University of Zurich
Zurich Open Repository and Archive
Winterthurerstr. 190 CH-8057 Zurich http://www.zora.uzh.ch
Year: 2005
Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru
Suisu jin no Nihon zō
Dallais, P
Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.
Postprint available at: http://www.zora.uzh.ch
Posted at the Zurich Open Repository and Archive, University of Zurich. http://www.zora.uzh.ch
Originally published at:
Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.
Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.
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Dallais, P (2005). Horunā, anbēru, soshite sonogo jinruigakuteki shiten ni okeru Suisu jin no Nihon zō. In: Morita, Y. Nihon to Suisu no kōryū : bakumatsu kara Meiji e = The relationship between Japan and Switzerland : from the Edo period to the Meij. Tōkyō, 71-118. ISBN 4-634-64012-0.
ISBN4-634-64012-0 C1022
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¥2400E定価|本体2400円I(税別)
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日本とスイスの交流
幕末から明治ヘ
森田安一一編
森田安一編
Alorita Yasuka""幕末か
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幕末・明治則の日本・ スイスの 交流をめぐって 帝国主義と平等性のあいだ 国際法のグローバル化と 一九世紀における日消関係 日本・スイス交流の誕生過稗 岩倉使節団の見たスイス ホルナl、アンベール、 そしてその後 人類学的視点における スイス人の日本像 スイス絹商人ハンス・ シユペリの見た明治の日本 スイスと国交の 始まった頃の時計産業 近代化の嵐のなかで 山 111 出 版イス人の見た日
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前にスイス人が描いた長
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岩倉遣欧使節が見聞したスイス滞在
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近代化を急ぐ日本とスイスの知られざる交流を紹介する
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己満修好通商条約締結140周年記念シンポジウムより 応酬The
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ホルナl、
アンベIル、
人類学的視点におけるスイス人の日本像
そしてその後
フィリップ
・ダレ
ス
森田安一訳
本章 の 目 的は、 ス イ ス 人 が 日 本と出会 っ た初期 の 様 子を紹介 し、 ス イ ス に お け る 日 本像に与 えた影 響 を調べ る こ と で あ る 。 彼ら の 経 験が 一九世紀および 二 O 世 紀初期を通じ て ス イ ス に お け る 日本像 を 生 み 出し、 し だ い に 形成し て い っ た こ とを証 明し、 新し い 情 報や最 近発 見された資 料 に 照ら し て 人類 学的視 点 で こ の 問 題を論 議し て み た い 。 こ こ で 強 調する 人類学的視点 と は 、 日本と の 出 会 い か ら 生 じ る さ まざ まな人 間的特性や経 験、 日本 へ 旅 行した ス イ ス 人 が ス イ ス 帰 国後に残した観 察し うる知識 の 痕 跡、 遺産、 伝達を再 構成 ・ 再 配置 し、 古記録 や出版物だ け で は な く、 ス イ ス 、 とくに い く つ か の 民 族博物館 に保 存 さ れ て い る 日本 の諸 資料を 利用し て予備的分析を試 み 、 そ の 重要性 に焦 点を合 わ せ る こ と で ある。 私た ちは こ れ ら の 日本 に関 する収 集物を調 査 の 重要領域と考えね ばならな い 。 それらを 通じ て 日本に対 する 011スイス人 の 関 心 の 高さを測 る扉 を新しく聞 き、 「陽 の 昇 る 国 」 へ 旅 し て 、 明 ら か に 何 の 記 録も残さ な か っ た 多く の 無 名 の 旅 人 へ の 新 た な る 洞察や伝記的な構 成要素を提供 できるだ ろう。 日瑞修好通商条約は 一 八 六 四 年 に カ ン ト ン ・ ヌ シ ャ テ ル 出 身 の エ メ ・ ア ン ベ l ル に よ っ て 署名 された が、 そ の 締結 一 四O周 年記 念はもう 一 つ の 周 年を祝う機会 でもある。 そ れ は 二 O O 年 前 の 一 八 O 四 年に 一ス イス 人 が は じ め て 日本を訪れた こ と である。 そ れ に つ い て は 非常に良く 記録が残され て い る 。 また、 今 回 の シ ン ポ ジ ウ ム 直 前 の 二OO四年の夏に思 わ ぬ 二 つ の 発 見があ っ た 。 それら はスイ スにおける日本 に か か わ る 記 憶メ カ ニ ズ ム に 興 味をかき立 て る 証 拠を加え る で あ ろ う 。 初期 の ス イス人 オ リ エ ン タ リ ス ト の 役 割と 明治 時代に相 当する時 代を扱う い く つ か の 事 例も検 討した い 。 そ の こ とは日 本をスイス に伝 え る 役割 を演じた役 者 た ち の 立場 を再考 す る こ と に役 立 つ で あ ろう。
日本に関するスイスの初期資料と両国関係の研究動向
ドイ ツ 語で書 か れ た日 本に関 する書 籍は、 ゾ l ロ ト ゥ ル ン 出 身 の イ エ ズ ス会士 レ ン ヴ ア ル ト ・ツ イザ トEg ]に よ っ て 四 O O 年以上も 前に フ リ ブl ル で印 刷されたが、 それはも っ とも早 い ス イス人 の 日 本 に対 する 関心を表明した 歴史 的業績 だ と み な せ る 。 ツィザ トは 日本に滞 在 し た イ エ ズ ス 会士た ち に よ っ て ロ l マ に も た ら さ れ た 文 4青から情 報を集 め る こ と が で き た の で ある [切25mE S包 、 踊MCC品 ]。 一 五 八 六 年から一八 六 四 年 の ア ン ベ l ル 使 節固 ま で の あ い だ に 、 一 八 O 四 10五年に長 崎を訪れ た ヨ l ハ ン ・ カ ス パ l ル ・ ホ ル ナ l の 例を除けば (後述)、 スイス人 は一人と し て 日本に行 き着 く こ と は できなか っ た と 一般 に考 え ら れ て い る 。 し か し な が ら 、 こ の 想 定は今 日 で は い くらか修正しなけれ ばならな い 。 ツイザ ト の 例 は、 こ の よ うな早 い 時期に 情報伝達 の 驚 く べ き 可 能性があ っ た こ と を示 し て い る 。 今日 で は 再現 する こ と が 難し い さまざまなネ ッ ト ワー ク や チ ャ ン ネ ル を通じ てスイ ス の 学 者は 情報を 手に入 れ て い た の で ある。 スイス の 図書 館には、 日本 に つ い て の叙述を含 む古 い 書 籍が オ ラ ン ダ 、 ドイツ、 イ ギ リス、 フ ラ ン ス か ら か な り入 っ て い る 。 一 七 世紀や 一 八 世 紀、 つ ま り オ ラ ン ダ人と中 国人だけが 二ハ 三 九 年以 降長 崎 の 制限区 域で通 商 する こ とを許 された、 い わ ゆ る 鎖国 の 時 代 で あ っ た 江 戸 時代以前 にも、 ま た そ の間にも、 東 ア ジ ア や 日 本に 関心を 示すスイス人 がわず かながら い た こ と は 明 ら か だ と 思 わ れ る 。 