一︑ はじ めに 源氏 物語
の作 者と して も有 名で ある 紫式 部と
︑紫 式部 が出 仕し て いた 彰子 の父 親で ある 藤原 道長 は実 は関 係が あっ たの では ない かと 言わ れて いる
︒そ の真 相は 未だ 謎で ある が︑ なぜ その よう に言 われ るよ うに なっ たの か︒ 現に 室町 時代 に書 かれ た 尊卑 分脈
には
︑紫 式部 のこ と は「 御堂 関白 道長 妾云 々」 と表 記さ れて いる
︒こ れは
紫式 部日 記 の 中に 書か れた
︑紫 式部 と藤 原道 長の やり 取り に基 づい て表 記さ れた もの だと 言わ れて いる
︒そ こで
︑そ の 紫式 部日 記 を更 に深 く読 み解 いて いけ ば︑ 紫式 部と 藤原 道長 の関 係に つい て新 たな こと が分 かる ので はな いか と考 え︑ この 卒業 論文 では
紫式 部日 記 に基 づい て︑ 未だ に解 明 され てい ない 紫式 部と 藤原 道長 の関 係に つい て述 べて いく こと にす る︒ また
︑こ の論 文で は紫 式部 と藤 原道 長は 関係 があ った もの とし
︑そ れを 証明 して いく 形で 進め てい くこ とに する
︒ 二︑ 紫式 部と 藤原 道長 の関 係が ある と考 える 理由 前章 でも 述べ た通 りで ある が私 自身
︑式 部と 道長 は何 かし ら関 係が あっ たも のと 考え てい る︒ 私が その よう に考 える のは
︑理 由が 三つ ある から だ︒
① 紫式 部に は藤 原道 長か らの 誘い を断 る理 由が ない
② 紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 藤原 道長 のや り取 り
③ 紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 正妻
・源 倫子 のや り取 り この 三つ の理 由を なぜ そう 考え るの か︑ 次の 章か ら 紫式 部日 記 の中 より 考え てい くこ とに する
︒
三︑ 紫式 部に は藤 原道 長か らの 誘い を断 る理 由が ない 当時 は︑ 高貴 な男 性と 浮名 を流 すと いう こと は︑ 女房 にと って 不名 誉 なこ とで はな く︑ むし ろ誇 れる こと であ った
︒そ もそ も宮 仕え とは
︑主 家の 男性 にと って も女 房に とっ ても 色事 が起 こり やす い環 境で あっ たの だ︒ その 根拠 とも なり うる 箇所 が 紫式 部日 記 の中 にも ある
︒寛 弘五 年十 二月 二十 九日 の記 事で
︑以 下の 部分 に見 られ る︒ 夜い たう 更け にけ り︒ 御物 忌に おは しま しけ れば
︑御 前に も参 らず
︑ 心細 くて うち 臥し たる に︑ 前な る人 々の
︑
「
内裏 わた りは なほ いと 気配 異な りけ り︒ 里に ては
︑い まは 寝な ま しも のを
︑さ もい ざと き履 のし げさ かな」 と︑ 色め かし く言 ひゐ たる を聞 く︒
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 十二 月二 十九 日) これ は︑ 女房 たち が「 家じ ゃ今 頃は 眠っ てい る時 間な のに
︑内 裏は 違っ て殿 方の 靴音 がひ っき りな しで 寝付 けな い」 と言 って いる 場面 であ る︒ 足音 が聞 こえ るの は未 だし も︑ 寝付 けな いほ どで ある とい うこ とは
︑内 裏に は多 くの 男性 が行 き来 して いた こと が窺 える
︒よ って
︑主 家の 男性 にと って も女 房に とっ ても 色事 が起 こり やす い環 境で あっ たで あっ たと いう こと が分 かる だろ う︒ また
︑式 部に は夫 であ る藤 原宣 孝が 居た が︑ 式部 が彰 子に 出仕 する 前に 亡く なっ てい るの であ る︒ まさ に式 部に は︑ 道長 から の誘 いが あっ ても
︑そ れを 拒む 理由 が全 くな いと 言っ ても 過言 では ない のだ
︒福 家俊 幸氏 も自 身の 論文 で「 作者( 紫式 部) が道 長の 求
紫 式 部 日 記 か ら 見 る
︑ 紫 式 部 と 藤 原 道 長 の 関 係 に つ い て
藤 瀬
康 子
(
山本 淳子
ゼミ) 諸 bank.jp/dictionary/nihonjinmei/
伝本 資料 陽明 文庫 本: 奥野 高広
・岩 沢愿 彦校 注 信長 公記
角川 文庫
︑一 九八 四年 我自 刊我 書本
:我 自刊 我書
信長 公記 複製
千秋 社︑ 一九 八〇 年 池田 家文 庫本
:岡 山大 学池 田家 文庫 等刊 行会 編 信長 記
福武 書店
︑ 一九 七五 年 阪本 龍門 文庫 本:「 阪本 龍門 文庫 善本 電子 画像 ra-wu.ac.jp/y05/html/114/ 集」http://mahoroba.lib.na 原本 信長 記: 東京 大学 史料 編纂 所編
大日 本史 料 第十 編四 東京 大学 出版 会︑ 一九 六九 年
めざ まし う」 と聞 こゆ
︒
(
紫式 部日 記 年月 日不 明記 事) この 場面 は︑ 中宮 の御 前に 置か れた
源氏 物語
を見 た道 長が
︑ 源 氏物 語 の作 者で ある 式部 に対 して 詠ん だ歌 に式 部が 返歌 を述 べる
︑と いう 場面 であ る︒ この 場面 でも 注目 すべ き箇 所は「
すき 物︱」「
人は ま だ︱」
の和 歌で ある
︒ま ずは この 贈答 歌の 解釈 であ るが
︑口 訳は 以下 の 通り であ る︒
(
梅の 実は 酸い もの だと 誰で も知 って いる から
︑こ れだ け熟 して いれ ば︑ 手折 らず に通 りす ぎる もの はあ るま い︱ あな たは 色の 道の わけ 知 りだ と有 名な 人だ から
︑あ なた に会 って 誘い の手 をさ しの べな い人 は あり ます
( まい)
酸っ ぱい 梅の 実は とて も始 終口 にす るこ とは でき ない よう に︑ 私は 誰に も誘 惑さ れた こと はあ りま せん のに
︑一 体誰 がそ んな 好き 者だ なん て評 判を 立て たの でし
「 ょう)
すき 物︱」
の歌 であ るが
︑「 すき 物」 には「
酸き 物」 と「 好き 者」 と がか けら れて いて
︑「 をら で」 には
︑梅 の実 のつ いた 枝を 手折 るこ とと
︑ 男性 が女 性を 誘惑 する こと とが かけ られ てい る和 歌に なっ てい る︒ この 歌に つい て萩 谷朴 氏は
紫式 部日 記全 注釈 で︑ 道長 が式 部に 対し て︑ 恋人 の有 無を 打診 した 歌だ と言 って いる
︒ 源氏 物語
の著 者で ある 式 部を その 道の 達人
︑好 き者 と考 える 世間 の評 判を 前提 とし て︑ 夫宣 孝と 長保 三年 四月 二十 五日 に死 別し てか ら︑ 寛弘 五年 五月 まで
︑七 年余 にわ たっ て後 家を 立て とお して いる 式部 に︑ 一人 や二 人の 恋人 がい ない はず がな いと 考え た道 長が
︑こ の和 歌で まず は恋 人の 有無 を打 診し たの であ ると 述べ てい る︒ この 道長 の歌 に対 して 式部 は︑「 私は まだ 誰に も折 ら れて いな いの に︑ 誰が この よう に「 すき もの」 など と言 い立 てた ので しょ う」 と道 長を たし なめ るよ うな 歌を 返し てい る︒ また
