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【佳作】 かぼちゃの馬車の時刻表
工学部 電気電子情報工学科
4年山口颯太 懲りずに声に惹かれていた。影が落ちたキャンパスの端の端では、鈴を転がすような声が響いている。この声を知っているのは私だけでないかと、根拠のない優越感を抱きながら奥へと足を運んだ。この部屋を初めて訪れたときのように、開け放された扉越しに部屋をのぞき込む。部屋の中央では声の主である翔子先輩がいつもと変わらない様子で本の中身を読み上げていた。私の気配に気が付いたのか視線を上げると、初めて出会ったときと同じく笑顔で小さく手を振ってきた。「久しぶり……でもないけど久しぶり。なんだか変な気分だね」先輩とは実に二か月ぶりの再会だった。同じ天文同好会に所属していても、夏休み前に活動を休止してから顔を合わせる機会が訪れなかったのである。夏休み期間は週に一度だけ連絡を取り合っていたものの、話すこといえばせいぜいが個々の活動についての情報交換のみ。声だけでの交流は距離感が測りづらく、また勝手も違うのか世間話も今 一つ盛り上がらなかった。そういった長い空白を経て対面した翔子先輩は、小麦色とまではいかずとも健康的な色に日焼けしていて私の知らない時間の流れを感じさせた。「大学の夏休みって長すぎて不思議な気分になりますね。初めてでどう過ごしたらいいか困っちゃいました」二年生の翔子先輩にも共感できるところがあったようで、私の言葉に深く頷いている。去年の夏はその長さに甘えてかなり自堕落な生活を送ったと思い出を語り始めた。今年はその反省を生かし、毎朝の日課として近所の公園を走っていたらしい。「玲ちゃんはどんなことして過ごしたの?」「私は友達と遊びに行ったり、バイトしたり、絵を描いたり、普通の夏休みでした」この約二か月を振り返るほどに私の心が暗く沈んでいく。何を成すにも宙ぶらりんで、現状維持の繰り返し。週に一度の打ち合わせからでも、先輩は文化祭の準備に妥協を許していない様子が垣間見えた。 朗読劇を成功させるという確固たる目標が先輩にはあるのだろう。自分なりの芯を持ちつつ、素人である私の感想も取り入れて模索していたように思う。自身の変化を期待しながら一念発起して天文同好会に加わっているものの、私の内面は少しも変わっていなかった。「絵は本当にありがとね。改めて考えても見学中の子にやらせることじゃないんだけど」「いえいえ! 私がやりたいからなので先輩は気にせずに文化祭の練習に集中しちゃってください」この通り翔子先輩はいつでも優しい。ゴキブリに出会っても部屋から出ていくのを笑顔のまま眺めている姿さえ想像できる。六月から見学を続けてなお曖昧な返事しかよこさない私にも、文化祭までが一区切りだから、と居座ることを許してくれた。今日も変わらずその言葉に甘んじたまま、見学者として朗読劇で使うイラストにチマチマと色を入れる日々だ。天文同好会によく似合った星にまつわる物語にふさわしく、翔子先輩の声にも釣り合うような作
品を仕上げるべくひたすらにペンを走らせていく。各々がすべきことを進めていると、赤く染まった空もすっかり闇に沈んでいた。私はペンを置くとタブレット端末の画面いっぱいに広がっていた星空を暗転させる。翔子先輩も手にしていた本を閉じて立ち上がるとロングスカートを整えていた。「明日からはどんな予定になってます?」「週末にある代表者の集まりで文化祭の部屋の割り当てが決まるからそれ次第かな」翔子先輩は戸締りをする手を止めずに、今後の予定を教えてくれた。先輩が窓を一通り確認して戻ってくるまでに帰りの支度を済ませると、その横に並んで教室を後にした。この同好会は私たちのアルバイトや授業との兼ね合いで活動日が決められている。次の活動は三日後の放課後となり、それまでは先輩と顔を合わせることもないだろう。融通が利くと考えれば確かに長所ではあるけれど、天文同好会らしい貢献もせず、先輩の朗読を横目に絵を描き続けるのも心が落ち着かない。「文化祭までに私ができることって何かありますか?」