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はじめに 盧武鉉政権が最後の年を迎えた。通常

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はじめに

盧武鉉政権が最後の年を迎えた。通常、レームダック現象に陥り、新しい政策イニシア ティブは取りづらい時期である。確かに支持率は依然低迷し、国内政治の関心は年末の大 統領選挙に移っている。しかし、レームダック化に抗うかのように、改憲や米韓FTA(自由 貿易協定)など、国内外政策の土台を揺るがす政策を次々と繰り出し、政局にも影響を与え ている。6者協議の進展いかんでは、南北首脳会談や朝鮮戦争の終結など、「朝鮮半島の平 和体制」への動きが具体化する可能性も少なくない。内外に多くの論争を引き起こした

「盧武鉉外交」の終幕はまだ続いており、その評価にはなお時間が必要かもしれない。

本稿では、主として、対米および対日政策、対外政策のビジョンとしての北東アジア地 域戦略などを中心に、できるだけ盧武鉉政権自らの文書や資料を踏まえつつ、「盧武鉉外交」

の展開過程を概観し、一定の評価を試みたい。

1

「脱冷戦」外交と「米韓同盟」の揺らぎ―「自主」と「同盟」の狭間

マクロ歴史的な文脈で言うと、朝鮮半島は依然として脱冷戦への模索の途上にあり、韓 国の歴代政権は、国内政治、南北関係、対外関係の三つのレベルにおいて、それぞれ「冷 戦型」から「脱冷戦型」への変容という課題に直面してきたと言える。盧泰愚政権の「北 方政策」から金大中政権の対北包容政策に至るまで、方法論の違いはあるものの、構造的 には多くを共有している。その中心に、基盤としての米韓同盟の維持・変容と、韓国自ら の国益に基づく自主的な外交空間の確保とのバランスという難問があった。

1990年代初めのブッシュ

(父)米政権と盧泰愚政権は、韓国の主導による朝鮮半島問題の

局地化という点で利害が重なり、協調の側面が際立った時期であった。クリントン・金泳 三政権期には、対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への関与政策に傾斜する米国と、強硬 論を求める韓国との間に摩擦が絶えなかった。金大中政権の包容政策は、クリントン政権 の関与政策との同調と共振によって可能になったと言ってよい。朝鮮半島の「脱冷戦」プ ロセスをめぐって、それぞれの政権の戦略や利害を背景に、米韓関係は軋轢と協調が交錯 する複雑な展開を示した。対立と協調の構図は必ずしも韓国の政権の「保守」や「進歩」

という区分とは一致しない。米韓関係の争点がイデオロギー的というより、地政学的変容 とも連動した構造的かつ政策的なものであるからにほかならない。

(2)

民主化の潮流から生まれた盧武鉉政権は、内在的にはひときわ強い「脱冷戦」志向をも っていた。しかし、国際環境は以前より厳しくなり、「9・

11」の衝撃の下、ブッシュ・ド

クトリンの米国との間で、「自主」と「同盟」のバランスへの模索は困難を極め、険しい道 のりとなった。

確かに盧武鉉大統領は、大統領選挙の過程で、対米関係における「対等性」にたびたび 言及し、「反米」とも言われた。盧武鉉は、選挙戦終盤の公開討論のなかで、「私が大統領に 選ばれたら、ワシントンに叩頭するようなことはしない。……米韓同盟をもっと水平な関 係、もっと対等な関係にする」と力説したこともあった(1)。しかし、いざ政権の座に就くと、

対米協調を重視する現実路線に転じた。イラク戦争が勃発すると、国内世論の反発を抑え て、即日米国への支持を表明し、翌日には工兵・医療支援団700人の派遣を決定した。就任 直後の訪米時には、「もし米国が韓国を助けなければ、私はいまこの席ではなく政治犯収容 所にいたかもしれない」とまで言い、「反米」という危惧の払拭に努めた(2)。就任早々から 見舞われた北朝鮮核危機の再燃、イラク戦争の開戦など一連の危機のなか、米韓関係の動 揺が韓国の経済にも悪影響を及ぼしている状況が、こうした現実路線への旋回を後押しし た。

こうした過程を経て、2004年

3

月、盧武鉉政権は自らの安全保障戦略をまとめた文書とし て、『平和繁栄と国家安保』(3)を公表した。政権発足

1

年を迎え、国家安全保障会議(NSC)(4)

を中心に数ヵ月の作業の末にまとめたこの文書は、盧武鉉政権のめざす対外政策の考え方 と目標を体系的に提示したものであった。同文書は、「戦略基調」として、①平和繁栄政策 の推進、②均衡的実用外交の追求、③協力的自主国防、④包括的安全保障の志向の4つを掲 げた。「均衡的実用外交」とは、「米韓同盟を根幹としつつも、多国間安全保障対話や協力政 策を並行して発展させる」ことであり、「協力的自主国防」とは、「米韓同盟と自主国防の並 行発展」であるとされた。

「自主」を打ち出しつつ、「米韓同盟」や「実用外交」を強調しているのは、単なるレト リックではなく、盧武鉉政権の現実的なアプローチへの回帰を集約したものとみるべきで あろう。以後、盧武鉉政権の対外政策は概ねこうした「戦略基調」の方向性に沿って進め られた。

2

在韓米軍の再編と「戦略的柔軟性」

在韓米軍の再編と削減問題が、盧武鉉政権期の米韓関係の最初の争点となった。その方 針が韓国側に示唆されたのは、盧武鉉政権がスタートする前であり、金大中政権末期の

2002年11

月、「未来の米韓同盟政策構想」(FOTA: Future of the Alliance Policy Initiative)会議の設 置が提案されたときだったという(5)。さらに、大統領就任直後に在韓米軍の主力である「第

