はじ めに 戦国 時代
︑尾 張の 大名 であ った 織田 信長 は︑ 永禄 三( 一五 六〇) 年︑ 桶狭 間の 戦い で今 川義 元を 破り
︑そ の名 をは せた
︒の ち徳 川家 康と 同盟 し︑ 永禄 十一(
一五 六八) 年に は室 町将 軍・ 足利 義昭 を奉 じて 上洛 し天 下統 一を 目指 した が︑ 天下 統一 目前 の天 正十(
一五 八二) 年︑ 家臣
・明 智光 秀に 謀反 を起 こさ れ︑ 京都
・本 能寺 にて 四十 九歳 で自 刃し た︱
︒ 以上 のよ うな 信長 の生 涯を
︑現 代の 我々 が知 る手 段と して 欠か せな い のが
︑信 長の 家臣
︑太 田牛 一に よる
信長 の軍 記 であ る︒ 以下 にそ の 軍記 の奥 書を 引用 する
︒ 一巻
︑太 田和 泉守 牛一
︑生 国尾 張国 春日 郡安 食住 人︑ 頽齢 已ニ
竭︑ 拭二
渋眼
一ヲ
雖レ
尋二
老眼 之通 路一
︑不
レ顧
二愚 案ヲ 一︑ 心緒 浮所
︑染
二禿 筆一
訖︑ 予毎 篇日 記之 次イ テニ 書載 スル モノ 自然 成レ
集ト
也︑ 曽非
二私 作 私語
一ニ
︑直 不レ
除レ
有ヲ
︑不
レ添
レ無
︑ヲ
儻一 点書
レ虚 則ン ハ
天道 如何 ン︑ 見ン 人者 啻一 笑ヲ
シテ 令メ 下シ メ玉 ヘ
一笑
一ヲ
見上 レ実
ヲ
慶長 十伍 二月 廿三 日
太田 和泉 守 牛一(
花押) 丁亥 八十 四歳
︱池 田家 文庫 所蔵「
信長 記」 十三 巻奥 書よ り この 信長 の軍 記 につ いて
︑牛 一は 奥書 にて「 毎篇 日記 の次 いで に 書き 載す るも の︑ 自然 に集 と成 るな り」 と説 明し てい る︒ さら に「 私作
私語 に非 ず」「 有る こと を除 かず
︑無 きこ とを 添え ず」 と自 称し てお り︑ 牛一 の知 る事 実を 正確 に記 録す るこ とが 目指 され てい る︒ 信長 の軍 記 は︑ 当時 の社 会で 写本 とい う手 段で 広ま り︑ 多く の伝 本を 残し た︒ しか しこ の 信長 の軍 記 には
︑牛 一に より 明確 な題 が付 けら れた 形跡 が無 く︑ 伝本 によ り「 信長 公記」
︑「 原本 信長 記」
︑「 安土 記」
︑「 安土 日記」 な どの 様々 な外 題で 現在 に伝 わっ てい る︒ 以後
︑本 論文 では 各伝 本の 紹介 時を 除き
︑首 巻の 有無 に関 わら ず︑ 牛 一に よる 信長 の軍 記を 信長 記 と統 一し て呼 ぶこ とと する
︒ 本論 文の 第一 の目 的は
︑こ のよ うに 様々 な名 で多 くの 伝本 が残 され る 信長 記 の各 伝本 の幾 つか の記 述を 比較 する もの であ る︒ 信長 記 伝 本間 では 記述 の違 いが 多く 確認 され てお り︑ それ らは 牛一 の編 纂に よる もの や︑ 記述 され た時 代に よる もの など とし て論 ぜら れて いる
︒第 二に
︑ 伝本 比較 によ って 見出 され た記 述の 差異 が示 すこ とと は何 なの かを 探り
︑ そし て史 料と して 使用 する 際に 留意 して おく べき 伝本 の性 格や
︑伝 本群 での 位置 づけ など を目 指す もの であ る︒ 第一 章 太田 牛一 著 信長 記 につ いて 一︑ 信長 記 とは 太田 牛一 著 信長 記 とは
︑織 田信 長の 経歴 の正 確な 実録 をめ ざし た 軍記 であ る︒ 醍醐 寺座 主義 演の 日記 であ る 義演 准后 日記 の慶 長三 年 七月 十三 日条 には「 太田 又助 来︑ 信長 公以 来︑ 至当 代記 録書 之︑ 少々 は 暗誦 の躰 也」 とあ り︑ 牛一 によ る信 長の 記録 は慶 長三( 一五 九八)
年ま でに は何 らか の形 で記 述さ れて おり
︑そ の一 部を 暗誦 出来 るほ どに 整備 され てい たこ とを 示し てい る︒ 現在 に伝 わる 信長 記 とし ては
︑牛 一
太 田 牛 一 著 信 長 記 諸 本 の 比 較 研 究
小 山
千 紗 登
(
吉村
亨ゼ ミ)
・ 年 久美 浜町 史編 纂委 員会 久美 浜町 史 資料 編 久美 浜町 二〇
〇四 年
・中 嶋利 雄・ 原田 久美 子編 日本 民衆 の歴 史地 域編 一〇 丹後 に生 きる
︱ 京都 の人 々︱ 三省 堂 一九 八七 年
・ 京都 の自 由民 権運 動︱ 自由 と民 権を 希求 した 人々
京都 府立 丹後 郷 土資 料館 一九 九一 年
・今 西一
近代 日本 成立 期の 民衆 運動 柏書 房 一九 九一 年
・豊 岡市 史編 集委 員会
豊岡 市史 下巻
豊岡 市 一九 八七 年
・豊 岡市 史編 集委 員会
豊岡 市史 史料 編 下巻
豊岡 市 一九 九三 年
・森 谷尅 久 図説 京都 府の 歴史
河出 書房 新書 一九 九四 年
・井 ヶ田 良治
・原 田久 美子 編 京都 府の 百年
山川 出版 社 一九 九三 年
・京 都府 警察 史編 集委 員会 編 京都 府警 察史
第二 巻 昭和 五〇 年
・亀 岡市 史編 纂委 員会 編 新修 亀岡 市史
本文 編 第三 巻 一九 九五
・ 年 亀岡 市史 編纂 委員 会編 新修 亀岡 市史
資料 編 第三 巻 一九 九五
・ 年 綾部 市史 編纂 委員 会編 綾部 市史
下巻
一九 七六 年
・福 知山 市史 編纂 委員 会編
福知 山市 史 第四 巻 一九 九二 年
・今 井修 平ほ か 兵庫 県の 歴史
山川 出版 社 二〇
〇四 年
・田 辺町 近代 誌編 纂委 員会 編 田辺 町近 代誌
一九 八七 年
・長 岡京 市史 編纂 委員 会編
長岡 京市 史 本文 編二
平成 九年
・向 日市 史編 纂委 員会 編 向日 市史
下巻
昭和 六〇 年
・林 屋辰 三郎
・藤 岡謙 二郎 編 宇治 市史
第四 巻 昭和 六〇 年
・大 阪社 会労 働運 動史 編集 委員 会 大阪 社会 労働 運動 史 第一 巻 一九 八六 年
・新 修大 阪市 史編 纂委 員会
大阪 市史 第七 巻 一九 九四 年
直属 吏僚 集団 の一 員で あっ たか らで ある
︒つ まり 牛一 の軍 記の 真実 性を 保証 する もの は 日記 の記 録性
であ り︑ 当時 の著 者牛 一の 立場 や意 識 が 信長 記 の重 要な 要素 であ るこ とが 分か る︒ 牛一 は信 長の
信長 記 の他
︑「 信長 公以 来︑ 至当 代記 録」 とし て︑ 秀吉
︑秀 次︑ 秀頼
︑家 康の 各軍 記︑「 五代 軍記」
をも 執筆 した とさ れる
(
豊国 大明 神臨 時御 祭礼 記録
奥書)
︒し かし 現在 に残 る牛 一の 著作 の うち
︑ど の作 品が「
五代 軍記」 に当 ては まる もの であ るの かは 定か では なく
︑「 五代 軍記」
のう ちの 幾つ かは 失わ れて しま った ので はな いか と も言 われ る︒ 牛一 の作 品で 著名 なも のは
︑豊 臣秀 吉に 関す る記 録で ある 大か うさ まく んき のう ち 一巻
︑慶 長五(
一六
〇〇) 年の 関ヶ 原の 合戦 前後 の徳 川家 康に 関す る記 録で ある 関原 御合 戦双 紙 一巻
︑慶 長九( 一六
〇四) 年八 月十 八日 に行 われ た豊 国大 明神 臨時 御祭 礼の 記録 であ る 豊国 大明 神臨 時御 祭礼 記録 一巻
︑慶 長十 二( 一六
〇七) 年と 同十 四( 一六