去年までは星に関するコラムを張り出し、暗幕を張った室内でプラネタリウムの上映会をしていたという。加えて今年は先輩によって銀河鉄道の夜を朗読する企画が立ち上がっていた。仮にも同好会の一員としてここにいるのだか ら、せめて発表の手伝いをしたいものだ。しかし私にできることは朗読劇で背後に投影するイラストを用意すること程度。趣味の延長線上の行いではいまひとつ役に立てている自覚が湧いてこなかった。胸の内のわだかまりをうまく言葉にできないまま階段を下りきってしまう。仕方なく口をつぐんだところ先輩が微笑みかけてきた。「絵を描いてくれるだけで十分だよ。今回の朗読劇も私のわがままなんだからさ、もっと肩の力を抜いて? ね?」少し的を外したフォローに自分勝手な苦笑いを浮かべつつ、その返事をめいっぱいに受け止めてみる。柔らかな言葉は私の心に深く染み渡った。建物を出ると暗い敷地内では遠い人影は黒塗りになってしまっていた。輪郭だけの集団が帰る様子もなくたむろしている様子がうかがえる。実行委員がせっせと張り出したであろう文化祭のポスターを横目に私たちは駅へと足を向けた。「私たちも夏休みに頑張った成果を発揮したいね」「はい。絶対に成功させましょう」翔子先輩は私のような脇役と違い、ガラスの靴を履くにふさわしい人間だ。今の私は絵を描くことしかできない。歯がゆさは残るがその方法で先輩の文化祭を成功させようと心に決めた。
秋分も過ぎ去ったとはいえ、閉め切った教室は まだ蒸し暑い。耳に挿したままのイヤホンと握ったままのペンを放り出して窓を開ける。夏休みの残り香も完全に消え失せて、セミの声も聞こえない。翔子先輩もいない静かな教室で一人黙々と作業を進めていた。耳元ではインターネット上に投稿されていた音声が再生されている。私のお気に入りの朗読音声で、気に入ったあまり高校時代には演劇部に所属してみたこともあった。今となってはいい思い出になったはずだが、こうして朗読劇に携わっているのはどんな心境の変化だろう。部活動の勧誘期間を友達と冷やかしながら過ごした私が、六月にもなってフラフラとこの教室を訪れたことも何もかも声が原因だ。せっかくできた友人も誰もいない、夕焼けとともに始まる講義を終えた帰り道に、ふらふらとした足取りでキャンパスの端まで誘いこまれてしまったのである。なし崩し的にここにいる私だが、思えばこの教室に足を踏み入れた時点で先輩の声の虜になっていたのかもしれない。「やっぱり絵、上手だよねー」あのときと同じ声が耳元で聞こえ、遠ざかっていた音声が明瞭になっていく。振り返ると代表者の集まりを終えた先輩が私の手元をのぞき込んでいた。受け取ってきたであろうプリントを片手に揺らしながら私の隣に腰掛ける。「玲ちゃんっていつから絵を描いてるの?」「高校で美術部に入ったときからですかね。デジタルイラストを始めたのはもっと後からなんです
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けど」一時期とはいえ演劇部に所属していたことは翔子先輩には明かしていない。先輩のような努力家を前にしたらなおのこと、陰に徹したい気持ちが強くなっていた。「先輩は高校のときから演劇部とか入っていたんですか」「外でこういうこと始めたのは大学からだよ。高校のころはもっとちゃんとした部活に入りなさいって親に言われちゃってね。だから一人遊びがメインだったかな」それを皮切りに昔話に花が咲く。だが話を続けていく先輩は笑顔を絶やさずにはいるものの、どこか心ここにあらずといった印象を受けてしまう。いつものように練習を始めることもなく、こちらを窺うようにチラチラと視線を向けてくる。何かから逃げているような、それでいて私に助けを求めているように思えてしまうのは思い上がりだろうか。「その、何か嫌なことでもありました?」翔子先輩は視線を泳がせながら困ったように頬をかくと、手にしていた数枚のプリントを私の前に広げた。覚悟を決めたように両手を膝の上に置き、私のほうに向きなおる。「よくない知らせがあります」私がプリントに目を通しながら、雲行きが怪しくなってきたその内容に眉をしかめる。