• Tidak ada hasil yang ditemukan

Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

Membagikan "Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō"

Copied!
31
0
0

Teks penuh

(1)

University of Zurich

Zurich Open Repository and Archive

Winterthurerstr. 190 CH-8057 Zurich http://www.zora.uzh.ch

Year: 2005

Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru

Suisu jin no Nihon zō

Dallais, P

Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.

Postprint available at: http://www.zora.uzh.ch

Posted at the Zurich Open Repository and Archive, University of Zurich. http://www.zora.uzh.ch

Originally published at:

Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.

Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.

Postprint available at: http://www.zora.uzh.ch

Posted at the Zurich Open Repository and Archive, University of Zurich. http://www.zora.uzh.ch

Originally published at:

Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.

(2)

ISBN4-634-64012-0 C1022

「ζ

...

『〆』

¥2400E

定価|本体2400円I(税別)

Z

BAm

V

日本とスイスの交流

幕末から明治ヘ

森田安一一編

森田安一編

Alorita Yasuka""

幕末か

1,

E市一、かリ

幕末・明治則の日本・ スイスの 交流をめぐって 帝国主義と平等性のあいだ 国際法のグローバル化と 一九世紀における日消関係 日本・スイス交流の誕生過稗 岩倉使節団の見たスイス ホルナl、アンベール、 そしてその後 人類学的視点における スイス人の日本像 スイス絹商人ハンス・ シユペリの見た明治の日本 スイスと国交の 始まった頃の時計産業 近代化の嵐のなかで 山 111 出 版

イス人の見た日

2

0

0

前にスイス人が描いた長

崎のス

岩倉遣欧使節が見聞したスイス滞在

両国

の通商条約締結の経緯を明らかにするとともに

近代化を急ぐ日本とスイスの知られざる交流を紹介する

.

IL... � _..

己満修好通商条約締結140周年記念シンポジウムより 応酬

(3)

The

IIぜ),1('。町h巾k刊問的Japlln

.\n<l S、vjw:,btlxl;

fh)ffi rhc r:ùo

1't'r1orl朋lht!

MI:lJl èr.\

i"'d.h}r

抑制kuu<Müri同

-E

e

'e

.

,‘

.

aEm

aZEE -品方 、守dTl池、叫TUH1t山路帯」μ4叫回三件踊53-B坤 hHa録画3帝時棋 界' gupム初出 向浅い事庁内掛哨mqωぬJW・、ムum持品vfNCS骨-G』曜日E品別品町 山 WM河 怠 遥 「 出口 当 q v H 河 取 探 4 hH令知 雰帽 間 対罰 戸 噛 持 惜戸 口 。 ( 品川 -で ゆt -U F、 、 やMUV、, Hgaぃデ洪岨wgu泣いメムお吉川内 中hvlGR法令hm思議怒匙 諒添 田お噌,叩静岡国】』詰)

(4)

吋手

句' N F 師SM時怖い、、白書ハ針物)何斗叫"lt喝事A品開咽げ ha診存社市品vh、、て』えい、山、LFWマυ、担叩世一一副書提盟萄昌汗・0嵩叫。,-H汁作崎伊ψFMV・ Epav--UF、、刷、gur zom相"決議同eM吋X涼ESAZ1dhNU丹hw漏話護者S

司叩漏

出繋噌中田8-アFS

... t.

.

?

調

...

_.�ト・1 ・・ ー

3

F..阿達( ?) IRI附年10月初n顎に』高かれた.7ル・ ぜンシコテルンはようぞく民師向に徐々 位人るにとを*"れたが. 飾り"てられと紋量的事1船がj-';I-<-ジグザH'::促-, " 1.:ψに近づいてき1.:", N学的小島11鼠崎、 入り証拠のd村I;I�'鉢砲と.11'.枯れ品" (*Jレナー・コレクション、哨少t年a紙にインク碕さ. �� x

1ミJ.7cm,. 1 :4' リ

ヒλ;学l止品i時,�泊所義 "録時停制1).I.ZI) 乞.

,.,..�

4

日本にお付る小田のジャン'1船と和鮒 ("昔崎山風景a レザーノフりlIt合前に骨町lずるのMナl/.T;_-�ジグサ. (ホルナー­ Uレクシωン. 間)5""'10調H�1ンP捕食.

'r1.7

X 'HCUL, ずJーリ収入停』見勝博 物細所続 出総#号認。1.20)

(5)

ー寸

はじめに

5 偽主主-1;にあるレザ ノ7の宿書帥F有bれkl!lJ\械の実践 ナジ1ージダ号6こ朱船Lていた博物'i",�ラシダJ九ドルフ111何百年2H úHI:nA'ぞ111二崎τ的!i!I.>l球世ゐげた. (*脅1・5と88珂を審司 開l) (ホルナー."レタ:/.ン、11II昂:IJ'.紙1:インタ摘/).桜島認29,!\t.m... ずJーリヒ)<宇民族博物飢所は 目録骨骨A20.1.16)

V晶ぷ;v/...!Nc-ー

..v"ø・4よA"...ん』

j吋...-(.: .

B

レーヴxンシ苛T'"ンtf絹ぃ�:> Ii:岡田敏気Tf町長般開 主島3長線が梅仁訴も. ヅングスドルフut�検1<(>1..。ている. (本安13 5ぜを多脳)(111典Uli2百忌171 本書は一八六回午A1丸.Jに岱給与れた円本・スイス修好域内条約の一凶0・m年を 記念して、 u本k iTトAFずu字路・・発宇研究持が中能してお・』なったシンポジウム .事求・明治則の円引 HA流をめぐ吋て. の純作卦である シ ン ポジ ウ ム は窃訟な AV た 日 本化.4I人学 問 際公 流 センターに おい て 白 -00 凶年 } O n 九 日 に ス イ ス ド A使館およ ぴ 外 務 省 の 後鰻でおこなわれたが 、 前川 向 島 £ う ど 白} 00 年 前 三 八 O 例年 -υ あ 月 "'J

A

た型

1.1

Y 天

:/

1.

.

'

:1:

íi

ウ , ,..

全 元

品 ,

珪 h

?‘ ,

i

;

(�

1

..

胤 .

5

2

2 1

tt ι た L tJy< 'ç t主 以 与 ,. 仰 の '(

H

2 Z

4

調

k

3

8

tU iL 特 た が弘; な ::. 替 の il 同 点: で も 挨 拶 円本女 千 入学 M 門際交流七ンタ 1 的問所に み た っ て H4・ λイλ関係仁ついτ 後山眼科T氏(U本女子入居TdyR} ジセック ・ ルヴエルグン氏(A4λ大使)

(6)

しかし、 遅きに失する畏れ なきに しもあらず だ が、 い ま か ら で も 『 米欧回覧実記 』と い う 日本 の 近 代 010 国家 へ の 出 発点 に当 っ て 公刊された こ の 岩 倉使 節団 の 報 告書 は読み直 さ れ て よ い 。 そ こ から読 み と れ る も の (選 択 肢) を十分吟味し て、 い ま の 日 本 の 歩み方 、 あり方をもう 一 度 考え直 し て み る こ と は け っ し て 無駄 で は な い はずである。 い や 、 一世 紀余 に わ た る 日 本 の 近 代国家 の 形 成、 成立、 確立 から破 産と い う プ ロ セ ス は 、 い ま 立ち 止 まり、 改め て 日 本近代国家 の 出 発点 に公刊 さ れ た こ の 報 告書を 読み直 す こ とを、 む し ろ 要 請 し て い る と い っ ても過 言 で は な い 。 幸 い 、 原本は復 刻さ れ、 ま た 、 岩波文庫 化もされた。 手にと ろうと思えば い つ でも可能に な っ て い る 。 こ の 報 告書 が再び 注目され、 人びと の手にと ら れ る こ と を願 っ て やまな い 。

ホルナl、

アンベIル、

人類学的視点におけるスイス人の日本像

そしてその後

フィリップ

・ダレ

森田安一訳

本章 の 目 的は、 ス イ ス 人 が 日 本と出会 っ た初期 の 様 子を紹介 し、 ス イ ス に お け る 日 本像に与 えた影 響 を調べ る こ と で あ る 。 彼ら の 経 験が 一九世紀および 二 O 世 紀初期を通じ て ス イ ス に お け る 日本像 を 生 み 出し、 し だ い に 形成し て い っ た こ とを証 明し、 新し い 情 報や最 近発 見された資 料 に 照ら し て 人類 学的視 点 で こ の 問 題を論 議し て み た い 。 こ こ で 強 調する 人類学的視点 と は 、 日本と の 出 会 い か ら 生 じ る さ まざ まな人 間的特性や経 験、 日本 へ 旅 行した ス イ ス 人 が ス イ ス 帰 国後に残した観 察し うる知識 の 痕 跡、 遺産、 伝達を再 構成 ・ 再 配置 し、 古記録 や出版物だ け で は な く、 ス イ ス 、 とくに い く つ か の 民 族博物館 に保 存 さ れ て い る 日本 の諸 資料を 利用し て予備的分析を試 み 、 そ の 重要性 に焦 点を合 わ せ る こ と で ある。 私た ちは こ れ ら の 日本 に関 する収 集物を調 査 の 重要領域と考えね ばならな い 。 それらを 通じ て 日本に対 する 011

(7)

スイス人 の 関 心 の 高さを測 る扉 を新しく聞 き、 「陽 の 昇 る 国 」 へ 旅 し て 、 明 ら か に 何 の 記 録も残さ な か っ た 多く の 無 名 の 旅 人 へ の 新 た な る 洞察や伝記的な構 成要素を提供 できるだ ろう。 日瑞修好通商条約は 一 八 六 四 年 に カ ン ト ン ・ ヌ シ ャ テ ル 出 身 の エ メ ・ ア ン ベ l ル に よ っ て 署名 された が、 そ の 締結 一 四O周 年記 念はもう 一 つ の 周 年を祝う機会 でもある。 そ れ は 二 O O 年 前 の 一 八 O 四 年に 一ス イス 人 が は じ め て 日本を訪れた こ と である。 そ れ に つ い て は 非常に良く 記録が残され て い る 。 また、 今 回 の シ ン ポ ジ ウ ム 直 前 の 二OO四年の夏に思 わ ぬ 二 つ の 発 見があ っ た 。 それら はスイ スにおける日本 に か か わ る 記 憶メ カ ニ ズ ム に 興 味をかき立 て る 証 拠を加え る で あ ろ う 。 初期 の ス イス人 オ リ エ ン タ リ ス ト の 役 割と 明治 時代に相 当する時 代を扱う い く つ か の 事 例も検 討した い 。 そ の こ とは日 本をスイス に伝 え る 役割 を演じた役 者 た ち の 立場 を再考 す る こ と に役 立 つ で あ ろう。