〇九) 年の 公家 の風 紀紊 乱事 件の 記録 であ る 今度 之公 家双 紙 一巻 など であ る︒ 当時 の牛 一は
︑こ れら の著 作を 通じ て社 会に 認知 され
︑牛 一も それ を自 覚し てい たこ とが 推察 され る︒ この よう な意 識は
︑牛 一の 信長 記 編纂 に影 響を 与え たと 考え られ
︑杉 崎友 美氏 はこ のこ とに 着眼 した 史料 批判 が必 要で ある と指 摘さ れて いる( 6)
︒ 三︑ 十五 巻本 と「 首巻」 信長 記 と 信長 公記
の名 称の 定義 付け でも ポイ ント とさ れて い たの が︑「 首巻」
であ る︒「 首巻」
には
︑信 長の 上洛 以前 の事 績が まと め られ てい る︒ 冒頭 に「 是は 信長 御入 洛な き以 前の 双紙 なり」
とい う一 文 が付 せら れて おり
︑上 洛以 後の 十五 巻本 の前 に置 かれ てい る︒「 首巻」 と十 五巻 本部 分は
︑本 来は 別個 で成 立し たも ので あっ たと 考え られ てい る︒「 首巻」
の記 事は 必ず しも 年次 を追 って おら ず︑ 記事 に著 者で ある 牛一 の名 が三 度登 場し てい る︒ それ に対 し︑ 十五 巻本 部分 は年 次を 追っ た年 代記 で︑ 編著 者と して 以外 には 牛一 が登 場し ない
︒こ のこ とか ら︑
「
首巻」
と十 五巻 本部 分と では 著述 の姿 勢が 根本 的に 異な って おり
︑構 成が 一貫 され てお らず
︑十 五巻 本の 前編 とし て「 首巻」
を構 想し たと は
考え にく い為 であ る︒ また
︑牛 一の 自筆 本で ある 前田 家尊 経閣 文庫 所蔵「
永禄 十一
( 年記」
信長 記 一巻 に相 当す る部 分) 奥書 には
︑「 信長 京師 鎮護 十五 年︑ 始 十五 帖ニ 記置 候也」
とあ る︒ この 文面 から
︑ 信長 記 は 信長 が京 都 を制 圧し てい た十 五年 間 の信 長の 事跡 を出 来る だけ 忠実 に書 きの こそ うと した もの で︑ 牛一 の 信長 記 の対 象は あく まで も信 長の 天下 であ っ た十 五年 間で ある とい える
︒石 田善 人氏 は︑「 首巻」
と本 記部 分の 性質 につ いて
︑ 信長 記( 十五 巻本) が天 下人 とし ての 公的 な信 長を 描こ う とし てい るの に対 して
︑「 首巻」
は牛 一の 畏敬 すべ き主 君と して の私 的 な信 長を 描こ うと して いる
︑ 信長 記 が︑ 牛一 の体 験談 を通 して みた 信長 伝記 の形 にな らな かっ たの は︑ 牛一 が「 天下 十五 年」 の公 人と して の信 長を 描い たた めで ある と述 べら れて いる( 7)
︒ しか しな ぜ別 個で 成立 した はず の「 首巻」
が 信長 記 に付 随す る形 で伝 えら れて いる のか
︑と いう 疑問 が生 じる が︑ これ には 建勲 神社 所蔵
「
信長 公記」(
以後
︑建 勲神 社本) を親 本と する 写本 群( 以後
︑建 勲神 社 本系) の伝 来が 大き く関 わっ てい る︒ 第二 章
信長 記 諸伝 本に つい て 一︑ 建勲 神社 本系 と池 田家 本系 信長 記 伝本 は一 九四 七年 で十 一本( 8)
︑一 九七 五年 で二 十五 本( 9)
︑ そし て二
〇〇 九年 時点 では 自筆 本︑ 写本 に加 え独 立本 や抄 出本 など を含 め五 十九 の伝 本( 未確 認︑ 所在 不明 本除 く) が確 認さ れて いる()
︒牛 一 自筆 本と して は︑ 既に 紹介 した 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」( 以後
︑池 田 家文 庫本)
︑建 勲神 社本 が十 五巻 揃っ て残 され てい る︒ 前田 育徳 会尊 経 閣文 庫所 蔵「 永禄 十一 年記」
︑織 田澄 子氏 所蔵「
太田 牛一 旧記」
も自 筆 であ るが
︑残 欠・ 抄出 本で ある
︒ま た︑ 自筆 本で はな く写 しで ある が︑ 前田 育徳 会尊 経閣 文庫 所蔵「
安土 日記」
の様 に信 長の こと を一 貫し て
「
上様」
と表 記し てい るも のが ある
︒ま た︑ 国文 学研 究資 料館 所蔵「
天 正年 中本 願寺 大坂 立退」 でも 信長 のこ とを「
上様」 と表 記し てお り︑ 古 態を 残し てい ると みら れ︑ 重要 な伝 本と され てい る︒ さて
︑ 信長 記 伝本 には
︑「 首巻」
を有 する もの と︑「 首巻」
を有 さず 十五 巻本 で伝 わる
自筆 本の 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」( 十二 巻の み他 筆)
︑建 勲神 社所 蔵
「
信長 公記」
が著 名で あろ う︒ これ らは 国の 重要 文化 財に 指定 され てい る︒ 永禄 十一(
一五 六八) 年の 信長 の上 洛以 前の 記一 巻と
︑上 洛以 後本 能寺 の変 の起 こる 天正 十年 まで の記 十五 巻が あり
︑前 者は「 首巻( 巻首)」
と呼 ばれ
︑後 者の 十五 巻本 は一 年一 巻に まと めら れて いる
︒ ここ で︑ 信長 記 とい う名 を聞 くと こち らを 思い 付く 人も 居る ので はな いだ ろう か︒ 小瀬 甫庵 著 信長 記( 以後
︑甫 庵 信長 記) であ る︒ こち らは 儒学 的理 念を 宣揚 する ため の織 田信 長伝 記文 学書 で︑「 太田 和 泉守 牛一 輯録
小瀬 甫庵 道喜 居士 重撰」 と記 して いる が︑ 内容 は甫 庵に より 潤色 が施 され てお り︑ 新著 述と いえ る︒ 慶長 九( 一六
〇四)
年春 か ら執 筆が 始め られ
︑同 十六(
一六 一一) 年十 二月 付の 林羅 山の 序文 とと もに 板行 され た︒ 現在
︑写 本の ほか に元 和八(
一六 二二) 年刊 の古 活字 版や 寛永 元( 一六 二四)
年刊 本な どを はじ め︑ 安永 五( 一七 七六) 年刊 本ま で確 認さ れて いる
︒一 般に
︑ 信長 記 とい えば 甫庵
信長 記 の 方を 指し
︑牛 一著 作の 方は
信長 公記 とい う名 で認 識さ れて いる かと 思う
︒こ れは
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
の刊 本が
︑町 田家 所蔵
「
信長 公記」 を底 本と した
︑我 自刊 我書 信長 公記
(
明治 十四 年刊) や︑ 陽明 文庫 所蔵「
信長 公記」
を底 本と した 角川 文庫
信長 公記
(
昭和 四 十四 年刊)
であ った ため
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
とい えば
信 長公 記 とし て広 まっ たた めで ある
︒ 以上 のよ うな 現実 を踏 まえ
︑田 中久 夫氏 は氏 の論 文「 太田 牛一「 信長 公記」
成立 考」 にて
︑甫 庵の 著作
信長 記 と区 別す る上 でも
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記 を 信長 公記 と呼 ぶこ とと され た( 1)
︒し かし