2師団の移転と削減」の方針が非公式に伝えられた

(6)。盧武鉉大統領が就任間もない

2003年

8月 15日の光復節の演説で、

「自主国防」を唱えたのはこうした背景による(7)

以後、2003年

4

月からの

FOTA会議を主な場として、在韓米軍の再編と基地移転が協議さ

れたが、従来からの課題であった龍山基地の移転論議に連動する形で、前線に配備された
(3)

第2師団の後方への移転と削減問題が米国によって追加された(8)。これらの争点は、長期的 には冷戦終結後、1990年初め以来、米国が検討してきた長年の課題であり、直接的には、

ラムズフェルド米国防長官による米軍変革およびイラク情勢の悪化を背景としており、い わば米国の戦略の変化や必要を反映したものであった。しかし、米国側が韓国における

「反米」の高まりをひとつの理由として示唆したことで、韓国国内の不安心理が刺激され、

盧武鉉政権への内外からの揺さぶりとなったのも事実である。

2004― 05

年の一連の交渉を通して、在韓米軍基地の再編と移転は、2008年末まで

2

段階

に分けて進め、在韓米軍の削減については、2008年まで

3段階に分けて、合計 1

万2500人を 削減し、在韓米軍を

2万 5000人体制とすることが合意された。休戦ラインを含め、全国に散

在していた43の在韓米軍基地は、ソウル以南の平沢や南部の大邱など

2

ヵ所の拠点を中心と した16の基地に統合され、総面積は従来の約3分の

1に縮小される

(9)。これによって、休戦 ラインの最前線に配備され、有事の際の米軍の自動的な関与を担保する「トリップワイヤ ー」とされた米軍の地上兵力は後方に退き、全体の規模も漸次削減されることになったの である。北朝鮮の脅威に対する韓国の防衛の主な責任を韓国軍が引き受け、在韓米軍は支 援の役割に限定されることを意味したが、その延長線上で、2006年

10

月、2012年までに現 行の米韓連合司令部を解散し、戦時作戦統制権を韓国軍に完全に移管することが決定され た(10)

さらに、在韓米軍の再編は、将来の米韓同盟のあり方という、より大きな問題を提起す ることになった。そのひとつが「在韓米軍の戦略的柔軟性」、すなわち在韓米軍の役割が朝 鮮半島という地理的範囲を越えて拡大するという問題であった。ラムズフェルド・ドクト リンの下で進められた世界的な米軍再編は、冷戦期の固定駐留型ではなく、世界的な紛争 への機動的な対応を主眼とするものであった。在韓米軍も例外ではなく、従来のような北 朝鮮への抑止だけでなく、北東アジア地域全体の紛争への対応が新たな任務とされた。あ る韓国政府関係者によると、「米国は東南アジアで大規模テロや地域紛争が起こった際に米 韓が合同で介入することも打診してきた」という(11)。しかし、韓国にとって、より深刻な懸 念は、台湾海峡をめぐる米中軍事紛争に巻き込まれる危険性であった(12)

現に、ほぼ同じ時期に進行した在日米軍の再編過程では、2005年

2

19

日、日米安全保 障協議委員会(「2プラス

2」

)が「地域における共通の戦略目標」として、「台湾海峡問題の 平和的解決」や「中国の軍事的透明性の向上」を打ち出すなど、軍事・安全保障の面で、

中国の台頭に備えた日米同盟強化の動きが顕著になっていた。

こうした状況に対して、盧武鉉政権は、大統領自らが先頭に立って、問題提起を行なっ た。2005年

2

月、戦略的柔軟性に関する政府レベルの公式協議を開始するとともに、盧武鉉 大統領は、3月

8日、空軍士官学校卒業式での演説で、

「われわれの意思と関係なく北東アジ アの紛争に巻き込まれることはない」と述べ、「これはいかなる場合にも譲ることのできな い原則」であると明言した(13)。ほぼ

1年間、12回の公式・非公式協議を経て、戦略的柔軟性

問題は、2006年1月19日、ワシントンで開かれた米韓の外相による第

1回戦略対話で、一応

の妥協的な決着をみることになった。「共同声明」のなかで、「韓国は同盟国として米国の世
(4)

界的な軍事戦略の変化を十分理解し、在韓米軍の戦略的柔軟性の必要性を尊重する」こと、

それから、「戦略的柔軟性の履行において、米国は韓国が韓国民の意思と関係なく北東アジ ア地域紛争に介入することはないという韓国の立場を尊重する」ことを明記した(14)。緩や かかつ曖昧な表現ながら、ある種の「事前協議」の原則が示される結果となった。

韓国政府と米国国防総省との間で激しい対立が繰り広げられたこの問題が一応の決着を みるようになった過程では、2005年

6月の米韓首脳会談で、ブッシュ大統領がラムズフェル

ド国防長官の強硬姿勢を抑え、盧武鉉大統領の主張に一定の理解を示したことがひとつの 転機になったようである(15)。米国政府内の意見対立をも視野に入れた盧武鉉外交のひとつの

「成果」とも言えよう。

3

「北東アジア・バランサー」論と「6者協議の常設化」

2005年初め、盧武鉉大統領自らが打ち出し、内外に論争を巻き起こした「北東アジア・

バランサー論」は、こうした文脈から出たものであった。2月25日の就任2周年の国政演説 で、「わが軍は自ら作戦権をもつ自主軍隊として、北東アジアのバランサーとして、北東ア ジア地域の平和を固く守る」と述べて以来、3月中に行なった一連の演説で、「北東アジア のバランサー」という同じ表現を繰り返し、内外に波紋を広げた(16)