日本に関するスイスの初期資料と両国関係の研究動向

ドイ ツ 語で書 か れ た日 本に関 する書 籍は、 ゾ l ロ ト ゥ ル ン 出 身 の イ エ ズ ス会士 レ ン ヴ ア ル ト ・ツ イザ トEg ]に よ っ て 四 O O 年以上も 前に フ リ ブl ル で印 刷されたが、 それはも っ とも早 い ス イス人 の 日 本 に対 する 関心を表明した 歴史 的業績 だ と み な せ る 。 ツィザ トは 日本に滞 在 し た イ エ ズ ス 会士た ち に よ っ て ロ l マ に も た ら さ れ た 文 4青から情 報を集 め る こ と が で き た の で ある [切25mE S包 、 踊MCC品 ]。 一 五 八 六 年から一八 六 四 年 の ア ン ベ l ル 使 節固 ま で の あ い だ に 、 一 八 O 四 10五年に長 崎を訪れ た ヨ l ハ ン ・ カ ス パ l ル ・ ホ ル ナ l の 例を除けば (後述)、 スイス人 は一人と し て 日本に行 き着 く こ と は できなか っ た と 一般 に考 え ら れ て い る 。 し か し な が ら 、 こ の 想 定は今 日 で は い くらか修正しなけれ ばならな い 。 ツイザ ト の 例 は、 こ の よ うな早 い 時期に 情報伝達 の 驚 く べ き 可 能性があ っ た こ と を示 し て い る 。 今日 で は 再現 する こ と が 難し い さまざまなネ ッ ト ワー ク や チ ャ ン ネ ル を通じ てスイ ス の 学 者は 情報を 手に入 れ て い た の で ある。 スイス の 図書 館には、 日本 に つ い て の叙述を含 む古 い 書 籍が オ ラ ン ダ 、 ドイツ、 イ ギ リス、 フ ラ ン ス か ら か な り入 っ て い る 。 一 七 世紀や 一 八 世 紀、 つ ま り オ ラ ン ダ人と中 国人だけが 二ハ 三 九 年以 降長 崎 の 制限区 域で通 商 する こ とを許 された、 い わ ゆ る 鎖国 の 時 代 で あ っ た 江 戸 時代以前 にも、 ま た そ の間にも、 東 ア ジ ア や 日 本に 関心を 示すスイス人 がわず かながら い た こ と は 明 ら か だ と 思 わ れ る 。 スイス人 が オ ラ ン ダ と そ の 東イ ン ド会社に密 接な関係があ っ た こ と 、 ま た 、 スイス人 が 商 人 や 科 学 者とし て ヨ ー ロ ッ パ 内 を動き 回り、 広 い ネ ッ ト ワー ク に参加し て い た こ と が 過小評価さ れ て きたように 思われる。 オ ラ ン ダ と の 結 び つ き を説明 する理 由 の 一 つ は 宗派問題 である。 両国はプ ロ テスタ ン ト 領域 に属し、 そ こ に富 裕 で 影 響 力 の あ る プ ロ テスタ ン ト の 改 宗家族が 宗教改革 後 の 一 六 世 紀中に避 難場所を 見出 し て い た の で ある。 一七世紀 の 江 戸時代に少なく と も 一 人 の スイ ス人が、 日本 に、 間違 い なく 長崎 に 、 上陸した 可能性は今日確か め ら れ る 。 ジ1 ゲリスト [N02 NN ∞] は古文 書から彼 を グ ラ l ル ス 出身 の ハ ン ス ・ ハ イ ン リ ヒ ・ シ ユ テ lガ ー だ と し て い る 。 彼は 一 七年間オ ラ ン ダ艦 隊 の 船 医 と し て過ご した後 r 072 ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 073

(8)

一 六 六 六 年におそらく 日本 で亡くな っ て い る 。 074 一 七 1 二 O 世紀 の あ い だ に 収 集 さ れ た 日本 文 化 の 資 料は 情報を補完 す る に 足 る も の で あ る が 、 九 世紀以前 の 資 料 に つ い て は 調 査はしばしば非 常 に 困 難 で あ る 。 芸術作 品 か ら 日 常品 に 至 る 品 々 はス イ ス民族博物館 に所 蔵 さ れ て い る コ レ ク シ ョ ン の な か に 見出 さ れ る が 、 ほと んどが 一 九 世 紀末 と二O世 紀 初頭に集め られたも の である。 収集物 に よ っ て 明 ら か に さ れ る 日 瑞交流 の 可能性を 一不 すも っ と も早 い 例 は、 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 市 立自 然科学博物館 の 民 族 コ レ ク シ ョ ン の な か にある RSEE-SE2忠臣戸室。 芸lukF叶]。 それは小さな 漆塗 の箱 と 一 の靴で ある。 古 い 目 録 に よ れば、 こ れ ら の 品 物は 一 六 七 六年にき わ め て め ずらし い 貴 重品とし て登 録され 一 六 六 O 年に創 設された市 民図 書館内 の 「珍奇品陳列室」 に 収蔵さ れた。 」れら の も の は 東イ ン ド会社 の 船 医と し て パ ン ダ ・ ア チ エで 数年 過ごし 、 おそらく 長崎に も上 陸した で あ ろう ウ ル リ ヒ ・ マイヤーによ っ て持 ち帰ら れたも の である。 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 市 立自 然科学博物 館にお い て 日本 関連資料 が 次 に 記 録 さ れ る の は 、 ようやく 一 八 七 八年にな っ て か ら で あ る 。 もう 一 つ の 興 味あ る 例 は ベ ル ン に 見 出 さ れ る 。 ベ ル ン 歴 史博物 館 の 民 族 学 コ レ ク シ ョ ン に は ア ル ブ レ ヒ ト ・ ヘ ル ボ ル ト ( 一 六 四 一1 一 七三 O )に よ っ て 一ムハ六 八 年 に ベ ル ン に持ち帰ら れた 日本 刀 の 脇 差が 今も保存 され て い る 。 ヘル ポ ル ト は東イ ン ド会社 に よ っ て雇わ れた画 家 で 、 イ ン ド 、 スリ l ラ ン ヵ 、イ ン ド ネ シ ア、 台湾 を旅 行した。 日本には 直接行 かなか っ た が、 台湾 で こ の脇 差 を手に入れたら し い 。 ベ ル ン で 次 に 初 期 日 本関連 コ レ ク シ ョ ン が 見出 さ れ る の は 一 九 世 紀 に 入 っ て か ら で 、 オ ラ ン ダ と 取引を し て い た マ ヌ エ ル 家 が 一 八 二 九年 と一八 四二 年に日本 コ レ ク シ ョ ン を市立 博物館に寄贈し たも の で あ る []Uω。門mw NDOω 品由l印(〕]。 もち ろ ん 、 こ れ ら の コ レ ク シ ョ ン は 当時多量 に出回 っ て い た 日 本製品 に関する実 態ゃ、 日本に関して ど の ような 信頼 で き る 知識がスイスにあ っ た かを 必ずしも反映 し て い な い し 、 そ れ ら の 品 々 が そ の 所 有 者にもた らした 威信 や異 国情緒 の 程 度を 今日、 推し は か る こ と は困難である。 富裕な 貴族 が 日 本 の 物 品、 陶磁器、 漆器類、 家具、 食品 (たいていは醤油 )を 好 ん で い た ヨ ー ロ ッ パ の ほ か の 地 域と異な っ て 、 ス イ スにある公 私 の コ レ ク シ ョ ン の な か に そ の よ うな品々 の 痕 跡を今 日多くは見出せ な い 。 若干 の 物 品が確 認されたとしても、 こ れ ま で調査され て も い な い 。 一 つ の 例外はジ ユ ネ 1 ヴ 図 書館に ある漆 塗 の 飾り棚 れた かは定か で は な い 。 それは 「東イ ン ド か ら の飾 り棚」 とし て登 録され、 メダ ル ・ コ レ ク シ ョ ン を 保 ホルナ 一 、 ア ン ベール、 そしてその後 で あ る [町民一何回申 ∞印 ]。 こ の 一 七 世 紀 の 飾 り棚は一七 O 七 年 に ギ ヨ l ム ・ フ ラ ン コ ニ と い う 都市貴族 が 図 書館 に寄贈し たも の で ある。 彼も オ ラ ン ダ の 東 イ ン ド会社と活発な取 引関係を 結 ん で い た人物である 。 こ の こ と が そ の 出 所を明か し て い るとすれば、 ブ ラ ン コ ニ は オ ラ ン ダ 船 で も た ら さ れた 飾り 棚 の 最 初 の 所有 者 で あ る こ と は 間違 い な い と推測できる 。 しかし、 そ の 正 確な価値やど の よ う にスイス へ も た ら さ 存す る た め に使用 さ れ て い た 。 研究 の 現 段階 で特 筆 す べ き こ と は 、 スイ ス に お け る 日 本 の痕 跡は 一 八 世紀 に は さ ら に 乏 し い こ と で あ る。 ロ ン ド ン に定住 し て い たスイ ス人医師J ・ G ・ シ ヨ イ ヒ ツ ア ー は 、 一 七 二七年に エ ン ゲル ベ ル ト 075

(9)

--ケ ン ペ ル ( 一六 五 一1 一七 一六 )の 『日本誌』を英訳し て い る 。 ケ ン ペ ル は 東イ ン ド会社 を 通 じ て 長 崎 に 076 = j・長了 、

