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インドの台頭とアジア地域秩序の展望

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(1)

「核兵器国」の自信

2007

年7月末、「核エネルギー(原子力)の平和利用に関する印米政府間協力合意」(1)が発 表された。核不拡散レジーム(核拡散防止条約:

NPT)

の外側で「核兵器国」を宣言したイ ンドに対し、例外的に米国からの核物質・技術の提供を可能にしようというのである。こ の二国間合意を受け、同年11月には、インドと国際原子力機関(IAEA)の査察協定交渉が 始まった。さらに英国、フランス、中国、ロシアといった

NPT

上の他の核兵器国も、2007 年末から

08

年初めにかけ、相次いでインドとの原子力協力開始に意欲を示した。このよう に国際社会では、インドの核兵器保有を容認する趨勢が顕著になってきている。

振り返ってみると、1998年

5

月の核実験実施は、厳しい非難を呼び、インドは―ただち に追随したパキスタンとともに―孤立したはずであった。それでも、インドは政治的に は、核兵器国としての受け入れを国際社会に求めつづけた。同時に軍事的にも、運搬手段 の開発を進め、核兵器を前提とした安全保障体制の構築に邁進しつづけた。その結果、イ ンドはいまや、50発程度の核弾頭を保有するとみられ(2)、上海、北京も射程に収める

3000km級の中距離弾道ミサイル、

「アグニ3」の発射実験にも成功を収めるに至った。

衝撃の核実験から10年。この間のインドの成長はめざましく、米国をはじめとする西側 世界は、競い合うようにそのインドとの経済・政治・戦略的関係の構築・強化を図ってき た。長年の懸案であった対中、対パの隣国関係も好転し、これまでにないほどの関係深化 がみられる。これら外交関係の飛躍的進展を踏まえ、現在のインド国内では、10年前の決 断を自讃する声ばかりが聞かれる。核兵器保有とインドをめぐる国際関係の変化は、「台頭 するインド」にいっそうの自信を与え、これを後押してきた(3)

いったい、どういうことであろうか。本稿はまず、インドがどのような経緯で、国際社 会の糾弾を浴びかねない核兵器保有に至ったのかを概観し、それがなぜいま認められつつ あるのかを明らかにする。そのうえで、原子力協力の今後の行方をインド内外の観点から 展望するとともに、国際社会、とりわけわが国にとって、いかなる政策が意味をもちうる のかを検討することとしたい。

インド核政策の変遷とその要因

意外に思われるかもしれないが、インドの核開発の歴史は古い。第

1表にみるように、独

Ito Toru

(2)

立翌年には原子力法を制定し、当時の科学研究省内に原子力委員会を設置するなど、早く からその体制づくりに取り組んできた。1950年代に入ると、首相直属機関として原子力局 が新設され、原子力委員会は、その内部の上位組織として位置づけられた(4)

このような開発体制の整備と国際協力を通じ、成果も早くから上がっていた。英国の支 援によりアジアで初めて臨界を達成したのち、1964年には、カナダ支援の研究用原子炉か

第 1 表 インド核政策関連略年表

1948年 4月 原子力法制定(1962年廃止)

1948年 8月 原子力委員会(AEC)設置

1954年 8月 原子力局(DAE)設置 1956年 8月 英国支援実験炉で臨界達成

1960年 7月 カナダ支援研究用原子炉で臨界達成 1962年 9月 新原子力法制定

1964年 4月 プルトニウム抽出に成功

1968年 5月 国連総会で核拡散防止条約(NPT)

  非加盟を公式表明

1974年 5月 初の地下核爆発実験(「平和的核爆発」)

1983年11月 原子力規制委員会(AERB)設置

1998年 5月 インド核実験

1999年 8月 核ドクトリン草案発表

2003年 1月 核ドクトリン決定

2004年 1月 印米「戦略的パートナーシップの

次のステップ(NSSP)」合意    

2005年 8月 印パがミサイル発射実験事前通告制合意

2006年 3月 印米が首脳会談で原子力協定に合意

2007年 2月 印パが核兵器関連事故のリスク削減協定

2007年 4月 アグニ3発射実験成功 2007年 7月 印米政府間協力(123協定)合意 2007年11月 印が対IAEA交渉開始

1947年 8月 インド独立、J・ネルー首相 1948年 5月頃 第1次印パ戦争(−12月)

