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kindai nogaku no tenkai meijiki ni okeru kyojusha noyakusha sakuhin no hensen o chushin ni

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Academic year: 2021

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題名

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近代能楽の展開

―明治期における享受者・能役者・作品の変遷を中心に

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提出者氏名

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目 次 序 第 一 部 伝 統 芸 能 「 能 楽 」 の 誕 生 第一 章「 能楽 復興 」― その実 態と 検証 第二 章 明治 期に おけ る享受 者の 変遷 をめ ぐっ て 第三 章 近代 能楽 の転 換点 ―明治 三十 七年 にお ける 池内信 嘉と 坪内 逍遙 の言 説を中 心に 第 二 部 能 役 者 の 再 序 列 化 ― 囃 子 方 と 地 方 の 役 者 を 中 心 に 第 一章 近 代に おけ る能役 者の 盛衰 第 二章 大 鼓葛 野流 の近世 と近 代 第 三章 加 賀藩 町役 者の展 開 第 三 部 「 世 阿 弥 発 見 」 ― そ の 時 と 意 義 第一章 吉 田東 伍と 近代 能楽研 究の 黎明 第二章 吉 田東 伍の 芸能 史研究 補説 『 観 智院 過去 帳 』 記載の 能役 者 第三章 「 世阿 弥発 見」 その後 ―世 阿弥 伝書 の受 容をめ ぐっ て 付章一 義 経伝 承と 能 付 章二 曽 我伝 承と 能 結 論 資 料 編 注 2 6 6 18 29 3 9 39 48 88 1 0 5 10 5 11 7 1 41 14 9 162 180 1 9 7 2 0 1 2 4 0 本文は読みやすさに配慮し、旧字体は新字体に改め、難読の語にルビを付した部分 がある。また引用文を除き 敬称 は 省略した。 数字は原則的に漢数字で表記するが、 西暦・頁・叢書番号 の表記は、位取り記数法(例:一〇)で記載した 。

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演劇は 多く の要 素か ら成 り立っ てい る複 合芸 術だ が、 原理 的に い って、 演劇 を成 立さ せる う え に必 要に して 十分 な基 本 的要 素は 、 俳優、 戯曲 (あ るい は作 者) 、 観客 の三 つで、 こ れらを 演劇 の三 要素と 言う 。 さらに 、 そ れが実 現さ れる 物理 的空 間、 すな わち 劇 場を加 えて 四要 素と する ことも ある 。 ( ( 1 能は 、 室 町期 以来 およ そ 六百年 の歴 史を 持つ 演劇 である 。 室町 前期 に観阿 弥 ・ 世 阿弥 父子 に よって 大成 され た後 、 様 々な変 化を 経て 現在 まで演 じ続 けら れて きた 。 能 と同 じよ うに 長い 歴 史を持 つ演 劇は 世界 中に数 多く あり 、 その 中 には現 在で も演 じら れて いるも のも 存在 する が、能 のよ うに 大成 以来 一度の断 絶な く演 じ続 けら れ てき たも のは 、 決して 多く ない 。 能 の場 合は 、 観 阿弥 ・ 世 阿弥 以 降、 記録 の多寡 はあ るが 、 一 度と して 長期 の 空白期 間を 持っ てい ない ことが 諸史 料に よっ て裏付 ける こと がで きる 。 し かも 現存 する 世阿 弥 自筆能 本な どに 拠る 限り 、 テ キス トの変 化は 語句レ ベル に留 まっ てい る。 この こと は、 演 出に応 じて 大き く書 き変 えられ るこ とが 多い 演劇 におい ては 希有 な 事例で あり 、能 の持 つ大 きな特 徴と いう こと がで きよう 。 ) 河竹登 志夫 『演 劇概 論』) そうし た特 色に よっ て 、 能は 、 現 在で は歌 舞伎 な どと並 ぶ日 本の 代 表的な 伝統 芸能 に位 置づ けられ てい る 。 学 校教 育 では教 科書 に必 ず掲 載され 、 カル チャ ーセ ン ターや 一般 向け の解 説書 等でも しば しば 取り 上げら れる など 、 伝統 芸 能とし ての 能に 対す る潜 在的な 関心 は決 して 低くな い 。 そ れに も関 ら ず、 一般 の人 々に とっ て 能は謎 に包 まれ た存 在であ る 。 多 くの 場合 、 能を実 際に 観た 経験 を有 す る人 はご く稀 であ るし 、 歌 舞伎 など との 正 確な違 いを 説明 でき る人 もほと んど 見当 たら ない。 一方 、同 じ伝 統芸 能である 歌舞 伎は 、映 画や テ レビ ドラ マ等 、 マスコ ミへ の露 出度 も高 く、 能に 比し て一 般の 目 に触れ る機 会も 多い 。 歌舞伎 を生 で見 たこ とが なくて も 、 著 名な 歌舞 伎 役者の 名を 挙げ る事 は、 能役 者の 名を挙 げる より容 易で あろ う。 その 要因と して は 、 歌 舞 伎は元 々庶 民の 芸能 であ り、 能が 武家 や公 家な ど 支配階 級に ある 人々 に供す るた めの 芸能 であ ったこ とが しば しば 指摘 される 。 しか し、 能 が 「 謡曲 」 と して 江戸 時 代の庶 民に も深 く浸 透し ていた こと は 、 現 存 する謡 本の 流布 状況 や俳 句など の文 芸作 品へ の影 響から 見て も明 ら かであ る 。 謡 は江 戸時 代 の主に 都市 部の 庶民 にお ける文 化的 バッ クボ ーンと して 広く 共有 され ていた はず であ り 、 そ う した状 況が 変化 した のは、 明治 以降 の能 の在 り方に 起因 する 所が 大き いと考 えら れる 。 そこで 本研 究で は 、 伝 統 芸能と して の能 の在 り方 を形成 した と考 え られる 明治 期に 焦点 を当 て、 江戸 期以 前か ら明 治 期を経 て現 代に 至る 変化の 諸相 を考 察し たい 。 先 に、 能は 発生 以来 継 続して 演じ られ 、 テ キスト につ いて はほ とん ど変化 しな かっ たと 述べ たが 、 冒 頭に 掲げ た 如く 、 能を 演劇 的な 諸要 素 ( 俳優 ・ 戯 曲 ・ 観客 ) から分 析す れば 、 時 代と共 に変 化し た部 分が 少なか らず 存在 する 。 例 えば 、 第 一の 要素 で ある能 役者 ( 俳優 ) に つ いては 、 世阿 弥と同 時代 には諸 国に 猿楽 や田 楽の座 が多 数存 在し 、室 町将軍の 愛顧 を巡 って 凌ぎ を 削っ てい たが 、 能を愛 好し た豊 臣秀 吉が 大和猿 楽四 座を 保護 する 政策を 打ち 出し た ことに より 、 諸 座の 役者 は観世 ・ 宝生 ・ 金 春 ・ 金 剛の四 座の 中に 再編 される 。 さら に秀 吉の 方 針を受 け継 いだ 徳川 幕府 によっ て 、 能 は幕 藩 体制の 中に 組み 込ま れ 、 能役者 は幕 府や 諸藩 及び 禁裏の お抱 えと なる 。 その結 果 、 役 職は 原則 的 に世襲 され 、 能役 者の 地 位は固 定さ れた もの となっ た 。 さ らに 喜多 流 を含め た五 座の 家元 を頂 点とす るヒ エラ ルキ ーが形 成さ れ 、 そ の内 部 にある 者だ けが 能役 者と して認 めら れた ので ある。 一方 、 作 品 (戯 曲 ) につ いて も、 室町 末期 までに 新作 活動 は終 息し 、 江 戸期 以降 はそ れ までに 作ら れた 作品 が繰 り返し 演じ られ るよ うにな った 。 江戸前 期に は、 将軍 など パトロ ンの 好みに 応じ て 、 廃 絶 作品の 復曲 や既 存作 品に 対する 演出 の工 夫が 行わ れたた め 、 所 演作 品 や演出 も流 動的 であ った が、 次第 に固 定化 が進 み 、 江 戸後 期ま でに ほ ぼ現在 の形 に近 いも のが 確立す る。 つま り、 役者 及 び作 品 につ いて は、