ノJ1

i

一 六 九 0 1 九 二 年 の 二 年 間、 日本に滞 在し た 人 物である。 ケ ン ペ ル の 本 は日本に関する主 要な情 報源 と し て利用され、 日本 に つ い て 一 八世紀に書かれた数冊 の書籍に強 い 影 響を与 え て い る 。 シ ヨ イ ヒ ツ ア l の翻 訳は今 日 で は 不 完全 なも の と み な され て い る け れども、 完壁な英訳 を手にする に はごO世 紀 の末まで待たねばならなか っ た [E3喜こ320 こ れ ら の 早 い 時 期 で の日本 と の 結び つ き はすべ て東 イ ン ド 会社 やスイ ス人企業家と オ ラ ン ダ と の 商取 引を通じ て で あ り、 オ ラ ン ダ は 多く のス イス 人回目険 家にと っ て 、 真に 世界に開かれた 窓と な っ て い た 。 不幸に も こ れ ら の 冒 険家たちは自 分 たち の 活 動 の 記録を多く は残さ な か っ た 。 しかし、 埋もれた古 文書 や手 紙に は発見さ れ る べ き 多 く の も の が 残 っ て い ると 推定 さ れ る 。 シ ユ テlガ! と マ イ ヤ l の 二 つ の ケ ース はさら に詳 細 に 研 究 さ れ る 必 要がある。 全体像はま だ は っ き りしな い けれ ども、 一 七 世紀中に少な くとも 一 人 あ る い は 二 人 のス イス人 が オ ラ ン ダ の 船 で長崎を訪れ たと推 測 で き る し 、 一 八 世紀中にも立 証はさ れ て い な い が 、 同じよう な例はあ っ た で あ ろう。 こ う した文 脈 の な か で 、 長崎を訪れ て 、 最初 の 具体的な足 跡を残 し た は じ め て のス イス人 と し て ホ ル ナl の 名 を あ げ る こ と が で き よ う 。 初期 の 日 瑞関係 の 研 究はスイ ス で は あ まり発展 しなか っ た し、 日本研 究はス イス の 学問領域 で は きわ め て 若 い 研究領 域である こ と を こ こ で指摘 する こ と は 重要であ ろう 。 スイス の 大 学、 主と し て チ ュ l リ ヒ 大 学とジ ユ ネ l ヴ 大 学が日本研究を 一 九 六 0 年代末 以前に始め る こ とがなか っ たならば、 日本 へ の 関 心 は 一九 世 紀 の 後 半にせ い ぜ い 個 人的レベ ル で 担 わ れ て き た だ け と い わ ざるをえな い 。 それ も フ ラ ン ス と ド イ ツ の 影 響を受け、 商業活 動 へ の 強 い 関心をもち ながらも 、 スイスが 海軍も植民地 ももたなか っ た の で 、 外交活動 へ の 関心度が低か っ た か ら で ある。 一 八 六 四 年以 降多く の 個 人、 企業家、 科学者、 旅行 者が日本 か ら 品 々 を持 ち帰り、 しばしば地元 の 民 族博物館 に寄 贈し たり、 売却し た。 そ れ に 比 し て 、 彼 ら の 多 くは日 本における経 験を書き 残さなか っ た 。 チ ュ l リ ヒ の リ lト ベ ル ク博 物館やジ ユ ネ l ヴ の パ ウ ア l 博 物館 の よ うな新し い 博 物館を除 けば、 日本や 東 ア ジ ア の 美 術品 や文 化を専門と する博 物館はな い し 、 ど の 博 物館も 日本文化 に 関 する著 名な専門家を か か え て い る わ け で は な い 。 た だ 、 と く に ベ ル ン の 例 に み ら れ る よ う に 二 O世紀初頭に、 数人 の 学 芸員が 日本に関する コ レ ク シ ョ ン を 作り上 げよう と努 人 に つ い て た い へ ん詳細 な報告 を お こ な っ て い る 。 コ ル デ イ エ [同∞ 宏 ]は、 イ エ ズ ス会士、 プ ロ テ スタ ン ホルナ一、 アンベール、 そ してその後 力したが、 長続 きしなか っ た 。 初期 の日 瑞両国関係 に対する関心は、 少なくと も パ イ オ ニ ア 的 研究レ ベ ル で は、 偉大な フ ラ ン ス 人東 洋学 者 コ ル デ イ エ の よ うな、 非スイス人 研究者 に よ っ て い つ も 起 こ された。 彼はジ ユ ネ lヴ で 一 八 九 四 年九 月 に 開 催さ れた第 一 O 回国際 オ リ エ ン タ リ スト 会議 にお い て 、 東 ア ジ ア に 関心を寄せ て い たスイス ト宣教師、 ある い は そ の ほ か 一 般 の スイス人が日 本よりは中国に深 い 関 心を示 し て い た と は っ き り述 べ て い る 。 彼は そ の よ う なスイス 人たちが残した豊かな 資料と 調査に関する 研究が欠け て い る こ と を 不 思 議に思 い 、 日本 を訪れた最 初 の ス イス人 と し て ア ン ベ l ル を 引 き合 い に 出し て い る 。 ア ン ベ l ル に つ い 077 �

(10)

ては後 で ふ れ た い 。 とも かくも 東 ア ジ ア に お け る これら のス イス人パ イ オ ニ ア の著 作や生涯に対 する地 元 の 無関心 を コ ル デ イ エ は非難し て い る よ うに感 じ ら れ る 。 し か し 、 東 ア ジ ア と 日本 に対する 一 般 的学 078 問動向、 パタ ー ン 、 あ る い は スイス人 の態度に コ ル デ イ エ はこ こ で ふ れ た だ ろうか。 私の考 え で は 、 日瑞関係 の 研 究に新し い 意 識が 芽 生 え る に は 、 ア ン ベ 1 ル 使 節団 の 日本訪問百年記念 祭と 、 そ の折 出 版された記 念論 集「スイス|日本 一 八 六 四 | 一九 六 四 年』 [百 年祭委員会 5A]ま で待たね ば な ら な か っ た 。 そ の 後、 中井教授 の 重 要な博 士論文 [5 3が続き、 さ ら に ヒ ユ ル リ マ ン [忌呂、 イ ン モ l ス[HgN ]、 ジ エ ク イ エ ロ3 0]、 モ テ ィ l ニ [号 ∞]、 部分的 に は ジ lゲリスト [M言 ] の 歴 史 学的指向を も っ た出版物が 出された。 日瑞両国関係と 相互影響 に関 する研 究 の 将 来は い ま や 確かなも の となり、 新たな 原動力を得た よ う に 思え る。 両 国 の 専 門家を含む会合 や学 問的な意 見交換は い く つ か の 新し い 実 り多 い 考察を導き出す で あ ろう。 「 二 O世 紀日 本 に お け るス イス受容 ||イ メージ ・ 理 念 ・文 化的変容 ・ 学 問」 を テ l マ に し て 二 O O 三 年 八 月 に チ ュ l リ ヒ 大 学東 ア ジ ア 研 究所 で お こ な わ れ た セ ミ ナ ー は そ の 例 で ある。 博物館 の 研 究 サイ ド で は 、 ヨ ー ロ ッ パ の 博物館、 ギ ャ ラ リ ー 、 調査研究所から日本 工 芸 ・応用美術 の 研究者、 学芸員 たち が新し い ネ ッ ト ワー ク を作り出し て い る 。 それは E NJA Cと呼ば れ、 二O O 三 年 以 降す で に 二 つ の 実 り豊 かな 会議を組 織した。 こ の 最 近 の 汎 ヨ ー ロ ッパ 的共同作 業に はスイ ス の 五 つ の 博 物館も参加し て 、 各博物 館に残され て い る 日本 の も っ と も古 い 痕 跡や 比較的新し い 痕 跡を 研究す る の に た い へ ん役 立 っ て い る 。 博物館 に は い ま だ に 手 を つ け ら れ て い な い 非 常に多 く の 資 料が眠 っ て い て 、 それら はさまざ まな分野で 両国関 係を理 解 す る の を 助けてく れ る で あ ろ う。

ホルナ!とロシ工

アンベール以前の日本における二人のスイス人

物理学者、 天文学者、 世界周航者、 ロ シ ア皇 帝 の 顧 問 官 で もあ っ たスイス 人 ヨ l ハ ン ・ カ ス パ l ル ・ ホ ル ナ l (一 七七凶i一 八 三 四 )は チ ュ l リ ヒ に 生 ま れ た 。 父親 は チ ュ l リ ヒ の パ ン 屋 で 、 チ ュ l リ ヒ 市 参事 会に属し、 大尉 の 地 位にあ っ た が、 ホ ル ナ lが病 弱であ っ た の で 、 彼を プ ロ テ スタ ン ト の牧 師と し を も ち、 天文学へと 情熱を 広げ始め て い っ た 。 彼は ドイツ で科 学研究を 追究し、 一 七 九九年にイ エ ナ 大 ホル ナ一、 ア ン ベール、 そ し てその後 て 教 育す る た め に ギ ム ナジウム に送る こ と に し た 。 し か し 、 まもなくホ ル ナ l は数 学と自然科学 に 興 味 学から博 士 の 学位 を受けた。 市民 み」阜 、

,AIl-v

一 八 O 三 年 に エ ス ト ニ ア出 身 の ア ダ ム ・ ヨ l ハ ン ・ フ ォ ン ・ ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン (一 七 七 O ー 一 八 四 六) の指 揮下 に ロ シ ア皇 帝 ア レ ク サ ン ド ル 一 世 の 命 に よ っ て組織された 世界周航探検隊 の 天 文学 者と し て 採用された。 ホ ル ナ l は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 艦船 ナジ ェ l ジ ダ (希 望 ) 号に 乗船し た。 ナジ ェ l ジ ダ 号 に は も う 一隻 の 小型 船ネ ヴ ア 号 が従 っ た 。 三 年 間 (一 八 O 三 1 0 六 )か か っ た 遠 征探検 隊 に は 、 船員、 将校、 科学者、 ロ シ ア皇 帝 の 公 式使 節 ニ コ ラ イ ・ ペ ト ロ ヴ イ ツチ ・ レザ l ノ フ ご 七六凶 1 一八 O 。79

