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第十一章 日本の安全保障政策と日米同盟 ―冷戦後の展開と今後の課題

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第十一章 日本の安全保障政策と日米同盟

―冷戦後の展開と今後の課題

神谷万丈

はじめに

ベルリンの壁の崩壊から、既に21年以上になる。この間、日米同盟はいかなる展開をみ せ、激動の続く2010年代の入り口において、いかなる課題に直面しているのか。

この問いに答えるためには、まず、冷戦後の日本の安全保障政策がどのように展開して きたのかを知らねばならない。日米同盟は、サンフランシスコ講和条約と同日(同条約の 締結より数時間前)に結ばれてから今日まで、一貫して日本の安全保障政策の基軸とされ、

そのあり方は、日本の安全保障政策のあり方によって大きく規定(あるいは制約)されて きたからである。

以下にみるように、冷戦後の日本の安全保障政策の展開は、日本の戦後平和主義に内在 した2種類の消極性が、同時並行的にではあるが異なる要因により別々に(不完全に)克 服されていく過程としてとらえるのが適切である。冷戦後の日米同盟は、冷戦期と比較し てさまざまな点で発展・深化してきたと言われるが、以下の分析が示すように、その度合 いは、2種類の消極性の克服の程度に見合ったものにとどまっているとみることができる。

Ⅰ.冷戦後の日本の安全保障政策の展開 1.戦後平和主義に内在した2種類の消極性

日本の戦後平和主義に内在した消極性の第1は、「平和のために行動する意思」の欠如で あった。そして第2は、「平和のために軍事力を『使う』意思」の欠如であった。

敗戦に打ちひしがれた国民に対し、日本の指導者が、平和国家あるいは平和主義という 言葉で新生日本の国家像を語り始めたのは驚くほど早かった。昭和天皇が、「朕ハ・・・平 和国家ヲ確立シテ人類ノ文化ニ寄与セムコトヲ冀ヒ日夜軫念措カス」と述べたのは、降伏 わずか20日後の1945年9月4日、第88回臨時帝国議会の「開院式ノ勅語」においてであっ た。翌年元旦の天皇の「人間宣言」や、同時に出された幣原喜重郎首相の談話でも、平和 主義に徹して新日本を建設する意向が表明された。

軍部の暴走により国土が灰燼に帰した経験から、国策の手段としての軍事力の有効性と 正統性に強い不信感を抱くようになった日本国民は、指導者のこうした姿勢を歓迎した。

吉田茂は、敗戦直後の書簡に、「軍なる政治の癌切開除去」ができるなら「此敗戦必ずしも

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悪からず」と記したが、軍国主義の打倒は、当時の日本人の最も切実な希望であった。平 和主義に徹する平和国家という国家像は、その願いに合致したのである。

以来、「平和国家」は、日本が一貫して掲げ続ける看板となった。経済大国となった国は 遠からず軍事面でも大国化を志向するというのが、従来の国際政治の常識であったが、日 本は、長年にわたってそうした予想を裏切り続けた。軍事大国ではない平和主義的な大国 の存在可能性を身をもって示してきた日本の選択は、それ自体として世界平和への顕著な 貢献であり、対米軍事依存の持続化による外交的自立性の制約といった代償を考慮に入れ ても、基本的には決して間違ったものではなかった。

だが、冷戦後の世界の激動の中で、日本国民は、平和国家としての日本の歩みの中に、2 種類の深刻な欠陥が内在していたことに気づかされていく。それが、筆者のいう「2 種類 の消極性」である。

第1に、戦後日本の平和主義には、日本自身が平和のために行動するという意思が欠如 していた。

敗戦直後の日本人にとって、平和国家とは、軍国主義を否定するための概念に他ならな かった。平和国家になるということは、二度と国家的野心のために武力を濫用せず、平和 破壊者にならないことと同義だと理解された。狭義の自衛のための最小限度内でしか武力 を用いない方針を貫くことこそが、新生日本の世界平和への最大の貢献だと考えられた。

だが、平和国家たろうとする国に対し、国際社会はやがて、自らが平和破壊者にならない という消極的な貢献以上のものを求めるようになる。それは、平和のために積極的に行動 する意思である。

確かに、戦後久しく、国際社会は、日本に自衛への専念を求めた。だが、日本軍国主義 復活の懸念が薄らぎ、その経済力が大国並みになると、国際社会の要求も徐々に変化した。

冷戦終結までには、世界の大勢は、日本に経済力相応の平和への貢献を求めるようになっ ていた。だが日本人は、それに気づかぬままに湾岸危機を迎えてしまう。自国から遠い紛 争への積極的関与を世界が要求するという予想外の事態に動転した日本は、危機の解決に 130 億ドルは拠出したが人的貢献をほとんど行えず、金を出す以外何もしなかったとの厳 しい国際的批判を浴びた。

第2に、戦後日本の平和主義には、平和を構築・維持する上で軍事力には不可欠の役割 があり、平和を求める国家には時として軍事力を「使う」意思も求められるのだという点 に関する認識が欠如していた。

先にふれたように、無謀な戦争による敗戦・占領を経験した日本人は、国策の手段とし ての軍事力の有効性と正統性に強い不信感を抱くようになったが、それは、日本の外交・

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安全保障政策は軍事的手段への依存をできるだけ小さくすべきであるという考え方につな がった。そして、そのためには、日本は、国際関係におけるパワー・ポリティクス的な側面 からは極力距離を置き、自国の領域外での紛争に対する関与も非軍事的な分野に限るべき だとされた。

トーマス・バーガーが論じているように、戦後日本の平和主義は、ほとんど「反軍事主 義」に近いものであった1。戦後の日本人は、全ての軍事的なるものに対して極端なまでの 警戒心を示した。そのため、戦後の日本人の間には、たとえ日本自身の防衛のためであっ ても、日本は軍事力への依存を極力避けるべきだという特異な考え方もみられた。