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時代を 経る に従 って 固定 化、 限定 化の 方向 に進 み 、 現 在の 基本 的な 枠 組みは 江戸 末期 まで に成 立して いた ので ある 。 しかし 、 明治 時代 以降 、 能がそ の姿 を全 く変 えな かった わけ では な い。 特に 、 第 三の 要素 と して挙 げら れた 観客 (能 の場合 は劇 場に おけ る観客 に限 定さ れる わけ ではな く 、 少 数の 貴族 や 武士が 能を 観た り習 ったり して いた ので 、広 く享受者 と称 する こと にす る )に つい ては 、 むしろ 江戸 時代 以降 に大 きく変 動し た 。 室 町以 来 、 江 戸時 代に 至る ま で能の 享受 者は 支配 階層 にあっ た武 士や 貴族 ( 公 家) が中 心で あっ た が、 明治 維新 によ って そ うした 人々 が政 治的 ・ 経 済的実 権を 喪失 した ため 、 次 第に 振興 の中 流 層が享 受層 の主 体を 占め るに至 った 。 こう し た能の 享受 者の 交代 は 、 能の経 済的 基盤 が変 動し たこと を意 味し てお り、 役者 や作 品の位 置付 けにも 影響 を与 えて いる 。 本 論で は、 そう し た明治 時代 以降 にお ける 変化の 諸相 につ いて 、 役 者 ・ 作品 ・ 享 受者 そ れぞれ の観 点か ら解 明す ることが 大き な目 的で ある 。 その ため には 、 近代に おい て最 も大 きく 変動し た享 受者 の変 化に ついて 考察 する こ とから 始め るべ きで あろ う。 そこで 第一 部で は、 明治 期にお いて 能が 「式 楽」 から 「 能楽 」 へ と 変容し てい く過 程を 、 従 来能を 支え てい た皇 族や 公家 、 大 名と いっ た 少数の 大パ トロ ンが 力を 失い 、 代 わり に中 流階 級 が勃興 して くる とい う、 享受 者の 変遷 に着 目 し考察 を試 みる 。 明治 期 の能楽 に関 する 先行 研究に は、 池内 信嘉 『能 楽盛衰 記』 ( 能楽会 、 一 九二六 年 ) や古 川久 『明治 能楽 史序 説』 (わ んや書 店、 一九 六九 年) などが ある が、 この うち 『能 楽盛 衰記 』 は 、 明治後 期か ら大 正に かけ て能楽 復興 に尽 力し た池内 信嘉 ( 一八 五八 年 ~一九 三四 年 ) が 自身 の 見聞や 関係 者の 記録 に基い て編 纂し たも ので 、 近 代能 楽史 研究 にお け る基礎 的史 料と して 位置づ けら れて いる 。 し かし 、 池 内が 能楽 と直 接 的な関 わり を持 つよ うにな った のは 、 明 治三 十五年 ( 一九 〇二 ) に 松 山から 上京 して 以後 のこと であ り 、 それ 以前 は中央 の能 とは ほぼ 無縁 であっ た 。 ま た 『 能 楽盛衰 記 』 が 基に した 記 事の多 くも 、 能役 者や 能 楽復興 に携 わっ た人 物が往 時を 回想 しつ つ後 年に綴 った もの で 、 実 際 の出来 事と の間 には 数十年 のブ ラン クが 存在 する 。 つ まり 、 『 能楽 盛 衰記 』 は 必ずし も一 次史料 とは 言い 難い 部分 を多く 含ん でい るの であ る。 この 『能 楽盛 衰 記』 によ って 語られ るの は、 明治 維新 によっ て危 機に瀕 した 能が 、 能 楽を愛 好す る皇 族や 華族 の尽力 、 能役 者た ちの 努 力によ って 復興 を遂 げると いう 「 再生の 物語 」 で あり 、 明 治期 の能 楽 に対す る現 在の 認識 も基本 的に はこ れに 基づ いてい る 。 し かし その 一 方で 、 近 年そ うし た 「再生 の物 語 」 の 中に 事 実との 相違 や虚 飾が 存在 するこ とが 指摘 され つつあ る 。 実 際の所 、 明 治期以 降の 能役 者を 支え たのは 、 皇族 や華族 など旧 来の 権力 者で はな く、 三井 や安 田とい った 財閥を 始め 、 「旦 那 衆」 と呼 ばれ た商 家や 、 知識人 層を 加え た広 義の 中流層 であ った ので はなか ろう か 。 さ らに 、 西洋文 化の 流入 によ って 江戸時 代以 来の 芸能 が次第 に存 在意 義を 失い つつあ る中 で 、 明 治二 十 年代以 降に 高ま りを 見せた 自国 文化 の尊 重と ナショ ナリ ズム の機 運に 乗って 、 巧み に生 き 延びて いっ たの では なか ろうか 。 そう した視 点に 立てば 、 従来 の 「 再 生の物 語 」 が 綴る 、 能 役 者の経 済的 困窮 や壊 滅の 危機は 実際 存在 した のか、 また 明治 政府 や皇 族 ・ 華族 など 復興 に携 わっ た とされ る人 々は 、 本当に 能楽 の芸 術性 を認 めてそ うし た活 動に 従事 してい たの か 、 と い った疑 問が 生じ る。 第一 部では 、 これ らの点 につ いては 、 信頼 でき る 史料に 基づ きつ つ 、 再 検 証を行 うと とも に日 本が 近代国 家を 構築 して い く道 のり の中 で、 能が どのよ うに して 「伝 統芸 能」 とし ての 位置 づ けを獲 得し てい った のか 、 ま た、 どの よう な変 化 に直面 し 、 そ れを乗 り越え て行 った のか 、 そ の実態 を明 らか にす るこ とが大 きな 目的 とな る。 こうし た経 済基 盤の 変化 は、 能役 者に も大 きな 影 響を及 ぼし た 。 先 述の如 く 、 能 役者 は幕 府 や藩か ら扶 持を 受け 、 安 定した 経済 基盤 の下 で、 特定 の家 柄に よっ て 世襲さ れる 状況 にあ った 。 し かし 明治 維新 に よって 幕藩 体制 が崩 壊す ると、旧 来与 えら れて いた 俸 禄が 停止 され 、 能役者 の安 定的 な地 位が 失われ る事 態と なっ た 。 中には 経済 的な 困窮

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から家 業を 離れ た能 役者 も見ら れ 、 結 果と して 消 滅した 流儀 も存 在す る。 一方 、 存 続し た流 儀 の中に も 、 江 戸期に 主要 な地位 にあ った 役者 が能か ら離 れた ため 、 傍 系の役 者が 継承 する 形で 辛うじ て存 続し た例 もある 。 こう した 能役 者 の淘汰 と変 遷は 、 経済 基 盤の喪 失に よっ て江 戸時代 に形 成さ れた 能役 者のヒ エラ ルキ ーが 瓦解 し、 新た な序 列化 が 進展し た こ とを 示し てい よう 。 こ うし た明 治以 降 の序列 には 、 家格 や 技量と いっ た従 来 の 基準 に加え、 新た な経 済基 盤を 開 拓 す る能 力や 、 広く 愛 好者 に 支 持さ れ得 るだけ の知 名度 や人 脈な どが新 たな 指標 と なった と考 えら れる 。 そこで 第二 部で は、 まず 現存す るシ テ ・ ワキ ・ 囃 子 ・ 狂言 の諸流 に ついて 、江 戸末 期か ら近 代にかけ ての 中心 的な 役者 の 変遷 を概 観 し 、 その様 相を 明ら かに する 。 こ のう ちシ テ方 五流 に ついて は 、 総 ての 流 儀が廃 絶す るこ とな く 、 また家 元諸 家も 一応 は存 続した 。 その 意味 で は、 維新 後も 江戸 期の 体 制を引 き続 き継 承し たと 見る事 がで きる だろ う。 しか し、 シテ 方に 従 属する 立場 にあ った 囃子 方や狂 言方 にお いて は 、 家元 クラ スの 役者 が 廃業し 、 有力 な弟 子 に よ って 芸 系を 継続 した 例が 多 数 認 めら れる 。 そ うした 特徴 的な 事例 の一 つが大 鼓葛 野流 であ る 。 葛野 流は 、 初 代葛 野 九郎兵 衛定 之に よっ て創 始され 、 以後 明治期 に至る まで 九代 に渡 って 葛野家 が芸 事を 統括 した 。 し かし 、 九 代葛 野 定睦の 死後 大鼓 の業 から 離れ 、 以 後は 有力 な弟 子 が宗家 職を 持ち まわ る形と なっ た 。 当 初は 葛 野の高 弟で あっ た津 村又 喜や植 田源 蔵が その 任を担 った が 、 両 者と も に明治 三十 年代 に没 し 、 その 後 継と なっ たの が川崎 九淵 ( 一八七 四 年 ~一九 六一 年 ) であ る 。 川崎は 後に 能楽 界初 の人間 国宝 指定 を受 ける など 、 明 治か ら昭 和に か けて能 楽囃 子方 を代 表する 役者 であ った が 、 もとも とは 能役 者の 家に 生まれ たわ けで はな く、 才覚 を認 めら れて 松 山から 上京 し 、 活 躍の 場 を広げ なが ら斯 界の 第一人 者へ と至 った 人物 であ る 。 それ が 可 能 に な ったの も 、 明 治維 新 によっ て 江 戸期 以来 の 能 役者の 序列 が崩 壊し たこ とと 無 関係 では あ るまい 。同 様の 事例 は、 経済的に 困窮 した 囃子 方に 多 く見 られ るが 、 そうし た事 態を 打開 しよ うとした 池内 信嘉 の活 動も ま た注 目さ れる 。 明治三 十五 年 ( 一九 〇二 ) に 上京 した池 内は 、 能 楽館を 組織 し、 囃子 方の経 済的 な支 援や 師弟 の育成 など に着 手し た 。 その一 方 で 雑誌 『 能 楽』を 主宰 し、 全国 の同 好の士と の連 絡の 場を 創設 し た。 その 中で 、 愛好者 と能 役者 とが 紙面 を通じ て交 流す るこ とで 、 川 崎の よう に旧 来 無名だ った 役者 の存 在が 全国に知 られ るよ うに なっ た と考 えら れる 。 第二章 では 川崎 の旧 蔵資 料を用 い 、 江 戸初 期か ら 近代に 至る 葛野 流の 歴史を 概観 しつ つ 、 明 治 維新前 後に おけ る川 崎の 事跡に つい て考 察し ていき たい 。 続く第 三章 では 、 加 賀藩 の 町役者 の近 世 ・ 近代 の動 向 を取り 上げ る 。 百万石 の大 名家 とし て知 られる 加賀 藩で は 、 そ の 豊富な 資金 力を 背景 に、 江戸 初期か ら活 発に 演能活 動を 行っ てき た。 「御 手役 者」 と呼 ば れる藩 のお 抱え 役者 は、 江戸 ・ 京 都 ・ 金沢 に存 在 し、 徳川 御三家 に も 匹敵す る 質 を備 えて いた 。 さ らに 、 町 役者 と呼 ば れる 素 人役 者も 高い 技量を 備え てい たこ とが 知られ る 。 幕 末に は町 役 者だけ でほ ぼ全 ての 役職 ・ 流 儀を 網羅す るに 至り 、 中 には 藩から 俸禄 や名字 ・ 帯刀 の権 利 を与え られ 、 玄人 の能 役 者に匹 敵す る扱 いを 受け ていた 者も いる 。 こ の中に は 、 狂 言方 和泉 流 の野村 万蔵 家や 笛方 一噌 流の藤 田家 など 、 明 治以後 も存 続し 現在 に続 く能役 者の 家と なっ たも のも い る 。 こ れら は 近世か ら近 代に おけ る中 央と地 方と の交 流や 変遷 の様相 を考 え る 上 で格好 の事 例と なろ う 。 さらに 、 第三 部では 、 能 の作品 に関 する 考察 へと 進む 。 明 治以 降の 能の所 演曲 は 、 先 述の 如 く基本 的に は江 戸後 期の ものを 踏襲 して おり 、 大幅な 変動 があ った わけ ではな い 。 ( 2 ) 表章 「 能 の変 貌 ―演 目の 変遷 を通し て 」 に よれば 、 明 治期に は 、 観 世流で は従 来別組 とさ れた 二十 八曲と 、 〈高 野物 狂〉 な ど七曲 が現 行曲 に組 み入 れられ 、 逆に宝 生流 は稀曲 であ った 三十 曲を 廃曲と する など 、 少な か らぬ変 動が あっ たと される が 、 こ れら は上 演 が稀か ほぼ 途絶 えて いた 作品に 関す る措 置で あり 、 現 行曲 の八 割ほ ど は影響 を受 けて いな い 。 むしろ 大き く変 動し