(11)

n

七 ) など 一 三 九 名が含 まれ て い た 。 080 ナジ ェ lジ ダ号 は ブ ラ ジ ル に停泊し た後に、 ホ ル ン 岬 を 通 り、 マ ル ケサス諸島 の 一 つ で あ る ヌ ク ヒ ヴ ア 島 など の 島 々 に時 折上陸し な が ら 太 平洋を帆 走し、 カ ム チ ャ ツ カ半 島 の ロ シ ア の 港ペ ト ロ パ ウ ロ フ スク に到 着した。 そ こ か ら船は長崎 に向 け出 帆し、 日 本 の 南 西岸 に沿 っ て 南下 した。 ナジ ェ l ジ ダ 号は 一 八 O 四 年 一O 月 八 日 に 長崎 湾 の 入 口 に到着し (口絵3参照 )、 六 カ 月後 の 一 八 O 五年四月五 日 に 出 帆した。 ネヴ ア 号 は つ ね に ナジ ェ 1 ジ ダ 号 と 同 じ ル l トをと っ た わ け で は なく、 日本には行かなか っ た 。 ク ル ー ゼ ン シ ユ テ ル ン は 日 本海を北上 し、 北海道北部 や サ ハ リ ン 島 に 上 陸し て 、 そ こ で 探 検隊 の メ ン バー は ア イ ヌ や ニ ブ フ (ギ リヤlク ) の 人 び と と 出 会 っ て い る 。 こ れ ら の 探 検 の 後に、 千島諸 島を通 っ て カ ム チ ヤ ツカ に 戻 っ た 。 そ の 後 、 中国 で は 広東に 立ち 寄り、 南東 ア ジ ア の 海、 大西洋 を へ て 、 ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル ク に帰 港した。 ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン に よ っ て出版された探 検図解書EE は、 航海を 理解す る た め に 必要なすべ て の 地 図を備え、 日本人、 アイ ヌ 民 族、 そ の ほ か の 人 び と の き わ め て 興 味深く、 最新 の 、 ま っ たく真に 迫 っ た ビ ジ ュ ア ル な 記事を提供し て い る 。 彼ら の 長 い 旅 行中に ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン は ホ ル ナ l の 名 を 九 州 の 鹿 児島湾入口西方 に あ る 山 ( 開聞岳、 九 二二 / 九 二 四 メートル ) と、 サ ハ リ ン の 北 西海 岸にある 岬に つ け て い る 。 パ ラ ヴ ィ チ l ニ は ホ ル ナ l を 「民 族 学 者 」 の 先 駆 け と な っ た 三 人 目 の ス イ ス 人 と み な し て い る [3352E H宏 ω一56 HωN ]。 な ぜ な ら彼は 世界 周航 を し た も っ とも早 い ス イス人旅 行者 で あ り、 遠方 の 知 ら れざる 民族を観 察 し た か ら である。 彼以前 で は 、 ジ ェ l ム ズ ・ ク ッ ク 船長 の一七七 六i八 O 年 の 第 三 次 航海 の と き の 探 検隊 画家であ っ た ベ ル ン 出身 の ヨ ハ ネス ・ ヴエツ パ l (一 七 五 一1 九 一一一) が い た EE 司gEロ 遺品 ]。 長 い あ い だ ホ ル ナ l は ち ょうど 二OO年 前 に 日本を訪れ た最 初 の ス イス 人と考 え ら れ て い る 。 す で に 見 て きた ように、 た し か に彼は長 崎 に最初 に 上陸したス イス人 で は な い が 、 明 ら か に オ ラ ン ダ 船で 到来し なか っ た 最 初 の スイス人 で あ り、 後代に い く ばくか の 記 録を残し た 最 初 の 人 で あ っ た 。 二 O O 四 年七 月 に 私 は チ ュ l リ ヒ 大 学民族博物 館で、 彼が旅行中に描 い た スケ ッ チ 、 絵画、 地図 を再発見した。 こ れ ら の 収 集物数 点は初め て 二 O O 四年に開催された 日瑞修交通商条約記 念 シ ン ポジウム に提示された。 こ の 世界周航探 検 の 目的は ア メ リ カ と 日 本 の 北 海岸を 探検踏 査し、 日本と の 外 交 ・ 通商 関係を樹立 し、 科学調 査をし、 より 正確な地図 を作成し て 、 中国に い た る 毛皮輸送 の 海 運 ル l トを改 善 する こ と で あ っ ホルナ一、 ア ン ベ ー ル、 そ し て その後 た。 ロ シ ア 皇帝は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン に 露米会社 の創 設 者 シ ェ リ ク ホ フ の 女婿 で 、 露米会社 の 大 株主 レザ l ノ フ は 日本 が千島列島、 ア リ ュ l シ ャ ン 列 島、 ア ラ スカ に お で あ っ たレ ザ lノ フ を 乗船さ せ た 。 ける 毛皮 貿易 に従事 する ロ シ ア前 哨地 の供 給地 に な ると 考えた。 公 式 の 大 使と し て 、 彼は ロ シ ア 軍中尉 ア ダ ム ・ ラ ク ス マ ン が 一 七 九 三 年 に〔幕府か ら〕 得 て い た 文書 の お かげ で 日 本と の 交 渉は成功 する で あ ろ うと考 え て い た 。 ラ ク ス マ ン は 日 本と の 外 交関 係樹 立を達 成する た め に 女 帝 エ カ テ リ l ナ 二世 に よ っ て 派遣 さ れ て い た人物である 。 ラ ク ス マ ン は北 海道 へ 帆 走し、 松前 に お い て 江 戸幕府 の 役 人、 石川将監と 村上大学 の 二 奉行か ら 長 崎におけるさらな る交渉 に関する信任状 を得 た だ け で 任 務を終え て い た。 そ れ 081 �

(12)

γ

,.-,-にも関わ らず、 レザlノ フ は こ の 信 任状 が日本と の 通 商を認め ること にな ろうと誤 解 し て い た 。 ラ ク ス 082 マ ン 同 様に、 レザ l ノ フ は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ス ブ ル クへ 連れ て行かれた 日本人漂流者を 帰還さ せ る 考え をも っ て い た。 彼らは世 界 一周を し た 最 初 の日本人 で あ っ た 。 そ の 詳細な記 事は 一 八 O 七年に出版され た大 槻玄沢 の 著 書 『環海異聞 』に見出され る。 数 カ 月 の 交 渉 の 後 に 、 不幸 にも レザlノ フ は 日本 の 官 憲、 幕府 の 交 渉に失敗 した。 彼は日 本人 の拒 絶 に よ っ て個人的に侮 辱されたと感じ、 カ ム チ ャ ツカ で ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 船を 離れ、 数 カ 月 後に千 島諸島 にあ っ た 日 本 の 運上屋 施設に対する襲 撃 を始めた。 ほ ほ 六 カ 月 間長 崎 で 過ご し た あ い だ 、 ホ ル ナlは天文 観測に従 事し、 地図を作 製した。 ま た 、 ドイツ 人 の 物理学 者 ・博物学者 で 、 探検 隊 の 公 式 の 画 家 で あ る ヴ イ ル ヘ ル ム ・ゴ ッ トリlプ ・ テ ィ レ ジウ ス ・ フ ォ ン ・ テ ィ レ ナ ウと と も に 、 長崎 周辺 の 景 色、 船、 人 び と を スケ ッ チ し た 。 ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン [-∞HO-- ∞-H-5 HN〕、 ラ ン グスド ル フ [-S ω] 、 レ 1 ヴ エ ン シ ユ テ ル ン 5 8 ]の 旅 行記事を注 意深く研 究すれば、 日本滞在中 に起き たこと を時を追 っ て 、 そし て詳細に再現する こ と が できる。 これら の 著 者たちはあら ゆる種 類 の で き ご と を 目 撃 し 、 報告 し、 日本 の 人 び と に つ い て 見 聞 し た す べ てを 叙述 した。 そこか ら 、 たとえば、 ロ シ ア皇 帝が天皇だ と信じた日 本 の 支 配者に、 贈物 一式を用 意 し た こ と が わ か る 。 ラ ン グ ス ドル フ は 贈物 の な か の 最 良 の も の を 書き出 し て い る が 、 そ の な か に は 金 銀 の 懐 中時計があ っ た 。 し か し 、 こ れ ら の 贈 物は 受け 取られなか っ た 。 そ れ に も か か わ ら ず、 日本 人漂流 者一人 一 人 に は 銀時 計が与えら れ た [FE間的ι。吋R Sおヨ]。 お そ らくそれら はス イス製 で 、 日 本 に 入 っ た 初 期 の スイス時計 で あ る 蓋然性 は高 い 。 物語的雰囲気や 上級乗組員、 将校、 科学者と い っ た 地 位が新し い 旅 行方法 を 生 み 出し、 一 八 世 紀 の 探 検と の 決 別を予見し て い る 。 彼らが訪れた世 界 の ほ か の 地 域と は異な っ て 、 日本 人 は ロ シ ア 船、 そ の 乗 組員、 とくに使 節 の レ ザー ノ フ に格別 の 好 奇心を 抱 い た 。 あ る も の た ち は ナ ジ ェ l ジ ダ 号近 く に や っ て来たり、 乗船し たりし て 、 オ ラ ン ダ 人以外 の 外 国人を記 録する絵を たくさ ん拙 き上げた。 一 八 O 四 年 の 『ロ シ ア 使 節レ ザl ノ フ 来 航絵巻」 の よ う な記録は、 写真発明 の 三 五年以前 に ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検隊 の メ ン バ ー に よ っ て 残 さ れ た 数枚のスケ ッ チ や絵画 の 鏡 像 と し て今日比較 さ れ ね ば な ら な い 。 出島商館( 口絵2参照 ) の オ ラ ン ダ の 役 人 や 通詞 は 、 日本人 と こ れ ら の ロ シ ア 新来者 の あ い だ の い わば第 三者 で あ っ た 。 ク ル l ゼ ン シ ユ ホル ナ一、 ア ン ベ ー ル、 そしてその後 テ ル ン が 町に接近し、 長崎 港に停 泊 す る ま で には数 週間 を必要 と し た (口 絵1 ・4を参照 )O レザ l ノ フ は そ の 後 隔離 された住居に滞 在を 許され、 ロ シ ア 人 たちは 日本人 の 厳 し い 警 備 の もと に 上 陸し て少し の 時 間過ご す こ と が で き た。 一 八 O 五 年 三 月 に 、 た と え ば 、 レ l ヴ ェ ン シ ユ テ ル ン [Ncg N2 ]は 次 の よ う に 書 い て い る 。 「ホ ル ナ l は 今や 毎日上陸 し て 、 振り子 の 実 験 を し て い ま す」 と。 ホ ル ナ l は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 親友 で 、 艦上 の 重 要人 物 に 属 し て い た が、 け っ し て 探検 隊 の な か の 有 名な人 物 で は な か っ た 。 そ の 理 由 の 一 つ は 、 ラ ン グ スド ル フ [HS ω]や レ l ヴ エ ン シ ユ テ ル ン [Ncg と は 違 っ て 、 彼が旅 行体験 や長 崎滞 在 に つ い て個人的に記 録を書 かなか っ た事 実か ら説 明されうる。 そ れ に も か か わ ら ず 、 彼は 三 つ の 論文を探検記 の 第 三 巻 目宗2855355 に発表し て い る 。 そ れ ら は 物 083