もちろんこれらの演説では、「米韓同盟は土台」が前提とされ、韓国の

NSC

が公表した

『説明資料』でも、「米韓同盟は、われわれがバランサーの役割を果たすうえで基本的な土台」

であり、「韓国のバランサーの役割は主として域内国家である韓中日関係で実現される」「米 韓同盟は韓国が域内国家と関係を築くうえで重要なテコであり、バランサーの役割を果た すうえでも不可欠の資産である」と、「米韓同盟」の重要性が繰り返し強調されている(17)

李鍾

NSC事務処長

(当時)の説明によると、「バランサー論」は突然出たものではなく、

「盧武鉉大統領とブレインたちは、昨年〔注:

2004

年〕下半期から、北東アジアの構造、情 勢や、朝鮮半島を中心とした北東アジアの未来のビジョンを集中的に討論してき」たとい う(18)。その際、「問題は米国が構想する北東アジア秩序です。米中摩擦を前提にして北東ア ジアをみていません。北東アジアで統合と連帯の秩序をつくることは米韓同盟の枠内でも 可能です。短期的な米中摩擦で、問題ごとに一方に付き、一方に反対すること」はしない という立場であったという。

さらに、李鍾 は、「米国の一貫した立場は北東アジアに、統合され、安定した秩序をつ くるということです。われわれにそのような意思を伝えてきました。韓国はこれを積極的 に支持し、可能な役割をします。ブッシュ大統領も盧武鉉大統領との間で、中国と共に行 なう統合秩序構築について話をします。盧大統領はライス米国務長官が訪韓した際、『米国 と中国が東アジアで平和的な統合秩序をつくらなければならないと信じている』と語りま した」と述べ、米韓間に、米中協調による北東アジアの地域秩序づくりの可能性と、その なかにおける韓国の役割について、踏み込んだ議論があったことを示唆した。

一般的な表現で、詳細を裏付ける資料はまだ乏しいが、「北東アジアでは当面、平和の共 同体をめざす流れと、日米安保型の同盟を望む流れと、この二つの相反する流れが共存し

(5)

ながら推移する」という韓国政府関係者の発言とも符合する状況認識と言える(19)。つまり、

中国を潜在的脅威として想定した対抗体制づくりとしての「日米韓」の軍事的同盟強化の 動きとは一定の距離をおきつつ、米中協調という、ブッシュ政権内部のもうひとつの動き との連携に韓国自らの利益を見出す構想であった。

その点で、戦略的柔軟性や「バランサー論」をめぐって、米韓関係が表面的には最もギ クシャクしていた2005年ごろから、米韓間に、別の形の戦略的連携を模索する動きが具体 化し、その後、第4回6者協議の共同声明(9月19日)の骨格がつくられていったことは注目 に値する。

在韓米軍の再編をめぐって、米国国防総省との間で厳しいやりとりが続いていた2004年7 月、ライス国家安全保障補佐官が訪韓した際、盧武鉉大統領は、「米国が北東アジアにおい て対決的構図を前提として、韓国にその一方への加担を強いるのは韓国の利害に合致しな い」という立場を明らかにした(20)。「米韓同盟の戦略的問題の論議に集中した」とされるラ イスの訪韓は、日中韓訪問の一環だったが、韓国の潘基文外相との会談で、「6者会議を東 北アジアの安全保障協議の恒久的な枠組みとして発展させる考え」を示したという(21)。ライ ス補佐官は、その後、中国でも「6者協議の常設化」を打診したことが報じられたが、それ は同年4月から、ブッシュ政権内部で進められた検討を踏まえたものであった(22)。断片的な 資料ではあるが、米中間で、北朝鮮の核問題の解決、さらに北東アジアの地域秩序形成を めぐって、踏み込んだ議論が交わされたことを示唆している。

たしかに6者協議は、米国ブッシュ政権にとって、消極的な選択肢として出発したもので あった。船橋洋一が「中国へのアウトソーシング」と表現したように、米国の世界戦略の なかで、副次的な重要性しかもたなくなった朝鮮半島において、米中間の協調を通して、

現状の悪化を防ぎ、米朝間の二国間交渉を避ける方便としての側面が強かった(23)。しかし その一方で、とりわけ国務省などを中心に、6者協議により積極的な意味を付与する考え方 が浮上していたのである。その原型は、1970年代初め、ニクソン・ドクトリンの一環とし て、キッシンジャーが唱えた「クロス承認」や「4大国の共同保障」案(24)にまで遡ることが できるが、いわば大国間の協調によって、朝鮮半島問題を局地化・安定化させるという構 想である。さらに、それによって、米国の軍事的関与の負担を軽減するとともに、朝鮮半 島および北東アジアにおける地政学的構図への米国の影響力の確保をめざす思惑も含むも のだが、基本的に現実的な国益重視の主流派リアリストの発想と言ってもよいであろう。

キッシンジャーからスコウクロフトを経て、ライス国務長官につながる思想的かつ人脈的 な系譜は、こうしたブッシュ政権の政策転換の背景として興味深い(25)

事実、2005年からスタートした第

2

期ブッシュ政権は、米中政策において、協調路線への シフトを強めていた。中国は「戦略的競争者」から「責任ある利害共有者」へと位置づけ が変わり、2005年8月からは、高官級の戦略対話が開始された(26)

6者協議への積極的な取り組みとともに、朝鮮半島の平和体制問題、すなわち朝鮮戦争の

停戦協定の平和協定への転換が具体的な政策課題として浮上した。従来、北朝鮮が一貫し て要求していた争点であるが、2005年半ばごろから、米韓間で本格的な検討が始められた。
(6)

李鍾 によると、韓国政府は2005年から、「6者協議を韓半島の平和体制構築および北東ア ジアの多国間安全保障協力秩序形成の契機として積極的に転換すべきであると判断」し、