︑ のち に牛 一自 筆で ある 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」 が発 見さ れ︑ 信長 記 とし て刊 行さ れた こと から
︑新 たな 定義 が提 案さ れた
︒そ れは
︑こ れま で刊 行さ れた
信長 公記 には 首巻 が有 るが
︑実 際池 田家 文庫 所蔵「
信 長記」
をは じめ 殆ど の伝 本に は首 巻が 備わ って いな いこ とか ら︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
を 信長 記 とし
︑ 甫庵 の著 作は「
甫庵 信長 記」 など のよ うに 甫庵 の名 を明 記し よう
︑と いう 定義 であ る( 2)
︒ こう して 現在 の論 文や 書籍 では 上記 で紹 介し た二 つの 定義 に則 り表 記 され たも のが 混在 して おり
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
につ いて の
信長 記 なら びに
信長 公記
とい う名 称に は統 一さ れた 定義 が無 い のが 現状 であ る︒ 二︑ 著者
・太 田牛 一 信長 ほど の有 名人 の軍 記を 著し た牛 一だ が︑ 彼の 経歴 は明 らか にさ れ てい ない 部分 が多 い︒ 大永 七( 一五 二七) 年︑ 尾張 国春 日郡 山田 庄安 食 村に 生ま れた 牛一 は︑ やが て信 長に 仕え
︑天 文二 十三( 一五 五四)
年七 月十 八日
︑信 長家 臣・ 柴田 勝家 の清 州攻 めの 際︑ 足軽 衆と して 参戦 した
︒ のち「 弓三 張之 人数」
にな り︑ 永禄 八( 一五 六五) 年九 月に は美 濃国 堂 洞の 戦い で活 躍し
︑信 長か ら知 行を 賜っ たこ とが「 首巻」
に記 され てい る︒ 以後
︑ 信長 記 に牛 一は 登場 せず
︑牛 一に 関す る史 料は 乏し いも のと なっ てお り︑ 文書 など から( 3)
信長 近習 の奉 行と して や信 長家 臣・ 丹 羽長 秀の 与力 とし て活 動し てい る様 子が 窺え るの みで ある
︒ 本能 寺の 変で 信長 が世 を去 った 後は 加賀 国松 任に 蟄居 して いた が︑ や がて 秀吉 に仕 え︑ 天正 十七( 一五 八九)
年以 降京 都周 辺の 検地 に従 事す るな どし( 4)
︑ 兼見 卿記 によ れば 淀城 周辺 に居 住し てい たよ うで ある
︒ 晩年 には「 和泉 守」 を名 乗り
︑文 禄の 役で 文禄 元( 一五 九二)
年に 秀吉 が名 護屋 へ出 陣し た際
︑慶 長三( 一五 九八)
年に 醍醐 で花 見が 行わ れた 際と
︑秀 吉側 室・ 松の 丸殿 の輿 脇警 固衆 を務 め( 大か うさ まく んき の うち
太田 牛一 雑記)
︑ 義演 准后 日記 慶長 三年 七月 十三 日条 の「 太 田又 助来
︑信 長公 以来
︑至 当代 記録 書之
︑少 々は 暗誦 の躰 也」 とい う記 事に 至り
︑ 信長 記 など の編 纂に 既に あた って いる こと が分 かる
︒秀 吉の 死後 は秀 頼に も仕 えた が︑ やが て大 坂玉 造に 隠棲 した 後は 執筆 活動 に励 み︑ 慶長 十五( 一六 一〇)
年付 けの 奥書 を最 後に
︑牛 一に 関す る史 料は 無く なる
︒ 岩澤 愿彦 氏は
︑牛 一が 軍記 で展 開す る主 張は
︑牛 一が 織田
・豊 臣二 氏 の吏 僚た るそ の現 実の 立場 にお いて 規定 され 理解 され るべ きも ので ある とし
︑牛 一の 軍記 は吏 僚的 世界 の上 に形 成さ れ︑ 立場 の変 化に 対応 する もの であ る︑ と述 べら れた( 5)
︒牛 一最 期の 奥書 にも ある よう に︑ 信長 記 の元 とな った のは
︑牛 一の「 毎篇 日記 の次 いで に書 き載 する もの」 であ る︒ その 日記 に牛 一が 信長 の行 動を 記録 しえ たの は︑ 牛一 が信 長の
直属 吏僚 集団 の一 員で あっ たか らで ある
︒つ まり 牛一 の軍 記の 真実 性を 保証 する もの は 日記 の記 録性
であ り︑ 当時 の著 者牛 一の 立場 や意 識 が 信長 記 の重 要な 要素 であ るこ とが 分か る︒ 牛一 は信 長の
信長 記 の他
︑「 信長 公以 来︑ 至当 代記 録」 とし て︑ 秀吉
︑秀 次︑ 秀頼
︑家 康の 各軍 記︑「 五代 軍記」
をも 執筆 した とさ れる
(
豊国 大明 神臨 時御 祭礼 記録
奥書)
︒し かし 現在 に残 る牛 一の 著作 の うち
︑ど の作 品が「
五代 軍記」 に当 ては まる もの であ るの かは 定か では なく
︑「 五代 軍記」
のう ちの 幾つ かは 失わ れて しま った ので はな いか と も言 われ る︒ 牛一 の作 品で 著名 なも のは
︑豊 臣秀 吉に 関す る記 録で ある 大か うさ まく んき のう ち 一巻
︑慶 長五(
一六
〇〇) 年の 関ヶ 原の 合戦 前後 の徳 川家 康に 関す る記 録で ある 関原 御合 戦双 紙 一巻
︑慶 長九( 一六
〇四) 年八 月十 八日 に行 われ た豊 国大 明神 臨時 御祭 礼の 記録 であ る 豊国 大明 神臨 時御 祭礼 記録 一巻
︑慶 長十 二( 一六
〇七) 年と 同十 四( 一六
〇九) 年の 公家 の風 紀紊 乱事 件の 記録 であ る 今度 之公 家双 紙 一巻 など であ る︒ 当時 の牛 一は
︑こ れら の著 作を 通じ て社 会に 認知 され
︑牛 一も それ を自 覚し てい たこ とが 推察 され る︒ この よう な意 識は
︑牛 一の 信長 記 編纂 に影 響を 与え たと 考え られ
︑杉 崎友 美氏 はこ のこ とに 着眼 した 史料 批判 が必 要で ある と指 摘さ れて いる( 6)
︒ 三︑ 十五 巻本 と「 首巻」 信長 記 と 信長 公記
の名 称の 定義 付け でも ポイ ント とさ れて い たの が︑「 首巻」
であ る︒「 首巻」
には
︑信 長の 上洛 以前 の事 績が まと め られ てい る︒ 冒頭 に「 是は 信長 御入 洛な き以 前の 双紙 なり」
とい う一 文 が付 せら れて おり
︑上 洛以 後の 十五 巻本 の前 に置 かれ てい る︒「 首巻」 と十 五巻 本部 分は
︑本 来は 別個 で成 立し たも ので あっ たと 考え られ てい る︒「 首巻」
の記 事は 必ず しも 年次 を追 って おら ず︑ 記事 に著 者で ある 牛一 の名 が三 度登 場し てい る︒ それ に対 し︑ 十五 巻本 部分 は年 次を 追っ た年 代記 で︑ 編著 者と して 以外 には 牛一 が登 場し ない
︒こ のこ とか ら︑
「
首巻」
と十 五巻 本部 分と では 著述 の姿 勢が 根本 的に 異な って おり
︑構 成が 一貫 され てお らず
︑十 五巻 本の 前編 とし て「 首巻」
を構 想し たと は
考え にく い為 であ る︒ また
︑牛 一の 自筆 本で ある 前田 家尊 経閣 文庫 所蔵「
永禄 十一
( 年記」
信長 記 一巻 に相 当す る部 分) 奥書 には
︑「 信長 京師 鎮護 十五 年︑ 始 十五 帖ニ 記置 候也」
とあ る︒ この 文面 から
