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戦国期毛利氏「家中」の形成

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戦国期毛利氏「家中」の形成

戦国期毛利氏「家中」の形成

西原   寛太  

(平  雅行ゼミ)

はじめに

  毛利氏は、鎌倉幕府の重鎮大江広元の四男季光から始まる。季光が相

模国毛利荘(神奈川県厚木市)を本拠としたので、毛利氏を称したのだ。そして戦国時代に毛利元就が出ると、毛利氏は戦国大名に成長していった。元就は大永三年(一五二三)に家督を相続すると、多岐にわたって数々の政策を行って、中国地方の大名にのし上がっていった。

  筆者は、幼い頃より、地元に近い地域で活躍した毛利氏に関心があっ

た。特に日本史を専攻するようになってからは、毛利元就が戦国大名として自立してゆく過程に興味を持った。元就の生涯のなかでも天文十九年(一五五〇)は、もっとも重要な節目となる年であった。

  第一に、元就の次男である元春が吉川家を相続し、三男隆景が小早川

家を相続したのがこの天文十九年である。これによって、元就は①元春・隆景を両翼として安芸・備後の国人との盟約関係を一層強化した。さらに元就は、②吉川氏を通じて、出雲・石見の国人とのつながりを確保したし、③小早川氏を通じて、瀬戸内海の海上勢力との結びつきを強めることができるようになった。後の毛利両川体制の基礎が、このときに形成されたといえる。

の権力を大きく伸張させた。これは毛利元就の生涯の画期であるだけで 件である。つまり毛利氏は天文十九年に、対外的にも、対内的にも、そ 服属していった。毛利氏の家臣団統制の画期となったのが、この誅伐事 独立性を失い、毛利氏の軍事動員権・行政命令権・警察裁判権のもとに 者である井上元兼とその一族を誅伐した。この誅伐後、毛利家の家臣は   第二に元就は、天文十九年七月十二日・十三日に、「家中」の最有力 なく、毛利氏が戦国大名として自立するうえでも、重要な画期となった。

一四 利氏に関する主要な論考を集めたものに、藤木久志編『戦国大名論集   毛利氏については、これまで重厚な研究の蓄積がある。戦国期の毛 毛利氏の研究』

1)および『戦国大名論集

六 中

国大名の研究』

2)

がある。単著では朝尾直弘「「将軍権力」の創出」

大名毛利氏の研究』 3)、秋山伸隆『戦国

4)、池享『大名領国制の研究』

5)や、松浦義則氏

6)

などの研究がある。本稿ではこれらの先行研究を踏まえ、「井上衆誅伐」事件を中心に史料を検討することで、毛利氏「家中」の形成とその後の展開を考察してゆきたい。

第一章   「井上衆誅伐」事件

第一節  「井上衆誅伐」前の毛利氏の状況   大内・毛利氏の連携のもとで展開された備後国の制圧は、天文十八年

(一五四九)に一段落する。そこで毛利元就は元春・隆景を伴って、大内氏の拠点である山口を訪問した。同年二月十四日に吉田(広島県高田市)をたって、二十六日に山口の宿舎に入っている。そして三月一日に大内義隆の屋形に出頭してから五月十八日まで山口に滞在した。その間、大内義隆のほか、大内氏重臣たちと饗応接待を重ねて親交を深めている。

  この訪問は表向きには、元就から隆元への相続と、元春

・隆景の吉川・竹原小早川氏養子相続などを大内氏が承認してくれたことに礼を述べるためであった。またこれまでの恩遇に謝意を表するためでもある。しかし、実際には、別の目的があったと河合正治氏は述べている。すなわち、

(2)

①大内義隆が進めている山口の煌びやかな文芸復興の様相を確認し、②文事にかまけて武事を怠ることに不満を持つ陶氏ら武断派の動きがどこまで進行しているかを探るねらいがあった、と河合氏は説いている

7)。   元就一行に対する大内義隆の接待は懇切で、それだけ義隆が毛利氏を

力と頼んでいたことが察せられる。二十七歳になっても妻帯していなかった隆元に義隆が、大内氏宿老である内藤興盛の娘を自分の養女として妻合わせることに決めたのも、その好意の表れである。

