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著者
松田 利彦
雑誌名
日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚
巻
30
ページ
213-235
発行年
2008-01-31
その他のタイトル
Chosen sotokufu hisho kacho to "Bunka seiji":
Moriya Eifu nikki o yomu
一守屋栄夫 日記 を読 む
松 田 利 彦 国際 日本文化研究 センター は じ め に !924年 秋 、朝 鮮 官 界 に奇 妙 な噂 が 流 れ た 。 この 年9.月 に二 人 の総 督 府 官 僚 が 辞 任 した の は斎 藤 実 朝 鮮 総 督 の辞 任 の前 触 れ で は な いか とい うの で あ る。一 人 は1919年 に警 務 局 事 務 官 と し て朝 鮮 に赴 任 し22年 に警;務局 長 に 昇任 した丸 山 鶴 吉 、 も う一 人 は 同 じ19年 に朝 鮮 も りや コえい ふ 総 督 府 秘 書 課 長 とな り後 に総 督 府 庶 務 部 長 もつ とめ た 守 屋 栄 夫 で あ る。 斎藤 総 督 離 任 の憶 測 を 打 ち消 す た め に、 総 督 府 で はわ ざわ ざ下 岡 忠 治 政 務 総 監 が 新 聞 紙 上 に 談話 を 発 表 し、 「斎 藤 総 督 が 一 、 二 属 僚 の 異 動 に よ っ て其 の進 退 を 左 右 せ ら る ・様 な事 が あ っ て何 うな る も のか 」 と述 べ て い る(r京 城 日報 』24・9・18夕刊)。 風 評 に過 ぎな か った とは い え、 守屋 は 、 そ の進 退 が 総 督 の地 位 も動 か しか ね ない 大物 官 僚 の一 人 と 目され て い た の で あ る。 本 稿 は、 この 守屋 栄 夫(1884∼1973年)に つ い て、そ の 日記 を通 じて朝 鮮 総 督 府秘 書 課 長 時 代 の思 想 や 政 治 行 動 を 跡 づ け、1920年 代初;期の総 督 府 の 官 僚構i造や高 級 官 僚 の 思想 ・ 行 動 や 影 響 力 を考 え る ケー ス ス タ デ ィー と し よ うとす る も の で あ る。 さ て、 植 民 地 朝 鮮 最 大 の 抗 日独 立 運 動 た る 3・1運 動 の衝 撃 に対 処 す べ く、 斎 藤 総 督(第 一 次 総 督;期:1919年8.目 ∼27年12月 、 第 二 次 総 督 期:1929年8月 ∼31年6,月)の も と、 「文 化 政 治 」 と呼 ぼれ る新 た な意 匠 の支 配 政 策 が 展 開 され 、 政 治 宣 伝 の強 化 ・親 日勢 力 の育 成 保 護 利 用 ・参 政 権 問 題 を通 じた 「民 族 分 割 統 治 」 な ど が お こ なわ れ た こ と は、 姜 東 鎮 氏 の古 典 的 研 究 を は じ め少 なか らぬ 研 究 に よ っ て論 じ られ て き た1。これ ま で の研 究 で特 に守 屋 栄 夫 を 論 じた 専 論 は 見 あた ら な いが 、 そ の名 前 は 「文 化 政 治 」 研 究 の 中 で は し ば し ば言 及 され て きた 。 また 、 そ の経 歴 か ら も こ の時 期 の朝 鮮 支 配 政 策 の遂 行 守 屋 栄 夫(1925年 、40歳) 1姜 東 鎮 『日本 の朝 鮮 支 配 政 策 史 研 究1920年 代 を中 心 と して』(東 京 大 学 出 版 会 、1979年)。上 の重 要 人 物 だ った こ とは間 違 い な い。 守 屋 は、宮 城 県 古 川 に 生 まれ1910年 東 京 帝 国大 学 法 律 学 科 を 卒 業 、同年 高 等 文 官 試 験 に 合 格 した 後 、 内務 省 に入 省 し千 葉 県 理 事 官(1913∼16年)、 愛 知 県 理 事 官(16∼17年)、 内務 省 監 察 官(17∼19年)な どを歴 任 した 。1919年8月 、3・1運 動 後 の 朝 鮮 総 督 府 官 制 の 改革 に と もない 、 朝 鮮 総 督 府 総 督 官 房秘 書課 長(兼 参 事 官)と して 赴 任 し、23年1∼12 ,月に は 欧 米 に出 張 して も い る。 さ らに1922年10月 か ら24年9月 ま で は総 督 府 庶 務 部 長 をつ とめた2。 守 屋 に は ま とま った 伝 記 類 が な く朝 鮮 在 任 期 間 中 に発 表 した 文 章 に も朝 鮮 統 治 政 策 に関 わ る も の は必 ず しも多 くは ない が 、 本 稿 で は 、最 近 筆 者 が入 手 した 守 屋 栄 夫 の 日記(以 下 r日 記 』 と略記 し、1919年3 ,月15日 の条 をr日 記 』19・3・15の よ うに表 記 す る)を 用 い て 研 究 材 料 の不 足 を補 う3。守 屋 は、 日記 を古 川 中 学 校 を 卒 業 して 以来 「二十 年 以 来 一 日 も か ・さず に書 きつ烽ッ た 」4とい い 、朝 鮮 時 代 の 日記 も休 む こ とな く一 日一 頁 の 割 合 で 市 販 の当 用 日記 に丹 念 に 綴 られ て い る。 こ うした 『日記 』 か らは 厂文 化 政 治 」 の裏 面 で 、人事 ・ 総 督 府 の機 密 費 ・親 日派 の 利 用 な どで采 配 を ふ る った 守 屋 の活 動 とそ れ を 支,xた 人 的 ネ ッ ト ワー クを あ る程 度 再 現 す る こ とが 可能 で あ る。 た だ し本 来 な らぽ 、 守屋 家 旧蔵 史 料 の 朝 鮮 赴 任 時 代 以 前 ・以 後 の 日記 や 守 屋 宛 書簡 な ど とあ わ せ て分 析 す べ きだ が、 これ らは 現 在 整 理 中 で あ り(注3参 照)、本論 で は朝 鮮 時 代 の 日記 に 沿 った 紹 介 に と どめ た。 後 日の 補 完 を 期 した い 。 第1章 守 屋 の 朝 鮮 赴 任 と 厂水 野 人 事 」 まず 、 守 屋 が 朝 鮮 総 督 府秘 書 課 長 とし て1919年9月 に朝 鮮 に赴 任 す る前 後 の事 情 を見 よ う。 1919年3,月 、 朝 鮮 で3・1独 立 運 動 が 起 こった と き内 務 省 監 察 官 守 屋 は シベ リア で 同地 の 内政 調 査 を して いた 。 それ ま で、守 屋 は 「内 地 」(以 下 、括 弧 を省 略 す る)の 地 方 官 僚 を つ とめ朝 鮮 ・朝 鮮 人 問 題 に ほ とん ど関 わ りを もた な か っ た と思 われ る が、 シベ リア で は初 2「 内地 」 に帰 任 して以 降 の守 屋 の経 歴 は以 下 の 通 りで あ る。 24∼28年 内務 社 会 局社 会 部長 を つ とめ る。 25年 国際 労 働 会 議 に政 府 代 表 と して ス イ スに 派 遣 され る。 28年 衆 議 院 議 員 に 当選 。 大 日本 昭 和 連 盟 を結 成 す る。 42∼46年 塩 竃 名 誉 市 長 を つ とめ る。 46年 公 職 追 放 。 52年 衆 議 院 議 員 総 選 挙 に宮 城 県 第 一 区 か ら出 馬 す る も落 選 。 32006年3月 、栄 夫 の 孫 に 当 た る守 屋 孝彦 氏 が1910年 か ら55年 執 筆 分 の 日記 を も とに、栄 夫 の事 績 を 整 理 した 私 家 版 『守 屋 栄 夫 日記 』 を 刊 行 され 、 守 屋 栄 夫 の 日記 の存 在 が 明 らか に な った 。 筆 者 は 、孝 彦 氏 の ご好 意 に よ り朝 鮮 赴 任 時 代 を カ バ ー す る1919∼24年 分 の 日記 の 複 製 本 を 入 手 す る こ とが で きた 。 た だ し、1923年 分 は ない 。 守 屋 栄 夫 が こ の年 欧 米 視 察 に赴 い た 際 、9月 に パ リで 日記 を 紛 失 して しま った こ とに よ る(守 屋 『欧 米 の 旅 よ り』 蘆 田書 店 、1925年 、635∼637頁)。 守 屋 家 に旧 蔵 され て い た朝 鮮 赴 任 時 代 を含 む 約70冊 の 日記 お よび 守 屋 宛 の書 簡 な どは現 在 国 文 学 研 究 資料 館 で整 理 中 で あ る。 4守 屋 、前 掲 『欧米 の旅 よ り』636頁 。
守屋栄夫 日記 め て 朝 鮮 人 の独 立 運 動 を 目の当 た りに し 「殊 に奇 異 な るは民 族 自決 の潮 風 に あ ほ られ て朝 鮮 人 の軽 挙 妄 動 し」 てい る こ とだ と記 して い る(r日 記 』3・15)。 しか し 「軽 挙 妄 動 」 と見 た も の の容 易 な らぬ事 態 で あ る こ とも察 した のだ ろ う。 シベ リア か らの帰 途 、 予 定 を変 更 して 朝 鮮 を訪 れ 、 平 壌 で は 「本 日は大 挙 運 動 を 開始 す との流 言 あ り、 兵 士 、 巡 査 等 の警 戒 厳 な りを知 る」(r日 記 』3・28)、京 城 で は 「朝 鮮 人 の示 威 運 動 い まだ に治 ま らず 風 聞頻 々人 心 動 揺 しつ 丶あ り」(同3・29)等 と記 して い る。 3・1運 動 が非 暴 力 示 威 運 動 の 段 階 か ら実 力 行 使 段 階 へ と移 行 して い っ た と され る3月 末 、 朝 鮮 の治 安 状 況 を間 近 に見 て、 朝 鮮 統 治 の お か れ た厳 しい状 況 を実 感 した のだ った 。 しか し、 この時 点 で は、 自分 が 朝 鮮 統 治 に参 画 す る とは よ もや 思 って い な か った 。 日本 帰 国 後 、 守 屋 は 内務 省 内 の事 務 整 理 委 員 主 査 を命 じ られ 、 各 局 の事 務 整 理 関 係 事 項 の調 査 に没 頭 した り、 第 一 次 世 界 大 戦 後 にお け る俸 給 生 活 者 の生 活 困窮 の実 態 調 査 のた め に各 地 を視 察 した り した。 な お 、 後年 の 回 顧 で は、 同 年(1919年)5月22日 に 盛 岡 に 向 か う汽 車 の中 で、 内務 省 入省 当初 か らほ ぼ10年 間 薫 陶 を受 け て きた5大 御 所 ・水 野 錬 太 郎 前 内相 と同乗 し、「先 生[水 野]の や うな 国家 の大 人物 が 御 出 に な って 、朝 鮮 統 治 のた め に御 盡 し な さ らな けれ ば、 朝 鮮 の現 状 を打 破 し、 民 心 を収 攬 して行 くこ とは 困難 」 だ と熱 心 に説 い 51910年7J月 、東 京 帝 国大 学 卒 業 に際 し て 内務 省 へ の就 職 を 依 頼 す る た め に水 野(当 時 は 内務 大 臣 秘 書 官 兼 内務 省参 事 官)に 面 会 した のが 、 水野 との最 初 の 出 会 い だ と思 われ る(守 屋 孝 彦 、 前 掲 『守 屋 栄 夫 日記 』3頁)。