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たのは 、 能に 対する 位置 付けで あろ う 。 明治 二十 年代に なる と 、 日 本 文学に 対す る再 評価 の動 きが起 り 、 「 日本 文学 史 」 と 題す る書 が次々 と発表 され るよ うに なる 。 そ うし た動 きは 日本 文 学のカ ノン 化を もた らすも ので あっ たが 、 そ の中で 能は 必ず しも 主要 な位置 を占 めて いた わけで はな かっ た。 例え ば、 明 治二 十三 年 ( 一八 九〇) 刊行 の 『 国文 学読本 』 ( 芳 賀矢一 ・ 立 花銑三 郎 、 冨山 房) は 、 古典文 学の 諸作 品を 作者順 に掲 げた アン ソロ ジーで ある が 、 そこ には 「無 名氏 」 の 作と し て 「謡 曲鉢 の木 」 が 掲げ られて いる 。 ま た、 同年 に刊行 され 、 日 本文 学史の 嚆矢 とさ れる 『日 本文学 史』 ( 三上 参次 ・ 高 津鍬三 郎 、 金港 堂) でも 、 能 の作 者は 無名 の 僧侶と され 、 文学 的価 値 は低い もの とさ れて いる 。 こ うし た能 に対 す る評価 の低 さは 、 作者 中 心の近 代的 な価 値観 に起因 し 、 能 の作 者が 不 明とさ れた こと が大 きく 影響し てい たと 考え られる 。 そうし た状 況を 一変 させ たのが 、 明治 四十一 年 ( 一九〇 八 ) の 吉田 東伍に よる 世阿 弥伝 書発 見 であ る。 吉田 東伍 (一 八六四 ~一 九一 八 ) は、 『 大日 本地 名辞 書』 の業績 で広く 知ら れる 明治 ・ 大正 期 の 歴史 ・ 地理学 者で ある が、 その 一 方で、 世阿 弥伝 書 の 存在 を 明らか にし た 『 能楽 古典 世阿弥 十六 部集 』 は 、 近 代 能楽研 究の 嚆矢 とし て 高 く評価 され てい る。 そもそ も現 在知 られ る 世 阿弥 の 事跡 は 、 世 阿弥 伝 書の記 述に 負う とこ ろが大 きい が 、 そ の 世 阿 弥伝書 自体 は 、 世 阿弥 の 子孫に 当た る観 世家 や姻戚 関係 にあ った 金春 家にの み伝 承さ れ 、 秘 伝 として の扱 いを 受け た ため 、 両家 の当 主や 時 の権力 者な どご く 限 られ た人々 にし か見 るこ とが許 され なか った 。 ま たその 内容 も 、 作品 ・ 演 出 の固 定化 が進 んだ 近世以 降の 能役 者に は非 実用的 なも ので あり 、 ほ とんど 顧み られ るこ とはな かっ た 。 そう した 「忘 れら れた 」 存 在で あ った 世 阿弥 伝書 が再 び日の 目を 見る こと にな ったの が 、 吉 田 の 『世 阿 弥十六 部集 』 刊行だ ったの であ る。 現在 では 常識とな って いる 能の 作者 と して の業 績や 、 『風姿 花伝 』 を始 めと す る高度 な能 楽論 書を 著し たとい う事 実は 、 こ の 『 世阿 弥十 六部集 』 刊 行によ って 初め て明 らか にされ たが 、 これに よって 世阿 弥と いう 高度 な教養 と理 論を 備え た能 役者の 存在 が 知 ら れるこ とと なり 、 能を 芸 術とし て再 評価 する 要因 の一つ とな った と考 えられ る。 第三部 では 、 まず 、 吉 田 東伍の 事跡 や世 阿弥 伝書 発見の 経緯 をた ど りつつ 、 吉田 の実 証主 義 的な研 究手 法が 能楽 研究 に与え た意 義に つい て考察 する 。 吉田 の研 究 手法は 独学 によ って 培わ れたも のと され るが 、 一方で 明治 政府 によ る修 史事業 の中 核を 担っ た重 野安 繹 や久 米邦 武 との交 流も 知ら れて いる 。 彼 らは あま りに 急進 的 な主張 から 国学 者や 水戸学 者か らの 反発 を受 け、 修史 事業 から の離 脱 を余儀 なく され たが 、 そのこ とは 在野 の研 究者 によっ て始 めら れた 能楽 研究に 実証 主義 を もたら すこ とと なり 、 後 の世阿 弥伝 書発 見を 導い たと考 えら れる 。 次 いで第 二章 では 、 新潟 市 の吉田 文庫 に所 蔵さ れる 吉田の 自筆 ノー ト を 用い 、 吉 田の 志し た 芸 能 史 研究 につ いて 論じ る 。 これに よっ て吉 田の 芸能研 究が 、 歴史 史料 を 中心と した 実証 主義 的な もので あり 、 近世 の 随筆や 故実 書の 域を 脱し ていな かっ た当 時の 研究 水準を 大き く上 回 るもの だっ たこ とが 明ら かにな ろう 。 さらに 第三 章にお いて 、 『世 阿 弥十六 部集 』 の刊行 後 、 それが どの よう に受 容さ れ、 位置 付け を変え ていっ たの かを 、 日本 文 学史に 関す る諸 書や 、 大 正教養 主義 と呼 ばれ る人々 の発 言を 通じ て考 察して いく 。 加え て付 章 では 、 能 の作 品の う ち、 源 義経 、 曽 我兄 弟を 題 材とし た諸 作品 につ いて 、 成立時 から 近世 ・ 近代に 至る 歴史 的な 変遷 につい て論 じ 、 具 体的 な 作品の 受容 と位 置付 けの変 動を 明ら かに した い。

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第一部

伝統芸能「能楽」の誕生

第一章「能楽復興」―その実態と検証

はじめ に 明治大 帝の 践祚 以降 明治 十年ま では 欧化 主義 の時 代で 、 能 楽 の 沈衰は 其の 極に 達し 、 こ れを業 とす る者 は流 離転 蓬、 具に 辛酸 を 味わっ たの であ った 。 幸 にして 明治 十二 年青 山御 所に御 能舞 台が 建ち 、 次 で能 楽社 が設 立 せられ 、 こゝ に斯 界は 初 て一条 の光 明に 接し、 更生 の思 ひを なし たので あっ た。 明治二 十二 年憲 法発 布の 前後か らは 国粋 保存 の声 が朝野 に高 く、 古美 術の 保護 や古 書 刊行等 が続 々行 はれ たが 、 能 楽は さし て 振はず 、 岩倉右 府の 薨去 、 英 照皇 太后の 御登 遐 、 日清 ・ 日 露の戦 役等は 何れ も其 の進 路を 阻んだ 。 征露 後国 威は 著 しく揚 り 、 我 が 皇国の 地位 は世 界列 強の 班に列 し 、 民 心漸 く怡 楽 の時を 得る に至 り、 斯道 も大 いに 隆興 す るやう にな った が 、 其 の 流行は 広く 薄い 傾向で 、 実質 の上 から 見 れば 、 能 楽の 前途 は未 だ 容易に 楽観 を許 されな い。 ( ( 3 ) 『能 楽盛 衰記 』二 頁 ) 右に掲 げた のは 、 池内 が 『 能楽盛 衰記 』 の冒 頭で 述べ た一節 であ るが 、 ここ に は明 治に おけ る 能 楽 の様 相が 端的 に 総 括 さ れてい る 。 こ れに よ ると 、 明 治維 新 に よっ て 式楽制 度が 崩壊 し 、 か つ てない 危機 にさ らさ れた能 は 、 英 照皇 太后 や 岩倉具 視を はじ めと する 篤志の 人々 の援 助に よって 危機 を乗 り越 え 、 復興へ の道 を歩 み出 した とされ る 。 そ の象 徴 的な出 来事 が 、 明治 十二 年 ( 一八 七九 ) の 青山 御 所能舞 台の 建設 であ り、 明治 十四 年の 能楽 社 設立で あっ たと いう 。 こ こから 読み 取れ るの は、 明 治維 新に よっ て 崩 壊した 式楽 とし ての 能が 、伝統 芸能 「能 楽 」 として 復興 を遂 げる とい う 「 ( 4 ) 再 生の 物語」 であろ う。 しか し、 こ の「再 生の 物語 」に 対し ては、近 年に なっ て疑 義が 呈 され つつ ある 。 実 際の とこ ろ、 「 明 治十年 の前 後」 の能 楽界 は 「 殆ど 一人の 謡ふ 者なく 舞ふ 者な く」 とい う状態 には なか った 。 明 治四 ( 一八 七一) 年に明 治政 府が 解雇 する まで 、 朝 臣願 いを 提出 し ていた 能楽 師た ちには 、 江戸 幕府 のそ れ を引き 継ぐ かた ちで 手当 てがあ り 、 手 当 てが打 ち切 られ た後 数年 には 、 各 流派 によ る盛 ん な能会 が開 かれ ている 。 皇族 や公家 、 旧 大名 、 す なわ ち明治 政府 の有力 な支 配層 にも謡 を指 導す る能 楽師 たちが 、 真に 困窮 を極 め ていた とい う記 録は 多 くな い 。 そし て 、 岩倉具 視の 旗ふ りを 待つ ことな く 、 明 治 政府の 要人 たち は能 楽へ とかか わり 続け てい た。 ( ( 5 ) 田村 景子 「近 代に お ける能 楽表 象」 ) 明治維 新の 混乱 期に 、 い くつか の流 儀が 滅亡 し 、 また能 役者 とし ての 家業を 廃し た者 がい たこ とは事 実で ある 。 また 能 役者の 中に は経 済的 困窮を 味わ った もの も少 なくな かっ たは ずで ある 。 し かし 、 右 に指 摘 される 如く 明治 十年 ( 一 八七七 ) 代に は既 に能 の 催しは 数多 く行 われ ていた 。 その 中には 、 明 治政府 の国 賓饗 応能 や皇 族の行 幸 ・ 行 啓の催 しも含 まれ てお り 、 決 し て能が 完全 に沈 黙し てい たとい うわ けで はな い。 本章で は 、 ま ずそ うし た 明治維 新後 の能 楽の 実態 を検証 し 、 そ の実 像を明 らか にし てい くこ とを目 的と した い 。 実 際 にこれ まで 言わ れて いる 「能 楽の 危機 」 は ど のよう なも ので あっ たの か、 復興 の立 役者と された 岩倉 具視 、 さら に は岩倉 の尽 力に よっ て能 楽復興 のシ ンボ ルと なった 芝能 楽堂 の実 態は 如何な るも ので あっ たの か、 これ らの 点に つ いて解 明を 試み たい 。 一、 明 治政 府と 能― 国家 に無益 な遊 興具 明治 維新 によ って 能が 受けた 打撃 には 、 大き く 分けて 次の 二点 が挙

