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安全保障を中心とした日米基軸外交とならび、 経済援助を主な

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Academic year: 2023

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次世界大戦後の日本外交は、安全保障を中心とした日米基軸外交とならび、

経済援助を主な手段としてアジア諸国との安定的な関係を実現し、市場の確保と拡 大を目指すアジア外交を第

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の柱として進められてきた。そしていま私たちは、そ のアジア外交が終わった時代を迎えた。

大戦後間もない

1946

年、若き大来佐武郎が取りまとめに当たった戦後問題研究会 の報告は日本外交の骨格を検討した文書として知られているが、そこでは安全保障 についてアメリカ軍事力の活用が望ましいとする一方、経済成長を進めるためにア ジア諸国へのアプローチが欠かせないと主張されていた。政策としてそれが模索さ れるのは吉田茂政権における日中交易の模索であるが、アメリカの反撥が強く、中 国側の関心も低かったため、大きな成果を収めることはなかった。だが、岸信介首 相の下で中国に代わって東南アジアが注目され、戦時賠償とその後の政府開発援助

(ODA)

を通じて東南アジア諸国との連携が進む。もっとも当時の東南アジアでは輸 入代替工業化政策が一般的であり、通商への関心が限られていた。佐藤栄作政権ま での時代は、アジア外交の準備期間として位置づけるべきだろう。

アジア外交が開花するのは、田中角栄首相による東南アジア諸国歴訪以後の時代 である。国際関係においてはニクソン・ドクトリンの下でアメリカの中国接近と東 南アジアからの緩やかな撤退が始まり、アメリカから取り残された東南アジア諸国 は日本との結びつきを強めていった。石油危機前後の日本経済にとって安定した海 外市場の確保は緊急の課題だっただけに、当初はアメリカの軍事・経済援助、その 後は戦時賠償を引き継いだ日本の経済援助によってインフラストラクチャーを整え た東南アジアは、貿易の相手としても直接投資の対象としても絶好の機会を提供し た。この背景の下に日本と東南アジアを結ぶ経済外交が制度化され、福田赳夫政権 において全方位平和外交という名の下に定式化されることになった。また、福田政 権以後は、東南アジア諸国に加え、 小平の下で経済体制の歴史的転換を進める中 国も経済援助対象国に加わった。こうして、すでに1960年代中葉から経済的連携を 深めていた韓国に東南アジア諸国と中国を加えた広大な地域との間でアジア外交が 進められていった。

国際問題 No. 623(2013年78月)

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◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎

Fujiwara Kiich

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日米関係を基軸とする安全保障政策と、アジアとの連携を主とする経済外交との 間には重要な違いがあった。アメリカの提供する拡大抑止を必要とする限り、安全 保障を模索するなら対米関係を強化しなければならない。だが、経済外交において はアメリカは日本の同盟国であるとともにライバルでもあった。すでに

1960

年代か ら日米貿易紛争が激化し、アジア地域における日本の経済進出についてアメリカと の緊張が生まれる場面もあった。経済援助によってインフラストラクチャーを整備 する日本の経済外交は、アメリカからみれば紐付き援助に支えられた小切手外交で あり、市場の囲い込みにほかならない。軍事を重視すれば日米の連携が、また通商 を重視すれば日米の競合が強まるという構図は、外務省と防衛庁の主導する安全保 障と、外務省に加え大蔵省、さらに通産省が大きくかかわるアジアを主とした経済 外交という、日本の対外政策における担い手の違いと政策領域の違いによって生み 出された状況であった。

さらに、各国によって伝統、文化、さらには政治体制が多様であることから、ア ジア外交には他の外交政策の領域と違う特徴が生まれた。やや入り組んだ議論にな るが、その概要をまとめれば以下のようになるだろう。

まず、第

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次世界大戦後における日本外交では、一般に欧米社会と日本との差異 よりも共通性が強調されたことを確認しなければならない。議会制民主主義と資本 主義経済の

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つによって、例えば旧ソ連や中国などの社会主義諸国とは異なる、普 遍主義的な原則を共有する主体としての日本という位置づけをそこにみることがで きる。だが、冷戦と東西対立においては普遍主義を歓迎する日本も、経済政策につ いては必ずしもそうではなかった。産業政策と行政指導にみられるような通産省を 経由した政府と企業の密接なかかわりが日本経済に広くみられ、欧米諸国との間に 制度的な差異が存在したからである。

日本からみれば、市場の自由化を徹底すれば競争力のある工業部門を育てること はできない。だがアメリカからみれば、国内市場に対する保護を続けながら自由貿 易体制の与える機会を利用しようとする日本は、自由貿易を利用しながら国内には それを適用しないフリーライダーにほかならず、自由経済には馴染まない新重商主 義として批判すべき対象であった。

経済政策における相違は経済外交にも投影された。アジア外交を支えたのが日本 の提供するODAであり、公的資金によって道路・港湾・通信などのインフラストラ クチャーを整え、民間企業の直接投資を呼び込み、それによって日本やアジア諸国 の経済成長を実現するとともに緊密な政治的連携によって日本政府の対外的影響力 を拡大することが期待されていた。アジア諸国は地域外との貿易を拒んでいるわけ ではなく、それどころかアメリカ市場にその輸出の多くを頼っていたのだから、援