︑贄 裕子 氏は この
「
すき 物と
︱」 の歌 に関 して
︑「「 をら で過 ぐ」 とい う言 葉使 いか ら想 い 起こ され る 源氏 物語
の夕 顔巻 を踏 まえ て歌 の後 半を 解釈 すれ ば︑
「
光源 氏が 六条 御息 所邸 から の朝 帰り の折
︑御 息所 の女 房の 中将 の君 に 対し ても
︑「 隅の 間の 高欄 にし ばし ひき 据ゑ」(
夕顔
①一 四七
〜一 四八 頁)
て「 折ら で過 ぎう き」 と歌 いか け手 をと らえ たよ うに
︑あ なた を手 折ら ない で行 き過 ぎる 人は いな いだ ろう と思 いま す︒ 私も 光源 氏の まね をし てみ たい もの です」
とな ろう か︒」 ( 3)
と言 って いる
︒萩 谷氏 の述 べて い るこ とか らも
︑贄 氏の 論文 の中 から も︑ 式部 の気 持ち を読 み取 るの は難 しい が︑ 道長 は式 部に 対し て気 があ るこ とが 窺え るの では ない だろ うか
︒ もし 道長 が式 部に 気が ない とす るな らば
︑式 部へ 恋人 の打 診を した りす る必 要も ない し︑ この よう に誘 うよ うな 歌を 式部 に詠 みか ける とは 考え にく い︒ よっ て︑ この 箇所 も 紫式 部日 記 から 二人 の関 係を 考え る上 で重 要な 箇所 であ ると 言え る︒
③ 渡殿 に寝 たる 夜︑「 戸を たた く人 あり」
と聞 けど
︑お そろ しさ に︑ 音も せで 明か した るつ とめ て︑ 夜も すが ら 水鶏 より けに なく なく ぞ 真木 の戸 口に
たた きわ びつ る 返し
︑ ただ なら じ とば かり たた く 水鶏 ゆゑ あけ ては いか に く やし から まし
(
紫式 部日 記 年月 日不 明記 事) この 場面 は︑ 式部 が寝 てい る局 の戸 を夜 に誰 かが 叩く 音が 聞こ え︑ 怯 えて 夜を 明か すと 朝に この よう な和 歌が 届い た︑ とい う場 面で あり
︑前 述し た② の後 に続 くも ので もあ る︒ また
︑最 初の 章段 で挙 げた 尊卑 分 脈 は 紫式 部日 記 のこ の箇 所を 見て
︑式 部を「 御堂 関白 道長 妾云 々」 と記 述し たと 言わ れて いる ので ある
︒私 自身 の中 でも
︑式 部と 道長 は関 係が あっ たと 考え るに 至っ たき っか けの 箇所 でも ある
︒ まず
︑こ の場 面で 詠ま れて いる 贈答 歌は 主語 が省 かれ てい るが
︑こ れ は一 般に 道長 と式 部の 贈答 歌と され てい る︒ その 理由 は 新勅 撰集 で 道長 の歌 とさ れて いる から だ︒ また
︑ 紫式 部日 記絵 巻 にも この 場面 の絵 が描 かれ てい て︑ その 絵は 道長 が式 部の 局を 訪れ てい る絵 にな って いる
︒そ のよ うな 絵が 描か れて いる のは
︑こ の歌 が道 長と 式部 のも ので ある とい う確 信が あっ ての もの であ ろう
︒よ って 戸を 叩い た人 物が 道長 であ るこ とが 分か る︒
愛を 現実 生活 の中 で拒 まな けれ ばな らな かっ た理 由は 見当 たら ない とい っ ても よい」 ( 1
)
と述 べて いる し︑ 式部 が道 長を 拒む 理由 がな いこ とは 確実 だと 言え る︒ やは り誘 いを 拒む 理由 がな いこ とは
︑二 人の 関係 が発 展し てい く大 きな 理由 にな るの では ない かと 私は 考え てい る︒ この こと から
︑ 式部 と道 長の 関係 があ った 理由 とな るだ ろう
︒ 四︑
紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 藤原 道長 の やり 取り 紫式 部日 記 の中 で道 長が 登場 する 場面 は多 くあ り︑ ほぼ 全体 にわ たっ て登 場し てい る︒ その 中で も︑ 私が 式部 と道 長の 関係 と関 わり のあ ると 考え る箇 所三 つを 挙げ
︑そ れが どの よう に二 人の 交情 に関 係あ るの かを 述べ てい く︒
① 渡殿 の戸 口の 局に 見い だせ ば︑ ほの うち 霧り たる 朝の
︑露 もま だお ちぬ に︑ 殿あ りか せ給 ひて
︑御 随身 めし て︑ 遣水 はら はせ 給ふ
︒ 橋の 南な る女 郎花 の︑ いみ じう さか りな るを 一枝 をら せ給 ひて
︑几 帳の かみ より さし のぞ かせ 給へ り︒ 御さ まの いと はづ かし げな るに
︑我 が朝 顔の おも ひし らる れば
︑
「
これ
︑お そく ては わろ から む」 との たま はす るに こと つけ て︑ 硯の もと によ りぬ
︒ 女郎 花 さか りの 色を
みる から に 露の 分き ける 身こ そし らる れ
「
あな 疾」 と︑ ほほ ゑみ て︑ 硯め しい づ︒ 白露 は 分き ても おか じ 女郎 花 心か らに や 色の 染む らむ
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 八月) これ は式 部が 局か ら外 を見 てい ると
︑朝 早く から 庭の 遣水 のご みを 払 わせ てい る道 長の 姿が 目に 入る
︒式 部に 気付 いた 道長 が︑ 咲い てい る女 郎花 を一 枝折 り︑ 和歌 を投 げ掛 けた
︒そ の和 歌に 式部 が答 える
︑と いう 場面 であ る︒ この 場面 の和 歌の やり 取り に関 して
︑竹 内秀 男氏 は自 身の
論文( 2)
で︑ 式部 と道 長は
後撰 和歌 集 巻第 六秋 中に 見え る藤 原師 輔と 大輔 との 贈答 歌を 踏ま えた ので はな いか と述 べて いる
︒そ の古 歌と は以 下の 歌で ある
︒ をり てみ る 袖さ へぬ るゝ をみ なへ し 露け きも のと
いま やし るら ん
(
右大 臣九 条・ 巻六 秋中
281)
返し よろ つよ に かゝ らむ 露を をみ なへ し なに をも ふと か また き ぬる らん
(
大輔
・巻 六秋 中282) 又は をき あか す つゆ のよ なよ な へに けれ は また きぬ ると も おも はさ りけ り
(
右大 臣・ 巻六 秋中
283)
返し いま はゝ や うち とけ ぬへ き しら つゆ の 心を くま て よを やへ にけ る
(
大輔
・巻 六秋 中284) 後撰 和歌 集 の「 秋中」
に収 めら れて いる もの の︑ これ らの 贈答 歌 は藤 原師 輔と 大輔
︑二 人の 恋愛 関係 の問 題を 含ん でい る︑ とい うの であ る︒ 竹内 氏の 説か ら考 える と︑ 式部 も道 長も 才の ある 人物 であ るか ら︑ この 古歌 の背 景を 踏ま えて「
女郎 花︱」「
白露 は︱」
の和 歌を やり とり した と考 えら れな くな いで あろ う︒ この こと から この 和歌 のや り取 りの 箇所 から
︑式 部と 道長 に関 係が あっ たの では ない かと 考え られ る︒
② 源氏 の物 語︑ 御前 にあ るを
︑殿 の御 覧じ て︑ 例の
︑す ずろ 言ど も出 でき たる つい でに
︑梅 の下 にし かれ たる 紙に 書か せた まへ る︑ すき 物と 名に した てれ ば みる 人の