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げられ る 。 第 一に は、 能 役者が それ まで 得て いた 俸禄を 失っ たこ とで あり 、 第 二に は維新 によ る混乱 ・ 政情 不安に よっ て、 能を 演じ る機 会 が失わ れた こと であ る。 まず第 一の 点に つい て確 認して おき たい 。 能は 、 江戸時 代に は幕 府 の式楽 とし て定 めら れて いたた め 、 能 役者 に対 し ては一 般の 武士 と同 様に 幕 府や 藩か ら俸 禄が 与えら れて いた 。 し かし 慶 応四年 (一 九六 八) 五月十 五日 、 明治 政府 は 朝臣と なる こと を願 い出 た者に つい ては 旧来 の本領 を安 堵す ると とも に、 それ 以前 の俸 禄を 家 禄とし て引 き継 ぐと いう通 達を 出し た。 その 一 方で、 駿府 への 移封 とな っ た徳川 家か らは 、 同年六 月五 日に 能役 者の 解雇が 通達 され てい る。 ( 6 ) 倉 田 喜弘 『 明治 の能楽 ㈠』 ( Ⅵ 頁) に引 かれた 諸史 料に は以 下の 如くあ る。 徳川亀 之助 方ニ テ扶 持イ タシ候 分相 除 、 朝 臣ニ 相 願候モ ノ共 、 姓 名、格 式等 相認 、可 差出 候事。 (『江 城日 誌』 ) 御 領地 高相 定候 ニ付 テハ 、 多 人数 之御 家来 御 扶助御 行届 難相 成候 間、 不便 至極 ニハ思 召候 得共 、 無 御拠 、 御 切米 御 扶持方 御役 金等 都テ諸 手当 向迄 、 当六 月 ヨリハ 御渡 方相 成兼 候ニ 付テハ 、 銘々 進 退之儀 勘弁 イタ シ、 朝臣 相願候 共 、 御暇 相願 候共 、 決 着之 処、 頭 支配ヨ リ速 ニ承 リ糺 申聞 候様、 可被 致候 。 (『太 政類 典』 一― 一六 四) ( 7 ) 『梅若 実日 記』 によ れ ば、 五月 末の 段階 で大総督 府 から 朝臣 へ の本領 安堵 の通 達が あり 、 六 月三 日に は観 世大 夫 から座 員に 対し 徳川 家から の解 雇予 告の 廻状 が為さ れて いる 。 一 大総 督府 より 別紙 之通被 仰出 候旨 御目 付中 より御 達。 〔挿入 紙〕 此度格 別之 朝恩 を以 御所 領下賜 難有 御請 被遊 候得 共是迄 多人 数 之御家 来ハ 迚も 御撫 育難 被遊候 ニ付 以来 ハ路 々之 高ハ不 被下 御 役相勤 候者 ハ御 放念 被下 候役御 免相 成候 者ハ 御扶 助未被 下候 様 其 余ハ 御行 届被 相成 分ハ 此程相 達候 通リ 。 鎮台 府 より被 仰出 候趣 も有之 。 朝廷 江御 扶助 之 義御願 相成 候処 是迄 之侭 ニ而候 御扶 持ハ 被下候 哉之 趣ニ 付心 得違 無之様 可被 致候 。 六月 一 徳 川亀 之助 駿河国 府中 之城 主ニ 被仰 付 領 知高 七十 万石 下賜 候旨 被 仰出 ル事 。 但駿河 国一 円其 余ハ 遠江 駿奥両 国ニ 於而 下賜 候事 。 (『梅 若実 日記 』慶 応四 年五月 二十 九日 条) 四時比 日吉 邦太 郎廻 状持 参致ス 。 即刻 春日 市右 衛 門方ヘ 送ル 。 此 廻文ハ 観世 太夫 之心 得之 差出シ 事ニ テ上 より 御沙 汰ハ未 タ無 之 事。 一 今 般徳 川家 御高 格外御 減ニ 相成 候ニ 付是 迄之通 御扶 助難 相 成御様 子ニ 相見 ヘ候 間銘 々心得 之見 込書 面ニ 御認 メ早々 拙宅 迄 御遣シ 可被 成候 。 一読 之 願之所 モ可 有之 候間 無油 断早々 被申 越可 被成候 。 六 月朔 日 連名 観 世太夫 (『梅 若実 日記 』六 月三 日条) その後 六月 七日 にな って 前述の 『 太政 類典 』 と 同 様の解 雇通 達が 届け られ 、 九 日に は以 後の 身 の振り 方に つい て 相 談し ている 様子 が記 され ている 。 今 般被 仰出 候朝 臣相 願候共 御暇 相願 候共 決心 可申上 之義 ニ付 分 家近右 衛門 ・ 徳 太郎 ・ 学 三郎 ・ 兼太 郎 ・ 勘之 丞六 人被参 。 内 談ニ 及候処 先今 日之 処ニ 而ハ 徳太郎 ・ 兼太 郎 ・ 勘之 丞 三人ハ 御暇 願之 決着。 拙者 并近 右衛 門ハ 朝臣ノ 決心 ニ談 ル。 一 観 世銕 之丞 殿 ・ 日吉孫 三郎 両人 被参 ル 。 右御両 人ハ 朝臣 之願 今日出 ル由 。 (『梅 若実 日記 』六 月九 日条) 『明治 の能 楽 ㈠ 』 に は 、 東京都 公文 書館 所蔵 『朝 臣姓名 』 に観世 銕 之丞を 始め とす る能 役者 の名が 見え るこ とが 指摘 されて おり 、 多く の

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役者が 朝臣 とな るこ とを 選択し たよ うで ある 。 朝 臣とな った 能役 者は 、 他の武 士た ちと 同様 に身 分に応 じて 士族 と卒 に分 類され 、 明治 政府 の 機構に 組み 込ま れた 。 し かし財 政の 逼迫 した 明治 政府は 、 それ まで の 方針を 改め 、士 族の 俸禄 削減(秩 禄処 分) へと 踏み 切 るこ とに なる 。 それに 先立 って 、 明 治四 年 ( 一八 七一 ) 十 二月 に は 能役 者の 解雇 が 決 定 され た 。 能役者 ・ 碁 ・ 将 棋の 者、 十 一月二 十七 日、 二ケ 年分 御 宛行方 被下 、 御暇相 成候 事。 右御 布令 相成候 由。 (『金 港雑 報』 十八 号『 明治の 能楽 』 ㈠ 所収 ) 八半時 過東 京府 より 使参 リ左ノ 通リ 。 御用 ケ条 明廿 九日 第十二 字出 頭可 致候 也。 辛 未十 一月 廿八 日 東京 府 右ノ 趣ハ 先刻 ( 薄々 ) 承知ニ 付九 時過 鉄之 丞殿 同道ニ 而源 次郎 ヲ 遣ス( 差出 ス) 。碁 将棋 能役者 絵師 古筆 見本 阿弥 等御暇 出ル 。 為生 産本 資弐 ヶ年 分禄高 一時 ニ下 賜暇 申付 候事。 辛 未十 一月 廿九 日 東 京府 右ノ御 書付 被下 。 (『梅 若実 日記 』明 治四 年十一 月二 十九 日条 ) この時 から 能は 数百 年続 いた公 的な 庇護 を失 い 、 自活の 道を 歩む こ とにな った ので ある 。 東 京では 、 すで に明 治初年か ら ( 8 ) 梅 若 実や 金 剛唯一 によ って 稽古 能が 催され てい たこ とが 知ら れてい るが 、 後年 雑 誌 『 能楽 』 に 寄せ た梅 若 実の回 想に よれ ば、 その 際に僅 かな がら 入場 料収入 を得 てい たこ とが 分かる 。 明治二 年に なっ てか らは 、 徐 徐 と 自宅 で稽 古を 始 める 様 にも なり 、 元 の弟 子内 や 其 他の 人々 がポツ /\ 見に 参る 様 に なり 、 囃 子方 の 人も集 って 来て 、 拍子 盤 の時も あり 又時 とし ては 道具を 使っ たり して 、 毎月 三度 位宛 袴能 を 遣っ て居 まし た、 其 節 見に来 る人 は 各 々 の 志 し で、 塩 せ んべ いを持 て来 るも あれ ば、 最中を 持 て 来る 人もあ ると 云 ふ 様の 塩梅 でした が 、 弁 当ま で梅 若 で出さ せて は気 の毒だ から 、 面々 に幾 千 宛か 出 し合 す こ とに せう と 云ふ 相談 が見 に来る 人の 間で 出来 たそ うで 、 一 人前 一朱 づゝ 持 って来 る 様 にな りまし た 、 是 れ が 此 能 楽 で見物 人か ら金 を 貰 ふ と 云ふ 始 ま り でし たが、 其 人 数は 僅 か に 拾 人 や拾 五人 位の もの でし た、 其 時分 は今 の一噌 要三 郎の 実父 で同 じく要 三郎 と 云 ふ た 人と 、 太 鼓の 家元 で 金春惣 次郎 と 云 ふた 人と 、 此 二 人 で惣 て会 計の 世 話をし て 呉 れて 、 盆節季 に残 る金 が、 壱両 や壱 両 二歩 位 あ りま した のを、 誠に 雛 鶏 を育て る様 に思 ふて 貯へ たので あり まし た ( ( 9 ) 梅若 実「 維新 当時 の 能楽」 ) また 『梅 若実 日記 』 に も 、 早 い段 階か ら 頻繁 に旧 大名家 や公 家の 屋敷 へ 稽古 に 赴 いて いる 記事 が見え るほ か 、 自 宅で の 稽古能 に 訪 れた 華族 から数 百疋 の 収 入を 得て いる 様 子が 見え る 。 さ ら に梅若 家で は 、 明 治 五年 ( 一八 七二 ) 三 月か ら 四月に かけ て晴 天十 五日 の勧進 能を 開催 し、 総額六 百二 十両 もの 収入 を生み 出し てい る。 十 日興 行惣 寄高 金六 百弐拾 六両 三分 也。 但シ 諸入用 右ノ 通リ 。 一 金 百両 。惣 人数 ヘ挨拶 其外 諸買 物共 不残 。 一 八 拾九 両弐 分三 朱 。 同様出 勤ノ 人数 ヘ挨 拶ノ 残金 。 外 ニ関 岡 ノ分。 一 三 拾壱 両弐 分二 朱三匁 弐分 五厘 。 大 工其 外入用 。 一 七 拾七 両三 分壱 朱弐貫 三百 拾文 。板 橋方 買物。 一 弐 拾両 弐分 三朱 。板木 其外 入用 。 一 三 拾両 也。 青山 様拝借 物金 。 一 弐 拾両 。板 橋江 歩割。 一 四 拾両 。 八 ツ割 鉄之丞 ・ 六 郎 ・ 新作 ・ 金 五郎 ・ 九郎 兵衛 ・ 要 三郎・ 清五 郎・ 惣次 郎八 人ニ而 五両 ツヽ 取。 一 三 拾両 。惣 人数 江増金 内地 方へ 拾両 也。 差 引〆 金百 八拾 四両 弐分弐 朱也 。借 財方 ヘ返 金。