1957年 7月 国際原子力機関(IAEA)設立

(インド加盟)

1962年10月 印中国境紛争(−12月)(インド敗北)

1964年10月 中国核実験 1965年 9月 第2次印パ戦争

1966年 1月 インディラ・ガンディー首相 1968年 7月 NPT調印

1970年 3月 NPT発効(インド非加盟)

1971年12月 第3次印パ戦争(インド勝利)

1975年11月 原子力供給国グループ(NSG)設立

1991年12月 ソ連崩壊 冷戦の完全終焉 1995年 5月 NPT無期限延長

1996年 9月 包括的核実験禁止条約(CTBT)調印

(未発効)

1998年 2月 インド人民党勝利 ヴァジパイ首相 1998年 5月 インド実験に続きパキスタンも核実験

→国連・G8、印パを非難、

日米経済制裁

1999年 5月 印パのカルギル紛争(−7月)

2000年 5月 NPT再検討会議

2001年 9月 米同時多発テロ→アフガニスタン戦争 2001年9―10月 日米、対印パ経済制裁解除 2001年12月 インド国会議事堂襲撃テロ事件

→印パ危機(−02年6月)

2004年 1月 印パ首脳会談→和平プロセス開始 2004年 5月 国民会議派勝利

マンモハン・シン首相 2006年12月 米議会が「ハイド法案」可決

インド核政策の展開 内政・国際関係の動き

(3)

ら得た使用済み燃料を再処理してプルトニウムの抽出に成功している。核兵器製造へ向け ての技術的条件が整い始めたのである。

鍵になったのは、対中認識・安全保障の変化、ならびに国際的な核管理体制設立への動 きである。J・ネルー首相による1950年代の対中友好政策は、1962年の国境紛争とそこでの 敗北により、転換を余儀なくされていた。その中国は、ネルーの亡くなった1964年に核実 験の成功を発表する。国際連合では、1960年代半ばから、核拡散を防ぐための枠組みづく りが議論され始め、NPTとして結実する。これにより、中国の核兵器保有は「合法化」され ることとなった。

もとよりインド外務省内には、NPTに加わるべきか否かについて、意見の対立があった。

インドの著名な外交官であり、のちに国家安全保障補佐官も務めた

J

・N・ディクシットの 回顧録によれば、最終的には、ネルーの娘、インディラ・ガンディー首相が、当時の外務 次官ら調印支持派を押し切って、不参加を決断したという(5)。以来、インドはNPTについて、

その条約が、そもそも核兵器国と非核兵器国の区分を永続化させ、不平等、差別的である

(=「核のアパルトヘイト」論)うえ、核兵器国の軍縮が保証されていないことを根拠として 非加盟の姿勢をつづけてきた。その後、自らが1998年に「事実上の核兵器国」となってか らは、もはや非核兵器国としては

NPT

に入ることはできないとも主張し、NPTを拒絶して きた。政府はもちろんのこと、メディアや専門家の間でも、

NPT

に対する批判やその意義を 疑問視する向きが強い(6)

ともあれ、以上の文脈下で

1974年の地下核実験は行なわれた。ただし、このときのイン

ドは自らを「核兵器国」であるとは宣言せず、あくまでも「平和的核爆発」であると主張 していた。それでも、その実験が前述のカナダ支援に起因するプルトニウムに依拠してい たという事実は、国際社会に衝撃を与え、国際的な輸出規制レジームとしての原子力供給 国グループ(NSG)の形成につながった。

それ以降、インドは新たな実験を自重してきた。しかし

1990年代に入ると、インドとそ

の国際環境は大きく変化する。安全保障上は、同盟パートナーであったソ連の崩壊により、

インドは軍事的にも台頭する中国と単独で向き合わねばならなくなっていた。インド同様、

中国に警戒心を抱く米国は、たしかにその頃から対印接近を始めてはいた。しかし、安全 保障関係の進捗は経済関係のそれと比べると、インドの期待どおりにはなかなか深まらな かった(7)からである。この中国に対する脅威認識は、パキスタンをはじめとするインド周 辺国への中国の軍事的支援によって、いっそう増幅された。