だが、現実には、力によって下支えされない平和や秩序というものは存在し得ない。軍 事力には、平和を壊す道具にもなるが、平和を守るためにも不可欠だという二面性がある。

この常識にのっとって、国際社会は、経済大国となった日本に対し、平和のために正当な 国際的活動には自衛隊の派遣を含め他国と同質の貢献を、軍事面も含めて行うよう求める ようになった。また、米国も、日米同盟の中での日本の軍事的役割の拡大要求を徐々に強 めていったのである。

2.2種類の消極性の(不完全な)克服過程としての冷戦後の日本の安全保障政策の展開 冷戦後の日本の安全保障政策は、これら2種類の消極性に対応した

①国際平和への日本の貢献の積極化(以下「第1の積極化」)

②平和のための軍事力の役割という発想の回復(以下「第2の積極化」)

という2種類の「積極化」が展開されてきた過程としてとらえることができる。だが、こ こで注意しなければならないのは、これら2種類の積極化が、同時並行的にではあるが、

それぞれ異なった要因によって別個に展開してきたのだという点である。端的に言えば、

冷戦後20余年の間に、「第1の積極化」は相当に進展したが、「第2の積極化」に関しては、

進展は限定的である。国際平和への日本の貢献の積極化は、平和のための軍事力の役割を 日本が積極的に認め始めたということを、決して意味してこなかったのである。

(1)湾岸の衝撃と「第1の積極化」

「第1の積極化」をもたらした最大の要因は、いうまでもなく湾岸戦争の衝撃であった。

合計130億ドルもの巨額の財政支援を行ったにもかかわらず、湾岸戦争終結後に日本が受 けたのは、金を出す以上のことは何もしなかったという国際社会の厳しい批判であった。

この事実が日本の政府と国民に等しく大きな衝撃を与え、湾岸戦争後の日本では、世界平 和のための日本の能動的役割(「国際貢献」)を模索する動きがにわかに盛んになった。そ

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の結果、湾岸戦争終結からわずか1年半足らずの92年6月には国際平和協力法が国会で可 決され、国連PKOなどへの自衛隊の派遣が可能になった。

自衛隊を国際平和のために活用するという発想に対し、日本国民は、当初はかなりのた めらいや抵抗感を示した。また、自衛隊のPKOへの派遣が東アジア諸国の対日警戒感を呼 び起こすのではないかという懸念も、政府や国民の間に根強かった。しかし、①各地に派 遣された日本の自衛隊員が誠実に任務を遂行し、国連や地元住民から高い評価を受けたこ と、②東アジア諸国からも国際平和への日本の貢献を肯定的に評価する声が多く聞かれ、

日本軍国主義復活といった批判はごく少なかったこと、といった状況をみて、日本国民の 間には、国連PKOや国際的な人道救援活動のために自衛隊を海外に派遣することについて は、早期に幅広い合意が成立した。

こうして、湾岸戦争の衝撃は、日本の安全保障政策に、国際平和に対して自国領域を越 えて積極的・能動的な貢献を行うという、それ以前には全くみられなかった要素をつけ加 えた。しかし、ここで重要な点は、湾岸戦争の衝撃は、戦後日本人の抱く「反軍事主義」

的な感情には、必ずしも大きな変化をもたらさなかったということである。湾岸後の日本 人は、日本の「国際貢献」を強化するために自衛隊を海外に派遣し、PKOなどの活動に従 事させることには同意を与えた。しかし、当初は同時に、その活動内容が武力行使や戦闘 参加とは厳密に一線を画すことを、やや神経質なほどに望んだのである。そのことを最も はっきりと示していたのは、92年6月の国際平和協力法の内容であった。同法では、自衛 隊のPKO参加に対し、国際的にみてすこぶる特異な条件がつけられていた。後方支援部門 を除く平和維持軍(PKF)の「本体業務」(停戦監視、緩衝地帯駐留、武器搬出入検査、武 器の処分、捕虜の交換等)への自衛隊の参加凍結の他、PKO参加5原則に基づき、武器使 用を要員の生命などの防護目的に限定。武器や弾薬を守るための武器使用も認めなかった。

もとよりPKOでは武力行使は自衛の場合に限られるが、国際的には、「自衛」とは、要員 の生命などの防護に加え、PKO活動への武力による妨害の排除を含むとされる。日本の規 定では、自衛隊は他国のPKO要員などが攻撃されても武器使用ができないとされていたた め、国際的な批判が少なくなかった。ところが、日本では、こうした批判に応えようとす る声はいっこうに高まらなかったのである。

(2)北朝鮮問題と「第2の積極化」

このように、湾岸戦争以降の日本の国際貢献の積極化の流れは、戦後日本人の「反軍事 主義」的な態度に修正を迫る直接的な要因にはならなかった。そのような要因は、90年代 の半ば近くになって、全く他のところから浮上してくることになった。一連の「北朝鮮問

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題」がそれである。1993年から 94年にかけて、北朝鮮の核開発問題と弾道ミサイル開発 問題が同時にとりざたされたことで、日本人は、北朝鮮を自国に対する安全保障上の脅威 と認識し始めることになった。1998年8月のテポドン発射は、大多数の日本人にとっては、

自国が外敵の攻撃を受ける可能性をさし迫ったものとして実感させられた戦後最初の出来 事であった。テポドンは、「日本にとってのスプートニク」だったのである2

北朝鮮問題は、日本の安全保障政策にとって、湾岸戦争とならぶ主要な転換要因として の役割を果した。国の防衛のためには軍事力に頼らなければならない場合があるのだとい う至極当然の事実から、戦後の日本人は長く目をそらそうとしてきた。しかし、北朝鮮の 核やミサイルの脅威を実感したことで、日本人は、行き過ぎた反軍事的感情は国の安全を 危うくするものだということを理解し始めたのである。その結果、日本人の安全保障に対 する考え方や発想は、それまでに比べて著しく「普通化」した。たとえば、それまでは政 治的に不可能と考えられていた情報偵察衛星の導入が、テポドン発射以降急速に国民の理 解と支持を獲得したのは、その一つの典型的なあらわれであった。また、北朝鮮の核やミ サイルの脅威を前にした日本人の間では、「専守防衛」の防衛態勢に内在する弱点も実感さ れ始めた。「専守防衛」には、大前提となる2つの考え方がある。第1は、日本が防衛力を 行使するのは、外敵が実際に日本を攻撃した後に限るべきだということである。第2は、

