一 は じ め に 二〇
〇三 年四 月 九日
︑バ グ ダー ドの フィ ルド ゥ ース 広場 で
︑ 群衆 の一 部と 進攻 して き た米 国の 海兵 隊員 がサ ッ ダー ム・ フ セイ ン大 統領 の銅 像を 引 き倒 した 事件 は︑ 二四 年 間に わた っ て国 家権 力を 握っ てき た フセ イン 体制 の崩 壊を 全 世界 に印 象 づけ た︒ 隣 国イ ラン のイ スラ ー ム体 制の 要人 にと って
︑ 米国 の軍 事 介 入に よ る イラ ク のフ セ イ ン・ バ ース 党 体 制の
﹁ 転覆
﹂ は
︑ さま ざま な意 味で
︑特 別 の感 慨あ るい は恐 怖心 を 呼び 起こ す もの で あっ たで あ ろう こと は
︑想 像に 難 くな い︒ それ は単 に
︑ 一九 七九 年二 月の イラ ン にお ける 反王 政﹁ イス ラ ーム
﹂革 命 とほ ぼ前 後す る同 年七 月 に︑ 国家 の全 権を 掌握 し たサ ッダ ー
ム・ フセ イン 大統 領の 体 制が
︑イ ラン のイ スラ ー ム体 制と ほ ぼ﹁ 同じ 年﹂ だっ たこ と や︑ フセ イン 大統 領が
︑ 八〇 年九 月 から 八 八年 八月 ま で八 年間 の 戦争 を戦 った
﹁宿 敵
﹂で あっ た
︑ とい う理 由に 尽き るか ら では ない
︒当 然そ こに は
︑フ セイ ン 体制 を転 覆さ せた のが
︑ 唯一 の軍 事超 大国 とし て
﹁意 のま ま に﹂ 行 動す るブ ッ シュ 米国 政 権で あり
︑そ のブ ッ シュ 政権 が
︑ カー ター 政権 以来 これ ま での 歴代 米国 政権 がと っ てき た対 イ ラン
﹁敵 視﹂ 政策 を︑ 少 なく とも レト リッ クの レ ベル にお い て︑ はる かに 強め
︑イ ラ ンの イス ラー ム共 和国 体 制を イラ ク のフ セイ ン体 制 と同 じカ テ ゴリ ー︵
﹁ 大 量 破 壊 兵 器
﹂ の 開 発
・ 配 備 を 目 指 し
︑﹁ テ ロ 支 援
﹂ を 行 な う
﹁ な ら ず 者 国 家
﹂︑
﹁ 悪 の 枢 軸
﹂︶ に入 れて
︑非 難し てき てい るこ とが 背景 にあ る
︵ 1
︒︶
し たが って
︑三 月二
〇日 の 開戦 が︑ イラ ン暦 で は年 度末 で
35
イ ラ ク 戦 争 後 の イ ラ ン 国 内 対 立 の 激 化
│ 岐 路 に 立 つ イ ラ ン
・ イ ス ラ ー ム 体 制 と
﹁ 改 革 路 線 ﹂
松
永
泰
行
あ り︑ 翌二 一 日か ら 始ま る新 年 休暇
︵ ノ ー ル ー ズ 休 暇
︶ の 直 前に あた って いた にも か かわ らず
︑二 二日 には ハ ータ ミー 大 統領 が 議長 を務 める
﹁国 家安 全保 障 最高 評議 会﹂︵ S N S C
︶ の会 合が 開か れ︑ 全軍 総 司令 官で ある ハー メネ イ ー最 高指 導 者が
︑遊 説先 のマ シュ ハ ドか ら急 遽帰 京し 特別 に 参加 した こ とか らも
︑イ ラン の体 制 指導 部が 米国 の対 イラ ク 攻撃 をい か に深 刻な 事 態と 受け 止め てい たか をう かが う こと がで きる
︒ イ ラン 政府 は︑ イラ ク 戦争 をめ ぐっ ても
︑二
〇
〇一 年の ア フガ ニス タン 攻撃 と同 様 に︑ 国交 関係 のな い米 国 と︑ 水面 下 での 協調 関係 を築 くこ と で︑ 二国 間関 係の 好 転に つな げる こ とを 目 指し
︑対 イ ラク 軍事 攻 撃に 原則 反 対な がら も︑
﹁積 極 的 中立
﹂と の姿 勢を 打ち 出 して いた
︵ 2
︒︶
し かし
︑そ の よう なイ ラ ン政 府の 期待 にも かか わ らず
︑イ ラク 戦争 の最 中 の三 月末 よ り︑ シ リア と並 ん で︑ イラ ク の﹁ 国内
﹂情 勢に
﹁ 不当 に介 入
﹂ して いる とブ ッシ ュ政 権 幹部 から 非難 され
︑ま た 五月 一二 日 にサ ウジ アラ ビア のリ ヤ ード で︑ アル
・カ ーイ ダ の末 端組 織 の犯 行と みら れる 爆弾
﹁ テロ
﹂事 件が 発生 する と
︑イ ラン に 対す る﹁ テロ リス ト庇 護
﹂の 非難 がぶ り返 され る こと にな っ た︒ さ らに 六月 に入 ると
︑ 二〇
〇二 年一 二月 以 来︑ 注目 を集 め てい るイ ラン の核 燃料 サ イク ル施 設建 設に 関 する 核兵 器開 発
疑 惑 が
︑ 二 日 の フ ラ ン ス の エ ヴ ィ ア ン で の 主 要 国 首 脳 会 議
︵ G 8
︶ で討 議さ れた
︒ま た︑ 一六 日か ら ウィ ーン 本部 で開 催 さ れた 国際 原子 力 機関
︵ I A E A
︶ の 理事 会に おい て
︑二
〇
〇三 年二 月に 行な われ たI A EA によ るイ ラン の 関連 施設 の 査察 に関 する 報告 が︑ 大手 国 際メ ディ アの 注目 を 集め た︒ そ の背 景に は︑ ブッ シュ 政 権が IA EA に対 して
︑ イラ ンが 現 時 点で すで に核 拡散 防 止条 約︵ N P T
︶ に 違反 し てい ると 宣 言す るよ う︑ 圧力 をか けて い たこ とが あっ た︒ そ の結 果︑ 背 景や それ ぞれ の政 府の 行動 が 大幅 に異 なっ てい る にも かか わ ら ず
︑朝 鮮 民 主 主 義人 民 共 和 国︵ 北 朝 鮮
︶ と な らぶ
﹁ 危 機
﹂ がイ ラン をめ ぐっ ても 出現 し てい るか のよ うな 印 象を 与え る 報道 や議 論が
︑多 数み られ るこ とに なっ た
︵ 3
︒︶
し かし
︑こ れら のイ ラン を めぐ る国 際的 な問 題 より も︑ そ の潜 在的 なイ ンパ クト にお い て︑ また 長期 的な 意 味合 いに お いて も︑ より 注目 され るの は
︑イ ラク 戦争 後に 急 速に 表面 化 し てき て い るイ ラ ン国 内 の 政治
・ 社会 情 勢 にお け る﹁ 危 機
﹂ であ る︒ イラ ンの 現体 制 への
﹁根 本的 な揺 さぶ り
﹂と して 表 面化 して きて いる この
﹁ 危機
﹂は
︑上 述の よう な 地域
・国 際 情勢 を背 景と して 現出 し てい るこ とや
︑ま たそ れ によ って 少 なく ない 影響 を受 けて い るこ とを 否定 する こと は でき ない も のの
︑根 本的 には
︑内 発 的な 性格 をも つも ので あ る︒ 本論 で
は︑ そ の内 容と 背 景︑ さら に その イン パク トの 背 景に つい て
︑ 分析 およ び 検討 を試 みた い
︒
︵ 1
︶ 一 九 七 九 年 の イ ラ ン 革 命 後 の 米 国 歴 代 政 権 の 対 イ ラ ン
・ イ ラ ク 政 策 の 転 変 の 経 緯 に つ い て は
︑ 例 え ば
︑ 松 永 泰 行
﹁ イ ラ ク 戦 争 関 連 年 表
﹂︑ 寺 島 実 郎
・ 小 杉 泰
・ 藤 原 帰 一 編
﹃﹁ イ ラ ク 戦 争
﹂
│
