はじめに
カンボジアは、1970年代以降、1991年の「カンンボジア紛争の包括的政治解決に関する 協定(パリ和平協定)」の締結まで、長きにわたる内戦状態に苦しんだ。和平協定後は、国内 の安定を目指すとともに、地域・国際社会への復帰に腐心した。政治的安定を得た1990年 代末以降は、1999年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟、2004年には世界貿易機関
(WTO)加盟を達成した。その間、外資主導の産業発展が進み、2004―
07年にかけての二桁
成長の時期を含め、2000―11年は平均約8%の成長をしており、高成長を続けている。
この高成長は持続可能なものなのだろうか。本稿では、和平協定以降約20年間の経済成 長の軌跡をまとめたうえで、それを支えてきた産業の実情とカンボジア経済を取り巻く国 際環境を詳述する。そのうえで、高成長が持続可能なものであるのか、その展望と課題に ついて論じる。
1 1990
年代以降の経済成長の軌跡カンボジアは、1975年からのポル・ポト派政権(カンボジア共産党、いわゆる「クメール・
ルージュ」政権)で急進的な共産主義、1979年からの人民革命党政権では社会主義体制をと ってきたが、1989年以降市場経済化を開始した。1991年のパリ和平協定後、1993年の制憲 議会選挙を経て制定された憲法では市場経済化を進めていくことを謳った。国内経済は、
内戦状態の影響で産業は破壊されており、他の社会主義国と異なり、計画経済下であって も国営企業が産業の担い手になるほどまでには成長してこなかった。このため、国営企業 の民営化は市場経済化の過程において大きな課題とはならなかったが、このような地場の 産業の担い手の不在は大きな足枷となり、市場経済化の初期から、積極的に外資を誘致し、
彼らに主導された経済成長を目指すことが、カンボジアにとって現実的な選択肢と考えら れた。また、和平後に多くの自由主義諸国からの援助が流入したことも、市場経済を標榜 した復興を進めていくことになった理由のひとつに挙げられよう。
1994年にいち早く制定された投資法では、内外資を差別せず、企業に対して幅広い投資
優遇策を定めた。例えば、奨励されない一部の案件を除き、広範囲にわたる投資案件に対 して、最大8
年、2003年の改正後は3
―9
年の法人税の免税を認めた(1)。もっとも、法制度 全体の整備が追い付いておらず、汚職などによる施行上の課題も多く、もとより治安も不安定で道路・電力などの基礎的なインフラも不十分だったことから、このような投資法の 多くの優遇策は、容易に投資を呼び込むことにはつながらなかった。1990年代は、国内の 各派閥の対立が断続的に続いており、全国的な安定が得られたのは
1997年 7
月事変(二大与 党の人民革命党とフンシンペック党の武力衝突)やポル・ポトの死亡(1998年)、他のポル・ポ ト派幹部の相次ぐ投降を経た1990年代末であったと言える(2)。それまでは、和平後の復興を 見越した投資がみられたり、縫製業の企業進出(後述)が始まるなどしたが、その進出企業 の多くがプノンペン近郊に限られた(廣畑2004)
。2000年代に入ると、政治的には、フン・セン首相
(3)を中心とした人民党による支配が安定・強化されつつ、本格的に経済開発・発展の時代へと入っていった。国内総生産(GDP)
は大きく伸び、1人当たりGDPも
2004
年の417ドルから2010年の 830
ドルに到達し、短期間 で2倍強の成長をみせた(第1表)。2008―09
年には金融危機の影響を受けて一時的に後退 を余儀なくされたが、その後は安定した成長を継続している。2
成長を支えてきた縫製業とその担い手経済成長を支えてきた産業は、外資主導により1990年代半ばより勃興した縫製業、人口 の8割以上が生活する農村を基盤とする農業、そして世界遺産のアンコールワットを擁する 観光業である。とくに縫製業は、産業の要としてカンボジア経済の復興とその後の発展を 支えてきた。本節では、その縫製業の概況および、カンボジアの産業発展の担い手を紹介 する。
1995年に、カンボジアは米国との貿易関係を正常化し、最恵国待遇
(MFN)を得ると、翌年には多くの品目について一般特恵関税(GSP)での輸出が認められた。これを受けて、多 国間繊維取り極め(MFA)により数量制限による貿易が一般的であった衣料品について、カ ンボジアは数量制限の影響を受けることなく米国に輸出することが可能となった。MFA体 制下では、生産能力の高い国々からの輸入に制限が課されており、制限を回避するために、