スイス人 が オ ラ ン ダ と そ の 東イ ン ド会社に密 接な関係があ っ た こ と 、 ま た 、 スイス人 が 商 人 や 科 学 者とし て ヨ ー ロ ッ パ 内 を動き 回り、 広 い ネ ッ ト ワー ク に参加し て い た こ と が 過小評価さ れ て きたように 思われる。 オ ラ ン ダ と の 結 び つ き を説明 する理 由 の 一 つ は 宗派問題 である。 両国はプ ロ テスタ ン ト 領域 に属し、 そ こ に富 裕 で 影 響 力 の あ る プ ロ テスタ ン ト の 改 宗家族が 宗教改革 後 の 一 六 世 紀中に避 難場所を 見出 し て い た の で ある。 一七世紀 の 江 戸時代に少なく と も 一 人 の スイ ス人が、 日本 に、 間違 い なく 長崎 に 、 上陸した 可能性は今日確か め ら れ る 。 ジ1 ゲリスト [N02 NN ∞] は古文 書から彼 を グ ラ l ル ス 出身 の ハ ン ス ・ ハ イ ン リ ヒ ・ シ ユ テ lガ ー だ と し て い る 。 彼は 一 七年間オ ラ ン ダ艦 隊 の 船 医 と し て過ご した後 r 072 ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 073一 六 六 六 年におそらく 日本 で亡くな っ て い る 。 074 一 七 1 二 O 世紀 の あ い だ に 収 集 さ れ た 日本 文 化 の 資 料は 情報を補完 す る に 足 る も の で あ る が 、 九 世紀以前 の 資 料 に つ い て は 調 査はしばしば非 常 に 困 難 で あ る 。 芸術作 品 か ら 日 常品 に 至 る 品 々 はス イ ス民族博物館 に所 蔵 さ れ て い る コ レ ク シ ョ ン の な か に 見出 さ れ る が 、 ほと んどが 一 九 世 紀末 と二O世 紀 初頭に集め られたも の である。 収集物 に よ っ て 明 ら か に さ れ る 日 瑞交流 の 可能性を 一不 すも っ と も早 い 例 は、 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 市 立自 然科学博物館 の 民 族 コ レ ク シ ョ ン の な か にある RSEE-SE2忠臣戸室。 芸lukF叶]。 それは小さな 漆塗 の箱 と 一足 の靴で ある。 古 い 目 録 に よ れば、 こ れ ら の 品 物は 一 六 七 六年にき わ め て め ずらし い 貴 重品とし て登 録され 一 六 六 O 年に創 設された市 民図 書館内 の 「珍奇品陳列室」 に 収蔵さ れた。 」れら の も の は 東イ ン ド会社 の 船 医と し て パ ン ダ ・ ア チ エで 数年 過ごし 、 おそらく 長崎に も上 陸した で あ ろう ウ ル リ ヒ ・ マイヤーによ っ て持 ち帰ら れたも の である。 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 市 立自 然科学博物 館にお い て 日本 関連資料 が 次 に 記 録 さ れ る の は 、 ようやく 一 八 七 八年にな っ て か ら で あ る 。 もう 一 つ の 興 味あ る 例 は ベ ル ン に 見 出 さ れ る 。 ベ ル ン 歴 史博物 館 の 民 族 学 コ レ ク シ ョ ン に は ア ル ブ レ ヒ ト ・ ヘ ル ボ ル ト ( 一 六 四 一1 一 七三 O )に よ っ て 一ムハ六 八 年 に ベ ル ン に持ち帰ら れた 日本 刀 の 脇 差が 今も保存 され て い る 。 ヘル ポ ル ト は東イ ン ド会社 に よ っ て雇わ れた画 家 で 、 イ ン ド 、 スリ l ラ ン ヵ 、イ ン ド ネ シ ア、 台湾 を旅 行した。 日本には 直接行 かなか っ た が、 台湾 で こ の脇 差 を手に入れたら し い 。 ベ ル ン で 次 に 初 期 日 本関連 コ レ ク シ ョ ン が 見出 さ れ る の は 一 九 世 紀 に 入 っ て か ら で 、 オ ラ ン ダ と 取引を し て い た マ ヌ エ ル 家 が 一 八 二 九年 と一八 四二 年に日本 コ レ ク シ ョ ン を市立 博物館に寄贈し たも の で あ る []Uω。門mw NDOω 品由l印(〕]。 もち ろ ん 、 こ れ ら の コ レ ク シ ョ ン は 当時多量 に出回 っ て い た 日 本製品 に関する実 態ゃ、 日本に関して ど の ような 信頼 で き る 知識がスイスにあ っ た かを 必ずしも反映 し て い な い し 、 そ れ ら の 品 々 が そ の 所 有 者にもた らした 威信 や異 国情緒 の 程 度を 今日、 推し は か る こ と は困難である。 富裕な 貴族 が 日 本 の 物 品、 陶磁器、 漆器類、 家具、 食品 (たいていは醤油 )を 好 ん で い た ヨ ー ロ ッ パ の ほ か の 地 域と異な っ て 、 ス イ スにある公 私 の コ レ ク シ ョ ン の な か に そ の よ うな品々 の 痕 跡を今 日多くは見出せ な い 。 若干 の 物 品が確 認されたとしても、 こ れ ま で調査され て も い な い 。 一 つ の 例外はジ ユ ネ 1 ヴ 図 書館に ある漆 塗 の 飾り棚 れた かは定か で は な い 。 それは 「東イ ン ド か ら の飾 り棚」 とし て登 録され、 メダ ル ・ コ レ ク シ ョ ン を 保 ホルナ 一 、 ア ン ベール、 そしてその後 で あ る [町民一何回申 ∞印 ]。 こ の 一 七 世 紀 の 飾 り棚は一七 O 七 年 に ギ ヨ l ム ・ フ ラ ン コ ニ と い う 都市貴族 が 図 書館 に寄贈し たも の で ある。 彼も オ ラ ン ダ の 東 イ ン ド会社と活発な取 引関係を 結 ん で い た人物である 。 こ の こ と が そ の 出 所を明か し て い るとすれば、 ブ ラ ン コ ニ は オ ラ ン ダ 船 で も た ら さ れた 飾り 棚 の 最 初 の 所有 者 で あ る こ と は 間違 い な い と推測できる 。 しかし、 そ の 正 確な価値やど の よ う にスイス へ も た ら さ 存す る た め に使用 さ れ て い た 。 研究 の 現 段階 で特 筆 す べ き こ と は 、 スイ ス に お け る 日 本 の痕 跡は 一 八 世紀 に は さ ら に 乏 し い こ と で あ る。 ロ ン ド ン に定住 し て い たスイ ス人医師J ・ G ・ シ ヨ イ ヒ ツ ア ー は 、 一 七 二七年に エ ン ゲル ベ ル ト 075
--ケ ン ペ ル ( 一六 五 一1 一七 一六 )の 『日本誌』を英訳し て い る 。 ケ ン ペ ル は 東イ ン ド会社 を 通 じ て 長 崎 に 076 = j・長了 、
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一 六 九 0 1 九 二 年 の 二 年 間、 日本に滞 在し た 人 物である。 ケ ン ペ ル の 本 は日本に関する主 要な情 報源 と し て利用され、 日本 に つ い て 一 八世紀に書かれた数冊 の書籍に強 い 影 響を与 え て い る 。 シ ヨ イ ヒ ツ ア l の翻 訳は今 日 で は 不 完全 なも の と み な され て い る け れども、 完壁な英訳 を手にする に はごO世 紀 の末まで待たねばならなか っ た [E3喜こ320 こ れ ら の 早 い 時 期 で の日本 と の 結び つ き はすべ て東 イ ン ド 会社 やスイ ス人企業家と オ ラ ン ダ と の 商取 引を通じ て で あ り、 オ ラ ン ダ は 多く のス イス 人回目険 家にと っ て 、 真に 世界に開かれた 窓と な っ て い た 。 不幸に も こ れ ら の 冒 険家たちは自 分 たち の 活 動 の 記録を多く は残さ な か っ た 。 しかし、 埋もれた古 文書 や手 紙に は発見さ れ る べ き 多 く の も の が 残 っ て い ると 推定 さ れ る 。 シ ユ テlガ! と マ イ ヤ l の 二 つ の ケ ース はさら に詳 細 に 研 究 さ れ る 必 要がある。 全体像はま だ は っ き りしな い けれ ども、 一 七 世紀中に少な くとも 一 人 あ る い は 二 人 のス イス人 が オ ラ ン ダ の 船 で長崎を訪れ たと推 測 で き る し 、 一 八 世紀中にも立 証はさ れ て い な い が 、 同じよう な例はあ っ た で あ ろう。 