専守防衛の方針を守るためには、日本は「攻撃的兵器」の保有を一切控えるべきだという ことである。

第1の点については、想定されている外敵の侵略が、部隊を日本に派遣しての着上陸侵 攻という形をとると想定されていた冷戦期には問題が少なかったが、北朝鮮のような行動 の予測可能性の低い国が大量破壊兵器と弾道ミサイルで日本を射程に収めた場合には、修 正が必要なのではないかとの議論がみられるようになった。第2の点についても、主に抑 止力という観点から疑問が呈されるようになった。この方針が堅持される限り自衛隊の攻 撃能力は厳しく制約され続けることになるが、一定程度以上の信頼できる攻撃能力がなけ れば、日本は、核兵器とミサイルで武装した敵性国からの攻撃に対し、自力では報復さえ できないということになるからである。自前の報復力が欠如した状況では、日本は、その ような国からの攻撃を自力で抑止することもできない。また、こうした状況では、日本は、

そのような国からの攻撃を未然に防ぐこともできないという点も問題にされるようになっ た。敵のミサイル基地等への攻撃は、日本に対する攻撃が切迫している場合には合憲とす るのが従来からの政府見解であるが、そうした法律論は、日本にそのような攻撃を実行す る能力が欠けている現状ではあまり意味を持たないからである。

かくして、一連の北朝鮮問題が、日本人に、平和のためには軍事力が必要とされるとい

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う発想を急速に回復させたことは確かである。だが、そこには明白な限界もみてとれた。

日本国民は、「日本の安全を守るための軍事力の役割」は認め始めたが、「日本の領域を越 えた国際平和のための軍事力の役割」を認めることには積極的にならなかったのである。

それは、前述した国際平和協力法の問題点を改めるべきだという声がいっこうに高まらな かったことに最もはっきりと示されていた。

また、たとえ日本の安全を守るためであっても、日本が他国(実際にはもっぱら米国)

と協力して軍事力を活用することについては、日本人は躊躇する姿勢を崩そうとはしな かった。北朝鮮問題の深刻化に伴い、日本の安全にとっての日米同盟の重要性が大多数の 国民によってかつてなく受け容れられるようになったにもかかわらず、日本は集団的自衛 権を国際法上保有しているが憲法上行使できないという従来からの政策の変更を求める声 は、依然として少なかったのである。

3.9.11テロ後の展開――消極性の克服の一層の進展と限界

9.11テロは、国際平和のために日本も国力相応の貢献をしなければならないとの日本国 民の意識をさらに一段と高める効果を持った。事件をきっかけに、日本人は、日本に直接 関係がないように見える地域の安全保障問題が日本の安全に直結する可能性のある問題な のだということについて、従来以上の理解をみせるようになった。日本人がそれまで当然 のごとく享受してきた現在の世界秩序の崩壊を望む勢力が、実際にこの世界に存在し、国 際社会が協調して手を打たなければ、9.11テロのような惨事を再び引き起こしかねないと いう危機意識が生まれたからである。その結果、日本国民は、自国が国際平和協力の中で

「役割を果す」ことを当然視するようになり、そのための自衛隊の派遣も従来以上に容認 するようになった。インド洋、イラク、スーダン、ハイチなど、従来ならば考えられなかっ た遠い国や海域に自衛隊が派遣され、国民の大多数がそれを支持したことが、この「第 1 の積極化」のさらなる進展をはっきりと示している。さらに、ソマリアの海賊対策では、

政府は日本自身の国益を保護するために自衛隊を日本の領域外に派遣することを決定した が、この派遣も大多数の国民によって支持されている。

だが、こうした意識変化も、日本人の「反軍事主義」的感情には、必ずしも大きな変化 をもたらさなかった。テロ対策特別措置法の成立などを背景にした2001年12月の国際平 和協力法改正で、PKF本隊業務への自衛隊の参加凍結はようやく解除され、武器使用基準 も緩和されて、他国の要員や国連・NGO 職員などの防衛が一定の条件の下で可能になり、

武器・弾薬の防護も許されることになった。だが、PKO活動への武力妨害に対する武器使 用は依然として認められていない。また、今日でも日本は、たとえ国連などの国際共同行

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動であっても、目的や任務に武力行動を伴う活動には参加できないままである。その結果、

自衛隊が派遣される地域は前述のようにほぼ世界大に拡大してきているものの、自衛隊の 活動は、武力行使や戦闘行動とは一線を画したものに限定されている。

9.11テロから今日に至るまでの間に、日本人の「反軍事主義」的態度に修正がみられな かったわけではない。だが、それは、もっぱら日本自身の安全のための軍事力の役割とい う範疇に限られていた。また、それをもたらした要因は、少なくとも最近までは主に北朝 鮮問題であった。たとえば、2002年秋以降の北朝鮮核危機の再燃を受けて、2003年12月 に、ミサイル防衛の導入が正式決定されたといった出来事が、日本国民が日本の安全のた めの軍事力の役割をより積極的に認め始めたことを示していた。この傾向は、北朝鮮が 2006年10月と2009年5月に核実験を繰り返し、2009年4月にはテポドン2号も発射した ことで、さらに強まってきているとみられる。