数量制限のない国もしくは数量制限割当に余裕のある国に工場を進出させ、そこから輸出 をするケースが多くみられ、カンボジアもその国際的な生産ネットワークに組み込まれる こととなった。1990年代半ばに、数量制限割当が不足していた香港、台湾、マレーシアか らの投資が行なわれたことを起源とし、のちに多くの中国企業が進出し始めた。技術も原 材料も不足しているカンボジアにおいて、これらの企業は、中国・香港などから布やアク セサリー類など、完成品に近い状態の原材料をカンボジアに輸入し、そこから裁断・縫 製・仕上げのみを現地工場で行ない、カンボジア製として主として米国に輸出するという
第 1 表 経済成長の推移
名目GDP(100万ドル) 5,339 6,293 7,275 8,631 10,337 10,400 11,634 実質GDP成長率(%) 10.3 13.3 10.8 10.2 6.7 0.1 6.0
1人当たりGDP(ドル) 417 487 558 656 773 765 830
2004年 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年 2010年
(出所) カンボジア統計局(NIS)。
ビジネスモデルが確立されていっ た。
米国は、貿易関係正常化直後、カ ンボジアからの輸入が急増したのを
受け、
1999年に二国間協定を締結し、
他の輸出国同様、カンボジアからの 輸出には数量制限が課せられること となった。同協定では、カンボジア の労働環境を監視し、その労働環境 が適正なものであるかどうかによっ て翌年の数量割当を見直すという仕 組みがとられた(4)。しかし、設定さ れた数量制限自体が、カンボジアの 生産能力・輸出能力に比して余裕の あるものであったことから、この二 国間協定以降もカンボジアへの縫製 業企業の進出は続いた。2004年末に
MFAが終了したが、2005
―08
年にかけては、中国と欧米との間での合意により中国は輸出を制限した。縫製業は初期投資の比較的小さい業種であることから、外国企業はカンボジ アにメリットがなくなれば簡単に撤退することが予想され、MFA終了後にカンボジアの縫 製業が受ける負の影響が不安視されていたが、実際には、カンボジアから欧米市場への輸 出は減少することなく、むしろその後も成長を続けた(福西ほか
2011)
(5)。2009
年に縫製業は自由化の時代へと突入したが、MFAとは無関係に2008年に発生した金 融危機による欧米市場の不調により衣料品輸出が不振に陥り、カンボジアでは経済全体の 停滞と約5万人の失業者の発生が問題となった。このため、2004年以前から指摘されてきた 脆弱性、すなわち縫製業のみに頼ること、とくに米国市場に大きく依存することの危うさ が明らかになり、産業全体の多角化、縫製業についても市場の多様化を本格的に目指す契 機となった。2009年以降、縫製業は第1図にみられるように、欧州向け輸出が急増し、また 日本向け輸出も全体に占める割合は少ないながらも増えてきており、米国市場一辺倒から の変化がみられる。2012年現在300
社余りの企業で約33
万人が働いており、縫製業はカン ボジア最大の雇用創出産業として、現在も大きな役割を担っている。縫製業以外の製造業セクターでは、2010年ごろから新しい動きが始まり、それまでカン ボジアに存在しなかった業種の企業進出がみられるようになった。2010年に小型モーター を生産するミネベア社(日系)がカンボジアに
5000
人規模の新工場建設を発表したほか(2011年稼動)、家電用ワイヤーハーネスなどの企業の進出が始まった。その背景には、中国、
タイ、ベトナムといった周辺国にすでに進出をしてきた日系企業を含む外資企業が、これ らの国々の賃金上昇、人手不足などの投資環境悪化に直面し、次の投資先を探す必要に迫
第 2 表 国別投資金額(承認ベース)
カンボジア 391.2 1930.1 13742.1
米 国 36.0 144.4 1215.0
欧州連合(EU)諸国 41.6 2237.9 626.8
日 本 0.0 6.2 148.1
韓 国 1026.6 146.2 3894.1
香 港 29.6 331.2 310.1
台 湾 91.8 82.1 756.7
中 国 694.2 1192.7 7716.6
インドネシア 0.0 0.0 67.9 マレーシア 167.4 235.3 2364.4