をら です ぐる は あら じと ぞお もふ たま はせ たれ ば︑ 人に まだ をら れぬ もの を たれ かこ の すき もの ぞと は 口 なら しけ む
めざ まし う」 と聞 こゆ
︒
(
紫式 部日 記 年月 日不 明記 事) この 場面 は︑ 中宮 の御 前に 置か れた
源氏 物語
を見 た道 長が
︑ 源 氏物 語 の作 者で ある 式部 に対 して 詠ん だ歌 に式 部が 返歌 を述 べる
︑と いう 場面 であ る︒ この 場面 でも 注目 すべ き箇 所は「
すき 物︱」「
人は ま だ︱」
の和 歌で ある
︒ま ずは この 贈答 歌の 解釈 であ るが
︑口 訳は 以下 の 通り であ る︒
(
梅の 実は 酸い もの だと 誰で も知 って いる から
︑こ れだ け熟 して いれ ば︑ 手折 らず に通 りす ぎる もの はあ るま い︱ あな たは 色の 道の わけ 知 りだ と有 名な 人だ から
︑あ なた に会 って 誘い の手 をさ しの べな い人 は あり ます
( まい)
酸っ ぱい 梅の 実は とて も始 終口 にす るこ とは でき ない よう に︑ 私は 誰に も誘 惑さ れた こと はあ りま せん のに
︑一 体誰 がそ んな 好き 者だ なん て評 判を 立て たの でし
「 ょう)
すき 物︱」
の歌 であ るが
︑「 すき 物」 には「
酸き 物」 と「 好き 者」 と がか けら れて いて
︑「 をら で」 には
︑梅 の実 のつ いた 枝を 手折 るこ とと
︑ 男性 が女 性を 誘惑 する こと とが かけ られ てい る和 歌に なっ てい る︒ この 歌に つい て萩 谷朴 氏は
紫式 部日 記全 注釈 で︑ 道長 が式 部に 対し て︑ 恋人 の有 無を 打診 した 歌だ と言 って いる
︒ 源氏 物語
の著 者で ある 式 部を その 道の 達人
︑好 き者 と考 える 世間 の評 判を 前提 とし て︑ 夫宣 孝と 長保 三年 四月 二十 五日 に死 別し てか ら︑ 寛弘 五年 五月 まで
︑七 年余 にわ たっ て後 家を 立て とお して いる 式部 に︑ 一人 や二 人の 恋人 がい ない はず がな いと 考え た道 長が
︑こ の和 歌で まず は恋 人の 有無 を打 診し たの であ ると 述べ てい る︒ この 道長 の歌 に対 して 式部 は︑「 私は まだ 誰に も折 ら れて いな いの に︑ 誰が この よう に「 すき もの」 など と言 い立 てた ので しょ う」 と道 長を たし なめ るよ うな 歌を 返し てい る︒ また
︑贄 裕子 氏は この
「
すき 物と
︱」 の歌 に関 して
︑「「 をら で過 ぐ」 とい う言 葉使 いか ら想 い 起こ され る 源氏 物語
の夕 顔巻 を踏 まえ て歌 の後 半を 解釈 すれ ば︑
「
光源 氏が 六条 御息 所邸 から の朝 帰り の折
︑御 息所 の女 房の 中将 の君 に 対し ても
︑「 隅の 間の 高欄 にし ばし ひき 据ゑ」(
夕顔
①一 四七
〜一 四八 頁)
て「 折ら で過 ぎう き」 と歌 いか け手 をと らえ たよ うに
︑あ なた を手 折ら ない で行 き過 ぎる 人は いな いだ ろう と思 いま す︒ 私も 光源 氏の まね をし てみ たい もの です」
とな ろう か︒」 ( 3)
と言 って いる
︒萩 谷氏 の述 べて い るこ とか らも
︑贄 氏の 論文 の中 から も︑ 式部 の気 持ち を読 み取 るの は難 しい が︑ 道長 は式 部に 対し て気 があ るこ とが 窺え るの では ない だろ うか
︒ もし 道長 が式 部に 気が ない とす るな らば
︑式 部へ 恋人 の打 診を した りす る必 要も ない し︑ この よう に誘 うよ うな 歌を 式部 に詠 みか ける とは 考え にく い︒ よっ て︑ この 箇所 も 紫式 部日 記 から 二人 の関 係を 考え る上 で重 要な 箇所 であ ると 言え る︒
③ 渡殿 に寝 たる 夜︑「 戸を たた く人 あり」
と聞 けど
︑お そろ しさ に︑ 音も せで 明か した るつ とめ て︑ 夜も すが ら 水鶏 より けに なく なく ぞ 真木 の戸 口に
たた きわ びつ る 返し
︑ ただ なら じ とば かり たた く 水鶏 ゆゑ あけ ては いか に く やし から まし
(
紫式 部日 記 年月 日不 明記 事) この 場面 は︑ 式部 が寝 てい る局 の戸 を夜 に誰 かが 叩く 音が 聞こ え︑ 怯 えて 夜を 明か すと 朝に この よう な和 歌が 届い た︑ とい う場 面で あり
︑前 述し た② の後 に続 くも ので もあ る︒ また
︑最 初の 章段 で挙 げた 尊卑 分 脈 は 紫式 部日 記 のこ の箇 所を 見て
︑式 部を「 御堂 関白 道長 妾云 々」 と記 述し たと 言わ れて いる ので ある
︒私 自身 の中 でも
︑式 部と 道長 は関 係が あっ たと 考え るに 至っ たき っか けの 箇所 でも ある
︒ まず
︑こ の場 面で 詠ま れて いる 贈答 歌は 主語 が省 かれ てい るが
︑こ れ は一 般に 道長 と式 部の 贈答 歌と され てい る︒ その 理由 は 新勅 撰集 で 道長 の歌 とさ れて いる から だ︒ また
︑ 紫式 部日 記絵 巻 にも この 場面 の絵 が描 かれ てい て︑ その 絵は 道長 が式 部の 局を 訪れ てい る絵 にな って いる
︒そ のよ うな 絵が 描か れて いる のは
︑こ の歌 が道 長と 式部 のも ので ある とい う確 信が あっ ての もの であ ろう
︒よ って 戸を 叩い た人 物が 道長 であ るこ とが 分か る︒
愛を 現実 生活 の中 で拒 まな けれ ばな らな かっ た理 由は 見当 たら ない とい っ ても よい」 ( 1)
と述 べて いる し︑ 式部 が道 長を 拒む 理由 がな いこ とは 確実 だと 言え る︒ やは り誘 いを 拒む 理由 がな いこ とは
︑二 人の 関係 が発 展し てい く大 きな 理由 にな るの では ない かと 私は 考え てい る︒ この こと から
︑ 式部 と道 長の 関係 があ った 理由 とな るだ ろう
︒ 四︑
紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 藤原 道長 の やり 取り 紫式 部日 記 の中 で道 長が 登場 する 場面 は多 くあ り︑ ほぼ 全体 にわ たっ て登 場し てい る︒ その 中で も︑ 私が 式部 と道 長の 関係 と関 わり のあ ると 考え る箇 所三 つを 挙げ
︑そ れが どの よう に二 人の 交情 に関 係あ るの かを 述べ てい く︒
① 渡殿 の戸 口の 局に 見い だせ ば︑ ほの うち 霧り たる 朝の
︑露 もま だお ちぬ に︑ 殿あ りか せ給 ひて
︑御 随身 めし て︑ 遣水 はら はせ 給ふ
︒ 橋の 南な る女 郎花 の︑ いみ じう さか りな るを 一枝 をら せ給 ひて
︑几 帳の かみ より さし のぞ かせ 給へ り︒ 御さ まの いと はづ かし げな るに
︑我 が朝 顔の おも ひし らる れば
︑
「
これ
︑お そく ては わろ から む」 との たま はす るに こと つけ て︑ 硯の もと によ りぬ
︒ 女郎 花 さか りの 色を
みる から に 露の 分き ける 身こ そし らる れ
「
あな 疾」 と︑ ほほ ゑみ て︑ 硯め しい づ︒ 白露 は 分き ても おか じ 女郎 花 心か らに や 色の 染む らむ
