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nihon kinsei jisha kenchiku yoshiki to zoei ni kansuru kenkyu

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Academic year: 2021

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?・稲田大学審査学位論文(厚士)

Kodak

Gray

Scale

A 1 2 3 4 5 6

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日本近世寺社建築様式と造営に

       四99年3月

河上信行

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1 rl 諭 1 I j 研究のヒ戌 ‥ ‥ 既往の研究の成果と践一 研究の方法と本論文の相成 目 次 ぶ 諭 笛1編 江戸時代の武蔵匡多摩郡における中小寺社造営  第1章 江戸時代後期の費用調達  ‥‥‥‥‥‥‥    笛1節 史料と対象寺社の各造営  − ‥‥‥ ‥‥‥‥    第2節 費.用調達の形態  ‥‥‥‥‥ ‥‥‥ ‥‥‥‥    第陥リ僕 ・・・・・・・・・・.    ・・  ・・  第2章名主と烈主体 ……… …………    第1節江傾代後期における名牡徊』    第2 rj 名刺の位置と造営主体  ‥‥‥ ‥    馴節小結 ………  第:;章 村落の近世寺社造営の特質     -‥    第1的 造営形態の変化の建築生産・建築様式への影響    第2節 造営形態の変化の制度的背景  ‥-  ‥−    第3 lj 小結   ・・・・・・ ・・・.    ・・・   ・・ 笑 編 徳川幕府の寺社建築規制 第1 ー 寛政9年の撞鐘・鐘楼の規匍J  ‥ ‥   第1節 応射」における申請・許可  ……   箭12節 規吻』の背景  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥   第3節 小結  ……… 第]章 撞鈍と釦棲規吻Uにおける幕府寺社奉行   第1茫 許認可にみる幕府寺社奉行と在所   笙2拉丿 規勿」の実態   ………   削袖小結 ……… Ⅲ 補 論    笥1章 多摩地方における大工活動と建築様式      第1節 大工活動と建築様式の変遷      第2節 検札にみる棟梁等の呼称  ……      第諮小結………    第2章 周辺大工の進出と撤退  ………      第]節 周辺大工の進出の背景  ………      笛2節 周辺大工の撤退の背景  ‥‥‥      第建小結……… TX’柚 論 闇池某紙 抱卵  1  2 17 34コーり0620163 CI C . IM ’t 7 1C Irj ’2Q 1 1 ‘l l48  89  89  98 101 109 1(畑 円ら に7 に21 121 128 13j 138 139 142 ト47 に3 158 158

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図表リスト J I 古 表 長1 1 − 八 表 ム 表 j 、 j 、 j 、 f ` ド1 [刈] 1 1 1 1 1 ・占野禎次家文書にみる春日神社本殿寛延期修理収入内訳 占野禎次家文忠にみる春ロ神社本殿文化拒修理収入内訳 占野徳太郎家文書にみる御嶽神社旧本殿等明和期修理収入内訳 吉野徳太郎家文書にみる御嶽神社拝殿等明安政期修理収入内訳 吉野禎次家文書等にみる妙光院本堂天保期建立収入内訳 ‥-…… 名主吉野氏と鈴木平九郎の関わった主な寺社造営 ……… 烈の主体の変化と建築生産・建築様式………  に多摩地力胃梅地域を中心として) ’撞鈍堂再建答阻札.;所収の幕府への問い合わせ(その1)‥ ‘師範堂再建答痢札j‥所収の幕府への問い合わせ(その2)… 引3こ一国における戦時供出の鐘(寛政元年∼文化10年)……… 純利,にみる中仙七兵衛と地元の大工 ……… 多摩地方心梅地域における人工の出身地と  、I丹L建築の所在地に引5∼1713年) 多摩他方戸梅地域における大工の出身地と 千社建築の所在地(1715∼1745年) 図1−3 多摩地方術梅地域における大工の出身地と ………     -、Iり1!建築の所在地C1745∼1805年) 図円糾地方鵠地域における大工の出身地と………     寺社建築の所在地(1805∼1867年) 図2   多摩地方青梅地域における寺社建築の虹梁の絵様の変遷 28 29 30 30 31 CI LC 1n l4 7 15 9 9 に6 131 124 124 125 !25 126

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1 研究の目的 が 一 − 暗記様式史の視点から,近世.特にi]:F‘時代後半の寺社建築は画 誇張的な装飾に走り.細部としても醜いもの とされた 占代 的であ 中世において 研究対象の主流であった寺社建築から.城郭.邸宅.茶室.霊廟等へと主題を代えて、 近匿という時代の意義が理解される傾向にあった、日本建築史研究は精緻で膨大な蓄 積があるカヘ近臣社寺建築を除外することで日本建築史研究は成逞していたといえる.  退化守札建築の柿色にt、一つは近世初頭に大寺社が一大這般されたことであり.一 つは他方各坦ツパ仁々に田小寺社が圧倒的な数をもって建設されたことであろうト多 くの千社が退没されたニととあわせて、現代に近いという時代的理由から、近眼は寺 社建築の遺構が古代り・ t仕とは比較にならないほど多い、昭和52年(1977)以降.各 府県ごとに緊急調査が行なれれて大きな成果が得られ、村落にお0る中小寺社が研究 ヤ象となった 各坊リバ斤社における細部装飾を含む建築様式、近世大工を含む建築生 産、そして建築様式と建築生産との関係を論じた緻密な研・究がそれである.  しかし.近世ヤ礼建築を対象とする研究は進展したものの、近年の緻密な研究はや やもすれば建築様式や建築生産の視点から個別に把握される傾向にある、建築を社会 貯営為と捉えるとき、社公紀済の視点を含む、総合的理解という意昧において課題は 依黙として付加する  18世紀中葉以降の商品経済の隆盛は、経済のみならず思想や文化を含む社会全般 に対して大きな影響を年えた2 建築も時をほぼ開じくして変化し、たとえば彫刻な どの装飾的細部が盛んに用いられるようになる.この社会変化と建築様式の変化は単 に開時代的現象というだけではなく、それぞれの変化の間になんらかの因果関係が存 佐することは容易に想像できるが、経済の変動を含め.社会現象と次元の異なる建築 様式の関係を論究したものは意外に少ない.  画一的な近世寺社建築という評価は、実は近世という時代の捉え方と重なっている. 近世を画一的なものと考えるか.もしくは多様なものと考えるが.近代との関係でい えば、近世は近代によって否定されたのか、もしくは近世は近代を準備したのか.意 兄の分かれるところである、.仮に画一的だとしても、従来いわれでいるように檀家制 度、幕府の建築規制.彫刻等の多用.淋割書の公刊等を原因とするのものか.建築生 1