だが、「日本の領域を越えた国際平和のための(あるいは国益のための)軍事力の役割」

についての認識に関しては、これに相当するような変化はみられない。日本人は、「平和の ための軍事力の役割」と正面から向き合うことを依然として避け続けており、その結果、

自衛隊の活動は「軍事」と極力距離を置くよう要求され続けている。このように、9.11テ ロ後、戦後平和主義の「第1の消極性」の克服はさらに進展したが、「第2の消極性」の克 服は依然として不完全なままにとどまっており、日本人は、平和のための軍事力の役割に ついて「世界標準」の認識を持てずにいたのである。

4.「平和のための軍事力の役割」の変質

しかも、日本人にとってやっかいなことには、ポスト9.11の世界では、内戦型紛争に対 する平和構築や国家再建といった活動がテロ対策という観点からいっそう重視されるよう になる中で、軍事力の役割に大きな変化がみられるようになっている。言い換えれば、軍 事力の役割に関する「世界標準」が変化しつつあり、日本が今後適切な安全保障政策を構 築するためには、上述の点の克服だけではもはや十分ではなくなっているのである。

安全保障上の脅威とは、従来は、国対国の戦争に関するものが中心であった。だが、グ ローバリゼーションと科学技術進歩は、伝統的な「戦争」とは全く異なるタイプの脅威を 浮上させた。特に9.11テロ以降、国際社会は、国際テロリズム、大量破壊兵器拡散、弾道 ミサイル拡散、内戦型の紛争、海賊といった脅威を、伝統的な国家間紛争以上に重視し始 めている。

このように脅威認識が変化する中で、内戦型紛争が長引き政府が機能不全に陥った破綻 国家がテロリストの根拠にされやすいという事実が、多く国々にとってきわめて切迫性を

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持った脅威として受けとめられるようになった。多くの先進国は、紛争地に「平和を作り 出す」ための平和構築や国家再建といった国際協力活動を、世界秩序の維持を通じて自国 の安全を守るためのテロとの戦いの一環として、国益上不可欠の活動とみるようになった。

ところが、内戦型紛争を管理して平和を作り出すための活動では、軍事力に求められる 役割が、従来の戦争の場合とは全く異なる。かつての軍事力は、戦って敵を撃破すること を主目的にしていた。ところが、現在の国際平和活動に従事する軍隊にとって、戦うこと は主目的ではない。彼らは、治安回復、人道援助、復興開発協力といった、伝統的には軍 が担わなかった役割(その多くは全く軍事的ではない)を通じて平和を作り出すために紛 争地に向かう。

だが、話はそこで終わらない。新たな国際平和活動に従事する軍隊には、必要があれば 断固戦うことも依然求められているからである。国連のブラヒミ報告が述べたように、国 家、国際組織、NGOなどの非軍事要員が安心して活動できる空間は、軍事力によってしか 確保できない。あるNATOの最高級幹部(軍人)は、筆者に対し、平和構築活動における 軍は、「敵を殺すことを目標としないにもかかわらず、活動に銃口を向ける者は確実に殺せ なくてはならない」と語ったことがある。

すなわち、軍隊の伝統的な役割が価値剥奪機能を中心にしていたのに対し、今日の国際 平和活動における軍隊には、価値創出機能と価値剥奪機能の両方が求められる。こうした 認識の変化を踏まえて、世界の主要国は、今や、各地で「平和を作り出す」ための諸活動 に従事している。そして、その経験をもとに、ポスト9.11の世界における平和と軍事力の 関係を真剣に模索しつつある。

これは、日本にとっては、いわば、重要な宿題を長いこと提出できずにいる間に、他の 実力のあるクラスメートたちは新たな宿題に取り組み始めてしまったというような状況が 出現してしまったということを意味する。日本人は、平和のための軍事力の役割に関し、

「伝統的な世界標準」に加え、「新たな世界標準」にも対応する必要に迫られている。

5.「新たな脅威」の台頭と日本の「特殊」な立場

今や多くの先進国は、国際安全保障上の脅威として伝統的な主権国家の軍事力の脅威は 後退し、「新たな脅威」が中心になりつつあるとの世界観を持ちつつあるようにみえる。そ の傾向は、欧州諸国に特に顕著である。だが、日本の場合、話はそれほど単純ではない。日 本にとっても「新たな脅威」の深刻さが増しつつあることは事実である。だが、日本周辺 には、同時に、伝統的な主権国家の軍事力の脅威が依然として存在するからである。日本 は、専守防衛・非核・非弾道ミサイルのきわめて自己抑制的な防衛姿勢を貫きながら、北

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朝鮮、中国、ロシアという3つの核兵器と弾道ミサイルを保有する国々に囲まれている。

日本の安全保障政策は、依然としてこれらの国の軍事力を看過できないのである。

日本にとっての外部の主権国家の軍事力の脅威にも、大きな性格の変化がみられること は確かである。日本が備えるべきは、今や冷戦期のような外敵の着上陸侵攻ではなく、弾 道ミサイル、大量破壊兵器、国家によるテロ行為、島嶼部への限定的侵略などが中心になっ ている。だが、日本が、「新たな脅威」と伝統的な脅威の両方に直面するという、欧州諸国 などよりもはるかに複雑で困難な安全保障環境に直面していることは間違いない。

6.中国の台頭と伝統的脅威の再浮上

しかも近年、日本周辺では、「新たな脅威」以上に伝統的脅威の切迫性が再浮上する傾向 が顕著である。その第1は、2002年の核危機再燃以降の北朝鮮問題である。これについて は、既にふれたのでここでは繰り返さない。

第2は、近年台頭著しい中国の急速な軍事力の増強と近代化である。中国が、増大する 国力をいかなる意図で用いようとしているのが不透明だということが、この問題を日本や 国際社会にとっていっそう深刻なものにしている。