検 証 と 展 望
﹄︑ 岩 波 書 店
︑ 二
〇
〇 三 年
︑ 三 三 一
│ 三 三 八 ペ ー ジ を 参 照
︒ ま た
︑ ブ ッ シ ュ 政 権 の 対 イ ラ ン 政 策 の 展 開 と そ の イ ン パ ク ト に つ い て は
︑ 松 永 泰 行
﹁﹃ 悪 の 枢 軸
﹄ 演 説 と イ ラ ン の 反 応
﹂﹃ 海 外 事 情
﹄ 二
〇
〇 二 年 五 月 号
︑ 三 二
│ 四 八 ペ ー ジ
︑ ま た
︑ 同
﹁ イ ラ ン 改 革 派 を 追 い 詰 め る
﹃ テ ロ 後
﹄ の 情 勢
﹂﹃ 現 代 中 東 研 究
﹄ 第 六 巻 第 一 号
︵ 二
〇
〇 二 年 一
〇 月
︶︑ 二 九
│ 三 四 ペ ー ジ を 参 照 さ れ た い
︒
︵ 2
︶ 二
〇
〇 一 年 九 月 の
﹁ 九
・ 一 一
﹂ 事 件 か ら
︑ ア フ ガ ニ ス タ ン に お け る 米 国 の
﹁ 対 テ ロ 戦 争
﹂ を 経 て
︑ 同 年 一 二 月 初 め の ア フ ガ ニ ス タ ン 暫 定 統 治 機 構 に 関 す る ボ ン 合 意 の 成 立 ま で の
︑ イ ラ ン の 米 国 に 対 す る 協 調 姿 勢 に つ い て は
︑ 松 永 泰 行
﹁ 展 開 す る 国 際
・ 地 域 情 勢 と イ ラ ン
﹂︑ 酒 井 啓 子 編
﹃﹁ テ ロ
﹂ と
﹁ 戦 争
﹂ の も た ら し た も の
﹄︑ ア ジ ア 経 済 研 究 所
︑ 二
〇
〇 二 年
︑ 三 五
│ 五
〇 ペ ー ジ
︑ を 参 照 さ れ た い
︒
︵ 3
︶ こ れ ら の 問 題 点 に つ い て の 議 論 に 関 し て は
︑ 松 永 泰 行
﹁ イ ラ ン の
﹃ テ ロ 支 援
﹄﹃ 核 兵 器 開 発
﹄ 疑 惑 の 虚 実
﹂﹃ 世 界 週 報
﹄ 二
〇
〇 三 年 七 月 一 五 日 号
︑ 二 二
│ 二 五 ペ ー ジ を 参 照 さ れ た い
︒ 二 第 二 期 ハ ー タ ミ ー 政 権 と
﹁ 改 革 二 法 案
﹂ の 提 出
﹁イ ラク 戦争 後﹂ にイ ラ ン国 内で 急 速に 表面 化 して いる
﹁ 危
機﹂ の発 端と なっ たの は︑ 国 会に おけ るす べて の 立法 措置 が 法律 と して 発布 さ れる 前に その 適正 を 審査 する 監 督評 議会 が
︑ 国会 がイ ラク 戦争 中の 四月 八 日に 可決 し付 託し て いた
﹁大 統 領義 務権 限法
﹂改 正法 案を
︑ 五月 九日 に憲 法違 反 とし て却 下 した こと にあ った
︵ 1
︒︶
こ の法 案 は︑ 二〇
〇二 年九 月 にハ ータ ミ ー大 統 領が
︑﹁ 改革 停滞
﹂ の打 破を 図 るた めの 二 期目 の目 玉と して
︑﹁ 国会 選 挙法
﹂改 正 案と 併せ て 国会 へ提 出 して いた もの であ った
︵ 第 1 表 参 照
︒︶ ハ ータ ミー 政府 が﹁ 国会 選 挙法
﹂改 正案 にお い て変 更を 目 指し てい るの は︑ 監督 評議 会 によ る各 種選 挙の
﹁ 監督
﹂権 の 内容
︑特 に監 督評 議会 が行 な う立 候補 資格 審査 の 性格 に関 す るも ので あっ た︒ この 問 題は
︑一 九九 七年 のハ ー タミ ー政 権 成立 を遡 る九 二年 の第 四 期国 会選 挙か ら︑ ハー タ ミー 派改 革 勢力 の前 身で ある
﹁イ ス ラー ム左 派﹂ 勢力 が問 題 視し てき た もの であ っ た
︵ 2
︒︶
争 点と なっ てい るの は︑ 現 行の 一九 九五 年改 正 の国 会選 挙 法 に お い て
︑ 監 督 評 議 会 の 立 候 補 事 前 審 査 が
﹁ 審 認 的
﹂
︵estesvabi
︶︑ すな わ ち監 督評 議 会が 各々 の 立候 補申 込者 の 経 歴︑ 過去 の言 動や 評判 を審 査 し︑ 立候 補者 とし て 相応 しい と して 承認 しな けれ ば︑ 立候 補 資格 はな いと され て いる 部分 で ある
︵3
︒︶
これ を
︑﹁ 確 証的
﹂︵estetlài
︶ な 審査
︑す なわ ち
﹁無 資
37 イラク戦争後のイラン国内対立の激化─ 岐路に立つイラン・イスラーム体制と「改革路線」
格﹂ と 判定 せざ るを えな い 法的 文 書等 が ある 場合 を除 いて
︑ 原則 的 に立 候 補を 認め る事 前審 査 へと 変 更す る こと が︑ 憲法 下で の 国民 の 被 選 挙 権 の
﹁ 制 度 化
﹂ を 目 指 す
﹁改 革派
﹂の 立 場で ある
︒ ハー タミ ー政 権が
︑監 督 評議 会 の立 候補 資 格審 査を めぐ っ て法 改 正を 準備 し 始め たの は︑ 二
〇〇
〇 年の 第六 期 国会 選挙 でハ ー タミ ー 大統 領支 持 の改 革派 が多 数 派を 占 め る こ と に な っ た 後 に 行 な わ れ た︑ 二〇
〇 一年 一二 月の 欠員 補 充 の た め の 補 欠 選 挙 の 直 後 で あ っ た︒ した が って
︑二
〇〇 二年 九 月 の時 点 では
︑政 府︵ 内 務 省
︶ が 国 会選 挙 法改 正案 を︑ 閣議 決 定を 経 て国 会 に提 出す る準 備を し てい た こと は︑ 周知 の 事実 であ った
︒ それ と対 照的 に︑ 二〇
〇 二年 八 月二 八 日に
︑年 に一 度の 政 府週 間
2003.1.8 監督評議会,拷問禁止法案を却下
1.11 テヘラン普通裁判所,改革派系『バハール』紙を再び発禁処分 1.14 内務省,テヘラン市評議会を解散
1.21 監督評議会,衛星テレビ受信装置設置許可法案を却下
1.27 国家安全保障最高評議会,モンタゼリー師の自宅軟禁を5年ぶりに解除 1.28 国会,国会選挙法の第2次審議を開始,監督評議会の「審認監督」権を
削除
(1.28)(ブッシュ大統領,一般教書演説で,自由を求める民意を弾圧している とイランの体制を非難)
2.2 「世論調査機関」裁判でアブディらに7年の実刑判決
2.9 大統領,演説でイランの核燃料サイクル・プログラムの全容を明らかに 2.18 司法府,アーガージェリー裁判の再審理を一審法廷で行なうと発表 2.28 地方評議会選挙(改革派惨敗)
3.7 国会,国会選挙法改正案を最終可決
3.15 大統領・国会議長ら,監督評議会の予算増額決定に抗議して公益評議 会の会議退席
3.17 国会,年度最終の審議日に大統領義務権限法の2条項を可決 3.19 年度末の仕事納め
(3.20)(米国による対イラク戦争開始)
3.21 最高指導者,年始にあたりマシュハドのイマーム・レザー廟で演説 3.22 国家安全保障最高評議会,最高指導者を交えて米英の対イラク戦争を
協議
3.28 金曜礼拝前に反米・反サッダーム・デモ行進,テヘランの英国大使館 に投石
3.29 大統領,仕事始めで大統領府スタッフに演説 4.1 監督評議会,国会選挙法改正案を却下 4.8 国会,大統領義務権限法改正案を最終可決
(4.9)(イラク・バース党政権崩壊,首都バグダード陥落)
*以降の動きは第 2 表(47ページ)を参照.