「韓半島における冷戦構造の解体」という観点から、平和協定締結の問題を本格的に推進す る方針を定めた。また、「ちょうど同じ頃、平和体制論議に関する米国政府の認識も広がり」

をみせたため、「それを契機に

2005

7

月初めから米韓間に韓半島平和体制に関する初歩的 な意見交換が始まった」という(27)。米国ブッシュ政権内では、2005年

2月、ライスによって

国務省顧問に迎え入れられたゼリコーを中心に、朝鮮戦争の終結と平和協定の締結問題の 検討が進められていた(28)

こうした経緯を経て、「第

4

回6者協議共同声明」の第

4

項で、「北東アジア地域の永続的 な平和と安定のための共同の努力」や「北東アジア地域における安全保障面の協力を促進 するための方策」とともに、「直接の当事者は、適当な別途のフォーラムで、朝鮮半島の恒 久的な平和体制について協議する」ことが明記された。前者が

6者協議の地域安全保障協議

体としての常設化、そして後者が朝鮮半島の平和体制の構築を意味することは言うまでも ない。

以上の経緯が示すように、2005年ごろからは、6者協議を土台とした朝鮮半島問題の包括 的な解決や「冷戦構造の解体」をめぐって米韓間の連携がみられ、同年9月の共同声明の骨 格にもそれが反映された。より正確に言えば、ブッシュ政権内部の交渉派との連携を韓国 側が積極的に模索した「成果」ということになろう。船橋洋一によると、すでに2004年か ら、盧武鉉政権は、米国国務省の交渉派たちが「ネオコン〔新保守主義者〕の前であまりに も無力」であるので、「ホワイトハウスと直結して米政府の北朝鮮政策に影響を及ぼす以外 にないと判断」し、青瓦台主導で、ライス率いる米国家安全保障会議(NSC)との協議を試 み、ライスもそれに応じた結果、2004年

6

月の第3回

6者協議以降は、事実上の「米韓共同

提案」を一連の米国側の案として提示するまでに至ったという(29)

一方、盧武鉉大統領も、6者協議共同声明には朝鮮半島の平和体制や北東アジアの多国間 安全保障体制などの「新しい概念」が含まれており、「韓国が北核問題の解決に最も主導的 な役割を果したときに9・19声明が誕生した」と述べ、韓国の外交的成果という評価を示し た(30)

4

「包括的同盟」としての「米韓同盟」

こうした6者協議の常設化や朝鮮半島の平和体制の論議と並行して、米韓同盟のあり方に 関する検討が本格的に進められた。「米韓同盟の再定義」とも言うべき作業は、すでに米ソ 冷戦終結後の1990年代初めから着手されていた。1993年から

94

年にかけて、新たな米韓同 盟に関する韓国国防研究院と米国ランド研究所の共同研究がそのひとつの例であるが、北 朝鮮の核問題の勃発で本格的な政策協議にはならず、米韓の国防当局の実務レベルによる 検討にとどまっていた(31)。しかし、その後、盧武鉉政権の出帆とともに、FOTAや米韓安保 政策構想(SPI: Security Policy Initiative)などで政策協議が行なわれ、作戦指揮権の返還、在韓 米軍の役割と任務の変更など、在韓米軍の再編・削減に関する協議が主な部分を占めたこ
(7)

とは前述のとおりである。こうした作業が一段落した

2005年ごろから、米韓同盟の将来像

に関するよりマクロな政策協議が浮上することになった。

2005

年11月、釜山でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の際に、慶州で開か れた米韓首脳会談では、「慶州共同宣言」(「米韓同盟と韓半島平和に関する共同宣言」)が発表 され、「21世紀の韓米同盟」のビジョンとして「包括的・力動的・互恵的なパートナーシッ プ」が掲げられた。「慶州共同宣言」では、「韓半島の停戦体制の平和体制への転換」「平和 体制の交渉と6者協議の相乗作用」が強調され、「核問題の解決の際、6者協議の域内安全保 障協議体への発展」に向けた協力が唱えられた。また、米韓同盟の長期的な視点からの議 論の場として、外相レベルの戦略対話(「同盟パートナーシップのための戦略協議」)の定例化 も打ち出された(32)。それに基づいて、2006年

1月 19日、ワシントンで開かれた第 1

回戦略対 話で発表された共同声明では、前述のように、戦略的柔軟性に関する相互の諒解とともに、

今後の米韓間の協力の課題となる「核心的な措置」として、①イラクやアフガニスタンな どにみられるような世界的な民主主義と人権の向上、②対テロ戦争および大量破壊兵器の 拡散防止、③国境を越える感染症の防止、④「北東アジアの平和と安定に寄与し、究極的に 地域の多国間安全保障協力体制につながる可能性のある強力な米韓同盟関係の維持」など が掲げられた(33)。米韓同盟を地域安全保障体制に結びつけた発想は、従来の軍事同盟とは 明らかに異なる方向性を含んでいる。

こうした「米韓同盟の再定義」が具体的にどのような姿に帰結するかはまだ定かではな い。作戦指揮権の返還後の米韓の軍事的連携については現在も協議が続けられており、今 後の朝鮮半島内外の情勢や米国の政策動向に大きく影響される可能性は依然として少なく ない。しかし、盧武鉉政権としては、北朝鮮の脅威への対処や抑止を根幹とし、軍事的防 衛条約に限定されていた米韓関係を、朝鮮半島の平和共存および北東アジアの地域協力と いった「脱冷戦型」の「包括的な同盟」関係へ「発展」させることをめざしていると要約 することができよう。2004年