  一方、義隆を廃して大内氏の実権を握ろうとする陶隆房の陰謀も相当 進んでおり、毛利氏を味方に誘う接近ぶりも激しかった。反陶氏側では、隆房が陰謀の相談のために毛利氏を呼び出したと考えており、毎夜かれの使いの小者(忰 かせもの)が毛利旅宿に文箱を持って通っていると噂していた

ことが察せられる に申し談じたい」と記しており、隆房が積極的に毛利方に接近していた 度はこちらでしばしば参会でき本懐である。今後も余すところなく甚重 8)。陶隆房は山口滞在中の吉川元春に四月三十日に書状を送り、「今

9)。   元就は、陶隆房の毛利への接近ぶりをはじめ、隆房が大内氏の御家人

を大小を問わず味方につけようとしていることを知った。また、領国中の土民・商人を手下に引入れただけでなく、義隆に近侍する若手の衆までも味方に引入れたという噂も耳にしていた。

  元就は大内家の転覆が近いことを、

実感し確信したはずだ。吉田に戻った元就は、その時に備えて、課題の解決を急ぐことにした。それは、毛利氏「家中」の統制強化であり、そのために思い切った手段をとったのである。

第二節  毛利氏による「井上衆誅伐」

  山口訪問を終えた元就は、翌年の天文十九年(一五五〇)には、人が

変わったようにつぎつぎと厳しく決断し、冷酷とさえみられる行動を起こしている。七月十三日の井上氏誅伐である。重臣井上氏の一族は武功者も多く、毛利家中に多くの者が仕えていた。しかも元就の家督相続に際しても、井上氏の支持は大きな力となった。その井上氏一族を誅殺したのだ。

  元就は「長年上意を軽んじ、恣に振る舞ってきた」として、惣領井上

元兼をはじめ三十余人を誅殺した。まず、当主元兼の叔父元有を竹原に呼びつけて隆景に殺させ、ついで嫡子の就兼を郡山城で殺害。同時に元兼の館を軍勢が襲っている。元兼は次子就澄とともに自害し、多治井の領知を奪ったとされる井上元盛などの一族も殺害された。

  元就はなぜ、井上衆を誅伐したのか。元就は大内氏にその理由を説明

して、了解を求めた。それが次の「井上衆罪状書」である

③一、元就儀を不相伺、号隠居、陣立。供使以下一円不仕候事、剰 マサヘ ②一、正月其外相定出仕不仕候事、 ①一、悴評定其外用段付而呼候時、曾以不来候事、 仕付候習之条々之事、 元就兄候興元死去以来、卅余年之間、井上河内守悴家中 そこで十か条にわたって井上衆の「罪状」を書き連ねている。 10)。元就は、

給地をハ子孫にハ譲渡候ハて、悉皆申付、公儀計を称隠居、奉公不仕候事、④一、段銭・段別、於何事も、申付候事、兎角申なくり、一円不調候事、付、彼者共之所へハ、傍輩以下もおそれ候而、催促等之使にも罷越候者無之候事、⑤一、城誘其外諸普請等申付候をも、一円不仕候事、⑥一、元就為領所代官職申付候而も、公領等不調、押妨之事、⑦一、傍輩所領押領之事、⑧一、佛神之田畠押領之事、⑨一、著座之儀、前々より上を仕候渡辺よりも上を可仕之由、近年申出、押而其分仕候事、⑩一、内者に無理非道之喧嘩をさせ、不論理非、かたせて置候事、

   又近年之条々⑪一、同名光永四郎右衛門尉子彦七郎と申者のつ らを、井上與三右 衛門尉子與四郎と申者打擲候、此時、さりとてハ、紋をも黷候者のつらを打擲之上者、與三右衛門尉父子腹を切を、四郎右衛門尉父子をも、不雪耻辱候之間、是も腹切を候ハんと申事候つれ共、理も非も不入候、彼名字之者共一味同心之 戦国期毛利氏「家中」の形成