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序 論 産史F究の史料として対象化されるものの,近世寺社建築の評価は留保されたままで あcっ.画 一化の原因とされる諸邨因は定説のままである,.  詞藻における寺社建築に目を向けても.造営の実態や仕組み.つまり建築の形を決 めたのは人:TrTか.あるいは建て主か,それとも建設費用の提供者か.そもそも建て主 んは誰か.費用を出したのは誰か,肝心の大工はどのようにして決まったかなどは. j.朴ではあるが.村落の近世寺社建築の特質を考える上で欠かせない問題であるにも かかわらず.史料的制約もあって依然として未解明のままである.  以ト.の反省のヒに,本論文は建築様式と社会経済との関係を解明することを射程と Lて.近111再見建築における工匠の動態.建築様式.造営形態.建築規勿』などの種々 の要心をか圭え.近世寺社建築の特質を具体像に即して解明することを目的としてい で」 2 既往の研究の成果と課題 田 近世寺社建築史研究の成果と課題   近11t寺院建築の様式・意匠について,藤岡通夫氏は’近世の寺院建築は.その初期  桃山時代においては.和様・禅宗様・大仏様の各様式にこだわることなく.絵様彫刻  を自由に駆使Lて活気横溢した意匠を工夫したのだったが.時代が下るにしたがって  創作カを失い,技巧は煩珀に陥り.いたずらに水割法を墨守したために,建物は千編  一律な類型的なものとなった しかも一方では.効果を考慮せずに絵様彫刻を乱用し.  加えてこれが力を失った意匠になるに及んで.その風格はいよいよ卑俗に陥って.倣  うべからざるものにまで立ち至るのである,Iとする≒   近臣.中でも江戸時代中期以降の寺社建築が「創作力を失いU技巧は煩現に陥り,  I・不随 ・律な類型的☆絵様彫刻を乱用」り」を失った意匠.「風格はいよいよ卑俗に陥っ  て,救うべからざるもの」であるという評価は.実は珍しいものではない.たとえば  太田│導太郎「日本建築史序説,フも.7江戸時代後半の建築界は.遺構の見るべきもの  に乏しい,建築家は建物の各部の比例のよさを追求することを忘れ.父祖伝来の水割  に拘睨され,外傷I』のよそおいによってのみ美しさを求めようとした,しかもその装飾  は.症I」│風の豪華さも洗練さもなく.ただ誇張的な装飾に走って,細部としても醜い  ものにな-jていった. とL.江戸時代後半の建築を拒して同様の評価を下す‰ 2  ではなぜ、そのように近伊寺社建築は「千編一律な類型的・で ̄款うべからざるも のづこなったのであろうか、その要因として藤岡氏があげたのは、①祖官制度、②:幕 府規制.③水割の墨守と水割書の公刊、④彫刻の乱用である  まず.①祖宗制度に関しては、藤岡氏は寺院全般について、. ̄たまたまキリスト教 の禁「五を強化するために、寛永年間宗門改めが幕府によって行なわれ、各家は仏教の いずれかの宗派に所属し、寺官の宗門帳に登記するニとが強制され、い才っゆる檀家制 度が確立された.このことは寺院を一般民衆の信仰の場所と化し.寺院の経済は安定 するに至ったが、一面僧侶は修行を怠って読経を本業とする傾向を生じ、.仏教は日を 追って衰微レ幕府の建築制限も影響して.寺院形式を固定化し今日に至っている。l と、辻善之肋氏以来の古典的な近世仏教観をあげ、檀家制度が幕府の建築緩制ととも に寺院建築の固定化をうながしたとするへ村落の寺社建築造営における檀家制度に ついては本論で改めて述べる.  ②幕府規制については、改めて後述(社会経済指摘視点の重要性の箇所、(J泰論に関す る既往の研究の成果と課題、本論)するが、表酉上.寺社建築に関する幕府の建築覗制 は次の寺社統制、格式表現、防災、工事費削減にあると考えてよい、  たとえば東京都豊島区にある法明寺鬼子母神堂6は、本殿が寛文丿年(16G1)、幣 殿・拝殿が元禄13年(□00)に建てられたものであり、拝殿の外まわりの旺財布は 痕跡から改変されたものであり、幕府の政策との関係が指摘されている.また文京 区の講安寺本堂∩ま寛政元年(1789)以前の建立と考えられるが、後述するように、 幕府の土蔵造の奨励と無関係ではない.そして港区にある木川神社社殿゛は本殿・幣 殿・拝殿とも享保15年(1730)に建立されたものであり、その簡素な手法は徳川吉 宗の倹約政策との関係が指摘されている.  これらの格式表現、防災、工事費削減の内、工事費削減は表面上旧規を遵守するこ ととして規制されることが多い、時代の流れを複雑化の指向として捉えるならば、費 用をかけずに手間を省<ことは時代的遡行として捉えられる.旧規、いいかえれば古 形式は建設費用が少なくて済むことが多い.地域においては寺社による徴収と幕藩領 主の年貢徴収という二重徴収の矛盾が存在していたが、幕府規制の基底には仮説を含 む一般からの資金調達を抑えることがあったと考えられる.  では.果たして幕府規制が寺社建築を固定化させ、建築の質を落としたのであろう 3

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序 論 力 渡辺保忠T日ぶ建築生産組織に関する研究j ・'Iは W いわゆる民家辻築と今日呼 ばtリ:J□影弗農村の農民の建築は.この禁令の制約によって.近世の高い生産力を構 成する諸仮素が.最もl↓!絹な形式のはIに反映され,それが反って,この時代の高い生 産九Iの214も簡り]な.表現となり.近代建築の設計意匠の原理に.結果的には近いものと な-Jだ理Fliである と,近世における町屋を含む民家は.建築規制により平準化した 高llな建築生産力が表現されたものであるとし,建築規制の一面を指摘している,階 削表現および節約がすぐさま質の低ドに結びつかないのはいうまでもない.建築規制 λ・実態の解明とともに.建築.規制が建築様式に対して与えた影響の意義については. c・まだ検,;jの余地がある  :j・お割のjM.!守や木割書の公刊が近世寺社建築を翻型的にさせたという説の内.木割 ,Iりに・?!=ljの影響については.たとえば乾兼松’木害LIの中で記される,それによれば. ! i j − り 1 1 L − ︱ − 1 ︲ i ︲ Qより江戸時代の初期に至り城郭廟建築等の豪董な建築が盛行し.建築その 羊Jパヽ発MLたかに思われるが.これは彫刻.彩色.金具.漆塗の部門に於てであっ ;’フ犬i711=喋りパりI令ふ名木ijlはil:戸時代を風廓したj一柘ゐ出盛向水割法が桃山時代に於 て既に.出暇てゐたやうである.(中略)江戸時代の中期より末期に亘り.水寓I』の干lj本 智一及L.これがため従来工匠が秘法として子弟に伝へ、子弟は又これの伝授を受くる ため大にニれが研一に努め、十分技量が備って.初めて水割の方法を伝へられ.又は 自ら考察もしたのであるが.刊本により秘法を公開されたため.工匠は自ら研究する ことなく.q干I』本の類の水割を以て木割の尽せるものとし.甚だしきはこれを法など とμ];L.建築計画の鉄則と考へるようになり、遂に.建築の精神的価値を却した鋳型 式の建築に化してしまった_・ とするlo(傍点引用者).  二二での泰割とは「建築の骨組J という古典的な理解であるが.問題とするのは. 江戸時代「ゎ期より末期以降水割書の公刊によって’建築の精神的価値を却した鋳型式 の建築 ができたという指摘の方である.  乾氏は木割が秘伝として伝えられたことが技術水準を向上させたとするが.太田博 政郎氏ぱ中欧に起こった木割術は.近世初期には完成した形となった.(中略)し かし.--一度体系化され.それが秘伝として世襲されるようになると.それは新たなさ』 造的表現への努力を失わせ.部材の比例の美しさを追求しようとせず.彫刻などの装 飾によって芙しさを増そうとする結果となり.建築界は沈滞の一路をたどっていく.! 4 と11.水割(術)の.衰退の要因として水割が秘伝ご=して世襲さオ1だことをあげた, つ まEっ.本書』書公刊により社会に開放されることと,秘伝として個人の中で閉鎖される こと.という正反対の要因が指摘されていて話はわかlつにくしハ  結論からいえば.水割の秘伝や水割=游の公刊のいずれも直接の原因とは考えにくい,, 形式化された結果.本割が秘伝され.水割書が公F』できたのであ11 ,それらはいずれ も形式の墨守.つまり形式化後の現象として捉えることができる 仮に秘伝とか,公 干I』という方法をとらなくとも.ここでいう“本割(術)の衰退”は起こりえたのでは ないか.また技術の形式化は古代・中tjtでも生じていたのではないか.水割書の公干│」 は.技術の一般化を加連させた媒体にしかすぎない.むしろ.江戸時代の急激な需要 拡大にともなう熟練技術者の不足という状況の中で.公刊された技邨i書は一定の水準 を確保させたともいえる.問類とすべきは.補論で述べるように,伝統的技術者が, 需要拡大にもかかわらず,時代の要求に対応できずに次第に大工の新│日交代の波にの まれていったという事実.そして.新しい技術や機動力を含めて時代の要求子のもの の解明であろう.  近世寺社建築が画一的である原因として.④彫匍』の乱用もよくとりあげられる.彫 匍』・絵様は近世寺社建築の特徴の一つとされる,  平内吉政が慶長15年(1610)に記したr匠明.71の奥書には.|五意達者_で昼夜 怠ることなく.先人の作ったところの「好悪.を分SI」しなければならないと.大工た るもののあるべき姿が記される,その「五意・達者」とは式尺の墨金曲j’(設計・墨イヽ□       一一  「算合」(計算・積算)「手仕事.(加エ)’絵様 i彫物.のことを指し,17鰍紀初頭 すでに絵様と彫物の重要性が木割書に説かれていた.中川武氏は「桃山様式と呼ば才1 ている.卓越した彫刻・絵様による表現を実現した.近世初頭の一一連の建築の特質は, 水割術に潜在した表現意欲のあらわれ」であり,’無機的な骨格構成と類型的な構成. そして彫刻・絵様の多用による過飾的表現という一見矛盾したような性格をもつ近世 建築の様式的特徴は本割術の展開が媒介したものであった.」として.技術論から本 書I』との連関において位置づけている12,  彫刻の社会的意味の変遷は益田兼胴氏が次のようにまとめている1≒「中世中期以 後.自治能力をもつ地域共│同体である惣村が発達し.その精神的中心として神社が機 能したとき.村びとたちは創意工夫をこらして,その本殿を彫匍』や彩色などで装飾し, 5