の記 者会 見 でハ ー タミ ー 大統 領 が 提出 を発 表 した
﹁ 大統 領 義務 権 限 法﹂ 改正 案 は︑ そ の一 年 前の 二
〇
〇一 年八 月 に成 立 して い た第 二 期 ハー タミ ー 政権 の
︑い わ ば新 機 軸 と 言 え るも の で あ っ た︒
﹁ 大 統 領 義 務 権 限 法
﹂︵ 全 一 九 条
︶ は
︑ 現 最高 指導 者 のハ ー メネ イ ー師 が 大 統領 であ っ た一 九 八六 年 一一 月 に 制定 され た もの で
︑今 回 の改 正 案 は︑ 同法 の 憲法 執 行に 関 する 責 務 を 扱う 第 三章
︵ 第 一 三 条 か ら 一 六 条
︶ に補 足 修正 を加 える も ので あ る︒ 修正 の 趣旨 は
︑国 家 機関 に よ る憲 法違 反 の事 例 に対 し て︑ 憲 法 第一 一三 条 によ っ て﹁ 憲 法執 行 の 責任 者﹂ と され て いる 大 統領 の 取 りう る 措置
︵ 手 続 き
︶ を明 確に し︑ その よう な 措置 に 対す る 各国 家 機 関や
︑司 法 府・ 立 法府 の 長の 協 力 義務 を明 確 にし
︑ さら に 違反 者 に
39
第 1 表 イラク戦争前のイラン内政の主な動き
2002.8.28 ハータミー大統領,政府週間の記者会見で改革2法案提出を表明 8.31 161名の国会議員,大統領提案への支持声明を発表
9.1 政府,国会選挙改正法案を国会へ提出 9.24 政府,大統領義務権限法改正案を国会へ提出
9.28 改革派学生団体,大統領に改革断行か辞任かを迫る公開書簡
10.20 大統領,国会演説(5ヵ年計画進捗年次報告),民主制確立の必要性を 強調
10.22 最高指導者,演説で「デモクラシー」批判,経済汚職こそが問題と主張 11.4 国勢調査機関弾圧で改革派要人アッバース・アブディを逮捕
11.6 国会,国会選挙法改正案を第一次審議(総論可決)
11.7 改革派言論人アーガージェリー教授に対する死刑判決発表 11.9 死刑判決に抗議する学生デモ,始まる
11.10 国会,大統領義務権限法改正案を第一次審議(総論可決)
11.16 最高指導者が上告審での判決見直しを指示との報道にもかかわらず,
学生抗議行動は沈静化せず.監督評議会,プレス法廷・政治法廷の陪 臣制度についての法案を却下
11.19 学生デモと保守派暴力集団との衝突激化(翌日の学生デモを中止に追 い込む)
12.3 「世論調査機関」裁判始まる
12.7 「大学生の日」で集会中の学生と右派暴力集団が衝突,学生多数が逮捕 される
12.10 サーデギー司法府スポークスマン(副長官),アーガージェリー死刑判 決の取り扱いなどを巡って抗議辞任.国会,衛星テレビ受信装置設置 許可法案を可決
12.15 国会,拷問禁止法案を可決
12.16 国会,政治犯罪規定法(修正)案を可決 12.18 国会,衛星テレビ受信装置設置許可法案を可決
(12.20)(ブッシュ大統領,ペルシャ語放送局 Radio Farda を通じて,体制を非 難しイラン国民の自由の希求を支持)
対す る罰 則 規定 を明 示す る︑ とい うも ので あ った
︵ 4
︒︶
こ れら の措 置は
︑一 九 九七 年八 月の ハー タミ ー 政権 成立 か ら一 年を 経ず して 始ま っ た︑ 革命 裁判 所な ど司 法 府に よる 改 革派 系 の新 聞・ 雑 誌な どの 発 行禁 止処 分 や︑ ジャ ーナ リス ト
︑ 政治 活動 家︑ イス ラー ム 学者 の逮 捕・ 投獄 や︑ 一 部の 活動 家 の被 選挙 権の 制限 など
︑ 改革 派の 視点 から は︑ 憲 法で 保障 さ れて いる 言論 の自 由や 被 選挙 権な ど政 治・ 社会 的 権利 の﹁ 不 当か つ 非合 法的 な 侵害
﹂の 事 例に 対し て
︑ハ ータ ミー 政権 が
︑ 大統 領の
﹁介 入﹂ の不 在 を非 難す る﹁ 国民 世論
﹂ に応 える 姿 勢を みせ た もの と解 釈で きる もの であ った
︒ も っと も︑ 法案 の条 文 を詳 細に 検討 する と︑ 大 統領 府側 の 担当 機関 とし て明 示さ れ てい る︑ ハー タミ ー政 権 下で 設置 さ れた
﹁憲 法執 行フ ォロ ー アッ プ・ 監督 委員 会
﹂が
︑あ る国 家 機関 によ って 憲法 違反 が 犯さ れた と判 断し て も︑ それ を関 係 す る法 廷︵ 例 え ば 行 政 裁 判 所
︶ に 送致 す るこ と がで きる だ け であ り︑ その 後︑ 該当 す る関 係者 が憲 法違 反を 行 なっ たか ど うか
︑ま た行 なっ たと 判 断し た場 合に 罰則 を科 す のは
︑あ く まで も司 法 府の 側︵ 例 え ば 行 政 裁 判 所
︶ で ある
︒ した が って
︑ 保守 派の みで 占め られ て いる 司法 府と
︑ハ ータ ミ ー大 統領 側 の改 革派 の間 の︑ ゼロ
・ サム 的な 政治 対立 の現 状 を踏 まえ る と︑ 仮 に同 法の 改 正案 が法 律 とな って も
︑現 実の
﹁憲 法侵 害
﹂
行為 をそ れに 基づ いて 大統 領 府側 から 働き かけ て 是正 させ る 可能 性は
︑ほ とん どな いと 言っ ても 過言 では ない
︒
︵ 1
︶ イ ラ ン
・ イ ス ラ ー ム 共 和 国 の 中 央 政 府 機 構 と 監 督 評 議 会 な ど 各 国 家 機 関 の 憲 法 上 の 役 割 に つ い て は
︑ 松 永 泰 行
﹁ イ ラ ン の 地 方 行 政 制 度 と 新 州 設 立 を め ぐ る 政 治 プ ロ セ ス の 動 態
﹂︑ 伊 能 武 次
・ 松 本 弘 編
﹃ 現 代 中 東 の 国 家 と 地 方
︵
Ⅱ
︶﹄
︑ 日 本 国 際 問 題 研 究 所
︑ 二
〇
〇 三 年
︑ 二 八
│ 三
〇 ペ ー ジ を 参 照 さ れ た い
︒
︵ 2
︶ 革 命 後 イ ラ ン の 選 挙 制 度 と
︑ そ の な か で の 監 督 評 議 会 の 役 割 に つ い て は
︑ 松 永 泰 行
﹁ イ ラ ン
・ イ ス ラ ー ム 共 和 国 に お け る 選 挙 制 度 と 政 党
﹂﹃ 中 東 諸 国 の 選 挙 制 度 と 政 党
﹄︑ 日 本 国 際 問 題 研 究 所
︑ 二
〇
〇 二 年
︑ 四
│ 一 九 ペ ー ジ
︵ あ る い は
﹇http://www.jiia.or.jp/pdf/global̲issues/h14̲m-e/matsuna-
ga.pdf
﹈︶ を 参 照 さ れ た い
︒
﹁ イ ス ラ ー ム 左 派
﹂﹁ 改 革 派
﹂ や 抵 抗 勢 力 と し て の
﹁ 保 守 派
﹂ な ど
︑ ハ ー タ ミ ー 政 権 下 の 各 政 治 勢 力 の 利 害 と 対 立 構 造 に つ い て は