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一二月一九日 一一 月 一八 日 八 月 一八 ・ 一九 日 七 月 八 日 六 月 七 日 四月一〇・一八日 明治一二年二月二六日 一一月二〇日 明治一一年七月五日 二月九日 明治一○年二月三日 一〇月一三日 七月四日 五月五・一八日 明治九年 四月四・五日 明治八年 四月一八日 明治六年 九月五日 明治五年 一〇月二〇日 明治二年 七月二九日 【表1】 明治初期における天皇御覧・国賓饗応能 青山御所行幸能 有栖川宮邸行幸能 岩倉具視邸行幸・行啓能 前アメリカ大統領グラント将軍饗応能 ドイツ皇孫ハインリッヒ饗応能 前田利嗣邸 行幸 ・ 行啓 能 リード卿饗応能 青山御所 行幸 能 青山御所舞台開 東大寺 行幸 能 桂宮邸 行幸 能 中山忠能邸 行啓 能 中尊寺 行幸 能 静寛院邸 行幸 ・ 行啓 能 岩倉具視邸 行幸 ・ 行啓 能 九条道孝邸 行啓 能 ジェノヴァ公饗応能 ロシア親王 アレキシス公 饗応能 エジンバラ公 アルフレッド 饗応能 一 二月一五日 一二月五日 一一月一四日 九月二三日 七月一一日 七月六日 五月二一日 五月一三日 四月一六・一七・一八日 明治一四年三月一三日 七月一七 六月九日 五月八日 四月二六日 四月一日 明治一三年二月二八日 青山御所 行幸能 芝能楽堂行啓能 能 イギリス皇孫アルバート、ジョージ饗応 黒川能行幸能 浅野長勲邸行幸能 青山御所行幸能 芝能楽堂行啓能 島津忠義邸行啓能 芝能楽堂舞台披 ハワイ皇帝カラカウア饗応能 桂宮行幸能 寺島宗則邸行幸能 大木喬任邸行啓能 青山御所行幸能 細川護久邸行啓能 九条道孝邸行啓能

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右諸入 用ノ 内よ り手 前方 へ拾両 請取 。是 ハ十 日ノ 間之雑 用ト シテ 取。源 次郎 事不 金ニ テ勤 居。此 度増 金ノ 内よ り壱 両弐分 取。 (『梅 若実 日記 』明 治五 年四月 四日 条) この勧 進能 によ って 、 梅 若家は 諸費 用を 差し 引い ても百 八十 両余 の 収益を 得た こと にな るが 、 ( 10 ) その 一方 で、 生活 に 窮して 入水 や身 売りを する 能役 者も いた と伝え られ てい る 。 明 治 維新に よっ て能 役者 が幕府 の扶 持を 離れ たこ とは 、 江 戸時 代以 来の 序 列とは 関係 なく 、 自 活の努 力に 成功 した 者と 、 そ うで ない 者と の格 差 を生む こと にな った のであ る。 次いで 、 第二 の演 能機 会 の問題 につ いて 見て いき たい 。 先 述の 如く 梅若や 金剛 にお いて は明 治初年 より 私的 な催 しが 行われ てい た 。 ま た それと は別 に 、 来 日し た 国賓に 対す る饗 応能 や皇 族の行 幸 ・ 行 啓能 な ど公的 な色 彩の 強い 催し も行わ れて おり ( ( 11 ) 『明 治天皇 紀』 や 『明 治の能 楽』 から 知ら れる 明 治初期 にお ける 主な 催し を挙げ ると 【表 1】 の如く であ る) 、能 は完 全に沈 黙し たわ けで はな かった 。 ( 12 ) 明治 二年 (一 八六 九) 七月 、 欧米諸 国の 王族 とし て初 めて明 治天 皇と の接 見を果 たし たの がイ ギリ スのエ ジン バラ 公ア ルフ レッド 王子 であ っ た。 この 前代 未聞 の事 態 に直面 した 明治 政府 は 、 二カ月 にも 及ぶ 議論 の末 、 最 終的 に王 子を 国 賓とし て迎 える こと を決 定した とい う 。 外 務 省編纂 によ る ( 13 ) 『日本 外 交文書 』に は、 連日 種々 の芸能 によ って 饗応が 実施 され たこ とが 記され てい る。 英王 子接 待日 課 七 月廿 二日 一 英 王子 同国 軍艦 ガラチ アニ テ夕 第二 字横 浜へ 著 マ マ 但領 客使 伊達 従二 位随使 中島 中弁 同所 へ出 張之事 ( 略) 同廿五 日 一 高 輪八 ツ山 下ニ テ送神 祭執 行 一 延 遼館 門下 ニテ 路地祭 執行 一 第 九字 王子 横浜 出発陸 路ヨ リ延 遼館 著 ( 略) 同廿六 日 一 延 遼館 ニテ 槍剣 試合 同廿七 日 一 芝 増上 寺見 物帰 後太 神楽同 夜手 品芸 同廿八 日 一 第 一字 参 朝 但領客 使大 原正 四位 衣冠 著用誘 導王 子ト 同車 ○王子 帰館 後兵 部卿 宮小 直衣著 用労 問 一 夕 放 鷹 夜〔 手躍 三調 子鳴 物〕 同廿九 日 一 赤 阪和 歌山 藩邸 ニテ 能狂言 但日本 料理 被差 出 八月朔 日 一 延 遼館 ニテ 相撲 一 三 条右 大臣 岩倉 大納 言徳大 寺大 納言 大久 保参 議広沢 参議 副 島参議 松平 民部 卿鍋 島従 二位池 田従 二位 尋問 〔何 レモ狩 衣 著 用 〕 一 同 夜 花火 奏 楽 同二日 一 打 毬 軽業 漁 猟 夜席画 (以下 略) この時 王子 は、 ( 七月 ) 二十九 日に 赤 坂の 紀州 藩邸 に おい て弓 八幡 ・ 羽衣 ・ 小鍛 冶 ・ 経政 等を 観覧し てい るが ( 『 明治 の能楽 』 ㈠ 六頁 『 明 治新聞 』 ) 、 滞在 中には 他にも 武術 ・ 太 神楽 ・ 奇 術 ・ 放鷹 ・ 舞踊 ・ 相 撲 ・ 花 火 ・ 奏楽 ・ 打毬 ・ 漁猟な どの 様々 な雑 芸を 見物し てい る。 この うち太 神楽 、 独楽 、 奇 術 などの 雑芸 は早 くか ら海 外でも 上演 され てお り、 外国 人に も注 目さ れた 芸能で あっ たが ( ( 14 ) 『芸能 の文明 開化 』 ) 、

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そうし た雑 芸と とも に能 を供し たこ とは 、 明治 政 府が能 をそ れら の雑 芸と同 列視 して いた こと を示し てい よう 。ま た明 治五年 (一 八七 二 ) にロシ ア皇 帝の 第三 皇子 アレク セイ 大公 が来 日し た際に も 、 能 に並 ん で ( 15 ) 「各種 ノ本 邦独 特ノ 遊芸等 」 が行 われ、 明治 六 年のイタ リア ・ ジェノ ヴァ 公に 対し ても 「打毬 、 ホ ウロ ク、 調 練 、 能狂 言、 其他 種々 の雑技 」 ( 『明 治の 能楽』 ㈠) に よっ て饗 応が 為さ れ てい る 。 つま り、 国賓に 対し ては 能を 含め た諸芸 能に よっ て饗 応す るのが 慣例 とな っ ていた が 、 能 はそ うし た 日本ら しさ を持 った 雑技 ・ 雑 芸の 一つ に過 ぎ なかっ たの であ る。 こう した 事実 は 、 明 治 政府が 能を 政策 上そ れほ ど重視 して いな かっ たこと を示 した もの であ ろう 。 政 府に とっ て能 は 徳川時 代の 遺物 であ り、 近代 国家 の運営 には 無用な 代物 であ った 。 そ うした 態度 は 、 明 治 四年 ( 一八 七一 ) に 東京 府 から出 され た通 達か らも 窺うこ とが でき る 。 当府貫 属士 族卒 ノ内 、 用 達町人 ノ類 ニテ 能役 者本 阿弥等 并元 長袖 ノ者ト 相唱 ヘ候 画師 ・古 筆 見 ・連 歌師 ・囲 碁将 碁師 ・ 楽人 ノ輩 、 一昨辰 年鎮 守府 へ被 召出 禄高等 高等 外士 卒同 様被 下置 、 以 後御 官 支配附 ヨリ 当府 貫属 ニ相 成候 。 右 ハ全 体其 業ヲ 以 従来禄 高取 来候 処、 一体 政府ノ 職ニ 非ズ 、 全 徳 川 氏 内 家ノ 職務 用達 、 且 連歌 師 ・ 能役者 ・ 囲碁 師等 ノ如 キ ニ至テ ハ畢 竟遊 興具 ニシ テ、 抑御 一新 ノ 際旧幕 臣ノ 輩朝 臣ニ 被召 出候儀 ハ 、 政 府ノ 人タ ル ヲ以テ 御扶 助相 成候儀 ト存 候処 、 其政 府 ノ人ニ アラ ズ且 其職 業ノ 御用モ 無之 、 一 般ニ被 召出 候儀 ハ、 全ク 当 時 兵馬 倥偬 混雑 ノ余 リ被 召 出済 相成 、 今日ニ 至リ 右同 様ノ 者、 当府ヲ 初京 都 ・ 大坂 府等 ニモ有 之 、 前 件 被召出 候者 ヲ口 実ト 致シ 種 々 苦情 申出 、其 処置 困入 候 次第 ニ候 。 (『明 治の 能楽 』 ㈠ 二一 頁 所 引 『公文 録東 京府 之部 二 』傍線 私注 ) 右は、 能役 者と 並ん で刀 剣鑑定 の本 阿弥 家、 画師 ・ 古筆 ・ 連 歌師 ・ 囲 碁 師な どの 芸能 者を 挙げ た上で 、 彼ら は政 府の 職 ではな く徳 川家 が私 的に雇 って いた もの であ り、 所詮 は 「 遊興 具」 に 過ぎな いと 断じ てい る。 これ が当 時の 政府 が 能を含 めた 諸芸 能に 対し て抱い てい た認 識で あり 、 政 府が 積極 的に 保 護すべ き対 象と して 考え られて いた わけ では なかっ たの であ る。 一方 、 明 治政 府が 芸術 政 策の柱 に位 置づ けた のは 主に美 術と 音楽 で あり、 特に 音楽 の分 野 に 関して は 雅 楽が その 中心 であっ た。 ( 16 ) 塚 原康子 によ れば 、明 治国 家によ る音 楽政 策 は 、 ( 一) 国家 儀礼 ・国 際儀礼 に伴 う音 楽の 制度 化 ( 二) 国民 教化 のた めの国 楽の 創成 ( 三) 音楽 教育 制度 の確立 の三点 にあ った とい う。 雅 楽は、 近代 天皇 制が 形成 さ れてい く過 程で 、 その宮 中祭 祀及 び神 社祭 祀の際 の儀 礼音 楽を 担う と同時 に 、 西 洋音 楽 の伝習 によ って 、 在来 音 楽と西 洋音 楽の 橋渡 しと しての 役割 を求 めら れた。 そこ で 明 治三 年 ( 一八七〇 ) に は雅 楽局 が太 政 官に 設置 され 、 雅楽の 伝習 の一 切は 政府 によっ て管 理さ れた ( 明 治三年 十一 月七 日付 太政官 符 ) 。 さら に明 治 七年に なる と 海 軍軍 楽隊 に倣う 形で 、 西洋音 楽 (欧 洲楽 ) の 伝習 が開 始され 、 『 君が 代』 を 始 めとす る 儀 式唱 歌が 創出さ れる に至 った ので ある 。 こ うし た雅 楽諸 家 への対 応は 、 西洋 諸 国の制 度を 取り 入れ た明 治政府 が 、 雅 楽を 国家 に とって 必要 な芸 能と 考えて いた こと を示 して おり 、 国 家に 無益な 「 遊 興具 」 と みな されて いた能 とは 大き く 立 場を 異 にし てい たと いえ るだ ろう 。 以上の 如く 、 明治 維新 後 の社会 にお いて 、 能は 幕 府から も新 政府 か らも十 分な 援助 を受 ける ことが でき なく なり 、 自 活の試 みに 失敗 した 能役者 は次 第に 淘汰 され ていく よう にな る 。 そ う した時 期に おい て能 楽の必 要性 を認 識し 、 そ れを保 護し よう と試 みた のは 、 旧 来か ら能 を 愛好し てい た皇 族で あり 、 公 家や 旧大 名家 を中 心 とした 華族 であ った 。 次節で は 、 視 点を皇 族 ・ 華族へ と移 し 、 その 対応 を見て いく こと にし たい。 二、能 楽復 興の 立役 者― 岩倉具 視