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 八月) これ は式 部が 局か ら外 を見 てい ると
︑朝 早く から 庭の 遣水 のご みを 払 わせ てい る道 長の 姿が 目に 入る
︒式 部に 気付 いた 道長 が︑ 咲い てい る女 郎花 を一 枝折 り︑ 和歌 を投 げ掛 けた
︒そ の和 歌に 式部 が答 える
︑と いう 場面 であ る︒ この 場面 の和 歌の やり 取り に関 して
︑竹 内秀 男氏 は自 身の
論文( 2)
で︑ 式部 と道 長は
後撰 和歌 集 巻第 六秋 中に 見え る藤 原師 輔と 大輔 との 贈答 歌を 踏ま えた ので はな いか と述 べて いる
︒そ の古 歌と は以 下の 歌で ある
︒ をり てみ る 袖さ へぬ るゝ をみ なへ し 露け きも のと
いま やし るら ん
(
右大 臣九 条・ 巻六 秋中
281)
返し よろ つよ に かゝ らむ 露を をみ なへ し なに をも ふと か また き ぬる らん
(
大輔
・巻 六秋 中282) 又は をき あか す つゆ のよ なよ な へに けれ は また きぬ ると も おも はさ りけ り
(
右大 臣・ 巻六 秋中
283)
返し いま はゝ や うち とけ ぬへ き しら つゆ の 心を くま て よを やへ にけ る
(
大輔
・巻 六秋 中284) 後撰 和歌 集 の「 秋中」
に収 めら れて いる もの の︑ これ らの 贈答 歌 は藤 原師 輔と 大輔
︑二 人の 恋愛 関係 の問 題を 含ん でい る︑ とい うの であ る︒ 竹内 氏の 説か ら考 える と︑ 式部 も道 長も 才の ある 人物 であ るか ら︑ この 古歌 の背 景を 踏ま えて「
女郎 花︱」「
白露 は︱」
の和 歌を やり とり した と考 えら れな くな いで あろ う︒ この こと から この 和歌 のや り取 りの 箇所 から
︑式 部と 道長 に関 係が あっ たの では ない かと 考え られ る︒
② 源氏 の物 語︑ 御前 にあ るを
︑殿 の御 覧じ て︑ 例の
︑す ずろ 言ど も出 でき たる つい でに
︑梅 の下 にし かれ たる 紙に 書か せた まへ る︑ すき 物と 名に した てれ ば みる 人の
をら です ぐる は あら じと ぞお もふ たま はせ たれ ば︑ 人に まだ をら れぬ もの を たれ かこ の すき もの ぞと は 口 なら しけ む
とあ れば
︑用 なさ にと どめ つ︒
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 九月 九日) この 記事 は九 月九 日に 書か れた もの であ り︑ 九月 九日 は「 重陽 の節 句」 であ る︒「 重陽 の節 句」 とは 菊酒 を飲 んだ り︑ 前の 晩か ら菊 の花 の上 に 綿を 置い て露 を含 ませ
︑そ れで 顔や 体を ふい て若 返り を願 う︑ 老い を捨 てる
︑と いう 風習 のこ とで ある
︒倫 子は その 菊の 露を 含ま せた 綿を「
う んと 念入 りに 老い を拭 き取 りな さい」
と言 って 式部 に贈 った
︒そ んな 倫 子に 対し て式 部は「
私は たい して 年寄 りで はご ざい ませ んか ら︑ ほん の ちょ っと 若返 ると いっ た程 度に 袖を 触れ て︑ この 菊の 露と
︑露 がも たら す千 年も の寿 命は
︑花 の持 ち主 のあ なた 様に お譲 り申 しま しょ う」 と返 した
︑と いう 場面 であ る︒ 自分 の夫 と式 部に 関係 があ ると 考え た倫 子が
︑ 嫉妬 して 菊の 露を 含ま せた 綿を 贈っ た︑ と解 釈さ れて いる
︒し かし 当時 は一 夫多 妻が 常識 の世 の中 であ り︑ 愛人 など とい う存 在が あっ たこ とは 珍し くな い︒ それ どこ ろか
︑よ くあ るも ので もあ った
︒だ が︑ その 中で なぜ 倫子 は式 部を 敵視 した のだ ろう か︒ 式部 に対 して 倫子 はむ やみ に嫉 妬し たわ けで はな く︑ この よう に嫉 妬す るに は三 つの 理由 があ ると
︑萩 谷朴 氏は
紫式 部日 記全 注釈 で述 べて いる
︒ 一つ めは「 式部 の身 分の 低さ」
であ る︒ 式部 は倫 子の 母方 と同 じ北 家 藤原 氏良 門流 の再 従姉 妹︒ 式部 の夫 であ る宣 孝も また
︑倫 子と 再従 兄妹 の関 係に ある とは いっ ても
︑今 では 家司 階級
・受 領階 級と して 摂関 大臣 家に 臣従 する 低い 家柄
︒ま た︑ 式部 の父 の為 時は
︑昇 殿を ゆる され ない 散位 の五 位に しか すぎ なか った
︒こ のこ とが
︑倫 子の プラ イド を傷 つけ るの であ る︒ 二つ めは「 式部 の年 齢」 であ る︒ 一夫 多妻 の貴 族社 会に おい て権 力者 の妻 室は
︑自 分が 女性 とし ての 魅力 を喪 失し てし まう よう な年 齢に 達し た時 には
︑妻 とし ての 権力 の座 を保 持す るた めに
︑親 族や 侍女 のよ うな 自己 の身 内の 若い 女性 を側 妾と して 夫に 勧め るよ うな 習わ しが あっ た︒ 夫で ある 道長 の交 情を 黙認 しな けれ ばな らな い倫 子で あっ たが
︑さ ほど 年齢 差の ない 式部 に対 して は許 すこ とが 出来 なか った のだ
︒式 部は おそ らく 寛弘 五年 当時 三十 五歳 であ った と推 定さ れ︑ 確か に四 十三 歳の 道長
に対 して 四十 五歳 の倫 子よ りは ふさ わし い年 齢で あっ たか もし れな いが
︑ 新し く情 人と して 取り 上げ るに は︑ 式部 の年 齢は いき すぎ てい たの であ る︒ 特に 式部 を名 指し して 菊の 露を 含ま せた 綿を 贈っ た倫 子の 真意 は︑ 実は そこ にあ った ので あろ う︒ 三つ めは「
式部 の教 養才 能」 であ る︒ 源氏 物語
の作 者と して
︑世 間に 定評 のあ る式 部の 教養 才能 が︑ 倫子 にと って はま ばゆ くも 目ざ わり だっ たの だ︒ もち ろん
︑そ の学 才の 故に こそ
︑式 部を 中宮 彰子 の教 養係 とし て召 しい だす こと に自 分も 賛成 した ので あろ うが
︑今 はそ れが 仇と なっ て︑ 夫道 長の 興味 をそ そり
︑嫉 妬の 苦汁 をな めさ せら れる こと とな っ てし まっ たの だ︒ 以上 の三 つが 倫子 が式 部に 対し て嫉 妬す る理 由で ある
︒ また そん な倫 子に 対し て︑ 式部 はど んな 反応 をし たの か︒ 式部 が菊 の 露を 含ま せた 綿を 贈っ てき た倫 子に 対し て「 菊の 露︱」 とい う歌 を返 し たこ とに も︑ 自分 も三 十路 を越 えて いる とは いえ
︑男 性に 対す る魅 力を 失っ てい ない
︑と いう 式部 の自 信か らそ の歌 を贈 った とも 考え られ る︒ この 式部 の自 信は やは り︑ 道長 から 言い 寄ら れて いる こと から きて いる ので はな いか とも 考え るこ とも 出来 るの では ない だろ うか
︒
② おそ ろし かる べき 夜の 御酔 ひな めり とみ て︑ こと はつ るま まに