これに加え、グローバル化の波に乗って経済的に躍進し始めたインド国内では、元来の 大国志向が露わになってくる。インド人民党(BJP)は、多数派ヒンドゥーを中心とした

「強いインド」の象徴として、核実験実施を

1998

年初めの総選挙の公約に掲げた。そして政 権をとるやいなやこれを実行し、初めて自らが「核兵器国」であることを内外に宣言した のである。

当然ながら、国際社会の反応は、最初の実験時以上に厳しいものとなった。国連は、印 パの核実験を「非難」する安全保障理事会決議

1172を全会一致で採択し、両国に NPT

上の

(4)

核兵器国としての地位を認めず、NPTならびに包括的核実験禁止条約(CTBT)への無条件 参加を「要請」した。主要8ヵ国(G8)も外相による同内容の共同コミュニケを発表した。

それでもインドは強気であった。安保理決議に対しては

NPT

の不平等性をあらためて指 摘し、決議を「遺憾」であると評した。G8外相コミュニケに対しても、先進国は説教を垂 れるのではなく、実験後のインドの前向き姿勢(今後の実験の自発的停止や対パ関係改善策等 の発表)に目を向けるべきだと反論した(8)

結局のところ、NPTに非加盟を貫き、冷戦後の西側の重要なパートナーになりつつあっ たインドに対し、安保理やG8を含む国際社会がこれ以上に踏み込んだ措置をとることが、

法的にも、政治的にも非現実的な選択肢であることは明らかであった。しだいに「非難」

トーンは弱まり、米国の政権交代も相俟ってNPT、CTBTへの参加「要請」も有名無実化し た。米国、日本などが独自に科してきた「経済制裁」も、9・

11

同時多発テロを契機に、パ キスタンとの抱き合わせで解除された。

同時にインド自身も、自らの核兵器がパキスタンと同列に論じられないよう、核管理体 制の整備とその立証に努めてきた。1999年に発生したカルギル紛争は、印パ間での武力紛 争が核戦争へエスカレートする蓋然性をもつことを示していた(9)。インドにとっては、自国 の安全保障のためのみならず、国際社会にインドを核兵器国として受け入れさせるために も、第一に核戦略の策定が不可欠であった。カルギル後に草案が発表され、2001年末から

02年夏にかけての最後の印パ危機後に最終決定された「核ドクトリン」がそれである。こ

のなかでインドは、核兵器を核・生物・化学兵器に対する報復としてのみ用いる「先制不 使用」の戦略を公式に宣言した。さらに、信頼できる最小限の抑止体制を構築・維持する ことや、核使用に際しての首相を頂点とした指揮系統などを明らかにした(10)

第二に、インドは、国際社会が最も危惧するパキスタンとの間での和平プロセスの一環 として、核の信頼醸成措置(CBMs)も進めた。外務次官級のホットライン設置、弾道ミサ イル発射実験の事前通告制度、核兵器関連事故のリスク削減協定がその主要な成果である。

第三に、しかしインドはそのパキスタンとは異なり、自らは実質的に不拡散にコミット してきたのだという差別化を図った。パキスタンに端を発する「核の闇市場」問題、パキ スタン政治体制の不安定性がクローズアップされてからは、インドにとって状況は有利に 展開した。インドは「責任ある核兵器国」であるとの主張が、正当性を帯び始めたのであ る。

印米原子力協力協議とインド国内政治

1998年の核実験は、たしかに表面上は、インドを孤立させたかにみえた。しかし、冷戦

後の唯一の超大国となった米国は、「非難」や「経済制裁」の一方で、じつはきわめて積極 的な「関与」政策をも開始していた。クリントン政権は、実験翌月からインドとの戦略対 話(11)を積み重ね、2000年3月には大統領自身が訪印した。インドの戦略的重要性をいっそ う強調するブッシュ政権はこれを基盤に、2004年初め、「戦略的パートナーシップの次のス テップ(NSSP)」合意を発表した。ここから宇宙開発・ハイテク分野での協力とともに、民

(5)