確認のために翔子先輩の顔を見ると、私の懸念を肯定するように悲しげな顔で頷いた。 「抽選に落ちてしまいました。良い知らせはありません。以上です」先輩は言葉を絞り出すと全身から力が抜けていき、果てには机に突っ伏してしまう。「こんな教室使う団体がいたんですね」ここは一般的な教室と違って机が床に固定されていない。座学だけでなく参加型の授業を行う関係上、構造に差があるとのことだ。そのため教室全体を有効的に利用できるこのタイプの教室は人気が高く、文化祭では取り合いになると聞く。しかし私たちが使っているこの教室は同系統のものと比べてさほど広くもなく、キャンパスの外れにあるため集客力が無く競争率は低いらしくすっかり安心していたのだ。「卒業生が同窓会に使いたいんだって」「それはなんとも……仕方ないですね……」利便性が高く周囲に出店されていないこの場所は、人知れず盛り上がるにはうってつけだろう。思わぬ伏兵に私たちは仲良く頭を抱えていた。うなだれている先輩は寝かせたまま、私はプリントに目を通していく。まだ希望が潰えてしまったわけではない。プリントによると参加団体の二次募集が来週の初めにあるとのことだ。今回の抽選で余ったスペースを再び希望団体に割り振る敗者復活のチャンスだった。体育館での発表タイムテーブルにはまだ余裕があり、屋外のスペースにもいくつか空きがある。だがこの朗読はプラネタリウムを投影した静かな教室を前提として考えられた企画だ。学校のマイ クで大音量に引き伸ばした朗読は私たちのイメージから外れてしまう気がするし、屋外の賑わいは客席から集中力をそいでしまうだろう。そもそも銀河鉄道の夜は二時間近くを必要とするため、時間の分配にも向いていない。すでにどこかの団体が内定しているスペースは斜線が引かれているため、視界に入った端から除外していく。また条件の合うスペースを見つけたとしても、かち合ってしまっては意味がないのだ。競争相手が部活動やサークルであるならなおのこと、活動実績でも部員数でも分類的には負けている同好会は勝ち取ることができない。同好会であることがここで仇となるとは思わず唇を噛んだ。本当に打開策があれば先輩がうなだれる前に思いついていることだろう。私だけが知る都合のいい抜け道はないかと視線をひたすら動かして、そして諦めかけたそのとき救いの手を見つけた。「インターネット参加枠。これなんてどうですか? 動画での発表なら場所の奪い合いにもなりませんし、時間を気にする必要もないらしいですよ。元々朗読は場所が必須じゃありませんから」リラックスした様子でうつぶせのままでいた先輩が、私の言葉に反応を示す。「あっ、でも録音するマイクとかが必要かなあ。動画ってどうやって作るんですかね?」「マイクとかは用意できる……と思う。動画もどうにかできるかな」「さすが先輩!」「そこまで持ち上げられると照れちゃうよ」
「私が描いたイラストも後で渡しますね。動画の背景にちょうどいいと思います」「せっかく玲ちゃんが描いたもんね。無駄にできないもんね」「一時はどうなるかと思ったけど、これなら何とかなりそうですね!」一度は閉ざされたように見えた道のりがとたんに開けてくる。方向性が決まってしまえば準備の内容が明確になるのも時間の問題だ。「絶対に成功させましょう!」私は高ぶっていく気持ちを抑えられず、翔子先輩に笑いかける。だがプリントを見ながらまくしたてていた私は、一歩引いた様子の翔子先輩に気が付かなかった。インターネット参加枠を気に留めていなかった理由すら思い至らなかったのだ。「うーん。インターネットは怖い、かな」光明が見えたその瞬間、足元からすべてが崩れ落ちていく。せっかく差した光明も遠ざかっていき、すべてが振出しに戻っていく。「ちょっと、考えさせて?」主役の見せる悲しげな表情に見学者の私が口を挟めるわけもなく、金曜日の活動はそのままお開きになってしまった。