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明治政 府の 場合 とは 異な り、 能楽 と皇 族と の結 び つきは 比較 的強 い ものが あっ た。 その こと は、 明治 八年 (一 八七 五 ) か ら九 年を境 に年 に数回 のペ ース で行 幸能 や行啓 能が 実施 され てい ること から も窺 え よう 。 そ して その 大き な 要因と なっ たの が 、 能 の 愛好者 とし て知 られ た英照 皇太 后の 存在 であ った。 英照 皇太 后 の 夫 孝 明天皇 は、 又花 につ け 、 紅 葉に つ け、 折に ふれ てと き/ \ 御内儀 御酒 宴を 催 され 、 両 役を はじ め人 撰 にてめ さる ゝ度 に 、 い つ とても 石野 基安 と狂言 せよ と御 沙汰 必あ り。 (略 ) 謡 は人 数も 多 く種々 と聞 召さ れ、仕 舞も 同様 十分 に御 覧あり 、笛 も鼓 も聞 しめ された り。 ( 『冷 泉為 理卿 記』 『能 楽盛衰 記』 六二 頁 所 引 ) とある 如く 、 能に 嗜 みが あった 人物 らし く、 その 影響も あっ て 、 英 照 皇太后 も能 に親 しむ よう になっ てい った よう であ る。 ( 17 ) 『明治 天 皇紀 』 の 記述 から 皇族 の 能楽御 覧を 調査 され た奥 冨利幸 によ れば 、 明 治期に 行わ れた 行幸 ・ 行 啓能の 計八 十五 回の 記録 のうち 、 実に 半数 以 上 (四 十七 回) は英 照皇 太 后の行 啓に よる もの で、 明 治天皇 の行 幸 ( 三 十三回 ) を上回 って いる という 。 しかも 明治 三十 年 ( 一八 九七 ) に 皇 太后が 崩御 した 後は 、 天 皇は記 録上 僅か に一 度 ( 明治四 十三 年の 前田 利為邸 行幸 ) しか 能を 観 ておら ず 、 皇 太后 の能 に 対する 情熱 とそ の影 響の大 きさ が窺 える 。 ま た能を 愛好 した 皇太 后の ために 、 維新 後間 も ない明 治三 年に は慰 能が 計画さ れて いる 。 皇太 后 、 京都 に留 守し たまふ こと 久し 、 是 の月 、 天 皇、 其の 無 聊 を慰め たま はん がた めに 囃子 ・ 能 狂言 等の 御覧 を 勧めた まふ 、 右 大臣三 条実 美 ・ 大 納言 岩 倉具視 ・ 同徳 大寺 実則 連 署して 書を 留守 長官中 御門 経之 に致 し 、 聖旨を 伝宣 し 、 内 々規 画 経営す る所 あら しむ 、 尋 いで 又実美 等 、 経之を して 、 皇太后 に勧 めたて まつ るに 修学院 行啓 の事 を以 てせ しむ 、 皇 太后 、 聖 旨を 拝 し、 辞謝 して 曰 く、 客歳 以来 天皇 行宮 に 在して 夙夜 萬機 を総 攬あ らせら れ 、 宸 襟 を安ん じた まふ 暇あ らせ られざ るに 、 独り 遊楽 に 耽るべ きに あら ずと (『明 治天 皇紀 』明 治三 年四月 二十 八日 ) この時 は政 情不 安に よっ て実現 をみ なか った が、 明 治八年 (一 八七 五) になっ てよ うや く皇 太后 の実弟 にあ たる 九条 道孝 邸での 行啓 能が 実 現する と 、 こ れを 皮切 り に徐々 に行 幸 ・ 行 啓能 が 催され るよ うに なっ ていく 。 そう した 中で 明 治十一 年に は 、 皇 太后 の 住む青 山御 所へ の能 舞台建 設が 計画 され てい る。 その 様子 を 『 明治 の 能楽 』 か ら見 ると以 下の通 りで ある 。 青山御 所の うち へ御 能舞 台を新 築せ らる ゝに 付き 、 其 木材 を工 部 省より 廻さ るゝ よし 。 (明治 十一 年四 月十 九日 『東京 日日 新聞 』) 青山御 所内 へ建 築の 御能 舞台の 落成 の上 は 、 東 京 及び京 坂の 有名 なる能 役者 ・ 狂言 師ど も を召さ せら れて 、 其伎 を 演ぜら るべ き御 模様な りと 。何 ばう 目出 たき事 にこ そあ れ。 (明治 十一 年四 月二 十九 日『東 京日 日新 聞』 ) 青山 御所 は従 来御 手狭 まなれ ば今 度謁 見所 并に 御車寄 等が 新築 になり 、 又た 同所 へ仮 り 御能舞 台を 取り 建ら れ 、 聖上よ り皇 太后 宮へ御 慰み の為 御能 を進 ぜらる ゝ思 召に て 、 既 に 昨日 、 役 者共 へ 右御用 を仰 付ら れし ゆゑ 、来月 下旬 には 御催 にな る趣。 (明治 十一 年六 月十 五日 『郵便 報知 』) 金剛 唯一 、 観 世清 孝 、 宝生九 郎 、 三宅 庄市 の四 名は 、 昨 日宮内 省 へ御呼 出し にて 、 皇太 后 宮御能 用番 を仰 せ付 けら れたり 。 梅若 実 も御呼 出し の処 、所 労に 付、不 参せ りと 申候 。 (明治 十一 年六 月十 八日 『朝野 新聞 』)

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この後 、 七月 五日に 舞台 開が行 われ 、 出演者 のう ち宝生 九郎 ・ 観 世 清孝 ・ 梅若 実 ・ 観世 銕之 丞 ・ 金 春廣 成 ・ 金剛 唯一 ・ 三宅 庄市 が御 能御 用係に 任命 され 、装 束料 を下賜 され てい る。 是れよ り先 六月 、金 三千 円 を 装束 料と して 御用 達清 孝 等に 賜ひ 、 又本年 六月 より 五箇 年間 は演能 毎に 金八 十円 を装 束賃借 の料 と して給 する こと と為 した まふ 、 但 し明 治十 六年 六 月以降 は 、 前 賜 金三千 円を 以て 装束 を調 製せし む 。 是 れ能 楽再 興 の始に して 、 全 く皇室 の庇 護に 因る 、 (『明 治天 皇紀 』明 治十 一年七 月五 日条 ) これら の一 連の 活動 は 、 皇室と いう より は 、 む し ろ英照 皇太 后個 人 の嗜好 に応 じた 私的 色彩 の強い 活動 であ った とい える 。 し かも その 活 動も 、 皇 室を 取り 巻く 華 族側か ら働 きか けら れた もので あっ た 。 ( 18 ) 中でも 中心 的な 役割 を果 たした のは 、 当時 政府 の 中枢に あっ た岩 倉具 視であ る 。 岩倉 は 、 明 治 九年 (一 八七六 ) に実 施 された 初の 行幸 能を 自邸で 開催 した ほか 、 青 山御所 への 能舞 台建 設や 明治十 五年 の芝 能楽 堂建設 にも 積極 的に 関与 したこ とが 知ら れて いる 。 こ うし た活 動に よ って 、 後 に池 内が雑 誌 『 能楽 』 創 刊号 の冒 頭 に以 下の文 言を 載せ た如 く、岩 倉は 能楽 復興 の 立 役者と して 祭り 上げ られ ていく ので ある 。 公の 英邁 の資 によ り王 政維新 の大 業を 翼け られ 其偉勲 の赫 々と して以 て万 歳に 陟る べき は既に 世人 の熟 知す る所 なるが 此の 能 楽道に 取り ても 永く 斯道 の守護 神と して 尊敬 すべ き偉績 を奏 せ られた るも のに して 彼の 衰退せ し能 楽道 の明 治十 四年の 頃よ り 頓に勢 力を 増し 以て 今日 に至れ るは 明治 聖代 の余 沢に依 ると 雖 も抑も 亦公 の厚 く此 道を 保 護 せら れた る功 績に 帰せ ざ る可 らず 。 今や本 紙発 刊に 当り 公の 偉績を 思ひ 追懐 の情 に堪 へず巻 首に 御 肖像を 掲げ 、 尚 又 左に 同 公当時 の 事 績を 熟知 せる 人々の 談話 に因 り如何 に斯 道の 為め に尽 された るか の大 要を 記し 以て斯 道に 志 す人々 に知 らし めん と欲 す。 ( ( 19 ) 『贈 太政 大臣 岩倉 具 視公』 ) そもそ も能 楽に 対し て保 護意識 の薄 い明 治政 府に あって 、 岩倉 が 能 楽に関 わる こと にな った のはな ぜで あろ うか 。 そ の契機 につ いて は大 きく次 の二 点が 指摘 され ている 。 一つ は特 命全 権 大使と して 訪れ た西 洋にお ける オペ ラの 観劇 体験で あり 、 もう一 つは 、 明 治十 二年 (一 八 七九) に来 日し た前 アメ リカ大 統領 グラ ント の提 言であ る。 このう ち前 者に つい ては 、 池 内が 著書 『能 楽盛 衰 記』 の中 で以 下の 如 く述 べて いる 。 此の 時に 方り 、 能楽 再 興の機 運を 醸成 する に至 らしめ たの は 、 実 に明治 四年 岩倉 具視 卿が 大使と なっ て欧 米視 察に 赴き 、 能 楽の 捨 つべか らざ るこ とに 心づ かれた のに 起こ るの であ る。 (『能 楽盛 衰記 』四 二頁 ) 岩倉を 始め とす る百 七名 の使節 団は 、 明治 四年 か ら六年 にか けて アメ リカ合 衆国 及び ヨー ロッ パ諸国 の視 察を 実施 した が、 この 時岩 倉に 随 行した 久米 邦武 は 、 プ ロ イセン で見 たオ ペラ につ いて以 下の 如く 記し ている 。 然 るに 欧洲 の宮 殿に ある 、 そ の壮 麗な るオ ペ ラ堂を 見る に至 って 、 痛切に 国民 娯楽 の必 要を 感じ、 而し てか ゝる 精神 上の慰 藉か ら 種々な 結果 を来 す娯 楽に は、 一時 的流 行の もの 、 今日あ っ て 明日 なきも の 、 又 は外 来の 浮 ついた もの では 所詮 立派 なもの は出 来ぬ 、 怎うし ても シッ カリ と国 民性の 奥に 根を 持っ て居 るもの 、 即ち 日 本固有 の歌 舞音 曲で なけ ればな らぬ 。 若し 此選 択 を過ま った なら 、 国民的 娯楽 の欠 乏か ら、 日 本は非 常な 不幸 に陥 らね ばなら ぬ、 と、 其処で 能楽 の芸 術的 価値 を思ふ に至 った 。 ( ( 20 ) 久米 邦武 「能 楽の 過 去と将 来」 ) この時 久米 は 、 オペ ラの 観劇体 験に よっ て 「 国民 的娯楽 」 の必 要性 を 感じる とと もに 、 そ れに 最適な 芸能 とし て 「 日本 固有の 歌舞 音曲 」 で あり 「芸 術的価 値 」 を 有 する能 楽が 想起 され たと する 。 し かし 、 こ の 久米の 叙述 につ いて は横 山太郎 によ って こうし た 「国 民のた めの 能楽 」 と いう 意味づ けは 、 自 由民 権運 動