生用原子力協力協議が本格化するのである。

2006年 3月のブッシュ大統領訪印時には、首脳合意が発表された。米国が民生用原子力エ

ネルギーのための核物質・技術を提供する代わりに、インドがその民核施設につい てIAEAの査察を受けるというのがその骨子である。インドの電力需要は、その急速な経済 成長とともに逼迫していること、また国内に石油資源をもたないことからも、原子力発電 の必要性自体が理解できないわけではない(12)。しかしNPT非加盟のまま「事実上の核兵器 国」となったインドに対し、NSGガイドラインの規制対象となってきた資材・機材、技術 を提供してもよいのか。そのような措置は、NPT体制の形骸化につながるのではないか。イ ランや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に誤ったメッセージを与えるのではないか。米国 内では、上下両院で大激論がかわされた結果、2006年末にインドを例外扱いとする「米印 平和的原子力協力法案(ハイド法案)」が可決された。不拡散政策を主導してきた日本国内 でも、対印原子力協力を可能とするための印米協力協議の進展状況、問題点を分析した研 究が相次いで発表された(13)

米国内法が成立したことで、2007年初頭から印米間での具体的な二国間協定協議が始ま った。しかし、一筋縄にはいかなかった。ハイド法がもともとの首脳合意から逸脱してい るのではないかとの批判がインド国内で強くなってきたためである。とくに最大野党のBJP や戦略専門家、核技術者らは、インドの将来の核実験が制約されると解される条項が含ま れている点や、使用済み核燃料の再処理に必要な物質・設備の一部が協力から除外されて いる点などを批判した。また左翼勢力は、インドがイランの核開発阻止に向けての取り組 みに参加することが義務づけられていると解される点を問題視し、インドの自主独立外交 が妨げられると批判し始めたのである。

マンモハン・シン首相率いる国民会議派連立政権としては、これら国内の懸念に応える 必要があった。このため難航した二国間協議は、7月末にようやく妥結に至った。本稿冒頭 で触れた印米政府間協力合意、いわゆる123協定である。この文書では、インドに対し使用 済み核燃料再処理の権利が認められ、核実験実施の権利についても、曖昧な表現ではある が、否定はされていない。というのも、協定文は「核実験」そのものには言及しておらず、

協定打ち切りについては、安全保障環境の変化や隣国の行動を念頭において検討したのち、

1年前に相手国に通知するとしているからである。これはインドが今後核実験をしたとして

も、ただちに協力停止に至るのではなく、中国やパキスタンの状況によっては、インドの 核実験も許容されるという余地を残すものである。さらに言えば、たとえ米国からの打ち 切り通知があったとしても、1年間の「猶予期間」中に、インドとしては他国からの供与の 道を探ることができることになる。

任期切れを前にしたブッシュ政権は、対印関係構築の功を焦るあまり、譲歩しすぎたの ではないか。ハイド法から逸脱しているのではないかとの疑念・批判もでた。それでも、

対中カードとしての有用性に加え、より実際的には、インド原子力市場への参入を求める 産業界の要請に応えるためにも、またイランとインドの接近(イラン、パキスタン、インド間 の天然ガスパイプライン構想)を阻止するためにも、この協定発効に固執したと考えられる(14)

(6)

123

協定を客観的にみれば、インド側の要求の大半が通ったことは明らかである。にもか かわらず、協定成立後も、インド国内では前述の議論が繰り返された。マンモハン・シン 政権にとってとくに厄介だったのは、閣外協力関係にある左翼勢力の頑なな姿勢であった。

彼らは、元来反米色が強く、この協定が米国との戦略的同盟に進みかねないとの危惧を抱 いた(15)。左翼が支持を撤回する事態となれば、政権は過半数を割り、崩壊しかねない。

難局打開のため、連立政権は左翼諸政党との間でムカジー外相を議長とする合同委員会 を設置し、2007年

9月以降協議を重ねた。しかし双方の溝はなかなか埋まらず、シン首相は

一時、協定を棚上げ・凍結する考えすら示唆するほどであった。政府による根気強い説得 の結果、11月になってようやく左翼諸政党は、協定発効に向けての次のステップとなる対