︑ 松 永 泰 行
﹁ 第 六 期 国 会 選 挙 後 の イ ラ ン 内 政 の 現 状 と 今 後 の 展 望
﹂﹃ 中 東 研 究
﹄ 第 四 六
〇 号
︵ 二
〇
〇
〇 年 三 月
︶︑ 二
│ 一 二 ペ ー ジ
︑ お よ び
︑ 同
﹁ ハ タ ミ
・ イ ラ ン 大 統 領 再 選 と
﹃ 改 革
﹄ の 行 方
﹂﹃ 世 界
﹄ 第 六 九 一 号
︵ 二
〇
〇 一 年 八 月
︶︑ 三
〇
│ 三 三 ペ ー ジ を 参 照 さ れ た い
︒
︵ 3
︶ よ り 広 く
︑ 監 督 評 議 会 に よ る 選 挙 の
﹁ 審 認 的 監 督
﹂ と は
︑
﹁ 選 挙 に 関 わ る あ ら ゆ る プ ロ セ ス に お い て
︑ 監 督 評 議 会 が 設 置 す る 監 督 委 員 会 が 承 認 し て い な い も の は す べ て 無 効
﹂ と の 意 味 で あ る
︑ と さ れ て い る
︒ 松 永
︑ 前 掲 論 文
﹁ イ ラ ン
・ イ ス ラ ー ム 共 和 国 に お け る 選 挙 制 度 と 政 党
﹂︑ 一
〇 ペ ー ジ 参 照
︒
︵ 4
︶ 国 会 に 提 出 さ れ た 法 案 の ペ ル シ ャ 語 原 文 は
︑ ハ ー タ ミ ー 派
の
﹁ イ ス ラ ー ム
・ イ ラ ン 参 加 戦 線
﹂︵ I I P F
︶ 党 の イ ン タ ー ネ ッ ト
・ サ イ ト 上
﹇http://www.jebhemosharekat.com/
Rooydad/30/P03.html
﹈ に 掲 示 さ れ て い た
︒ 三 ハ ー タ ミ ー 大 統 領 と 改 革 派 と の 間 で 露 呈 し た
﹁ ず れ
﹂ 第 1表 に掲 げた とお り
︑二
〇〇 二年 九月 以降
︑ 二九
〇の 定 数の 内の 一二 五か ら一 六
〇議 席を
︑ハ ータ ミー 大 統領 支持 の 改革 派 が占 める
︑第 六期 国会
︵ 二
〇
〇
〇 年 五 月
│ 二
〇
〇 四 年 五 月
︶ は︑ 政府 提出 の国 会選 挙法 改正 案と 大統 領義 務権 限法 改 正案 に加 え て︑ 国会 自ら が発 案 し法 案化 した
︑﹁ 拷問 禁止 法案
﹂︑
﹁政 治犯 罪規 定 法案
﹂︑
﹁衛 星テ レビ 受信 装置 設置 法案
﹂な ど も 可決 して いた
︒そ して
︑ これ らの 法案 もこ とご と く監 督評 議 会に よっ て 却下 され
︑法 律 とし て成 立し ては いな かっ た︒ し かし なが ら︑ 上述 の とお り︑ 二〇
〇二 年八 月 にハ ータ ミ ー大 統領 自身 が記 者会 見 でそ の国 会提 出を 宣言 し
︑同 政権 の 第二 期目 の﹁ 主要 案件
﹂ と政ヽ 治ヽ 的ヽ にヽ 位 置づ けて お り︑ 一六 一 名の 国会 議員 がそ のイ ニ シア ティ ブを 支持 する 声 明を 出し て いた ため
︑両 法案 の行 方 は︑ ハー タミ ー派
﹁改 革 勢力
﹂全 体 の政 治的 命運 を左 右す る もの と喧 伝さ れて きて い た︒ した が って
︑イ ラク 戦後 の五 月 九日 に﹁ 大統 領義 務 権限 法﹂ 改正 法
案 が却 下 さ れた こ とは
︑ 監 督評 議 会が 四 月 一日 に
﹁選 挙 法
﹂ 改正 法案 をす でに 却下 し てい たた め︑ ハー タミ ー 大統 領を 始 めと する 改 革派 に重 大な
﹁ 政治 的決 断﹂ を迫 るも のと なっ た
︵ 1
︒︶
そ れに もか かわ らず
︑態 度 を明 確に しな いま ま
︑五 月一 二 日に レバ ノン
・シ リア など ア ラブ 四ヵ 国歴 訪に 出 発し てし ま った 大統 領を 尻目 に︑ 改革 派 の活 動家 たち は極 め て大 胆な 行 動に 出た
︒ま ず︑ 数日 後 に迫 った 預言 者ム ハン マ ドの 生誕 祝 日 を 機 に
︑ 現 職 の 国 会 議 員 九 名 を 含 む 一 一 六 名 の 政 治 活 動 家・ ジャ ーナ リス ト・ ウ ラマ ー・ 大学 教授 など が
︑五 月一 四 日付 で連 名で 署名 した
︑ 外か らの 脅威 に対 して 国 力を 強化 す る方 策に 関す る﹁ 統治 者 たち への 助言 と警 告﹂ と 銘打 った 声 明文 を 発表 した
︵ 2
︒︶
この 声明 文の 署名 者 リス トは
︑﹁ イス ラ ーム 法学 者の 絶対 統治
﹂︵velayat-emotlaqeh-yefaqih
︶ を早 くか ら 批判 し︑ 政治 プロ セス から 事実 上締 め出 され
﹁部 外者
﹂︵ ア ウ ト サ イ ダ ー
︶ と呼 ば れて きた
︑﹁ イラ ン自 由運 動﹂︵ F M I
︶ な どの リベ ラル 派︵ 自 称
﹁ 宗 教 的 ナ シ ョ ナ リ ス ト
﹂︶ と︑ ハー タ ミー 派改 革路 線の 中核 を担 っ てき たイ スラ ーム 左 派系 の﹁ 体 制内 改革 派﹂ の要 人た ちを 中 心と しな がら
︑い ま だに 獄中 に ある ハー シェ ム・ アー ガー ジ ェリ ー︑ 刑期 を終 え て出 てき て 間も ない エマ ーデ ッデ ィ ーン
・バ ーギ ー︑ さら に 二〇
〇三 年 一月 末に 五年 ぶり に自 宅 軟禁 を解 かれ たア ヤー ト ッラ ー・ モ
41 イラク戦争後のイラン国内対立の激化─ 岐路に立つイラン・イスラーム体制と「改革路線」
ンタ ゼリ ーの 息子 やモ フ セン
・キ ャデ ィー ヴァ ル など のイ ス ラー ム法 学者 など を同 時 に含 むと いう
︑イ ラン
・ イス ラー ム 共和 国体 制 下で は前 代未 聞の 構成 から 成っ て いた
︵ 3
︒︶
署 名者 たち はそ の声 明 文の なか で︑ 最高 指導 者 の任 免下 に ある 司 法府 や監 督 評議 会な ど の保 守派 機関 が︑
﹁ 改革
﹂に 抵 抗 し︑ 憲法 で保 障さ れて い る国 民の 権利 を蹂 躙し て いる との 現 状を
︑﹁ 政治 権力 の維 持の 目的 での 宗 教の 悪用
﹂ すな わち
﹁ 宗 教的 独裁
﹂︵estebdad-e
dini
︶ であ ると 批 判し た
︒署 名 者は さ らに
︑そ の現 状に
﹁強 い 不満 と懸 念﹂ を表 明し
︑ 外か らの 脅 威に さ らさ れて い る現 状で イ ラン を救 う唯 一の 途 は︑
﹁民 意 を 受け 入れ る﹂ こと であ る と断 じる 一方 で︑ 現状 の 継続 は﹁ 改 革不 能な ポイ ント
﹂へ と 国を 押し やる もの であ る
︑と 警告 し た︒ 続 いて
︑こ の声 明文 に 追い 討ち をか ける よう に
︑五 月二 一 日に は︑ 一二 七名 の改 革 派国 会議 員が 連名 で︑ ハ ーメ ネイ ー 最高 指導 者へ の長 文の 書 簡を 発表 した