こ う した文 脈 の な か で 、 長崎を訪れ て 、 最初 の 具体的な足 跡を残 し た は じ め て のス イス人 と し て ホ ル ナl の 名 を あ げ る こ と が で き よ う 。 初期 の 日 瑞関係 の 研 究はスイ ス で は あ まり発展 しなか っ た し、 日本研 究はス イス の 学問領域 で は きわ め て 若 い 研究領 域である こ と を こ こ で指摘 する こ と は 重要であ ろう 。 スイス の 大 学、 主と し て チ ュ l リ ヒ 大 学とジ ユ ネ l ヴ 大 学が日本研究を 一 九 六 0 年代末 以前に始め る こ とがなか っ たならば、 日本 へ の 関 心 は 一九 世 紀 の 後 半にせ い ぜ い 個 人的レベ ル で 担 わ れ て き た だ け と い わ ざるをえな い 。 それ も フ ラ ン ス と ド イ ツ の 影 響を受け、 商業活 動 へ の 強 い 関心をもち ながらも 、 スイスが 海軍も植民地 ももたなか っ た の で 、 外交活動 へ の 関心度が低か っ た か ら で ある。 一 八 六 四 年以 降多く の 個 人、 企業家、 科学者、 旅行 者が日本 か ら 品 々 を持 ち帰り、 しばしば地元 の 民 族博物館 に寄 贈し たり、 売却し た。 そ れ に 比 し て 、 彼 ら の 多 くは日 本における経 験を書き 残さなか っ た 。 チ ュ l リ ヒ の リ lト ベ ル ク博 物館やジ ユ ネ l ヴ の パ ウ ア l 博 物館 の よ うな新し い 博 物館を除 けば、 日本や 東 ア ジ ア の 美 術品 や文 化を専門と する博 物館はな い し 、 ど の 博 物館も 日本文化 に 関 する著 名な専門家を か か え て い る わ け で は な い 。 た だ 、 と く に ベ ル ン の 例 に み ら れ る よ う に 二 O世紀初頭に、 数人 の 学 芸員が 日本に関する コ レ ク シ ョ ン を 作り上 げよう と努 人 に つ い て た い へ ん詳細 な報告 を お こ な っ て い る 。 コ ル デ イ エ [同∞ 宏 ]は、 イ エ ズ ス会士、 プ ロ テ スタ ン ホルナ一、 アンベール、 そ してその後 力したが、 長続 きしなか っ た 。 初期 の日 瑞両国関係 に対する関心は、 少なくと も パ イ オ ニ ア 的 研究レ ベ ル で は、 偉大な フ ラ ン ス 人東 洋学 者 コ ル デ イ エ の よ うな、 非スイス人 研究者 に よ っ て い つ も 起 こ された。 彼はジ ユ ネ lヴ で 一 八 九 四 年九 月 に 開 催さ れた第 一 O 回国際 オ リ エ ン タ リ スト 会議 にお い て 、 東 ア ジ ア に 関心を寄せ て い たスイス ト宣教師、 ある い は そ の ほ か 一 般 の スイス人が日 本よりは中国に深 い 関 心を示 し て い た と は っ き り述 べ て い る 。 彼は そ の よ う なスイス 人たちが残した豊かな 資料と 調査に関する 研究が欠け て い る こ と を 不 思 議に思 い 、 日本 を訪れた最 初 の ス イス人 と し て ア ン ベ l ル を 引 き合 い に 出し て い る 。 ア ン ベ l ル に つ い 077 �ては後 で ふ れ た い 。 とも かくも 東 ア ジ ア に お け る これら のス イス人パ イ オ ニ ア の著 作や生涯に対 する地 元 の 無関心 を コ ル デ イ エ は非難し て い る よ うに感 じ ら れ る 。 し か し 、 東 ア ジ ア と 日本 に対する 一 般 的学 078 問動向、 パタ ー ン 、 あ る い は スイス人 の態度に コ ル デ イ エ はこ こ で ふ れ た だ ろうか。 私の考 え で は 、 日瑞関係 の 研 究に新し い 意 識が 芽 生 え る に は 、 ア ン ベ 1 ル 使 節団 の 日本訪問百年記念 祭と 、 そ の折 出 版された記 念論 集「スイス|日本 一 八 六 四 | 一九 六 四 年』 [百 年祭委員会 5A]ま で待たね ば な ら な か っ た 。 そ の 後、 中井教授 の 重 要な博 士論文 [5 3が続き、 さ ら に ヒ ユ ル リ マ ン [忌呂、 イ ン モ l ス[HgN ]、 ジ エ ク イ エ ロ3 0]、 モ テ ィ l ニ [号 ∞]、 部分的 に は ジ lゲリスト [M言 ] の 歴 史 学的指向を も っ た出版物が 出された。 日瑞両国関係と 相互影響 に関 する研 究 の 将 来は い ま や 確かなも の となり、 新たな 原動力を得た よ う に 思え る。 両 国 の 専 門家を含む会合 や学 問的な意 見交換は い く つ か の 新し い 実 り多 い 考察を導き出す で あ ろう。 「 二 O世 紀日 本 に お け るス イス受容 ||イ メージ ・ 理 念 ・文 化的変容 ・ 学 問」 を テ l マ に し て 二 O O 三 年 八 月 に チ ュ l リ ヒ 大 学東 ア ジ ア 研 究所 で お こ な わ れ た セ ミ ナ ー は そ の 例 で ある。 博物館 の 研 究 サイ ド で は 、 ヨ ー ロ ッ パ の 博物館、 ギ ャ ラ リ ー 、 調査研究所から日本 工 芸 ・応用美術 の 研究者、 学芸員 たち が新し い ネ ッ ト ワー ク を作り出し て い る 。 それは E NJA Cと呼ば れ、 二O O 三 年 以 降す で に 二 つ の 実 り豊 かな 会議を組 織した。 こ の 最 近 の 汎 ヨ ー ロ ッパ 的共同作 業に はスイ ス の 五 つ の 博 物館も参加し て 、 各博物 館に残され て い る 日本 の も っ と も古 い 痕 跡や 比較的新し い 痕 跡を 研究す る の に た い へ ん役 立 っ て い る 。 博物館 に は い ま だ に 手 を つ け ら れ て い な い 非 常に多 く の 資 料が眠 っ て い て 、 それら はさまざ まな分野で 両国関 係を理 解 す る の を 助けてく れ る で あ ろ う。
ホルナ!とロシ工
アンベール以前の日本における二人のスイス人
物理学者、 天文学者、 世界周航者、 ロ シ ア皇 帝 の 顧 問 官 で もあ っ たスイス 人 ヨ l ハ ン ・ カ ス パ l ル ・ ホ ル ナ l (一 七七凶i一 八 三 四 )は チ ュ l リ ヒ に 生 ま れ た 。 父親 は チ ュ l リ ヒ の パ ン 屋 で 、 チ ュ l リ ヒ 市 参事 会に属し、 大尉 の 地 位にあ っ た が、 ホ ル ナ lが病 弱であ っ た の で 、 彼を プ ロ テ スタ ン ト の牧 師と し を も ち、 天文学へと 情熱を 広げ始め て い っ た 。 彼は ドイツ で科 学研究を 追究し、 一 七 九九年にイ エ ナ 大 ホル ナ一、 ア ン ベール、 そ し てその後 て 教 育す る た め に ギ ム ナジウム に送る こ と に し た 。 し か し 、 まもなくホ ル ナ l は数 学と自然科学 に 興 味 学から博 士 の 学位 を受けた。 市民 み」阜 、,AIl-v
一 八 O 三 年 に エ ス ト ニ ア出 身 の ア ダ ム ・ ヨ l ハ ン ・ フ ォ ン ・ ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン (一 七 七 O ー 一 八 四 六) の指 揮下 に ロ シ ア皇 帝 ア レ ク サ ン ド ル 一 世 の 命 に よ っ て組織された 世界周航探検隊 の 天 文学 者と し て 採用された。 ホ ル ナ l は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 艦船 ナジ ェ l ジ ダ (希 望 ) 号に 乗船し た。 ナジ ェ l ジ ダ 号 に は も う 一隻 の 小型 船ネ ヴ ア 号 が従 っ た 。 三 年 間 (一 八 O 三 1 0 六 )か か っ た 遠 征探検 隊 に は 、 船員、 将校、 科学者、 ロ シ ア皇 帝 の 公 式使 節 ニ コ ラ イ ・ ペ ト ロ ヴ イ ツチ ・ レザ l ノ フ ご 七六凶 1 一八 O 。79n