た とい う6。 この後 、6月 、 原 敬 首 相 は新 総 督 に斎 藤 実 、 新 政 務 総 監 に 水 野錬 太郎 を 起 用 した が、武 官 総 督 の も と権 限 を 掣 肘 され る こ とを嫌 った 水 野 は人 事 権 一 任 の約 束 を 原 か ら取 りつ け て 就 任 を承 諾 した7。 守 屋 が 注 目 して いた 水 野 が現 実 に政 務 総 監 とな った の で あ る。 8月 、水 野 が 政 務 総 監 に 内定 した との 記 事 が新 聞 紙 上 に あ らわれ る と、守 屋 は 「予 は勿 論 多 数 地 方 官 の 中 に朝 鮮行 の 白羽 の矢 が 立 」 つ ので は ない か と直 感 した(r日 記 』19・8・6)。 案 の定 、8月7日 、 水 野 邸 を訪 れ た 守 屋 は 、 水 野 か ら 「是 非 一 緒 に仕 事 を して 呉 れ と依 頼 され 」(r日 記 』8・7)、 い った ん は固 辞 した もの の、 再 度 水 野 か ら 「真 先 の交 渉 な れ ぽ是 非 承 諾 せ よ」 と迫 られ、 つ い に朝 鮮行 きを承 諾 した(同8・10)。12日 に は 朝 鮮 総 督 秘 書 官 兼 参 事 官 の辞 令 を受 け て い る。 守屋 は、 水 野 か ら 「余 ノ内務 大 臣 タ リシ トキ[1918年4∼9,月]余 ノ政 策 二 関 シ最 モカ ヲ致 シタ ルー 人 」8と して高 い 信 頼 を 受 け、「真 先 」 に朝 鮮 行 きを 指 名 され た幕 僚 とな った の だ った。 そ して、 守 屋 は、 総 督 秘 書 課 長 就 任 直 後 か ら、 水 野 の片腕 と して総 督 府新 幹 部 の 人 選 に大 き く関 わ る こ とに な る。8月11日 に は 水 野 邸 にて 警務 局長 に 内 定 して い た 野 口淳 吉(警 視 庁 警 務 課 長)を 交 え警 務 局 員 の 人 選 を 行 うこ とと し、 以 後、 野 口 と と もに 警 察 部 門 の人 選 を進 めた 。13日 以 降 に は、内 務 局 長 候 補 の赤 池 濃(静 岡 県知 事)と も相 談 を 重 ね た 。 さ らに18日 に は、 殖産 局長 候 補 の西 村 保 吉(埼 玉 県知 事)・ 庶 務 部 長 候 補 の青 木戒 三 (総督 府農商 工 部 事 務 官)・ 鉄 道 部 長候 補 の和 田一 郎(総 督 府度 支 部 理 財 課 事 務 官)な ど主 要 局 部 長 か ら の就 任 の承 諾 を 取 りつ け た(r日 記 』8・11∼8・19)。 こ の とき のい わ ゆ る 「水 野 人 事」 は、 朝 鮮 に前 例 の な い 大量 の 内務 官 僚 を導 入 す る こ と に な った9。8月 中 に任 命 され た者 だ け で もそ の数 は約30名 に及 ぶ 。 表1に み る よ うに そ の多 くの 就 任 交 渉 に 守屋 が 関 わ っ て いた が、 抜 擢 され た の は主 に地 方 の知 事 ・理 事 官 を務 め て い た 内 務 省 官 僚 で あ り、若 干 の総 督 府 生 え抜 き官 僚 も混 じっ てい た 。 第2章 秘 書 課 長 時 代 に お け る 守 屋 の 人 脈 1919年8月 以 降 、水野 政 務 総 監 一 守 屋 秘 書 課 長 を主 軸 に してす す め られ た 内 務 官 僚 の導 入 は、 官僚 組 織 と して の朝 鮮 総 督 府 を再 編 す る契 機 とな った 。 人 事 権 を もつ 政 務 総 監 の政 治 的地 位 が武 断政 治 期 の総 督 一 政 務 総 監 に比 し相 対 的 に上 昇 した こ と、 水 野 政 務 総 監 の率 い て きた 内務 省 出身 の幹 部 級 官 僚 が 政 策 決 定 過 程 に もつ 発 言 力 が 増 大 した こ と、政 務総:監 を 中心 に結 集 した 官 僚 集 団 を補 完 す るた め に斎 藤 総 督 の側 で は側 近(ブ レー ン)を 重 用 し 6「 朝 鮮 行 政 」 編輯 総 局 編r朝 鮮 統 治 秘 話 』(帝 国地 方 行 政 学 会 朝 鮮 支 部、!937年)31頁 。 な:おこ の 日 の 日記 に は 水 野 と 「四 方 山 話 」 を した と しか 書 か れ て い ない(『 日記 』19・5・23) 7こ の経 緯 の 詳 細 につ い て は 、 松 田 「日本 統 治下 の朝 鮮 に お け る警 察機 構 の 改編 憲 兵 警 察制 度 か ら普 通 警 察 制 度 へ の 転 換 を め ぐっ て」(r史 林 』 第74巻 第5号 、1991年9月)90∼93頁 、李 炯 植 「「文 化 統 治 」 初 期 に お け る朝 鮮 総:督府 官 僚 の統 治 構 想 」(『史 学 雑 誌 』 第115編 第4号 、2006 年4,月)72∼73頁 を参 照 せ よ。 8守 屋 栄 夫r平 凡 之 善 政』(帝 国地 方 行 政 学 会 、1920年)水 野 序 文 。 9松 田 、 前掲 論 文、91∼93頁 、 李 炯 植 、 前掲 論 文 、75∼77頁 。
表1水 野錬太郎 新政務総監に よる総督府幹部人事 就 任部 局 氏名 前職 文高試合格年 就任交渉者 警務 局長 野 口淳 吉 警視庁警務部長 1907 水野 警務局警務課長 白上佑吉 富山県警察部長 1910 赤池 警務局保安課長 ト部 正 一 山形県理 事官 1910 野 口 、守 屋 一. 警務局 高等警察課長 小林光政 警視庁 警務課長 1916 同上 警務局事務官 丸 山鶴吉 静岡県内務部長 1909 赤池 警務局事務官 藤原喜蔵 青森県理 事官 1914 同上 敬言 警務局事務官 田中武雄 長野県警 視 1915 一 察 系 統 警察官講習所長 京畿道第三部長 忠清北道道第三部長 忠 清南道第三部長 古 橋 卓 四 郎 千 葉 了 山 口安 憲 関71C武 愛知 県理 事官 秋 田県警 察部長 兵庫県理事官 茨城県理事官 1912 1908 1911 1912 一 水野 、野 臥 守 屋 野Q、 守 屋: 同上 内務 省 出 身 官 僚(「新 来 種 」) 全羅北道第三部長 全羅南道第三部長 松村松盛 山下謙一 福 岡県理事官 警視庁理事官 1913 19--同 上. 同 上 慶 尚北道第三部長 新庄 裕治郎 静 岡県理事宮 1910 同上 慶尚南道第三部長 八木林作 兵庫県理事官 1909 同 上 ・ 黄海 道第三部長 馬 野 精 一 富 山県理事官 1909 同上 江原道第三部長 石黒英彦 群馬県視学官 1910 同上 警 総督秘書官 守屋 栄夫 内務省参事官 1910 水野
暴
系 統 総督秘書官 内務局長 学務 局長 伊藤 武彦 赤 池濃 柴 田善三 郎 千葉県石原郡長 静岡県知事 大阪府内務部長 1914 1902 1905 一 水野 水野、赤汝 守屋 以 学務局宗教課 長 半井 清 石川県理事官 1913 水 野 、柴 田 外 殖:産局長 殖産 局事務官 西村保 吉 篠原英太 郎 埼玉県知事 大阪府学務課長 1911 1912 水 野、守屋 一 総督府生 え抜 き 総督官房庶務部長 青木戒三 総督府農商工:部事務官 守屋 官 僚(r旧 来 種 」)鉄 道 部 長 ゴ 和 田一 郎 総督府度支部理 財課事務 官 守屋 出典:r官 報 』19・8・21、9・3に あ が っ て い る総 督 府 赴 任 者 を 基 本 に、 丸 山 、 前 掲 『七 十 年 と ころ ど ころ 』54∼55頁 、 お よ び松 波、 前 掲r水 野 博 士 古 稀 記 念 論 策 と随 筆 』717頁 、 守 屋 栄 夫 『日 記 』も参 照 した 。 また 、赴任 時期 は や や後 だ が 一 般 に水 野 人 事 の 一 環 と見 な され て い た人 物(田 中 武 雄 と半 井 清 の2名)も 取 りあ げ た 。 各 人 物 の記 事 につ い て は 、 秦 郁 彦 編 『戦 前 期 日本官 僚 制 の 制 度 ・組 織 ・人 事 』(東 京 大 学 出版 会、1981年)お よ び前 掲 『朝 鮮 統 治 秘 話 』 な どに拠 っ た 。 注1:「 就 任 交 渉者 」 は そ の 人物 に対 して就 任 を 働 きか け た 主 な者 を 指 す 。 2:表 中 の網 が け部 分 は、 守屋 が就 任 交 渉 に 当 た った 人 物 を示 す。 た こ と、 大 量 に導 入 され た 内務 官 僚 は 当時 「新 来 種 」 と呼 ばれ3・1運 動 以前 か ら総 督 府 に 在 任 して い た 生 え抜 き官僚(r旧 来 種 」)と と もに総 督 府 内 に 二つ の 官 僚群 を形 成 した こ と な どは、1920年 代 、 特 に初 期 の総 督 府 権 力構 造 の特 徴 とな った10(図1参 照)。 10こ れ らの論 点 につ い て は、 松 田、 前 掲 論 文 、 同 「丸 山鶴 吉 の朝 鮮 独 立 運 動 認識 一 『文 化 政 治 』 期 の 植 民 地 警 察 官 僚 」(r朝 鮮 民族 運 動 史 研 究 』 第8号 、1992年4,月)、 李 炯 植 、 前 掲 論 文 、 姜 東 鎮 、 前 掲 書 な どを さ しあた り参 照 され た い。