だが、冷戦期のソ連が、日米欧などの国際社会とはほとんど経済的あるいは人的な交流 を持たなかったのと異なり、今日の中国は、他国と密接な経済的相互依存関係にある。ソ 連は単に敵とみなして対応することができたが、中国の場合は、警戒とともに良好な関係 の促進が求められる点が難しい。この観点から、国際社会では、21 世紀に入るころから、

中国に対しては「関与とヘッジ」を同時に行わなければならないとの議論が主流となった。

また、米国のブッシュ政権は、中国の台頭を国際秩序問題ととらえ、中国に「責任あるス テークホルダー」たることを促そうとする政策を掲げた。

だが、近年になって、国際社会は、台頭する中国が、ますます自己主張を強め、必ずし も「責任あるステークホルダー」的な対外姿勢を示そうとしないという現実に徐々に気づ かされるようになり、それは2010年の夏以降に一挙に顕在化した。南シナ海での中国の行 動に対して同年7月のハノイでのARFにおいてクリントン米国務長官が浴びせた批判は、

アジア太平洋地域の多くの国々の同調を得た。北朝鮮による核実験や、2010年3月の韓国 海軍哨戒艦「天安」撃沈、同年11月号の韓国延坪島砲撃といった一連の国際的ルールを無 視した行動に対する中国の態度も、国際社会を失望させた。

日本にとっては、何よりも、2010年9月の尖閣事件がきわめて大きな衝撃であった。日 本人が、自国が実効支配している領土・領海が外敵による侵害を受ける可能性をさし迫っ たものとして実感させられた戦後最初の出来事であった。尖閣は、「日本にとっての第 2

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のテポドン」(神谷)だったのである。尖閣事件は、日本だけではなく、国際社会にも強い 衝撃を与えた。この事件に際し、中国が、レアアースの事実上の対日禁輸や、日本のフジ タの社員の報復的拘束などといった露骨な力の行使をためらわなかったからである。その 結果、国際社会では、中国に対して関与とヘッジの両方が必要な状況は変わらないが、こ れからはヘッジの重要性を再認識しなければならないのではないかとの見解が強まったよ うに思われる。

日本の安全保障政策の展開という観点からは、こうした近年の日本周辺での伝統的脅威 の再浮上は、戦後の平和主義に内在した「第2の消極性」の克服への新たな契機となるか もしれない。日本国内における今後の議論が注目される。

Ⅱ.冷戦後の日米同盟の展開 1.「再定義」とその限界

以上のような冷戦後の日本の安全保障政策の展開をふまえてみたとき、冷戦後の日米同 盟の展開については、いかなることが言えるであろうか。

冷戦の終結とソ連の消滅は、日米同盟に対しても、その存在意義の問題を中心に、ただ ちに深刻な問題を投げかけることになった。ソ連の脅威が消滅した世界で、日米同盟にい かなる存在意義があるのかは、決して自明ではなかったからである。

ところが、冷戦後の日本における安全保障政策の見直しは、日米同盟の再検討ではなく、

「国際貢献論」の先行という形で開始された。これは、湾岸ショックの結果、戦後平和主 義の2種類の消極性のうち、「第1の消極性」の問題点が日本人にとって真っ先に顕在化し たためであった。

日米同盟を「再定義」しようとする動き(当時日本では「日米安保再定義」と呼ぶのが 普通であった)は、これよりも3年ほど遅れて、1994年の秋頃に開始された。そのきっか けとなったのは、94年の第 1次北朝鮮核危機であった。この危機をきっかけに、日米は、

米国が日本周辺で地域紛争を戦うことになった場合、集団的自衛権を行使できない日本は 米国にいかに協力し得るのかという疑問と不安を共有するようになったのである。日米安 保再定義のプロセスは、「ナイ・レポート」の発表、(1995 年2月)、日本による「新防衛 大綱」の策定(1995 年11 月)を経て、橋本首相とクリントン米大統領による「日米安保 共同宣言」の発表(1996年4月)で一段落した。その中で、両国は、日米同盟を、ソ連と いう特定の敵に対抗する同盟から、アジア太平洋地域内の不特定の秩序不安定化要因に対 処して地域秩序を下支えする国際公共財へと、大きく規定し直した。それを受けて、両国 間では、日米同盟を地域秩序の安定化装置として機能させるための同盟関係のあり方や両

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国の役割分担の見直しも行われた。97年9月に出された新たな日米協力の指針(新ガイド ライン)では、「平素から行う協力」、「日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等」、お よび「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事 態)の協力」について、「日米両国の役割並びに協力及び調整の在り方について、一般的な 大枠及び方向性」が示された。旧ガイドラインと異なり、新ガイドラインでは、協力の力 点が日本有事から周辺事態に移され、その内容も、研究に基づいた具体的な計画に踏み込 むものとなっていた。日本は、日本周辺で日本に対する攻撃を伴わない紛争が起こった場 合にも、米軍に協力して行動する方針を明確にした。

日米同盟は、通常の同盟が、「人と人との協力」(相手が攻撃を受けた際の軍隊による支 援を約束し合う)という対称的な双務性に立脚するのに対して、「物と人との協力」(日本 が基地を、米軍は軍隊を提供する)という非対称的な双務性を本質とするという特殊性を 有してきた。だが、一連の再定義プロセスは、日米同盟における「人と人との協力」の比 重を相当に高めるものであったと言える。

しかし、日米同盟の再定義の成果には限界も目立ち、それは特に米国側の不満につながっ た。再定義プロセスの終了後、日本では、周辺事態法の制定をはじめ、両国間での合意内 容を実施に移すための行動がみられなかったわけではない。だが、日本の同盟協力は、依 然として集団的自衛権問題等の限界を超えて進むきざしをみせなかった。その背景には、