10月から 2006年 9

月まで行なわれた「米韓同盟ビジョン共同 研究」では、朝鮮半島の南北関係を和解協力と平和共存の二つの段階に分け、平和共存の 段階においても、「米韓同盟が韓半島の平和維持および統一の与件醸成に建設的な役割を果 たす」とされた(34)。さらに、盧武鉉大統領はかつて在韓米軍を「将来的に北東アジアのバ ランサー」として位置づけ、「日本と中国の間に存在する心理的な牽制関係が葛藤や緊張に 発展する危険性があり、こうした問題に対するバランサーとしての米軍の役割は意味があ る」という考えを示したことがある(35)

2006年に入ってから米韓首脳の政治決断とイニシアティブで進められ、2007

4月、1年

足らずの交渉で短期決着となった米韓FTAは、こうした「包括同盟化」への模索の一環と して捉えることができよう。自らの支持勢力を含め、国内の反対が強いなか、「さまざまな 難関を乗り越えて韓米

FTA

が妥結に至るまでには、盧武鉉大統領の意志が最も強力な支柱 となった」(36)という評価が示すように、米韓

FTA

の推進には当初から経済的な動機よりは、

政治的な意図が強く働いていた。締結後、韓国政府関係者から、「経済のパートナーシップ を強化し、軍事同盟に偏った両国関係を補完、多元化する効果」への期待が表明されたり、

(8)

「通商拡大という経済的目的と、安全保障関係の強化という政治、軍事的目的を同時に追求 する『混合目的型

FTA』

」といった評価が出されたりしたのは、韓国側の見方をよく反映し ていると言える(37)。一方、米国側にも同様の発想があったようである。米国議会調査局の報 告書は、米韓FTAの戦略的価値として、①米韓同盟の強化、②朝鮮半島および東アジアに おける中国の政治・経済的な影響力の制御、などを挙げた(38)。「反米」と言われた盧武鉉政 権が最も「親米」的な政策に踏み切ったという逆説は、盧武鉉外交を評価する際に、その イメージや言説ではなく、実態により注目する必要を示している。

5

「対日外交新ドクトリン」の政治と戦略

盧武鉉政権の対日外交は、対米外交以上に揺れた。当初は、以前のどの政権よりも積極 的な対日重視の姿勢を打ち出したと言ってよい。それは基本的に金大中政権の対日政策を 継承するという方向性に基づくものだが、弁護士出身の盧武鉉個人の実用主義的な考え方 も一定程度影響したと考えられる。かつて盧武鉉は、金大中政権期に独島(竹島)を管轄す る海洋水産部長官に任命されたとき、「独島問題は感情的に解いてはだめだ」と語り、国際 法など国際的な基準による理性的な解決を強調したことがある(39)。単なるリップサービスで はなく、事実、彼は在職中、現職長官としての独島訪問など、問題の政治化には反対した ことで知られる。さらに、盧武鉉政権が志向した「脱冷戦」外交戦略としての北東アジア 地域構想の観点からも、対日関係の強化は必要であった。とりわけ、対北朝鮮政策の面で、

強硬なブッシュ政権へのバランサーとして、訪朝を実行した小泉政権に強い期待を寄せて いた。盧武鉉が就任以前から強調していた「未来志向」はそのような戦略的期待が込めら れたものとして捉えるべきであろう。

2003年 2月の大統領就任式後に小泉純一郎首相と会談した盧武鉉大統領は、日韓関係にお

ける「未来志向」を強調し、過去の問題にこだわらない姿勢を打ち出した(40)。当時、小泉 首相の靖国神社参拝問題で金大中政権末期の日韓関係がギクシャクしていた状況を考える と、国内政治的には必ずしも「人気」がある政策ではなく、ある種の政治的決断であった と言ってよい。就任後も対日重視の姿勢は続き、

2004

年7月、済州島での日韓首脳会談では、

シャトル首脳会談の定例化に合意するとともに、盧武鉉自ら、過去の歴史問題について、

「自分の任期中には公式には提起しない」とまで言明した。当時、韓国国内ではかなり批判 された発言だが、盧武鉉大統領としては、自らが積極的な姿勢を示すことで、日本の自発 的な改善策を促すとともに、対北朝鮮政策や6者協議で、同年

5

月に再訪朝を果たした小泉 政権との連携を強化したいという意図があったと思われる。事実、歴史問題に関する上述 の発言は「一方的な譲歩」ではなく、「(小泉総理の)代替追悼施設の検討の約束」に触れ、

「日本国内からの知恵ある解決策」を期待するという文脈から出たものであった(41)

しかし、こうした対日重視の姿勢は、皮肉にも日韓国交正常化

40周年にあたり、

「日韓友 情年」と名づけられた2005年に入り、強硬政策へと急転換を遂げることになる。その直接 の契機は、小泉首相の靖国参拝の継続に加えて、2月の島根県の「竹島の日」条例制定の動 きであった。韓国内で反発が高まるなか、盧武鉉大統領は、3月

1日、3

1独立運動の記念

(9)

式典の演説で、「過去の真実を糾明し、心から謝罪、反省し、賠償するものがあれば賠償し、

和解しなければならない」と述べ、従来の方針からの転換を明らかにした(42)

3

17日には、

より具体的な措置として、NSC常任委員会の名義で、歴史問題での反省と謝罪の要求、独 島の領有権強化などを盛り込んだ「韓日関係の基調と対応方向」を発表し、「対日外交新ド クトリン」と名づけられた(43)。さらに、3月

23日には、盧武鉉大統領自らが、インターネッ

トを通して、国民向けの談話を直接発表し、「日本との厳しい外交戦争をも辞さない」とす る超強硬姿勢を打ち出した(44)。異例とも言える厳しい展開には、当初の対日批判について、

「国内事情」とした小泉首相の論評への感情的な反発も大きく影響した(45)