条、顧悴家之破、今迄延引候、然間、此度光永四郎右衛門尉をも打果候事、⑫一、柏村三郎兵衛尉と申者、為妻敵、井上新右衛門と申者を討候、同妻をも指殺候、然処、彼妻敵ハ非当座之儀、年をすこし候事候之間、返報候ハて叶間敷之由、対我賺候之条、不及力、柏村三郎兵衛尉逐電させ、悴家中静候、既善左衛門尉と申候て三郎兵衛尉一子之母にて候を害候之処、如此之非道、不及是非事、⑬一、井上源 五郎内之商人、於市、他所之河原之者と喧嘩仕候而、生害候、さ候処、隆元領所之河原之者、い のこ田と申候て、地下ニ久キ者候、彼者他所之乞食と一味候つるとて、隆元ニ一言も不相届、於城下数多之人数にて押かけ、生害させ候、縦源五郎内之商人と隆元領所之河原之者と、直喧嘩仕候而、源五郎商人生害候共、為其返報、上之河原之者生害させ候ハん事ハ、隆元一言相届候てこそ可申付之儀候へ、剰他所之乞食と源五郎商人切相候て死候、隆元領所之乞食他所之者と一味之姿候つるとて、上へ一言も不相届於城下押かけ誅伐之儀、雅意狼藉、不及是非事、(中略)此等之条々、為根元、或対我等、或対親類被官共、無曲操、無念之儀、不可勝計候、然間、

  御

屋形様以御扶助可申付之由、先年以弘中隆兼奉伺候之処、平賀父子引分、頭崎御弓矢出来候条、打過候、其後も雖伺申候、打続雲州可凌強敵之難事を第一ニ仕候ニ付而、兎角相過候、此題目、更非一朝一夕之儀候、此由興 (内藤)盛へ可被仰遣候也、

    八月四日

  内容を説明すると、井上氏の「罪状」は次のとおりである。①評定を

欠席し、相談に呼んでも出てこない、②正月の挨拶にも出てこない、③元就の許可を得ず、勝手に隠居と称して、参陣や使者など公の仕事を行わない、④段銭などの税金を全く納めない、⑤城の建設・修理を命じても従わない、⑥毛利氏の領地の代官を命じると、年貢を納めないで自分 のものにする、⑦同僚の領地を奪う、⑧寺社の領地を奪う、⑨行事の時の着座順を乱して上座に座ろうとする、⑩従者に喧嘩をけしかけるなどである。

  さらに「近年之条々」

(最近のこと)として、⑪井上一族の子どもが、別の家臣の子どもの顔をひっぱたいたが、相手は恥を雪ごうとしなかった。そこで、両方の父子を切腹させようとしたところ、一族で結託してこれを阻んできた。⑫井上一族の男が姦通したため、夫が妻と姦夫を殺したところ、一族が復讐を企てた。そこで夫を逃がすと、一族は夫の母を殺してしまった。⑬商人同士が市場で喧嘩をして、井上氏の身内の者が殺された。その復讐のため、隆元の了解を得ずに吉田城下に多数で押しかけ、相手の仲間を殺してしまった。以上、三つの喧嘩の事例を挙げている。

  つまり、元兼をはじめとする井上一族が恒例の出仕を怠り、評定のた

めの呼び出しにも応じず、段銭などを納めない、陣立・供使や城誘など課役を果たさないこと、さらに他人の所領を横領し、喧嘩をしても主家の成敗に従わず、その権勢に「家中」の武士たちをはじめ、民百姓・商人たちまで迎合する状態になっていたという。

  このように、井上衆が他人の領土を奪うことや、代官として徴収した

年貢を納めないことなどを行っていたのには、日本中世が自力救済の社会だったいう背景がある。そこにあっては、土地も権利も名誉も自分の力で守らなければならない。元就も「近年之条々」の⑪で、恥を雪ごうとしなかった者を切腹させようとしたように、毀損された名誉は復讐によって回復しなければならないという倫理観念を強く持っていた。

  したがって、

紛争を実力行使によって解決するのは日常茶飯事であり、力のない者が力のある者を頼るのも至極当たり前であった。領内や「家中」の者のほとんどが井上衆に迎合していたというのは大げさにしても、井上衆に保護を求めた者が多かったことは容易に想像できる。その分だけ、毛利氏の役割は小さくなり、元就は一揆的家臣集団に担がれているに過ぎなかった。「罪状」①③のように井上元兼が「公務」を怠っていたとしても、元就からそれを非難される筋合いはない、と元兼が考えても当然である。

戦国期毛利氏「家中」の形成

(3)

①大内義隆が進めている山口の煌びやかな文芸復興の様相を確認し、②文事にかまけて武事を怠ることに不満を持つ陶氏ら武断派の動きがどこまで進行しているかを探るねらいがあった、と河合氏は説いている