IAEA交渉開始を、後述するような厳しい「条件付き」で認めた。ともあれ、これを受けて

ようやくカコドカル原子力委員会委員長を筆頭とする政府代表団とIAEAとの保障措置(査 察)協定交渉が開始された。

原子力協力をめぐる内外の障壁

インド政府の対IAEA交渉の中身については、本稿執筆時点(2008年

2

月上旬)で明らかに なってはいない。しかし、たとえこれがクリアされたとしても、いくつかの障壁が残って いる。

まず、インド政府は、IAEAとの最終協定文書を締結する前に、その草案文を左翼諸政党 との合同委員会に持ち帰り、審議しなければならない。それが対

IAEA

交渉開始を容認する 条件とされたためである。これは左翼諸政党が、協定発効に関して「拒否権」をもってい る状況に変わりがないことを意味する。左翼は交渉開始を認めたのちも、基本的に印米協 力に反対の姿勢に変わりはないとの立場を繰り返し表明している。それゆえ、政府側が本 当に協定を発効させようとするのならば、結局ところ、この左翼を説得するか、解散・総 選挙の覚悟をして新たな多数派形成に踏み切るしかあるまい。左翼としては、少なくとも イラク戦争を開始したブッシュ政権下での協力表明はとても呑めないであろうとみられて いる。それゆえ、米大統領選後まで、あるいはインドの

2009年総選挙まで決定を先送りす

るのではないかとの見方もでている(16)。おそらく、インド国内政治の壁が今後の一番の高い ハードルとなろう。

とはいえ、インドの政党間に激しい対立と国会の空転を生み出したにもかかわらず、ま た国際的な議論と関心を呼んでいるにもかかわらず、インド国民一般は意外と冷めている。

そもそも、印米協力自体をまったく知らない者も多いうえに、それが次期総選挙の重要な 争点であるともみなされていない。世論の主要な関心は、グローバル化の下での経済成長 に伴う負の側面(インフレ、農民の苦境)のほうにある(17)。このように、国民世論と政党政 治の間には大きな乖離が存在することを考慮すると、BJPや左翼勢力の反対論が、国民全体 を巻き込んだうねりにまでなることはあるまい。したがって、政府・与党が国内政治の障 壁を乗り越えるには、まずもって国民が関心をもつ経済政策について支持されているとの 確信が必要となろう。

(7)

インド国外の障壁についてはどうであろうか。対

IAEA

交渉がまとまったのちに手続きと して求められるのは、日本を含む

45

ヵ国から構成されるNSGでの全会一致の「特例扱い」

の承認と、米議会での印米協定の最終承認である。しかしこれらについては、以下の理由 から、インド国内の障壁ほど困難なものにはならないとみられる。

前者については、インドはすでにその主要メンバーから支持を取り付けている。2008年1 月に訪印したブラウン英首相、サルコジ = フランス大統領はいずれも明確な支持表明を行な った。さらに英仏とも、印米と同様の二国間協定を締結したいとの意志を示している。と くにフランスは、すでに印仏二国間協定が事務レベルでまとまっているとして、NSGでの 承認がありしだい正式調印するとの意向までみせるなど、インドとの戦略的関係の強化、

原子力市場への参入にきわめて積極的である。

冷戦期以来の伝統的友好国、ロシアも負けていない。もともとロシアはインドに対し、

核燃料を供給し、施設建設も行なってきた。しかし2004年までに、現行の

NSGガイドライ

ンに抵触するとの批判が高まり、協力停止に追い込まれていた(18)事情がある。ロシア側は すぐにでも、巨大なインド原子力市場で利益を上げるため、協力を再開したいとの意欲を 抱いている。2007年

11

月のプーチン大統領とシン首相の首脳会談においても、原子力分野 での協力推進は確認された。

2008

年2月の首脳会談では、

NSGガイドラインの修正があれば、

ロシア製原子炉増設に関する協定が結ばれる段取りで合意した。

インドにとって最も気がかりであったのは、中国の動向である。なるほど中国はインド それ自体を「脅威」とは決して考えていないが、米国の対印接近には、強い警戒感を抱い てきた(19)からである。しかしながら、いやだからこそ、中国としても、米国の対印接近に 対抗するかのように、台頭するインドとの経済的、戦略的関係構築を急速に図っている。