フィリピン 0.0 0.0 1.3
シンガポール 37.2 13.8 635.5
タ イ 2.0 0.0 749.7
ベトナム 114.7 630.9 566.1
そ の 他 58.4 61.6 1479.4
総 計 2690.8 7012.4 34273.8
2010年 2011年 1994年―2011年累計
(注) 投資法上の優遇策の対象となる投資についてのデータであり、
経済特区(SEZ)内投資は含んでいない。
(出所) カンボジア投資委員会資料より作成。
(単位 100万ドル)
られたことが指摘される。そのなかで、比較的若い人口が多く(6)、投資先として未開拓なカ ンボジアが、企業の具体的な選択肢として挙がってきた。また、2000年代に入り、カンボ ジアを含む周辺国との地域協力が進み、メコン地域全体のインフラ整備が急ピッチで進め られており、国境地帯での隣国(タイやベトナム)のインフラを活用した企業活動が可能と なっている。そのため、タイのバンコクからプノンペンを経由してベトナムのホーチミン へと連なる南部経済回廊沿いの国境地帯に立地する経済特区(SEZ)には、輸出志向企業の 進出が始まった。また、企業と政府とが投資環境改善に向けた具体的課題の議論を重ねて
第 3 表 セクター別投資件数・金額(承認ベース)
農 業 23 554.36 24 724.95 194 3,238
工 業 74 945.49 113 2,869.38 1,312 10,180
縫 製 40 128.68 78 361.41 727 1,752
製 靴 8 48.33 8 34.97 63 224
食品加工 4 36.14 1 25.43 59 257
鉱 業 2 92.00 3 31.22 53 385
木材加工 1 2.10 50 472
エネルギー 4 588.79 36 2,650
プラスチック 2 5.71 35 64
建設資材 1 6.81 28 53
タ バ コ 25 99
紙 類 24 35
石 油 16 290
サービス 2 1,059.09 3 658.05 139 7,773
観 光 3 131.83 8 2,759.98 153 20,095
小 計 102 2,690.76 148 7,012.36 1,798 41,287
SEZ内投資 22 91.25 39 715.25
件数 金額
2010年
件数 金額
2011年
件数 金額
1994年―2011年累計
(注) カンボジア資本による投資も含んだ数字である。なお、200万ドル以下の投資は含まれていない。
SEZ内投資については、業種別リストには含めず、SEZ内投資としてまとめた数値を示してある(数値 は新聞報道を参照した)。
(出所) カンボジア投資委員会資料および新聞報道より作成。
(単位 100万ドル)
2500
2000
1500
1000
500
0
(100万ドル)
(年)
2001 02 03 04 05 06 07 08 09 2010 2011
カンボジア商業省。
(出所)
■ 米国 ■ EU ■ カナダ ■ その他
第 1 図 カンボジア衣料品輸出先
きたことも、これらの企業進出を後押ししている(7)。このほかに、銀行やショッピングモー ルなどのサービス業での日系企業の進出など、カンボジア国内市場の需要を見込んだ外資 の進出もみられるようになり、カンボジア経済は新たな段階へと入ろうとしている。
以上のように、外資主導の産業の発展が続くなか、原材料の多くを輸入に頼る外資企業 の活動では、国内に付加価値を十分にもたらす機会は限られていたことから、カンボジア の地場企業の成長は遅れがちであった。しかし、カンボジア資本による企業活動は不在だ ったわけではなく、彼らによる投資も年々増え続けており、1994―
2011
年までの累計投資 承認金額の40%
を占めている。また、2009年には、投資委員会における統計では、単年度 でのカンボジア資本による投資の承認額が外国投資の総額を超えた。テレビ局や金融にか かわるロイヤル・グループ(同グループ会長はクット・メーン商工会議所会頭)、リゾートホテ ルやカジノ、インフラ開発を手掛けるLYPグループ(同グループ会長はリー・ヨン・パット上 院議員)などの大企業グループが成長してきている。一方で、中小企業(SME)は、その育 成の重要性は再三指摘されてきたものの、具体的な政策の策定・実施は遅れてきた。2010 年に策定したコメ政策、また策定を目指した作業が行なわれている産業政策、SME政策な ど、近年、カンボジア政府においても国内産業育成に向けた動きが始まりつつあり、その 成果がみえるまでは、まだ時間が必要である。3