七 ) など 一 三 九 名が含 まれ て い た 。 080 ナジ ェ lジ ダ号 は ブ ラ ジ ル に停泊し た後に、 ホ ル ン 岬 を 通 り、 マ ル ケサス諸島 の 一 つ で あ る ヌ ク ヒ ヴ ア 島 など の 島 々 に時 折上陸し な が ら 太 平洋を帆 走し、 カ ム チ ャ ツ カ半 島 の ロ シ ア の 港ペ ト ロ パ ウ ロ フ スク に到 着した。 そ こ か ら船は長崎 に向 け出 帆し、 日 本 の 南 西岸 に沿 っ て 南下 した。 ナジ ェ l ジ ダ 号は 一 八 O 四 年 一O 月 八 日 に 長崎 湾 の 入 口 に到着し (口絵3参照 )、 六 カ 月後 の 一 八 O 五年四月五 日 に 出 帆した。 ネヴ ア 号 は つ ね に ナジ ェ 1 ジ ダ 号 と 同 じ ル l トをと っ た わ け で は なく、 日本には行かなか っ た 。 ク ル ー ゼ ン シ ユ テ ル ン は 日 本海を北上 し、 北海道北部 や サ ハ リ ン 島 に 上 陸し て 、 そ こ で 探 検隊 の メ ン バー は ア イ ヌ や ニ ブ フ (ギ リヤlク ) の 人 び と と 出 会 っ て い る 。 こ れ ら の 探 検 の 後に、 千島諸 島を通 っ て カ ム チ ヤ ツカ に 戻 っ た 。 そ の 後 、 中国 で は 広東に 立ち 寄り、 南東 ア ジ ア の 海、 大西洋 を へ て 、 ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル ク に帰 港した。 ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン に よ っ て出版された探 検図解書EE は、 航海を 理解す る た め に 必要なすべ て の 地 図を備え、 日本人、 アイ ヌ 民 族、 そ の ほ か の 人 び と の き わ め て 興 味深く、 最新 の 、 ま っ たく真に 迫 っ た ビ ジ ュ ア ル な 記事を提供し て い る 。 彼ら の 長 い 旅 行中に ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン は ホ ル ナ l の 名 を 九 州 の 鹿 児島湾入口西方 に あ る 山 ( 開聞岳、 九 二二 / 九 二 四 メートル ) と、 サ ハ リ ン の 北 西海 岸にある 岬に つ け て い る 。 パ ラ ヴ ィ チ l ニ は ホ ル ナ l を 「民 族 学 者 」 の 先 駆 け と な っ た 三 人 目 の ス イ ス 人 と み な し て い る [3352E H宏 ω一56 HωN ]。 な ぜ な ら彼は 世界 周航 を し た も っ とも早 い ス イス人旅 行者 で あ り、 遠方 の 知 ら れざる 民族を観 察 し た か ら である。 彼以前 で は 、 ジ ェ l ム ズ ・ ク ッ ク 船長 の一七七 六i八 O 年 の 第 三 次 航海 の と き の 探 検隊 画家であ っ た ベ ル ン 出身 の ヨ ハ ネス ・ ヴエツ パ l (一 七 五 一1 九 一一一) が い た EE 司gEロ 遺品 ]。 長 い あ い だ ホ ル ナ l は ち ょうど 二OO年 前 に 日本を訪れ た最 初 の ス イス 人と考 え ら れ て い る 。 す で に 見 て きた ように、 た し か に彼は長 崎 に最初 に 上陸したス イス人 で は な い が 、 明 ら か に オ ラ ン ダ 船で 到来し なか っ た 最 初 の スイス人 で あ り、 後代に い く ばくか の 記 録を残し た 最 初 の 人 で あ っ た 。 二 O O 四 年七 月 に 私 は チ ュ l リ ヒ 大 学民族博物 館で、 彼が旅行中に描 い た スケ ッ チ 、 絵画、 地図 を再発見した。 こ れ ら の 収 集物数 点は初め て 二 O O 四年に開催された 日瑞修交通商条約記 念 シ ン ポジウム に提示された。 こ の 世界周航探 検 の 目的は ア メ リ カ と 日 本 の 北 海岸を 探検踏 査し、 日本と の 外 交 ・ 通商 関係を樹立 し、 科学調 査をし、 より 正確な地図 を作成し て 、 中国に い た る 毛皮輸送 の 海 運 ル l トを改 善 する こ と で あ っ ホルナ一、 ア ン ベ ー ル、 そ し て その後 た。 ロ シ ア 皇帝は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン に 露米会社 の創 設 者 シ ェ リ ク ホ フ の 女婿 で 、 露米会社 の 大 株主 レザ l ノ フ は 日本 が千島列島、 ア リ ュ l シ ャ ン 列 島、 ア ラ スカ に お で あ っ たレ ザ lノ フ を 乗船さ せ た 。 ける 毛皮 貿易 に従事 する ロ シ ア前 哨地 の供 給地 に な ると 考えた。 公 式 の 大 使と し て 、 彼は ロ シ ア 軍中尉 ア ダ ム ・ ラ ク ス マ ン が 一 七 九 三 年 に〔幕府か ら〕 得 て い た 文書 の お かげ で 日 本と の 交 渉は成功 する で あ ろ うと考 え て い た 。 ラ ク ス マ ン は 日 本と の 外 交関 係樹 立を達 成する た め に 女 帝 エ カ テ リ l ナ 二世 に よ っ て 派遣 さ れ て い た人物である 。 ラ ク ス マ ン は北 海道 へ 帆 走し、 松前 に お い て 江 戸幕府 の 役 人、 石川将監と 村上大学 の 二 奉行か ら 長 崎におけるさらな る交渉 に関する信任状 を得 た だ け で 任 務を終え て い た。 そ れ 081 �γ
,.-,-にも関わ らず、 レザlノ フ は こ の 信 任状 が日本と の 通 商を認め ること にな ろうと誤 解 し て い た 。 ラ ク ス 082 マ ン 同 様に、 レザ l ノ フ は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ス ブ ル クへ 連れ て行かれた 日本人漂流者を 帰還さ せ る 考え をも っ て い た。 彼らは世 界 一周を し た 最 初 の日本人 で あ っ た 。 そ の 詳細な記 事は 一 八 O 七年に出版され た大 槻玄沢 の 著 書 『環海異聞 』に見出され る。 数 カ 月 の 交 渉 の 後 に 、 不幸 にも レザlノ フ は 日本 の 官 憲、 幕府 の 交 渉に失敗 した。 彼は日 本人 の拒 絶 に よ っ て個人的に侮 辱されたと感じ、 カ ム チ ャ ツカ で ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 船を 離れ、 数 カ 月 後に千 島諸島 にあ っ た 日 本 の 運上屋 施設に対する襲 撃 を始めた。 ほ ほ 六 カ 月 間長 崎 で 過ご し た あ い だ 、 ホ ル ナlは天文 観測に従 事し、 地図を作 製した。 ま た 、 ドイツ 人 の 物理学 者 ・博物学者 で 、 探検 隊 の 公 式 の 画 家 で あ る ヴ イ ル ヘ ル ム ・ゴ ッ トリlプ ・ テ ィ レ ジウ ス ・ フ ォ ン ・ テ ィ レ ナ ウと と も に 、 長崎 周辺 の 景 色、 船、 人 び と を スケ ッ チ し た 。 ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン [-∞HO-- ∞-H-5 HN〕、 ラ ン グスド ル フ [-S ω] 、 レ 1 ヴ エ ン シ ユ テ ル ン 5 8 ]の 旅 行記事を注 意深く研 究すれば、 日本滞在中 に起き たこと を時を追 っ て 、 そし て詳細に再現する こ と が できる。 これら の 著 者たちはあら ゆる種 類 の で き ご と を 目 撃 し 、 報告 し、 日本 の 人 び と に つ い て 見 聞 し た す べ てを 叙述 した。 そこか ら 、 たとえば、 ロ シ ア皇 帝が天皇だ と信じた日 本 の 支 配者に、 贈物 一式を用 意 し た こ と が わ か る 。 ラ ン グ ス ドル フ は 贈物 の な か の 最 良 の も の を 書き出 し て い る が 、 そ の な か に は 金 銀 の 懐 中時計があ っ た 。 し か し 、 こ れ ら の 贈 物は 受け 取られなか っ た 。 そ れ に も か か わ ら ず、 日本 人漂流 者一人 一 人 に は 銀時 計が与えら れ た [FE間的ι。吋R Sおヨ]。 お そ らくそれら はス イス製 で 、 日 本 に 入 っ た 初 期 の スイス時計 で あ る 蓋然性 は高 い 。 物語的雰囲気や 上級乗組員、 将校、 科学者と い っ た 地 位が新し い 旅 行方法 を 生 み 出し、 一 八 世 紀 の 探 検と の 決 別を予見し て い る 。 彼らが訪れた世 界 の ほ か の 地 域と は異な っ て 、 日本 人 は ロ シ ア 船、 そ の 乗 組員、 とくに使 節 の レ ザー ノ フ に格別 の 好 奇心を 抱 い た 。 あ る も の た ち は ナ ジ ェ l ジ ダ 号近 く に や っ て来たり、 乗船し たりし て 、 オ ラ ン ダ 人以外 の 外 国人を記 録する絵を たくさ ん拙 き上げた。 