2006年 11

月の胡錦濤国家主席訪印の際に発表された共同宣言には、国際協定や不拡散原則

に従いつつ、という条件付きながら、印中間でも民生用原子力協力を推進するとの文言が 初めて公式文書に盛り込まれた。依然として、NSGの場で中国が支持を与えるとの直接的 な発言はないものの、2008年

1月の首脳会談後に、シン首相は中国側の反応に満足し、中国

が反対することはないとの感触を得たとの自信を示した。このインド側の解釈を中国側が 正面から否定していないことを考えれば、中国は国内の左翼勢力ほど大した障壁にはなる まい(20)

ブラジル、南アフリカといった他の成長する地域大国にも、3ヵ国(IBSA: India, Brazil,

South Africa)

外相・首脳会談などの場を利用してインドは早くから働きかけてきた。その結

果、基本的に協定を支持する姿勢を確認している。米国以外の国々との原子力協力への道 筋を明確に示すことは、インド政府にとって、国内左翼勢力を説得する好材料にもなりえ よう。

日本や北欧諸国のなかには、態度を明確にしていない国もあるが、NSGの大勢はすでに インドの「特例扱い」へと傾いている。昨今の「地球温暖化」の危機感とそれを防止しよ うとするグローバルな規範ならびにレジームの形成が、この原子力協力にいっそうの正当 性を付与していることも注目に値する(21)

(8)

米議会内には、もちろん、自らの可決した「ハイド法」の精神を骨抜きにされたとの不 満がくすぶってはいる。前述のインド国内事情を考えれば、インドがIAEAと

NSG

のプロセ スを完了するには、さらに時間を要するとみられる。そのため、2008年秋の米大統領・議 会選の結果が、米議会での最終承認に及ぼす影響も否定はできない。とはいえ、共和党政 権下の「ハイド法」自体が、民主党主導の議会においてさえ、圧倒的大差で可決された(22)

ことを踏まえれば、今後、NSGで認められた協力協定を議会内の原則論者がひっくり返す ことができるとは考えにくい。250万人とも言われる在米インド人社会(ディアスポラ)も、

「ハイド法」制定時と同様に、承認へ向けて強力なロビー活動を展開するであろう。

すなわち、民生用原子力に関する印米協力協定の発効、さらに他国との協力への道が開 かれるかどうかの最大の鍵は、インド国内政治が握っている。元来、インドの外交・安全 保障政策は、国内要因に規定される側面が強い。本稿でみてきた核兵器をめぐる政治過程 には、その傾向が如実に表われている。

われわれに突きつけられた課題―プラグマティックな新政策の必要性

これまでに述べてきたことを踏まえれば、インドをめぐる原子力協力について、われわ れにはまだ考える時間が残されているかもしれない。さりとて、永久に模様眺めを決め込 むわけにはいくまい。時間を要したとしても、最終的には―米大統領選後、あるいはイ ンド総選挙後に―判断を迫られる可能性が高い。われわれとしては、まずもって、

NPT

へ の無条件参加を求めた1998年の安保理決議がいまや死文化し、インドを「特例扱い」して 民生用原子力協力を認めようという国際潮流が支配的となった現実に向き合う必要がある。

このなかで、わが国が核軍縮・不拡散を目指すのであれば、よりプラグマティックな対応 が不可欠であることは明らかである。この議論に際してとくに留意すべき点をまとめれば、

以下のようになろう。

第一に、すでに別のところで論じた(23)ように、インドに挑戦しつづけてきた「核保有国」

パキスタンの破綻国家化を防ぎ、CBMsを含む和平プロセスの維持をインドに対してつねに 確認・支援することである。インドが、「台頭する大国」として、パキスタンに「大人の対 応」をつづけることが、印パ間の危うい「核の平和」を少しでも安定化させる前提条件と なる。

第二に、いま始められようとしている民生用協力が、インドの核軍拡につながらないよ うな保証が必要である。民生用の燃料供給を外部に委ねることで、軍事用への転用がこれ まで以上に容易となるような環境は、許すわけにはいくまい。インドの核軍拡が、中国や パキスタンを含む軍拡競争にエスカレートし、地域を不安定化させる事態は最悪のシナリ オである。