︑ 宰相 の君 にい ひあ はせ て︑ 東面 に殿 の君 達・ 宰相 の宰 相の 中将 など 入り て︑ さわ がし かれ ば︑ ふた り御 帳の うし ろに 居か くれ たる を︑ とり はら はせ 給ひ て︑ ふた りな がら とら へ据 ゑさ せ給 へり
︒
「
和歌 ひと つつ かう まつ れ︒ さら ばゆ るさ む」 との たま はす
︒い とわ びし くお そろ しけ れば
︑聞 こゆ
︒ いか にい かが かぞ へや るべ き やち とせ の あま り久 しき 君が 御代 をば
「
あは れ︑ つか うま つれ るか な」 と︑ 二た びば かり 誦ぜ させ 給ひ て︑ いと とう のた まは せた る︑ あし たづ の よは ひし あら ば きみ が代 の 千と せの かず も かぞ へと りて む さば かり 酔ひ たま へる 御心 ちに も︑ おぼ しけ るこ との さま なれ ば︑
さて
︑こ こで 疑問 に思 うこ とが 二つ ある
︒ 一つ めは
︑式 部が 紫式 部日 記 にこ のよ うな
︑二 人に 関係 があ った ので はな いか とに おわ せる やり 取り を載 せた 意図 であ る︒ この こと を考 える には まず
︑ 紫式 部日 記 が書 かれ た理 由を 考え てい かな けれ ばな らな いだ ろう
︒し かし
︑ 紫式 部日 記 が書 かれ た本 当の 理由 は未 だ分 かっ てい ない
︒ 紫式 部日 記 が書 かれ た理 由は 諸説 あり
︑深 町健 一郎 氏は「 主家 の繁 栄を 記録 する とい う公 的な 職務」 ( 4)
と述 べて いる
︒ま た︑ 福家 俊幸 氏は「
日記
執筆 を依 頼し た︑ いわ ばス ポン サー であ った と すれ ば︑ その スポ ンサ ーを 風雅 なや りと りを 通し て物 語世 界の 貴公 子の よう に理 想化 して 位置 づけ てい たと いう こと であ ろう」 ( 1
)
と自 身の 論文 に書 いて おり
︑道 長が 紫式 部日 記 を式 部に 書か せた
︑と 言っ てい る︒ 贄裕 子氏( 3)
はこ のや り取 り自 体を 後宮 政策 の一 環で あり
︑こ の贈 答歌 の やり 取り も道 長の 演出 と述 べて いる
︒こ のよ うに 見て みる と︑ 紫式 部 日記 は公 的文 書と いう 考え が一 般的 には 多い よう であ る︒ しか しも し︑ 紫式 部日 記 が深 町氏 の述 べる よう に︑ 公的 な職 務を 目的 で書 かれ た ので ある とす れば
︑そ のよ うな 公的 な文 書に 右記 のよ うな やり 取り を載 せる だろ うか
︒公 的な 文書 とい うこ とは
︑多 くの 人の 目に とま るも ので もあ り︑ この よう な私 的な 内容 は書 かな いの では ない か︑ と私 は考 える
︒
「
夜も すが ら︱」「
ただ なら じ︱」
の一 連の やり 取り を載 せた とい うこ と は︑ 式部 自身 にも 道長 から 誘い を受 けた こと を誇 りに 思う 一面 があ り︑ この よう な文 書に も残 した ので はな いか とも 考え られ る︒ 萩谷 朴氏 も 紫式 部日 記全 注釈
で「 むし ろ道 長ほ どの 人物 から 求愛 され たと いう こと は︑ 誇る べき 事実 とし て︑ どこ かに 記録 して おき たい 気持 が抑 えき れな かっ たの であ ろう」
と述 べて いる
︒ま た︑ 福家 氏や 贄氏 が言 うよ う に 紫式 部日 記 が道 長の 後宮 政策 の為 に道 長の 命令 で書 かれ た︑ とい う説 であ るが
︑こ の説 に則 って 式部 が道 長の 才を 記そ うと この 場面 を書 いた とす れば
︑別 の和 歌で も良 かっ ただ ろう し︑ この よう な式 部が 道長 から 誘い を受 ける とい うよ うな 場面 でな くて も良 かっ たの では ない か︑ と私 は考 える
︒そ れに
︑道 長も この よう な演 出で なく ても 良か った はず であ る︒ さら に︑ この 場面 から 考え られ る疑 問の もう 一つ は︑ 何も 関係 のな い
女性 の局 を夜 に男 性が 訪れ たり する のだ ろう か︑ とい うこ とで ある
︒当 時の 風習 から 考え ると ただ 訪れ てみ ただ けと 考え るの は難 しい
︒式 部は 分か らな いが
︑少 なく とも 道長 には 式部 に対 して 何ら かの 気持 ちが あり
︑ 夜に 式部 の局 を訪 れた ので はな いだ ろう か︒ 式部 もこ の場 面で は断 って いる が︑ 後日 はど うな った かは 分か らな いし
︑ 紫式 部日 記 にも 記述 はな い︒ 関係 がな かっ たと 断言 する のは 難し い気 もす る︒ 以上 が 紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 藤原 道長 のや り取 り の中 で式 部と 道長 の関 係に 関わ りが ある ので はな いか と考 えら れる 箇所 であ る︒ 書か れた 本当 の理 由は 謎な まま だが
︑ 紫式 部日 記 に書 かれ た文 書は 式部 が実 際に 書い たも ので ある から
︑何 より も説 得力 があ るし
︑ 真意 は何 であ るに しろ この よう なや り取 りが 式部 と道 長の 間で 行わ れて いた のは 事実 であ る︒ 私は
︑こ の三 箇所 を見 て関 係が あっ たと 言え ると 思う し︑ 逆に 関係 がな かっ たと 言い 切る 方が 難し いと 考え る︒ 五︑
紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 正妻
・源 倫子 のや り取 り 紫式 部日 記 を読 み込 んで いく 中で
︑式 部と 道長 の関 係を 考え てい くに は道 長の 正妻 でも ある 源倫 子と 式部 の関 係も 重要 であ るこ とが 分か っ てき た︒ 式部 と道 長ほ ど多 くの やり 取り は残 され てい ない が︑ 式部 と倫 子の やり 取り も 紫式 部日 記 の中 に何 カ所 か存 在す る︒ その 中で も︑ 式部 と道 長の 関係 を考 える にあ たっ て関 係の 深い 箇所 を三 カ所 述べ て︑ 考え てい くこ とに する
︒
① 九日
︑菊 の綿 を兵 部の おも との 持て 来て
︑
「
これ
︑殿 の上 の︑ とり わき て︒ いと よう 老い 拭ひ 捨て 給へ
と︑ のた まは せつ る」 とあ れば
︑ 菊の 露 わか ゆば かり に 袖ふ れて 花の ある じに
千代 はゆ づら む とて
︑か へし たて まつ らむ とす る程 に︑
「
あな たに 帰り わた らせ たま ひぬ」
とあ れば
︑用 なさ にと どめ つ︒
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 九月 九日) この 記事 は九 月九 日に 書か れた もの であ り︑ 九月 九日 は「 重陽 の節 句」 であ る︒「 重陽 の節 句」 とは 菊酒 を飲 んだ り︑ 前の 晩か ら菊 の花 の上 に 綿を 置い て露 を含 ませ
︑そ れで 顔や 体を ふい て若 返り を願 う︑ 老い を捨 てる
︑と いう 風習 のこ とで ある
︒倫 子は その 菊の 露を 含ま せた 綿を「
う んと 念入 りに 老い を拭 き取 りな さい」
と言 って 式部 に贈 った
︒そ んな 倫 子に 対し て式 部は「