カンボジア経済をとりまく国際環境(1) 開発パートナーとの関係
国際社会との交流を断っていたクメール・ルージュ時代、またベトナムの武力支援によ る新政権樹立を非難され西側諸国から承認を得られなかった人民革命党政権時代をとおし て、カンボジアは経済的に孤立していた。1980年代は東側諸国からの支援を受けてはいた が、規模は小さく、一部内戦が継続していたため、全国的にいきわたるものではなかった。
1991
年10月のパリ和平協定締結後、状況が一変し世界中からの支援が流入した。その支援
金額は、1990年に4160万ドルであったのが、1992年のカンボジア復興閣僚会議では
2億 600
万ドルへ、そして2010年には10億 8500
万ドルへと増加してきた(第4表)。高成長を続けた2000年代もなお、財政支出の多くを援助に頼っている。また、人材不足の各省庁には外国
第 4 表 各国からの援助金額の推移
国連および多国間 251.2 197.1 296.6 276.3 267.2
EU諸国 156.1 153.2 188.6 202.5 197.4
中 国 53.2 92.4 95.4 114.7 119.6
日 本 103.7 117.2 126.2 124.6 143.2
韓 国 13.3 31.3 33.0 15.8 36.1 米 国 51.0 58.1 55.7 56.9 60.4 その他(二国間) 34.5 50.4 55.2 59.5 78.4 非政府組織(NGO) 50.2 77.7 104.9 108.7 129.1
合 計 713.2 777.4 955.6 959.0 1,085.9
2006年 2007年 2008年 2009年 2010年
(出所) カンボジア復興開発委員会資料。
(単位 100万ドル)
人専門家が多く常駐している。
和平の実現に積極的にかかわった日本は、主要ドナーのひとつとして、カンボジアの国 造りにかかわってきた。国際連合や世界銀行などの国際機関とカンボジア政府は、時とし てカンボジアの人権問題やガバナンスの問題をめぐって対立を繰り返しており、援助資金 の凍結が過去何度か実施されているが(8)、対話が途切れることはなかった。また、2000年代 以降は新興援助国からも支援が増加してきている。
カンボジア国内の主要国道を例にとってみると、さまざまな国・機関からの支援を受け 入れていることがわかる(第
5
表)。日本、アジア開発銀行(ADB)等の伝統的な支援国・機 関による整備が進められてきたルート、中国、タイ、ベトナムが比較的最近になって支援 を開始したルートとが、全土に分散している。(2) 隣国との関係
ASEANへの加盟は、1997年に実現するはずであったが、加盟承認直前の同年 7
月に生じた一時的な政情不安(7月事変)に対し、周辺国はカンボジア情勢の再不安定化への疑念を 高めた。この信頼回復には、国内の政治的安定が確保されたとみなされた
1999年を待たね
ばならなかった。加盟後のASEANでは、2015年のASEAN
経済共同体(AEC)の実現に向け た関税引き下げなどの取り組みが進む。また、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナ ム、タイ、中国(雲南省および広西チワン自治区)が参加する大メコン圏(GMS)やタイとCLMV
(ASEAN後開発4ヵ国:カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム)諸国によるエーヤ ワディ・チャオプラヤ・メコン経済協力(ACMECS)といった地域協力の枠組みを活用して インフラ整備や人材育成などが実施されている。第 5 表 主要国道への支援国・機関
1号線 日本(2005)、ADB(1999)
2号線 ADB(2001)、日本(2003)
3号線 韓国(2004、2008)、世界銀行(1999)
4号線 米国(1996*)
5号線 カンボジア(2003*)、ADB(2000、2006)
6号線 日本(1993、1996、2000)、ADB(2000、2006)、世界銀行(1999)
7号線 日本(1996、2001)、ADB(2000)、中国(2004)
8号線 中国(2007)
11号線 ADB(2001)
21号線 ADB(2001)
31号線 世界銀行(2003)