翔子先輩との気まずい空気を断ち切れないまま、土曜日の夜を迎えていた。集中力は散漫でペンを持つ手は意味のない軌跡を描いている。私がイラストを全世界に公開するのとは違い、 自分の一部である声を晒すことになるのは言い知れぬ恐ろしさがあるだろう。だがいつも楽しそうに練習していた翔子先輩を私は知っている。その成果を発表する機会がなくなってしまうのは、一番近くで見てきた人間としてもどかしさがあった。気分が乗らないままペンを置いてベッドに飛び込む。どうにか気を紛らわそうとスマートフォンを操作してみると先輩から連絡が来ていることに気がついた。『今って電話しても大丈夫?』表示されたメッセージは幸いなことに時間にして十五分前の出来事である。私が慌てて返信してみると、数分後には先輩側からの着信があった。「えーと、こんばんは。木原翔子です。ご迷惑をおかけしています」つい先日まで顔を合わせていたにもかかわらず、その声に懐かしさを覚えてしまう。夏休みに毎週連絡を取り合っていたことも、遠い昔のことのようだった。「やだなー。畏まらないでくださいよ」不自然に明るい何かを演じているような声に、私も普段と同じ風を装った。最近買ったものであったり、行ったライブであったり、できるだけ核心に触れぬように、話題を文化祭から遠ざけていく。だが気休めは長く続くものでもなく、始まりから騙し騙し引き延ばしていた会話も蓄えが底をついてしまう。互いの距離感を探りあった末の最終 的な着地点は長い無言だった。「玲ちゃんは朗読を聞くのが好きなんだっけ?」「あー、はい。作業中とか通学でよく聞いてます」途切れた間を再び繋いだのは翔子先輩だった。まだ私が同好会に入りたてのころ、朗読に興味を示していた私を不思議に思った先輩と話をしたことがある。「特に好きなのがこの人だっけ」送信されてきたアドレスを確認してその言葉を肯定する。覚えていてくれたことに驚いて、返事が食い気味になってしまった。先輩は自分でも調べてくれたのか私と会話が通じるまでになっていて、共通の話題が増えたことに嬉しくなってしまう。「三月ごろに少し大きなイベントがあったみたいだけど玲ちゃんは行ったりしたの?」「私はネットで朗読を聞いてるだけなのでそこまでは詳しくないですねー」すでに一年が経過した過去のこと。私が大学受験に向けて春期講習に通っていて、イベントごとを気にする暇もないような時期のこと。好きな音を聞きながらの行きと帰りで、特に私の癒しになっていた彼女も出演する朗読劇の話だった。インターネット上の同じような活動をしている者が集まって朗読劇が開催されたのだ。ライブハウスのような空間で決して大きくないけれど、多くの人が訪れて大盛況だったと聞いている。また小さなトラブルが起こってしまったことも知っている。
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「知ってる? その人体調を崩してステージ上で倒れちゃったんだって。恥ずかしいよね」翔子先輩らしからぬ嘲りを含んだ声に耳を疑った。少し慌ただしくなったものの、問題なくイベントは進行したらしい。だがほんの一部にそんな彼女を今の先輩のように責めるような声があったとも風のうわさで聞いていた。「人間なんですから体調を崩すことだってあると思います。私たちは何も知らないんだから好き勝手言っちゃだめです」このイベント以来彼女は消息を絶っている。元々不定期に作品を投稿していたため、偶然一年近く空白ができただけかもしれない。活動に飽きてしまっただけかもしれない。だから何も知らない人間によるその言い草は少し違うと思った。「優しいね、玲ちゃんは。でもあの子はたくさんの優しい言葉を信じられなかった。楽しい、その一心で活動し始めて、いつの間にか楽しみにしてくれる人も増えてきて、なのに周りの反応が怖くなってしまった」スピーカー越しに必死に感情を押し殺すような声が聞こえる。こぼれる言葉からは隠しきれない悲痛さがにじみ出ていて、とても他人事には思えない。「心機一転して関係ないことを始めても結局忘れられなかった。慣れ親しんだ教室で、お客さんに見せてみる決意まではしてみたけど、やっぱりインターネットは怖いみたい」 察しの悪い私は今になってようやく決めつけでも、誹謗中傷でも、世間話でもないことに気が付いた。