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序 ・ ム i 囲 W そこに大黒様や農作物など。身近な主題をも1っこんだのである。|とし、中世では近 畿地方の神社にみられる彫刻は村落における自治組織の象徴であったが、16匝紀末 から1 7 tUjE 前半にかけて|新たに中央権力を握った豊臣秀吉らは.自分の城下町を 建設’tるうえで重要な社寺や廟の建築に,多数の人びとを感心させるのに有効な,装 飾的な様式を採用した.(中略)新しい都市の住民に.支配権力の下での一種の連帯 感をづくりだすのに効果があったにちがいない.」とする.また’17世紀初頭に大 発展をみた浄土真宗や浄土宗のような膨大な末寺をもつ大衆的な宗派の本山本堂では. 大ホー-ルのような広い外陣が必要となり.これに伴って中世的な仏堂とはことなる室 内を“Tjくった.すなわち.内陣や厨子まわりの舞台演出と装飾化である。lとし. 17 tlj紀の1,になると「元禄期は庶民の文化が高まった時期である.(中略)社寺建築 の装飾彫sっ物では.庶民的な参詣の多いところで.新しい工夫や量的な増大がみられ はじめる  、そしてI.8庶紀中頃には彫り物部はすでに確立された職業であり、村々 の小方な他方までにも作品を売り込む例があるとしているエ さらに19[辻紀以降彫物 師の営業ぶりはi村々が競うようにして社寺を建て替え行なった.ひとつの原動力に さλなーンていただろう.、犬それは藷術が最も身近な存在となった時代であったン実際、 彫り物師は、芸術家としての自己認識をもっていたといえるだろう、」とする.村落 の自治組織の象徴として、多くの人に見せるための演出として、社寺建設の原動力と しての彫物師の活動、身近な芸術としての彫刻の意味を整理している.  中世において村落の神社建築建設の背景に村落の自治組織の発展.農民の経済の発 展があるということは、すでに福山敏男氏ら多くの指摘があるっ福山敏男氏は、地方 における村の発展(村の自治組織の発展、農民の生活の向上)や町における町衆の発展 という社会的背景が.村々の社の建築を立派なものにする原因であったとする14、自 治組織は頻主なり、統治者に対抗することに存在意義があり、江戸時代中期以降では 村のあり方も異なる.本論では寺社造営における彫刻の意味を検討したい.  近年.江戸時代の見直しが行なわれ.江戸時代は多様で活発な時代であり、近代を 墜備したとする捉え方が増えた1‰近世を画一的なものと考えるか、もしくは多様な ものと尋えるか、また近代との関係において.近代は近世を否定したのか、もしくは 近代は近臣が準備したのか、意見がわかれるところである.しかし.近世と近代との 迪続性の強調は時代の捉え方の揺れ戻しであり、あくまでも論理の問題である、近世 一 一 6 の見直し作業の中で.注目すべき成果は同時代の幅広い事象の採取と世界を視座に入 れた視点の獲得であろう  匹捨石入すれ.ば..ルネッサンスからバロック.そしてロココ様式への変遷.また「il 国の工芸品をみても宋から明.そLて漬への変遂にみらねるように,全体から部分へ 関心が移行し,彫刻等が増えて装飾的になるのは日本に限られるものではない.  日出では17世紀後半から各地の名所図絵や地誌が多く出版される,,背景には三都 を中心とした年中行事が盛んになり.神仏の出開帳が行なわれて物見遊山の人々を集 めたことなどがあった.また諸国の物産を紹介した図絵が現れ.諸諸が営禾I」を追求す る産業資本の役害ljを果たしたように,商品経済における変化もあげることができる,.  江石1時代も後半の18世紀になると諸国の名所図絵.官製地誌.紀行.旅日記が刊 行されるようになる,,その際.情報は大量の挿図によ1っ視覚化されて伝達されたが, その傾向は風景だけに限らず.脱本に挿入された多くの挿図や.歌舞伎と結びついた 芝阿絵はピクチャレスクの世界を広げた16.さらに.18世紀後半から盛んに描かれ た各種の図譜になると.物という物をして形態の微妙な違いを粘写する対象とした.  これらの背後には本草学からつづく博物誌.さらに↑専物学があった.↑導物学はヨー ロッパにおいては17世紀後半からみられ.新大陸という辺境の発見を契機として成 立した 細部までも支配するキリスト教的摂理から,自然の観察.記述,分析を通し て.自然界の基本法UI]と分類の体系を見出し,近代科学を準備したとされる1≒ 日本 において.百科事典である7和漢三才図絵』(正徳5年・1 715)の成立.緊賀源内の 1’風流志退軒伝j・(明和2年・1765)の地球遍歴にみられる世界認識の背後にはマテ オ・りッチの世界地図がありls .これらの博物学的指向も同様に世界の潮流と同じく するものであった,  益田氏は ̄彫り物の表現上重要な彩色仕上げか,満水仕上げか,という点について 考察を試みるならば.前者が桃山期から元禄期までの豊満で華やかな気分に対応し, 後者がそれより後,とくに明和期から文化・文政期にかけてのあっさりとしていやみ のない.粋とでもいうべき気分に対応しているといえるだろう,金地に赤と黒で激情 的なバロック的気分から,白地に金と青を配して端正にまとめるロココ的気分への変 化ということもできよう,.19とする.かつての「誇張的な装飾に走って細部として も醜いもの」という評価との落差は大きい. 7