︒そ のな か で改 革派 議 員は
︑国 内の 政治
・社 会 的亀 裂の 存在 と外 か らの 脅威 が重 な った 現在 を︑ 近代 以降 の イラ ンに おけ る﹁ 未 曾有 の国 難﹂ と 位 置 づ け
︑ そ の 背 景 を ハ ー タ ミ ー 政 権 成 立 で 国 民 が 求 め た
﹁改 革
﹂の 実現 を こと ごと く 阻止 して きた 保守 派 の﹁ 破壊
﹂ 活 動の 結果
︑国 民は
︑﹁ イラ ンで は 何も 変わ らな い﹂
︑ま た現 体
制下 では
﹁民 意は まっ た く影 響力 をも たな い﹂ と 確信 する に 至っ た こと にあ る
︑と 断言 し た︒ その うえ で︑
﹁ 残さ れた 時 間 は少 ない
﹂と し︑ 体制 の 要人 は国 民に 対し 謝罪 す べき であ る と明 言し た︒ それ は﹁ 国 民に 対し て頭 を垂 れ︑ 国 内の 団結 を 強め る こと は︑
︵ そ れ を 拒 否 し て い く ら 独 裁 を 強 め て も
︑ 国 の 独 立 を 失 い
︶ 外国 人に 対し 頭を 垂れ る︵ 結 果 に な る
︶ 事態 を防 ぐこ と﹂ につ なが るか らで あ る︒ した がっ て︑ イ スラ ーム 革 命の 成果 を無 に帰 させ ない た めに は︑ 憲法 下で 特 権を 与え ら れて いる 最高 指導 者が
﹁毒 杯 を飲 む﹂ 気概 で︑ 民 意を 受け 入 れる との
﹁英 断﹂ をす べき であ る︑ と迫 るも ので あっ た︒
﹁ 外か らの 脅 威﹂ と﹁ 国 民か らの 不 満﹂ を表 向 きの 理由 とし なが らも
︑自 らの 中核 的な 支 持者 を含 む著 名政 治 活動 家・ 言 論人 たち が︑ 現状 を﹁ 宗教 的 独裁
﹂と 断罪 し﹁ 体 制存 亡の 危 機﹂ を煽 る声 明文 を発 表 した こと や︑ 自分 の頭 越 しに 最高 指 導者 に対 して 事実 上の
﹁ 最後 通牒
﹂を 送り つけ た こと は︑ ハ ータ ミー 大統 領を 守勢 へ と追 い込 むこ とに なっ た
︒改 革派 国 会議 員の 最高 指導 者に 対 して の書 簡は
︑国 内的 に は国 家安 全 保障 評議 会事 務局 の命 令 で一 切の 報道 が禁 止さ れ たが
︑イ ン ター ネッ ト等 を通 じて 出 回り
︑イ ラン 内外 で周 知 の事 実と な って いた
︵ 4
︒︶
皮 肉な こと に︑ この 事態 を 受け てハ ータ ミー 大 統領 が︑ 六
年 前の 大統 領 選挙 記念 日 であ る五 月 二三 日︵ ホ ル ダ ー ド 月 二 日
︶ に発 表し た声 明文 は︑ ハー タミ ー大 統領 とそ の足 元の 改 革派 の間 の﹁ ずれ
﹂を 浮 き出 させ るも のと なっ た
︒そ の声 明 文で ハ ータ ミー 大 統領 は︑
﹁六 年前 の 熱気 や情 熱 が冷 めて し ま った
﹂ こと を認 め る一 方で
︑﹁ ホル ダ ード 月二 日
﹂改 革路 線 の 強調 点で あっ た︑ 国民 主 権の 原則 や法 的権 利や 自 由の 保障 と いう
﹁ 約束
﹂や そ れへ の﹁ 決 意﹂ を︑
﹁わ れわ れ は今 日も 見 失 っ てい な い
﹂と し なが ら も
︑数 々 の失 敗 が あっ た とす れ ば
︑ それ に対 し て謝 罪を する
︑ との 姿勢 を示 して いた
︒ し かし 同時 に大 統領 は
︑国 民が
﹁ホ ルダ ード 月 二日
﹂に お いて 求 めて いた 自 由や 民主 主 義や 独立 や進 歩は
︑﹁ イス ラー ム 共和 国﹂ とい う現 体制 の 枠組 み下 での み可 能で あ る︑ と言 い 張っ た︒ その 理由 は︑ ま ず﹁ イス ラー ム共 和制
﹂ が︑ 革命 や 戦争 を通 じた 多大 な犠 牲 を払 って イラ ン国 民が 手 に入 れた も ので ある こ と︑ さら に︑
﹁イ スラ ー ム共 和制
﹂の
﹁精 神﹂︵ruh
︶ は︑ 宗教 的価 値の 精神 性
・倫 理性 と︑ 国民 主権
・ 自由 の両 者 をバ ラ ンス よく 実 現す るイ ス ラー ム体 制の 構築 に あり
︑﹁ ホ ル ダー ド月 二日
﹂改 革運 動 が求 めた もの も︑ まさ に それ であ っ たか らで ある
︑と して い た︒ した がっ て︑ ハー タ ミー 大統 領 は
︑改 革 派 も保 守 派も 含 め たす べ ての イ ラ ン国 民 に対 し て
︑ 革命 と憲 法の 本来 の﹁ 精 神﹂ に則 るこ とで
﹁イ ス ラー ム共 和
国体 制﹂ を強 化す るよ う懇 願す るこ とで 声明 文を 結ん でい た
︵ 5
︒︶
︵ 1
︶ 例 え ば
︑ 五 月 一 一 日 の I I P F 系 の
﹃ ヤ ー セ
・ ノ ウ
﹄ 紙 は
︑
﹁ ハ ー タ ミ ー は ど う す る の か
?
﹂ と い う 一 面 見 出 し を 掲 げ た
︒ 一
〇 日 に ラ マ ザ ン ザ ー デ 内 閣 報 道 官 は
︑﹁ ハ ー タ ミ ー 大 統 領 が
︵ 監 督 評 議 会 に よ る 大 統 領 権 限 法 改 正 案 の 却 下 に
︶ ど う 対 処 す る か わ か ら な い
︒ し か し
︑ 大 統 領 は 繰 り 返 し
︑ こ の 法 案 は 国 民 に 奉 仕 す る た め に 必 要 な
︵ 保 守 派 に 対 す る
︶ 最 低 限 の 要 求 で あ る
︑ と 述 べ て き た
﹂ と 語 っ て い た
︵ 同 日
︑ イ ラ ン
・ イ ス ラ ー ム 共 和 国 通 信
︹ I R N A
︺ 電
︶︒
︵ 2
︶Yas-eNou,20May2003,p.12.
同 声 明 の 原 文 は
︑﹇http://
www.kadivar.com
﹈ や
﹇http://www.nehzateazadi.org/
﹈ に も 掲 載 さ れ て い る
︵ 前 者 に は 英 訳 も あ り
︶︒
︵ 3
︶ 実 は こ れ ら の 署 名 者 は
︑ ほ ぼ 同 じ 顔 ぶ れ で す で に 一 回
︑ イ ラ ク の バ ー ス 党 政 権 が 崩 壊 し バ グ ダ ー ド が 陥 落 し た 四 月 九 日 の 翌 日 に
︑﹁ 地 域 情 勢 に 関 す る イ ラ ン の 政 治 勢 力 の 声 明 文
﹂ と 題 さ れ た 二 ペ ー ジ の 文 書 に 署 名 し 発 表 し て い た
︒Yas-eNou,12
April2003,p.12
︑ お よ び
﹇http://www.kadivar.com
﹈ を 参 照
︒
︵ 4
︶ 例 え ば
︑﹇http://news.gooya.com/2003/05/24/2405-h-25.
php
﹈.