先にみた、戦後平和主義の「第2の消極性」の克服の遅滞があったわけである。

日本の同盟協力に限界があったことは、新ガイドラインの内容を実行に移す上でも大き な制約となった、米国側のいらだちは、バブル崩壊後の日本経済の不振の長期化ともあい まって、クリントン政権末期の対日関心の低下(「ジャパン・パッシング」)を引き起こす 一因となったとみられる。

2.9.11テロと日米同盟

この状況を打破したのは、日米同盟を重視するブッシュ米政権の登場(2001年1月)で あり、9.11テロ後の小泉政権による積極的な対米同盟協力であった。

実は、9.11テロ以前の日米同盟には、大きな問題が残されていることがかねてから指摘 されていた。それは、この同盟が、実際の有事に機能し得るかどうかの「テスト」を一度 も経ていないことであった。9.11テロが、そのテストを、誰も想定していなかった形で突 如として日米に突きつけた時、日本は、対米支援のための法整備から始めなければならな かった上、国際的な安全保障問題のために自国がリスクを冒すことに関する国民的合意も 未成熟であった。そのため、日本が十分な支援を行えるかどうかについては、特に米国で

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悲観論が強かった。しかし、小泉純一郎首相のリーダーシップにより、日本はテロ特措法 を急遽成立させ、海自艦艇にインド洋で米軍への支援などを行わせて、こうした懸念を払 拭した。その後、イラク戦争後の人道復興支援でも、日本は陸自部隊の派遣を含め積極的 に米国と協力したので、同盟国としての日本への米国側の信頼は顕著に高まった。その後、

2006年6月の小泉首相とブッシュ米大統領の首脳会談で「世界の中の日米同盟」という言 葉が使われたことも、同盟関係強化のあらわれであった。

この時期の日米同盟の展開で特徴的であったのは、9.11テロ後やイラク戦争後の小泉首 相の対米同盟協力が、日本の平和主義の「第2の消極性」をかなり乗り越えた性格を有し ていたことである。すなわち、小泉首相は、いずれのケースにおいても、自衛隊を、米国 を中心とした平和回復努力のために投入することをためらわなかったのである。その結果、

米国からみて、日本が「頼りになる同盟国」であるとの印象が大いに強まることになった。

しかし同時に、そうしたためらいのなさは、多分に小泉首相個人に限られた現象であっ たことも指摘されなければなるまい。当時の世論調査などが示すように、日本国民の多く は、派遣された自衛隊の活動が非軍事的なものにとどまることを強く望み続けていた。平 和主義に内在する「第1の消極性」と「第2の消極性」の克服の進度のズレは、21世紀に 入ってもなお解消されていなかったのである。

言い換えれば、日本国民の多くは、小泉首相の提唱した日米同盟協力のうち、「第1の積 極化」に対応する部分については承認を与えたが、「第2の積極化」に対応すべき部分につ いて承認する用意はなかったということである。その結果、国民は、自衛隊のインド洋や イラクへの派遣には賛成したが、自衛隊が武器を使って他国の派遣軍と同様の行動をとる ことは認めなかった。その結果、現地では、自衛隊には「普通の同盟国」の軍隊ならば当 然できることのかなりの部分ができないという問題が浮上することになった。

だが、①9.11テロ後とイラク戦争後の日本の対米協力が、米国側の当初の期待を大きく 上回るものであったこと、および、②この頃の米国の安全保障政策が、「新たな脅威」、「非 伝統的脅威」に相当程度比重を移しつつあったこと、という2つの理由により、この問題 は、当時はそれほど深刻視されなかったのである。

3.北朝鮮核危機の再燃と日米同盟

同じ頃、日本周辺では2002年に北朝鮮核危機が再燃し、日本国民の間には、日本の安全 にとっての日米同盟の重要性が、従来以上に高まったとの認識が広がることになった。

前述したように、1990年代半ば頃からの一連の北朝鮮問題は、専守防衛を基本方針にす えた戦後日本の自己抑制的安全保障政策の弱点を明らかにするものであった。この状況の

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下で、日本国民は、「平和主義」「平和国家」の看板を降ろさずにいかにして日本の安全を 確保するかという難題に直面させられることとなった。

国民が平和主義の放棄を望んでいない以上、日本には、自国の防衛力で十分ではない部 分を、対米同盟に依拠する以外の道はないことが明らかであった。その結果、この頃から、

日米同盟においては、「特定の敵性国への対抗」という同盟の伝統的機能の重要性が再浮上 することとなった。そして、拡大核抑止(核の傘)の重要性が再認識され、ミサイル防衛 に関する日米協力が進展をみせた。

4.2004年以降の同盟強化プロセスとその問題点

米国側で日本が頼りになる同盟国であるとの見方が強まり、日本側で対米同盟の必要性 が従来以上に認識されるようになった流れを受けて、日米間では、2004年頃から、日米同 盟をポスト9.11の国際安全保障環境に適合した形に修正し、強化しようとする共同作業が 行われた。

2004年12月に日本が策定した「防衛計画の大綱」(04大綱)には、「こうした観点から、

我が国としては、新たな安全保障環境とその下における戦略目標に関する日米の認識の共 通性を高めつつ、日米の役割分担や在日米軍の兵力構成を含む軍事態勢等の安全保障全般 に関する米国との戦略的な対話に主体的に取り組む。その際、米軍の抑止力を維持しつつ、

在日米軍施設・区域に係る過重な負担軽減に留意する。」(傍線筆者)という一節があった。

翌2005年2月19日には、日米安全保障協議委員会(「2プラス2」)が、日米共通の戦略目 標を定めるとともに、日米の安全保障・防衛協力の強化を確認し、同年10月29日には、

「2プラス2」が、在日米軍の再編・再配置計画についての中間報告「日米同盟:未来のた

めの変革と再編」を発表した。さらに、2006年4月23日には、日米防衛首脳会談におい て在沖海兵隊のグアム移転経費の分担に関する合意が成立し、同年5月1日には、「2プラ