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序 論 W・  ̄  ̄  ̄  ̄  ところで.建築史研究における社会経済的視点の重要性は改めて論をまたない.近 世の,’jリ│!建築の附表I」に’っいて太FH博太郎氏は.・建物の大きいこと,装飾の多いこと は.ぞの建物にそれだ吋金がかかったことを示し,それだけ奏銭が多く,ご利益のあ 乙証拉11,であった 拝む対象は神でも仏でもよい,神社も寺院も建築的には別の表現を 必要と仕ず,装飾化は一段と拍車をかけられた.」とした2o。ここでいう寺社は大規 模で有力寺社と考えられ.いわゆる村落における中小寺社ではないが,一般化大衆化 かILの視点.それにともなう経済からの視点は重要である.  またl叫和夫氏は弘化忠江戸・城再建工事を通して工事期間の短縮,旧規にしたがうこ と,設ぷ・のl,y定化(部材の規格化と仕様の統一).工事施工組織の整備,工費取扱組織 ,1-ITI吽取扱技jJNの整備,そして結果としての工事費用の節約という関係を指摘した21.  ニニで形式の遵守が特徴とされる神社建築についてみてみよう.  RID-i・Q j. 神1社と霊廟.j°は.神社建築に時代による相違が存在するということを jぶめ・タ・u. ・般に神社建築は,ある時期の宮殿や仏教建築のように,とくに復古と いこ0ltl,潮をII矣-.てはじめて占式が思い出されるのと追って.ほとんど常に伝統の尊重 芦・.│,l;,凋としていたことは疑う余地はない.(PP.17羽とする,神社燃築において は形式化と式年造獅甑の関係が想起されるが.同氏は,式年造獅の制度が有効な手段 であったとL.ながらも. 神社がその伝統の保持に傾ける情熱は.式年造替制の有無 とは関係なく強かったと見なくてはならない,この傾向は.神社が仏教と接触し,神 仏混淆L.神社の建築が仏教の建築の影響を免れなくなった時点でいっそう明らかに なる  (PP.2(16)とL..そして|神社は,新しい形式の倉』始に当たって,仏堂と の鴬□以を意識的に避けたはずであって,独自性を平面でも外観でもつとめて表現しよ うとする,,しかもひとたびー一つの形式がその神社に固有なものとして確立すると,そ れが建築として自在的に発展するということがない,形式尊重を至上とするところが. 神社建築の基本的な性格といってよいであろう,_{PP.210}とし.仏教建築に対 L.て独自性を発揮しなければならない状況の中.形式墨守の原因は神社の基本的性格 とLて捉える.  浜島nモ士氏は.出雲大社本殿の寛文期造替の2枚の図面を用いて興味深い指摘23 を行なっている_その2枚の図面とは.一つは延享元年(1744)時造替の現本殿と規 噪・IFg式とも同じであるもの.‥つは幕府大棟梁甲良家定が元禄15年(17o2)に写 8 Lたという記があ│っ,内容から寛文迫持時のものと考えられるもので.様式的には  ’江戸時代そのものを示している:図面である,後者の図面は大社俳』が始めに計画し て幕府へ迫持を申し出たときのものであり.幕府が詔めなかったために従来の伝統的 な様式で造替することになった,「幕府が江八時代風の様式を認めなかったのは.神 社・寺院の造営について.古法を守って新規を認めず.簡素にして華美に及ばないこ とを旅策としていたからである,.見方によっては,出雲大社の伝統様式は幕府の政策 によって守られたといえなくもない.」という.同氏は言葉を・│貞淑に選び,神社の属 性としての形式保持に対しては反論していないが.ここで留藍すべきは大社佃I』(建て 主)は当時における今風の様式を計画していたこと.そして=鳶府がその様式を認めな かったという指摘である.  時代とLての江rl ̄時代は確かに復古主義・原点主義のー一面があるが.そわは変化に 対する反動であ1っ.多様の一つと捉えられる.西和夫氏によれば弘化度江戸城両建工 事ではE事期間の知C縮が第一一の目的であったが.出雲大社の坦合.切迫した」こ詞丿蛎縮 の必要性の有無は不印]である.無論.古法を守って新規を認めず.簡素にして割美に しないという幕府の施策の眼目は.古法を守ること自体にあったのではない,,先に触 れたように,時代の流れを複雑化の指向として捉えるならば.費用をかりずに手間を 省くことは時代的遡行として表現される.古形式は建設費用が少なくて済み.幕府が 提供する資金とともに寺社が負担する費用を減少させる.幕府の経済的余裕が滅少し つつあった状況において.幕府の財源である領民を含む.一般からの寺社の資金調達 を抑えることが幕,府規制の基底にあった.  古形式を現代までに伝える神社建築造構の数は思いの外に少なく.その多くが江戸 時代に建てられたということは再確認すべきであろう,式年透析の卿』湿は古形式保持 のために有効な手段であったが.伊勢を除く出霊・住吉・賀茂・春日・ハ幡の各神社 において式年透析が江戸時代を最後に行なわれなくなったのは経済的理由とされる, 一方.江戸幕府開府前.近畿地方では徳川家康により多くの神社が新しい建築様式を 用いて復興されていた,対して.奈良時代以前の建築形式とされる伊勢・出雲・住吉・ 賀茂・春日・ハ幡の各神社は江戸幕府開府後も幕府が建設に深く関係していた.幕府 を含む権カ佃I』の経済的支援とそれに付随する様式強勿」を視座に入れた.神社建築の造 営および建築様式の形式化の展開は今後の課頒であろう. 9

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序 論  最後に,近眼という時代IX分について触れなければならない,藤岡通夫氏によれば. j,シ汁とは,足il」氏が滅んだ夭正元年□57:nから,徳川幕府の終わった明治元年 (・ロ;い)までを指し.桃山時代と江戸時代にねけられる.その境は.歴史学では江戸 幕府が1則か刺た座長8年□603〕をもってあたるが.美術史や建築史では.少し降っ て1al・匝氏が滅亡した慶長20年(1 615)におく.その上で│司氏は,元禄時代までは伝 続的な様式がまだ残,ており.元禄期を境にする時代区分のほうが実状に沿った分け 力とする 乙まり. 近世全体を前期と後期に分け.その境を元禄(1688∼1704) かぞの少し IF」’におく考え方がある.この分期は政治とは関係なく.経済史に根拠をお くものと思われ,(申略)そして近世における建築の推移を眺めると,この分期の方 が,k.・yJj状に沿-,た分期かと思われる.すなわち.前期には武士の権力が実質を伴っ てレか.とニ乙から.城郭・邸宅・霊廟等が研を競った時代であ1っ.後期になるとそれ ・しが衰え.-・時S築界の中心を去った寺院も庶民階級の信仰の中心として再生すると ともに,!Slj場・遊郭などの庶民のための建築が栄え.広い底辺をもった農民・町民の 仕Tもその水準を高めている,124とする,.  ニニで.慶長2(・年□615)を境にして.近世を桃山時代と江戸時代とに分ける方 江にりいて簡・単に触れると.次のようなニつの問題がある.   ぐJは.桃│]│時代=桃山様式=彫刻という図式ができあがり.独り歩きすることの 弊害である,.彫亥I」が多く旅された建築は桃山様式とされ.ひいては桃山時代の建立と されたが.研究が進むにつれて.かつての聚楽節の遺構とされた建築が見直され.そ オ1らの建築の建立年代は江戸時代初期まで降ることが次第にわかってきた.江戸時代 は桃山時代以上に彫刻が盛んに用いられており,その質も高い.彫刻・絵様の代表的 遺構が桃山時代の遺構とするのには無理があり,桃山様式の使用は混乱を招いている のが事実であろう.  もう一つは.地域性の問題である.関東では桃山時代とされる時期に.いわゆる彫 刻過多の建築が確認できない.少なくとも多摩地方では桃山時代は存在しなかった, このことから桃山様式は地域的なもの.ひいては桃山時イ戈はある限られた地域的にお け・る時代区分ではないか.という考えが成り立つ.網野善彦氏が指摘25したように. 刺日本と西日本の違いを冷静にうけとめるべきであろう.  1jずt!にL.ても. 政治とは関係なく 寺院も庶民階級の信仰の中心」そして近世 IC (2)  1 前期と後期という言葉はil」として,17世紀末(元禄期1を境に時代をおける方法は改 めて注目していい。本論で自説を述べたい。  以1こ。近世寺社建築における建築様式の固定化の要因。社会経済と建築様式,そし て近世の時代区分について既往の研究を概観したが。依然として見直しの余地がある ことがわかる,次に,本論と直接関係する建築生産と幕府の建築規齢』に関する既往の 研究成果について触れる。  本論文に関する既往の研究  第1鰯・補鵠  建築生産史に関しては先学の多くの業績がある,特に渡辺保忠.・ EI本建築生産組織 に関する研究』゜6は大工および大工組織の変遷のみならず.社会経済の上割にある構 造としての換築様式.という把握を首尾一貫して論理的に海関し.誌築を考察するた めの方法としての建築生産史研究の意義を確立した.また.大河直射氏の幅広く緻密 な中世」こ匠史の研究27はその後の生産史研究の指標となった.  巾世の大工が座に所属し.また領主のもとで大工職を揚て活勤したが.近世に入る とそのような中世低徊』約が崩壊して大工仲間が出現L..江戸幕府や諸藩は造営組織を 整備して大工達を支配するようになる.近江6力国の大工達を支配し.幕府京都御大 工頭の職を世襲した中井家.および中井役所支配Fの大工組の構成と対応については 黒正一.島田武彦.川.tこ貢.平井聖.鈴フド解雄.内藤口.西和夫.横田冬彦.呑直樹. 吉田純一,吉田高子.渡辺勝彦氏らの緻密な論考によ1っ.近ttt全般にわたって把握さ れている2≒また内藤昌氏は古代の大匠から中世の番匠そして近世の棟梁への大工像 の変遷を論じ29 .そして西和夫氏は建築積算技術に関する研究のほか.多くの近世の 大工に関する論考がある3(≒そのほか彫物師については,北関東の彫物大工および幕 府の彫物大工を中心にした伊東龍一氏の緻密な業績がある3‰  建築費用を含め,建主の問題から建築生産・建築様式を捉えるようとする研究には 太田博太郎32 .永井規男氏33などの研究がある.特に中世の建築生産における経営. 経済行為としての建築生産を考えるとき.永井規男氏の業績は大きい.工事に携わる 勧進憎の役害1』を明らかにし.勧農造営体制を設定している,また寺社建築の造営費用 の構成や室町時代の住宅建築におけるエ事の進行形態についても明らかにした. 11