一 八 O 四 年 の 『ロ シ ア 使 節レ ザl ノ フ 来 航絵巻」 の よ う な記録は、 写真発明 の 三 五年以前 に ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検隊 の メ ン バ ー に よ っ て 残 さ れ た 数枚のスケ ッ チ や絵画 の 鏡 像 と し て今日比較 さ れ ね ば な ら な い 。 出島商館( 口絵2参照 ) の オ ラ ン ダ の 役 人 や 通詞 は 、 日本人 と こ れ ら の ロ シ ア 新来者 の あ い だ の い わば第 三者 で あ っ た 。 ク ル l ゼ ン シ ユ ホル ナ一、 ア ン ベ ー ル、 そしてその後 テ ル ン が 町に接近し、 長崎 港に停 泊 す る ま で には数 週間 を必要 と し た (口 絵1 ・4を参照 )O レザ l ノ フ は そ の 後 隔離 された住居に滞 在を 許され、 ロ シ ア 人 たちは 日本人 の 厳 し い 警 備 の もと に 上 陸し て少し の 時 間過ご す こ と が で き た。 一 八 O 五 年 三 月 に 、 た と え ば 、 レ l ヴ ェ ン シ ユ テ ル ン [Ncg N2 ]は 次 の よ う に 書 い て い る 。 「ホ ル ナ l は 今や 毎日上陸 し て 、 振り子 の 実 験 を し て い ま す」 と。 ホ ル ナ l は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 親友 で 、 艦上 の 重 要人 物 に 属 し て い た が、 け っ し て 探検 隊 の な か の 有 名な人 物 で は な か っ た 。 そ の 理 由 の 一 つ は 、 ラ ン グ スド ル フ [HS ω]や レ l ヴ エ ン シ ユ テ ル ン [Ncg と は 違 っ て 、 彼が旅 行体験 や長 崎滞 在 に つ い て個人的に記 録を書 かなか っ た事 実か ら説 明されうる。 そ れ に も か か わ ら ず 、 彼は 三 つ の 論文を探検記 の 第 三 巻 目宗2855355 に発表し て い る 。 そ れ ら は 物 083理学的 ・天文学的観測を扱 っ て い る が、 再刊 行されたり 、 フ ラ ン ス 語 や 英語 に翻 訳さ れ る こ と もなか っ 084 た。 彼 の 書簡を丁 寧 に み れ ば 、 日本旅 行中に彼 が知り え た さまざ まな エ ピ ソ ードを再 構成 で き る かもし れな い 。 彼は数通 の 手 紙を 家族 に 送 っ て おり、 そ の な か で 旅 の印象を多少語 っ て い る 。 長崎 に関するわ ずかな記述 で 、 彼は 日本 の 官 憲によ る数 多く の 制 限と外国人 へ の 変わ ら ぬ 疑 い が あ る こ と を 嘆 い て い る 。 一 八 O六年 に ヨ ー ロ ッ パ に一 反っ て か ら 、 ホ ル ナ l は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル クと タ リ ン に あ る ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 家 にしば らく 滞在し た。 彼が 描 い た タ リ ン の ス ケ ッ チ は チ ュ 1 リ ヒ 民 族博物館 の コ レ ク シ ヨ ン の な か にある。 ホ ル ナ l は ザ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル ク 大 学教授 の 地位を 断り、 むしろ南アメ リ カ へ の 新 し い 探検隊を組織 しようとした。 しかし 、 ナ ポ レ オ ン と の 最 初 の 戦 争 が ロ シ ア に 財政的な制約を も た ら した。 一 八 O九年チ ュ l リ ヒ に 帰り、 人文学 院で数学 ・論 理学 ・修辞学 の 教 授 と な っ た 。 一 八 一 六 年か ら 三 O年 ま で市 参事会員と なり、 一 八 一二 一年から三 四年に 死 ぬ ま で チ ュ l リ ヒ 自然科学協会 会長 の
也立
こ
ハピ
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ホ ル ナ l を よ く 知 っ て い た 人 び と に よ れ ば 、 ホ ル ナ 1 は旅行 に 深 い 感 銘を受け、 そ の こ と を訪れた人 に語 り、 日本と 中国か ら持ち帰 っ た 品 々 の コ レ ク シ ョ ン を み せ た と い う 。 こ れ ら の 品 々 は ま だ発 見さ れ て い な い 。 ホ ル ナ l の 死 後、 彼 の 所有物と文書類は チ ュ l リ ヒ 古 物収集家協会 と そ の ほ か の チ ュ l リ ヒ 研 究機関 に寄 贈された。 そ の 後、 彼 の 民族学関 連 コ レ ク シ ョ ン と 絵 画 コ レ ク シ ョ ン は 一 八 八 九年に 創設さ れ た チ ュ l リ ヒ 大学民族博物 館に移 され、 そ こ の も っ と も古 い コ レ ク シ ョ ン と な っ た 。 物品 の コ レ ク シ ョ ン と 異な っ て 、 図像 文書 類は手 つ か ずに残され、 博物館 の 地 下室 に埋 も れた宝 物 の よ うに忘れ去られ てしま っ た 。 スイス の 博 物 館における 日本関 係 コ レ ク シ ョ ン へ の 私 の 興 味は 一 九 九七年 に エ メ ・ ア ン ベ l ル と そ の ほ か の コ レ ク シ ョ ン の 研 究と ともに始 ま っ た が、 二 O O 二 年 からはス イ ス の 七 大 民族博物 館を含め、 スイス に保 存さ れ て い る す べ て の ア イ ヌ 民 族資 料 コ レ ク シ ョ ン の 体 系的 な カ タ ロ グを作 成す る プ ロ ジ ェ ク ト に従事し 始 め た [U包-5・叶ち3M gω ロ色2・叶戸gg Ng印〈近刊 〉]。 こ の 調査は 一 九 世 紀末と 二 O 世 紀前半 に 日 本 へ 行 っ た多 く のス イス人旅 行 者に つ い て徹底的 に調査 するまた と な い 機会を 提 供した。 も っ と も 興味深 い 成 果 の 一 つ は ホ ル ナ l に関する多 く の 情 報を 発見した こ と である。 彼は アイ ヌ の人びと に出会 っ た 最初 の ス イス人 でもあ っ た の で ある。 そ の ときま で は 、 ホ ル ナ ー は も っ ぱ ら 科学史 の 分 野 で 研 究さ ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 れ て い た [宮 ロヨ25と2 5g]。 二 O O 四 年四月に私はチ ュ l リ ヒ 大 学民族博物館 の 新 し い ス タ ッ フ に 選ばれた。 博物館 の廊 下には、 ヴイ ン タ ー ト ゥ l ル 出 身 の ダ l フ ィ ッ ト ・ズ ル ツ ア ー が 描 い た ホ ル ナ l の 大き な油絵肖像 画が展示さ れ て い た。 そ の こ と が 私に、 さ ら な る ホ ル ナ l の 文 書が 存在する 可能性を絶えず思 い 起 こ さ せ て い た 。 多 く の 調 査 の 後 、 偶然 の幸 運 に よ っ て 、 また、 学芸 員 マ ル テ イ ン ・ブ ラ ウ ン (テイベット ・ヒ マラヤ ・極東部 門 )の 援 助 の おかげで、 二O O 四年 七 月 に そ れ らを発見を す る こ と が で き た[ 荒田 NO S-佐藤 NGC-品 ]。 ホ ル ナ ー の 航海 後 二 O O 年し て 、 一 三 一一枚 の ス ケ ッ チ 、 デ ッ サ ン 、 水彩画、 地図などが入 っ た書類入 れを見 出 した の で あ る。 一 O 三 枚 は ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン の 世 界周航探 検中に制作され、 そ の う ち の 二 O枚は長 085崎に関 係し、 二九枚 は ヨ ー ロ ッ パ とスイ スに関 するも の で あ った。 086 コ レ ク シ ョ ン の な か に は 、 ユ ー モ ア を 込 め て ラ ク ス マ ン の 文 書 を 明 ら か に暗示す る 小 さ な手紙を 手 にする レザlノ フ の カ リ カ チ ュ ア さ え含まれ て い る が 、 さまざまな 角 度か ら拙か れ た 長崎 湾 と 町 の 風 一 八 O 五 年 二 月 六 日 の 日付をも っ 、 和紙 で つ く ら れ た日本最初 の熱 気球飛行 が た い へ ん 正 確 に 拙かれた場 面 が あ る (口絵5参照)。 