7)。   元就一行に対する大内義隆の接待は懇切で、それだけ義隆が毛利氏を

力と頼んでいたことが察せられる。二十七歳になっても妻帯していなかった隆元に義隆が、大内氏宿老である内藤興盛の娘を自分の養女として妻合わせることに決めたのも、その好意の表れである。

  一方、義隆を廃して大内氏の実権を握ろうとする陶隆房の陰謀も相当 進んでおり、毛利氏を味方に誘う接近ぶりも激しかった。反陶氏側では、隆房が陰謀の相談のために毛利氏を呼び出したと考えており、毎夜かれの使いの小者(忰 かせもの)が毛利旅宿に文箱を持って通っていると噂していた

ことが察せられる に申し談じたい」と記しており、隆房が積極的に毛利方に接近していた 度はこちらでしばしば参会でき本懐である。今後も余すところなく甚重 8)。陶隆房は山口滞在中の吉川元春に四月三十日に書状を送り、「今

9)。   元就は、陶隆房の毛利への接近ぶりをはじめ、隆房が大内氏の御家人

を大小を問わず味方につけようとしていることを知った。また、領国中の土民・商人を手下に引入れただけでなく、義隆に近侍する若手の衆までも味方に引入れたという噂も耳にしていた。

  元就は大内家の転覆が近いことを、

実感し確信したはずだ。吉田に戻った元就は、その時に備えて、課題の解決を急ぐことにした。それは、毛利氏「家中」の統制強化であり、そのために思い切った手段をとったのである。

第二節  毛利氏による「井上衆誅伐」   山口訪問を終えた元就は、翌年の天文十九年(一五五〇)には、人が

変わったようにつぎつぎと厳しく決断し、冷酷とさえみられる行動を起こしている。七月十三日の井上氏誅伐である。重臣井上氏の一族は武功者も多く、毛利家中に多くの者が仕えていた。しかも元就の家督相続に際しても、井上氏の支持は大きな力となった。その井上氏一族を誅殺したのだ。

  元就は「長年上意を軽んじ、恣に振る舞ってきた」として、惣領井上

元兼をはじめ三十余人を誅殺した。まず、当主元兼の叔父元有を竹原に呼びつけて隆景に殺させ、ついで嫡子の就兼を郡山城で殺害。同時に元兼の館を軍勢が襲っている。元兼は次子就澄とともに自害し、多治井の領知を奪ったとされる井上元盛などの一族も殺害された。

  元就はなぜ、井上衆を誅伐したのか。元就は大内氏にその理由を説明

して、了解を求めた。それが次の「井上衆罪状書」である

③一、元就儀を不相伺、号隠居、陣立。供使以下一円不仕候事、剰 マサヘ ②一、正月其外相定出仕不仕候事、 ①一、悴評定其外用段付而呼候時、曾以不来候事、 仕付候習之条々之事、 元就兄候興元死去以来、卅余年之間、井上河内守悴家中 そこで十か条にわたって井上衆の「罪状」を書き連ねている。 10)。元就は、 給地をハ子孫にハ譲渡候ハて、悉皆申付、公儀計を称隠居、奉公不仕候事、④一、段銭・段別、於何事も、申付候事、兎角申なくり、一円不調候事、付、彼者共之所へハ、傍輩以下もおそれ候而、催促等之使にも罷越候者無之候事、⑤一、城誘其外諸普請等申付候をも、一円不仕候事、⑥一、元就為領所代官職申付候而も、公領等不調、押妨之事、⑦一、傍輩所領押領之事、⑧一、佛神之田畠押領之事、⑨一、著座之儀、前々より上を仕候渡辺よりも上を可仕之由、近年申出、押而其分仕候事、⑩一、内者に無理非道之喧嘩をさせ、不論理非、かたせて置候事、

   又近年之条々⑪一、同名光永四郎右衛門尉子彦七郎と申者のつ らを、井上與三右 衛門尉子與四郎と申者打擲候、此時、さりとてハ、紋をも黷候者のつらを打擲之上者、與三右衛門尉父子腹を切を、四郎右衛門尉父子をも、不雪耻辱候之間、是も腹切を候ハんと申事候つれ共、理も非も不入候、彼名字之者共一味同心之 戦国期毛利氏「家中」の形成