︑ 信長 記 は 信長 が京 都 を制 圧し てい た十 五年 間 の信 長の 事跡 を出 来る だけ 忠実 に書 きの こそ うと した もの で︑ 牛一 の 信長 記 の対 象は あく まで も信 長の 天下 であ っ た十 五年 間で ある とい える
︒石 田善 人氏 は︑「 首巻」
と本 記部 分の 性質 につ いて
︑ 信長 記( 十五 巻本) が天 下人 とし ての 公的 な信 長を 描こ う とし てい るの に対 して
︑「 首巻」
は牛 一の 畏敬 すべ き主 君と して の私 的 な信 長を 描こ うと して いる
︑ 信長 記 が︑ 牛一 の体 験談 を通 して みた 信長 伝記 の形 にな らな かっ たの は︑ 牛一 が「 天下 十五 年」 の公 人と して の信 長を 描い たた めで ある と述 べら れて いる( 7)
︒ しか しな ぜ別 個で 成立 した はず の「 首巻」
が 信長 記 に付 随す る形 で伝 えら れて いる のか
︑と いう 疑問 が生 じる が︑ これ には 建勲 神社 所蔵
「
信長 公記」(
以後
︑建 勲神 社本) を親 本と する 写本 群( 以後
︑建 勲神 社 本系) の伝 来が 大き く関 わっ てい る︒ 第二 章
信長 記 諸伝 本に つい て 一︑ 建勲 神社 本系 と池 田家 本系 信長 記 伝本 は一 九四 七年 で十 一本( 8)
︑一 九七 五年 で二 十五 本( 9)
︑ そし て二
〇〇 九年 時点 では 自筆 本︑ 写本 に加 え独 立本 や抄 出本 など を含 め五 十九 の伝 本( 未確 認︑ 所在 不明 本除 く) が確 認さ れて いる()
︒牛 一 自筆 本と して は︑ 既に 紹介 した 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」( 以後
︑池 田 家文 庫本)
︑建 勲神 社本 が十 五巻 揃っ て残 され てい る︒ 前田 育徳 会尊 経 閣文 庫所 蔵「 永禄 十一 年記」
︑織 田澄 子氏 所蔵「
太田 牛一 旧記」
も自 筆 であ るが
︑残 欠・ 抄出 本で ある
︒ま た︑ 自筆 本で はな く写 しで ある が︑ 前田 育徳 会尊 経閣 文庫 所蔵「
安土 日記」
の様 に信 長の こと を一 貫し て
「
上様」
と表 記し てい るも のが ある
︒ま た︑ 国文 学研 究資 料館 所蔵「
天 正年 中本 願寺 大坂 立退」 でも 信長 のこ とを「
上様」 と表 記し てお り︑ 古 態を 残し てい ると みら れ︑ 重要 な伝 本と され てい る︒ さて
︑ 信長 記 伝本 には
︑「 首巻」
を有 する もの と︑「 首巻」
を有 さず 十五 巻本 で伝 わる
自筆 本の 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」( 十二 巻の み他 筆)
︑建 勲神 社所 蔵
「
信長 公記」
が著 名で あろ う︒ これ らは 国の 重要 文化 財に 指定 され てい る︒ 永禄 十一(
一五 六八) 年の 信長 の上 洛以 前の 記一 巻と
︑上 洛以 後本 能寺 の変 の起 こる 天正 十年 まで の記 十五 巻が あり
︑前 者は「 首巻( 巻首)」 と呼 ばれ
︑後 者の 十五 巻本 は一 年一 巻に まと めら れて いる
︒ ここ で︑ 信長 記 とい う名 を聞 くと こち らを 思い 付く 人も 居る ので はな いだ ろう か︒ 小瀬 甫庵 著 信長 記( 以後
︑甫 庵 信長 記) であ る︒ こち らは 儒学 的理 念を 宣揚 する ため の織 田信 長伝 記文 学書 で︑「 太田 和 泉守 牛一 輯録
小瀬 甫庵 道喜 居士 重撰」 と記 して いる が︑ 内容 は甫 庵に より 潤色 が施 され てお り︑ 新著 述と いえ る︒ 慶長 九( 一六
〇四)
年春 か ら執 筆が 始め られ
︑同 十六(
一六 一一) 年十 二月 付の 林羅 山の 序文 とと もに 板行 され た︒ 現在
︑写 本の ほか に元 和八(
一六 二二) 年刊 の古 活字 版や 寛永 元( 一六 二四)
年刊 本な どを はじ め︑ 安永 五( 一七 七六) 年刊 本ま で確 認さ れて いる
︒一 般に
︑ 信長 記 とい えば 甫庵
信長 記 の 方を 指し
︑牛 一著 作の 方は
信長 公記 とい う名 で認 識さ れて いる かと 思う
︒こ れは
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
の刊 本が
︑町 田家 所蔵
「
信長 公記」 を底 本と した
︑我 自刊 我書 信長 公記
(
明治 十四 年刊) や︑ 陽明 文庫 所蔵「
信長 公記」
を底 本と した 角川 文庫
信長 公記
(
昭和 四 十四 年刊)
であ った ため
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
とい えば
信 長公 記 とし て広 まっ たた めで ある
︒ 以上 のよ うな 現実 を踏 まえ
︑田 中久 夫氏 は氏 の論 文「 太田 牛一「 信長 公記」
成立 考」 にて
︑甫 庵の 著作
信長 記 と区 別す る上 でも
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記 を 信長 公記 と呼 ぶこ とと され た
(
1)
︒し かし
︑ のち に牛 一自 筆で ある 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」 が発 見さ れ︑ 信長 記 とし て刊 行さ れた こと から
︑新 たな 定義 が提 案さ れた
︒そ れは
︑こ れま で刊 行さ れた
信長 公記 には 首巻 が有 るが
︑実 際池 田家 文庫 所蔵「
信 長記」
をは じめ 殆ど の伝 本に は首 巻が 備わ って いな いこ とか ら︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
を 信長 記 とし
︑ 甫庵 の著 作は「
甫庵 信長 記」 など のよ うに 甫庵 の名 を明 記し よう
︑と いう 定義 であ る
(
2)
︒ こう して 現在 の論 文や 書籍 では 上記 で紹 介し た二 つの 定義 に則 り表 記 され たも のが 混在 して おり
︑ 太田 牛一 によ る信 長の 軍記
につ いて の
信長 記 なら びに
信長 公記
とい う名 称に は統 一さ れた 定義 が無 い のが 現状 であ る︒ 二︑ 著者
・太 田牛 一 信長 ほど の有 名人 の軍 記を 著し た牛 一だ が︑ 彼の 経歴 は明 らか にさ れ てい ない 部分 が多 い︒ 大永 七( 一五 二七) 年︑ 尾張 国春 日郡 山田 庄安 食 村に 生ま れた 牛一 は︑ やが て信 長に 仕え
︑天 文二 十三( 一五 五四)
年七 月十 八日
︑信 長家 臣・ 柴田 勝家 の清 州攻 めの 際︑ 足軽 衆と して 参戦 した
︒ のち「 弓三 張之 人数」
にな り︑ 永禄 八( 一五 六五) 年九 月に は美 濃国 堂 洞の 戦い で活 躍し
︑信 長か ら知 行を 賜っ たこ とが「 首巻」
に記 され てい る︒ 以後
︑ 信長 記 に牛 一は 登場 せず
︑牛 一に 関す る史 料は 乏し いも のと なっ てお り︑ 文書 など から