図11920年 代 初期 の朝 鮮 総 督 府 の権 力構 造(概 念 図) そ れ で は 、 こ の よ うな な か で 守 屋 の 占め た 位 置 は ど の よ うな も の だ った の か 。 『日記 』 中 の 「来 信 」 「発 信 」 「往 来 」 欄 を手 が か りに守 屋 の人 脈 を 検 討 して み よ う。 これ ら の欄 に は の べ約1万 名 の名 が記 さ れ て い るが、 家 族 ・親 族 関係 者11及 び 姓 の み しか わ か ら ない 者 を 除 くと、 の べ8117名 、実 人 数1645名 とな った 。 こ の うち職 業 や 経 歴 な どが 判 明 した 者 は、 表2の よ うに のべ5741名 、 実 人 数587名 と な った 。 この うち 日本 人 につ い て の 守 屋 の 人脈 を こ こで検 討 す る。 第一 に 、 「総 督 府 官 僚 」 の人 脈 を見 る と、 全体 と して のべ 人 数:では 水 野 錬 太 郎 政 務 総 監 及 び そ の配 下 の 内務 省 出身 官 僚(表2の ③)が 最 も多 い 。 水 野 錬 太 郎 政 務 総 監 との 面 会 お よび書 簡 のや り と りの 回数 は、 い ず れ も斎 藤 実 総 督 のほ ぼ 二 倍 にあ た る。 秘 書 課 長 守 屋 の 職 務 だ った 人 事 ・訓 示 類 の作 成 ・機 密 費 の管 理(次 章 で 後 述)の い ず れ に つ い て も政 務 総 監 が守 屋 を監 督 す る立 場 に お り、 水 野 と の関 係 こそ が 守 屋 の人 脈 の なか で 最 も太 い パ イ プ とな って い た こ とは 間 違 い な い12。さ らに水 野 の 配 下 に あ った 内務 省 出身 官 僚 と も交 流 関 係 は深 い。 赤 池 濃(警 務 局 長)、 西村 保 吉(殖 産 局 長)、 柴 田善 三 郎(学 務 局 長)の よ うな 局長 ク ラス、 伊 藤 武 彦(秘 書 官)、 今 野長 三 郎(秘 書 課属)、 斎 藤 喜 三 郎(秘 書 課 属)の よ うな秘 書 課 関 係 者 、 そ の他 、 松 村 松 盛(学 務 課 長)、 丸 山鶴 吉(警 務 局 事 務 官)、 菊 山 嘉 男 (会計 課 長)、 半 井 清(学 務 局 宗 教 課 長)ら 事 務 官 ・課 長 クラス の若 手 官 僚 が い る。 反 面 、 大 塚 常 三 郎 内 務 局 長 を 中 心 とす る生 え 抜 ぎ官 僚(表2の ②)と の 交 流 は 相 対 的 に 少 な い。 大 塚 自身 とは 書 簡3通 が 交 わ され てい るだ け で あ る。 大 塚 と守 屋 とは 実 務 的 な問 11家 族 関 係 者 中 に も、守 屋 和 郎(栄 夫 の弟 。 外 務 官 僚)、守 屋 徳 夫(栄 夫 の弟 。 朝 鮮 殖 産 銀 行 秘 書 課 長)や 成 田一 郎(栄 夫 の甥 。 内務 官 僚)な ど官 僚 、 朝 鮮 関 係 者 が い るが 、 公 務 で 書 信 を 出 した り 面 会 した りし てい た と は思 わ れ ない ので 除 外 して あ る。 12そ の 関 係 は 私 的 生 活 に も 及 び 、 水 野 万 寿 子(水 野 錬 太 郎 夫 人)か ら の書 簡 も多 い こ と(表2の ⑩)、 水 野 が 内 相 と な って 本 国 に 帰 任 した1922年6月 以 降 も、 体 調 が 優 れ ず 京 城 に 残 った 夫 人 の 世 話 を した こ と な どに そ れ は 現 れ て い る。
表2面 会 お よ び 書 簡 の や り と りに み る 朝 鮮 赴 任 期 の 守 屋 栄 夫 の 人 脈(1919年8月 ∼24 年9月) 分類項 目 人 数のべ 実人数 主要人物 の姓 名 日 本 人 総 督 府 官 僚 朝 鮮 総 督 ・政 務 総 監(①) 225 3 水 野 錬 太 郎(政 務 総 監 。 面 会59回 、 書 簡68通)、 斎藤 実(朝 鮮 総 督 。 面 会37回 、 書簡53通) 生 え 抜 き 官 僚 (r旧 来 種 」)(②) 529 85 渥 美 義 胤(殖 産 局 土 地 改 良課 属 。 面 会40回 、書 簡12通)、 伊 藤 正 慇(秘 書 課 属 。 面 会18回 、 書 簡21通)、 八 巻 春 衛(土 木 部 土 木 課 技 手 。 書 簡28通)、 加 藤 伝 作(殖 産 局 属 。 面 会12回 、 書 簡13 通) 内 務 省 出 身 官 僚 (「新 来 種 」)(③) 1350 68 伊藤 武 彦(秘 書 官 。 面 会18回 、 書 簡108通)、 今 野 長 三 郎(秘 書 課 長 。 面 会37回 、 書 簡61通)、 佐 々木 忠 右 衛 門(殖 産 局 試 補。 面 会7回 、 書 簡83通)、 赤 池 濃(警 務 局 長 。 面 会11回 、 書 簡50 通)、 松 村 松 盛(全 北 警 察 部 長 、 学 務 課 長 。 面 会22回 、 書 簡39 通)、 篠 原 英 太 郎(面 会36回 、 書 簡18通)、 武 井 秀 吉(平 北道 事 務 官。 面 会11回 、 書 簡43通)、 丸 山 鶴 吉(警 務 局 事 務 官 。 面 会 12回 、書 簡35通)、 斎藤 喜三 郎(秘 書 課 属。 面 会23回 、書 簡24 通)、 西 村 保 吉(殖 産 局 長 。 面 会8回 、書 簡36通)、 菊 山嘉 男(会 計 課 長 。 面 会23回 、書 簡19通)、 岡 崎 哲 郎(平 南 第 二 部長 。 面 会 19回 、 書 簡22通)、 安 武 直 夫(殖 産 局 事 務 官 。 面 会11回 、 書 簡 30通)、 半 井 清(学 務 局 宗 教 課 長 。 面 会14回 、書 簡26通)、 関 水 武(忠 南 事 務 官 。 面 会19回 、書簡18通)、 山 田一 隆(警 察 官 講 習 所 教 授 。 面 会27回 、 書 簡3通)、 竹 内 健 郎(警 務 局 高等 警 察 課 事 務 官 。 面 会18回 、 書 簡10通)、 柴 田 善 三 郎(学 務 局 長 。 面 会11 回、 書 簡13通)、 渡 辺豊 日子(内 務 局 第一 課 長 。 面 会4回 、 書 簡 19通)、 石 黒 英 彦(江 原 道 事 務 官 。 面 会11回 、書 簡12通)、 岩 切 彦 吉(土 木 課 属 。 面 会14回 、 書 簡9通)、 山下 謙 一(全 南 警 察 部 長 。 面 会8回 、 書 簡12通) そ の他 の総督府 官僚(④) 537 50 細 川 貞 之 丞(r朝吉(内 務 部 地 方 課土 木 課 長 。 面 会12回鮮 』 編 纂;雇。 面 会38回、書 簡36通)、 小 田内 通 敏、 書 簡134通)、 三 浦 斧 (中枢 院 編 集 課 嘱 託 。 面 会6回 、 書 簡32通)、 佐 々木 清 之 丞(道 視 学 兼 司 法 学 校 教 諭 。面 会9回 、 書 簡21通)、 阿 部 千 一(秘 書 課 事 務 官 。 面 会14回 、書 簡9通)、 和 久 安 行(江 原 平 康 普 通 学校 訓 導 。 面 会7回 、 書 簡16通)、 松 井 文 輔(秘 書 課 属 。 面 会13回 、 書 簡9通) 総督府官僚 小 計(⑤) 2641 206 本国内務官僚(⑥) 657 107 水 野錬 太 郎(内 務 大 臣。 面 会5回 、 書 簡34通)、 中 川 陸 司(内 務 省 監察 官 時 代 の守 屋 の部 下 。 面 会13回 、書 簡21通)、 松井 茂(警 察 講習 所 長 。面 会2回 、 書 簡27通)、 加 賀 谷 朝 蔵(警 察講 習所 教 授 。面 会5回 、書 簡23通)、 藤 岡長 和(和 歌 山 県知 事 。 面 会1回 、 書 簡23通)、 二 荒 芳 徳(静 岡 県 学 務 課 長 兼 社 寺 兵 事 課 長 。 面 会3 回、 書 簡17通) 言論 関係者(⑦) 206 20 宮 手 敬 治(京 城 日報 関 係者 か。 面 会46回 、書 簡43通)、 石 森 久 弥 (朝鮮 公 論 編 集 長 、 朝鮮 新 聞社 会 部 長 。 面会16回 、 書 簡26通)、 牧 山耕 蔵(朝 鮮 新 聞社 社 長 、 朝 鮮 公 論 社 長 、 衆 議 院 議 員 。 面 会8 回、 書 簡14通) 宗教 関係者(⑧) 78 6 山 本 忠 美(日 本 組 合 教 会 朝 鮮 伝道 部 副 主 任 。 面 会3回 、 書 簡26 通)、 小 峰 源 作(崇 神 人 組合 組 合 長 。面 会21回) 同郷 者 ・恩 師(⑨) 695 33 萱 場 今 朝 治(古 川 中 学 校 の恩 師。 面 会8回 、 書 簡84通)、 高 橋幸 之 進(詳 細 不 明。 面 会7回 、 書 簡63通)、 秋 山 研 亮(大 東 興 業 (株)代 表 。面 会14回 、書 簡40通)、 今 井 彦 三 郎(仙 台 第 一 高 等 学 校 教 諭 。 面 会23回 、 書 簡26通)、 大 内 俊 亮(白 石 高 等 女 学 校 校 長 、 後 に京 畿 道 公 立 司法 学 校 教 諭 。面 会2回 、 書 簡45通)、 吉 城 與 四 郎(大 東 興 業(株)。 面 会38回 、書 簡7通)、 氏 家 文 夫(実 業 家 。面 会7回 、 書簡33通)、 筧 克 彦(東 京 帝 国大 学 法 科 大学 教 授 、 守 屋 の恩 師。 面 会15回 、 書 簡22通)、 鈴 木 准 之 助(実 業 家。 面 会 7回 、 書 簡28通)、 萱 場 昌(面 会6回 、 書 簡27通)、 三 原 篤 治(元 古 川 中学 校 教 諭 。 面 会2回 、 書 簡29通)、 高 城 畦 造(詳 細 不 明 、22年2月 に府 尹 に 内定 す る も実 現 せ ず 。 面 会2回 、書 簡28 通)、 武 井 友 次 郎(詳 細 不 明 。 面 会9回 、 書 簡19通)、 菊 田辰 三 (詳細 不 明。 面 会8回 、 書 簡14通)、 千 葉 胤 次(実 業 家 。 面 会19 回 、 書 簡5通)