条、顧悴家之破、今迄延引候、然間、此度光永四郎右衛門尉をも打果候事、⑫一、柏村三郎兵衛尉と申者、為妻敵、井上新右衛門と申者を討候、同妻をも指殺候、然処、彼妻敵ハ非当座之儀、年をすこし候事候之間、返報候ハて叶間敷之由、対我賺候之条、不及力、柏村三郎兵衛尉逐電させ、悴家中静候、既善左衛門尉と申候て三郎兵衛尉一子之母にて候を害候之処、如此之非道、不及是非事、⑬一、井上源 五郎内之商人、於市、他所之河原之者と喧嘩仕候而、生害候、さ候処、隆元領所之河原之者、い のこ田と申候て、地下ニ久キ者候、彼者他所之乞食と一味候つるとて、隆元ニ一言も不相届、於城下数多之人数にて押かけ、生害させ候、縦源五郎内之商人と隆元領所之河原之者と、直喧嘩仕候而、源五郎商人生害候共、為其返報、上之河原之者生害させ候ハん事ハ、隆元一言相届候てこそ可申付之儀候へ、剰他所之乞食と源五郎商人切相候て死候、隆元領所之乞食他所之者と一味之姿候つるとて、上へ一言も不相届於城下押かけ誅伐之儀、雅意狼藉、不及是非事、(中略)此等之条々、為根元、或対我等、或対親類被官共、無曲操、無念之儀、不可勝計候、然間、

  御

屋形様以御扶助可申付之由、先年以弘中隆兼奉伺候之処、平賀父子引分、頭崎御弓矢出来候条、打過候、其後も雖伺申候、打続雲州可凌強敵之難事を第一ニ仕候ニ付而、兎角相過候、此題目、更非一朝一夕之儀候、此由興 (内藤)盛へ可被仰遣候也、

    八月四日

  内容を説明すると、井上氏の「罪状」は次のとおりである。①評定を

欠席し、相談に呼んでも出てこない、②正月の挨拶にも出てこない、③元就の許可を得ず、勝手に隠居と称して、参陣や使者など公の仕事を行わない、④段銭などの税金を全く納めない、⑤城の建設・修理を命じても従わない、⑥毛利氏の領地の代官を命じると、年貢を納めないで自分 のものにする、⑦同僚の領地を奪う、⑧寺社の領地を奪う、⑨行事の時の着座順を乱して上座に座ろうとする、⑩従者に喧嘩をけしかけるなどである。

  さらに「近年之条々」

(最近のこと)として、⑪井上一族の子どもが、別の家臣の子どもの顔をひっぱたいたが、相手は恥を雪ごうとしなかった。そこで、両方の父子を切腹させようとしたところ、一族で結託してこれを阻んできた。⑫井上一族の男が姦通したため、夫が妻と姦夫を殺したところ、一族が復讐を企てた。そこで夫を逃がすと、一族は夫の母を殺してしまった。⑬商人同士が市場で喧嘩をして、井上氏の身内の者が殺された。その復讐のため、隆元の了解を得ずに吉田城下に多数で押しかけ、相手の仲間を殺してしまった。以上、三つの喧嘩の事例を挙げている。

  つまり、元兼をはじめとする井上一族が恒例の出仕を怠り、評定のた

めの呼び出しにも応じず、段銭などを納めない、陣立・供使や城誘など課役を果たさないこと、さらに他人の所領を横領し、喧嘩をしても主家の成敗に従わず、その権勢に「家中」の武士たちをはじめ、民百姓・商人たちまで迎合する状態になっていたという。

  このように、井上衆が他人の領土を奪うことや、代官として徴収した

年貢を納めないことなどを行っていたのには、日本中世が自力救済の社会だったいう背景がある。そこにあっては、土地も権利も名誉も自分の力で守らなければならない。元就も「近年之条々」の⑪で、恥を雪ごうとしなかった者を切腹させようとしたように、毀損された名誉は復讐によって回復しなければならないという倫理観念を強く持っていた。

  したがって、

紛争を実力行使によって解決するのは日常茶飯事であり、力のない者が力のある者を頼るのも至極当たり前であった。領内や「家中」の者のほとんどが井上衆に迎合していたというのは大げさにしても、井上衆に保護を求めた者が多かったことは容易に想像できる。その分だけ、毛利氏の役割は小さくなり、元就は一揆的家臣集団に担がれているに過ぎなかった。「罪状」①③のように井上元兼が「公務」を怠っていたとしても、元就からそれを非難される筋合いはない、と元兼が考えても当然である。

(4)