(
3)
信長 近習 の奉 行と して や信 長家 臣・ 丹 羽長 秀の 与力 とし て活 動し てい る様 子が 窺え るの みで ある
︒ 本能 寺の 変で 信長 が世 を去 った 後は 加賀 国松 任に 蟄居 して いた が︑ や がて 秀吉 に仕 え︑ 天正 十七( 一五 八九)
年以 降京 都周 辺の 検地 に従 事す るな どし
(
4)
︑ 兼見 卿記 によ れば 淀城 周辺 に居 住し てい たよ うで ある
︒ 晩年 には「 和泉 守」 を名 乗り
︑文 禄の 役で 文禄 元( 一五 九二)
年に 秀吉 が名 護屋 へ出 陣し た際
︑慶 長三( 一五 九八)
年に 醍醐 で花 見が 行わ れた 際と
︑秀 吉側 室・ 松の 丸殿 の輿 脇警 固衆 を務 め( 大か うさ まく んき の うち
太田 牛一 雑記)
︑ 義演 准后 日記 慶長 三年 七月 十三 日条 の「 太 田又 助来
︑信 長公 以来
︑至 当代 記録 書之
︑少 々は 暗誦 の躰 也」 とい う記 事に 至り
︑ 信長 記 など の編 纂に 既に あた って いる こと が分 かる
︒秀 吉の 死後 は秀 頼に も仕 えた が︑ やが て大 坂玉 造に 隠棲 した 後は 執筆 活動 に励 み︑ 慶長 十五( 一六 一〇)
年付 けの 奥書 を最 後に
︑牛 一に 関す る史 料は 無く なる
︒ 岩澤 愿彦 氏は
︑牛 一が 軍記 で展 開す る主 張は
︑牛 一が 織田
・豊 臣二 氏 の吏 僚た るそ の現 実の 立場 にお いて 規定 され 理解 され るべ きも ので ある とし
︑牛 一の 軍記 は吏 僚的 世界 の上 に形 成さ れ︑ 立場 の変 化に 対応 する もの であ る︑ と述 べら れた
(
5)
︒牛 一最 期の 奥書 にも ある よう に︑ 信長 記 の元 とな った のは
︑牛 一の「 毎篇 日記 の次 いで に書 き載 する もの」 であ る︒ その 日記 に牛 一が 信長 の行 動を 記録 しえ たの は︑ 牛一 が信 長の
系の 書写 伝来 も金 子拓 氏は 検証 され てい る( 図2())
︒金 子氏 は︑ 池田 家文 庫本 十二 巻に 存在 する
誤綴 をキ ーワ ード に池 田家 本系 の書 写伝 来に つい て検 証さ れた
︒池 田家 本系 各伝 本の 書写 奥書 など と︑ 誤綴 箇所 につ いて 各伝 本が「
誤綴 をそ のま ま写 して いる もの」
︑「 書写 する 際に 誤 綴箇 所を 正し て書 写し てい るも の」
︑「 誤綴 の生 じる 前に 写さ れた もの」 のい ずれ に当 たる のか を手 掛か りに され た︒ 第三 章で 詳し く述 べる が︑ 本論 の比 較に て使 用す る伝 本は
︑自 筆本 池田 家文 庫本
︑そ の初 期の 写本 であ る阪 本龍 門文 庫本
︑そ して 後期 の写 本で ある 原本 信長 記と いう こと とな る︒ 二︑ 信長 記 の成 立過 程 先程
︑建 勲神 社本 系︑ 池田 家本 系そ れぞ れの 諸伝 本の 伝来 に少 し触 れ たが
︑こ れら を総 合し た成 立過 程に つい て整 理し てお く必 要が ある
︒ 信長 記 成立 過程 につ いて は未 だ議 論の ある 所で ある が︑ まず 前田 育 徳会 尊経 閣文 庫所 蔵「 永禄 十一 年記」(
以後
︑永 禄十 一年 記) など の抄 出・ 残欠 本か ら︑ 池田 家文 庫本
︑そ して 建勲 神社 本と 展開 して いっ たと する 説を 紹介 しよ う︒
①池 田家 文庫 本か ら建 勲神 社本 へ 田中 久夫 氏は
︑永 禄十 一年 記︑ 前田 育徳 会尊 経閣 文庫 所蔵「 安土
( 日記」
以後
︑安 土日 記)
︑国 立公 文書 館内 閣文 庫所 蔵「 原本 信長 記」( 池田 家 本系
︒以 後︑ 原本 信長 記)
︑改 定史 籍集 覧所 収本(
我自 刊我 書本
︒建 勲 神社 本系)
を取 り上 げ︑ 比較 を行 われ た︒ そし て︑ 永禄 十一 年記
・安 土 日記 が原 型を 示し
︑そ して 原本 信長 記︑ 改定 史籍 集覧 所収 本の 順に 手が 加え られ
︑整 理さ れた との 結論 に至 られ た︒ 田中 氏は 根拠 とし て︑ 原本 信長 記に は挿 話の 付加 が多 く日 記か ら軍 記へ の展 開が みえ るこ と︑ 原本 信長 記に あっ て史 籍集 覧所 収本 には ない 部分 は軍 記と して 整え る上 での 必要 と家 康へ の憚 りか らで ある こと など を挙 げら れた
︒ この 家康 への 憚り
とい うの は︑ いわ ゆる「 信康 事件」
の記 述に つ いて のこ とで ある
︒「 信康 事件」
とは
︑家 康の 嫡男
・信 康と
︑信 康の 生 母か つ家 康の 正室
・築 山殿 が武 田氏 と内 通し てい たと して
︑信 長の 命に
より 信康 は自 害︑ 築山 殿は 殺害 に至 った 事件 であ る︒ この 事件 につ いて
︑ 安土 日記「 去程 に 三州 岡崎 三郎 殿( 信康) 逆心 之雑 説申 候 家康 並年 寄衆 上様 へ対 申無 勿体 御心 持 不可 然之 旨異 見候 て 八月 四日 三郎 殿を 国端 へ追 出し 申候」 原本 信長 記「 爰三 州岡 崎の 三郎 殿 不慮 ニ狂 乱候 ニ付 而 遠州 堀江 之城 ニ押 籠 番を 居被 置候」 とそ れぞ れ記 述し
︑史 籍集 覧所 収本 では 記述 自体 が無 い︒ この こと から
︑
「
信康 事件」
が省 略さ れて いる 史籍 集覧 所収 本は 家康 への 配慮 がな され てい ると 言え るの であ る︒ しか しこ の「 信康 事件」 は天 正七 年の 出来 事 で︑ つま り十 二巻 に記 され てい る点 が問 題で ある
︒原 本信 長記 の親 本で ある 池田 家文 庫本 は田 中氏 の論 文発 表よ り後 に発 見さ れ︑ 石田 善人 氏に よれ ば「 池田 家文 庫本
信長 記 は第 十二 の帖 のみ が︑ 信長 公記
を もっ て補 写し てい る()」 ので ある
︒「 信長 公記
から の補 写」 とい う部 分に つい ては 色々 と議 論が ある が︑ 少な くと も︑ 十二 巻と それ 以外 の巻 とで は成 立が 異な るの は事 実で ある
︒つ まり「 信康 事件」
の記 述を 理由 に︑ 原本 信長 記は 家康 を憚 らず
︑史 籍集 覧所 収本 のみ が家 康を 憚っ てい る︑ とは いえ ない ので ある
︒ さて
︑田 中氏 と同 様に 残欠
・抄 出本 から 池田 家文 庫本
︑建 勲神 社本 へ と成 立し たと 論ず るの は︑ 内藤 昌氏 であ る︒ 内藤 氏は 安土 城に 関す る研 究の 過程 で︑ 史料 であ る 信長 記 の検 証を なさ れた
︒内 藤氏 は 信長 記 諸伝 本を
︑
Ⅰ類 本
〜年 記 系: 永禄 十一 年記
太田 牛一 旧記 など 独立 して 存在 する 伝本
Ⅱ類 本 原本 信長 記 系: 信長 記 原本 信長 記 など の伝 本( いわ ゆる 池田 家本 系)
Ⅲ類 本 信長 公記
系: 信長 公記
など の伝 本( いわ ゆる 建勲 神社 本系)
Ⅳ類 本 安土 記 系: 安土 記 など の伝 本 以上 四種 類に 分類 し︑ 成立 の過 程を 論じ られ た︒ 内藤 氏は
︑田 中氏 同様
︑Ⅱ 類本(
池田 家本 系) より