しかし、こうした劇的とも言える転換を説明するためには、「歴史」や「領土」に加えて、

より重要な要因として、日韓間に広がりつつあった「戦略」的方向性の違いにも注目する 必要がある。対日政策の転換は、戦略的柔軟性をめぐって米韓間に軋轢が生じ、「北東アジ ア・バランサー」論が唱えられた時期とも重なる。中国に対抗する日米間の軍事的連携が 強まる一方、日朝関係においても、2004年

12月、横田めぐみさんの遺骨問題を契機に、日

本政府は強硬姿勢に転じた。

2006年 4月、独島付近海域の測量問題をめぐって、日韓が対峙し、緊迫した状況が表われ

た際、韓国のメディアには、日本の保守派を中心とした戦略的な動きとして警戒する論調 が多くみられた(46)

対米関係とは違って、対日政策では、盧武鉉政権は初期の「親日」から「反日」へと大 きく反転した。ここでも対北朝鮮政策など、戦略的な利害関係が重要な要素であったが、

歴史や領土問題が絡み、しかも大統領自らが先頭に立ったことで、争点がより感情化・理 念化し、政策の転換が実態以上の激しいブレとして誇張される結果を招いた。

6

「北東アジア」地域戦略の構想と限界

最後に、盧武鉉政権が自らの外交戦略の枠組みであり、長期戦略のビジョンとして打ち 出した「北東アジア時代」構想について簡単に検討したい(47)

盧武鉉政権は、以前の政権に比べて、地域戦略を体系的に打ち出した点で特徴的である。

新しい外交の土台を築くという意気込みにも裏打ちされたものだが、就任早々から、「平和 と繁栄の北東アジア時代」構想を「核心国政課題」のひとつとして掲げ、2003年

4

月、大統 領直属の「北東アジア経済中心(ハブ)推進委員会」を設置した。当初は、北朝鮮を視野に 入れた北東アジアの物流・輸送インフラストラクチュア整備やエネルギー開発など経済協 力に主眼があったが、2004年

6

月、「北東アジア時代委員会」に改組され、政治・外交分野 にまで範囲が拡大した。

北東アジアを対象にした地域戦略を打ち出したのは、盧武鉉政権が初めてではない。米 ソ冷戦が終結に向かうなか、「北方政策」を進めていた盧泰愚政権は、その延長線上で、

1988年 10

月の国際連合総会で「北東アジア平和協議体」を提唱し、金泳三政権は「ミニ

CSCE

(欧州安保協力機構)」や「北東アジア安全保障対話」(NEASED)などの構想を提示し た。これらが主として北朝鮮問題の解決を主眼としたものであったのに対して、金大中政
(10)

権は東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス

3

を舞台に、「東アジア共同体」構想の進展にイ ニシアティブを発揮し、一定の成果を上げた(48)。盧武鉉政権期に、再び地域戦略の重点が 北東アジアに戻った形であるが、短期的には、第

2次朝鮮半島核危機の最中、地域協力によ

って北朝鮮問題を安定化させ、中長期的には、北東アジアにおける地政学的な変容のなか で、朝鮮半島の平和共存と統一に向けた域内の環境づくりをめざす構想であったと要約す ることができよう(49)

1980年代末の米ソ冷戦終結以後、韓国の歴代政権がその政治的立場の「左右」を問わず、

北東アジアもしくは東アジアにおいて、「脱冷戦型」の地域主義戦略を打ち出し、地域協力 の制度化をめざしたことは、それが韓国の「国益」に合致するからにほかならない。盧武 鉉政権の場合、その潮流を踏まえつつ、状況の切迫性を背景に、より体系的かつ現実的な 地域構想の提示と展開をめざしたと言える。その際、政策手段として期待されたのは、鉄 道など物流・輸送インフラやエネルギー開発を中心とした具体的な経済協力プロジェクト であった。その意味で、北東アジア時代構想は、典型的な機能主義の考え方に基づいた戦 略であった。

ところが、野心的な構想として提唱された北東アジア戦略だが、それ自体としては具体 的な外交政策に結実することはなく、依然としてビジョンやスローガンの次元にとどまっ ていると言わざるをえない。期待された鉄道連結やパイプライン建設などにも具体的な進 展はみられない。

その実現を阻む最大の障害が北朝鮮の核問題であることは言うまでもない。別言すれば、

北朝鮮を含め、関係国の利害が鋭く対立する安全保障問題において、韓国の提唱した地域 的経済協力の構想は、それ自体として局面を転換するには力不足だったということになろ う。ASEANプラス

3を舞台に、韓国が一定の外交的イニシアティブをとることが可能であ

った「東アジア共同体」構想とは異なり、各国の安全保障戦略が激しくぶつかり合う北東 アジアでは、韓国の戦略構想がもちうる影響力には自ずと限界があったと言うべきであろ う。

7

「盧武鉉外交」の評価と問題点

以上の考察を踏まえて、「盧武鉉外交」の特徴や問題点を中心に、評価を試みたい。まず 第一に、盧武鉉政権の外交政策は、その「言葉」ではなく「行動」に注目した場合、従来 の韓国の外交との「断絶」よりは「連続」の側面が強いという点を指摘しなければならな い。とりわけ、対米関係の摩擦要因となり、従来とは違う「反米」政策とみなされた「自 主国防」や作戦指揮権の返還などは、1980年代末以来、米ソ冷戦終結という国際情勢の変 容を受けて、歴代の韓国政府が進めてきた政策志向でもあった。在韓米軍の戦略的柔軟性 の問題は新たに浮上した課題だが、米国によるミサイル防衛への不参加を決めた金大中政 権の姿勢につながるものと言えよう。こうした政策志向の連続性は「国益」の観点から考 えた場合、韓国政府のとりうる選択肢が構造的に制約されていることを意味する。盧武鉉 政権は、在韓米軍の再編・削減や6者協議など、朝鮮半島をめぐる情勢が具体的な変化を示