(13)

理学的 ・天文学的観測を扱 っ て い る が、 再刊 行されたり 、 フ ラ ン ス 語 や 英語 に翻 訳さ れ る こ と もなか っ 084 た。 彼 の 書簡を丁 寧 に み れ ば 、 日本旅 行中に彼 が知り え た さまざ まな エ ピ ソ ードを再 構成 で き る かもし れな い 。 彼は数通 の 手 紙を 家族 に 送 っ て おり、 そ の な か で 旅 の印象を多少語 っ て い る 。 長崎 に関するわ ずかな記述 で 、 彼は 日本 の 官 憲によ る数 多く の 制 限と外国人 へ の 変わ ら ぬ 疑 い が あ る こ と を 嘆 い て い る 。 一 八 O六年 に ヨ ー ロ ッ パ に一 反っ て か ら 、 ホ ル ナ l は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル クと タ リ ン に あ る ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 家 にしば らく 滞在し た。 彼が 描 い た タ リ ン の ス ケ ッ チ は チ ュ 1 リ ヒ 民 族博物館 の コ レ ク シ ヨ ン の な か にある。 ホ ル ナ l は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル ク 大 学教授 の 地位を 断り、 むしろ南アメ リ カ へ の 新 し い 探検隊を組織 しようとした。 しかし 、 ナ ポ レ オ ン と の 最 初 の 戦 争 が ロ シ ア に 財政的な制約を も た ら した。 一 八 O九年チ ュ l リ ヒ に 帰り、 人文学 院で数学 ・論 理学 ・修辞学 の 教 授 と な っ た 。 一 八 一 六 年か ら 三 O年 ま で市 参事会員と なり、 一 八 一二 一年から三 四年に 死 ぬ ま で チ ュ l リ ヒ 自然科学協会 会長 の

也立

ハピ

j{;lJ

ホ ル ナ l を よ く 知 っ て い た 人 び と に よ れ ば 、 ホ ル ナ 1 は旅行 に 深 い 感 銘を受け、 そ の こ と を訪れた人 に語 り、 日本と 中国か ら持ち帰 っ た 品 々 の コ レ ク シ ョ ン を み せ た と い う 。 こ れ ら の 品 々 は ま だ発 見さ れ て い な い 。 ホ ル ナ l の 死 後、 彼 の 所有物と文書類は チ ュ l リ ヒ 古 物収集家協会 と そ の ほ か の チ ュ l リ ヒ 研 究機関 に寄 贈された。 そ の 後、 彼 の 民族学関 連 コ レ ク シ ョ ン と 絵 画 コ レ ク シ ョ ン は 一 八 八 九年に 創設さ れ た チ ュ l リ ヒ 大学民族博物 館に移 され、 そ こ の も っ と も古 い コ レ ク シ ョ ン と な っ た 。 物品 の コ レ ク シ ョ ン と 異な っ て 、 図像 文書 類は手 つ か ずに残され、 博物館 の 地 下室 に埋 も れた宝 物 の よ うに忘れ去られ てしま っ た 。 スイス の 博 物 館における 日本関 係 コ レ ク シ ョ ン へ の 私 の 興 味は 一 九 九七年 に エ メ ・ ア ン ベ l ル と そ の ほ か の コ レ ク シ ョ ン の 研 究と ともに始 ま っ た が、 二 O O 二 年 からはス イ ス の 七 大 民族博物 館を含め、 スイス に保 存さ れ て い る す べ て の ア イ ヌ 民 族資 料 コ レ ク シ ョ ン の 体 系的 な カ タ ロ グを作 成す る プ ロ ジ ェ ク ト に従事し 始 め た [U包-5・叶ち3M gω ロ色2・叶戸gg Ng印〈近刊 〉]。 こ の 調査は 一 九 世 紀末と 二 O 世 紀前半 に 日 本 へ 行 っ た多 く のス イス人旅 行 者に つ い て徹底的 に調査 するまた と な い 機会を 提 供した。 も っ と も 興味深 い 成 果 の 一 つ は ホ ル ナ l に関する多 く の 情 報を 発見した こ と である。 彼は アイ ヌ の人びと に出会 っ た 最初 の ス イス人 でもあ っ た の で ある。 そ の ときま で は 、 ホ ル ナ ー は も っ ぱ ら 科学史 の 分 野 で 研 究さ ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 れ て い た [宮 ロヨ25と2 5g]。 二 O O 四 年四月に私はチ ュ l リ ヒ 大 学民族博物館 の 新 し い ス タ ッ フ に 選ばれた。 博物館 の廊 下には、 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 出 身 の ダ l フ ィ ッ ト ・ズ ル ツ ア ー が 描 い た ホ ル ナ l の 大き な油絵肖像 画が展示さ れ て い た。 そ の こ と が 私に、 さ ら な る ホ ル ナ l の 文 書が 存在する 可能性を絶えず思 い 起 こ さ せ て い た 。 多 く の 調 査 の 後 、 偶然 の幸 運 に よ っ て 、 また、 学芸 員 マ ル テ イ ン ・ブ ラ ウ ン (テイベット ・ヒ マラヤ ・極東部 門 ) 援 助 の おかげで、 二O O 四年 七 月 に そ れ らを発見を す る こ と が で き た[ 荒田 NO S-佐藤 NGC-品 ]。 ホ ル ナ ー の 航海 後 二 O O 年し て 、 一 三 一一枚 の ス ケ ッ チ 、 デ ッ サ ン 、 水彩画、 地図などが入 っ た書類入 れを見 出 した の で あ る。 一 O 三 枚 は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 世 界周航探 検中に制作され、 そ の う ち の 二 O枚は長 085

(14)

崎に関 係し、 二九枚 は ヨ ー ロ ッ パ とスイ スに関 するも の で あ った。 086 コ レ ク シ ョ ン の な か に は 、 ユ ー モ ア を 込 め て ラ ク ス マ ン の 文 書 を 明 ら か に暗示す る 小 さ な手紙を 手 にする レザlノ フ の カ リ カ チ ュ ア さ え含まれ て い る が 、 さまざまな 角 度か ら拙か れ た 長崎 湾 と 町 の 風 一 八 O 五 年 二 月 六 日 の 日付をも っ 、 和紙 で つ く ら れ た日本最初 の熱 気球飛行 が た い へ ん 正 確 に 拙かれた場 面 が あ る (口絵5参照)。 そ れ は フ ラ ン ス の モ ン ゴ ル フ イ エ 兄弟が最初 の軽 気球飛行 船を発明 景や、 し て か ら 二 二 年 後 の こと で あ った。 こ の 気 球は レザlノ フ の 駐 在 地 で 科学者 ゲ オ ル ク ・ ハ イ ン リ ヒ ・ フ ォ ン ・ ラ ン グ ス ド ル フ (一 七七 四 1 一 八 五 二) に よ っ て 制 作さ れ た が 、 町 の 方 向 に 飛 ん で い き 、 墜落し て燃 え上 がった。 日本 人 た ち は そ れ が 火器 だと信じ て、 ちょと した事 件を引き 起こし たFE怒号忌 HS ω NOMINa -ホ ル ナ l の 絵 画 は そ れ ぞれ貴重な情 報 に溢れ、 文書 に よ る 情 報、 ティレ ジウ ス に よ っ て作成 さ れ た ほ か の 絵 画、 ある い は 一 八 一 四年に出 版された探 検 の 素 晴ら し い 探検図解 書にある銅 版画と の 関 連を指摘 で き る 。 しかし、 こ の ホ ル ナ l の コ レ ク シ ョ ン か ら新た な い く つ か の疑問が 生まれ て お り、 探検 の あ い だ に 描 か れ た す べ て の オ リ ジ ナ ル のスケ ッ チ や 絵画を徹 底的 に 再 吟味す る 必要がある。 幾人 か の 武 官たちが探 検中に 図版を作成 し 、 お互 い の 絵 を コ ピ ー し た り 、 交換 し あ っ てさえ い る ように み ら れ る 。 たとえば、 長崎の出 島を 描 い た 一枚 の 水 彩画は フ ラ ン ス 語 で 題 銘が書か れ 、 フ ェ ド lル ・ ロ ン ベ ル ク 中尉 の署 名が なさ れ て い る 。 ホ ル ナ lが日本から持 ち帰 った品 々 が 、 チ ュ l リ ヒ 大学民族博物館 の コ レ ク シ ョ ン の な か に 必ずや隠され て い る に違 い な く、 それ が発見さ れ、 さ ら に ホ ル ナ ー へ の 調 査が 進 め ら れ 、 実りあ る 成果が生 ま れ る に 違 い な い 。 太平 洋 の 島 々 、 カ ム チ ャ ツ カ 、 日本、 中国、 そ し て そ の ほ か の 地 域に関 す るすべ て の画 像は、 ヨ ー ロ ッ パ と ロ シ ア に散ら ばって い る ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検 隊 の も の と さ れ る 図像 コ レ ク シ ョ ン と 比較 研究 の 方 法 を 用 い て研 究調査さ れ る べ き で あ る [印OEEd自己塁。 ホ ル ナ l の 水 彩画 の 複 製画 (口絵1参照 )は、 当時 の ス イス連 邦大統領 ジ ョ ゼ フ ・ダ イスが二O O 四 年 一 O 月、 日本を公式訪問し た お りに、 天皇陛 下と小泉 総理大 臣 に手渡さ れ た [Z者N8 A]。 油絵 の ホ ル ナ l肖像 画と彼が日 本を柿 い た 絵画 の 複 製は 二 O O 五 年 日本 国際博覧会 「愛 ・ 地球博」 に お け るス イス ・ パ ビ リオ ン の 入 口 に 展 示される 。 また、 チ ュ l リ ヒ 大学民族博 物館館長 ミ ハ エ ル ・ オl ピ ッ ツ 氏は 二 O の ネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商会 に一廃 わ れ 、 極東に派 遣さ れ、 一 八 五九年 か ら 六 四 年にかけ て 日 本 の写 真 ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 O七年にチ ュ l リ ヒ に お い て ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検隊 の 特別展を組織す ること を決定 したが、 そ の こと をここに 初め て お 知らせ で き る ことを喜 び と し た い 。 第 二 の 重 要な発見は、 イ ギ リス人作家 で 、 一 九 世紀 東 ア ジ ア の 写 真 の 研 究者 である ト レ ン ス ・ ベ ネ ツ ト氏 に よ って二 O O 四 年八月になされた 。 ベ ネ ッ ト 氏は日 本写真史に お い て幻の 写真家 と し ば し ば い わ れた 人物 を誰だ か特定すること に成功した 。 ピ エ l ル ・ ジ ョ ゼ フ ・ ロ シ エ ( 一八 二 九 1 七二)は ロ ン ド ン を撮 った最初 の 商業写真家 で あ るこ と は す で に知ら れ て い た 。 さ ら に 、 彼は日本における写 真技術 の 発 087