Ⅲ類 本( 建勲 神社 本系)
が内 容の 整理 され てい るこ と︑「 信康 事件」
の家 康へ の配 慮に 加
もの とが ある
︒「 首巻」
が付 随し てい る 信長 記 伝本 は︑ 独立 本な ど を除 き十 一本 ある が︑ その うち 九本 が︑ 建勲 神社 本系 とさ れる 伝本 であ る︒ つま り︑「 首巻」
を有 する 伝本 の殆 どは 建勲 神社 本系 に分 類さ れる 伝本 なの であ る︒ なぜ 建勲 神社 本系 の 信長 記 には「
首巻」 が附 随し て伝 わっ てい るの か︒ 金子 拓氏 は著 書に て︑ 大和 芝村(
戒重) 藩織 田家 に「 首巻」
と十 五巻 本 信長 記( 建勲 神社 本) が同 時に 所蔵 され てい た時 に︑「 首巻」(「
録泰 巌公 事記 旧記」)
と十 五巻 本 信長 記 の合 わさ っ た写 本が 作ら れた ため
︑と の論 を展 開さ れて いる
︒こ の説 を元 に建 勲神 社本 系伝 本の 伝来 を図 化し たも のが 図1 であ る︒
牛一 の自 筆本 で︑ 十五 巻本 であ る建 勲神 社本 は︑ もと は牛 一子 孫の 摂 津太 田家 のも とに あっ た︒ 建勲 神社 本は
︑そ こか ら花 房政 次を 経て
︑信 長の 子孫 であ る大 和芝 村藩 織田 家の もと へと 渡っ た︒ 次い で︑ 大和 芝村 藩織 田家 には 牛一 自筆 の「 録泰 巌公 事旧 記」 とい う︑ 信長 の事 蹟を 記録 した もの が伝 わっ た︒ ここ で︑「 録泰 巌公 事旧 記」 と建 勲神 社本 が出 会 い︑ 陽明 文庫 本な どが 製作 され
︑「 録泰 巌公 事旧 記」 の部 分が 現在 の
「
首巻」 とな った
︑と いう 説で ある
︒ ただ し︑ 天理 大学 付属 図書 館所 蔵「 信長 記」 にお ける「
首巻」 は︑ 陽 明文 庫本 など の「 首巻」
とは 異な る部 分が 多く
︑「 録泰 巌公 事旧 記」 と は別 の「 首巻」
の祖 本 の存 在も 考え られ ると いう
︒こ のよ うな 経緯 で︑ 建勲 神社 本系 にの み「 首巻」 が伝 わる とい う特 徴が でき たの だが
︑ その 他の 特徴 とし て︑ 奥書 の無 いこ と︑ 各巻 巻頭 に目 次が 付せ られ
︑各 記事 に「
○○ の事」 とい う見 出し が付 けら れて いる こと が挙 げら れる
︒ これ に対 して
︑奥 書が あり
︑目 次や 見出 しの ない 自筆 本が
︑池 田家 文 庫本 であ る︒ 池田 家文 庫本 も︑ 建勲 神社 本と 同じ く牛 一自 筆の もの とさ れて おり
︑池 田家 文庫 本が 親本 であ ると 考え られ てい る写 本群 が︑ 池田 家本 系と して 分類 され る︒ 建勲 神社 本系 の伝 来経 緯と 同じ く︑ 池田 家本
系の 書写 伝来 も金 子拓 氏は 検証 され てい る( 図2)()
︒金 子氏 は︑ 池田 家文 庫本 十二 巻に 存在 する
誤綴 をキ ーワ ード に池 田家 本系 の書 写伝 来に つい て検 証さ れた
︒池 田家 本系 各伝 本の 書写 奥書 など と︑ 誤綴 箇所 につ いて 各伝 本が「
誤綴 をそ のま ま写 して いる もの」
︑「 書写 する 際に 誤 綴箇 所を 正し て書 写し てい るも の」
︑「 誤綴 の生 じる 前に 写さ れた もの」 のい ずれ に当 たる のか を手 掛か りに され た︒ 第三 章で 詳し く述 べる が︑ 本論 の比 較に て使 用す る伝 本は
︑自 筆本 池田 家文 庫本
︑そ の初 期の 写本 であ る阪 本龍 門文 庫本
︑そ して 後期 の写 本で ある 原本 信長 記と いう こと とな る︒ 二︑ 信長 記 の成 立過 程 先程
︑建 勲神 社本 系︑ 池田 家本 系そ れぞ れの 諸伝 本の 伝来 に少 し触 れ たが
︑こ れら を総 合し た成 立過 程に つい て整 理し てお く必 要が ある
︒ 信長 記 成立 過程 につ いて は未 だ議 論の ある 所で ある が︑ まず 前田 育 徳会 尊経 閣文 庫所 蔵「 永禄 十一 年記」(
以後
︑永 禄十 一年 記) など の抄 出・ 残欠 本か ら︑ 池田 家文 庫本
︑そ して 建勲 神社 本と 展開 して いっ たと する 説を 紹介 しよ う︒
①池 田家 文庫 本か ら建 勲神 社本 へ 田中 久夫 氏は
︑永 禄十 一年 記︑ 前田 育徳 会尊 経閣 文庫 所蔵「 安土
( 日記」
以後
︑安 土日 記)
︑国 立公 文書 館内 閣文 庫所 蔵「 原本 信長 記」( 池田 家 本系
︒以 後︑ 原本 信長 記)
︑改 定史 籍集 覧所 収本(
我自 刊我 書本
︒建 勲 神社 本系)
を取 り上 げ︑ 比較 を行 われ た︒ そし て︑ 永禄 十一 年記
・安 土 日記 が原 型を 示し
︑そ して 原本 信長 記︑ 改定 史籍 集覧 所収 本の 順に 手が 加え られ
︑整 理さ れた との 結論 に至 られ た︒ 田中 氏は 根拠 とし て︑ 原本 信長 記に は挿 話の 付加 が多 く日 記か ら軍 記へ の展 開が みえ るこ と︑ 原本 信長 記に あっ て史 籍集 覧所 収本 には ない 部分 は軍 記と して 整え る上 での 必要 と家 康へ の憚 りか らで ある こと など を挙 げら れた
︒ この 家康 への 憚り
とい うの は︑ いわ ゆる「 信康 事件」
の記 述に つ いて のこ とで ある
︒「 信康 事件」
とは
︑家 康の 嫡男
・信 康と
︑信 康の 生 母か つ家 康の 正室
・築 山殿 が武 田氏 と内 通し てい たと して
︑信 長の 命に
より 信康 は自 害︑ 築山 殿は 殺害 に至 った 事件 であ る︒ この 事件 につ いて
︑ 安土 日記「 去程 に 三州 岡崎 三郎 殿( 信康) 逆心 之雑 説申 候 家康 並年 寄衆 上様 へ対 申無 勿体 御心 持 不可 然之 旨異 見候 て 八月 四日 三郎 殿を 国端 へ追 出し 申候」 原本 信長 記「 爰三 州岡 崎の 三郎 殿 不慮 ニ狂 乱候 ニ付 而 遠州 堀江 之城 ニ押 籠 番を 居被 置候」 とそ れぞ れ記 述し
︑史 籍集 覧所 収本 では 記述 自体 が無 い︒ この こと から
︑
「
信康 事件」
が省 略さ れて いる 史籍 集覧 所収 本は 家康 への 配慮 がな され てい ると 言え るの であ る︒ しか しこ の「 信康 事件」 は天 正七 年の 出来 事 で︑ つま り十 二巻 に記 され てい る点 が問 題で ある
︒原 本信 長記 の親 本で ある 池田 家文 庫本 は田 中氏 の論 文発 表よ り後 に発 見さ れ︑ 石田 善人 氏に よれ ば「 池田 家文 庫本
信長 記 は第 十二 の帖 のみ が︑ 信長 公記
を もっ て補 写し てい る」()
ので ある
︒「 信長 公記
から の補 写」 とい う部 分に つい ては 色々 と議 論が ある が︑ 少な くと も︑ 十二 巻と それ 以外 の巻 とで は成 立が 異な るの は事 実で ある
︒つ まり「 信康 事件」
の記 述を 理由 に︑ 原本 信長 記は 家康 を憚 らず
︑史 籍集 覧所 収本 のみ が家 康を 憚っ てい る︑ とは いえ ない ので ある
︒ さて
︑田 中氏 と同 様に 残欠
・抄 出本 から 池田 家文 庫本