(11)

し始めた時期と重なったため、「脱冷戦」という課題の顕在化に対して具体的な政策的対応 を迫られたとも言える。例えば、作戦指揮権の完全な返還は、朝鮮半島の平和体制論議に おいて、韓国の「当事者性」を確保するためには欠かせない措置でもあった。

第二に、とりわけ米韓関係において、「失敗」や「破綻」のイメージが先行したが、実際 には6者協議の進展で、米国の政策転換に一定の役割を果たすなどの「成果」を上げたこと は評価に値する。米韓対立の争点は、米国のネオコンや軍部強硬派との軋轢に起因する場 合が多く、国務省などの交渉派とはむしろ協調や連携がみられた。その具体的な中身は今 後の課題だが、「冷戦型」の軍事優先の米韓同盟を「脱冷戦型」の「包括的な同盟」に拡 大・変容させるという方向性は、韓国にとって、妥当な選択と言えよう。

しかし、「盧武鉉外交」は多くの問題点を示した。まず、第一に、その外交スタイルの問 題として、政策の説明における理念的表現の多用と、大統領自らの過度の直接関与を指摘 することができる。多くの政策は、実際には過去との連続性が強い実用的な選択肢であっ たにもかかわらず、盧武鉉大統領および政権はその説明や正当化に際して、極端な表現や 用語を駆使する傾向が強くみられた。しかも、「北東アジア・バランサー」や「政治犯収容 所」の例にみられるように、事前の準備や説明なしに大統領自らの発言が突出した形で表 明されたことで、政策のブレを実態以上に際立たせ、混乱や批判を招いたことは否定でき ない。

第二の問題点として、外交の実行過程で、日米をはじめ、主要国との間で、ハイレベル の政治的な信頼関係やチャンネルを築くことに失敗した点が挙げられる。韓国社会の「世 代革命」の産物として誕生した政権であり、既得権の外側から生まれたことが政権の存在 意義であった状況に鑑みると、未熟さや未経験に起因するやむをえない問題とも言える。

しかし、政権の座に就いた後も、有効な外交資源を活用し、緊密な政治的関係を築くこと ができず、政権レベルの外交イニシアティブも具体的なアジェンダ中心の実務的な関係に とどまる場合が多くみられた。「盧武鉉外交」に対する国内外の不安感を増幅させた一因で もあった。

朝鮮半島の第

2次核危機の最中にスタートした盧武鉉外交は、危機の悪化を防ぎつつ、6

者協議の枠組みの下、朝鮮半島の「脱冷戦」を制度化する段階の入り口にたどり着いた。

その最終的な評価は、今後6者協議が予定したさまざまな枠組みがどのような形で実現され ていくかにもかかっている。

1) 船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン―朝鮮半島第二次核危機』、朝日新聞社、2006年、

348ページから再引用。

2 20035月12日「コリアソサイエティ招請晩餐演説」『青瓦台ブリーフィング』(韓国大統領 府・青瓦台のホームページ、http://www.president.go.kr/)

3) 国家安全保障会議『平和繁栄と国家安保―参与政府の安保政策構想』、20043月1日、53 ページ。韓国政府の国政広報処のホームページ『国政ブリーフィング』(http://korea.kr/newsWeb/

appmanager/portal/news)から検索可能。「参与政府」とは、盧武鉉政権が自らを指すときの公式 用語。1990年代の民主化以来、それぞれの政権が自らの特徴を強調するという意図もあって、公

(12)

式の別称を用いることが慣例となり、金泳三政権は「文民政府」、金大中政権は「国民の政府」と 呼ばれた。

4) 盧武鉉政権期の国家安全保障会議の構成や役割などについては、室岡鉄夫「韓国大統領の外交・

安全保障政策補佐機構―盧武鉉政権のNSCを中心に」『防衛研究所紀要』第7巻第2・3合併号

(2005年3月)、31―51ページを参照。

5)『中央日報』2004年5月29日。黄ビョンム「協力的自主国防はいかに可能か」『新東亜』2004年7 月号から再引用。

6) 船橋洋一、前掲書、389ページ。

7) 黄ビョンム、前掲論文。

8 FOTA会議は、2003年3月から04年9月まで、都合12回開催され、在韓米軍の再編問題が議論さ れた。その当面の作業が一段落した後、FOTA会議を格上げし、米韓同盟の将来的な方向性に関す る政策協議の場として、2005年2月からSPI会議が開催された(『外交白書2005年』、韓国外交通商 部、2006年、41―42ページ;『外交白書2006年』、韓国外交通商部、2007年、45―46ページ。

9)『国防白書2006年』、韓国国防部、2007年、142―151ページ)

(10) 戦時作戦権の移管に関する韓国政府の見方や説明については、2006年12月19日「国政ブリーフ

ィング10大政策ニュース①戦時作戦権の返還合意」『国政ブリーフィング』。韓国政府の資料が戦

時作戦指揮権の移管について、「自主国防への意志と力量の象徴」と力説しながらも、作戦指揮権 の移管問題がすでに1990年代初めの盧泰愚政権期から進められた懸案であり、米国の軍事戦略の 変化が背景にあることを強調し、「米韓両国の長年の課題であり、韓国政府の要請によるものとい うより、米国議会や政府の必要によって提起された性格が強い」と述べている点は興味深い。