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や日清 日露 両戦 争を 経て 国 民 ネイショ ン がリア ルに なっ てき た― つまり 広 範な人 々に よっ て自 らが 主体的 に帰 属す る共 同体 として 想像 さ れるよ うに なっ てき た明 治末年 とい う時 点か らの 久米の 投影 と 見るべ きで あり 、 明治 一 〇年代 前半 まで に行 われ た久米 や岩 倉の 能の復 興の 構想 には 、 こ うした 「 国民 」 と いう 契 機を認 める こと は不可 能で ある 。 (『能 楽堂 の誕 生』 ) との指 摘が あり 、 これ を そのま ま当 時の 久米 の考 えとし て認 める 事は できな い。 岩倉使 節団 の公 式記 録と して久 米が まと めた ( 21 ) 『 特命全 権大 使 米欧回 覧実 記 』 によ れば 、 オ ペラ につ いては 「 諸 種の芝 居中 にて 最上 等なる もの 猶我 能楽 の如 し」 との 感想 が記 され て おり 、 こ の時 久米 が オペラ と能 の相 同性 を認 識して いた こと は認 める ことが でき る。 ( 22 ) しかし 、 同書 に見 える 他 の音楽 や芸 能に 関す る記 述は 、 そ のほ とん ど が外交 儀礼 の場 にお ける 音楽に つい て記 した もの であり 、 また 多く の 場合 、 具 体的 な音 楽の 内 容に言 及し てい な い 。 例 えば最 も充 実し た記 述を有 する 一八 七二 年六 月十八 ・ 十 九日 ( 明治 五年 五月十 三 ・ 十四 日) にボス トン で催 され た 「 太平楽 会 」 に 関する 記述 を見て も 、 具 体的 な 曲名や 作曲 者 ・ 演 奏者 の 来歴に 関す る記 述 が ほと んどな い半 面 、 劇 場 の建設 費用 や、 歌手 の報 酬 、 さら に、 当 日演 奏さ れた 「星条 旗 ( T h e s tar spl engl ed ba n ne r 」 が 人 々の愛 国心 を誘 発し たこ となど を実 に詳 細に 記して いる 。 つまり 、 著 述者で ある 久米 にと って (恐 らく 岩倉 を含め た一行 全体 の興 味も 同様 であっ たと 思わ れる ) こ の日演 奏さ れた 作品 や演奏 者と いう より は 、 演奏会 の予 算や 規模 、 さ らには 音楽 によ る愛 国心の 高揚 など 、 近代 国 家にお ける 音楽 のあ り方 に関心 が向 けら れて おり 、 音 楽の 「芸 術的 価値 」 に 関心 が払 われ たと は言 い難い ので ある 。 能楽に 対し ても 同様 で 、 明治政 府の 中枢 にあ った 当時の 岩倉 にと って 、 オペラ や能 の芸 術的 価値 は二の 次で あり 、 国家 と して保 存す べき もの とは映 って いな かっ たの ではな かろ うか 。 一方グ ラン トの 提言 につ いては 、 ( 23 ) 『岩倉 公実 紀 』に詳 述さ れ ている 。 前キニ 具視 ガ米 国前 大統 領克蘭 徳ヲ 延遼 館ニ 存問 スルノ 時ニ 於 テ、 克 蘭徳 ハ具 視ニ 問テ 曰ク 「 貴国 ニハ 固有 ノ音 楽アリ ヤ」 具視 答テ曰 ク 「 朝廷 ノ祭 式礼 典ニ用 ヰル 所ノ 音楽 ニ神 楽アリ 、 催 馬楽 アリ、 又舞 楽ア リ。 神楽 ト催馬 楽ハ 我国 固有 ノ音 楽ナリ 。( 略 ) 中世以 降ノ 作ニ 係ル 一種 ノ音 楽 アリ 、 之 ヲ能 楽ト 曰フ。 (略) 今 日ハ頗 ル衰 頽ニ 傾キ タル モ、 仍 ホ存 ジテ 世ニ 伝ハ レリ。 其楽 器ハ 善美ヲ 尽ス ト言 フヲ 得ザ ルモ 、 専 ラ歌 謡舞 態ヲ 以 テ曲ヲ 成シ 高尚 優美ノ 技芸 ナリ 」 ト。 克 蘭徳之 ヲ一 見セ ンコ トヲ 乞フ。 具視 乃チ 克蘭徳 ヲ本 邸ニ 招迎 シ、 能楽師 ニ命 ジテ 望月 ・ 土 蜘蛛ノ 二曲 ヲ奏 シ、 其 観覧 ニ供 ス。 実 ニ 七月八 日ナ リ。 此後 具視 華族ノ 有志 者等 ト商議 シ、 欧洲 各国 ニ於 テ帝王 貴族 ガ彼 ノ 「 オペ ラ」 ヲ 保護 スル ノ例ニ 倣ヒ 、 此能 楽ヲ 保 護シテ 之ヲ 永久 ニ伝 ヘン コトヲ 図ル ト云 フ。 (句読 点等 を私 に補 う) 来日し たグ ラン トは 明治 天皇と の謁 見を 行い 、 外 交問題 を中 心に 意見 交換を 行っ てい るが 、 そ の中で グラ ント が日 本固 有の音 楽に 興味 を示 し、 そ れに 応じ た岩 倉が 自 邸に招 待し 、 能 を見 せた と いうも ので ある 。 これに つい て倉 田喜 弘は 、 能を 観た グラ ント の感想 は知 る由 もな いが 、 右 の一 節か ら浮 かび 上がる のは 、 自 国の 文化 を 大切に 、 と いう 示唆 では な いのか 。( 略) 岩倉は 、 芸能 に 「 文化 」 という 物差 しが ある こと を教え られ たの ではな いか 。 そう でな け れば 、 能 楽保 護の 意向 を 急に打 ち出 すは ずがな い。 グラ ント の提 言で能 楽の 新生 面が 描か れた。 (『芸 能の 文明 開化 』一 七九頁 ) として 、 グラ ント によ る 提言が 岩倉 を能 楽保 護に 向かわ せた 契機 と指 摘する 。 しか しグ ラン ト が明治 天皇 と会 談し た際 には 、 日 清両 国に お