ほかの誰でもない先輩自身に向けた後悔と自嘲は痛ましく、かけるべき言葉が見つからない。それほどに情熱を注いできた対象がないような私でも、何か一言でも伝えたくて頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。昇れば昇るほどにその落差は大きくなっていき、ほんの些細なひと押しで急転直下の真っ逆さま。積み上げてきたものを見失ってしまった先輩が、すべてを吐き出してくれたことが嬉しくもあり悲しくもあった。「ほらまだ来年とかあるし、そうでなくても機会なら作れるし、玲ちゃんが描いてくれた絵は絶対無駄にしないからさ」回りくどい例え話の趣旨は単純で、先輩による懺悔と説得だったのだ。私は翔子先輩に比べれば端役も端役で、辛い経験など人間関係の悩み程度のものだ。企画も主役も先輩なのだから、その意思を尊重するべきだ。この半年間で先輩が私にしてくれたように、優しく支えるのが私に求められる役回りだろう。「でもやりたいです。先輩と私で作った作品を届けてみたいです」顔が見えないことがこんなにも恐ろしいとは思わなかった。流れていく沈黙に含まれる感情はなんだろうかと考えるたびに不安になる。でも楽しそうに本を読み上げる先輩が、いつまでもつらい記憶に囚われていることはそれ以上に心が締め付 けられてしまう。「次があるとは限らないじゃないですか。来年だって何があるかわかりません。教室がどこなの団体にとられちゃうかもしれないし――」言いたいことが次々にこみあげてきて喉が詰まる。理路整然とはかけ離れた、思い付いた先からの言葉は止まらない。いくら私が優柔不断でも、どっちつかずでも、単なるわがままでも、今この場でだけは私の気持ちを伝えないといけない気がした。「そもそも私がここにいるのは翔子先輩の声を聴いたからなんですから、先輩には楽しかった記憶を思い出してほしいです」誰かを使った例え話は終幕を迎えて、高揚した私たちの気分も次第に落ち着いてくる。するとむしろ恥ずかしさがこみ上げてきて、どちらが先かはわからなかったけれど、気が付けば私たちは画面越しに笑いあっていたのだった。「恥ずかしいところを見せちゃった。ごめんね。私もそろそろ楽しかったことを思い出したいかも」深呼吸をした翔子先輩の柔らかな声に焦燥感はなく、大学で会うときのいつもの声をしていたように思う。なんてことない会話に戻ると、先輩の欠伸が聞こえるまで通話を続けた。スマートフォンを置いた後も、火照った体は眠りにつくにはまだ向かない。イヤホンをつけベッドから飛び起きると、ペン
を強く握りしめた。
文化祭当日は天候にも恵まれており、人の入りも好調なようだった。電話をした週末が明けるとメガネ姿の先輩は充血した目を携えて、冒頭部分の試作品を用意してきた。驚くのも束の間、期日まで一か月も無かったことが嘘のように、先輩は授業と課題とアルバイトの合間を縫って手際よく動画を完成させていった。先輩が全身全霊を込めて作品を作ったように誰も彼もが日ごろの成果を出し惜しみせず、特に野外ステージの周りには一番の盛り上がりとなっている。あまりの熱気と日光で頭が茹ってしまいそうになり、私たち建物の中に避難していた。建物の出入口にはどこからか大きなテレビが持ち込まれ、それぞれの企画がダイジェストで紹介されている。その隣にはインターネット枠の掲載サイトへのアクセス方法がポスターになって貼りだされていた。私たちが作り上げた動画も一員となっているのだろうが、立ち止まってまでポスターを確認する来場者は多くない。スマートフォンを取り出すまで至ったのは、見ている限りでは一人もいなかった。「そろそろご飯食べないと、どの屋台も品切れになっちゃうかも」 パンフレットとにらめっこをしていた翔子先輩が私にそう訴えてくる。食べ歩きをしながら興味が湧いた場所には一通り足を運んだところ、午後の二時を過ぎていて残り時間は一時間を切っていた。あとは気を楽にして歩くだけにしておこう、との先輩の提案で飲み物を片手にキャンパス内を散策していた。「動画の方は今どんな感じ?」