そ の 他(⑩) 544 29 水 野 万 寿 子(水 野 錬 太 郎 夫 人 。面 会16回 、 書 簡75通) 日本 人 小計 (⑪=⑤ ∼⑩ の和) 4821 401 朝 鮮 人 「旧 世 代 」 エ リ ー ト (12) 151 20 朴 重 陽(中 枢 院 参 議 、 黄 海 道 知 事 。 面 会10回 、 書 簡46通)、 金 潤 晶(全 羅 北 道 参 与 官 。 面 会16回 、 書 簡6通) 「新 世 代 」 エ リ ー ト (13) 273 35 金 基 善(内 務 部 第一 課 属 。 面 会22回 、 書 簡!8通)、 閔元 植(国 民 協 会 会長 。 面 会33回 、 書 簡5通)、 徐 奎 錫(忠 南 新 岩 面 長 。 面 会15回 、 書 簡14通)、 崔 晩 達(殖 産 局 農 務 課 属 。 面 会2回 、 書 簡27通)、 朴 鳳九(海 州 郡 書 記 。 面 会2回 、 書 簡21通)、 金 明溶 (国民 協 会 副会 長 。 面 会13回 、書 簡7通) 民族主義者(⑭) 31 5 そ の 他 ・不 明(⑮) 276 118 朝 鮮 人 小 計(⑯= 12+0+14+15) 731 178 欧米人(⑰) 189 8 バ ウ マ ン(詳 細 不 明 。面 会47回 、 書 簡50通)、 マ ケ ー(英 会 話 教 師 。 面 会67回 、 書 簡9通) 合 計(一 ⑪+⑯+⑰) 5741 587 出 典:守 屋 栄 夫r日 記 』1919年8,月13日 ∼1924年9,月12日 の 「面 会 」 「発 信」 「来 信 」 欄 よ り作 成 (ただ し1923年 分 のr日 記 』 は な い)。 注1:「 の べ 人数 」 「実 人 数 」 の数 字 は面 会 お よび 書簡 のや り と りの 回数 の合 計 で あ る。 2:原 則 と して 守屋 が面 会 し た り書 簡 を や り と り した とき の職 位 や 所 属 団体 を記 し てい る。 そ の た め 時 期 に よ って は 同一 人 物 で も別 の 分類 項 目に 入れ られ て い る こ とが あ る。 た と え ば 「主 要 人 物 の 姓 名」 欄 で、 水 野 錬 太 郎 の名 が 「総 督 ・政 務 総 監」 欄 に も 「本 国 内務 官 僚 」 欄 に も現 れ て い るの は、 水野 が総 督 府 政 務 総:監か ら内務 大 臣 に異 動 した こ とに よる。 3:二 つ 以 上 の 分 類 項 目に 同 時 に該 当 す る者 もあ るが(例 え ば 「総 督 府 官 僚 」 で あ りか つ 「同郷 者 」)、守屋 が もっ とも重 視 して い た と思 わ れ る属 性 の み を考 慮 し分 類 した。 した が って 、 ① ∼ ④ 、 ⑥ ∼⑩ 、⑫ ∼⑮ 、 ⑰ の各 分 類 項 目で 重 複 して カ ウ ン トされ て い る者 はい ない 。 4:「 主 要 人 物 の姓 名 」 に は面 会 お よ び 書簡 の や りと りの 回数 の合 計 数 が20を 超 え る者 につ い て、 数 字 の 大 きい者 か ら順 に摘 記 した。 題 で も摩 擦 が い くどか生 じて い る13。r日記 』 に よれ ぽ、大 邱 府尹 の不 正 事 件 の処 理 に守 屋 が 介 入 した とか、 郡 守 の人 選 に守 屋 が 大塚 を 介 入 さ せ な い こ とな どを め ぐっ て、 大 塚 が不 満 を抱 い て い る こ とが記 され て い る(r日 記 』20・1・15、9・13)。実 現 は し なか った が 、1920 年 末 に は 守 屋 は、 水 野 政 務 総 監 に書 簡 で 「内務 局 長 の 更迭 も考 究 せ ら る様 」 訴 えた こ と も あ った(『 日記 』20・12・4)14。 た だ し、 生 え抜 き官 僚 が全 体 と して 内務 省 系官 僚 に対 抗 す る政 治 勢 力 とな っ て いた とは 必 ず し もい い が た い。 総 督 官 僚 機 構 の上 層 部 を お もに 占 め た 内務 省 出身 者 に対 して、 生 え 抜 ぎ官僚 は 大塚 の よ うな局 長 ク ラス か ら地 方 官署 課 長 ・技 師 ク ラス あ るい はそ れ 以 下 の階 層 に 幅 広 く分布 して お り、 そ の少 な か らぬ 部 分 は 内務 省系 官 僚 の下 位 に お かれ てい た か ら で あ る。 前 掲表2に お い て、 交 流 が あ った 実人 数 で は 生 え抜 き官僚 は 内務 省 出身 官 僚 よ り む しろ 多 く、 かつ 内務 省 出身 官僚 の 場 合 の よ うな特 定 の人 物 に集 中 した交 流 関 係 が ほ とん 13内 務 省 系 官僚 と大 塚 の統 治 構 想 の 差異 を論 じた研 究 と して、 李 炯 植 、 前 掲 論 文 、 参 照 。 14守 屋 以 外 に も、内務 省 出身 官 僚 組 の 柴 田学 務 局長 と大 塚 内務 局長 との 「関係 が面 白 くない 」と の情 報 が 『日記 』 に は見 え る(『 日記 』20・6・28。これ は 、赤 池 警 務 局 長 か らの情 報 だ と され て い る)。
ど見 られ なか った こ とは 、 これ らの 生 え抜 ぎ官 僚 に対 し、 守 屋 が 上 司 と して公 務 に限 定 さ れ た 関 係 を結 ん で い た こ とを示 す もの で は な いだ ろ うか 。 第 二 に、 本 国 内務 省 の 官僚(表2の ⑥)を 検 討 した い 。 こ こで も水 野 錬 太 郎 が 最 多 で あ り、 水野 が 内相 とな っ て 以 降 もそ の深 い 関 係 が 続 い てい た こ とが わ か る。 そ れ 以 外 は 、基 本 的 に特 定 の人 物 に偏 らず広 く浅 い人 脈 を 形 成 して い た 。 とは い え 、 これ らの 人 脈 を 守屋 が軽 視 して いた わ け で は な い。 た とえ ば、1920年2 ,月に東 京 に 出 張 した 際 に は、「内務 官僚 少 壮 連 の会 合 」に丸 山鶴 吉 ・古 橋 卓 四 郎 ら内 務 省 出 身 の総 督 府官 僚 と出席 した が、 そ の場 に は 「田沢[義 鋪]、 次 田[大 二郎]、 横 山[助 成]、 祐 上[信 一]、 吉 村 、森本、正 力[松 太 郎]、 石井[宗 吉]、 三 辺[長 治]、 宮 本[貞 三 郎]」 らが 出席 し て お り、 参 会 者 み な で総 督 府 の赤 池 濃(警 務 局 長)と 関 水 武(忠 清 南 道 第 三 部 長)ら へ 寄 書 を送 っ て い る(r日 記 』 3・1)。翌 日に も、 松 井 茂 を 中 心 とす る会 合 に丸 山鶴 吉(警 務 局 事 務 官)・古 橋 卓 四 郎(警 察 官 講 習所 所 長)と と もに 参 加 して い るが 、 平 賀 周 、 佐 上 信 一 な ど内 務 省 少壮 官 僚 も参 加 し て お り、 こ こで も水 野 ・赤 池 ・西村 保 吉(殖 産 局 長)・ 石 黒 英 彦(江 原道 第三 部 長)ら 内務 省 出 身 の総 督 府 官僚 た ち へ寄 書 を送 っ て い る(r日 記 』3・2)。 さ ら に20日 に は 中 川 望 山 口 県 知 事 を 中心 とす る会 合 でや は り10名 ほ どの 内 務 官僚 と会食 を して い る(r日 記 』3・20)。 守 屋 は じめ 内務 省 出身 の総 督 府 高 級 官 僚 は 、 依 然 と して 内務 省 へ の帰 属 意 識 あ るい は 内務 官 僚 との一 体 感 が強 い こ とを読 み とれ る の で は な い か。 こ う した 内務 省 人 脈 は守 屋 の秘 書 官 と して の職 務 の一 つ だ った 人 事 にお い て も活 か され る こ とに な る(後 述)。 第 三 に在 朝 鮮 言 論 人(⑦)に つ い て 見 よ う。 宮 手 敬 治(京 城 日報 関 係 者 か)、 石 森 久 弥 (朝鮮 公 論 編 集 長 、 後 に朝 鮮 新 聞 社 会 部 長)ら 言 論 関係 者 の名 はr日 記 』 で は1920年 後半 頃 よ り増 え て くるが 、 彼 ら との 接 触 の 理 由 は さ ま ざ ま で あ る。 一 つ に は 、 守 屋 が 時 に新 聞 社 の 内 部 問 題 に 関 与 した こ とが あ げ られ る。1921年 初 め 総 督 府 御 用 紙 た る京 城 日報 で社 長 人 事 を め ぐる 内訌 が起 こ った 際 に守 屋 は仲 裁 に 介 入 した15。逆 に 、 総 督 府 に対 して攻 撃 を 行 ったr朝 鮮 新 聞 』 の社 長 ・牧 山耕 蔵 に対 して は 、 守屋 が 面 談 し圧 力 を か け て い る16。 ま た、 守 屋 が彼 らを 情報 源 と して利 用 した場 合 もあ った 。 交 流 の もっ とも 多 か った 宮 手 敬 治 の場 合 は、 地 方 の 治安 情 勢 不 穏 や斎 藤 総 督 の 宮 内 大 臣 転 出説 な どにつ い て情 報 を もた ら し て い る(r日 記 』21・9・19、24・1・24)。さ らに、後述の よ うに守屋 が総督府 の機密費 を管理 して いた 関係 で 「金 貰 い」 のた め に訪 れ る新 聞 雑誌 記 者 も多 か った17。 15京 城 日報 社 長 ・加 藤 房 蔵 が1921年 初 頭 に 辞 職 願 を 出 し た 際 、 後 任 人 事 が 紛 糾 し 、 結 局 、 前 読 売 新 聞 社 長 の 秋 月 左 都 夫 が 次 期 社 長 と な っ た 。 これ に つ い て は 、 森 山 茂 徳 「現 地 新 聞 と 総 督 政 治 一 『京 城 日 報 』 に つ い て 」(大 江 志 乃 夫 ・浅 田 喬 二 他 編 『岩 波 講 座 近 代 日 本 と植 民 地 』 第7巻 、 岩 波 書 店 、1993年)12∼13頁 参 照 。 『日記 』 で は 、21・1・25、2・1∼2・10 、4・8な ど に こ の 問 題 に 関 す る 記 事 が み え 、 そ の 後 も21・5・26、22・8・!1な ど で 京 城 日 報 社 の 内 情 に つ い て 記 さ れ て い る。 16牧 山 が 「政 務 総 監 の 悪 口」 を 書 い て い る と の 記 事 は 『日 記 』20・6・21 、9・18に み え る 。 「牧 山 制 御 」 に つ い て は 守 屋 以 外 に 総 督 府 警 務 局 や 他 の 言 論 人 を 巻 き 込 ん で 行 わ れ た 様 子 が、 『日 記 』21・ 5・7、5・9、7・!5∼7・19、11・22∼11・29な ど に 記 さ れ て い る。 17『 日記 』20・6・28。 そ の 他 、20・10・25、20・12・19、21・3・15、22・5・26な ど に こ う し た 金 銭 目 的 の 人 物 の 来 訪 が 記 さ れ て い る。