︑建 勲神 社本 へ と成 立し たと 論ず るの は︑ 内藤 昌氏 であ る︒ 内藤 氏は 安土 城に 関す る研 究の 過程 で︑ 史料 であ る 信長 記 の検 証を なさ れた
︒内 藤氏 は 信長 記 諸伝 本を
︑
Ⅰ類 本
〜年 記 系: 永禄 十一 年記
太田 牛一 旧記 など 独立 して 存在 する 伝本
Ⅱ類 本 原本 信長 記 系: 信長 記 原本 信長 記 など の伝 本( いわ ゆる 池田 家本 系)
Ⅲ類 本 信長 公記
系: 信長 公記
など の伝 本( いわ ゆる 建勲 神社 本系)
Ⅳ類 本 安土 記 系: 安土 記 など の伝 本 以上 四種 類に 分類 し︑ 成立 の過 程を 論じ られ た︒ 内藤 氏は
︑田 中氏 同様
︑Ⅱ 類本(
池田 家本 系) より
Ⅲ類 本( 建勲 神社 本系)
が内 容の 整理 され てい るこ と︑「 信康 事件」
の家 康へ の配 慮に 加
もの とが ある
︒「 首巻」
が付 随し てい る 信長 記 伝本 は︑ 独立 本な ど を除 き十 一本 ある が︑ その うち 九本 が︑ 建勲 神社 本系 とさ れる 伝本 であ る︒ つま り︑「 首巻」
を有 する 伝本 の殆 どは 建勲 神社 本系 に分 類さ れる 伝本 なの であ る︒ なぜ 建勲 神社 本系 の 信長 記 には「
首巻」 が附 随し て伝 わっ てい るの か︒ 金子 拓氏 は著 書に て︑ 大和 芝村(
戒重) 藩織 田家 に「 首巻」
と十 五巻 本 信長 記( 建勲 神社 本) が同 時に 所蔵 され てい た時 に︑「 首巻」(「
録泰 巌公 事記 旧記」)
と十 五巻 本 信長 記 の合 わさ っ た写 本が 作ら れた ため
︑と の論 を展 開さ れて いる
︒こ の説 を元 に建 勲神 社本 系伝 本の 伝来 を図 化し たも のが 図1 であ る︒
牛一 の自 筆本 で︑ 十五 巻本 であ る建 勲神 社本 は︑ もと は牛 一子 孫の 摂 津太 田家 のも とに あっ た︒ 建勲 神社 本は
︑そ こか ら花 房政 次を 経て
︑信 長の 子孫 であ る大 和芝 村藩 織田 家の もと へと 渡っ た︒ 次い で︑ 大和 芝村 藩織 田家 には 牛一 自筆 の「 録泰 巌公 事旧 記」 とい う︑ 信長 の事 蹟を 記録 した もの が伝 わっ た︒ ここ で︑「 録泰 巌公 事旧 記」 と建 勲神 社本 が出 会 い︑ 陽明 文庫 本な どが 製作 され
︑「 録泰 巌公 事旧 記」 の部 分が 現在 の
「
首巻」 とな った
︑と いう 説で ある
︒ ただ し︑ 天理 大学 付属 図書 館所 蔵「 信長 記」 にお ける「
首巻」 は︑ 陽 明文 庫本 など の「 首巻」
とは 異な る部 分が 多く
︑「 録泰 巌公 事旧 記」 と は別 の「 首巻」
の祖 本 の存 在も 考え られ ると いう
︒こ のよ うな 経緯 で︑ 建勲 神社 本系 にの み「 首巻」 が伝 わる とい う特 徴が でき たの だが
︑ その 他の 特徴 とし て︑ 奥書 の無 いこ と︑ 各巻 巻頭 に目 次が 付せ られ
︑各 記事 に「
○○ の事」 とい う見 出し が付 けら れて いる こと が挙 げら れる
︒ これ に対 して
︑奥 書が あり
︑目 次や 見出 しの ない 自筆 本が
︑池 田家 文 庫本 であ る︒ 池田 家文 庫本 も︑ 建勲 神社 本と 同じ く牛 一自 筆の もの とさ れて おり
︑池 田家 文庫 本が 親本 であ ると 考え られ てい る写 本群 が︑ 池田 家本 系と して 分類 され る︒ 建勲 神社 本系 の伝 来経 緯と 同じ く︑ 池田 家本
明文 庫所 蔵「 信長 公記」(
首巻 あり
︑元 禄十 二( 一六 九九)
年写
︑建 勲 神社 本系
︒⁝ 伝本 A)
︒陽 明文 庫本 は近 衛家 に伝 来し
︑底 本の 形状 を比 較的 忠実 に伝 えて いる もの と認 めて よい
︑と いう 評価 を得 てい る︒ 陽明 文庫 本を 底本 とし て︑ 奥野 高広
・岩 沢愿 彦に より 読み 下さ れた
︑角 川文 庫 信長 公記
を資 料と して 使用 し︑ 以後 は角 川文 庫版 を陽 明文 庫本 と 同一 とし て扱 う︒ ふた つめ は︑ 我自 刊我 書本
信長 公記 であ る︒ これ は︑ 薩摩 藩主 島津 家の 一族
︑町 田氏 の出 の町 田久 成の 所蔵 本「 信長
( 公記」
首巻 あり
︑寛 永年 間以 前写 か︑ 建勲 神社 本系
︒⁝ 伝本 B) を底 本と し︑ 底本 を可 能な 限り 忠実 に翻 刻し たと 自称 する 古活 字本 であ る︒ 千秋 社に よる 複製 本を 使用 する
︒ 次に 池田 家文 庫所 蔵「 信長 記」( 首巻 なし
︑慶 長十 五( 一六 一〇)
年 二月 二十 三日 自筆 奥書
︒⁝ 伝本 C) であ る︒ これ は先 にも 紹介 した とお り︑ 十二 巻以 外は 牛一 の自 筆で ある
︒資 料と して
︑影 印本 であ る福 武書 店刊
信長 記 を使 用す る︒ そし て阪 本龍 門文 庫所 蔵「 信長 記」( 首巻 なし
︑寛 永年 間頃 写か
︑池 田家 本系
︒⁝ 伝本 D) であ る︒ 書写 奥書 はな いが
︑川 瀬一 馬氏 によ ると 寛永 年間 頃の 写し とみ られ る()
︒池 田家 本に 比較 的忠 実な 写本 であ る︒ 阪本 龍門 文庫 善本 電子 画像 集を 資料 とす る︒ 最後 に︑ 内閣 文庫 所蔵「 原本 信長 記」( 首巻 なし
︑寛 延三(
一七 五〇) 年写
︑池 田家 本系
︒⁝ 伝本 E) であ る︒ 元は 江戸 城紅 葉山 文庫 蔵書 で︑ 自筆 の正 本を 一字 違え ず書 写︑ との 書写 奥書 があ る︒ 東京 大学 史料 編纂 所 大日 本史 料 では この「
原本 信長 記」 が牛 一 信長 記 系の 資料 と して 採用 され てお り︑ 大日 本史 料 第十 編四 を資 料と して 比較 を行 う︒ ただ し︑ 大日 本史 料 第十 編は 現在 も刊 行が 続け られ てお り︑ 姉川 の 合戦 の比 較に のみ しか 使用 出来 ない()
︒ 以下 に︑ 比較 部分 とそ れに 該当 する 建勲 神社 本系 での 見出 し︑ 使用 す る伝 本に つい てま とめ る︒ 桶狭 間の 合戦「 今川 義元 討死 之事」
⁝首 巻部 分( 伝本 A︑ B) 姉川 の合 戦「 あね 川合 戦之 事」
⁝三 巻部 分( 伝本 A︑ B︑ C︑ D︑ E) 長篠 の合 戦「 三州 長篠 御合 戦之 事」
⁝八 巻部 分( 伝本 A︑ B︑ C︑ D) 本能 寺の 変「 信長 公本 能寺 にて 御腹 めさ れ候 事」
⁝十 五巻 部分(
伝本 A︑ B︑ C︑ D) 二︑ 記述 の比 較
①桶 狭間 の合 戦
︱「 今川 義元 討死 之事」 桶狭 間の 合戦 は︑ 永禄 三( 一五 六〇)
年五 月十 九日
︑現 在の 愛知 県田 楽狭 間で 起こ った もの であ る︒ 駿河
・遠 江・ 三河 の大 軍を 率い て︑ 尾張
・ 三河 国境 付近 に進 出し てき た今 川義 元に 対し
︑信 長は 小勢 を率 いて 迎え 撃ち
︑桶 狭間 付近 の戦 闘で 義元 を討 った 合戦 であ る︒ 桶狭 間の 合戦 は永 禄九 年の 信長 上洛 以前 の出 来事 なの で「 首巻」
に記 され てい る︒「 首巻」