(15)

展 に 重要な役 割を演じ、 日本 の 写 真草創 期 の パ イ オ ニ ア 上 野 彦 馬 へ コ ロ ジ オ ン混 板写真 の 技 術を教え て 088

a'-o

bナ人

ロ シ エ は フ ラ ン ス人と信じ ら れ 、 彼 の 生 涯 と作品 に関 す る情報はほ と ん どわ からなか っ た が 、 べ ネ ッ ト 氏 は ロ シ エ が実際は カ ン ト ン ・ フ リ ブl ル 生 まれ のス イス人 で あ る こと を明 ら か に し た [N GE。 ロ シ エ は 一 八 五 九 年 に ホ ル ナ l に 次 い で 日 本 に 来 た ス イ ス 人 で あ る と 今 や み な すこ と が で き る カ王 一 八 七 二 年 に パ リ で 亡く なり、 スイ ス で は ほ と んど 完全 に忘れ 去 ら れ て い た 。 日本 で探影さ れた彼 の 写 真はスイス の コ レ ク シ ョ ン に は 一枚も見出 されず 、 第 二 次世界 大戦中に破壊さ れ た ロ ン ド ン の ネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商会 で も 発見され て い な い 。 しかし、 一 八 六 O 年 一 O 月 一 二日付 の 『タ イ ム ズ』 紙に 次 の よ うな セ ン セ ー シ ョ ナ ル な 記事が掲 載 さ れ て い る 。 日本 か ら の 写真|| こ の 興 味 深 い 国 の 風 景を写し た 好 奇心溢れ る珍し い 写真 や日本部族 〔原文 のま ま〕 の 習 俗 ・風 習 の 例 証と な る よ う な 写 真 || そ れ ら は ロ ン ド ン の ネ グ レ ツ テ ィ ・ ザ ン ブ ラ商会 に よ っ て派遣さ れた 特別な芸術 家 に よ っ て撮 影されたも の で 、 お そ ら く水曜日にサウ サ ン プ ト ン 港 に 到着 する で あ ろ う ペ ニ ン シ ユ ラ ・ ア ン ド ・ オ リ エ ン タ ル 会 社 の 汽 船 セ イ ロ ン 号 で も た ら さ れ る で あ

ろ、っ。

[図。ロロ2NCCA]

日本に関するネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商 会 の た い へ ん 珍し い 写 真 シ リ ー ズ は二五1三 O枚程 度から構 成され、 一 八 六 一年 に イ ギ リ スで出版されたと、 ベ ネ ッ ト 氏は考 え て い る 。 それは驚 く べ き こと にそれ ら の 写 真 が ロ ン ド ン に 到着 した知ら せ か ら 一年 後 の こと で あ り、 そ の 後にそ の シ リ ー ズ の 写 真から八枚 ロ シ エ の 記 憶はスイス に は 残 っ て い な い よ うに思 え る が 、 彼が日本に関し て残し た唯 一 の 記 録は彼 の 写 真 で あ り、 それら は ベ ネ ッ ト 氏 の 近 刊書 でまも なく 発表さ の 銅 版画 が は じ め て出 版されたG E5521 れ る で あ ろ う 。 初期のス イス人旅行者は東イ ン ド 会社 で働き、 日本 の 品 々 を い く ら か 残し てくれたが、 一 九 世紀 に は ホ ル ナ ー や ロ シ エ が 日本 へ の 新 た な る接 近を 試 み た 。 ホ ル ナ ー はま だ外国 の 探 検隊 を頼 り に し て い た が、 ロ シ エ は 契約 の も と で 一 本立ちした 写真家 と し て 、 ま た 日本にお い て は契 約社員、 ま た フ リ ー ラ ン サー と し て 働 い た 。 両人 は 画 像だ けを残し、 日本像 の 部分的 な紹介を 果 た し た 。 ホ ル ナ l は 私的にそ の 素 材 を示し た だ け で あ っ た 。 ロ シ エ は 短期的 で は あ っ た が 、 広く国際的な影 響を与え た。 日本 に つ い て複合 一九 O O )とスイ ス時計組合 に よ っ て日本に派 遣さ れ た 。 スイ ス の た め に通 商協定 の 交 渉を し よ う と し ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 的か つ 有意義 な記述 を み る に は、 江戸時 代 の ま さ に 末 期 に ア ン ベ l ル が 帰国 す る の を 待たねばな ら な い 。

工メ・アンベール、

初期のスイス人東洋学者フラン

ソワ

・トゥレティー二、

および彼の友人レ

オン・

メーチニコフ

一 八 五 九 年、 プ ロ イ セ ン 人 ル ド ル フ ・ リ ン ダ ウEEEEロsa・818] が エ メ ・ ア ン ベ l ル ( 一八 一 九 1 た彼 の 最 初 の 試 み とスイス に 送 っ た 彼 の 報 告書 は日 本 へ の エ メ ・ ア ン ベ l ル 使 節 団 (一 八 六 三 i 六 四 )を 組織す ること に役立 っ た 。 ここ で は ア ン ベ l ル 使 節 団 の 組 織 や 歴 史 に つ い て は ふ れ な い [切出2一2 5g 089

(16)

5052FSE門NDD 品 を 参照] 。 む し ろ 、 し ば し ば 過小 評価さ れ て い る ア ン ベ l ル の パ イ オ ニ ア と し て の 役 割を 090 検討 し た い 。 彼は 主要著書 [58 ]と コ レ ク シ ョ ン を 通 じ て 日 本 の 新し い イ メージ を流 布さ せ 、

同制吋合EMnh叶

J

V

'

阿ロド

4

btιuu

'u

フ ラ ン ス 語圏 スイス の 企 業家た ちを 日本に向か わ せ ること を推し 進 め た の である。 日本からス イス へ 帰 る船上 で 、 ア ン ベ l ル は ホ ル ナ l 峰に気づ き、 それをあ る手紙に手 短 に書 い て い る こと は 興 味 深 い 。 こ の 時 代 で もスイス と オ ラ ン ダ の 密 接な接 触 は ま だ 続 い て お り、 スイ ス人は オ ラ ン ダ 人 の 延長線上 に い る と み な さ れ て い た 可 能性がある。 そ の こと は ア ン ベ l ル が ま ず第 一 に は 使 節団を組 織す るとき に、 ま た 、 一 八 六 四 年 二 月 六 日 に 初め て の 日 瑞条約 に ア ン ベ l ル が 署名す る最 後 の段 階ま で助けと な っ た 。 使節 団が日本 を去 っ た後に、 日瑞関係 の 新 し い 時代を 迎え ること に な る 。 スイス の 時 計製造者や輸出 業者、 織物貿易商、 産業 の 進 ん だスイス地 域から の 旅 行者が 日本 に押し寄 せ 、 また外 交活動も始ま っ た 。 不幸 にも、 江戸 末期と 明治初期 のス イス人 の 日 本滞 在に 関する資料は少なく 、 詳細なも の も な い 。 ア ン ベ ー ル 使 節 団 の 一員と し て や っ てきたジ ェ l ム ス ・ フ ア 1 ブ ル Hプ ラ ン ト (一 八 四 一1 一九 一一一 一一 )や 函館 の 最初 の ス イス人副領 事 ア ン リ ・ ピ エ l ル ・ ヴ l ヴ (一 八 六 四 1 六 八 在職 )の よ う な人を は じ め と し て 、 大 部分 の 人 た ち は 多 く の 記 録を残さ な か っ たEEE HS ∞ 笠8 ]。 興味深 い こ と に 、 こ の 両 人 は ア ン ベ l ル 同 様に時 計生産地 域と し て 有名 な カ ン ト ン ・ ヌ シ ャ テ ル に 生まれ、 日本でな く な っ て い る。 ヴ 1 ヴ は 一 九 世紀 中 (一 八 七 O 年 )に 日 本 で 死 ん だ 最 初 の ス イス 人 で 、 彼 の お 墓は横 浜外国人 墓地にある。 武内氏 は ヴ l ヴ を フ ラ ン ス 人と し て い る が [忌忽で こ の 間 違 い は彼が 日本在住 の フ ラ ン ス 人 コ ミ ュ ニ テ ィ と 緊 密な関 係を 結 ん で い た こと、 ま た 、 スイスか ら求められ る領 事臓 の仕事が少 な か っ た た め に 、 副職を探 し出さねばなら なか っ たこ と か ら 説 明 で き る 。 主 と し て ビ ジネ ス体験がス イス人 を 日 本 へ ひ き つ け た。 スイ スで の こ の 時 期 に 関 する最 近 の 研 究 は ほ と ん どド イツ語圏スイス の 研 究 者 に よ っ てなされ 、 経済 ・ 商業的発展 の 分 野 へ 強く方向づ けら れ て い る 。 問題 はスイ ス に お い て漸 進的に形 成 さ れ た 日 本像 の 複 雑な 現象を分析 す る た め に は 、 ど の ようにし て 人 類学者が有 意義な資料を み つ けるこ と が で き る か である。 そ れ に は 、 まず 第 一 に 、 個人 レ ベ ル で 日 本 か ら 持 ち帰られ、 親類や友人と い っ た 限 ら れ た サ ー ク ル で 広 が っ た 知 識 や直接 の 情 報に よ っ て 動 か さ れ る 原 動力と資料、 そ れ にイ メ ー ジ や描写と い う 四 つ の 代的に整理した 重要 な文 献 目録を出版し て い る 。 そ れ に よ ると、 日本 へ の 関 心 が 展開する な か に さ まざ ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 重要な要 素を区 別しなけ れ ば な ら な い 。 次 に 旅行者 に よ っ て出 版さ れ た 記 事、 三 つ 目 に は 記 録媒 体から の 情 報、 最後 に周辺諸国か ら受 けるあら ゆ る 影 響、 流行、 受容 である。 また、 イメー ジ と い っ て も 経済 的 ・ 学問的、 そし て 一 般的なも の を 区別 す べ き で ある。 こ の 点 で 一九 六 四 年に出版された本 (百年祭委員 会編 )は 豊か な情報を提供し、 スイ スが日本に関わ っ て い っ た 歴 史 的展開を理解 す る ことを助け て い る 。 ヒ ユ ル リ マ ン [雪印 81 お] もスイス人作 家 に よ る 、 あ る い は スイ ス で 出 版 さ れ た 日 本 に関する著 作 の 年 まな 潮流 があ っ た こと が わ か る 。 一 八 六 七 年 に 将 軍 の 弟徳川昭武 に率 い ら れ た 日 本使節団 の 最 初 の ス イス公 式訪問 [EEEl-念、 中 091