48号線 タイ(2004)
57号線 中国(2008)
67号線 タイ(2006)
68号線 タイ(2007)
76号線 中国(2007)
68号線 ベトナム(2007)、中国(不明)
国道 支援国・機関(年)
(注) 括弧内はプロジェクト開始年。*のプロジェクトについては終了年を示す。
(出所) カンボジア公共事業・交通省資料より作成。
直接国境を接するタイやベトナムとは、歴史的な経緯に基づく国民感情の対立も絶えな いが、日常的な交流は古来から活発であるし、上記地域協力の枠組みによる協力体制の構 築は近年大きな進展をみせている。タイとは、2000年代のタクシン政権下において、協力 が進んだ。互いの国境地域の開発を視野に、カンボジアの国道48号線など、国境に近い地 域のインフラ整備をタイは支援してきた。また、タイ湾沖の海上国境付近にある油田の共 同開発も、両国の大きな関心事となってきた。2003年に、タイ人女優の「アンコールワッ トはタイのもの」発言の噂によるタイ大使館焼き討ち事件や、2008年に国境のプレアヴィ ヒア寺院周辺の領有権をめぐっての国境地域での武力衝突など、時として対立を深めるこ とはあるが、全面的な対立に発展しないよう、両国政府とも外交努力を重ねている。ベト ナムとは、伝統的に、国内に反ベトナム感情が存在しており、カンボジア国内の与野党対 立の争点のひとつであるが、国家間の対立に発展するようなことはない。最も貧しい地域 であるベトナム・ラオス・カンボジアの国境地帯では開発の三角地帯として、開発協力が 推進されている。
このような環境下で、2000年代半ばから、急速に援助金額を増やしている中国との関係 は無視できない要素となっている。国道7号線、閣僚評議会建物、プノンペン新港、第
2チ
ュロイチョンヴァー橋などが中国からの支援を受けた代表的なプロジェクトとして挙げら れる。中国は経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)に加盟していないこと から、2007年にカンボジア開発協力フォーラム(CDCF)(9)に出席するまで、援助の金額も内 容も明らかにされず、他のドナーとの調整も行なわれなかった。CDCFに出席するようにな ってからも、中国のプロジェクトはDACの環境・社会影響に関する基準に従う義務がない ことから、事実上、国際社会からの声が届かない聖域となってきた。伝統的な援助機関・国であれば資金を凍結するようなケースでも、基準と関係なく進めることができるため、
中国からの援助資金の増加は、これまでのカンボジア政府と開発パートナーとの関係に変 化を及ぼしうる。
カンボジアと中国が接近し始めたのは、比較的最近のことである。与党の人民党は、1979 年にベトナムの支援を受けて成立した人民革命党政権の流れを汲んでおり、ベトナムとの 関係が深い。中国も、和平協定以前は、クメール・ルージュに近い立場をとっており、必 ずしも人民党寄りではなかった。しかし、1990年代をとおしてフン・セン首相および人民 党による体制が徐々に確立されていくのにあわせて人民党寄りの姿勢を示すこととなった
(Jeldres 2012)。1997年の
7
月事変により、カンボジアが一時的に国際的な孤立を深めた際、追放されたラナリット第
1
首相の代わりにその地位に就任したウン・フオト第1
首相とフ ン・セン第2
首相という新体制への支持をまっさきに表明したのは中国であった。この時、カンボジア政府は、台湾代表部の閉鎖(1997年7月)を命じており、この時期を境に中国と の接近が始まる。
過去1年間の報道だけみても、中国との経済関係が深まっていることがわかる。2011年
10
月の首脳会談で、カンボジア・中国の両国は、2012年に貿易額を約25億ドルに増加させる こと、さらに2015年までに70
億ドルへの増額を目指すことに合意した。カンボジアからの輸出品としては農産物が大半を占めており、輸入品は縫製業の原材料、日用品が上位を占 める。投資については、既述のとおり、カンボジアの工業化の中核を担ってきた縫製業へ の投資のみならず、農業、大型インフラなど、多分野にわたる投資が行なわれてきた。2011 年12月には、中国のシノハイドロ社が建設をしてきたコンポート州のカムチャイ・ダムが 完成した。193.2メガワットは、カンボジアのこれまでの電力供給量の
40%
分にも相当する 能力を擁する。さらに、2012年4
月には、胡錦濤中国国家主席がプノンペンを来訪し、約4000万ドルの贈与と 3000万ドル超の借款の供与に合意したと報じられている