私は たい して 年寄 りで はご ざい ませ んか ら︑ ほん の ちょ っと 若返 ると いっ た程 度に 袖を 触れ て︑ この 菊の 露と
︑露 がも たら す千 年も の寿 命は
︑花 の持 ち主 のあ なた 様に お譲 り申 しま しょ う」 と返 した
︑と いう 場面 であ る︒ 自分 の夫 と式 部に 関係 があ ると 考え た倫 子が
︑ 嫉妬 して 菊の 露を 含ま せた 綿を 贈っ た︑ と解 釈さ れて いる
︒し かし 当時 は一 夫多 妻が 常識 の世 の中 であ り︑ 愛人 など とい う存 在が あっ たこ とは 珍し くな い︒ それ どこ ろか
︑よ くあ るも ので もあ った
︒だ が︑ その 中で なぜ 倫子 は式 部を 敵視 した のだ ろう か︒ 式部 に対 して 倫子 はむ やみ に嫉 妬し たわ けで はな く︑ この よう に嫉 妬す るに は三 つの 理由 があ ると
︑萩 谷朴 氏は
紫式 部日 記全 注釈 で述 べて いる
︒ 一つ めは「 式部 の身 分の 低さ」
であ る︒ 式部 は倫 子の 母方 と同 じ北 家 藤原 氏良 門流 の再 従姉 妹︒ 式部 の夫 であ る宣 孝も また
︑倫 子と 再従 兄妹 の関 係に ある とは いっ ても
︑今 では 家司 階級
・受 領階 級と して 摂関 大臣 家に 臣従 する 低い 家柄
︒ま た︑ 式部 の父 の為 時は
︑昇 殿を ゆる され ない 散位 の五 位に しか すぎ なか った
︒こ のこ とが
︑倫 子の プラ イド を傷 つけ るの であ る︒ 二つ めは「 式部 の年 齢」 であ る︒ 一夫 多妻 の貴 族社 会に おい て権 力者 の妻 室は
︑自 分が 女性 とし ての 魅力 を喪 失し てし まう よう な年 齢に 達し た時 には
︑妻 とし ての 権力 の座 を保 持す るた めに
︑親 族や 侍女 のよ うな 自己 の身 内の 若い 女性 を側 妾と して 夫に 勧め るよ うな 習わ しが あっ た︒ 夫で ある 道長 の交 情を 黙認 しな けれ ばな らな い倫 子で あっ たが
︑さ ほど 年齢 差の ない 式部 に対 して は許 すこ とが 出来 なか った のだ
︒式 部は おそ らく 寛弘 五年 当時 三十 五歳 であ った と推 定さ れ︑ 確か に四 十三 歳の 道長
に対 して 四十 五歳 の倫 子よ りは ふさ わし い年 齢で あっ たか もし れな いが
︑ 新し く情 人と して 取り 上げ るに は︑ 式部 の年 齢は いき すぎ てい たの であ る︒ 特に 式部 を名 指し して 菊の 露を 含ま せた 綿を 贈っ た倫 子の 真意 は︑ 実は そこ にあ った ので あろ う︒ 三つ めは「
式部 の教 養才 能」 であ る︒ 源氏 物語
の作 者と して
︑世 間に 定評 のあ る式 部の 教養 才能 が︑ 倫子 にと って はま ばゆ くも 目ざ わり だっ たの だ︒ もち ろん
︑そ の学 才の 故に こそ
︑式 部を 中宮 彰子 の教 養係 とし て召 しい だす こと に自 分も 賛成 した ので あろ うが
︑今 はそ れが 仇と なっ て︑ 夫道 長の 興味 をそ そり
︑嫉 妬の 苦汁 をな めさ せら れる こと とな っ てし まっ たの だ︒ 以上 の三 つが 倫子 が式 部に 対し て嫉 妬す る理 由で ある
︒ また そん な倫 子に 対し て︑ 式部 はど んな 反応 をし たの か︒ 式部 が菊 の 露を 含ま せた 綿を 贈っ てき た倫 子に 対し て「 菊の 露︱」 とい う歌 を返 し たこ とに も︑ 自分 も三 十路 を越 えて いる とは いえ
︑男 性に 対す る魅 力を 失っ てい ない
︑と いう 式部 の自 信か らそ の歌 を贈 った とも 考え られ る︒ この 式部 の自 信は やは り︑ 道長 から 言い 寄ら れて いる こと から きて いる ので はな いか とも 考え るこ とも 出来 るの では ない だろ うか
︒
② おそ ろし かる べき 夜の 御酔 ひな めり とみ て︑ こと はつ るま まに
︑ 宰相 の君 にい ひあ はせ て︑ 東面 に殿 の君 達・ 宰相 の宰 相の 中将 など 入り て︑ さわ がし かれ ば︑ ふた り御 帳の うし ろに 居か くれ たる を︑ とり はら はせ 給ひ て︑ ふた りな がら とら へ据 ゑさ せ給 へり
︒
「
和歌 ひと つつ かう まつ れ︒ さら ばゆ るさ む」 との たま はす
︒い とわ びし くお そろ しけ れば
︑聞 こゆ
︒ いか にい かが かぞ へや るべ き やち とせ の あま り久 しき 君が 御代 をば
「
あは れ︑ つか うま つれ るか な」 と︑ 二た びば かり 誦ぜ させ 給ひ て︑ いと とう のた まは せた る︑ あし たづ の よは ひし あら ば きみ が代 の 千と せの かず も かぞ へと りて む さば かり 酔ひ たま へる 御心 ちに も︑ おぼ しけ るこ との さま なれ ば︑
さて
︑こ こで 疑問 に思 うこ とが 二つ ある
︒ 一つ めは
︑式 部が 紫式 部日 記 にこ のよ うな
︑二 人に 関係 があ った ので はな いか とに おわ せる やり 取り を載 せた 意図 であ る︒ この こと を考 える には まず
︑ 紫式 部日 記 が書 かれ た理 由を 考え てい かな けれ ばな らな いだ ろう
︒し かし
︑ 紫式 部日 記 が書 かれ た本 当の 理由 は未 だ分 かっ てい ない
︒ 紫式 部日 記 が書 かれ た理 由は 諸説 あり
︑深 町健 一郎 氏は「 主家 の繁 栄を 記録 する とい う公 的な 職務」 ( 4)
と述 べて いる
︒ま た︑ 福家 俊幸 氏は「
日記
執筆 を依 頼し た︑ いわ ばス ポン サー であ った と すれ ば︑ その スポ ンサ ーを 風雅 なや りと りを 通し て物 語世 界の 貴公 子の よう に理 想化 して 位置 づけ てい たと いう こと であ ろう」 ( 1)
と自 身の 論文 に書 いて おり
︑道 長が 紫式 部日 記 を式 部に 書か せた
︑と 言っ てい る︒ 贄裕 子氏( 3)
はこ のや り取 り自 体を 後宮 政策 の一 環で あり
︑こ の贈 答歌 の やり 取り も道 長の 演出 と述 べて いる
︒こ のよ うに 見て みる と︑ 紫式 部 日記 は公 的文 書と いう 考え が一 般的 には 多い よう であ る︒ しか しも し︑ 紫式 部日 記 が深 町氏 の述 べる よう に︑ 公的 な職 務を 目的 で書 かれ た ので ある とす れば
︑そ のよ うな 公的 な文 書に 右記 のよ うな やり 取り を載 せる だろ うか
︒公 的な 文書 とい うこ とは
︑多 くの 人の 目に とま るも ので もあ り︑ この よう な私 的な 内容 は書 かな いの では ない か︑ と私 は考 える
︒
「
夜も すが ら︱」「
ただ なら じ︱」
の一 連の やり 取り を載 せた とい うこ と は︑ 式部 自身 にも 道長 から 誘い を受 けた こと を誇 りに 思う 一面 があ り︑ この よう な文 書に も残 した ので はな いか とも 考え られ る︒ 萩谷 朴氏 も 紫式 部日 記全 注釈
で「 むし ろ道 長ほ どの 人物 から 求愛 され たと いう こと は︑ 誇る べき 事実 とし て︑ どこ かに 記録 して おき たい 気持 が抑 えき れな かっ たの であ ろう」