この ほ か、 守 屋 の 日本 人 人 脈 で 目につ くも の と して は、 同郷 の東 北 出身 の在 朝 日本 人 実 業 者 や 恩 師、 日本組 合 教 会 朝 鮮 伝 導 部 関 係 者 らが あ る が こ こで は省 略 す る。 第3章 朝 鮮 総 督 秘 書 官 と し て の 職 務 と 活 動 1920年7月 現 在 、 守 屋 を 課 長 とす る 朝 鮮 総 督 府 秘 書 課 に は 秘 書 官2名 、 通 訳 官3名 、 属 12名 な ど が 配 置 さ れ て い た 。 従 来 、 秘 書 課 そ の も の の 職 務 が 研 究 対 象 と さ れ た こ と が な か っ た が 、 秘 書 課 長 と し て 守 屋 は ど の よ う な 職 務 を 担 っ て い た の だ ろ う か18。 以 下 で は 、 特 にr日 記 』 で 頻 出 し て い る三 つ の 事 項 を 取 りあ げ た い19。 (1)人 事 秘 書 課 長 時 代 のr日 記 』 で も っ と も 目 に つ く の は 、秘 書 官 の 職 務(注18参 照)の うち 官 僚 の 人 事 に 関 す る 問 題 で あ る。 表3に は 、 守 屋 秘 書 課 長 の 関 与 し た 人 事 案 件 を ま と め て あ る 。 表 か ら 明 ら か に な る の は 、第 一 に 守 屋 が 広 い 範 囲 の 人 事 に 関 与 し て い た こ と で あ る 。総 督 府 本 府 の 局 長((1)(7)(16)(30)(38)(45)(50))・ 事 務 官((2)(21)(29)(35)(36)(41)(47))、 道 庁 の 知 事((1)(38)(50))・ 理 事 官((25)(42)(46))・ 事 務 官((3)(5)(14)(17)(34)(35) (38)(42)(50))あ る い は 府 尹((6)(18))な ど総 督 府 本 府 と地 方 官 署 の 高 級 官 僚 の ほ か 、 李 王 職((18)(49))や 中 枢 院((11)(47))の 人 事 に 関 わ る こ と も あ っ た 。 ま た 、 朝 鮮 人 官 僚 の 抜 擢 に も 少 な か ら ず 関 わ っ て お り、 参 与 官((33))・ 事 務 官 あ る い は 郡 守((4)(10) (24))を は じめ とす る 地 方 官 僚 の 人 事 に 采 配 を ふ る っ た 。 各 人 事 案 件 の 銓 衡 過 程 は 、そ れ ぞ れ の 部 局 の 長(各 局 長 な ど)か ら 候 補 者 を 提 示 す る 場 合 ま た は 部 局 の 長 と 守 屋 の 合 議 に よ っ て 候 補 者 が 選 考 さ れ る 場 合((3)(4)(9)(23)(25)(34)) 18「 朝 鮮 総 督 府 事 務 分 掌 規 定 」(1915年 訓 令 第26号)に よれ ぽ、 秘 書 課 の事 務 は以 下 の8つ とされ て い た 。 一 機 密 ノ文 書 及 電 信 二 関 ス ル事 項 二 官 吏 、 嘱 託 員 及 雇 員 ノ進 退 身分 二 関 ス ル 事項 三 王 族 公 族 及 朝 鮮貴 族 二 関 ス ル事 項 四 李 王 職 職 員 ノ進退 身 分 二 関 ス ル 事項 五 叙 位 叙 勲 二関 ス ル 事 項 六 褒 賞 二関 ス ル事 項 七 恩 給 及 遺 族 扶 助料 二関 ス ル事 項 八 特 命 二依 ル機 密 事 務 二 関 ス ル事 項。 19な お 、守 屋 は 秘 書 官 以 外 に も、各 種委 員 会 の委 員 と して も さ ま ざ ま な仕 事 を して い る。 た とえ ば 、 情 報 委 員 と して は 活動 写 真 を 通 じた 宣 伝方 法 の 研 究 に も力 を 入 れ て い る こ とが 『日記 』 中 に は見 え るが 、 本 稿 で は こ うした 活 動 は 省 略 し、 総 督 府在 任 中 に 就 任 した 委 員 の就 任 年 月 と委 員名 で 明 らか に し えた も のを 以 下 に あ げ て お くに と どめ る。 委 員 名 の後 ろの 括 弧 は 就 任 年 月 日を 表 す 。 普 通 試 験 委 員(1919年8月)、 公 立 学 校 職 員 恩 給 審 査 委 員(同9,月)、 在 外 指 定 学 校 職 員 恩 給審 査 委 員(同 前)、文 官 普 通 懲 戒 委 員(同 前)、 社 司 社 掌 試 験 委 員(同 前)、 李 王 職 職 員 懲 戒 委 員(同 前)、朝 鮮 貴 族 審 査 委 員(同 前)、朝 鮮 編 纂 委 員 会委 員(20年6月)、 古 蹟 調 査 委 員(同10月)、 朝 鮮 情 報 委 員 会 委 員(同12,月)、 臨 時 教 育 調 査委 員 会 幹 事(同 前)、旧 慣 及 制 度 調査 委 員 会 委 員(21 年6月)、 法 規 整 理 委 員 会 委 員(同8,月)、 産 業調 査 委 員 会 幹 事(同9月)、 中 央 衛 生 会 委 員(同 前)、 林 野 調査 委 員会 委 員(同9,月 。24年7月 に 再 任)、 行 政 整 理 委 員 会 委 員(22年7,月)、 行政 整 理 委 員 会 主 査 委 員(24年8月)。
表3守 屋秘書課長の 関わ った総督府 官僚 の人事 案件 年 ,月,日 対 象 と な った 部 局 ・職 位 人 事 案 件 につ い て の 『日記 』 の記 述 (1) 1919 9.14 道 知 事 、 本 府 内 務 局 長 赤 池 警 務 局 長 よ り、[平安 南 道 知 事]人 選 に つ い て 佐 藤 勧 は 落 選 し飯 尾 が当 選 した と電 話 連 絡 が 来 る。 内 務 局 長 ・道 知 事 の 更 迭 を 決 定 し拓 殖 局 へ 上 申 の手 続 き をす る。 → 古 賀 拓 殖 局 長 官 か ら知 事 更 迭 につ い て苦 情 が 来 た が い い 加 減 に 返 事 を す る (9.15)o (2) 9.26 本 国 内務 省 か らの 登 用 。本 府殖 産 局事 務 官 、 学 務 局 課 長 安 武[警 保 局 事 務 官 → 殖 産 局 事 務 官]、半 井[石 川 県理 事 官→ 学 務 局 宗 教 課 長]、 里 木 の採 用 を 上 申 す る。 (3) 9.27 道部長 赤 池 警 務 局 長 か ら京 畿 道 第 三 部 長 を 取 り替 え た し との相 談 が あ った が 見 合 わ せ るべ き との 意 見 で 丸 山 と も一 致 。 (4) 10.17 郡 守(朝 鮮 人) 大 塚 内 務 局長 よ り地 方 官 更 迭 に つ き申 出 を受 け る 。→ 新 郡 守 の候 補 者 を物 色 す るた め 官 房 各 部署 の朝 鮮 人 に会 うが いず れ も従 順 そ うで郡 守 に して も良 さ そ うな者 が あ る と の感 想 を持 つ(10.18)。 (5) 11.6 本 国 内務 省 か ら の登 用 。 道 部 長 第 一 部 長 以下 の人 選 を大 体 完 了す る。 → 小 橋 内務 次 官 に会 い 今 後 採 用 す べ き 内務 部 長 以下 につ い て懇 請 す る。 田中 に 内務 局 第 一 課 長 就 任 を慫 慂 す る(11.7)。 → 二 荒 に朝 鮮 行 きを 勧 め るが 確 答 を得 られ な い(11.13)→ 内務 省 と交 渉 して 第 一 部 長 以 下 の人 選 を決 定 す る 。片 岡文 理 ・松 井 ・渡 辺 ・井 野 ・菊 山 ・ 郡 ・久 留 島 ・安 藤 ・武 井 ・藤 原 ・児 玉 らを選 抜 す る(11.26)。 → 第 一 部 長 以 下 の 任 免 を 上 申す る(11 .27)。 → 松 井 義 一 と 井 野 次 郎 は家 庭 の事 情 に よ り採 用 免 除 の希 望 を 申 越 して きた の で 小 橋 次 官 と も相 談 しこれ を許 し佐 藤 七 太 郎 と渡辺 豊 日子 を 採 用 す る こ と とす る 。渡 辺 ・菊 山 は採 用 しな い こ とに す る (11.28)a (6) 12.1 府尹 府 尹 更 迭 の件 は 総 督 よ り異 議 な き 旨返 電 を 受 け る。 → 府尹 の 更 迭 は 金 谷 を 島 山 へ 、 斎 藤 を 京 城 に 配 置す る こ とに変 更 と電 報 を 受 け る(12.8)0 (7) 12.1 本府法務 局長 法 務 局 長 後 任 に 横 田 を 採 用 す る件 に つ い て は政 務 総 監 よ り横 田 に 懇 談 す る。 (s) 12.1 本府所属官署 官業模 範場 ・工業試験所所 長 勧 業 試 験 場長 に橋 本北 五 郎 教 授、 工 業 試 験 所 長 に三 山喜 三 郎 を採 用 す る件 に つ い て進 達 方 を取 り扱 う。 → 勧 業 模 範 場 技 師 橋 本 と工 業 試 験 技 師三 山 の任 命 が 官報 で発 表 され る。 人 事 の 大 半 は片 づ き残 るは坂 出技 師 の後 任 のみ とな る(12.8)。 (9) 1920 1.20 本府警務局 丸 山警務 局事務官 と古橋[警 察官講習所長]の 辞職問題を協 議 し古橋 に忠告す る 。 (lo) 2.3 郡 守(朝 鮮 人) 金 基 善 を郡 守 にす る件 は大 塚 内務 局 長 も異 議 な し。 (11) 2.3 中枢 院(朝 鮮 人) 金 漢 睦 を 中枢 院 副 賛 議 にす る こ とにす る。 (12) 3.11 本 国 か ら の登 用 重 信 。羽 生 ・千 葉 の二 敬 の朝 鮮 転 任 につ い て 佐 藤 七 太 郎[慶 北 第 一 部 長]へ 手 紙 を送 る。 (13) 3.11 本 国 か ら の登 用 萱 場 先 生 書 記 の転 任 につ い て渡 辺 忍 に手 紙 を 書 く。 (14) 3.16 道部長 第 二 部 長 以 下 の更 迭 につ い て河 内 山 財 務 局 長 と相談 。 (15) 3.26 不明 谷 □ と薦 田 の後 任 につ い て政 務 総 監 か ら電 報 が 来 る。 (16) 4.1 本府通信局長、総督 府医院長 逓 信 局 長 問 題 につ いて 秦 次 官 を、 病 院 長 問 題 に つ い て北 里柴三 郎 博 士 を 訪 問 す る。 (17) 6.1 道 部長 工 藤 威 北 第 一 部 長 が 関 東 庁 秘 書 官 に転 出、 佐 々木 志 賀 二 が衆 議 院 議 員 当 選 で 辞 職 、白上 祐 吉 が 洋 行 な どの人 事 案 件 が あ る。 → 第 一 、 第 二 部 長 の更 迭 は 自分 の 提 出 意見 通 り総 監 の決 裁 を 得 た(6.3)。 (18) 6.1 李 王職 事 務 官 、 府 尹 田 中 遷 が 李 長 官 の 気 に い らな い た め元 山府 尹 に転 出 させ る案 に つ い て 考 え る。 → 田 中 遷 の 後 任 は 国分 長 官 ・李 長 官 と も交 渉 し今 村 元 山 府 尹 にす る(6.5)。 → 国 分次 官 来 て今 村 靹 ・田中 遷 問題 に 関 し政 務 総 監 帰 任 まで延 期 した い と申 し越 す(6.8)。 → 李王 職 の 田 中事 務 官 か ら依願 免 職 の 出願 あれ ぽ更 迭 を 実 行 す るYl_とと し、 元 山 府尹 今 村鞆 を そ の後 任 とし二 三 府 尹 の異 動 も計 画す る(10.2)o
(19) 6.25 本府雇 雑 誌 『朝 鮮 』 の 雇 として 細 川 貞 之 丞 を 採 用 す る こ と に し本 人 に 電 報 す る。 (20) 7.3 殖産銀行理事 殖 産 銀 行 理 事 に つ い て は 政 務 総 監 よ りの 電 報 もあ り、 また 総 督 が 美 濃 部 と も相 談 した 結 果 有 賀 光 豊 を 昇 任 させ る こ とにす る 。 (21) 7.25 本府逓信局事務官 水 野 政 務 総 監 か ら 島 田を 勅 任 参 事 官 とす る こ と の可 否 を問 う 電 報 が 来 る。 総 督 は一 時 的 な ら可 との意 見 を 示 す 。→ 逓 信 局 長 か ら 島 田 を 参 事 官 に採 用 方 交 渉 が あ った が10月 の 更 迭 時 に 実 行 す る こ と に す る(8.20)。 (22) 8.20 司法関係 司 法 関 係 者 の 更 迭60名 の決 裁 を終 わ り上 申す る。 (23) 8.28 不 明 総督府官制改革 と同時 に朝鮮 に採用すべ き人員 につい て政務 総 監 と相 談 し、 退 庁 後 に丸 山 ・半 井 ・渡 辺 ・篠 原 と も相 談 す る 。 (24) 9.2 郡 守(朝 鮮 人) 国 境 地 帯 か ら侵 入 す る独 立 運 動 勢 力 に よ る黄 海 、 平 北 の郡 守 惨 殺 に対 抗 す るた め 親 日派 に よ り補 充 す る必 要 を 認 め 、 総 督 総 監 の承 認 を 受 け閔 元 植 の部 下 よ り採 用 す る こ とに す る。 (25) 10.11 道理事官 大塚 内務局長 と理事官 の候補者 について相談→局部長会議 で 道 理 事 官 の 増 設 が 問 題 とな る(12.26)。 (26) 10.18 本 国か ら の人 材 登 用 安行か ら朝鮮行 きの希望 を聞 き田中視学官に電報 して斡旋 を 依 頼 。 (27) 10.26 本 国 内務 省 か ら の人 内務 省 にて 小 橋 次 官 ・堀 田土 木 局 長 ・後 藤 秘 書 官 に 面 会 し、 材登用 新 し く採 用 す る大 野 ・大 場 の両 君 の交 渉 を し 内諾 を 得 る。 (28) 11.8 本 国内閣国勢院か ら 守屋、国勢院に阿部寿準第二部長を訪ねて菊池採用 の件 を依 の人 材 登 用 頼 し、 小 川 総 裁 帰 京 の上 決 定 す る こ と に な る(12.4)。 (29) 12.4 本 府 学 務 局 課 長 、 本 水 野 総 監 か ら来 た 人 事 の件 で総 督 と打 合 せ を す る。 弓削[学 府事務官(朝 鮮人) 務局学務課長]の 参事官就任 と劉猛[中 枢院賛議]の 勅任事 務 官 就 任 は 考 え 物 と思 う[実 現 せ ず]。 (30) 12.4 本府 内務局長 内務 局 長 の 更 迭 も考 究 せ ら る よ う水 野 に手 紙 を 書 く。 (31)1921 1.5 不 明 総督府官制改正 に伴 う人事異動 について大体 の案を作成す る 。→ 政 務 総 監 に官 制 改 革 に伴 う人 事 につ い て相 談 、 了 承 を得 る(1.6)。 (32) 1.11 本府秘書官 秘 書 官 の 自薦 運 動 を し て い る郡 義 雄 の件 につ い て 丸 山 警 務 局 事 務 官 と相 談 す る。 (33) 1.12 道参与官(朝 鮮人) 総 督 ・政 務 総 監 と参 与 官 人 事 につ い て相 談 す る。 柳 承 欽 ・石 鎮 衡 を 推 挙 す る こ とに な り政 務 総 監 が 打 診 す る こ と に な る。 → 柳 承 欽 ・石 鎮 衡 とも 大 体 承 認 と見 られ る(1 .13)。 → 石 鎮 衡 は 煮 え 切 らぬ 様 子 、 金 雨 英 は就 任 を 希 望 す る と申 し出 る (1,17)。 → 石 鎮 衡 は 参 与 官 を辞 退 し高 羲 駿 を推 薦 す る。 徐 俊 源(徐 奎 錫 の子)を 給 仕 に採 用 す る こ とに す る(1.19)。 → 石 鎮 衡 と谷 竜 之 助 の後 始 末 につ い て赤 池 ・丸 山 と相 談 の うえ石 の後 任 と して 李 芳 載 ・高 羲 駿 を 検 討 す る(1.20)。 → 石 鎮 衡 は 三 等 四 級 で 就 任 を 承 諾 す る(1,24)。 (34) 1.12 道部長 谷 竜 之 助 の 後 始 末 につ い て赤 池 ・丸 山 と相 談 の うえ 牛 島 ・桑 原 ・笹 井 を 平 北 第 一 部 長 候 補 とす る。 (35) 1.27 本 府 事 務 官 、 道 事 務 大 村 ・近 藤 に電 報 を し、 総 督 府 事 務 官 と道 事 務 官 を 補 充 す る 官 こ と に す る 。 (36) 2.12 本府殖産局課長 郡茂徳殖産局山林課長 は政務総監 ・殖産局長 とも相談 の結果 岡 崎 に代 え る。 (37) 4.9 中枢院 中 枢 院 の官 制 改 正 に と も な う人 事 の書 類 を 整 理 し政 務 総 監 か ら決 裁 を 受 け直 ち に拓 殖 局 に 申請 手 続 きを 行 う。 → 中 枢 院 の 官 制 と人 事 発 表 が 発 表 され るが 、 各 道 か らの 選 抜 者 銓 衡 につ い て 松 永 の と こ ろ で手 抜 か りが あ った(4.27)。 → 小 田幹 治 郎 が中枢院書記官専任 となった ので鵜沢憲採用 のため法制局長 官 に 手 紙 を 書 く(4.28)。 (38) 5.9 本 国 内 務 省 か らの 人 材 登 用 。 道 知 事 、 道 部 長 、 本 府 財 務 局 長 ママ 守 屋 、 威 南 の警 察 部 長 は土 井 通 次[土 居 通 次 。 内 務 官 僚]に 交 渉 す る こ とに し政 務 総 監 の 同意 を 得 る。 威 北 知 事 や 財 務 局 長 に 関 して も政 務 総 監 に意 見 を陳 述 。 → 藤 原 威 南 警 察 部 長 の 後 任 に竹 内 を 採 用 す る こ と に し政 務 総 監 の内 諾 を 得 る(6.1)。 → 赤 池 局 長 と威 南 警 察 部 長 人 事 につ い て 相 談(6 .6)。→ 威 北 の 上 水 ・全 北の 李 知 事 以下 の 更 迭 の 書類 が 決裁 さ れ る(7.14)。
(39) 5.19 東 洋拓殖株式会社 東 拓総 裁 と人 事 の相 談 を す る。 (40) 5.20 本 国 内務 省 か ら の人 警視庁 に御津を訪ねて警察部 長就任 を打診。 材登用 (41) 8.9 本府殖産局事務官 西 村 殖 産 局 長 が 山 林 調 査 会 の 副 事 務 官 に 田 中 次 郎 を 推 挙 す る。 → 殖 産 局 長 ・山 林 課 長 と打 合 せ た 結 果 田 中 に決 定 す る (8.10)o (42) 10.12 道 部 長 、 道 理 事 官 地 方 官 更 迭 の 成 案 が で き る。 安達 は朝 鮮 に来 な い よ うな の で 山 下 を忠 北 へ、 渡 辺 を 黄海 へ 、 吉 村 を海 事 課 長 に、 重 信 を全 南 警 察 部 長 に、 久 留 島 を忠 北 へ、 児 玉 を忠 南 財 務 部 長 へ まわ す 、そ の他 理 事 官 の更 迭 を合 わ せ て10数 名 の異 動 を行 う予 定 で あ る 。→ 地 方 官 更 迭 の上 申書 を発 送 す る(10 .13)。 (43) 12.12 不明 佐 々木 が東 亜 実 業 に転 ず る こ とに な り本 人 か ら長 文 電 報 が 来 る。 → 政 務 総 監 よ り佐 々木 の 後 任 に 沢 田 監 察 官 を 補 した き 意 見 の 申 し 出 が あ り、 総 督 と相 談 し支 障 な き 旨 を 返 電 す る (12.13)a (44) 12.14 本 国 か らの 人 材 登 用 東京帝 国大学法科大学学生 の中で朝鮮就職希望者 の人物 調べ を す る→26名 中11名 採 用 す る こ と と して 通 知 を 出 しそ の 他 は 高 文 試 験 後 と る こ とを 通 知 す る(12.15)。 (45) 6.12 本国大蔵省か らの人 有吉忠吉新政務総監 と大蔵省へ行 き朝鮮行 きの人材について 材 登 用 。 