はごく当然の行動であった。 なかった。井上衆に迎合したと非難された多くの家臣にとっても、それ とって、「罪状」書の内容のほとんどは、謂れのない言いがかりでしか 出自を持つ自立的な家臣であり、元就の擁立にも力となった井上衆に であったが、井上衆にとってはそれは当然の行動であった。国人領主に   「家中」統制を目指す元就にとっては、井上衆の行状は「恣の振舞」   では、井上衆はどのような一族であったのだろうか。井上氏は、南北

朝時代から吉田盆地南部(広島県安芸高田市吉田町)に本拠を置く土豪で、元就の曾祖父煕元時代に毛利氏と婚姻関係をもった。さらに元就の父の弘元時代には、井上元兼の父光兼が毛利氏の紋を使用することを許され、同紋衆に列している

毛利氏の譜代家臣としての性格を強めた が毛利弘元から給所を与えられると、井上氏は近習並みの奉公を誓い、 11)。そして、明応六年(一四九七)に元兼

12)。   その後、元就の宗家相続の際に井上衆五人を含む宿老十五人が彼を郡

山城主に迎えたいと願い出た。その宿老十五人の中から、尼子氏と内通して元就抹殺の陰謀を企てる者が出たが、惣領元兼をはじめ井上衆はそろって元就を支持して彼に恩を売った。元就にとって元兼は有力な家臣であった。

  井上衆の惣領家は四百貫(収納高四百石)を越える本領の他、公領の

代官職を持ち、郡山城下の三日市で商人から通行税を取り立てる権限まで持っていた。武功によって膨張した一族の所領を合わせれば、井上衆は莫大な経済力を有していた。毛利元就は井上衆の「罪状」として、彼らが傍輩の所領や社寺領を横領したことをあげている。また、井上衆の権勢に「家中」の武士や百姓・商人まで迎合している、と非難した。着々と勢力を拡大してゆく井上衆は、元就にとってもはや黙止できない存在となった。

  では、

井上衆が急速に勢力を拡大した基盤はどこにあったのだろうか。注目すべきは、井上衆と流通・経済との関わりである。例えば、井上元兼は郡山城下の三日市で、石見銀山に往来する商人から「駒之足」という通行税を徴収する権利を掌握していた。元兼の子である源五郎就兼の屋敷は三日市にあったとされており、就兼が「内之商人」と呼ばれる商 人たちを配下としていたことも知られる。

  多治井川左岸の地と考えられる「中河原」にも、井上衆の所領があっ た。「中河原」は可 川(江の川)との合流地点にも近い河川水運の中継地と考えられ、このような交通の要地を井上衆が掌握していたのである。さらに井上衆が誅伐されたとき、和泉国堺に滞在していて難を逃れた井上一族の存在がいたことも確認できる。どうやら井上衆は吉田の市町や商業・流通に対する支配権と、それに基づく強大な経済力を持っていたようである。

う側面もあったと考えられる。 衆誅伐は、彼らが保持していた経済的な権益を、元就が奪い返したとい いう「罪状」書の表現は、あながち誇張ではなかった。元就による井上   「家中」だけでなく、市町の商人・百姓まで井上衆に迎合していたと   元就は弘元の死後、父から譲られた所領を井上一族に一時横領されて

いたこともあった。兄の興元が死去して以来、元就は井上衆の横暴を四十年近く耐えてきた。天文十八年(一五四九)十月に息子隆景に宛てた書状の中で、その口惜しさ無念さがいかほどであったか考えてみて欲しい、と元就が言っており、こうしたことは自分の代で解決し、隆元の代へ持ち越さないために誅伐を決断したと記している

この関係を断ち切るために、元就は井上衆の誅罰に踏み切ったのだ。 支持であったが、そのことが元就による井上衆統制を困難にしてきた。 相続の流れを決定づけたのは、「家中」の最大勢力である井上衆の元就 13)。元就の家督

第三節  誅伐後の対応

  元就は井上衆誅伐の経緯を大内氏に報告した。大内氏の宿老である内

藤興盛に対し、その娘の隆元夫人を通して井上衆誅伐の詳細を報告した。

  実は元就は天文六年(一五三七)年ごろから、井上衆打倒を計画して

いた。そして、西条代官弘中隆兼を通じて大内義隆に援助を求めていた。しかし、その頃から、平賀氏父子の争いや頭崎上合戦(一五四〇年)などが起こり、その後も尼子勢の安芸国への南下や大内氏の出雲遠征などの軍事に追われたため、元就は井上衆誅伐を果たせないでいた。井上衆の誅伐は、決して一朝一夕になされたことではなかったのである。この