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陪 論  1旧廿紀か1レ│世紀中期にかけて律僧教jを中心とする勧進僧によってエ事が請け {・.れれていたことは永井氏が指摘したが.浜島一成氏は.14.15世紀に入ると寺社 内1咄の僧侶や神官によって造営組織が編成され.それらが独立した寺社内部の造営組 織として活勤し.造営財源の確保(造資料所の関銭等の管理).現場管理(工匠や人足 の手配および貸金等の支給),会計検査(算用状)の作成等を行なっていたことを指摘 しだ1.  永詐氏は沙築経営という概念を用いて,建築生産の輪郭をよ│り明瞭にしている.つ まり 鋳築の生産という営為は.意匠上.技術上および経済上の諸問題をとりまとめ, そのllに必要な堵労働力を加えていくことによって成り立つ.かつ,そうしたことを ・際に勣かす場合には.政治・社会・経済の広い範囲にわたって生ずるであろう諸問 顕に対応しなければならない,.それゆえ.建築生産には.その規模の大小にもよるが. 多くの場合.優れた経営能力の存在が要求される.すなわち.経営の問題は,建築生 jl?にお吋る基本的な娶素といえるのである.」とする.その上で建築経営者の変遷に “.ハ・・て.F大まかにいって古代後抑lの,律令体制下の建設官僚の経験をひきついだ中 小岩咄JMの受領国・]に始まり.僧侶を中心とする中世を経て.近世の商工業者へと推 移したと考えられる..j とし,あわせて11.世紀からの勧進僧を建築経営者とする寺 院知行国匍』(大仏塔建築),13世紀からの律僧による活躍(密教系建築),1.5世紀か らの禅僧.特に束班衆の組織的な活躍(禅宗窪建築),同じく15世紀からの十穀聖の 活動1桃山様式)というように.建築経営(者)と建築様式との密接な関係を指摘し た.さらに.近世について請負との関連で論考し.近世前半期では.豊かな資本力を 要する商人企業家によって請負業が主導され.18世紀以降では.建築職人の階層分 化の進行にともない,工匠が商人資本の下を離れて自立した請負業となることを指摘 した3‰  また同氏は.江戸時代の播磨と淡路の集注大工を対象として.大工の構成.活動状 況.技術の系譜を鮮明にし,集注大工のあり方と特色を綿密に考察している.つまり.  ’集伴大工というのは.出稼先の建築主たちの,安くて良いものをという欲深な要求 の受けとめ手でもあった.大工側とすれば.そうした欲求に応えるためには.第一に いつ.どニから来るかも知れない仕事に直ちに対応できる態勢を.大工数と組織の両 涵において常に保-Jていなければならない.大工の集注はその有力な応答形態であっ 1 2 一 一 たといえる  とし. 集伴の中で構成されるであろう日常的な大工問の社会組織は、 請負仕事に際して直ちに仕事の運営組織に応用可能であるし、その粗織の伸縮もかな り自在であろうから、統御性をもつと同時に柔軟性に富んだ効率のよい作業服団を編 成するニとができた、それがとりも直さず、他よりも低い額で良い仕事をすることを 可能にしたことと思われる、」とする.そしてレ一人が棟梁となると、他はその手伝 い大工に廻るという村大工間での、・一種頼母子講的な請負仕事の方式では期待しがた いものであった、集注大工の形態は二うした打火エレベルの限界を超えて.より効率 的な経営を可能とする方法なのであった.jと、集注大工の存在理由を述べた燃  近世寺社造営の費用調達に関しでは、湯浅隆氏が幕府政策および大寺社中心に概観 している.すなわち、17世紀末から18伊紀初頭を頃に寺社が経済的に依拠する対象 は幕府・領主なとがら不特定多数の民衆からの募縁へ移行し.18世紀後半以降氏衆 の信仰対米が既存の寺社がら現世利益の新興の仏神へ傾いたこと、追突費用は寺社領 巾檀那からの恒常的収入のほか.勧化・開帳などの募縁活動.寺社内外の金融.不動 産の利用.特定物品の販売などによって調達されたことなどを指摘した3レ  斎藤典男T武州御嶽山史の研究ご3s .西海賢二「武州御嶽山信仰史の研究」3‘帽ま、 多摩地方でも関東の広い地域にれたりイ言仰を集めた武蔵御縁神社の費用調達について 論じ.座長缶開に幕府からの扱貼を受け.江戸時代中期以降、講員からの祭礼金積立 のほか、出開帳・居開帳・御免富興業・御免勧化を行なって広く資金を調達したこと を指摘した.  そのほか神社における費用調達に関しては佐藤正彦llへ藤沢彰各氏の論考があり、 前述の調達先と調達方法の変化が確かめられる.特に藤沢氏は.大丸(下村家)とい う商業資本が滝尾神社の造営に深く関与したことを明らかにし.犬丸の繁栄の象徴、 グルーフの精神的結束の象徴たらしめんとしたこと、そして豊富な造営資金という条 件がそろって.技巧を凝らした装飾彫刻や傑出した意匠が実現したことを指摘した4≒ 近世寺社の建築生産は工匠を中心に語られ、建て主側から論じられることが少ない中 で注目される.  これら費用調達形態の研究は有力神社を対象としており、多くは地域を越える信仰 などをもちえない村落における中小寺社に関しては、史料的性格から研究の対象とな ることはまれである、 1 3

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序 論  J・II落における寺社の保持者が中世から近邑にかけて変化したことは.一般史からの 指摘がある,か.とえば高埜利彦氏によれば.在地領主が一族の結合や地域支配におい て利用したような神社では土郷的武七から地域の村落へ,また中世に既に農民が宮座 を形成して支えていたような神社では,中世名主百姓の系譜をもち宮座構成員である 初掬=│本百姓から新興の小百姓へと保護者が変化するという‘’祀  しかし.保護者と造営の主体とは必ずしも一致するとは眼らず.そして造営形態に ー・ハ・・ては触れられず.名主は建築生産の担い手という観点から注目されてはいない.  江戸時代の村落における中小寺社の造営における名主に触れたものに.奈倉哲三  柴崎村の生活と信仰(一)」4sがある.武蔵国柴崎村の普済寺鐘楼・建立の際の名 字鈴木’lj一九朗の活動に言及し.鈴木平九郎が眠要な役割を果たした理由は普済寺の高 レ.lf格とliillyが柴崎村に位置することの2点に求めた,この点については本論で自説 を論じる  汁・.11時代,菩提寺や笥守とも呼ばれる村落の寺社の造営は.有力な庇護者をもちえ た現今を除き,地域に密接に結び付いていたと推猷│」できる,それは檀家制度,本末制 Iぎ.別当・々による神社の管理など.細分化さわた地域での幕府による制度.あるいは 柚札に記される「惣氏子中ド惣檀家中」の記述や勧化帳・奉加帳などの存在からも窺 える,しかし.ニのように村落の寺社造営は地域に依存したことが容易に予想できる ために.そして史料の匍』約のために.建築生産の動向を知る上で見逃せないにもかか わらず.造営の主体の確認等造営の実際については論考されることが少ない.近世寺 社の建築生産に関しては大工を含む工匠中心に語られるが.村落の寺社造営に関して 卜 ふ ¥ ふ ,明らかにすべき問題は依然として存在する。列挙すれば。次のようになる, T使札や勧化帳などに記される地域が必ずしも一致しないように,寺院造営におけ る、?院・檀家・村の関わり方の違いを含め.寺社が位置する村と近隣の村々はどのよ うに、?社造営に携わったか.②検札の“旅主”が個人もしくは少数の者から多数の人4 へこ.広がる傾向が認められるが.時期や理由を含め.時代とともに造営の主体はどの ように変化したか.託地域に根ざした寺社造営はいまだ不明な点が多く.直営工事や 大Tこの手間涸負工事において材料調達.そして大工以外の工匠や人足の手配といった 仕事は一体誰が行なったか 涙名主や世話人については.造営費用謨遠のみならず造 営貸船において歌要な投害j』を果たしていたことが十分予想され.工匠の活動ほかの建 14 築生産の動向を知る上で見逃せないにもかかわらず。建築生産の担い71という観点か ら注目されることはない。 ll 第2纒   撞については坪井良平氏“や杉山洋氏の業績4r・ あるが,内容は様式と鋳物師が中  心である.ここで対象とする寛政9年(1797)の掩鐘と箇楼の幕府規励jは,触れられ  ることがまれである46.   徳川幕府の建築規制に関しては,古くは大熊喜邦氏の論考47がある.最近では.鈴  索賢次r天保14年における幕府の住宅規制と町人住宅jが,天保卜1年□8・1:=いの家  作制限において.江戸の町人の全体からすればごく少数であるものの.特例を除き.  一般的な町人が奢侈・僣上の武士住宅の形式を砥したような場合,個別に取り壊しや  改造を命じて,厳しい措置がとられたことを指摘した’‘s。   幕府の寺社誌築の規制に関する研究は,①建築規制の内容の紹介,②規制が建築へ  与えた影響の検討.③普請願いとその許認可の検討.④寺社奉行の役割機能の検討に  大きく分けられる,,その内,①建築規制の内容の紹介が主であり,次にぼ:・規匍』が泌築  へ与えた影響の検討が行なわれ.③普請願いとその許認可.④寺社奉行の役割機能に  ついては重要な課題ではあるものの,史料的制約もあって論ぜられることが少ない.   寺社建築の規勿』に関しては内藤昌“.水野耕嗣5≒光井渉慌川上良氏゜ ̄j≒妻木宛  嗣・青山賢信53各氏らの論考があるが,それらは主にOJと②が中心であり,(冷まで論  じたのが川上質氏.妻木霊嗣・青山賢信氏の研究である.   ②規制が建築へ与えた影響の検討は,規制の枠に対象の建築が包含されるか否かの  検討を行なう方法が一般的である,しかし,法制と建築という次元の異なるものを直  線で結ぶため.遺構もしくは絵図や指図など.考察対象を採取する範囲が拡大するに  つれて,当然のように幕府規制は厳密には施行されなかったという結論に陥りやすい.  このことは法制と建築との媒介,つまり誰が幕府規制を実行したのか.③普請願いと  その許認可.④寺社奉行の機能の解明が未解決であることに起因している.   光井渉氏の研究は規制に対応した寺社建築の形態も示したものであるが.実際の規  制の運用については.r畿内において・C寛文八年令・jは「老中−寺社奉行一京都所司  代一京都町奉行j という宗教行政を所管する官僚組織のラインで施行されたものであっ 15