そ れ は フ ラ ン ス の モ ン ゴ ル フ イ エ 兄弟が最初 の軽 気球飛行 船を発明 景や、 し て か ら 二 二 年 後 の こと で あ った。 こ の 気 球は レザlノ フ の 駐 在 地 で 科学者 ゲ オ ル ク ・ ハ イ ン リ ヒ ・ フ ォ ン ・ ラ ン グ ス ド ル フ (一 七七 四 1 一 八 五 二) に よ っ て 制 作さ れ た が 、 町 の 方 向 に 飛 ん で い き 、 墜落し て燃 え上 がった。 日本 人 た ち は そ れ が 火器 だと信じ て、 ちょと した事 件を引き 起こし たFE怒号忌 HS ω NOMINa -ホ ル ナ l の 絵 画 は そ れ ぞれ貴重な情 報 に溢れ、 文書 に よ る 情 報、 ティレ ジウ ス に よ っ て作成 さ れ た ほ か の 絵 画、 ある い は 一 八 一 四年に出 版された探 検 の 素 晴ら し い 探検図解 書にある銅 版画と の 関 連を指摘 で き る 。 しかし、 こ の ホ ル ナ l の コ レ ク シ ョ ン か ら新た な い く つ か の疑問が 生まれ て お り、 探検 の あ い だ に 描 か れ た す べ て の オ リ ジ ナ ル のスケ ッ チ や 絵画を徹 底的 に 再 吟味す る 必要がある。 幾人 か の 武 官たちが探 検中に 図版を作成 し 、 お互 い の 絵 を コ ピ ー し た り 、 交換 し あ っ てさえ い る ように み ら れ る 。 たとえば、 長崎の出 島を 描 い た 一枚 の 水 彩画は フ ラ ン ス 語 で 題 銘が書か れ 、 フ ェ ド lル ・ ロ ン ベ ル ク 中尉 の署 名が なさ れ て い る 。 ホ ル ナ lが日本から持 ち帰 った品 々 が 、 チ ュ l リ ヒ 大学民族博物館 の コ レ ク シ ョ ン の な か に 必ずや隠され て い る に違 い な く、 それ が発見さ れ、 さ ら に ホ ル ナ ー へ の 調 査が 進 め ら れ 、 実りあ る 成果が生 ま れ る に 違 い な い 。 太平 洋 の 島 々 、 カ ム チ ャ ツ カ 、 日本、 中国、 そ し て そ の ほ か の 地 域に関 す るすべ て の画 像は、 ヨ ー ロ ッ パ と ロ シ ア に散ら ばって い る ク ル 1 ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検 隊 の も の と さ れ る 図像 コ レ ク シ ョ ン と 比較 研究 の 方 法 を 用 い て研 究調査さ れ る べ き で あ る [印OEEd自己塁。 ホ ル ナ l の 水 彩画 の 複 製画 (口絵1参照 )は、 当時 の ス イス連 邦大統領 ジ ョ ゼ フ ・ダ イスが二O O 四 年 一 O 月、 日本を公式訪問し た お りに、 天皇陛 下と小泉 総理大 臣 に手渡さ れ た [Z者N8 A]。 油絵 の ホ ル ナ l肖像 画と彼が日 本を柿 い た 絵画 の 複 製は 二 O O 五 年 日本 国際博覧会 「愛 ・ 地球博」 に お け るス イス ・ パ ビ リオ ン の 入 口 に 展 示される 。 また、 チ ュ l リ ヒ 大学民族博 物館館長 ミ ハ エ ル ・ オl ピ ッ ツ 氏は 二 O の ネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商会 に一廃 わ れ 、 極東に派 遣さ れ、 一 八 五九年 か ら 六 四 年にかけ て 日 本 の写 真 ホルナ一、 ア ン ベール、 そしてその後 O七年にチ ュ l リ ヒ に お い て ク ル l ゼ ン シ ユ テ ル ン 探 検隊 の 特別展を組織す ること を決定 したが、 そ の こと をここに 初め て お 知らせ で き る ことを喜 び と し た い 。 第 二 の 重 要な発見は、 イ ギ リス人作家 で 、 一 九 世紀 東 ア ジ ア の 写 真 の 研 究者 である ト レ ン ス ・ ベ ネ ツ ト氏 に よ って二 O O 四 年八月になされた 。 ベ ネ ッ ト 氏は日 本写真史に お い て幻の 写真家 と し ば し ば い わ れた 人物 を誰だ か特定すること に成功した 。 ピ エ l ル ・ ジ ョ ゼ フ ・ ロ シ エ ( 一八 二 九 1 七二)は ロ ン ド ン を撮 った最初 の 商業写真家 で あ るこ と は す で に知ら れ て い た 。 さ ら に 、 彼は日本における写 真技術 の 発 087
展 に 重要な役 割を演じ、 日本 の 写 真草創 期 の パ イ オ ニ ア 上 野 彦 馬 へ コ ロ ジ オ ン混 板写真 の 技 術を教え て 088
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ロ シ エ は フ ラ ン ス人と信じ ら れ 、 彼 の 生 涯 と作品 に関 す る情報はほ と ん どわ からなか っ た が 、 べ ネ ッ ト 氏 は ロ シ エ が実際は カ ン ト ン ・ フ リ ブl ル 生 まれ のス イス人 で あ る こと を明 ら か に し た [N GE。 ロ シ エ は 一 八 五 九 年 に ホ ル ナ l に 次 い で 日 本 に 来 た ス イ ス 人 で あ る と 今 や み な すこ と が で き る カ王 一 八 七 二 年 に パ リ で 亡く なり、 スイ ス で は ほ と んど 完全 に忘れ 去 ら れ て い た 。 日本 で探影さ れた彼 の 写 真はスイス の コ レ ク シ ョ ン に は 一枚も見出 されず 、 第 二 次世界 大戦中に破壊さ れ た ロ ン ド ン の ネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商会 で も 発見され て い な い 。 しかし、 一 八 六 O 年 一 O 月 一 二日付 の 『タ イ ム ズ』 紙に 次 の よ うな セ ン セ ー シ ョ ナ ル な 記事が掲 載 さ れ て い る 。 日本 か ら の 写真|| こ の 興 味 深 い 国 の 風 景を写し た 好 奇心溢れ る珍し い 写真 や日本部族 〔原文 のま ま〕 の 習 俗 ・風 習 の 例 証と な る よ う な 写 真 || そ れ ら は ロ ン ド ン の ネ グ レ ツ テ ィ ・ ザ ン ブ ラ商会 に よ っ て派遣さ れた 特別な芸術 家 に よ っ て撮 影されたも の で 、 お そ ら く水曜日にサウ サ ン プ ト ン 港 に 到着 する で あ ろ う ペ ニ ン シ ユ ラ ・ ア ン ド ・ オ リ エ ン タ ル 会 社 の 汽 船 セ イ ロ ン 号 で も た ら さ れ る で あろ、っ。
[図。ロロ2NCCA]
日本に関するネ グ レ ッ テ ィ ・ザ ン ブ ラ商 会 の た い へ ん 珍し い 写 真 シ リ ー ズ は二五1三 O枚程 度から構 成され、 一 八 六 一年 に イ ギ リ スで出版されたと、 ベ ネ ッ ト 氏は考 え て い る 。 それは驚 く べ き こと にそれ ら の 写 真 が ロ ン ド ン に 到着 した知ら せ か ら 一年 後 の こと で あ り、 そ の 後にそ の シ リ ー ズ の 写 真から八枚 ロ シ エ の 記 憶はスイス に は 残 っ て い な い よ うに思 え る が 、 彼が日本に関し て残し た唯 一 の 記 録は彼 の 写 真 で あ り、 それら は ベ ネ ッ ト 氏 の 近 刊書 でまも なく 発表さ の 銅 版画 が は じ め て出 版されたG E5521 れ る で あ ろ う 。 初期のス イス人旅行者は東イ ン ド 会社 で働き、 日本 の 品 々 を い く ら か 残し てくれたが、 一 九 世紀 に は ホ ル ナ ー や ロ シ エ が 日本 へ の 新 た な る接 近を 試 み た 。 ホ ル ナ ー はま だ外国 の 探 検隊 を頼 り に し て い た が、 ロ シ エ は 契約 の も と で 一 本立ちした 写真家 と し て 、 ま た 日本にお い て は契 約社員、 ま た フ リ ー ラ ン サー と し て 働 い た 。 両人 は 画 像だ けを残し、 日本像 の 部分的 な紹介を 果 た し た 。 ホ ル ナ l は 私的にそ の 素 材 を示し た だ け で あ っ た 。 ロ シ エ は 短期的 で は あ っ た が 、 広く国際的な影 響を与え た。 日本 に つ い て複合 一九 O O )とスイ ス時計組合 に よ っ て日本に派 遣さ れ た 。 スイ ス の た め に通 商協定 の 交 渉を し よ う と し ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 的か つ 有意義 な記述 を み る に は、 江戸時 代 の ま さ に 末 期 に ア ン ベ l ル が 帰国 す る の を 待たねばな ら な い 。工メ・アンベール、
