷Acorns and Wildcats뺸 written by Kenji Miyazawa, this study investigates the social structure where the ruling class and the ruled class exist, and its consequent social status, education environment, social aspects and the writer’s intent of the work, by dividing and analyzing the characters of the story into four groups.

After the Meiji Restoration, Japan, internally, was merely at the starting point for citizen status, human rights, and education while the country, externally, cried for the equality for all. This tendency continued in the education system throughout various mal-administrations of the Taisho Period and the transformative international relations.

While the school system in the Meiji Period was continuously transformed from “educating all people” to the state-centered “training citizens,” the Taisho Period was influenced by the liberalism, an international way of thought after the First World War, and its education system took a very serious view of the child education. In the 7th year of the Taisho Period, the country tried to complete the education system throughout the whole stages and the liberal education movement swept across the country.

Kenji was primarily concerned about peasants and in this story he focused on the horseman Betto as a persona representative of the peasants. The affection Ichiro showered on Betto was taken to arise from this fact and the phases of the times and the education environment could be speculated. From the relation between Betto and the Wildcat, the employment relation, the hierarchy, and the gap between the rich and the poor of the time were revealed and it is interpreted from the perspective of a satire on the period.

From various perspectives, the appearance of Ichiro into the relationship between the wild cat and Betto reveals the phases of the times and Kenji’s idea. Through Ichiro’s final judgement, the competition among acorns admonishes on the self-centered competition, which is noticeable as this is the writer’s intention of persuading people to stay away from the self-centered values.

[Key Words] Kenji Miyazawa, Taisho period, education, hierarchical society, social satire

* Non-tenure Track Assistant Professor, Dankook University

Referensi

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