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序 論 ‘'匹 mJ 全教│-tり は j 4 t 勁秤にづいては検討の余地を残している くう後の課題である。 1 6 6 0 ㎜ 四 ’ − ・ ’ 『 ・ ● !なる技術顧問としてその運用に参加しているにすぎない。づ結果として 1=院の建設行為の許認ロJ権を寺社奉行が把握することになる,つまり。  7:ら0,年令。の厳格な運用は。寺社奉行による全教団全寺院の建設活動-一括支配を ,a・Iリ,することになる,。 寺社奉行の直接管轄地である江り・( 御府内))で,寛文期 にと・のような狸用がさねたかをを示す史料の存在は知られておらず,また当時竣工し か堂舎も現存するものはきわめて少ない。そのため,・で寛文八年令;」の細かな内容は 残念ながら不り]である。j“と,課題のままである。  jいII詰や,昨認司については,水野耕一氏は.享保2年(1 717)に寺社境内地の作事 にILrる条文が出るが.ILI来よりの修覆届出は不要であり,随意に行なってよい旨が 示さわたことを指摘している5‰,JII上質氏は近畿6ケ国では寺社の施主は所在地の幕 lflnli先機関!たとえば京都梢・中・山城国では京都町奉行.摂津り司内国・大阪市申では大阪 11ぶI’」’)j,,認石を申請し,その認可を得た後に施工する大工から京都中井家(摂津・ ・:IいCrヅt大阪大工年一司jへ細工の可否を照会し,裏書を求めることが出願手続として jKめ・T,わていたことを指摘した5‰妻木霊嗣・青山賢信氏の研究は.大阪町奉行所の 復;Iに lj-1町奉行所の大工組織への規制属用依託.中井家を頂点とする大工組織の社会 的環境など・を述べたカ作であるが,「同じ公儀権力であっても地域により規制行政の 運用・解釈に微妙な差罠があること.および当該地域における規制を,江戸での幕法 によっでのみ把握することの危険性.の存在を指摘している.ただし,近畿6ケ国以 外の地.幕府の出先機関のない地方.天領以外の地などにおいては誰が認可したか. 哭だLて幕府寺社奉行が全国にある多数の寺社造営の申請を一々審査したか,などに づいては未だ論考されていない.  片`幕府寺社奉行の役割については松平太郎5≒藤井譲治s≒小沢弘子59各氏の論考 などがある,.その中で,藤井氏は. 上方を中心に金地院崇伝と京都所司代板倉重宗 の保持Lていた寺社支配の諸権限は.寛永10年□633)の崇伝の死を一つの契機と して. 上述した初期の町奉行といわれた人々の諸権限のうち江戸における寺社にたい する権限をも含めて,賞永11年に独立した官職として形成される..とするが,幕 府方・社泰行については,i=寺社奉行の職務としての遠国の訴訟についての権限の形成 とする。幕府寺社奉行の役害IUは。同じ 3  研究の方法と本論文の構成  第1編では.江戸時代の村落の寺社造営において.建築の形を決定する要因として の造営形態に注目している.,生産力や技術水準を基底としてll匠が建築の形態を決定 したのはいうまでもないが.入札の有無.肝心な工匠の選択を含め.予算規模の決定 などの企画運営,さらには工事の統括方法など.造営の運営形態が重要な意味をもつ と考えられる,ここでは.IE]武蔵.国多摩郡の中小寺社を対象とし.村々に遣る名主文 書の分析を行ない,村落の寺社造営における名主の活動.そして寺社造営形態と建築 様式との関係を考察し.あわせて檀家制度.村舗制など.制度と寺社造営との関係を 検討する,,  主な.史料としては.武蔵国多摩郡の下師岡村と同蒼町村の世襲名主をつとめた名主 吉野氏に関しては,吉野禎次家文書と吉野徳太郎家文書.柴崎村の名主鈴木氏につい ては鈴木家文書および諏訪神社蔵文書.そのほか核札類を用いる.工匠史料としては 検札類96件と7S国地誌・西多摩郡村誌丿 所収の棟札写し49件.al・ 155 件を用い ている.近年両吉野家文書の膨大な史料群が整理さわ,改めて全貌を概観できるよう になった.本編は.充実した史料目録や地方史研究の成果に依拠している,.以下,史 料および目録を示す,  ・東京都教育委員会『旧武蔵国多摩郡下師岡村名主吉野家文書調査報告,i.1988年.  ・同r旧武蔵国多摩郡新町村名主古野家文書目録』,1981年.  ・寺川市教育委員会「立川市史資料集丿第4集(鈴木家文書目録),196z1年.  ・立川市教育委員会r立川市文化財調査報告jH](諏訪神社所蔵古文書目録),1982年.  ・斎藤真指編7皇国地誌西多摩郡村誌J,明治11∼23年頃(青梅rh教育委員会)l il」゛梅市史   史料集』第20∼22号.1975∼1977年),検札の一一部は拙著「青梅市の社寺建築」,青   梅教育委員会,1988年にも所収.  ・鈴木平九郎r公私日記』23冊(天保8年・183?・ヽ一安政5年・1858)(立川市教育委員会   「鈴木平九郎「公私日記」』第1∼23冊.】972∼83年),  第2編では.逆に.従来建築への影響が指摘され,画一化の原因とされている徳川 幕府の建築規制を再検討する,工匠が規制を乗り越え工夫を創りlhlすことはロJ能であ り.従来の研究では実際にそうした事例が確かめられる一一’方.許認可の仕組みと寺社 17