巻頭エッセイアジア外交とその時代

国際問題 No. 623(2013年78月)

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助を通じた日本経済とアジア経済の連携を排他的な経済ブロックの形成として捉え ることはできない。とはいえ、それが日本を中心とする経済圏であり、さらにかつ て宮澤喜一首相が

ASEAN

(東南アジア諸国連合)は日本の選挙区だと述べたことにみ られるように、政治的にも日本の影響力を支えることが期待されていたことは否定 できない。

欧米地域とアジアを分かつのは、政府と企業の関係だった。岸信介が中国市場の 代替として東南アジアに注目した際、東南アジアは産業政策を展開する処女地とし てみられ、政府と企業が密接に結びついて経済発展を遂げることはほとんど当然の ことのように想定されていた。アメリカも発展途上国においては政府による市場介 入を認めた例が少なくないが、それでもなお、政府主導の工業化を積極的に支援す る日本との相違は明らかであった。さらに、援助提供に当たって特定の政策の執行 を求めるアメリカと異なり、日本は援助受け入れに厳しい条件をつけることは少な かった。

この、相手政府の裁量を広く認める日本の立場が端的に現われるのが政治体制と 援助のかかわりである。相手国に民主化を求めるアメリカと異なって、日本政府は 政治体制の相違を顧慮することは少なく、経済発展が続けば将来は民主化が訪れる という長期的な展望を根拠として、独裁政権への経済支援が行なわれた。もちろん、

反共政権であれば援助を投じただけに冷戦期にはこの点で日米の違いがそこまで大 きくはなかった。だが、冷戦終結とともに民主化支援がアメリカ外交の中心に躍り 出し、民主化を援助受け入れ国に求めるアメリカと、それを必ずしも重視しない日 本との対照が明確になっていった。

経済援助に限らずアジア外交一般において、日本はアジア諸国政府の裁量を広く 受け入れた。それらの諸国が国外から政策執行を求められたとき、文化や伝統の違 いによってその執行を拒んだとしても、それを基本的に承認した。これは日本政府 が貿易紛争において自国の制度をできる限り擁護しようと努力してきたことから容 易に理解できる態度であるが、このような政策の多様性の承認が植民地ないし半植 民地という状況から独立を達成した東アジア・東南アジア諸国から歓迎されたこと も無視できない。普遍主義よりも文化や伝統の多様性が重視されたからである。

**

アジア外交には、3つの前提があった。第

1

に、日本とアジア諸国の間に経済的格 差があることが前提とされていた。第

2に、地域経済における階層秩序が変わらな

いと考えられていた。日本がアジア各国を支援し、雁の群れのように地域経済が発 展するという雁行型発展論は、地域分業の頂点に日本が立つことを自明の前提とし ている。第

3

に、経済援助の拡大が政府間関係の改善と安定を図るものと考えられ ていた。そして、この

3つの前提は、時代が経つとともに壊れてしまった。

巻頭エッセイアジア外交とその時代

国際問題 No. 623(2013年78月)

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まず、日本とアジア諸国の経済格差は急速に埋まった。アジア諸国が経済発展を 遂げ、ODA受け入れ国という立場を脱却するのは経済援助の成功として望ましい変 化であると言うことができる。だが、それは同時に、日本がアジア諸国にかかわる 政策手段を失うことを意味していた。第

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に、韓国、台湾、そして中国が急速に経 済成長する一方、バブル破綻後の日本経済は長期の不況を迎えた。それとともに地 域分業の階層性と固定性が破られ、アジア各国経済の間に熾烈な競争が生まれる。

3に、経済援助の拡大と政府間関係の安定が同時に起こったASEAN

諸国と異なり、

中国への援助総額が頂点に達した

1990

年代に歴史問題を軸とする政治的緊張も高ま ったことにみられるように、対中援助は政府間関係の改善をもたらすことはなかっ た。

1990

年代後半から日本のアジア援助は縮小に転じ、アジア経済外交も後退を重ね た。人間の安全保障という呼びかけにみられるように、小渕恵三政権を最後として、

経済援助を柱とした外交の重点は紛争周辺地域に移行する。北朝鮮核武装や中国海 軍外洋展開を典型として、アジア外交の中心も経済から軍事領域に移った。さらに 経済政策においても、日本がアメリカの求める政策を拒むよりは、アメリカととも に、中国をはじめとした他国による不公正貿易慣行を批判する側に立つことが多く なった。

アジア外交の時代は終わった。だが、日本は民主主義と資本主義を共有する欧米 諸国と同じ立場に立ってアジア諸国との国際関係を営む時代を迎えたと判断するこ とができるのか、文化や伝統を隠れ蓑とした多様な政策の擁護を放棄することが賢 明と言えるのか、まだ考える余地は残されているように思われる。いま明らかなの はただ、経済成長にも政治的信頼醸成にも大きな成果を上げたアジア経済外交の時 代は確実に終わり、それを取り戻すことはおそらくできないという一点だけである。

巻頭エッセイアジア外交とその時代

国際問題 No. 623(2013年78月)

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ふじわら・きいち 東京大学教授 [email protected]

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