ス2」が、在日米軍再編の最終報告「再編実施のための日米のロードマップ」で合意した。

これを受けて、2006年6月29日の日米首脳会談で、小泉首相とブッシュ大統領は、共 同文書「新世紀の日米同盟」を発表して、「21 世紀の地球的規模での協力のための新しい 日米同盟を宣言」した。共同文書は、両首脳が「これらの合意の完全かつ迅速な実施が、

日米両国にとってのみならず、アジア太平洋地域の平和と安定にとっても必要であること について一致した」ことや、「『世界の中の日米同盟』が一貫して建設的な役割を果たし続 けるとの認識を共有した」ことをうたい、日米が、「地球的規模」の協力のための「世界の 中の」同盟関係を目指すとの姿勢を明らかにした。

2000 年代半ばのこの日米同盟プロセスは、もし予定通り実行に移されれば、「日本が集

(14)

団的自衛権行使などの根本的な政策変更を行わないという前提でみた場合、考えられる限 り最も高いレベルの同盟協力を実現し、日米の関係を考えられる限り最も対等に近づける ことが期待できる」ものであった3

だが、このプロセスには一つの大きな問題が伴っていた。それは、この同盟強化努力は、

9.11テロ、イラク戦争、北朝鮮核危機といった日本国外での事実の展開に多分に引っ張ら れたものであり、国内において本来あるべき国民的議論が乏しかったということである。

すなわち、このプロセスが目指す同盟強化の内容や意義については、少数の「アライアン ス・ハンドラーズ」と一部の安全保障専門家等を除けば、国民の間に(政治家も含めて)

ほとんど理解が進んでいなかったのである4

2009年9月の政権交代後、民主党政権下で日米同盟に関する政策は少なからず混乱をみ せたが、その根底には、政権交代直前に進みつつあったこのプロセスが、新政権の政治指 導者によってほとんど認識すらされていなかったという事実があったように思われる。

日本が政権交代を迎えたのは、米国において、ブッシュ外交の軍事力を過度に重視した 単独行動主義がはかばかしい成果をもたらさなかったことへの反省が強まり、2007年のサ ブプライムローン問題や2008年のリーマンショックを引き金にした金融・経済危機の深刻 化ともあいまって、「米国単極論」が後退するさなかでであった。唯一の超大国である米国 が世界を思うままに運営できるというブッシュ政権期に広がっていた楽観は影を潜め、米 国は、日本を含む同盟国の国際的役割に対する期待を急速に高めていた。上述の同盟強化 プロセスは、ブッシュ政権期に開始されたものではあったが、実現されればその期待にも 合致するものであった。ところが、新しい民主党政権下では、普天間問題に象徴されるよ うに、そのプロセスはにわかに停滞してしまう。このことが、日米同盟における日本の役 割に関する米国のいらだちを生み、ついには諦めのようなものさえ漂い始めていたという のが、2010年半ば頃における状況であった。

5.北朝鮮・中国・日米同盟

ところが、2010 年の後半になると、尖閣事件と北朝鮮の韓国延坪島砲撃などによって、

この状況は一変した。米国側には、東アジアの安全保障における日本の役割に対する期待 感がにわかに再上昇し、同時に、日米韓、日米豪、日米印といった、日米プラスアルファ の安全保障協力が重要であるとの認識が高まったのである。

また、日米や東アジア諸国には、中国の台頭が自由で開かれた、ルールに基づいた(liberal, open, rule-based)現在の国際秩序を動揺させかねないとの懸念もみられるようになり、日 米同盟を既存の秩序の維持を志向する「現状維持国どうしの同盟」として再規定すべしと

(15)

の意見も現れた5

むすびにかえて――日米同盟の課題

この状況は、日本にとっては思わぬチャンスであると言うことができる。だが、ここで 日本側が、米国側に適切なボールを投げ返すことができなければ、日本に対する米国側の 期待値が再度上昇しているだけに、米国の失望感はとり返しがつかぬものとなるおそれが ある。そして、事態は必ずしも楽観を許さない。その理由を簡潔に指摘して、本稿を結び たい。

(1)同盟の「普通化」をめぐる構造的問題の残存

最大の問題は、日米同盟の根底に、過去からの構造的問題が依然としてほぼそっくり残 存しているという事実にある。日米同盟においては、この同盟をいかにしてより「普通」

でより「対等」なものにしていくことができるのかが、長年にわたり重要な課題であると されてきた6

だが、同盟の「普通化」には集団的自衛権問題という大きなハードルが残されたままで ある。日本政府は、日米同盟は日本の安全保障政策の柱である旨を繰り返し表明し、その 強化を唱え続けている。にもかかわらず、日本が集団的自衛権不行使の政策を維持するこ とには、論理的な矛盾があることを否定できない。その背景には、本稿で繰り返し指摘し てきた、戦後平和主義の「第2の消極性」の克服が、日本において不完全なままであると いう現実が存在している。日本が、「普通の同盟国」には当然できる同盟協力ができない状 態からいっこうに脱却しようとしないことと、「世界の中の日米同盟」といいながら国際平 和協力活動における日本の存在感が低いこととがあいまって、米国側には日本への不満が くすぶり続けている。

(2)同盟の「対等化」をめぐる問題

日米同盟の「普通化」が進まないことは、同盟の「対等化」の進展をも阻害している。

日米関係をより対等なものにしたいとの願望は、戦後の日本人が一貫して抱き続けてきた ものである。1950年代後半に岸信介首相が「日米新時代」を唱えたのはその嚆矢であった。

自民党から民主党への政権交代が起った直後にも、鳩山前首相らは「対等な日米関係」

を目指すことを喧伝し、同盟関係に波紋を投げかけた。だが、政権交代直前まで進みつつ あった前述の同盟強化プロセスで構想された施策が実現されれば、「日本が集団的自衛権行 使などの根本的な政策変更を行わないという前提でみた場合、考えられる限り最も高いレ