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序 狂 論  結論は。以上の本編 いる。 2編.補論に 1 8 一 一 1 9 奉行の役割が解明されていないために、考察対象の採取拡大につれて規制は厳密には 施行されながづたという結論に必然的に陥っている。ニこでは幕府の建築規制が建築 へ号叉九影響を考える前提として、国立公文書館蔵『撞鐘堂再渓谷附札』を主な史 料として、寛政9年(1797)の鐘と鐘楼の幕府規制、そして規制を通して幕府の寺社 建築規制における幕府寺社奉行の役割さらに申請・許可の構造について検討する。  本論文の構成は,序論.本論2編5章15節,補論2章6節,結論からなる.  序,論では.既往の研究における成果と課題を指摘し,本研究の目的と研究方法およ び本,論文の構成について述べている,  不一笛】編江戸時代の武蔵国多摩郡における中小寺社造営(3章)では,村落の寺 社造営に必要な造営費用の調達形態,造営における運営形態,そしてそれらの造営形 能の変化がこ匠や建築様式に対して与えた影響を検討し,江戸時代の村落の寺社造営 の特laと位ぽ:イヽ」・けを行なう.  第2編徳川幕府の寺社建築規制(2章)では,いままで詳細は不明であった幕府の ,’f=社建築規游』の実態と効力,幕府寺社奉行の役割.そして許認IJJの構造について.寛 政9年の匍・鐘楼の規制を通して検討している.  拙論大工活動の変化の背景(2章)は,第1編の前提となる考察であり,あわせて 多摩地方青梅地域を中心にして建築様式や大工活動の変化とその背景を検討したもの である. おいて考察した要約を総括的にあげて結論として 浅野 隋「近世社寺建築の特色」『儒教藍術j 170号.1987年.毎日新聞. 林 玲子│・近世の政治経済IL 7岩波講座日本歴史.第26巻.1977年.によれば ̄幕藩体 制崩壊期における商品流通に関する研究は.市場推進の変質をめぐって論ぜらわたものが多 い ただL.その変質をもたらす大きな要因とされる農民的商品流通の展開に関しての見解 は一一隆ではなく.たとえば中刻tliのように.その展開を17肘紀から認める調合.量的な変化 はあるにゼ・よ.貧的な変化によろ│糾期を.見,11j,すことは麗L,いと思わオ1る..じかし.多くの研 究は.IS世紀中葉から後半にかけて.商品流通の動向ないu’市坦揃造のあi3方に大きな変化 を詔めていると考えてよかろう..(PP.194)とする. 3 ii祗通夫・・近世JT新i】'建築学大系』4−I(日本建築史).彰国社.19G8年.PP.2!j8.   ]! ̄J9. 4 太田141太郎1・ E1 本建築史序芯□増補第2版,彰国社.1989年.PP.188.   莉=捉ii]通夫 近世..PP.29:3 'II I・認指定有形丿又化財 浩明寺.鬼j‘-母神堂修理工事報告害.!.1779年,..東京都教育委員会   りt辺俣忠一申│││武ほか3 ・l'東京都の近世社寺建築J.198り年,PP.12!L, j 11拓=∃14!京択の近世社寺建築.3.PP.89, j` ijll・ r .41C宣託の近¶lt社寺建築j.PP.7:3. 111 淀1り;保忠 Hぷ建築生産組織に1伺する研究.1,私家版.1959年, 乾 兼・゜水害・」 □JS]4 l ]ドS り・j治鮪│ ̄i本建築技術史jロ本学士院編.19t31年.復刻版.臨lll l=店. ぴー; y.  芯・咆jJE博太郎1 l1本建築5じ序説j.PP.IS0, :で’  申JI 武 ̄建築設at技祁jの変遷 r講座[]本技術の社会史丿箭7巻 !枕集),日本評論社,   ns3年,PP.9・1 ‘太害I」の研究J.私家版.1988年. :1  益EF]兼M:  ̄官 のデザインも変えたr民|のエネルギー.・ iII大工彫匈』』!l・INAX   ROOKLFT7XI Cj1.6NCJ.3).1NAX.1986年 :4 福│lj敏男’中tl! ・.‘新訂建築学大系J4−I〔U本建築史〕.彰国社.1968年,PP.176   177. :1・  たとえば大石慎三nl: . 出根千枝ほか]・江戸時代と近代化J.筑席書反・.1987年、 ’I’高山 宏iヒクチュアレスク事始めl ¶r現代思想jvrj114−1Cり寺集江戸学のすすめ).青   士社.1986年.   高山 宏 ̄死物の科学(ジョン・ソ一ンの 博物館としての宣を中心に)〕.:」現代思想j   VQ113 一2(特集博物学のすすめ)、肖土社.1985年.由良君美・伊藤若沖の夢を孕む《・物   たちyの世界」同、芳賀 徹  ̄平和」のなかの博物学{?‘一楽院近他家煕の絵画から}」同。 j.‘ 田中優子7江戸の想像力(18世紀のメディアと表徴);.筑摩書房、1986年. :¶j  自ij摺益田兼厨 ̄’官」のデザノンも変えた 民.のエネルギー.・. ‘・’前捉・太田博太自「;゛日£弛築史序説j.PP.189。

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陪 論 :l  西 和夫n!:戸建築とzこ途・.;.鹿島出版会,]り74年.PP.52∼63。 i!.I  和知栄`.‘神社と裳暇,.小学館.1968年.PP.174. :」・│  浜島正IJ`12Ji一図が,;,’lる,!F建築の巴界j.彰国社,199j年,PP.118∼120. :!1  藤岡通1,ほかけ之化財講座日4の建築.I第4巻(近世1).第一法規.197G年.PP」5, :j たとえぱ網野趙溜l」束と西のj5る日本の歴史;,そしえて.1981リ乳 :jl』  IWj捉渡j,?J保忠=・,日本建築生産組織に関する研究J>,UII築生産」;j建築学大系;4−1(日   泰建築史).彰国社.1968年. jjl jJII】│!‘f身・17冷匠.:,法政大学出I版,1971包 ’j そJJ成・は.たとえば川上_貨編1・近世建築の生産組織と技術j.中央公論美術出版.H州4   年.平打」II・ ll,レ中邦家文書の研究 内匠寮本図面編J・第1∼】(J巻.中央公論美術出版. |!J711;∼S F, 年.り 」・JJ入T.り'.j貳・1・I 1 1 ・ 西 帳 1 ぽ x r     か  陥.持│:I申共家人T支配の研究j.思文閣出版.1992年、川主 徊’[‘近世 IL・ . 思文閣出版.1997年などにみることができる、  ,II,巴i- .大ITの系漣Jj.へりかん社.1981年 411処 i'i t・F目本にお.けろ建築和算技術の研一究』.私家版,1972年.:‘江戸建築ご本途  llx,頴口1会,197一口11 .江戸時代のλエたち.・.学芸出版社.19804ら  近世社.寺  建築と大工 居住地の検討を中心に.[・佛教些細j 170号.1987年,毎日新聞, i.  伊東龍一 江戸幕府彫物大・T棟梁和泉家の由緒書について(史料としての信頼性の検討) よ ・ Ei本建築学会jt一画系論文報告集第j08号.1990柘  江戸幕府の作事において彫物を担当 Lだ工匠の変遷と回ミ物大工棟梁の確立_ 同第II1号,1990年. ̄江戸幕府の彫物大工桟梁 ふ│】泉・裔松阪‘ぶに‘し」いてj同第一11j 弓.】990年,1北関東の彫物大工」7近世社寺建築の 研究.1 2 1・;≒奈良1EI立研究所.1990年, たとえば・太日.!博太nl; I五山の建築l『社寺建築の研究』{日本建築史論集Ⅲ}.岩波書店. 】9SI;年, 永到=規9j /中世建築生産tの研究』.私家版.1970年。l実隆公記に現われた貴族住宅の 作事.日本建築学会論文報告集第136号.1967年.’相国寺松泉軒の作事についてj同第 】一口4.1967缶 1!・jS2缶ほか ’室町幕府の右徳』門尉大工.についてj 日本建築学会大会学術講演梗概集, :1-j 翫2」一成:I中世寺社内l営組鎧のb11立形態と機能に関する基礎的研究J.私家版.1990年, li.・  永j!規男 歴tのなかの建築生産システム 2'新建築学大系.!第44巻.彰国社.1982年. F ¶)tl∼さ ・片規男 ̄播哨と淡路の集注大エについて 7近世建築の生産組織と技術J.中央公論美栖 20 版.]!=jSj:年.FP.7,□」∼:?97 17世紀には.村λ1Tの存在密度が禍・薄であり.ま才目   俘ぜ乙大きな作嘔の堀今に拓誦できる大工集団が剌.々とL・ても必要jとし 18世紀になると,   村方一般の大工数の増加.町方大工の哨カ[]と組織化により.在方集住大工.にとー,て厳しい啜   境ごなるが.実際には18世紀における集佳大工の活動は盛ん・↓こなるという.この原因にてJい   て.浦村一木津村の集住大工研究の上にたつ特殊解として断りながら.よ専IIlj職としての技   絹能力.:1経営能力.1一稀の出入植をあげる。 T,  滋浅 降 ̄近世寺社の造営費消調達について I?・・古図に腿る日本の建築.I.至'交似.1989   年. 3,・  斎藤典男T武弁│御嶽山史の研究j.隣人社.197(1年,pljl.:2 171∼254。 II.・  西南賢二J‘武休侭嶽LI)信仰史の6=究.!.名著出版.1983年.]・11 .1,'8∼11j. j'II'佐ji正彦'高良神社.に於ける造営費用の一連(近世時の笛'籤草│)用) il率建S!学会式一会学部j   訓演梗概集.1981を  ̄藤崎ハ幡宮の造営費用の調達(近世時の富l和剛) lil .1!」削丿年 a:  i・沢 g. 近t並極期における│商業資本による神社造営UL哨神社を事例とLてl..11本iP   築学会近畿支部研究報告集.1984年,