戦国期毛利氏「家中」の形成

ことから元就の井上衆に対する恐るべき執念が感じられる。

  ところで元就は、井上衆は山名、赤松殿内の浦上にも似た存在となっ

たため放置できなくなった、といっている

て、みておこう。 係を考えるために、山名殿内の垣屋氏、そして赤松殿内の浦上氏につい 14)。毛利氏と井上衆との関   垣屋氏は桓武平氏系の家系であり、室町時代前期に山名氏に従って但

馬に移り住み、以後代々山名氏の家老となる。垣屋氏が最も活躍したのは明徳の乱(一三九一年)である。これは、将軍足利義満が強大な山名氏を押えるため、山名氏を挑発して山名氏清・満幸に挙兵させ、その勢力を削ぐことに成功した事件である。このとき、山名氏の家臣の大部分は氏清・満幸に属したのに対し、幕府方の山名時熙方に属したのは垣屋氏だけであった。その結果、明徳の乱を契機に垣屋氏は十万石以上を手にし、躍進を遂げることになった。

  室町時代後期になると、垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、山名

氏を陰で支える立場となる。さらに、応仁の乱以降は、守護代の地位から、山名氏を押えて但馬の戦国大名となった。垣屋氏は、これまで仕えていた山名氏を出石地方に追いやることで自立を果たしたのだ。こうして垣屋氏は、山名氏を小土豪と同然に扱うようになった。

  次に浦上氏をみておこう。浦上氏は播磨・備前国の豪族である。南北

朝時代に赤松氏の被官となったが、嘉吉の乱(一四四一年)で赤松氏が滅ぼされた。その後、艱難辛苦のあげく赤松政則(一四五五~九六)が赤松家の再興に成功するが、そのとき浦上則宗が側近にあってその再興を主導した。応仁の乱で、赤松政則は播備美三国の守護、侍所所司の任に復すると、浦上則宗は所司代となり、また山城守護代も兼ねて、赤松家中に重きをなした。

  しかし、浦上則宗の孫浦上村宗は備前守護代として三石城(岡山県備

前市三石)に在り、大永元年(一五二一)には赤松政則の嗣子義村を討った。こうして浦上氏の勢威は、ついに赤松氏を凌ぐようになっている

15)。   こうした垣屋・浦上両氏の動向を見てみると、元就が山名―垣屋、赤

松―浦上の関係を、自身と井上氏の関係性を重ねて、危惧の念を覚えたのは当然だろう。垣屋氏・浦上氏はともに、主君に仕えるなかでその勢 力を拡大していった。その様子は、井上氏の状況と酷似している。井上氏が下剋上を目指していたかは定かでないが、毛利氏らにとって、家臣の「自立」を目指す行動をどのようにして抑えるのかが重要な課題であった。

  井上衆の誅伐から間もない同年七月二十五日、大内氏の奉行人である

小原隆言は、大内義隆が元就の処置を承認した旨を毛利氏に伝えている

たこと賢慮奇特で御一家長久の基」だといっている。 せて井上の者どもを打果たした由、ことに一人も漏らさず存分にまかせ 同月二十三日付で義隆から元就宛の書状があり、そこには「遠慮めぐら 16)。これとは別に『長府毛利家文書無名手鑑』という史料によれば、   井上衆の誅伐から七日目の天文十九年七月二十日、福原貞俊をはじめ

とする毛利「家中」の二百三十八人が連署の起請文を元就・隆元に提出した。元就は家臣に、今度の処断は当然であり、家臣一同は表裏別心を抱かず、今後は主家の命令に一切従う、と誓わせている

文によって、元就は「家中」に対する支配権を確立した。 17)。この起請

第二章   毛利氏の「家中」の成立と展開

第一節  家臣連署起請文から見る「家中」

なのであろうか。 た地域的な結合とされる。では、毛利氏の「家中」が成立したのはいつ であるが、一般的には、「家」支配権を有する者の下に領主層が形成し   本章では、毛利「家中」について検討したい。「家中」の性格は複雑   毛利氏は、元就が家督を継承した大永三年(一五二三)以降、急速に