を有 する 伝本 群は
︑そ の殆 どが 建勲 神社 本系 であ るの で︑ 本論 にお ける 桶狭 間の 合戦 の比 較で も建 勲神 社本 系統 に分 類さ れる 陽明 文庫 本と 我自 刊我 書本 との 比較 とな る︒ 本文 中の 差異 を表 にし たも のが 表1 であ る︒ 以後
︑差 異の 箇所 を示 す際 は表 での 番号 で示 す︒ 同系 統間 の比 較の ため か︑ 文意 を左 右す るな どの 大き な差 異は みと め られ ず︑「 候」 の有 無な どの 言い 回し 部分 の差 異し か認 めら れな かっ た︒ 1︑ 6︑ 8番 の「 候( そう ろう)」
と「 候し( そう らひ し)」
とい う違 い︑ 2︑ 7︑ 9︑ 10番 の「 候」 の有 無な どで ある
︒ま た
「
被」「 御」 など が使 われ てい るか 否か とい う差 異 もあ った
︒ これ らの「
言い 回し の 微妙 な差 異」 は 信長 記 伝本 間で おび ただ しく 存 在し てい るよ うで
︑藤 本 正行 氏は これ につ いて
︑
「
牛一 が記 憶の まま に自 由に 筆を 走ら せた 結果 で︑ 牛一 は一 言一 句違 えず に 同じ 本を 作成 する こと に こだ わら なか った」 と推
表1 桶狭間の合戦記述比較
え︑
Ⅲ類 本( 建勲 神社 本系)
には
Ⅱ類 本( 池田 家本 系) のよ うに 牛一 の 奥書 や筆 致次 第の 明記 がな いこ とか ら︑
Ⅲ類 本( 建勲 神社 本系)
系は 公 を意 識し てお り︑
Ⅲ類 本( 建勲 神社 本系)
の題 が「 信長 公記」
な のは
︑幕 府( 家康)
公認 の「 信長」 の「 公記」
とい う意 味と 理解 して も よか ろう と述 べら れた()
︒そ して 信長 記 は︑
Ⅰ類 本の 稿本 段階 から
Ⅱ類 本( 池田 家本 系) の未 決定 稿︑ そし てⅢ 類本(
建勲 神社 本系) の決 定稿 と整 理論 述さ れ︑
Ⅳ類 本は 江戸 中期 以降 に流 布し た自 筆原 本の 校訂 本で ある と結 論付 けら れた ので ある
︒
②並 行的 な成 立 以上 これ らの 池田 家本 系か ら建 勲神 社本 系へ とい う成 立過 程に 異を 唱 えら れる のが
︑藤 本正 行氏 であ る︒ 藤本 氏は まず
︑建 勲神 社本 には 家康 に敬 称が 付け られ てい ない 古態 を残 す部 分が ある のに 対し
︑池 田家 文庫 本の 方は
︑他 筆と され る十 二巻 を除 けば 家康 の名 すべ てに 敬称 を付 して いる こと から
︑む しろ 池田 家文 庫本 の方 が家 康に 敬意 を払 って いる とも いえ る︑ と反 論さ れた()
︒ま た 家康 への 憚り とし て挙 げら れて いる
「
信康 事件」
の記 述に つい ても
︑前 述し たよ うに 十二 巻は 異筆 の補 填本 であ るこ とを 理由 に︑ 古態 が残 って いる に過 ぎな いと され た︒ 家康 への 配慮 や憚 りを 理由 とし て︑ 池田 家文 庫本 から 建勲 神社 本へ 成立 した と言 うこ とは 出来 ない とい うこ とで ある
︒し かし
︑建 勲神 社本 でも その 殆ど は家 康に 敬称 が付 せら れて おり
︑敬 称の 無い 部分 はた また ま「 古態 を有 する 部分 が紛 れ込 んで いる」
に過 ぎな いと され た︒ そし てこ のこ とが 示 すの は︑ 敬称 とい う点 にお いて 建勲 神社 本︑ 池田 家文 庫本 とも 首尾 一貫 した 校訂 がな され てい ない とい うこ とだ
︑と 指摘 され た︒ つま り一 方が 未決 定稿 で︑ もう 一方 がそ れを 整え た決 定稿
︑と いう 成 立経 緯は 信長 記 には 当て はま らな い︑ とい うの が藤 本氏 の説 であ る︒ 藤本 氏は 信長 記 成立 につ いて
︑未 決定 稿か ら決 定稿 へと いう 成立 では なく
︑い わゆ る「 カー ドシ ステ ム」 によ り編 纂が おこ なわ れた と論 じら れて いる
︒干 支を 付け た記 事が 一部 ある こと
︑家 康へ の敬 意に 統一 がな いこ と︑ など を根 拠と し︑ 牛一 はメ モ書 きを 元に
︑干 支を 頼り に時 系列 に並 べ 信長 記 を執 筆し たと いう もの であ る︒ 藤本 氏は カー ドシ
ステ ムと
︑牛 一が 他人 の要 望に 応じ て著 作に 人名 を書 き加 える など の作 業や
︑書 写に 供す る為 に著 作を 貸与 して いた 事実()
を提 示さ れた
︒ そし て︑ 例え ばそ の貸 与中 に新 たに
信長 記 が求 めら れた 場合
︑牛 一は 手元 にあ る古 態を 残す 草稿 を写 し︑ 与え たと 考え られ る︒ つま り︑ 伝本 によ り特 定の 記事 があ るも のと ない もの があ った 場合
︑記 事の ある もの が先 に書 かれ たの か︑ ない もの が先 に書 かれ たの か判 断が 難し く︑ 最晩 年に 書か れた とみ られ るも のが
︑形 式的 にも 最も 整い
︑内 容的 に最 も充 実し てい ると は言 い切 れな い︑ と 信長 記 成立 の過 程を 探る こと の難 しさ を述 べら れて いる
︒ 第三 章
信長 記 伝本 の記 述比 較 一︑ 比較 対象 とす る記 事と 伝本 以上 の 信長 記 伝本 の比 較や 位置 づけ の先 行研 究を 踏ま え︑ 実際 に 比較 を行 う︒ これ まで 述べ たこ とか らも 導か れる こと は︑ 信長 記 伝 本比 較に おい て徳 川家 康と いう 人物 は大 きな キー ワー ドと なっ てい るこ と︑ そし て︑ 記事 毎に 位置 づけ が異 なる 場合 もあ るこ とで ある
︒そ れら に留 意し
︑比 較を 行っ てゆ くこ とと する
︒ 本論 では
︑信 長の 主要 な合 戦︑ そし て最 期で ある 本能 寺の 変の 記述 部 分を 対象 とし て比 較を 行う
︒対 象と する 部分 を以 下に まと めよ う︒ まず は︑ 信長 の名 を世 に知 らし めた とい う︑ 桶狭 間の 合戦 であ る︒ 対今 川義 元軍 の合 戦で 永禄 三( 一五 六〇)
年五 月の 出来 事で あり
︑ 信長 記 に おい ては「
首巻」
にて 記述 され てい る(「
今川 義元 討死 之事」)
︒続 いて 元亀 元( 一五 七〇) 年六 月に 行わ れた
︑姉 川の 合戦 であ る︒ 織田
・徳 川 連合 軍対 浅井
・朝 倉軍 の合 戦で
︑ 信長 記 三巻 に記 述さ れて いる(「
あ ね川 合戦 之事」)
︒そ して
︑天 正三(
一五 七五) 年五 月の 長篠 の合 戦で あ る︒ 織田
・徳 川連 合軍 対武 田勝 頼軍 の合 戦で
︑ 信長 記 八巻 に記 述さ れて いる
(「
三州 長篠 御合 戦之 事」)
︒最 後に
︑信 長が 命を 落と した 本能 寺の 変で ある
︒家 臣・ 明智 光秀 の謀 反と いわ れ︑ 天正 十( 一五 八二) 年 六月 二日 の出 来事 であ った
︒ 信長 記 最終 巻︑ 十五 巻に て描 かれ てい る(「
信長 公本 能寺 にて 御腹 めさ れ候 事」)
︒ これ らの 記述 を比 較す る上 で︑ 使用 する 伝本 は以 下で ある
︒ま ず︑ 陽