これと関連して最後に、インドがたとえNPTとCTBTの外側にとどまりつづけるとしても、

実質的に核軍縮と不拡散にコミットすることが確実なものとならなければならない。その ための新たな制度的枠組みが求められよう。この検討は、かならずしも現行体制の枠組み に限られるものではあるまい。出発点は、核軍縮や不拡散の体制そのものではなく、地域、

(9)

および世界の人々の安全の確保、恐怖からの解放にあることをあらためて確認しておきた い。

1) 合意文書全文は、http://www.hindu.com/nic/123agreement.pdf で入手可能(2008年2月9日アクセス) 文書公表日は8月1日付けとなっている。

2 2008年1月3日現在の推測数(http://www.nukestrat.com/nukestatus.htm、2008年2月9日アクセス)

3) 印パの「核保有」の得失に関しては、すでに拙稿で論じているのでそちらを参照されたい。伊藤 融「核保有の論理とその内外への影響―南アジア核時代の10年」『アジア研究』第53巻第3

(2007年)、43―56ページ。このような核の「政治利用」の危険性を指摘したものとして、V. R.

Raghavan, “Nuclear Weapons’ Evolving Role,” The Hindu(Jan.17, 2003)は興味深い論考である。

4) 詳しくは、インド原子力局の組織図(http://www.dae.gov.in/sectt/daeorg/images1/daeorg.htm#、2008 2月10日アクセス)、ならびにインド原子力委員会のウェブサイト(http://www.aec.gov.in/、2008 年2月10日アクセス)を参照のこと。

5 J. N. Dixit, India’s Foreign Poicy 1947–2003, Picus, 2003, pp. 95–96. インディラ・ガンディー首相は、

1968年4月5日の連邦下院での討議で次のように述べ、不参加の決意をにじませた。(NPTに調印

しないことは)犠牲と困難を伴うかもしれませんが、この国の真の力を構築する第一歩となり、

われわれは自足へ向けて前進することができるようになるでしょう」(http://www.indianembassy.org/

policy/Disarmament/disarm10.htm、2008年2月7日アクセス)

6) たとえば、2000年のNPT再検討会議について、国会での外相声明(http://mediaindia.nic.in/disarm- ament/dm10may00.htm、2008年2月7日アクセス)や、Brahma Chellaney, “NPT facing uncertain future,”

The Japan Times(Apr. 24, 2000)を参照されたい。

7) 堀本武功「国際政治における南アジア―インド外交と印米関係」『アジア研究』第52巻第2

(2006年)、41―42ページ。

8 http://www.indianembassy.org/pic/PR_1998/June98/prjune698.htm および http://www.indianembassy.org/

pic/PR_1998/June98/prjune1498.htm(2008年2月7日アクセス)にインド政府の公式見解が掲載され

ている。

9) クリントン政権の国家安全保障会議(NSC)南アジア担当補佐官を務めたブルース・ライデルの報 告書は、カルギル紛争でパキスタン陸軍が核使用を検討・準備し、米国の介入により核戦争を寸前 で回避できたとしている(Bruce Reidel, American Diplomacy and 1999 Kargil Summit at Blair House, Center for the Advanced Study of India, 2002)

(10) http://mediaindia.nic.in/pressrelease/2003/01/04pr01.htm(2008年2月8日アクセス)。インドの代表的 な戦略家は基本的にこれを支持した。K. Subrahmanyam, “Essence of Deterrence: Put in Place the Strategic Triad,” The Times of India(Jan. 7, 2003); Jasjit Singh, “Controlling the Nuclear Genie,” Indian Express(Jan. 8,

2008).政治的には、印パ危機さなかの2002年初め頃から、インドに対し、その核ドクトリンを明

らかにするよう西側が求めていた(John Cherian, “The Nuclear Button,” Frontline, Jan. 18–31, 2003)

(11) 戦略対話の詳細については、米側の交渉役ストローブ・タルボット国務副長官の回顧録に詳しい。

Strobe Talbott, Engaging India: Diplomacy, Democracy, and the Bomb, Brookings, 2004.