初期のスイス人東洋学者フラン
ソワ
・トゥレティー二、
および彼の友人レ
オン・
メーチニコフ
一 八 五 九 年、 プ ロ イ セ ン 人 ル ド ル フ ・ リ ン ダ ウEEEEロsa・818] が エ メ ・ ア ン ベ l ル ( 一八 一 九 1 た彼 の 最 初 の 試 み とスイス に 送 っ た 彼 の 報 告書 は日 本 へ の エ メ ・ ア ン ベ l ル 使 節 団 (一 八 六 三 i 六 四 )を 組織す ること に役立 っ た 。 ここ で は ア ン ベ l ル 使 節 団 の 組 織 や 歴 史 に つ い て は ふ れ な い [切出2一2 5g 0895052FSE門NDD 品 を 参照] 。 む し ろ 、 し ば し ば 過小 評価さ れ て い る ア ン ベ l ル の パ イ オ ニ ア と し て の 役 割を 090 検討 し た い 。 彼は 主要著書 [58 ]と コ レ ク シ ョ ン を 通 じ て 日 本 の 新し い イ メージ を流 布さ せ 、
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フ ラ ン ス 語圏 スイス の 企 業家た ちを 日本に向か わ せ ること を推し 進 め た の である。 日本からス イス へ 帰 る船上 で 、 ア ン ベ l ル は ホ ル ナ l 峰に気づ き、 それをあ る手紙に手 短 に書 い て い る こと は 興 味 深 い 。 こ の 時 代 で もスイス と オ ラ ン ダ の 密 接な接 触 は ま だ 続 い て お り、 スイ ス人は オ ラ ン ダ 人 の 延長線上 に い る と み な さ れ て い た 可 能性がある。 そ の こと は ア ン ベ l ル が ま ず第 一 に は 使 節団を組 織す るとき に、 ま た 、 一 八 六 四 年 二 月 六 日 に 初め て の 日 瑞条約 に ア ン ベ l ル が 署名す る最 後 の段 階ま で助けと な っ た 。 使節 団が日本 を去 っ た後に、 日瑞関係 の 新 し い 時代を 迎え ること に な る 。 スイス の 時 計製造者や輸出 業者、 織物貿易商、 産業 の 進 ん だスイス地 域から の 旅 行者が 日本 に押し寄 せ 、 また外 交活動も始ま っ た 。 不幸 にも、 江戸 末期と 明治初期 のス イス人 の 日 本滞 在に 関する資料は少なく 、 詳細なも の も な い 。 ア ン ベ ー ル 使 節 団 の 一員と し て や っ てきたジ ェ l ム ス ・ フ ア 1 ブ ル Hプ ラ ン ト (一 八 四 一1 一九 一一一 一一 )や 函館 の 最初 の ス イス人副領 事 ア ン リ ・ ピ エ l ル ・ ヴ l ヴ (一 八 六 四 1 六 八 在職 )の よ う な人を は じ め と し て 、 大 部分 の 人 た ち は 多 く の 記 録を残さ な か っ たEEE HS ∞ 笠8 ]。 興味深 い こ と に 、 こ の 両 人 は ア ン ベ l ル 同 様に時 計生産地 域と し て 有名 な カ ン ト ン ・ ヌ シ ャ テ ル に 生まれ、 日本でな く な っ て い る。 ヴ 1 ヴ は 一 九 世紀 中 (一 八 七 O 年 )に 日 本 で 死 ん だ 最 初 の ス イス 人 で 、 彼 の お 墓は横 浜外国人 墓地にある。 武内氏 は ヴ l ヴ を フ ラ ン ス 人と し て い る が [忌忽で こ の 間 違 い は彼が 日本在住 の フ ラ ン ス 人 コ ミ ュ ニ テ ィ と 緊 密な関 係を 結 ん で い た こと、 ま た 、 スイスか ら求められ る領 事臓 の仕事が少 な か っ た た め に 、 副職を探 し出さねばなら なか っ たこ と か ら 説 明 で き る 。 主 と し て ビ ジネ ス体験がス イス人 を 日 本 へ ひ き つ け た。 スイ スで の こ の 時 期 に 関 する最 近 の 研 究 は ほ と ん どド イツ語圏スイス の 研 究 者 に よ っ てなされ 、 経済 ・ 商業的発展 の 分 野 へ 強く方向づ けら れ て い る 。 問題 はスイ ス に お い て漸 進的に形 成 さ れ た 日 本像 の 複 雑な 現象を分析 す る た め に は 、 ど の ようにし て 人 類学者が有 意義な資料を み つ けるこ と が で き る か である。 そ れ に は 、 まず 第 一 に 、 個人 レ ベ ル で 日 本 か ら 持 ち帰られ、 親類や友人と い っ た 限 ら れ た サ ー ク ル で 広 が っ た 知 識 や直接 の 情 報に よ っ て 動 か さ れ る 原 動力と資料、 そ れ にイ メ ー ジ や描写と い う 四 つ の 代的に整理した 重要 な文 献 目録を出版し て い る 。 そ れ に よ ると、 日本 へ の 関 心 が 展開する な か に さ まざ ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 重要な要 素を区 別しなけ れ ば な ら な い 。 次 に 旅行者 に よ っ て出 版さ れ た 記 事、 三 つ 目 に は 記 録媒 体から の 情 報、 最後 に周辺諸国か ら受 けるあら ゆ る 影 響、 流行、 受容 である。 また、 イメー ジ と い っ て も 経済 的 ・ 学問的、 そし て 一 般的なも の を 区別 す べ き で ある。 こ の 点 で 一九 六 四 年に出版された本 (百年祭委員 会編 )は 豊か な情報を提供し、 スイ スが日本に関わ っ て い っ た 歴 史 的展開を理解 す る ことを助け て い る 。 ヒ ユ ル リ マ ン [雪印 81 お] もスイス人作 家 に よ る 、 あ る い は スイ ス で 出 版 さ れ た 日 本 に関する著 作 の 年 まな 潮流 があ っ た こと が わ か る 。 一 八 六 七 年 に 将 軍 の 弟徳川昭武 に率 い ら れ た 日 本使節団 の 最 初 の ス イス公 式訪問 [EEEl-念、 中 091井、 二 八 九 1 三 O 一t具 ]と 一 八 七 三 年 の 岩 倉使 節団来瑞は、 スイス 国家 の 日 本 へ の 関 心を特別に高 め はしな 092 か っ た 。 日本 に 関 心を寄せ たスイス人 は外国 の 情 報源や影 響 を あ て に し て 、 隣国 に出向き、 自分 た ち の 研究 に注目させ たり 、 日本語 を習 っ た り した。 ア ン ベ l ル は 彼 の 本 を パ リ で 出版した。 日本は 一 八 七 O 年代以降団体より個 人 の レ ベ ル で 一定 の 魅 力をも っ て い た が、 日本に対 し て 公 の 熱 心な注目が そそがれ、 日本芸術 の 私 的 コ レ ク シ ョ ン 化 が進み、 最初 の 意 義深 い 展覧 会が開 か れ る に は 一 九 三 0年 代 を待たねば ならなか っ た 。 こ れ は ヨ ー ロ ッ パ の 潮流 に 比 べ 遅 い も の で あ っ た 。 私的な、 またビ ジネ ス上 の 経 験頻度 が増 した にもかか わ ら ず、 世間 で は つ ね に弱 い 反 響し か見出されず、 政府当局か らも低 い 支持 しか得ら れなか っ た 。 私 の 研究 の 関 心 は 、 ア ン ベ l ル と 、 彼 の 使 節団 の 仲 間や彼 の 後 継者に よ っ てスイスにも た ら さ れ た も の が 何 で あ る か を調 査する こ と である。 日本に関する コ レ ク シ ョ ン が ヌ シ ヤ テ ル 民 族博物 館には数 多く な い こ と を見 出した (六 O O 点以下。 も っ と も重要な コ レ ク シ ョ ン は ベ ル ン に 六 OOO 点以上、 バ l ゼ ル に 七 0 0 O点 あまり集中して い る )0 日本 か ら 持ち 帰 ら れ た 資 料は 三 j 四 世 代問、 家族 の あ い だ で保持され、 珍重 されると い う 地域的 パ タ ー ン を 確認 で き た が 、 そ の た め に 日本か ら帰 っ た す べ て の時計 貿易商 が果 たし た役 割を評価 する こ と は 難 し い 。 ア ン ベ l ル で さ え ヌ シ ャ テ ル に日 本に関 す る遺産を多くは残 さなか っ た。 彼は 日瑞関 係を推 進した 影響 力ある主 要人物 で あ っ た と い う より、 むしろ 政治的 な キ ャ リ ア と ヌ シ ヤ テ ル 大 学 (当時 は ア カ デ ミ ー と呼ばれ て い た) に お け る 役割 の ゆえ に記憶され て い る 。 