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ける 琉 球 の 帰属 問題 、 殖 産興業 、 条約改 正 問 題な ど、 内外 の政治 ・ 外 交問題 が主 体と なっ てい ること から 、 その 関 心は 、 政 治や 外交 、 軍 事 に向け られ 、 文化は 中心 的な話 題で はな かっ た。 しかも 岩倉 は 、 明 治 十二年 ( 一八 七九 ) に グ ラント と出 会う 以前 から 行幸能 の開 催 (明治 八年 ) や 青山 能楽堂 建設 (明 治十 一年 ) な どに よ って能 楽と の関 わり を持っ てい たの であ り 、 グラン トの 提言 を能 楽保 護の契 機と して 位置 づける のは 無理 があ ろう 。 以上 の如 く 、 こ れま で 岩倉 に つい ては 、 能の 持 つ芸術 的な 価値 を認 め復興 に尽 力し た人 物で あると 考え られ てき た 。 しかし その 契機 と考 えられ てき たヨ ーロ ッパ におけ るオ ペラ の観 劇に おいて 、 岩倉 一行 の 関心が オペ ラの 芸術 的価 値に向 けら れた 形跡 はな い。 また グラ ント の 提言に つい ても 、岩 倉が それ以前 から 能楽 復興 事業 に 携わ って おり 、 これが 契機 では ない こと は明ら かで ある 。 つ まり 、 これら の出 来事 は、 岩倉を 能楽 復興 の立 役者 として 位置 付け るた めに 後付け され た虚 飾 に過ぎ ない とい える 。 そ こには 、 岩倉 を能 楽復 興 の立役 者と して 美化 しよう とす る思 惑が 働い ていた と考 えら れよ う。 それで は岩 倉が 芝能 楽堂 や能楽 社の 活動 に関 与し た 真の 理由 は何 だった ので あろ うか 。 横 山太郎 ( 『能 楽堂の 誕生 』 ) は、 明治 の名 人 の一人 であ る宝 生九 郎の 至芸に 接し たこ とが 岩倉 が能に 関与 する こ ととな った 直接 の契 機で あり 、 そ の時 期は明 治九 年 ( 一八 七六 ) の 天 覧能と その 直後 の梅 若実 邸での 月並 能観 覧で はな いかと 推測 して い る。 確か に明 治九 年の 天 覧能を 機に 岩倉 の観 能回 数は急 激に 増加 して おり 、 ま た直 接 岩 倉が 宝 生九郎 から 能の 教授 を受 けてい たこ とは 『 能 楽盛衰 記 』 の 記すと ころ でもあ る 。 仮 にその 指摘 に従う なら ば 、 近 代 の能楽 復興 の歩 みは 、 英 照皇太 后と 岩倉 具視 両人 によっ て為 され た私 的活動 に過 ぎな かっ たと いうこ とに なろ う 。 し か し、 岩倉 がそ うし た 個人的 な理 由だ けで 、 多 額の費 用を 出資 して まで 芝能楽 堂や 能楽 社の 活動に 関わ る必 然性 は感 じられ ない 。 むし ろ、 能 楽社や 芝能 楽堂 建設 の主体 とな った のは 華族 であり 、 そう した 人々 と の関係 につ いて 考え てみる 必要 があ るの では なかろ うか 。 次節 では 、 芝能楽 堂と 能楽 社 の 活動 に 焦点 を当 て つ つ 、 運営主 体 で あっ た華 族側 と、 それ を主 導し た 岩倉そ れぞ れの 思惑 につ いて 考 察を 試み たい 。 三、能 楽復 興と いう 神話 ―能楽 社と 芝能 楽堂 東京府 の一 公園 たる 芝山 内に建 設せ られ たる 能楽 堂は我 国能 楽 再興の 紀念 とし て忘 る可 らざる 一大 建築 物に して 今其由 来の 大 要 を記 せん に明 治十 三年 当時の 左大 臣岩 倉具 視公 能楽は 我国 貴 紳の遊 楽に 適当 なる を以 て其衰 へた るを 起し 再び 世に用 ゐし め んと志 ざゝ れ華 族及 び有 志者を 奨励 し 、 元 金地 院 の境内 たり し紅 葉谷の 地を 相し 旧来 の諸 式を参 酌し 宮内 省内 匠課 の技師 白川 勝 文氏を して 其工 を督 せし め一年 余の 日子 と壱 万八 千余円 の資 材 を投じ て建 設せ しめ られ たるも のに して 当時 発起 人諸氏 より 東 京府知 事に 呈出 せら れた る願書 及辞 令は 左の 如し 。 ( ( 24 ) 「芝 能楽 堂の 由来 及 略歴」 ) 雑誌 『能 楽』 創刊 号は 、 岩倉へ の賛 辞に 引き 続い て芝能 楽堂 につ いて も右の よう に記 し、 その 意義を 強調 して いる 。 ( 25 ) 明治十 三年 (一 八八 〇 )五月 、岩 橋轍 輔・ 子安 峻・小 野義 真 の三名 によ って 、 芝公 園 楓山に 高級 集会 施設 であ る紅葉 館の 建設 計画 が持ち 上が ると 、 そ れに 連動し て九 条道 孝 ・ 前田 斉泰 ・ 藤 堂高潔 ・ 前 田利鬯 ら親 能派 の華 族を 中心に隣 接地 に能 舞台 の建 設 が計 画さ れた 。 これが 近代 的な 「能 楽堂 」 の 嚆矢 とな った芝 能楽 堂であ る 。 奥 冨利 幸 は 「 建物 だけ でな く、 組 織とし ても 劇場 を目 指し た初め ての 伝統 芸能 専門劇 場で ある 。」 と述 べたう えで 、 その 平面 構成 は 、 基 本 的には 青山 御所 と同 様に 、 伝 統的 な能 舞台 と見所 であ る広 間が 、白 州 を 介し て対 置す る配 置が と られ たが 、 脇正面 側の 重要 性の 向上 に伴う 見所 の張 り出 しや 、 そ の後 の改 造 による 白州 部分 への 見所 の設置 、 そし て、 硝子 板 を使っ た明 かり

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採りを とっ て白 州の 野天 を覆い 、 能舞 台と 見所 の 空間を 一体 とす る室内 化は 、能 楽堂 の近 代化を 最も 象徴 する 変化 である 。 (『近 代国 家と 能楽 堂』 一二一 頁) と指摘 して いる 。 貴人 を 中心と しな がら も一 般客 を想定 した 公的 な色 彩の強 い 「劇 場」 とし て 作られ た点 で 、 芝能 楽堂 は私的 な演 能場 に過 ぎなか っ た それ まで の能 舞台と は 、 一 線を 画す る 存在だ った ので あ る 。 さらに 芝能 楽堂 の建 設と 同時に 、 その 運営 機関 と して能 楽社 が設 立 された 。能 楽社 設立 の目 的には ( 26 ) 「能 楽ノ 芸道 ノ 維持」 が掲 げら れ、 設立 意義を 記し た 「 能楽社 設立 之手 続」 には 、 明 治初 期にお ける 能楽の 歩み を総 括す ると ともに同 社の 重要 性が 高々 と 謳わ れて いる 。 能楽人 ノ内 実ハ 至極 困窮 ニ陥ヰ リ追 々廃 滅ニ 及ブ 姿ニテ 御催 能 モ永続 無覚 束ヲ 以テ 宝生 九郎 、 梅 若実 両人 総代 ト ナリ芸 道維 持之 御仕法 被相 付度 宮内 省ヘ 願出ン トス ル由 岩倉 殿被 聞及角 テハ 御 舞台御 建進 ノ詮 モ無 之且 久シク 朝廷 幕府 ニ採 用シ タル芸 道廃 絶 ニ及ブ 時宜 ニ迫 リテ ハ其 儘ニ差 置キ 難ク 乍併 其比 西洋ノ 風儀 追々ニ 伝播 シ彼 諸国 ニ於 テハ声 楽舞 曲ハ 人心 風俗 ニ大関 係ア ル モノナ ルヲ 以テ 政治 家学 士ミナ 演劇 ニ心 ヲ用 ヰル トテ在 京官 員 ノ内ニ ハ歌 舞伎 芝居 ノ改 正ニ心 ヲ入 レ新 富座 芝居 ヘ主上 御臨 幸 ヲモ可 奉願 勢ニ テ或 ハ猿 楽ハ古 ノ芝 居ニ テ已 ニ時 好ニ後 レ今 ハ 芝居ヲ 以テ 之ニ 代ユ ベシ ト謂フ モノ モ有 之 。 素 リ 歌舞伎 芝居 ノ体 面甚淫 蕩ナ ルモ ノニ テ貴 人ノ賞 翫ス ベキ モノ ニ無 之且維 新以 来 上下検 束ナ クナ リ華 族ノ 少年輩 狭斜 声妓 ニ身 ヲ持 崩シテ 是ガ 為 メニ家 ヲ滅 スニ モ至 リ甚 ダ憂フ ベキ 風習 ニテ 何ト ゾ其風 ノ増 長 セサル 様ニ ト配 慮ス ルノ 際若シ 猿楽 ヲ維 持ス ル端 緒ヲ啓 カバ 頓 テ芝居 ヘ臨 幸ヲ 促ス 作俑 トモナ ラン 歟ト 色々 懸念 セラレ ( 略) 猶 又外国 公使 其ノ 他外 国人 ヘ面会 ノ時 彼邦 ニテ 帝王 宮中ニ 設ケ タ ル芝居 舞台 又民 間ニ 行ハ ルヽ芝 居及 ビ官 ヨリ 此等 ノ芸道 ニ保 護 ヲ加フ 情実 等モ 諮問 サレ シニ彼 国ニ テ帝 王ノ 宮殿 ニ設ク ルハ 「 オ ペラ 」 ト 称ス ルモ ノニ テ 専ラ歌 謡ヲ 以テ 成リ 高尚 優美ノ 芸ニ テ一 般ニ行 ハル ハ 「セ ート ル 」 ト 称シ 民間 ノ状 態ヲ 演 ジテ面 白キ モノ ナリ 。 故 ニ 「 セー トル 」 ニハ上 下種 々ア リテ 盛ン ニ行ハ ルレ ドモ 「オペ ラ 」 ハ 流行 盛ン ナ ラズ総 テ高 尚ノ 美 術 ハ自 然ニ衰 頽ニ 傾キ 易キモ ノナ リ故 ニ上 流ノ 人ハ常 ニ保 護ヲ 加ヘ テ其 ノ高尚 優美 ヲ 保存セ シム ルヲ 図リ テ帝 王貴族 ノ財 産ヨ リ 「オ ペ ラ」 ニ寄 付ス ル 金額ハ 頗ル 莫大 ナル モノ ニテ又 其俳 優ニ ハ特 別ノ 権利ヲ 与ヘ テ 之ヲ優 待ス ル等 ノ由 ヲ述 ブ。 是ニ 因リ テ猿 楽能 ノ 維持ハ 已ム ベカ ラザル 事ト 確認 セラ レタ レドモ 国事 多端 ノ際 公然 官ヨリ 之ニ 保 護ヲ加 フル 儀ハ 到底 行ハ ルベカ ラザ ルヲ 以テ 責テ ハ同志 ノ華 族 申合セ テ姑 ク此 芸ノ 廃滅 ヲ支ヘ テ折 角建 造セ ラレ タル御 能舞 台 ヲ保続 シ大 宮御 所ヘ ノ御 孝養ヲ 奉助 時節 ヲ待 ベシ ト勘考 セラ レ シハ( 以下 略) (『能 楽盛 衰記 』八 九頁 ) ここに は 、 明 治維 新に よ って危 機に 瀕し た能 が 、 西洋に おけ るオ ペラ 保護の 例に 倣っ て 、 篤 志 の貴紳 によ って 保存 され るとい う 「再 生の 物 語」 が 示さ れて いる 。 こ の 「再 生」 とい う神 話の 中で、 華族 を中 心に 結成さ れた 能楽 社は 、 そ の象徴 的存 在と して 位置 づけら れた ので あ る 。 この時 岩倉 は 、 能 楽堂 の 建設に 対し 、 現場 に通 っ て直接 指示 を下 す だけで なく 、 建設 に不 足 分の費 用約 数千 円に 私費 を投じ るな どし て積 極的に 計画 を推 進し た 。 そうし た犠 牲を 払っ てま でも華 族を 復興 の主 役に位 置付 けた のに は 、 当時岩 倉が 華族 制度 に強 い関心 を抱 いて いた ことと 関連 が あ るの では なかろ うか 。 岩倉は 明治 九年 (一 八七 六) に 創設さ れた 華族 会館 館長 として 、 華族 制度 の確 立 のため 第十 五銀 行や 学習院 の創 設な ど様 々な 政策を 実施 した 。 当初 岩 倉は 、 伊 藤博 文ら に よって 示さ れた 華族 を貴 族院議 員と して 政治 に参 与させ る案 には 反 対で 、 む しろ政 治に 直接 関与せ ず 、 「 皇室 の藩 屏 」 と して 皇族を を支 えるヨ ーロ ッパ の貴 族像 を理想 とし てい た 。 華 族 は上流 階級 とし てそ れに応 じた 責務 を果 たす べき存 在で あり 、 能楽 の 再生に 携わ るこ とは 「欧洲 各国 ニ於 テ帝 王貴 族ガ彼 ノ 「 オペ ラ」 ヲ保 護スル ノ例 」 ( 『 岩

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