4j`  高埜ilJil江戸幕府と寺社j lII講座日本歴史j5(近泄1).東大a」,版会.n」85年.   D】jj.9】∼9:1。:¨近世日本の【i家極力と宗教j.東京大り・出版.H】削」年.│Jrl.93.Ej,1 d3  奈倉包'三 柴崎村の生話・と伝仰レ刈 JI・公私E』記.第15冊.立」│トn教育委U会.1!j.SI坏   所収 41 たとえば坪井良嘔1日本の梵鐘j.講談社,198(3年 4 、 ・ 杉山 洋’梵匍 ヨぷの美絹INa355.至文堂.口」95年 46 笠原一男編丿日本人の1行動と思想J SI」巻2(日本宗教.92年表).評論社.HJ73年 同書に    ’中絶の寺の再興の場合捨鐘は作製不要のこととす.と如きtlるのみ(PP.212). ‘17 大熊喜邦 ̄罰市政漿及び建築制度 「明治前日本建築技邨E史」.F1本学術振興会.H』6!年. ゛鈴木賢次I天保14年における幕府の住宅g制と町人住宅.日本建築学会肘画系論文報邨一集節   415号.】990年, 41u  内藤 M「江戸の都市と建築.『江戸図屏風』.毎E』新聞.1972年. 訊 Q . 水野期嗣’近世都市・建築法制史の研究1∼1 9.日本建築学会大会学極講演梗概集・E]本蛯 秦学会東治支部研究ほか.1975∼1989年.一連の論考の内.本gに関連したものには ̄同 研究7 寛文斯の寺社建築規㈲」について ある 同研究13 神社・霊廟の姑111』施設規師卜犬レが 光井 渉 ̄寺院建築に対する梁間SI刎について(寛文八年の梁間規制とその運,剛について)j 21

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序 1 唄 ; ]  j,駐築史学丿第g2号.1旧J4年  川│! i,・2 近世摂弁・在方の寺社普・請願・について」日本建築学会大会学術講演梗概集,  |り77年.ぶj褐=近t旦此方大工の組・仲間Jに所収。 i 妻4ヽ7d・a.吉山戮Ja・ 大阪町奉行湧による建築規制行政と大工組織の建築規制運用について  ol・印判玉」古橋組・摂津国福井組文書を中心にj」日本建築学会計画系論文集第511号, Iりりづし 前田光丼池≒y院混築に対する梁間規梢について(寛又八年の梁間規制とその運用につい  ̄U ‘ II,;」;1jt i1りjli・Jj 近世都’巾・・辿集法制史の研究7 寛文陥の寺社建築規制について」. ‘ │・IUlj」│lに 4 U 近!げ摂州在方の寺社普請願書についてJ lj.・jJII; !2訂 江戸││=S代制度の研究j.柏書房。1964年。 ・片,淡泊 幕・官僚和』論,1’j講座日本歴史』5(近邑1)。東京大学出版会,1985年。 1 1 1 沢 田 弘万一 7j il 奉行4 .. 111幕府齢』度.史の研究ニ.吉川弘文館.1983年。 jiJI:J治 飢藩官僚無論 22 Ξム i冊

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太 論・第1編      第L章 江戸時代吸剛の費川調達          庄£1 ¬ =士=雁i1占ヽか宏ウ里にλz大口111↓fia鳴りぶ廿財政iillu l 山岳F       表1−2 吉野禎次家文書にみる春日神社本殿文化期修理収入内訳 種 目 金 額       % 史料 種 目 金 額       % 史料     下降岡村   4 野上村*1   ケ大門村*1  1村吹上村  I   一一一一     ,新町村     上師岡村     今井村 勧  ・根ケ布初 枕 近千ケ瀬村  ,隣払沢村  皿   村成木村  I  I上成木村     i黒沢村     長吉新田 金4両2分2朱      .  I  I 金3両1分銭800文 金3分2朱       | 金2両2朱銭1,700文      118.7  (針金11.2426両)     l  l     l 一       -−--金3分銭120文       i     : 銭6,200文         I   I  ! 金1分銭1,995文         ! 銭1,900文 金2両銭114文 銭200文       i   38.9 G63 銭500文 金2分 銭1,124文      1 9°2 銭1,556文  (計金5.5160両)         |        −一 会4両1分銭lo・o37文    |  (金5.7260両)         9.6      -       一一 金2分2朱銭1,600文     |  (金0.8603両)         川'4l  i 木材売却    杉桧樫栗松*1 一一  一  −     下師岡村      野上村*2    4 大門村*2    勺 吹上村*2    村 4ケ杓  1カ  ・ 金り両3分銭1,600文         I G30 金3両1分銭60文       53,4  G29  (計金21.3773両) 金6両3分銭468文      i  I      G31 全3両1分銭540文     |      09 金4両1分      i  i lo9 金2両1分銭360文      jjQI      O9 全2分銭100文       G30 銭2,100文        I      G24  (計金ワ.8202両)    1     ,      二又尾利 佳   木蓮寺村    、根ケ布村    温畑中利    の 三つ木村    利 藤橋村      羽利 金1分      09 銭373文      ,46“61 a言      | 銭300文      2. 1   1 銭300又 銭7宍J 0.8461両) 勧化先不明 祝儀・直叙 合 計 金40両銭196文(金40.0436両) 100.0 1 ぐ・史料    G24:古野禎次家文書「諸勧化之類諸貫覚帳」[金1両=銭4.300文]    G29:同「春日明神修覆二世筏木御払差引帳」[同]    G30:同「宮葺替諸入用帳」[同]    G31:同「春日明神葺替諸入用出銭取立帳」[金1両=銭4.500文] 木材売却*2 金18両2分2朱(金18.625両): 31.1  G65 不,大門村名主扱い 明 野上村名主扱い 金口両 金1両(計金18両) 30.0 1 G63 合 計 金40両銭196文(金40.0436両)・ 100.0   09:同「万覚帳」[金1両=銭4.400文]      ※史料 ゛E・合計は会1両=銭4.500文として計算      G63:吉野禎次家文書「春日明神修覆会出入帳」 *1:手取分,経費銭734文の内談6oo文は桧細木22本売去pによる。       [会1両=銭5.50o文 6.75o文6.8oo文] *2:この額より増える可能性が高い。[09]「万覚帳丿中の下師岡分は      ほか,G64「春日明神修覆諸懸り控帳」    会4両2分談600文であり、[G31]「春日明神葺替諸入用出銭取立      G65:同[売木入札帳」    帳]の金4両2分談600文より低く、[09]「万覚帳が文字どおり覚       ぞ・合計は会1両=銭6.800文として計算    書の性格であったと考えられるが、[G31]「春日明神葺替諸入用出       *1:大門村名主扱い分会17両と野上村名主扱い分会1両の中に含まれる    銭取立帳]には野上、大門、吹上村の勧化額は記されない.。      可能性がある。       *2:杉、桧、樫。木材売却代は[G63][春日明神修覆金出入帳」では        全16両3分2朱である。       28       29

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