︵ 5
︶Yas-eNou,24May2003,p.2.
四 封 じ 込 め に 失 敗 す る
﹁ 体 制 派
﹂ し かし その 後の 展開 は︑ い った ん要 求を
﹁最 後 通牒
﹂化 さ せた 改革 派が
︑ハ ータ ミー 大 統領 の懇 願を 聞き 入 れる よう な 状 態 に は も は や な い と い う こ と だ け で な く
︑ 何 を
﹁ 改 革
﹂
43 イラク戦争後のイラン国内対立の激化─ 岐路に立つイラン・イスラーム体制と「改革路線」
︵eslah
︶ すべ きだ とし てい るの か︑ とい う 根本 的な 問題 に おい て両 者の 間に 重大 な違 い が出 てき てい るこ とを 露 呈さ せる こ とに なっ た
︒ 改 革派 議員 から の書 簡 につ いて の報 道を 禁じ る こと で︑ 最 高指 導者 や保 守派 が﹁ 黙 殺﹂ を決 め込 んで いた と きに 起こ っ たの が︑ テヘ ラン 市内 や 地方 都市 で六 月一
〇 日か ら一 週間 を 超え て毎 晩続 いた
︑学 生 や一 般の 若者 が通 り で抗 議行 動や 騒 乱を 繰り 返す とい う事 態 であ った
︒こ れら は
︑一 九九 九年 七 月の 襲撃 事件 とそ れに 続 く騒 擾事 件で も発 端 とな った
︑テ ヘ ラ ン大 学 のア ミ ー ルア ー バ ード 寮 で︑ 国 立 大学 の
﹁民 営 化
﹂ が決 定 され たと い う報 道に 対 する 抗議 と して 始ま った 集会 が
︑ 在米 の 反体 制ペ ル シャ 語衛 星 テレ ビ放 送 の﹁ 教唆
﹂も 影響 し
︑ 小 規 模 な が ら 幅 広 い 若 年 層 の 参 加 者 や 野 次 馬 が 入 り 乱 れ た
﹁反 秩序
・嫌 体制
﹂騒 乱へ と発 展し たも ので あっ た︒ これ らの 騒 乱で は︑ 確か に叫 ばれ て いた スロ ーガ ン︵
﹁ ハ ー メ ネ イ ー 師 を 処 刑 せ よ
﹂﹁ ハ ー タ ミ ー 大 統 領 は 辞 任 せ よ
﹂ な ど
︶ はこ れま でに なく
﹁過 激
﹂で あり
︑一 般の 若者 が 右派 の﹁ 民 兵 組 織
﹂︵ ア ン サ ー レ
・ ヘ ズ ボ ッ ラ ー
︶ の 若 者 を 襲 う と い う
﹁逆 暴 力﹂ 行為 など
︑新 し い要 素も 見 受け られ た
︒し かし こ の よう な︑ 何の 背後 組織 も 指導 者も 存在 しな い形 の 騒乱 だけ で は︑
﹁体 制の 危機
﹂に つな がる こと はな かっ た︒
そ のよ うな 状況 を変 えた の は︑ 騒乱 が続 いて い た最 中の 六 月一 四日 に︑ 五月 一四 日に 声 明文 を出 した 活動 家 らの グル ー プが
︑国 会議 員の 最高 指導 者 に対 する 書簡 を支 持 する との 新 たな 声 明文 を︑ 二 四八 名の 連名 でイ ン ター ネッ ト 上で 発表 し
︵1
︑︶
それ が二 日後 に改 革派 の﹃ ヤ ーセ
・ノ ウ﹄ 紙で も 堂々 と報 道 さ れた こと で あっ た
︵ 2
︒︶
そ の内 容 は︑
﹁絶 対 統治 権
﹂︵qodrat-e
motlaqeh
︶ の主 張 は︑ 今日 の世 界の 民主 主義
︵mardomsalari
︶ の原 則に 反す るだ けで なく
︑ イス ラー ムの 伝統 に おい ても 神 に対 する
﹁多 神崇 拝﹂
︵sherk
︶ で あり
︑尊 厳を もつ 人間 に対 する
﹁ 不正
﹂︵zolm
︶ であ ると 断言 した も ので あっ た
︒ま たイ スラ ーム の伝 統に おい ては
︑ 市民 やそ の民 主的 な 代表 者で あ る国 会議 員が 統治 者に 進言 書 を送 るこ とは
︑認 め られ た﹁ 慣 習﹂
︵sonnat
︶ で ある と して
︑保 守派 の
﹁批 判﹂ を痛 烈 に反 批 判し たも ので あっ た︒ さ らに 毎晩 続い てい た小 騒 乱を よう やく
﹁封 じ 込め
﹂た 政 府が
︑一 九九 九年 の学 生寮 襲 撃事 件の 記念 日で あ る七 月九 日
︵ テ ィ ー ル 月 一 八 日
︶ の前 後 での
﹁ 再発
﹂を 防 ぐた め に︑ 学 期 末試 験を 休暇 後に 延期 し︑ 前 倒し で大 学を 夏季 休 暇に 持ち 込 み︑ キ ャン パス 内 外で の集 会の 開催 を 禁止 する 措 置を とっ た
︒ する と︑ かつ ては ハー タミ ー 大統 領支 持の
﹁ホ ル ダー ド月 二 日﹂ 改革 運動 の一 翼を 担っ て いた
︑各 大学 の学 生 イス ラー ム
協会 の上 部組 織で ある
﹁ 統一 強化 事務 所﹂ のア ッ ラー メ・ タ バー タバ ーイ ー大 学派 の 一〇 六名 が︑ 六月 二六 日 にハ ータ ミ ー大 統領 に対 する 辞任 を 求め る公 開書 簡を 発表 し た︒ その な かで 彼ら
﹁学 生運 動活 動 家た ち﹂ は︑ 今後 イス ラ ーム 共和 国
﹁体 制派
﹂︵hakemiyat-ejomhuri-yeEslami
︶ のな かで
︑最 高指 導者 とそ の
﹁任 免者
﹂︵hakem-eentesabi
︶ と︑ 大統 領 や国 会 議員 な どの
﹁民 選﹂ の指 導者
︵hakem-eentekhabi
︶ とを 区 別 しな いと 宣言 した
︵ 3
︒︶
さら にこ れら の学 生活 動家 は
︑そ の書 簡 を﹁ イ スラ ーム 共 和国 体制 派 との 最後 の対 話﹂ と 銘打 ち︑
﹁ 正 当性 が地 に落 ちて いる
﹂ イラ ン・ イス ラー ム体 制 と学 生運 動 との 対決 は︑ 前者 に とっ てど のよ う な﹁ 終 焉﹂︵farjam
︶ が待 って いる かを ハー タミ ー 大統 領は 理解 すべ きで あ ると 警告 す るこ とで 結 んで いた
︵ 4
︒︶
そ れで も︑ 事前 の治 安 対策 が功 を奏 し︑ 比較 的
﹁平 穏﹂ 裏 に七 月九 日を 通過 した と 思う やい なや
︑止 めを 刺 すか のよ う に︑ 上述 の改 革派 の活 動 家グ ルー プが
︑今 度は 三 五〇 名の 連 名で
︑最 高指 導者 に宛 て た書 簡を 発表 した
︒そ の 内容 は︑ 樹 立後 二五 年を 経て
﹁イ ス ラー ム共 和国 は現 在
︑運 命を 決す る 岐路
﹂に 直面 して おり
︑ 民意 を踏 みに じり
︑ 国民 の﹁ 憤懣 の 嵐
﹂を 引 き起 こ し てい る
﹁ イス ラ ーム と 憲 法の 独 裁的 解 釈
﹂ に基 づく 体 制を 貫く か︑
﹁ 憲法 の国 民主 権的 な解 釈﹂ を選 択し
︑
国を 救い
︑外 から の脅 威 を撃 退す るか を選 択し な くて はな ら ない
︑と 断ず るも ので あ った
︒さ らに
︑署 名者 た ちは
︑ハ ー メネ イー 最 高指 導者 に対 し て︑
︵1
︶司 法府 の 幹部 の一 掃︑
︵2
︶ 監督 評議 会や 公益
︵ 体 制 益
︶ 判 別評 議 会な ど
︑﹁ 任 免﹂ 機関 の メン バ ーの 改編
︑︵ 3︶ ハー タミ ー大 統領 の改 革二 法案 の認 証
︑
︵ 4︶ 国内 の政 治 環境 の平 穏化
︑と いう 四つ の 具体 的な 行動 を 危急 に求 めて いた
︵ 5
︒︶
︵ 1
︶
﹇http://www.emrooz.org/pages/date/82-03/25/tribune11.
htm
﹈.