「まあ、ほどほどって感じですねえ」再生数を確認してみるも三桁に届きそうといったところである。来場者数を考えると百人に一人くらいが見てくれている程度だろうか。「全部で二時間以上っていうのも敬遠される原因かもですね。というか実際はこの長時間をぶっ通しでやるつもりだったんですか?」「大丈夫だって。一応章ごとに休憩はする予定だったから」「どうですかね」敷地を一回りして入り口付近に戻ってくると文化祭の終了まで十五分。自分たちの計画性に満足しながらストローを吸っていると、聞き覚えのある声に気を取られてしまった。「見てください先輩。こんなところで流れてますよ」お昼ごろは企画の紹介をしていたテレビが、応募された動画を再生する装置に代わっていた。読まれている文章から考えるに、終わりも近いはずだ。 「まさかこれ全編流してるの?」「二時間も周囲の視線独り占めじゃないですか。同じ声で同好会の宣伝でもしてみます?」「やだよ恥ずかしい」そんな冗談を言いながら画面の中の声を聴きながら笑いあっていたところ、突然背後から声を掛けられた。見れば老夫婦が私たちを見上げている。「ねえ、あなたがこのビデオの人なの?」「はい。ご満足いただけましたか?」「ええ、上手ねえ。しばらくここで休憩してたけど聞き惚れたわ」その言葉に私たちは思わず顔を見合わせてしまう。腕を組んでいる男性も、気難しい顔のままうんうんと頷いていた。「星空も見事だった」ぼそりとつぶやいた男性のしわがれた声も、今の私たちにはとんだ勲章だ。喜びが顔に出ないようこらえながらその場を乗り越える。「私も若い頃はよく通る声ねと言われたけど、あんなにきれいな声は出せなかったものよ」女性の言葉に翔子先輩はいたずらっぽく笑う。先輩と女性はそのまま話し込んでしまい、ついには退場を促すアナウンスが流れ始めてしまった。「将来アナウンサーにでもなっちゃうのかしらねえ。これからも頑張んなさい」台風のように現れた老夫婦は一方的に話しつくすと、お代と称して飴玉を手渡して去っていった。時刻はすでに三時一分。人の波は逆流し、帰宅を促すアナウンスが流れている。
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「褒められちゃった」「これだけで大成功ですね」予定通りには進まなかったけれど、プラネタリウムもなかったけれど夜空の物語を伝えることはできたと強く信じることができた。「飴ももらっちゃった」「こういう差し入れって素直に食べていいんですかね?」指先で包装紙をいじりながら、文化祭での注意事項を思い返してみるが先輩は気にも留めずに口に入れてしまう。それに倣って私も包装紙をちぎる。白い飴玉はほんのり甘いミルクの味がした。「私ね、こんな感想をもらえると思ってなかった」駅までの帰り道でいつも優しい翔子先輩の声は、少しだけトーンが上がっていたように思う。電車に乗ってからも口数が多く、私たちが出会う前からのたくさんの話をした。声を出すことの何が楽しいのかわからなくなっていたこと。動画を作り終えてからも人前で披露することに抵抗があったこと。そして、今になってようやく声を届ける楽しさを思い出せたこと。「だから言ったじゃないですか」「玲ちゃんはいつも言ってくれてたか。ありがとうね」永遠に続いてほしい私たちだけの後夜祭も終わりが近づいてくる。名残惜しいが乗り過ごすわけにもいかず、別れを告げてホームに降りる。何駅先かも知らない先輩の目的地に向かう列車を見送ろうとしたが、鋭い西日で目を痛めてしま う。視界はぼんやりと白くかすむばかりで、長い車両はいつの間にか見えなくなっていた。