(17)

井、 二 八 九 1 三 O 一t具 ]と 一 八 七 三 年 の 岩 倉使 節団来瑞は、 スイス 国家 の 日 本 へ の 関 心を特別に高 め はしな 092 か っ た 。 日本 に 関 心を寄せ たスイス人 は外国 の 情 報源や影 響 を あ て に し て 、 隣国 に出向き、 自分 た ち の 研究 に注目させ たり 、 日本語 を習 っ た り した。 ア ン ベ l ル は 彼 の 本 を パ リ で 出版した。 日本は 一 八 七 O 年代以降団体より個 人 の レ ベ ル で 一定 の 魅 力をも っ て い た が、 日本に対 し て 公 の 熱 心な注目が そそがれ、 日本芸術 の 私 的 コ レ ク シ ョ ン 化 が進み、 最初 の 意 義深 い 展覧 会が開 か れ る に は 一 九 三 0年 代 を待たねば ならなか っ た 。 こ れ は ヨ ー ロ ッ パ の 潮流 に 比 べ 遅 い も の で あ っ た 。 私的な、 またビ ジネ ス上 の 経 験頻度 が増 した にもかか わ ら ず、 世間 で は つ ね に弱 い 反 響し か見出されず、 政府当局か らも低 い 支持 しか得ら れなか っ た 。 私 の 研究 の 関 心 は 、 ア ン ベ l ル と 、 彼 の 使 節団 の 仲 間や彼 の 後 継者に よ っ てスイスにも た ら さ れ た も の が 何 で あ る か を調 査する こ と である。 日本に関する コ レ ク シ ョ ン が ヌ シ ヤ テ ル 民 族博物 館には数 多く な い こ と を見 出した (六 O O 点以下。 も っ と も重要な コ レ ク シ ョ ン は ベ ル ン に 六 OOO 点以上、 バ l ゼ ル に 七 0 0 O点 あまり集中して い る )0 日本 か ら 持ち 帰 ら れ た 資 料は 三 j 四 世 代問、 家族 の あ い だ で保持され、 珍重 されると い う 地域的 パ タ ー ン を 確認 で き た が 、 そ の た め に 日本か ら帰 っ た す べ て の時計 貿易商 が果 たし た役 割を評価 する こ と は 難 し い 。 ア ン ベ l ル で さ え ヌ シ ャ テ ル に日 本に関 す る遺産を多くは残 さなか っ た。 彼は 日瑞関 係を推 進した 影響 力ある主 要人物 で あ っ た と い う より、 むしろ 政治的 な キ ャ リ ア と ヌ シ ヤ テ ル 大 学 (当時 は ア カ デ ミ ー と呼ばれ て い た) に お け る 役割 の ゆえ に記憶され て い る 。 ア ン ベ l ル 使節団 一 四 O周 年を祝う記念行事は 二 O O 四 年には ヌ シ ャ テ ル で は 組織されず、 か わ り に チ ユ 1 リ ヒ で お こ な わ れ た 55gIVE5自 のEEUR 口問 。。ョヨqS ND白色 。 ア ン ベ l ル は 最初に 一 八 六 六 年か ら 六 九 年 の あ い だ に 雑 誌 『 世界 一 周 」 誌 に 、 つ い で 一 八 七 O 年に 二 巻 本 で 、 彼 の 日 本旅行 の 印 象を出版 したが、 き わ め て印象 的な結末は、 そ の 後 ア ン ベ l ル が 急速に 日本に無 関心と な っ た こ と で ある。 彼 の 本は 一九 世 紀末ま で 日 本文化を 発見する 一種 の 手 引書 とし て役立 っ て い た よ う に み え る が 、 ア ン ベ l ル は 日 本へ将来赴く貿易 業者を 訓練す る の に 役 立 つ 学 問的な 「日 本学」 を奨 励 ・振 興す る チ ャ ン ス を逸し てしま っ た 。 しかし、 こ の ア イデ ア は 後にな っ てス イスに おける 地理協 会 の 成 長と と も に 一 八 八 0年代に流行しだし た が 、 主 とし て ヨ ー ロ ッ パ 列 強 の 植民地へ旅立 っ た め の 準 備と して考えられ て い た の で あ っ た 。 の イ ラ ストを つ く っ た 。 ア ン ベ l ル は こ の コ レ ク シ ョ ン を 自 分 の た め に保 持した り、 ヌ シ ヤ テ ル の 町に ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 視覚資料 からも っ と 日 本に つ い て学ぼうとする 一 八 六 三 1六四 年 の ア ン ベ l ル の 戦 略は最近パ レ ミ に よ っ て 叙 述 ・ 論 議さ れ て い る [E3F Mg ω 81 巳]。 図像を 通 じ て 日 本 を紹介したり、 説 明 した りす る た め に 、 膨大な 日本 の 印 刷 物や フ ェ リ ー チ ェ ・ ベ ア ト に よ っ て撮 影された 写真をど の よ うに手に入 れ、 収 集した かを ア ン ベ l ル 自 身が 説明し て い る 。 こ の 早 い 時 期 の 人類学的研究 法は 六 六 O O 枚を超え る 日 本 の 図 像に関する膨 大な収集を生 んだ。 パ リ の 芸 術家 た ち は そ れ ら を利用 し て 、 彼 の 本 に 載せ る 四 七 六 枚 寄贈 す る か わ り に、 一 八 七 一年頃 に そ の 全 部を ジ ユ ネ l ヴ の 富 裕な家柄 の 出 身者 で 、 スイス人最初 の 中 国研究者、 か つ 日 本研究者 で あ る フ ラ ン ソ ワ ・ ト ゥ レ テ ィ l ニ ( 一八 四 五 1 一九 O 八 )に 譲 り渡 したか売 093

片で

(18)

却し た の だ っ た [忠『3ニ S由] 。 094 ト ゥ レ テ ィl ニ は 日 本 へ 旅 行し たこと は な か っ た が 、 ア ン ベ l ル が 日本にお い て外交的 ・経済的使命 を達 成したち ょう ど同じ頃 に、 中国語と 日本語を学 び始めた。 最初彼は宣教 師 の ヨ セ フ ・ グ リ エ ル と と も に 一 八 六 五 j 六 六 年に ロ l マ で 中 国語を学 び 始 め た 。 そ の 後パ リ で 五 年間 を過ご し、 スタ ニ スラス ・ ジ ユ リ ア ン と レ オ ン ・ ド ・ ロ ス ニ のもと で中国 語、 満州語、 日本 語を 学んだ。 一 八 七 一年に彼はジ ユ ネ ー ヴ に 一炭 っ た 。 伝統的な古典研 究 に従事し続け ること を 望 ん だ 父 親の意に反 し て 、 また、 他 の 研 究者た ちがま っ たく関心を示さ な か っ た に も か か わ ら ず、 漢字や ひ ら が な 文字を扱え る印刷所を 立ちあげた。 彼 は 二 つ の コ レ ク シ ョ ン 、 〉gc自由 。5白 [八巻 本、 一八 七 三 1 八 一年 〈第l巻は 『平家物語 』〉] と 切白口 内乱t gc [五巻 本、 一八七=7九四年〈 晩採草 〉] を作り出 し、 ジ ユ ネ l ヴ 、 パ リ 、 ロ ン ド ン で 流 布させた。 ロ ン ド ン で は 自 分 自身 の 著 作や有 名 な オ リ エ ン タ リ スト の 著 作を出版 したが、 そ れ ら は お も に 日本語や 中国語 の 原典を つ けた翻 訳書 で あ っ た 。 彼がとくに好ん で い た分野は古代 史 で 、 た と え ば 、 「平家物語』 の な か の 一 章 を 初

て ヨ ー ロ ッ パ の 言 語 に 翻訳 し た し 、 歴 史 家、 頼山 陽( 一 七 八 0

1

一 八 一

一二

)

の 『日本 外史』 や柳亭種 彦( 一 七 八 三 i 一八 四 二 ) の 歴 史小 説を翻訳 した。 ト ゥ レ テ ィ l ニ は 翻訳に あた っ て ジ ユ ネ l ヴ に 滞 在し て い た 日 本人 の 助 けを得た が、 そ の 日 本人 に つ い て の 手がかりはま っ た くな い 。 一 八 七 二 年からト ゥ レ テ ィ l ニ は 中 国人を 一 人 雇 い 、 彼 の シ リ ー ズ 本 の 編 集 ・印刷 を助け てもら っ た 。 こ の 人 は 一 八 七 六年頃 に ジ ユ ネ l ヴ 市 民権を獲 得した最初 の 中国人と な っ た [320ニ S色 。 ま さ に 同 じ年に、 ト ゥ レ テ ィ l ニ はこ の 賂 の よ う な編集事業 に取 り 組ん でくれる第二 の 人 物と出会 っ た 。 ヨ ー ロ ッ パ に お け る 最 初 の 日 本 研究者 の 一 人に位 置づ け ら れ る レ オ ン ・メ ー チ ニ コ フ で あ る [」邑 HS印] 。 ロ シ ア に 生 ま れたメl チ ニ コ フ ( 一 八 三 八 1 八 八 、 彼 の 名 の 意 味は 「太刀持ち」 で あ る )は 、 一 八 六 四 年に ジ ユ ネ l ヴ に や っ て き て 、 一 八 七二 年以降 ト ゥ レ テ ィ l ニ と 一緒 に 日本語を 学び始め た。 彼は偶然に後 の 陸 軍大臣大 山巌に出 会 い 、 フ ラ ン ス 語を教 え る ように頼まれた。 そ の 後メ l チ ニ コ フ は 一 八 七 四 年に 来日し、 東京外国語学校で ロ シ ア 語 、 数学、 歴史を教 えた。 病気 の た め 一 八 七 六 年ジ ユ ネ l ヴ に 戻り、 同年 ト ゥ レ テ ィl ニ の シ リ ー ズ 本 の な か で 日 本 に 関する 出版を 始めた。 一 八 七七年に 二 人 は 『極東