と述 べて いる
︒ま た︑ 福家 氏や 贄氏 が言 うよ う に 紫式 部日 記 が道 長の 後宮 政策 の為 に道 長の 命令 で書 かれ た︑ とい う説 であ るが
︑こ の説 に則 って 式部 が道 長の 才を 記そ うと この 場面 を書 いた とす れば
︑別 の和 歌で も良 かっ ただ ろう し︑ この よう な式 部が 道長 から 誘い を受 ける とい うよ うな 場面 でな くて も良 かっ たの では ない か︑ と私 は考 える
︒そ れに
︑道 長も この よう な演 出で なく ても 良か った はず であ る︒ さら に︑ この 場面 から 考え られ る疑 問の もう 一つ は︑ 何も 関係 のな い
女性 の局 を夜 に男 性が 訪れ たり する のだ ろう か︑ とい うこ とで ある
︒当 時の 風習 から 考え ると ただ 訪れ てみ ただ けと 考え るの は難 しい
︒式 部は 分か らな いが
︑少 なく とも 道長 には 式部 に対 して 何ら かの 気持 ちが あり
︑ 夜に 式部 の局 を訪 れた ので はな いだ ろう か︒ 式部 もこ の場 面で は断 って いる が︑ 後日 はど うな った かは 分か らな いし
︑ 紫式 部日 記 にも 記述 はな い︒ 関係 がな かっ たと 断言 する のは 難し い気 もす る︒ 以上 が 紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 藤原 道長 のや り取 り の中 で式 部と 道長 の関 係に 関わ りが ある ので はな いか と考 えら れる 箇所 であ る︒ 書か れた 本当 の理 由は 謎な まま だが
︑ 紫式 部日 記 に書 かれ た文 書は 式部 が実 際に 書い たも ので ある から
︑何 より も説 得力 があ るし
︑ 真意 は何 であ るに しろ この よう なや り取 りが 式部 と道 長の 間で 行わ れて いた のは 事実 であ る︒ 私は
︑こ の三 箇所 を見 て関 係が あっ たと 言え ると 思う し︑ 逆に 関係 がな かっ たと 言い 切る 方が 難し いと 考え る︒ 五︑
紫式 部日 記 の中 に残 され た︑ 紫式 部と 正妻
・源 倫子 のや り取 り 紫式 部日 記 を読 み込 んで いく 中で
︑式 部と 道長 の関 係を 考え てい くに は道 長の 正妻 でも ある 源倫 子と 式部 の関 係も 重要 であ るこ とが 分か っ てき た︒ 式部 と道 長ほ ど多 くの やり 取り は残 され てい ない が︑ 式部 と倫 子の やり 取り も 紫式 部日 記 の中 に何 カ所 か存 在す る︒ その 中で も︑ 式部 と道 長の 関係 を考 える にあ たっ て関 係の 深い 箇所 を三 カ所 述べ て︑ 考え てい くこ とに する
︒
① 九日
︑菊 の綿 を兵 部の おも との 持て 来て
︑
「
これ
︑殿 の上 の︑ とり わき て︒ いと よう 老い 拭ひ 捨て 給へ
と︑ のた まは せつ る」 とあ れば
︑ 菊の 露 わか ゆば かり に 袖ふ れて 花の ある じに
千代 はゆ づら む とて
︑か へし たて まつ らむ とす る程 に︑
「
あな たに 帰り わた らせ たま ひぬ」
くせ ぐせ しく
︑や さし だち
︑恥 ぢら れ奉 る人 にも
︑そ ばめ だて られ で侍 らま し︒
(
紫式 部日 記 年月 日不 明記 事) 誰か らも 声を かけ ても らえ なか った 初出 仕か ら︑ 式部 は傷 つか ない 為 に馬 鹿で 間抜 けな 人間 を演 じて きて いた
︒と ころ がそ れが 功を 奏し
︑同 僚皆 が式 部を 見る 目を 変え た︒「 気取 り屋 で人 を見 下す よう な人」
とい う式 部の イメ ージ を払 拭し たの だ︒ その こと を知 った 式部 は気 恥ず かし く感 じた
︒う るさ 型を かわ す為 に馬 鹿で 間抜 けな 人間 を演 じて きて いた から だ︒ そこ で式 部は
︑穏 やか であ ると いう のを 自分 の本 性に しよ うと
︑ 自分 を変 える 努力 をし
︑距 離を 置か れて いた 中宮 彰子 にも 心を 開い ても らえ るよ うに なっ た︑ とい う内 容の 日記 であ る︒ 実際 の出 来事 など と関 係が ある 箇所 では なく
︑一 見論 文の テー マと も関 係が ない 箇所 にも 見え るが
︑こ の部 分か らは
︑今 まで の倫 子の 態度 に対 して
︑傍 線部 の「 くせ ぐせ しく
︑や さし だち
︑恥 ぢら れ奉 る人」
の箇 所に 式部 の皮 肉が 垣間 見 える ので ある
︒ まず
︑主 語が 省か れて いる「 くせ ぐせ しく
︑や さし だち
︑恥 ぢら れ奉 る人」
であ るが
︑こ れは 本当 に倫 子の こと であ るの かど うか を証 明し な くて はな らな い︒ 萩谷 朴氏 は 紫式 部日 記全 注釈
でこ のよ うに 解釈 し てい る︒「 くせ ぐせ し」「 やさ しだ つ」「 恥ぢ らる」
それ も︑ 最後 の「 恥 づ」 を︑ 前文 の式 部に 関す る前 評判 にお ける と同 様︑ 気の おけ る︑ 気骨 の折 れる
︑気 がね せら れる とい う意 味の 悪評 と見 るべ きで ある から
︑こ れだ けの 三条 件を 備え た女 性は
︑式 部に 優る とも 劣ら ぬ相 当な 煩さ 型の 人物 であ った とい える
︒よ って
︑こ の人 物が 何び とで ある かを 推定 する 条件 が四 つ挙 げら れる ので ある
︒
(
1)「 くせ ぐせ し」 とい う形 容詞 が「 一癖 ある」「
ひね くれ てい る」 と いう 意味 であ るこ と
(
2)「 やさ しだ つ」 とい う自 動詞 が「 上品 ぶる」 とい う意 味で ある こと
(
3)「 奉る」 とい う最 高敬 語の 助動 詞を 使用 する 必要 のあ るほ ど高 貴な 身分 の人 から「 恥ぢ られ」
てい る︑ すな わち 一目 おか れて いる
(
4) 式部 も︑ この 人に「
そば めだ てら れ」 るこ とを 怖れ てい た
この 四つ の条 件を 満た す人 物が 他の 誰で もな く︑ 倫子 であ るの だ︒ 中宮 彰子 を中 心と して 中宮 女房 の人 性論 を展 開し てい る 紫式 部日 記 にお いて
︑「 奉る」
とい う対 象尊 敬語 に最 もふ さわ しい 人物 は中 宮で ある と 仮定 出来 る︒ その 中宮 より は下 卑者 であ って
︑し かも
︑式 部が その 人か ら睨 まれ るこ とを 危惧 して いる ほど の上 位者 であ り︑ かつ
︑「 くせ ぐせ し」「 やさ しだ つ」「 恥ぢ られ 奉る」
とい う性 格上 の三 条件 を満 たす 人物 とな ると
︑そ れは 中宮 の母 倫子 を推 定す るよ り他 ない
︒古 参上 臈の 女房 の中 にも
︑中 宮が 一目 置か ねば なら ない よう なす ぐれ た女 性が いた かも しれ ない
︒し かし
︑こ れま で式 部が 紫式 部日 記 の中 で批 評し てき た 限り の実 在人 物の 範囲 内に おい ては 誰一 人︑ 前に 述べ た四 つの 条件 をす べて 満た す人 物を 見い だせ ない のだ
︒中 宮が 否応 なし に一 目置 かな けれ ばな らな い人 物は