(10)。中国の意図としては、沖合の石油・ガスを含む資源への関心や、南シナ海領有権問題な どへの影響力保持などの戦略的側面が指摘されるが、国家の意図とは関係のない新旧華 人・中国人の投資も多く含まれており、その両者は明確には区別することができない。い ずれにせよ、中国からの投資、中国との貿易なしには、カンボジアの産業発展や高成長は ありえなかった。また、中国からの援助資金なくして、発展・成長に欠かせない道路や電 力インフラの整備もありえなかった。
同時に、中国からの政治的影響力行使の結果と判断せざるをえないような事態も相次い でいる。2010年
12
月にはカンボジア国内で難民申請をしていたウイグル人が、習近平中国 副主席のプノンペン来訪直前に中国に強制送還されたことは、人権上大きな問題があると して欧米諸国からの非難を受けた。米国は、カンボジアの中国への接近を牽制し、クリン トン米国務長官は2010
年11
月の来訪時に、中国への接近・依存に警戒心をあらわにしてい る。また、2012年ASEAN議長国を務めたカンボジアに対して、南シナ海の領有権問題に関 して明白なプレッシャーがかけられたため、7月外相会議にて共同宣言の採択が見送られる 事態に発展し、同問題で中国と対立するベトナムやフィリピンが激しく反発をした。カン ボジアは、和平協定以後、国際・地域社会への復帰に腐心してきた経緯があることから、容易に中国のみに依存する方針に転換するとは考えがたいが、高まる中国の影響力と、地 域社会・国際社会とのバランスをとりつつ、難しい舵取りを迫られている。
4
持続可能な成長に向けて―展望と課題カンボジアは、1990年代末までに達成された平和と安定とを基盤として、地域・国際社 会と協調しつつ、外資主導により経済の高成長を達成してきた。外資による縫製業への依 存、その輸出先としての米国市場への依存は、初期の産業発展において優位性を発揮した が、のち脆弱性をあらわにした。縫製品市場の多角化、産業の多様化の動きは近年本格化 しているが、このような動きにおいても外資が主導的な役割を担っている。外資をこれか らも有効活用していくためには、汚職の解消などのさらなる投資環境改善を進めていかね ばならない。また、政府は自由を尊重するという名目のもと、自国の企業を育成すること に十分な関心を払ってこなかった。今後、地場企業がどのように成長していくのかは、高 成長を持続させていくうえで重要な視点となるであろう。
対外関係では、中国との接近が最も関心を呼んでいる。と同時に、旧来の援助機関・国 や、隣国との協力など、重層的・複層的にさまざまなパートナーとの協力関係を保ち、支
援を引き出しているのもまた事実である。過去20年間にわたり地域社会・国際社会復帰に 向けての努力を積み重ねてきたカンボジアにとって、中国の資金に頼りつつも、中国と
ASEAN、中国とその他国際社会の二者択一というよりも、両者の間にあってバランスをと
りながら進んでいくことで、対外的な安定を確保し、そのなかで成長を続けていく方法を 模索していくことになろう。最後に、高成長の裏では、経済格差が拡大していることに触れておきたい。開発プロジ ェクトにおける住民立ち退きに代表されるような、開発・発展の社会的ひずみは増加の一 途をたどっている。これらをいかに公正に解決をしていくのかが問われていく。なお、2013 年にカンボジアは
5回目の総選挙を迎える。人民党は、平和と安定に基づく成長を遂げてき
たという実績がある一方、野党は、社会的ひずみに起因する不満のはけ口として一定程度 の支持を得ている。しかし野党側は、たびたびベトナム国境問題や人権問題をめぐって与 党と激しい対立を繰り返しては、野党党首が事実上の国外追放状態におかれることが繰り 返されており(11)、党勢が弱体化させられ、民主的対話のメカニズムが構築できていない。ま た、人民党は、2011年党大会にて、引き続きフン・セン首相を次期首相候補として選挙を 戦うことを決定したが、有力閣僚の高齢化が進んでいる。今後の世代交代がどのように行 なわれていくかは、取り組み方次第では、現政権が長年かけて達成してきた平和と安定を 揺るがしかねず、今後の高成長持続のために向き合わなければならない課題である。(
1
)2003
年に投資法は改正され、投資適格案件(QIP)を定義づけるとともに、その定義に基づいた 優遇策実施を定めたが、それは内外資無差別で幅広い投資を優遇するという点で、1994年法と方 向性を一にするものである。(