(12) 2007年4月から12月までのインド全土の電力供給のうち、原子力の占める割合は、わずか2.4%

にすぎない(http://www.cea.nic.in/power_sec_reports/Executive_Summary/2007_12/4.pdf、2008年2月11 日アクセス)。ちなみに、日本では原子力発電が約3分の1を占める。

(13) 印米協議そのものについては、すでに多くの研究が発表されている。詳しくはたとえば以下を参 照のこと。吉田修「米印核協力と核不拡散の課題」『国際問題』第554号(2006年9月)、伊豆山真 理「米印原子力協力をどう見るか」『防衛研究所ニュース』第109号(2007年)、堀本武功「冷戦後 におけるアメリカのアジア政策―米印核協力をめぐって」『ノモス』第20号(2007年)、小川伸

(10)

一「米印原子力協力の意義と課題」『国際安全保障』第35巻第2号(2007年)。また、日本政府に おける分析としては、原子力委員会国際問題懇談会がまとめた報告書(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/

iinkai/teirei/siryo2007/siryo46/siryo46-1.pdf、2008年2月12日アクセス)がある。

(14) 米国は、200710月末には、キッシンジャー元国務長官までかりだして、安保理常任理事国入 りもちらつかせつつ、インドの与野党に協定発効を促した。

(15) 左翼勢力の代表格、共産党マルクス派の決議文は以下に掲載されている。http://www.hindu.com/

nic/cpimresolution.htm(2008年2月4日アクセス)

(16) The Hindu(Nov. 18, 2007).

(17) ニューデリーテレビ(NDTV)が2007年8月に行なった世論調査では、44%が印米協力について

「知らない」と回答した(http://www.ndtv.com/convergence/ndtv/story.aspx?id=NEWEN20070024115、

20082月12日アクセス)。また、途上社会研究センター(CSDS)がその翌月に行なった調査で

は、64%が「まったく聞いたことがない」とし、この問題を次期総選挙の重要な争点と答えた者は、

6%にすぎなかった(http://news.oneindia.in/2007/09/08/survey-predicts-near-majority-for-upa-in-case-of- snap-polls-1189263834.html、2008年2月12日アクセス)

(18) 吉田、前掲論文、18ページ。

(19) 広瀬崇子「印中接近の要因と限界」『海外事情』第53巻第10号(2005年)、47ページ。高木誠一 郎「中国と南アジア」、日本国際問題研究所編『南アジアの安全保障』、日本評論社、2005年、111 ページ。D・スバ・チャンドラン、レカ・チャクラバルティ「成長するインド―外交政策の再定 義」『国際問題』第567号(2007年12月)、57ページ。堀本武功「印中関係の現状と展望」『国際問 題』第568号(2008年1・2月合併号)、64ページ。

(20) C. Raja Mohan, “The Nuclear Endgame,” The Indian Express(Jan. 16, 2008). ラージャ・モハンによれば、

中国側にはもともとインドが米国と組んで中国を封じ込めようとしているのではないかとの疑念 があったが、その意図がないことをシン首相が保証した成果だという。

(21) 2007年8月の安倍晋三首相訪印時に、温暖化問題への取り組みを求めた日本側に対し、インド側

はそのためにも原子力協力が必要であり、これを支持するよう求めてきたという。他方、2008年1 月に訪印したサルコジ大統領は、原子力協力支持の立場から、核拡散に手を染めてこなかったイ ンドを特例扱いすることは、地球温暖化問題に照らしてみても当然だと持ち上げた。

(22) 2006年中間選挙後の11月の上院本会議で85対12の大差で可決された。

(23) 伊藤融、前掲論文、54ページ。

「連載講座:インドの台頭とアジア地域秩序の展望」印は既刊)

第1回 成長するインド― 外交政策の再定義(2007年12月号)

D・スバ・チャンドラン/レカ・チャクラバルティ(平和研究所〔ニューデリー〕 第2回 印中関係の現状と展望(2008年1・2月合併号)

堀本武功(尚美学園大学教授)

第3回 印米関係における継続と変化(2008年3月号)

サトゥ・P・リメイエ(イースト・ウェスト・センター〔ワシントン〕 第5回 日印関係(2008年5月号)

湯澤 武(日本国際問題研究所研究員)

いとう・とおる 島根大学准教授 [email protected]

Referensi

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