本 府 財務 局 交 渉 した が冨 田 は くれ ず 天 羽 を 推 挙 した の で 断 り和 田 を財 務 長 局 長 に 昇 任 させ る こ と に して 総 督 に 照 電 す る。 → 水 野 内相 も 同 意 す る(6.20)。 → 和 田参 事 官 が 財 務 局 長 とな った結 果 の 欠 員 の勅 任 参 事 官 の補 充 ・兼 任 勅 任 官 の選 抜 そ の 他 に と もな う 地 方 官 の異 動 につ い て 有 吉政 務 総監 の 同 意 を 得 る(8.11)。 (46) 8.11 道理事 官 理 事 官 補 佐 の一 部 を 高文 資 格 者 か ら一部 は特 別 任 用 者 よ り採 用 す る こ と にす る 。→地 方 官 制 改正 に伴 う理 事 官 の採 用 につ い て 上 局 の決 裁 を受 け、6名 は有 資 格 者 よ り他 は特 別 任 用 者 よ り採 用 す る こ と に す る(8.15)。 (47) 9.1 本府 外 事 課 長 、 宗 教 松 永 外 事 課 長 の 後 任 を生 田 と し島 田 は宗 教 課 長 とす る。 課長 (48) 9.9 本 国内務省 からの人 材登用 大 西 一 郎[香 川 県警 察 部 長 、 この後 総 督 官 房 庶 務 部 事 務 官 に就 任] と中 村寅 之助[兵 庫 県 理 事 官 、 この後 総 督 秘 書 官 に就 任]の 就 任 に つ い て 内務 省 の承 諾 を得 る 。 (49) 10.5 李王職次官 李 王 職 次 官 の候 補 者 が問 題 と な り有 吉 政 務 総 監 は 弓削[鉄 道 局 長]を 推 挙 した が 自分 は篠 田[平 安 南 道 知 事]を 推 挙 し、 結 局 物 別 れ に お わ る[ど ち ら も実 現 せ ず]。 (50) 10.13 本 国 内務 省 か ら の人 材 登 用 。 道 知 事 、 道 水 野 内相 よ り柴 田学 務 局 長 を を知 事 に採 用 し後 任 には 長 野幹 を 採 用 せ られた き 旨照 会 が あ り、 異 議 な し と返 電 す る 。→ 柴 部 長 、 本 府 学 務 局 長 田は 三 重 県知 事 とな り長 野 山 梨 県 知 事 が 学 務 局 長 と な り時 永 は 大 分 内 務 部 長 と な る(10.16)。 出 典:守 屋 栄 夫r日 記 』1919年9,月 ∼1921年10月(守 屋 の秘 書 課 長 就 任 期 間)よ り作 成 。 注1:「 年 」 「月 日」 は 当 該 人 事 案 件 が 最初 にr日 記 』 に現 れ た 年 月 日を表 し、 同 じ案件 が 以後 も継 続 して 『日記 』 に 現 れ る場合 に は 「人 事 案 件 につ い て の 『日記 』 の記 述」 欄 に 矢 印 を して経 過 を 記 し末 尾 の 括 弧 内 に 『日記 』 の 日付 を 付 した 。 2:「 対 象 とな っ た部 局 ・職 位 」 で は 、 本 国 か らの人 材 登 用 、 総 督 府 本 府 ・地 方機 関 の人 事 な どの 区 分 と職 位 を記 し、 また 朝鮮 人 につ い て の 人 事 案 件 で あ る こ とが 明 らか な 場合 は(朝 鮮 人)と 記 した 。 また、原 則 と して一 つ の部 局 に つ い て の人 事 案 件 を あ げ る こ とに した が、『日記 』 中で 複 数 の 案 件 が 関連 づ け られ て処 理 され て い る場 合 は この表 で もま とめ て記 した場 合 が あ る。 3:「 人事 案件 に つ い て の 『日記 』 の記 述 」 欄 中 、[]内 は 引 用者 が 日記 の記 述 に補 充 した 部 分 で あ る 。 と、守 屋 が 自 ら候 補 者 を 選 定 した と思 わ れ る 場 合((2)(5)(10)(11)(12)(13)(17)(18)(19) (24)(38)(40)(44)(48)(49))、 政 務 総 監 か ら候 補 者 を 提 示 し て く る場 合((20)(21)(29)(43) (49))な ど さ ま ざ ま で あ る が 、 い ず れ に せ よ 多 様 な か た ち で あ が っ て く る 人 事 案 件 の 多 く
が守 屋 秘 書 官 の手 許 を 経 る仕 組 み に な って い た こ と に、 人 事 にお け る守屋 の 重 要 性 を うか が え よ う。 第 二 に、 本 国 との関 係 の一 端 が うか が わ れ る。 上 記 の よ うな人 事 は 総 督 府 内 の 異 動 で 完 結 せ ず 、 本 国 との間 で人 材 のや りと りを す る場 合 も生 じた 。 本 国 か らの 官僚 の 導 入 は 、 先 述 の1919年8,月 の 水 野 人 事 を 頂 点 と し、 それ 以 後 も 内務 省 を 中 心 に 人 材 が 本 国 か ら移 入 され て い た こ と は少 な か らぬ事 例 で うか が え る((5)(12)(13)(26)(27)(28)(38)(40)(44) (45)(48)(50))。1919年11月 末 の 人 事((5))を 例 に と る と、 守屋 は 「内務 省 と交 渉 して 第 一 部 長 以 下 の人 選 を 決 定 せ り… … 片 岡文 理 氏 を 入 れ 松 村 、 渡 辺 、 井 野 、 菊 山 、 郡 、 久 留 島、 安 藤 、 武 井 、 藤 原 、 児 玉 の諸 氏 を簡 抜 す る こ と とせ り」20とされ 、 「松 村 義 一 君[法 制 局 第 一 課 長]と 井 野 次 郎 君 とよ り家 庭 の事 情 の 為 採 用 を免 除 され た き 旨申 越 せ し故 小 橋 次 官[小 橋 一 太 内務 次 官]と も相 談 の上 これ を許 し佐 藤 七 太 郎 君 と渡 辺 豊 日子 君 とに代 ふ」21 な ど内務 省 との密 接 な連 絡 の も とに 人事 を す す め て い る。 「文 化 政 治 」期初 期 に お け る官 僚 の陣 容 を 固 め る上 で守 屋 が 内務 省 と のパ イ プを 生 か しなが ら大 き な役 割 を 果 た した こ とが 見 て とれ る。 (2)訓 示 の作 成 つ い でr日 記 』 に多 く見 え る職 務 と して は 、 各 種 会 議 に お け る総 督 ・政 務 総 監 の 訓 示 の 作 成 を あ げ る こ とが で き る(表4、 参 照)。 守 屋 自身 の 草 稿 が ない た め 限 界 は あ るが 、 作 成 ・修 正 過 程 を検 討 して お こ う。 守 屋 が 総 督 ・政 務 総 監 の 訓示 の 作成 に 関 わ っ た 会 議 と して は 、道 知 事 会 議(表4の(3) (6)(8)(15))が も っ と も多 く、 郵 便 局 長 会 議((5)(10))・ 中枢 院 会 議((9))・ 内 務 部 長 会 議((12))な ども見 られ る。 また 、 こ うした 定 例 の公 式 会 議 のみ で な く、産 業 調 査委 員 会 で の総:督 ・政 務 総 監訓 示((11))や 元旦 ・紀 元 節 に お け る総 督 の談 話((13)(14))な どに も関 わ っ て い る。 訓 示 とは性 格 が異 な るが、 原 敬 首 相 に提 出 す る総 督 報 告 書 、 シベ リア ・ 満 洲 へ の領 事 館 設 置 意 見 書 、 東 亜 煙 草株 式 会 社 に 対 す る総 督 府 の 回 答 書 な ど機密 文 書 の 作 成22や 、 朝 鮮 総 督 府 編 『朝 鮮 に於 け る新 施 政 』 の よ うな宣 伝 用 冊 子 の執 筆23に も関 わ って い る。 これ ら の文 書 の 作 成 過 程 に つ い て は、 初 期 の も の は 自身 が 草 稿 段 階 か ら関 与 し局 長 会 議 に も諮 るな ど念 を 入 れ て い るが((1)(2))、 次 第 に 草 稿 の作 成 は下 僚 や 関 係 部 局 に任 せ 20『 日記 』19・11・26。こ こ に名 の挙 が って い る人 物 は い ず れ も 内務 官 僚 と思 わ れ る。 内 務 省 で の 前職 と総 督 府 で の 配 属 先 が 判 明 した者 は 以下 の通 りで あ る。 片 岡 文 理(静 岡 県 内務 部 長 →全 羅 北 道 第 一 部 長) 、 菊 山 嘉 男(長 野 県理 事 官→ 総 督 官 房 会 計 課 長)、 郡 茂 徳(三 重 県理 事 官 → 殖産 局 山 林 課 長)、 久 留 島 新 司(広 島 県 御 調 郡 長→ 殖 産 局)、 安 藤 袈 裟 一(埼 玉 県 秩 父 郡長 → 平 安 南道 理 事 官)、 武 井 秀 吉(長 野 県理 事 官→ 平安 北 道 事 務 官)、 藤 原 喜 蔵(青 森 県 理 事 官 → 警務 局事 務 官)、 児 玉 魯 一(千 葉 県 警視 → 警 察 官講 習所)。 21『 日記 』11・28。 佐 藤 七 太 郎(長 野 県 警 察 部 長 → 慶 尚 北 道 第 一 部 長)、 渡 辺=豊日子(愛 知 県 理 事 官 → 内 務 局第 一課 長)は い ず れ も内務 省 出 身 で この と き総 督 府 に 配 属 さ れ た。 22そ れ ぞ れ、 『日記 』19・9・11∼9・13、20・7・!5、22・3・25。 23r日 記 』20・8・17、8・19。r朝鮮 に 於 け る新 施 政 』 は1920年 版 か ら23年 版 ま で が 刊 行 され て い る が、 守 屋 が執 筆 した の は初 版 の1920年 版(1920年10月)か と思 わ れ る。