(16)

ベルの同盟協力を実現し、日米の関係を考えられる限り最も対等に近づけることが期待で きる」はずであったことは理解されていなかった。この点については、先に論じた。

ここで重要なことは、この(実現されるはずであった)「対等化」の前提には、日本が同 盟協力の中で従来以上に(日本が集団的自衛権行使などの根本的な政策変更を行わないと いう前提でみた場合、考えられる限り最も高いレベルでの)大きな役割を担うという合意 が存在したことである。もし、日本がそれ以上の対等化を目指そうとするのであれば、そ の前提としては、日米同盟の中での日本の役割のさらなる強化と、さらにその前提として の集団的自衛権問題解決による同盟の「普通化」を実現すること、が不可避であると考え られる。

(3)基地問題の停滞

さらに、普天間基地の移設問題が1996年の劇的な日米合意から11年近くを経てほとん ど動いていないことも、日米同盟に影を落とし続けている。この合意の影の立役者の一人 であったジョセフ・ナイ教授は、「これほど長いこと普天間が返還されずにいるとは、全く 信じられない」と述べた7。また、ある匿名の専門家は、筆者に対し、「中国は、米国の同 盟国ではない。だが、われわれは中国とは戦略は安全保障について実質的な対話ができる。

日本は米国の最も重要な同盟国なのに、日米の対話が、戦略や安全保障よりも、基地問題 などの、何度も繰り返されてきた『ハウス・キーピング』のような話ばかりなのはどうし たことか」といらだちをあらわにしたことがある8

普天間基地問題に代表される基地問題の停滞は、今や日本の政治に対する米国の信頼を 低下させかねない問題となっているのである。

(4)同盟の「深化」をめぐる日米のズレ

近年、日米両国は、同盟協力を従来以上に深めていく必要があるという点について、繰 り返し一致を表明してきた。だが、「深化」という語が何を意味するかについては、実は双 方の間に無視できないズレが存在する。

米国は、東アジアにおける平時からの軍事協力と、「グレーゾーンの紛争」および有事に おける共同対処のための役割分担の明確化や能力・態勢の強化を重視している。すなわち、

端的に言えば、米国は、日本が日米同盟の中でより「普通」の同盟協力に踏み込むことを 求めている。ところが、日本側では、戦後平和主義の「第2の消極性」の克服が進んでい ない結果、「普通」の同盟協力への国民の支持は得にくい。特に、民主党政権が、同盟の「深 化」と言いながら非軍事的・非伝統的分野での協力拡大の可能性ばかりを強調しようとす

(17)

ることに、米国側の懸念といらだちが強まっている。

果たして日本は、今後、米国にとって「協力したい同盟国」であり続けることができる であろうか。昨年9月に尖閣事件が起こるまでは、この点が、米国側からみて必ずしも明 確ではなくなっていたことを忘れるべきではない。小泉政権の退場後、米国の知日派の間 では、日本の「自己周縁化(self-marginalization)」を懸念する声が高まっていた。そこに、

鳩山前政権の「迷走」が日米同盟に与えたダメージが重なった。昨年、尖閣事件が深刻化 する直前の米国では、日本への期待感は最低水準に下がっており、クリントン国務長官は 2010年9月8日にワシントンの外交問題評議会で行った演説の中で「米国は、韓国、日本、

オーストラリアといった緊密な同盟国との結束を再確認した」(傍線筆者)と述べ、東アジ アにおける同盟国に言及する際に日本よりも韓国を先に挙げるという、きわめて稀な態度 を示したほどであった。

尖閣問題や延坪島砲撃事件によって、米国の対日期待感ははからずも再上昇した。この 期待感に、日本が行動によってどれだけ応えていくことができるのか。日米同盟は、重要 な転機を迎えている。

- 注 -

1 Thomas U. Berger, “From Sword to Chrysanthemum: Japan’s Culture of Anti-Militarism,” International Security, Vol.17, No.4 (Spring 1993).

2 Matake Kamiya, "Taepodong: Sputnik for the Japanese," Chung-in Moon, Masao Okonogi, and Mitchell B.

Reiss, eds., The Perry Report, the Missile Quagmire, and the North Korean Question: The Quest of New Alternatives (Seoul: Yonsei University Press, 2000).

3

ある陸上自衛隊元将官へのインタヴュー。

4

たとえば、2010 年

1

月にワシントンで開催された

The 16th Annual Japan-U.S. Security Seminar(日米同

盟に関する最も権威あるとされるトラック

2

会議)では、複数の出席者がこうした見解を表明した。

5

筆者は、こうした議論を最も早期に行った(Matake Kamiya, "Future Visions of the Alliance," presentation

at The 16th Annual Japan-U.S. Security Seminar," Washington, D.C., January 15-16, 2010)が、最近、同様の

議論が増えつつある。

6

たとえば、神谷万丈「普通・対等・拡大――日米同盟改革に求められる

3

つの視点」日本世界戦略フ ォーラム「世界戦略シリーズ」Vol.4, No.1(2001 年

1

月);Matake Kamiya, "Reforming the U.S.-Japan

Alliance: What Should Be Done?" G. John Ikenberry and Takashi Inoguchi, eds., Reinventing the Alliance:

U.S.-Japan Security Partnership in an Era of Change (New York: Palgrave Macmillan, 2003)などを参照。

7 2010

11

15

日、ハーバード大学のナイ教授の研究室における筆者によるインタヴュー。

8

ある米国の専門家が

2009

年春に東京で筆者に語った言葉。

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ところで、arcsinx,arctanx とも、 Taylor展開の収束半径は 1 であった。 arcsinx は元々定義域が |x|≤1 なので、 別に不思議はないが、 arctanx は全実数に対して定義できて、 一見 |x|< 1 に限る理由がないし、 被積分関数 1 1+t2 にも別に変な所はない。... ところで、arcsinx,arctanx