2
) 天川(2001)は、1990年代末をもって「国家の担い手」をめぐる対立が終焉したと評しており、山田(2011)は、この時期がカンボジアの「時代の分水嶺」であったと評している。
(
3
)1998
年までは2人首相制であったが、1998年総選挙後に1人となった。また、2006年までは連立 政権との共同大臣制がとられていたが、2006年3月をもって同制度は撤回され、フンシンペック党 の閣僚の多くがポストを失った。ただし、人民党とフンシンペック党の連立政権はその後も続い た。(
4
) 国際労働機関(ILO)、カンボジア政府、カンボジア縫製業協会(GMAC)との協力により実施 されたBetter Factory Projectは、協定終了後の2005年以降も、労働環境をモニタリングする仕組みと
して継続されている。(
5
) 福西ほか(2011)によると、カンボジアでは企業の参入・退出は激しく、2003―09
年の間で50%
程度の企業が退出をし、その1.9倍の企業が進出をしており、企業の総数は大きく変わってい ない。(
6
) 総人口は1340万人(2008年人口センサス当時)であるが、20歳以下の若年層が45%を占める。(
7
) カンボジア政府と民間セクターは官民セクターフォーラム(GPSF)にて定期的に意見交換を行 なっている。また日本は、日本・カンボジア投資協定(2007年署名、2008年発効)により、これ とは別に、官民合同会議を実施し、投資環境にかかわる対話を行なっている。(
8
)1997
年の政情不安時には多くの援助資金の供与が停止された。2000年代以降も、2006年には入 札手続きの不正をめぐって、2011年にはコック湖周辺地域開発に伴う住民立ち退きを契機とした 対立で、世銀が資金供与を停止したり、新規融資の凍結をするなどしている(初鹿野2012)
。(
9
) 援助国・機関とカンボジアの援助資金窓口機関である復興開発委員会との対話の場。1996年から開催されてきた支援国(CG)会合を改変し、2007年以降はCDCFを1年半おきに実施している。
会議の場では、援助金額や内容などが話し合われる。
(10)
“Hu pledges millions in aid,” Phnom Penh Post, 2 April 2010.
(11)
2010年 10月以来、サム・ランシー党のサム・ランシー党首は、ベトナム国境がベトナムに有利
に画定されているのではないかとの考えから政府に批判的言動を行ない、国会議員としての不逮 捕特権を剥奪され、国外滞在を余儀なくされている。
■参考文献
福西隆弘・明日山陽子・山形辰史(2011)「市場自由化と低所得国の縫製業―バングラデシュ、カン ボジア、ケニアにおける企業の参入・退出、生産性と利潤の変化」、山形辰史編『グローバル競争 に打ち勝つ低所得国―新時代の輸出指向開発戦略』、研究双書
No. 592、日本貿易振興機構(ジェ
トロ)アジア経済研究所。天川直子(2001)「カンボジアにおける国民国家形成と国家の担い手をめぐる紛争」、天川編『カンボジ アの復興・開発』、研究双書No. 518、日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所。
初鹿野直美(2012)「次の発展段階に向けて―援助と自立」、上田広美・岡田知子編著『カンボジアを 知るための62章』、明石書店。
廣畑伸雄(2004)『カンボジア経済入門―市場経済と貧困削減』、日本評論社。
山田裕史(2011)「1993年体制下のカンボジアにおける開発と政治」、小林知編『市場経済化以後のカン ボジア―経済活動の多面的な展開をめぐって』、京都大学東南アジア研究所。
Jeldres, Julio A.
(2012)“Cambodia’s relations with China: A steadfast friendship,” edited by Pou Sothirak, Geoff Wade and Mark Hong, Cambodia: Progress and Challenges since 1991, Institute of Southeast Asian Studies.
はつかの・なおみ 日本貿易振興機構(ジェトロ)バンコク事務所研究員 http://www.ide.go.jp/Japanese/Researchers/hatsukano_naomi.html [email protected]