(11) 面川誠「北東アジアの多国間協力に踏み出す韓国の外交政策」『前衛』2005年1月号、222ページ。

(12) 船橋洋一、前掲書、403ページ。

(13) 2005年3月8日「空軍士官学校卒業式演説」『青瓦台ブリーフィング』

(14) 2006年1月20日「韓国民の意思と関係ない地域紛争には介入せず」『国政ブリーフィング』『外

交白書2006年』、47ページ。

(15) 船橋洋一、前掲書、404ページ。盧武鉉大統領は、2006年8月の「ノサモ」(盧武鉉大統領の支持 者グループ)の集会でも、同様の趣旨のことを述べたという。

(16)「3・1節記念辞」(3月1日)「空軍士官学校卒業式祝辞」(3月8日)「陸軍第3士官学校卒業式 祝辞」(3月22日)など、一連の演説文は、『青瓦台ブリーフィング』に掲載されている。

(17) 国家安全保障会議事務処『東北アジア均衡者説明資料』(2005年4月)、6ページ。

(18)「問題インタビュー―バランサー論核心ブレイン、李鍾 NSC事務処長」『中央日報』2005年4

14日、日本語訳は、「韓国のバランサー論とは何か」『世界週報』2005年7月12日号、28―31

ージ。

(19) 面川誠、前掲論文、222ページ。

(20)『国民日報』2005年3月31日;孔義植「盧武鉉政権の『北東アジア時代』構想に関する考察」『政 経研究』(日本大学法学会)第43巻第3号(2006年12月)、303ページ。

(21)『世界日報』2004年7月10日;『文化日報』2004年7月22日。

(22) ライスの対中提案については、『日本経済新聞』2004年11月19日、ブッシュ政権内部の検討につ いては、『朝日新聞』2004年4月22日(夕刊)を参照。

(23) 船橋洋一、前掲書、489―490ページ。

(24) 日米と中ソがそれぞれ南北コリアをクロス承認し、朝鮮半島の平和共存を日米中ソが共同で保障 するという構想を指す。

(25) ライスを抜擢したのはブッシュ(父)政権のスコウクロフト(B. Scowcroft)元国家安全保障担 当大統領補佐官であり、そのスコウクロフトはキッシンジャー元国務長官の補佐官を務めたこと

(13)

がある。李鍾元「ライス国務長官は六者協議を打開できるか」『論座』2005年1月号、66―67ペー ジ;James Mann, Rise of the Vulcans: The History of Bush’s War Cabinet, New York: Penguin Books, 2004, pp. xi, 65―66, 336.

(26) 船橋洋一、前掲書、501―503ページ。

(27) 李鍾 「2・13合意と韓半島冷戦構造の解体」『情勢と政策』(世宗研究所)131号(2007年4月) 2ページ。

(28) David E. Sanger, “U.S. Said to Weigh a New Approach on North Korea,” The New York Times, May 18, 2006.

ゼリコー(Philip D. Zelikow)は、ブッシュ(父)政権期に、ライスとともにNSCでソ連東欧政策 を担当した。

(29) 船橋洋一、前掲書、573―600ページ。

(30) 2006年12月21日「第50回民主平和統一諮問会議常任委員会演説」『青瓦台ブリーフィング』

(31) 2006年12月19日「韓半島の平和と安全は私たちの力で」『国政ブリーフィング』

(32)『外交白書2006年』、74―75ページ。

(33) 2006年1月20日「韓国民の意思と関係ない地域紛争には介入せず」

(34) 2007年1月30日「韓米同盟は変化・発展している―包括的、力動的、互恵的な同盟へ」『国政 ブリーフィング』

(35) 2002年10月31日「東アジア経済協力のための国際フォーラム招請講演」『青瓦台ブリーフィン

グ』

(36)『朝鮮日報』2007年4月2日。

(37)『ハンギョレ新聞』2007年4月2日;『東亜日報』2007年4月2日。

(38)『ハンギョレ新聞』2007年4月2日;CRS Report for Congress, “The Proposed South Korea-U.S. Free Trade Agreement(KORUS FTA),” February 20, 2007, pp. 1―2, 28.

(39) 盧在賢「盧武鉉、李会昌両候補の対日政策」『世界週報』2002年7月9日、12―13ページ。

(40)『アジア動向年報2004』、アジア経済研究所、2005年、51ページ。

(41) 2004年7月22日「日韓首脳共同記者会見」『青瓦台ブリーフィング』

(42) 2005年3月1日「第86周年3・1節記念辞」『青瓦台ブリーフィング』

(43) 2005年3月17日「NSC常任委員会声明文」、統一部報道資料(http://www.unikorea.go.kr/index.jsp)

(44) 2005年3月23日「韓日関係に関連し、国民に捧げる文」『青瓦台ブリーフィング』

(45) 小泉首相の発言に対して、青瓦台では「侮辱だ」と激高する声も出たという。『朝日新聞』2005 年4月2日。

(46) 例えば、「安倍官房長官が脚本・演出」『朝鮮日報』2006年4月20日。

(47) 盧武鉉政権の「北東アジア時代」構想に関する韓国政府の資料は、東北アジア時代委員会のホー ムページ(http://www.nabh.go.kr/)に詳細に掲載されている。日本語文献としては、前掲の面川誠、

孔義植らの論文のほかに、中戸祐夫・浅羽祐樹「盧武鉉政権下のナショナル・アイデンティティ をめぐる国内論争―韓国のおける『東北アジア』地域構想」『宇都宮大学国際学部研究論集』第 20号(2005年)、29―36ページ。

(48) 李鍾元「韓国の東アジア地域戦略」、進藤栄一ほか編『東アジア共同体を設計する』、日本経済評 論社、2006年、192―199ページ。

(49) 東北アジア時代委員会『参与政府の東北アジア時代構想』(2006年12月14日)、7―22ページ。

リー・ジョンウォン 立教大学教授 [email protected]

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