ア ン ベ l ル 使節団 一 四 O周 年を祝う記念行事は 二 O O 四 年には ヌ シ ャ テ ル で は 組織されず、 か わ り に チ ユ 1 リ ヒ で お こ な わ れ た 55gIVE5自 のEEUR 口問 。。ョヨqS ND白色 。 ア ン ベ l ル は 最初に 一 八 六 六 年か ら 六 九 年 の あ い だ に 雑 誌 『 世界 一 周 」 誌 に 、 つ い で 一 八 七 O 年に 二 巻 本 で 、 彼 の 日 本旅行 の 印 象を出版 したが、 き わ め て印象 的な結末は、 そ の 後 ア ン ベ l ル が 急速に 日本に無 関心と な っ た こ と で ある。 彼 の 本は 一九 世 紀末ま で 日 本文化を 発見する 一種 の 手 引書 とし て役立 っ て い た よ う に み え る が 、 ア ン ベ l ル は 日 本へ将来赴く貿易 業者を 訓練す る の に 役 立 つ 学 問的な 「日 本学」 を奨 励 ・振 興す る チ ャ ン ス を逸し てしま っ た 。 しかし、 こ の ア イデ ア は 後にな っ てス イスに おける 地理協 会 の 成 長と と も に 一 八 八 0年代に流行しだし た が 、 主 とし て ヨ ー ロ ッ パ 列 強 の 植民地へ旅立 っ た め の 準 備と して考えられ て い た の で あ っ た 。 の イ ラ ストを つ く っ た 。 ア ン ベ l ル は こ の コ レ ク シ ョ ン を 自 分 の た め に保 持した り、 ヌ シ ヤ テ ル の 町に ホルナ一、 アンベール、 そしてその後 視覚資料 からも っ と 日 本に つ い て学ぼうとする 一 八 六 三 1六四 年 の ア ン ベ l ル の 戦 略は最近パ レ ミ に よ っ て 叙 述 ・ 論 議さ れ て い る [E3F Mg ω 81 巳]。 図像を 通 じ て 日 本 を紹介したり、 説 明 した りす る た め に 、 膨大な 日本 の 印 刷 物や フ ェ リ ー チ ェ ・ ベ ア ト に よ っ て撮 影された 写真をど の よ うに手に入 れ、 収 集した かを ア ン ベ l ル 自 身が 説明し て い る 。 こ の 早 い 時 期 の 人類学的研究 法は 六 六 O O 枚を超え る 日 本 の 図 像に関する膨 大な収集を生 んだ。 パ リ の 芸 術家 た ち は そ れ ら を利用 し て 、 彼 の 本 に 載せ る 四 七 六 枚 寄贈 す る か わ り に、 一 八 七 一年頃 に そ の 全 部を ジ ユ ネ l ヴ の 富 裕な家柄 の 出 身者 で 、 スイス人最初 の 中 国研究者、 か つ 日 本研究者 で あ る フ ラ ン ソ ワ ・ ト ゥ レ テ ィ l ニ ( 一八 四 五 1 一九 O 八 )に 譲 り渡 したか売 093
片で
却し た の だ っ た [忠『3ニ S由] 。 094 ト ゥ レ テ ィl ニ は 日 本 へ 旅 行し たこと は な か っ た が 、 ア ン ベ l ル が 日本にお い て外交的 ・経済的使命 を達 成したち ょう ど同じ頃 に、 中国語と 日本語を学 び始めた。 最初彼は宣教 師 の ヨ セ フ ・ グ リ エ ル と と も に 一 八 六 五 j 六 六 年に ロ l マ で 中 国語を学 び 始 め た 。 そ の 後パ リ で 五 年間 を過ご し、 スタ ニ スラス ・ ジ ユ リ ア ン と レ オ ン ・ ド ・ ロ ス ニ のもと で中国 語、 満州語、 日本 語を 学んだ。 一 八 七 一年に彼はジ ユ ネ ー ヴ に 一炭 っ た 。 伝統的な古典研 究 に従事し続け ること を 望 ん だ 父 親の意に反 し て 、 また、 他 の 研 究者た ちがま っ たく関心を示さ な か っ た に も か か わ ら ず、 漢字や ひ ら が な 文字を扱え る印刷所を 立ちあげた。 彼 は 二 つ の コ レ ク シ ョ ン 、 〉gc自由 。5白 [八巻 本、 一八 七 三 1 八 一年 〈第l巻は 『平家物語 』〉] と 切白口 内乱t gc [五巻 本、 一八七=7九四年〈 晩採草 〉] を作り出 し、 ジ ユ ネ l ヴ 、 パ リ 、 ロ ン ド ン で 流 布させた。 ロ ン ド ン で は 自 分 自身 の 著 作や有 名 な オ リ エ ン タ リ スト の 著 作を出版 したが、 そ れ ら は お も に 日本語や 中国語 の 原典を つ けた翻 訳書 で あ っ た 。 彼がとくに好ん で い た分野は古代 史 で 、 た と え ば 、 「平家物語』 の な か の 一 章 を 初
め
て ヨ ー ロ ッ パ の 言 語 に 翻訳 し た し 、 歴 史 家、 頼山 陽( 一 七 八 01
一 八 一一
一二)
の 『日本 外史』 や柳亭種 彦( 一 七 八 三 i 一八 四 二 ) の 歴 史小 説を翻訳 した。 ト ゥ レ テ ィ l ニ は 翻訳に あた っ て ジ ユ ネ l ヴ に 滞 在し て い た 日 本人 の 助 けを得た が、 そ の 日 本人 に つ い て の 手がかりはま っ た くな い 。 一 八 七 二 年からト ゥ レ テ ィ l ニ は 中 国人を 一 人 雇 い 、 彼 の シ リ ー ズ 本 の 編 集 ・印刷 を助け てもら っ た 。 こ の 人 は 一 八 七 六年頃 に ジ ユ ネ l ヴ 市 民権を獲 得した最初 の 中国人と な っ た [320ニ S色 。 ま さ に 同 じ年に、 ト ゥ レ テ ィ l ニ はこ の 賂 の よ う な編集事業 に取 り 組ん でくれる第二 の 人 物と出会 っ た 。 ヨ ー ロ ッ パ に お け る 最 初 の 日 本 研究者 の 一 人に位 置づ け ら れ る レ オ ン ・メ ー チ ニ コ フ で あ る [」邑 HS印] 。 ロ シ ア に 生 ま れたメl チ ニ コ フ ( 一 八 三 八 1 八 八 、 彼 の 名 の 意 味は 「太刀持ち」 で あ る )は 、 一 八 六 四 年に ジ ユ ネ l ヴ に や っ て き て 、 一 八 七二 年以降 ト ゥ レ テ ィ l ニ と 一緒 に 日本語を 学び始め た。 彼は偶然に後 の 陸 軍大臣大 山巌に出 会 い 、 フ ラ ン ス 語を教 え る ように頼まれた。 そ の 後メ l チ ニ コ フ は 一 八 七 四 年に 来日し、 東京外国語学校で ロ シ ア 語 、 数学、 歴史を教 えた。 病気 の た め 一 八 七 六 年ジ ユ ネ l ヴ に 戻り、 同年 ト ゥ レ テ ィl ニ の シ リ ー ズ 本 の な か で 日 本 に 関する 出版を 始めた。 一 八 七七年に 二 人 は 『極東古
田 語学 ・ 民 族学 ・ 歴 史 学選集 』( 町同K 守皆同町 ob. 2汁 52巴 号 EhEM25・ h「句作 bb D時告』昂 町内 九百 み吉見 )と い う しかし、 一号 の み出版 さ れ た だ け で 、 メl チ ニ コ フ は 『日本 帝国」 と題 する本 の 編 集を 始めた。 こ の 本 ホルナ 一、 ア ン ベール、 そしてその後 評論雑誌 を刊 行する 計闘を練り上 げた。 ダス タ ー ヴ ェ ・ シ ユ レ l ゲ ル と ア ン リ ・ コ ル デ イ エ が 評論利誌 『通報 』 3 05同 志O] を創刊し、 一 八 九 O 年 に ラ イ デ ン の eフ リ ル 社か ら出版する 二 二年前 の こ と で あ る。 は 一 八 八 一 年 に ト ゥ レ テ ィ l ニ に よ っ て 印刷 さ れ た 。 驚くこと に コ ル デ イ エ [広志 おんω ]は 一 八 八 二 年 に 『 極東評論』 と い う 類似した タイ ト ル の 評 論雑誌 を創刊 したが、 彼は 「日本に関 し てこ れま で書かれ たも っ とも 興味 深 い 二 冊 の 本 は 二 人 のス イス人作 家 ア ン ベ l ル と メl チ ニ コ フ の も の である。 後者は ロ シ ア 人 で あ る が 、 ヌ シ ャ テ ル の 教 授 で あ っ た 」 こと を強 調し て い る 。 こ の ような後 の 評 価は、 スイス に お い て 「日 本研究者」 で あ る こと が容 易 で は な か っ た 事 実を あら 095わ し て い る 。 そ れ ゆえ、 メ 1 チ ニ コ フ は 日 本学 の 動 向を追うた め に フ ラ ン ス へ 、 た と え ば 、 リ ヨ ン で 096 一 八 七 八 年にお こ な わ れた第三 団地方 オ リ エ ン タ リ ス ト 会議に出かけ て い る 。 一 八 八 二 年 から彼は フ ラ ン ス の有 名な地理学 者 エ リ l ゼ ・ ル ク ル ス の 秘 書と なり、 モ ン 卜 ル l に 近 い ク ラ l レ ン ス に 定住し、