田 語学 ・ 民 族学 ・ 歴 史 学選集 』( 町同K 守皆同町 ob. 2汁 52巴 号 EhEM25・ h「句作 bb D時告』昂 町内 九百 み吉見 )と い う しかし、 一号 の み出版 さ れ た だ け で 、 メl チ ニ コ フ は 『日本 帝国」 と題 する本 の 編 集を 始めた。 こ の 本 ホルナ 一、 ア ン ベール、 そしてその後 評論雑誌 を刊 行する 計闘を練り上 げた。 ダス タ ー ヴ ェ ・ シ ユ レ l ゲ ル と ア ン リ ・ コ ル デ イ エ が 評論利誌 『通報 』 3 05同 志O] を創刊し、 一 八 九 O 年 に ラ イ デ ン の eフ リ ル 社か ら出版する 二 二年前 の こ と で あ る。 は 一 八 八 一 年 に ト ゥ レ テ ィ l ニ に よ っ て 印刷 さ れ た 。 驚くこと に コ ル デ イ エ [広志 おんω ]は 一 八 八 二 年 に 『 極東評論』 と い う 類似した タイ ト ル の 評 論雑誌 を創刊 したが、 彼は 「日本に関 し てこ れま で書かれ たも っ とも 興味 深 い 二 冊 の 本 は 二 人 のス イス人作 家 ア ン ベ l ル と メl チ ニ コ フ の も の である。 後者は ロ シ ア 人 で あ る が 、 ヌ シ ャ テ ル の 教 授 で あ っ た 」 こと を強 調し て い る 。 こ の ような後 の 評 価は、 スイス に お い て 「日 本研究者」 で あ る こと が容 易 で は な か っ た 事 実を あら 095

(19)

わ し て い る 。 そ れ ゆえ、 メ 1 チ ニ コ フ は 日 本学 の 動 向を追うた め に フ ラ ン ス へ 、 た と え ば 、 リ ヨ ン で 096 一 八 七 八 年にお こ な わ れた第三 団地方 オ リ エ ン タ リ ス ト 会議に出かけ て い る 。 一 八 八 二 年 から彼は フ ラ ン ス の有 名な地理学 者 エ リ l ゼ ・ ル ク ル ス の 秘 書と なり、 モ ン 卜 ル l に 近 い ク ラ l レ ン ス に 定住し、

レー

ク ル ス の 『新世界地 理学 』 の な か の 日 本 と ア ジ ア に 関 する数 章に貢 献した。 た い へ ん 興 味 深 い こ と に 、 彼は 一 八 八 三 年に ヌ シ ヤ テ ル ・ ア カ デ ミ ー の 比 較地理学 の 教 授 と し て採用され て い る 。 私 の 考え で は 、 おそらく ア ン ベ l ル の 推 挙があ っ た か ら だ と 思 わ れ る 。 そ こ で彼は、 授業 の 中 心題目 と し て で は なくと も、 学生 た ち に 日 本に つ い て教 え て い た こ と は ま ち が い な い 。 彼は 一 八 八 五 年 の ヌ シ ャ テ ル 地理協 会創 設者 の 一 人 で あ っ た が 、 一 八 八 八 年に結 核に冒され、 五 O 歳 で な くな っ た 。 彼は 学問的地位 にある唯 一 の 有 能な人 物 で あ り、 学問的 レ ベ ル で 日 本研究 に 一定 の 原 動力 をもたらす 可能性を も っ て い た が、 あま りに 早く姿を 消し て し ま っ た 。 ト ゥ レ テ ィ l ニ は先見 の 明 あ る 人 物 で 、 多少時 代 に 先 ん じ て お り、 日 本 に 興 味をも っ 多 く の 人 び と が彼 の と こ ろ に や っ て き た が 、 そ れ に も か か わ らず、 彼 の 出 版物 の 部 数 ・影響を評 価 す る こ と は難し ぃ 。 ト ゥ レ テ ィ l ニ が 資料を 入手した 一 八 七 一年から絶 頂 の 時 期 で あ る 一 八 九 四 年ま で ア ン ベ 1 ル の 資 料を ど の よ うに扱 っ て い た か は い ま だ謎に満 ち て い る 。 ト ゥ レ テ ィ ! ニ は 一 八 九 四 年九月三 日 か ら 一 一一 日 の あ い だ に ジ ユ ネ 1 ヴ で 聞 か れ た第 一 O 回国 際オ リ エ ン タ リ ス ト 会議に参加し た 。 そ の 聞に彼 が自分 の 出 版物を宣 伝 し て い る こ と は わ か っ て い る が、 矛盾する こ と に 同 じ年に出版 を き っ ぱりと 中断し て い る コ ル デ イ エ ロ ∞定 NH] や会議を論評し て い る ほ か の 著 者 の 記 述 か ら EceE55 53 合 を 見よ]、 ト ウ レ テ ィ l ニ が 九 月 二 日 か ら 一 七 日 に か け て会議に並行 する イ ベ ン ト と し て 日 本美術 の 最 初 の 意 義深 い 展 覧会 を ス イ ス で 間 違 い な く組織 した こ と が わ か る 。 日本 の 竹 細工と竹に関 連 する 品 々 の 展 覧会 が チ ュ l リ ヒ に お い て 一 八 九 三一年 と九 四年 の 二 度 開催さ れ た こ と は 興 味深 い 。 そ の コ レ ク シ ョ ン は 一 八 九 O年以 降 ス イ ス 絹 取引 商 の 雇 い 人 で あ っ た ハ ン ス ・ シ ユ ペ リ に よ っ て収 集 さ れ た も の で あ る EBE NDS U N∞] 。 一 八 九 四 年 の 展 覧会は 六月 一 五 日か ら 一 O 月 一 五 日 ま で 開 催された けれども、 会議中に言及 さ れ る こ と はなか っ た 。 ト ゥ レ テ ィ l ニ は ア ン ベ l ル ・ コ レ ク シ ョ ン の 一部 を 「ア テネ」 と呼 ば れ る ジ ユ ネ l ヴ の 有 名な建物 会長 で も あ っ た ア ル テ ュ 1 ル ・ ド ・ ク ラ パ レ ー ドは、 一 八 八 九 年に自身で 日本を訪れ、 日本 に つ い て 書 ホ ル ナ 一 、 ア ン ベール、 そ し て その後 の な か の 地 理協 会 の た め に確保され て い た 部 屋 で 展 示 し て い た 。 ト ゥ レ テ ィ l ニ の 友 人 で 、 地理 協会 の い て い る が、 ア ン ベ l ル ・ コ レ ク シ ョ ン の 展 覧会 はきわめ て珍 しく、 コ レ ク シ ョ ン は 大量 の 日 本 の 傑 作、 「評価 できな い ほ ど貴 重な 宝物」 を含ん で い る と 述 べ て い た 。 ま た 、 ク ラ パ レ ー ド は こ の コ レ ク シ ョ ン が そ の 価 値に値 する ほど に は賞 賛さ れ て い な い こ と を残念が っ て い る 。 そ の う え、 コ レ ク シ ョ ン が フ ォ リ オ と 三 六 二 セ ク シ ョ ン に わ け ら れ 、 三 六 六 八品目からな っ て い る と 、 彼は正確に記し て い る 。 ト ゥ レ テ ィ l ニ の 死 後、 彼 の 家 族は、 彼が莫大な 金額で購入した 中国と 日本の書 籍 の 膨 大な コ レ ク シ ヨ ン をジ ユ ネ l ヴ の 図 書館 に寄贈したり 、 売却 し た り せ ず 、 一九 一 四年 に パ リ で オ ー ク シ ョ ン に か けた。 097 下

Referensi

Dokumen terkait

a) Tantangan dalam peningkatan cakupan kualitas air minum saat ini adalah mempertimbangkan masih banyaknya masyarakat yang belum memiliki akses air minum yang aman

 Pilihan  Banten  sebagai  lokasi  pelaksanaan  adalah   pertimbangan  sejarah  perjuangan  kaum  tani...  Juga  pesan-­‐pesan  untuk  peningkatan

Dewan Pengurus Wilayah (DPW) Serikat Petani Indonesia (SPI) Sumatera Utara (Sumut) mengadakan diskusi dan buka puasa bersama untuk memperingati perayaan hari ulang tahun ke-17 SPI

Hasil tema KKS Pengabdian yang dicapai oleh LPM UNG dalam jangka panjang untuk suatu seri program KKS Pengabdian untuk pemberdayaan kelompok pengusaha stikmjagung

Metode yang digunakan dalam kegiatan KKS pengabdian ini dilakukan dalam bentuk pelatihan kepada para guru yang ada di Sekolah Dasar se- Kecamatan Asparaga yang berpusat

Fungsi menifes kebijakan Bantuan Operasional Sekolah (BOS) bagi siswa kurang mampu di SMPN 1 Bilah Hulu dan SMP swasta Bina Widya yaitu orang tua siswa tidak bersusah payah membiayai

Peningkatan kapasitas adsorpsi pada abu dengan meningkatnya konsentrasi metilen biru disebabkan karena semakin banyaknya jumlah metilen biru yang terdapat dalam

Komunitas Hijabee mempunyai pengaruh yang sangat besar terhadap perempuan- perempuan muslim yang ada di Surabaya. perempuan- perempuan muslimah di Surabaya memanfaatkan media