教室を訪れたのは文化祭前の活動が最後だった。同窓会に使用された教室は心なしか以前よりきれいで、ゴミ箱の中にチリ一つ残っていない。畳まれた暗幕が机の上に積まれているが、これを片づけてしまえば文化祭の痕跡は跡形もなく消えてしまうのだろう。感傷に浸りながらも、いつものように私の定位置に腰を下ろす。スマートフォンを操作して、お気に入りの投稿者の最新作を再生した。翔子先輩のいない教室で、私とは無関係の新しい朗読作品を聞きながら、椅子の上で何をするでもなく時間を浪費していく。翔子先輩は今日もこの部屋に来てくれるのだろうか。最後に見た満足げな表情を思い返し、浮かんでしまった嫌な想像を振り払う。だらけ切った体勢のままイラストも描かずにイヤホンのコードを指でいじっていると、廊下から足音が聞こえた。慌ててイヤホンを外して背筋を伸ばすが一向に扉が開かれる気配はなく、引き戸に近づいてみれば何やら小さな声が聞こえた。少し不気味な状況に意を決して扉を開くと、そこでは二人組の女の子が隠れるようにしてこの教室を盗み見ているところだった。彼女たちは驚いたように顔を見合わせると、その片方が意を決したように一歩だけ足を踏み出した。 「あの、天文同好会でしょうか!」教室の向かい側に貼られている勧誘ポスターを指さしながら、真面目そうな方の子が私にそう確認する。思ってもみなかった状況に私自身も見学者でしかないことを忘れ、新たな見学者たちの質問を肯定してしまった。私と先輩の成果が形となったことに、心なしか声が上ずってしまった気がする。それからは仮初の代表としての役目を果たそうと、面接官のように二人から話を根掘り葉掘り聞きだしていく。当然ながらきっかけは文化祭の発表で、初めて存在を認識した天文同好会に興味を持ってくれたらしい。幸いにも二人は私と同じ学年のようで簡単に打ち解けることができた。ただこんな団体に来訪者がいるとは思っていなかったため、たどたどしい説明になってしまう。先輩は突然教室をのぞき込んできた私をどう思ったのだろう。せっかくの来客を無下にはできずに不自然であろう笑顔を浮かべながら、ここにはいない先輩に心の中で助けを求めた。「玲ちゃんがあの朗読をしたの?」「ううん。先輩なんだけど、ちょっと気まぐれで今日来てくれるかどうかわからないな……」素朴な疑問に胸を痛める。時計を見るとすでに三十分が経過しているが、翔子先輩が現れる様子はない。先輩は今日どころか明日以降も来てくれるかわからない。私は無責任にもそのことを伝えることができず、やんわりとした表現になってし
まう。「あー大丈夫だよ。質問したら少し遅れるだけだって言ってたから」ところが私の煮え切らない返事には思いもよらない返答が返ってきたのだった。驚きが抜けきらないまま話を聞きだしてみれば、私の知らない天文同好会の広報用アカウントが質問を受け付けているらしい。活動内容や活動場所と情報が充実しているアカウントを眺めていると、私の背後で扉が開かれる音がした。「お待たせしましたー。代表の木原翔子です。昨日は連絡ありがとね」眼鏡姿の翔子先輩がそこには立っていて、笑顔を浮かべながらお辞儀をしている。聞きたいことも言いたいことも数あれど、すべてを飲み込んで胸をなでおろす。「玲ちゃん。ランクアップが見えてきたよ。新メンバー候補だよ」見せつけられたサークル申請書には代表の欄に先輩の名前が記入されていた。人が増えれば同好会から格上げされて、今までよりもっと活動がしやすくなる。これを取りに行っていて少し遅れてしまったのだと気づき、先ほどまでの自分が恥ずかしくなった。「星にまつわるお話は星の数だけあるけどさ、次にやるなら何がいい?」見学組が家庭用プラネタリウムに夢中になっている隙に、先輩は顔を近づけて次の企みを囁いた。 私が息つく暇もなく、先輩が本来持つ行動力のままに走り出してしまうのだろう。先輩の一つ下の枠に名前を記入すると、ゆるんだ表情を隠しきれないまま、負けじと仕入れてきた星座の知識を披露してみせるのだった。コメント最後まで読んでくださりありがとうございます。やりたいことが見当たらない玲とやりたいことを見失った翔子の物語でした。興味のあることに打ち込むのも大学生らしい一つの姿なのではないでしょうか。現代はやりたいことに対してできることの幅も広がっているように感じ、デジタルを全面に押し出してみました。用語をどこまで使っていいのか、悩んだことをよく覚えています。また思うままに書き連ねた小説を発表する場があるというのもとても幸せな話です。このような場を設けてくださったことに感謝しつつ、この小説に誰かの心に響くものがあることを願っています。