︵ 2
︶Yas-eNou,16June2003,p.16.
﹃ ヤ ー セ
・ ノ ウ
﹄ 紙 掲 載 時 に は
︑ 署 名 者 数 は 二 五 二 名 に 増 え て い た
︒
︵ 3
︶
﹇http://www.emrooz.org/pages/date/82-04/05/tribune01.
htm
﹈.
︵ 4
︶ こ の 学 生 運 動 活 動 家 の 書 簡 の 背 景 に つ い て は
︑ そ の 指 導 者 で 署 名 者 の 一 人 で あ る サ イ ー ド
・ ラ ザ ヴ ィ ー
= フ ァ ギ ー フ が M E R I P と の イ ン タ ビ ュ ー で 明 ら か に し て い る
︒"OurLetter
toKhatamiwasaFarewell:AnInterviewwithSaeedRazavi-
Faqih,"July15,MiddleEastReportOnline,2003,
﹇http://
www.merip.org/mero/mero071503.html
﹈. な お
︑ ラ ザ ヴ ィ ー
= フ ァ ギ ー フ は こ の イ ン タ ビ ュ ー
︵ 七 月 八 日
︶ の 二 日 後 に
︑ テ ヘ ラ ン 市 内 で 正 体 不 明 の 治 安 要 員 に 銃 口 下 で 連 れ 去 ら れ
︑ 本 稿 執 筆 時
︵ 七 月 二 五 日
︶ 現 在
︑ 消 息 は 不 明 な ま ま と な っ て い る
︒
︵ 5
︶
﹇http://www.emrooz.org/pages/date/82-04/24/news01.
htm
﹈. こ の 声 明 文 は
︑﹃ ヤ ー セ
・ ノ ウ
﹄ 紙 に も 掲 載 さ れ な か っ た が
︑ 国 外 で は ロ イ タ ー 通 信 や A F P 通 信 な ど を 通 じ て 報 道 さ れ
45 イラク戦争後のイラン国内対立の激化─ 岐路に立つイラン・イスラーム体制と「改革路線」
た
︒"Reformers:IranMustChooseDemocracyorDespotism,"
Reuters,July15,2003;"IranianDissidentsSeektoApplyMore
PressureonSupremeLeader,"AFP,July15,2003;"Nameh-ye
DigarbeRahbar-eIran,"BBCPersian,2003/07/15.
五 ど の よ う な
﹁ 危 機
﹂ か
? 以上 のよ うな
︑﹁ イラ ク 戦争 後﹂ の 四ヵ 月の 間 にイ ラン 国 内 で展 開し てき てい る︑ イ ラン
・イ スラ ーム 共和 国 の﹁ 統治 者 た ち﹂ への 要求 の 数々
︵ 第 2 表 参 照
︶ や
︑ 六月 一〇 日以 降 の 社会 情勢 を踏 まえ るな ら ば︑ 国内 から イラ ンの イ スラ ーム 体 制に 対す る﹁ 根本 的な 揺 さぶ り﹂ が起 きつ つあ る こと は︑ 否 定で きな い事 実で あろ う
︒そ のよ うな
︑い わば
﹁ 未曾 有の 危 機﹂ を作 り出 すこ とに
︑ とり わけ 貢献 して い るの が︑ 四月 半 ばか ら毎 月︑ リ ベラ ル系
︵ 宗 教 的 ナ シ ョ ナ リ ス ト
︶﹁ オポ ジシ オ ン﹂ と イス ラ ー ム左 派 系︵
﹁ ホ ル ダ ー ド 月 二 三 日
﹂ 改 革 派
︶ の活 動家
・言 論人 が合 同 で提 出し てき てい る声 明 文で あっ た
︵ 第 2 表
* 印
︶︒ 七 月一 五 日に 同 グル ープ から 出 され た もの が
︑ 声明 文で はな く︑ ハー メ ネイ ー最 高指 導者 宛て の 書簡 であ っ たこ とを 考え ると
︑二
〇
〇三 年七 月半 ばの 時点 で
︑こ れら 一 連の
﹁要 求の 突き つけ
﹂ は一 つの クラ イマ ック ス に達 した と 判断 でき る
︒
そ れで は︑ 現在 の状 況が 一 九七 九年 以来 のイ ラ ン・ イス ラ ーム 体制 にと って の﹁ 未 曾有 の危 機﹂ であ ると し ても
︑そ れ はど のよ うな
﹁危 機﹂ であ ると 考え るべ きで あろ うか
︒ まず
︑﹁ イラ ク戦 争後
﹂ のイ ラン 国 内情 勢の 展 開に おい て明 ら かに な っ てき た こと の 一 つは
︑ 前節 で も 検討 し たと お り
︑ 一九 九七 年の ハー タミ ー大 統 領登 場以 来の
﹁改 革
﹂の 意味 内 容に 根本 的な 変容 が生 じて い る︑ とい うこ とで あ る︒ これ ま でハ ータ ミー 大統 領や そ の取 り巻 きの 改革 派が 言 うと ころ の
﹁ 改革
﹂ とは
︑﹁ 体制 内改 革﹂ の意 味で あり
︑ それ は︑ 七九 年 のイ スラ ー ム革 命の 成果 物 であ る﹁ 共 和制
﹂︵jomhuriyat
︶ を︑ その 内実 を保 障す る憲 法の と おり に﹁ 実現
﹂す る とい うも の であ った
︒上 述の 五月 二三 日 のハ ータ ミー 大統 領 の声 明に も 現わ れて いる とお り︑ それ は︑
﹁イ スラ ーム 共和 制﹂ の﹁ 理 想﹂ に は何 ら 問 題は な く︑ そ の 実現 を 拒ん で き た諸 々 の﹁ 障 害
﹂ を排 する こと が﹁ 改革
﹂の 目 的お よび 内容 であ る
︑と の主 張 であ った
︒ そ れに 対し て︑ ここ 数ヵ 月 の間 に表 面に 出て き てい る主 張 は︑ 抵抗 勢力 とし ての 保守 派 の意 図と 彼ら の実 際 の行 動を 踏 ま える と
︑﹁ 体 制 構 造改 革
﹂が 不 可 避で あ る︑ と い うも の で ある
︵1
︒︶
その 背景 に は︑
﹁イ スラ ーム 統 治﹂ の強 要 と︑ 国民 主権 の原 則や 現実 の﹁ 民意
﹂と の 間に 大き な齟 齬が 生 じた 場合 に
ど ち ら を 優 先 さ せ る の か︑ とい う問 題を もは や 避 け る こ と は で き な い
︑ との 認識 があ る︒ した が って
︑そ のよ うな 主張 が︑
﹁ ホ ル ダ ー ド 月 二 日
﹂ 改 革路 線の
﹁生 みの 親﹂ で ある とこ ろの 政治 活動 家 や言 論人 から 出て きた こ とに
︑現 在の 状況 が強 烈 なイ ンパ クト をも って い る理 由が ある
︒ し かし なが ら︑ これ ら の 活 動 家 た ち が
﹁ 改 革
﹂
︵eslah
︶ と いう 言 葉 で 表 現す る内 容が 質的 に変 化 して きた とし ても
︑実 際 に﹁ 構造
﹂を 変革 する た めの
﹁有 効な 手段