表4守 屋 秘 書 課 長 が 作 成 に 関 わ った 訓示 ・諭 告 年 月.日 作成 した訓示類 訓 示 作 成 に つ い て の 『日記 』 の記 述 復刻版 の 頁数 (1) 1919 8.23 朝鮮総督府及附属官 総 督 の 訓示 の綱 領 を 仕上 げ る。→ 総 督 訓 示 草 案 を水 7頁 署 に対す る総督訓示 野 に 内 示 す る(8.27)。 → 大 阪 ホ テ ル に て 水 野 政 務 (9.9)か 総 監 ・西 村 局 長 と'協力 して総 督 訓 示 の校 正 を す る (8.30)。→ 局 長 会 議 で訓 示 案 につ い て議 論 し二 三 字 句 の 修 正 で 可 決 す る(9.3)。 (2) 9.7 施政方針 に関す る諭 青木庶 務部長 が総督 の告諭 を持 って来 たので 自身 9頁 告(9.10) の 意 見 を 加 え て 改 案 す る 。→ 告 諭 案 が 総 監 総 督 の 承 認 を得 る(9.8)。 → 局 部 長 会 議 で総 督 の諭 告 案 を 決 定 す る(9.9)。 (3) 10.10 道知事会議に於 ける 道知事会議 の総督総監訓示 につ いて工藤[京畿道知 21頁 総 督 政 務 総 監 訓 示 事]と 相 談 す る 。→ 総 督 訓 示 の決 済 を 受 け政 務 総 監 (10.13) 訓 示 に つ い て は 意 見 を 吐 露 す る(10.11)→ 政 務 総 監 訓 示 の決 済 を受 け る、目を通 し字 句 を 修 正 し工 藤 に 送 る(10.12)。 (4)1920 4.27 李王世子李垠 殿下御政 務 総 監 か ら告 諭 案 が 送 られ て くる 。 324頁 婚 儀 に関 す る諭 告 (4.28) (5) 7.13 郵便局長及海 事出張 逓 信局長会議 の総督訓示案を作成す る。 164頁 所長会同に於 け る総 督 訓 示(7.14) (6) 8.30 道知事会議に於 け る 道 知事会議 にお ける総督及総監 の訓示 案は半 井[学 30頁 総 督 政 務 総 監 訓 示務 局 宗 教 課 長]の 手 許 で 一 応 ま とめ た け れ ど も訂 正 (9.1) の 必 要 が あ り十 分 手 を 加 え 浄 書 に 回 す。→ 訓示 案 に ほ と ん ど訂 正 無 しで総 監 の 手 許 を通 過 し総 督 の 承 認 を 得 る(8.31)。 (7) 12.14 総 督 の 談話(日 付不 総 督 の 談 話 「朝 鮮 統 治 に つ い て」 原 稿 を完 成 。 な し 明) (8)1921 4.21 道知事 会議 に於 ける総 督 総 監 の 訓 示 と指示 事 項 も大体 完 成 す る。 53頁 総 督 政 務 総 監 訓 示 (4.22) (9) 5.5 中枢 院会議 に於 ける 中枢 院 会 議 の 訓 示 を準 備 す る。 19頁 総 督 訓 示(5.6) (io) 6.8 管理事務分掌郵便局 郵 便 局 長 会 議 で の総 督 訓 示 案 を完 成 す る 。→ 財 務 131,166, 長会議 に於 ける総督 部 長 ・郡 守 講 習 会 にお け る 総 督 訓 示 案 を 作 成 し て 267頁 訓 示(6.14)、 第 一 細 川 に 渡 す(6.12)。 → 地 方 改 良 講 習 会 ・郵 便 局 長 回地 方 改 良 講 習 会 に対 す る総 督 訓 示 は 「皆 予 の 作 成 に か か る もの 」 に於 け る総 督 訓 示 (6.14) (6.14)、 道 財 務 部 長 会議 に於 ける総督訓 示(6.15) (11) 9.14 産業調査委員会 に於 産 業 調 査 会 で の 総 督 演 述 が ま だ 完 成 し て い な い の 207頁 け る 総 督 演 述(9.15) で 自 ら推 敲 し総 監 ・政 務 総 督 の決 裁 を 得 る。 (12) 10.14 内務部長会議 に於 け内 務 部 長 会 議 の 指 示 事 項 ・総 督 訓 示 を作 成。 → 内 102頁 る 総 督 訓 示(10.18) 務 局 か ら差 し出 した 総 督 訓 示 は も の に な っ て お ら ぬ の で 書 き 直 して 政 務 総 監 ・総 督 の 決 裁 を 得 た (10.15)。 → 内 務 部 長 に対 す る総 監 訓 示 を 訂 正 す る (10.16)0 (13) 12.25 斎藤談話 「大正十年 新年 の新 聞に掲載す る総督談話 は安武[総督官房文 325頁 を 迎 へ て 」(22.1.1) 書課長]が原案 を作成 したが遺憾 の点が多いので修 正 し総 督 が供 覧 した 後 発 送 す る。 (14)1922 2.4 斎 藤 談 話 「紀 元 紀元節 に各新 聞に発表す る総 督談を川上 が送付 し 400頁 二 千 五 百 八 十 二 次 て きた の で推 敲 し総 督 の決 裁 を得 て 発送 す る。 の 嘉 節 に 際 し て 」 (2.11) (15) 4.29 道知事会議 に於 ける 地方官会議 の総督 ・政務総監 の訓示を読み訂正すべ 415頁 総 督 政 務総 監 訓 示 き箇所 を指示す る→総督 の訓示 は政務総監 の閲覧 (5.2) に 供 し総 督 の決 裁 を 得 た が 二 三 箇 所 の 訂 正 が あ る の み だ っ た(4,30)。
出 典:守 屋 栄 夫 『日記 』1919年9月 ∼1921年10,月(守 屋 の秘 書 課 長 就 任 期 聞)よ り作 成 。 注1:「 年」 「月 日」 は 当該 訓示 作 成 の件 が 最 初 にr日 記 』 に現 れ た 年 月 日を表 し、 同 じ訓 示 の作 成 に つ い て の記 述 が 以後 も継 続 し て 『日記 』 に現 れ る場 合 に は 「訓 示 作 成 につ い て の 『日記 』 の記 述」 欄 に矢 印 を して経 過 を記 し末 尾 の括 弧 内 に 『日記 』 の 日付 を付 した 。 2:「 作 成 した 訓 示 類 」 で は、 原 則 と して 一 つ の訓 示 に つ い て の 作 成 過 程 を あ げ る こ とに した が 、 『日記 』中 で複 数 の訓 示 の作 成 が 同時 に進 め られ て い る との記 述 が あ る場 合 は こ の表 で も ま とめ て 記 した場 合 が あ る。 なお 、 同欄 か っ こ内 の 日付 は訓 示 類 が 発 表 され た 日付 で あ る。 3:「 訓示 作 成 につ い て の 『日記 』 の記 述 」 欄 中 、[]内 は引 用 者 が 日記 の記 述 に補 充 した 部 分 で あ る。 4:「 復 刻 版 の頁 数 」 は、 当該 訓 示 の、 水 野 直 樹 編 『朝 鮮 総 督 諭 告 ・訓 示 集 成 』 第2巻(緑 蔭 書 房 、 2001年)に お け る所 収 頁 を 示 す 。 同書(第2巻 以 外 も 含 む)に 収 録 さ れ て い な い も の は 「な し」 と表 記 して あ る。 訂 正 箇所 を 指 示 す る とい うや り方 に 変 わ っ て い って い る傾 向 が うか が わ れ る((6)(12)∼ (15))。 い ず れ にせ よr日 記 』 を 見 る限 り、 「ほ とん ど訂 正 無 し」 と の如 く守 屋 が 訂 正 した もの が そ の ま ま訓 示 と し て発 表 され る こ と も多 か った24。各 種 会 議 の訓 示 は従 来 の研 究 で は もっ ぱ ら総 督 の思 想 を体 現 す る もの と して使 わ れ て きた が 、 少 な くと も この 時期 に あ っ て は、 秘 書 課 長 自身 が 作 成 す るか 、 あ るい は 関係 部 局 作 成 の後 に 秘 書 課 長 が 事 実上 の 最 終 チ ェ ッ クをす る とい うか た ち で 作 成 さ れ て い た こ とに 留 意 す る必 要 が あ ろ う。 (3)機 密 費 の 管 理 機 密 費 の管 理 は 秘 書 官 の重 要 な職 務 だ っ た。 しか し、r日記 』 は 機 密 費 の 使途 や金 額 につ い て ほ とん ど記 述 を 避 け て お り、 こ こで は 断片 的情 報 を 再構 成 す る こ と しか で きな い。 守 屋 は 就 任 直 後 の1919年8.月26日 に総 督 か ら機 密 費1万5千 円 を受 領 し、9,月9日 に 青 木 戒 三 庶 務 部 長 の 立 会 い の も と機 密 費 の 引継 ぎ を お え た 。 以後 、 機 密 費管 理 の責 任 を守 屋 が 負 うこ と に な った が 、10.月9日 に は 水 野 政 務 総 監 に機 密 費 七 千 円 を渡 し、 「各 局 長 部 長 に 対 して も適 当 の額 を 交付 す べ きや う総 監 に勧 誘 し」 た よ うに、 各 部 局へ の配 分 も して い た よ うで あ る。 『日記 』 の記 述 の 間 隔 か ら見 て、3∼4ヶ 月 に一 度 は決 算 を し て総 督 ・総 監 の 決裁 を 受 け る仕組 み に な っ て いた よ うで あ る25。 機密 費 の使 途 に つ い て は、「西 伯 利 亜 に於 け る不 逞 鮮 人 の操 縦 及 び取 締 に 関 し山崎 君 の案 を土 台 に して討 議 の結 果 救 済 に必 要 な る費 用 は来 年 度 予 算 に て要 求 す る こ と とし、 一 時 的 の機 密 費 と して一 万 五 千 円 の範 囲 内 に て着 手 」(20・6・18)、「日高[丙 四郎]氏 間 島 に て鮮 人 懐 柔 を行 ふ こ と 丶な り、 其 の経 費 □半 年 分八 千 六 百 円 を 総 督 の手 を 通 して 渡 す」(21・8・ 8)な どの 抗 日朝 鮮 人 の 懐 柔 や取 締 りに あ て られ て い た こ とが わ か る。 そ の 他 、朝 鮮 内諸 新 24表4の(6)。 他 に(10)(15)で も こ う し た 記 述 が あ る 。 も ち ろ ん 総 督 自 ら 訓 示 に 手 を 入 れ る 場 合 も 皆 無 で は な か っ た と 思 わ れ る が((14)。 水 野 直 樹 「朝 鮮 総 督 諭 告 ・訓 示 類 の 資 料 的 意 義 」 同 編 r朝 鮮 総 督 諭 告 ・訓 示 集 成 』 別 巻 、 緑 蔭 書 房 、2001年 、!4∼16頁 も 参 照)、r日 記 』 を 見 る 限 り多 く壱まな カ、っ た 。 25機i密 費 の 決 算 に つ い て の 記 事 は 、 『日記 』20・1・25、4・17、9・26、21・1・13、22・1・14 、5・4、8・!2、 10・25に 見 え る 。