︑道 長・ 倫子
・一 条天 皇の 三人 であ るが
︑一 条天 皇は 中宮 より 下卑 者で はな く︑ 道長 は男 性で ある から( 2) の「 やさ しだ ち」 が妥 当し ない し︑ 式部 を( 4)「 そば めだ つ」 こと もな いだ ろう
︒そ う する と残 ると ころ は倫 子一 人で ある
︒前 の①
②か らで も︑ 式部 が倫 子の 目を 最も 怖れ てい たで あろ うこ とが 分か る︒ この よう に式 部が 倫子 のこ とを「
個性 が強 くて」 や「 お上 品ぶ って」 と皮 肉た っぷ りで いや みの よう に 紫式 部日 記 の中 で記 述し た理 由は やは り︑ 式部 と道 長に 関係 があ り︑ それ に気 付い た倫 子が 嫉妬 から
︑式 部へ 嫌が らせ のよ うな もの を行 って いた とい う事 実が あっ たか らだ と考 えら れる であ ろう
︒ま た︑ 同時 に①
②が 道長 を巡 って の倫 子の 嫉妬 であ るこ とを 証明 する こと にも なる ので はな いだ ろう か︒ 六︑ 最後 に 以上 のよ うに
紫式 部日 記 の中 から 式部 と道 長の 関係 を考 えて きた が︑ 関係 があ った とい うこ とが 紫式 部日 記 の中 から 窺い 知る こと が 出来 たで あろ う︒ この 卒業 論文 を書 き進 めて いく 中で
︑式 部と 道長 に関 係が あっ たと いう こと は︑ 私の 中で より 確信 を得 るも のに なっ てき た︒ しか し︑ なぜ 式部 は道 長と 関係 を持 つよ うに なっ たの かと いう 疑問 がよ ぎっ た︒ 式部 が亡 くな って しま って いる 現在
︑こ の理 由を 聞く こと は出 来な いし
︑ 紫式 部日 記 の中 にも それ を示 唆す る記 述は ない
︒そ こで
いと あは れに こと わり なり
︒げ に︑ かく もて はや しき こえ 給ふ にこ そは
︑よ ろづ のか ざり もま さら せた まふ めれ
︒千 代も あく まじ き御 ゆく すゑ の︑ 数な らぬ 心ち にだ に︑ 思ひ つづ けら る︒
「
宮の 御前
︑き こし めす や︒ つか うま つれ り」 とわ れぼ めし 給ひ て︑
「
宮の 御父 にて まろ わろ から ず︒ まろ がむ すめ にて 宮わ ろく おは し まさ ず︒ 母も 又︑ さい はひ あり と思 ひて
︑わ らひ 給ふ めり
︒よ い夫 は持 たり かし とお もひ たん めり」 と︑ たは ぶれ きこ え給 ふも
︑こ よな き御 酔ひ のま ぎれ なり とみ ゆ︒ さる こと もな けれ ば︑ さわ がし き心 ちは しな がら
︑め でた くの み聞 きゐ させ 給ふ
︒殿 の上
︑聞 きに くし とお ぼす にや
︑わ たら せ給 ひぬ る気 しき なれ ば︑
「
おく りせ ずと て︑ 母う らみ たま はむ もの ぞ」 とて
︑い そぎ て御 帳の うち をと ほら せ給 ふ︒
「
宮︑ なめ しと おぼ すら む︒ 親の あれ ばこ そ子 もか しこ けれ」 と︑ うち つぶ やき たま ふを
︑人 人わ らひ きこ ゆ︒
(
紫式 部日 記 寛弘 五年 十一 月一 日) これ は敦 成親 王の お誕 生五 十日 の祝 いの 場面 であ る︒ 式部 は宰 相の 君 と申 し合 わせ て早 々に 退散 する つも りが
︑道 長に 捕ま って しま い歌 を詠 まさ れる
︒式 部の 歌に 対し て︑ 道長 はす っか り酔 って いる にも 関わ らず
「
あし たづ の︱」
とい う歌 を詠 み︑ その 歌か ら道 長に とっ て︑ 若君 の誕 生は ずっ と念 願で あっ たと いう こと が窺 える
︑と いう 場面 であ る︒ しか し︑ この 場面 には それ だけ では なく
︑倫 子が 不機 嫌な 箇所 も窺 える のだ
︒ そし てそ の箇 所が
︑道 長を 巡っ ての 式部 と倫 子の 関係 を示 す部 分で もあ る︒ その 箇所 とは
︑傍 線部 の「 聞き にく しと おぼ すに や」 の箇 所で ある
︒ これ は道 長の「
中宮 のお 父様 だか ら私 はご 機嫌 だ︒ 私の 娘だ から 中宮 も ご機 嫌で いら っし ゃる
︒お 母さ んこ れが また
︑し あわ せだ と思 って
︑に こに こし てい らっ しゃ るよ うよ
︒立 派な 旦那 さん を持 った もの だと 思っ てる だろ う」 とい う冗 談に 対し て︑ 倫子 が聞 くに 堪え ない と思 い向 こう へ行 って しま った とい う内 容だ
︒こ れだ けで は︑ 道長 を巡 った 式部 と倫
子の 関係 どこ ろか
︑式 部は この 箇所 とま った く関 係な いよ うに も見 える
︒ しか しこ の箇 所か ら︑ 倫子 が式 部を 敵視 して いる 様子 が窺 える のだ
︒こ れは 最初 に述 べた 通り
︑敦 成親 王の お誕 生五 十日 の祝 いの 席の 日記 であ る︒ にこ にこ 笑っ てい なけ れば なら ない お祝 いの 席を
︑四 十五 歳で 分別 も十 分に わき まえ てい る倫 子が
︑席 を立 って 行っ てし まう はず がな いの であ る︒ さら にも し︑ これ が親 娘三 人の 席で あっ たら
︑道 長の 自慢 話は
︑ 倫子 にと って も聞 くに 堪え ない もの では なく
︑共 に楽 しい もの であ った に違 いな い︒ かり に周 囲に 侍女 たち が居 て︑ 見て いた とし ても
︑倫 子は 気を つか った り︑ 恥ず かし がっ たり する ほど の年 齢で もな けれ ば︑ その よう な身 分で もな いの であ る︒ では なぜ
︑倫 子は 席を 立っ てい って しま っ たの か︒ この 理由 に道 長を 巡っ た式 部と 倫子 の関 係が 関わ って くる ので はな いか と考 えら れる
︒ 紫式 部日 記 の記 事で ある のだ から 勿論
︑式 部も 参加 して いた
︒や はり この 祝い の席 に式 部が 同席 して いて
︑そ の式 部が 道長 と関 係が ある こと に︑ 倫子 が既 にそ のこ とを 感づ いて いれ ばこ その 出来 事だ った と言 える だろ う︒
③ それ
︑「 心よ りほ かの わが 面影 を恥 づ」 と見 れど
︑え さら ずさ し向 かひ
︑ま じり ゐた るこ とだ にあ り︒「 しか じか さへ
︑も どか れ じ」 と︑ 恥づ かし きに あら ねど
︑「 むつ かし」
と思 ひて
︑呆 け痴 れ たる 人に
︑い とど なり はて て侍 れば
︑
「
かう は推 しは から ざり き︒ いと 艶に
︑恥 づか しく
︑人 見え にく げ に︑ そば そば しき さま して
︑物 語こ のみ
︑よ しめ き︑ 歌が ちに
︑人 を人 とも 思は ず︑ 妬げ に︑ 見お とさ むも のと なむ
︑み な人 人云 ひ思 ひつ つ憎 みし を︑ 見る には
︑あ やし きま でお いら かに
︑こ と人 かと なむ おぼ ゆる」 とぞ
︑み な云 ひ侍 るに 恥づ かし く︑「 人に かう おい らけ もの と見 お とさ れに ける」 とは 思ひ 侍れ ど︑ ただ「
これ ぞわ が心」 と︑ 慣ら ひ もて なし 侍る あり さま
︑宮 の御 前も
︑
「
いと うち とけ ては 見え じと なむ 思ひ しか ど︑ 人よ りけ にむ つま じ うな りに たる こそ」 と︑ のた まは する をり をり 侍り
︒