﹂を 欠 いて いる よう に見 受け ら れる 点で は︑ これ まで の
47
第 2 表 「イラク戦争後」のイラン国内における「危機」の展開
(4.9)(イラク・バース党政権崩壊,首都バグダード陥落)
4.10* 182名の改革派活動家・ジャーナリスト等が,「地域情勢に関するイランの 政治勢力の声明文」と題した文書に署名(4月12日付改革派系『ヤーセ・ノ ウ』紙に署名者リストとともに掲載)
4.11 最高指導者,金曜礼拝演説で米英の攻撃による民間人の被害と攻撃の隠さ れた意図を非難,イラク・バース党政権の崩壊は歓迎
5.6 国会,国民投票要請手続き施行細則案の第1次審議(総論可決)
5.9 監督評議会,大統領義務権限法改正案を却下
5.10 革命裁判所,サハービーら宗教的リベラル派15名に実刑判決
5.14* 116名の改革派活動家,「独裁体制へ警告し,民意の受け入れを要求する」
声明文に署名
5.21 127名の改革派国会議員,最高指導者に書簡(国家安全保障最高評議会事務 局の命令で書簡に関する一切の報道が禁止に)
5.23 大統領,1997年選挙の記念日を機に声明を発表,イスラーム共和制の枠内 での改革継続を懇願
6.1 大統領,改革2法案の取り扱いについて国会議長に書簡を送付
6.10 テヘラン大学学生寮前で学生の抗議集会から若者の嫌体制・反秩序騒乱,始 まる
6.14* 248名の改革派活動家,国会議員の最高指導者への書簡を支持する声明発表 6.20 毎夜の騒乱,いったん終息へ,通算で数千名の学生他の若者が逮捕・拘束
される
6.26 106名の改革派学生運動家,ハータミー大統領に書簡,辞任を迫る 7.6 改革派学生組織「統一強化事務所」,国際連合事務総長へ書簡送付 7.8 反体制知識人ソルーシュ,大統領に辞任を迫る書簡を送付
7.9 レザー・ハータミー=イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)党書記長,学 生などの不当逮捕に関し大統領に書簡.1999年の学生寮襲撃事件騒乱の記 念日で,一部,若者と右派暴力集団が衝突,学生らが逮捕される
7.10 学生運動指導者ラザヴィー=ファギーフ,正体不明の治安要員によって連れ 去られる
7.13 大統領,4閣僚にザフラー・カーゼミー死亡事件の特別調査を命じる 7.15* 350名の改革派活動家が最高指導者に書簡,4つの具体的な決断を迫る 7.20 国会,国会選挙法(修正)案を可決.151名の改革派議員,監督評議会の非
協力について大統領に書簡で報告
ハー タミ ー大 統領 らの
﹁ 体制 内改 革派
﹂と 同様 で ある
︒し た がっ て
︑﹁ 体制 構 造改 革派
﹂の 誰も
︑ 暴力 や超 法 規的 手段 に よ る﹁ 体制 構造
﹂の 改革 を 唱え てい るわ けで はな い ため
︑そ の 代わ りと して
︑現 憲法 下 で﹁ 大権
﹂を 与え られ て いる 最高 指 導者 に﹁ 英断
﹂あ るい は
﹁苦 渋の 選択
﹂を 迫る
︑ との 手段 に で て い る の で あ る
︒ さ ら に
︑ 現 在 ま で の と こ ろ
︑ こ れ ら の
﹁ 要 求
﹂ に 対 す る 最 高 指 導 者 側 の 反 応 は
︑﹁ 無 視
﹂ あ る い は
﹁黙 殺
﹂と いう も ので ある が︑ これ も
︑最 高指 導 者や その 側 に 付く
﹁体 制保 守派
﹂が 実 際に 国家 権力 を握 っ てい るこ とを 考 える と︑ 不 思議 では ない
︒ も っと も︑ これ らの 理 由か ら︑ 現在 の﹁ 危 機﹂ が理 論的 な 意味 合い での
﹁体 制の 危 機﹂ にす ぎな いと
︑ 過小 評価 する べ きで はな い
︒そ の理 由は
︑﹁ イス ラー ム法 学 者の
︵ 絶 対
︶統 治
﹂ との 決 別を 求め る 動き が︑ 一 九七 九年 革命 の担 い 手の
﹁中 核
﹂
︵ ホ メ イ ニ ー 師 支 持 の イ ス ラ ー ム 左 派 勢 力
︶ の なか から
︑こ れ ほど 明 確に 出て き たこ との 意 味合 いを 見落 とす べ きで はな い
︑ とい うこ とに とど まら な い︒ より 重要 なこ とに は
︑こ れら の
﹁要 求
﹂や
﹁最 後通 牒﹂ の 突き つけ が
︑現 在ま で のと ころ
﹁ 活 動家
﹂の レベ ルで のみ 起 きて おり
︑国 内の 一般 国 民や
︑外 国 勢力
︵ 例 え ば 在 米 の
﹁ 王 党 派
﹂ や ブ ッ シ ュ 政 権
︶ と
︑リ ンケ ー ジし ては いな いけ れど も
︑そ の一 方で
︑そ うな る 可能 性を 完
全に 除外 する こと はで きな い
︑と いう こと があ る
︒そ の意 味 では
︑イ ラン 国内 の﹁ 体 制構 造改 革派
﹂の 指摘 す る構 造的 問 題と
︑ブ ッシ ュ大 統領 が 二〇
〇二 年七 月か ら繰 り 返し 強調 し てい る
︑﹁ 選挙 で選 ばれ て いな い少 数 者﹂ が﹁ 大 多数 の国 民の 声を 抑圧 して いる
﹂と の 主張 との 重な りに
︑気 づ かざ るを え ない
︵2
︒︶
もち ろ ん
︑イ ラ ン国 内 の
﹁体 制 構造 改 革 派﹂ も
︑彼 ら が
︑ 米国 政府 のイ ラン に対 する
﹁ 内政 干渉
﹂的 な主 張 と重 なる 議 論を 行な うこ とは
︑イ ラン 国 内に おい て﹁ 第五 列
﹂と の謗 り を受 ける 危険 性を 伴う こと を 十分 に承 知し てい る
︒し かし な がら
︑ハ ータ ミー 政権 が 成立 して 以来
︑丸 六年 を 経て
︑保 守 派と 改革 派の 対立 の激 化 なら びに 深化 の結 果︑ そ のよ うな 危 険を 冒し てで も体 制構 造的 な問 題︵ お よ び そ れ に 立 ち 向 か わ な い
﹁ 改 革 派
﹂ 大 統 領 の 問 題
︶ に真 正面 から 向 き合 わな けれ ばな らな い︑ との 認識 に基 づく 行 動が
︑二
〇〇 二年 の 夏以 来の 改 革派 の﹁ 中核 グル ープ
﹂の 行 動の なか にみ てと れ ると いう 点 に︑ 現在 の状 況の 最も 重大 な側 面が 隠れ てい る︒
︵ 1
︶ こ の こ と を 最 も 明 ら か に 宣 言 し て い る 改 革 派 言 論 人 は
︑ 現 在 イ ン タ ー ネ ッ ト
・ ベ ー ス の
﹃ エ ム ル ー ズ
﹄ サ イ ト の 主 幹 で
︑
﹃ ソ ブ ヘ
・ エ ム ル ー ズ
﹄ 紙 編 集 委 員 な ど を 歴 任 し て き た
︑ ア リ ー レ ザ ー
・ ア ラ ヴ ィ ー タ バ ー ル で あ る
︒ア ラ ヴ ィ ー タ バ ー ル は
︑