勢力を拡大する。形成期の毛利氏「家中」を示す史料には、享禄五年(一五三二)七月十三日の「福原広俊以下家臣連署起請文」

貞俊以下家臣起請文」 禄期起請文」と略称)と、天文十九年(一五五〇)七月二十日の「福原 18)(以下「享 とらえたい。 そこで、この二つの史料を分析し、毛利氏「家中」の成立とその展開を 19)(以下「天文期起請文」と略称)の二つがある。

  まず、井上衆誅伐前の「享禄期起請文」

(一五三二年)をみていく。

戦国期毛利氏「家中」の形成

(5)

はごく当然の行動であった。 なかった。井上衆に迎合したと非難された多くの家臣にとっても、それ とって、「罪状」書の内容のほとんどは、謂れのない言いがかりでしか 出自を持つ自立的な家臣であり、元就の擁立にも力となった井上衆に であったが、井上衆にとってはそれは当然の行動であった。国人領主に   「家中」統制を目指す元就にとっては、井上衆の行状は「恣の振舞」   では、井上衆はどのような一族であったのだろうか。井上氏は、南北

朝時代から吉田盆地南部(広島県安芸高田市吉田町)に本拠を置く土豪で、元就の曾祖父煕元時代に毛利氏と婚姻関係をもった。さらに元就の父の弘元時代には、井上元兼の父光兼が毛利氏の紋を使用することを許され、同紋衆に列している

毛利氏の譜代家臣としての性格を強めた が毛利弘元から給所を与えられると、井上氏は近習並みの奉公を誓い、 11)。そして、明応六年(一四九七)に元兼

12)。   その後、元就の宗家相続の際に井上衆五人を含む宿老十五人が彼を郡

山城主に迎えたいと願い出た。その宿老十五人の中から、尼子氏と内通して元就抹殺の陰謀を企てる者が出たが、惣領元兼をはじめ井上衆はそろって元就を支持して彼に恩を売った。元就にとって元兼は有力な家臣であった。

  井上衆の惣領家は四百貫(収納高四百石)を越える本領の他、公領の

代官職を持ち、郡山城下の三日市で商人から通行税を取り立てる権限まで持っていた。武功によって膨張した一族の所領を合わせれば、井上衆は莫大な経済力を有していた。毛利元就は井上衆の「罪状」として、彼らが傍輩の所領や社寺領を横領したことをあげている。また、井上衆の権勢に「家中」の武士や百姓・商人まで迎合している、と非難した。着々と勢力を拡大してゆく井上衆は、元就にとってもはや黙止できない存在となった。

  では、

井上衆が急速に勢力を拡大した基盤はどこにあったのだろうか。注目すべきは、井上衆と流通・経済との関わりである。例えば、井上元兼は郡山城下の三日市で、石見銀山に往来する商人から「駒之足」という通行税を徴収する権利を掌握していた。元兼の子である源五郎就兼の屋敷は三日市にあったとされており、就兼が「内之商人」と呼ばれる商 人たちを配下としていたことも知られる。

  多治井川左岸の地と考えられる「中河原」にも、井上衆の所領があっ た。「中河原」は可 川(江の川)との合流地点にも近い河川水運の中継地と考えられ、このような交通の要地を井上衆が掌握していたのである。さらに井上衆が誅伐されたとき、和泉国堺に滞在していて難を逃れた井上一族の存在がいたことも確認できる。どうやら井上衆は吉田の市町や商業・流通に対する支配権と、それに基づく強大な経済力を持っていたようである。

う側面もあったと考えられる。 衆誅伐は、彼らが保持していた経済的な権益を、元就が奪い返したとい いう「罪状」書の表現は、あながち誇張ではなかった。元就による井上   「家中」だけでなく、市町の商人・百姓まで井上衆に迎合していたと   元就は弘元の死後、父から譲られた所領を井上一族に一時横領されて

いたこともあった。兄の興元が死去して以来、元就は井上衆の横暴を四十年近く耐えてきた。天文十八年(一五四九)十月に息子隆景に宛てた書状の中で、その口惜しさ無念さがいかほどであったか考えてみて欲しい、と元就が言っており、こうしたことは自分の代で解決し、隆元の代へ持ち越さないために誅伐を決断したと記している

この関係を断ち切るために、元就は井上衆の誅罰に踏み切ったのだ。 支持であったが、そのことが元就による井上衆統制を困難にしてきた。 相続の流れを決定づけたのは、「家中」の最大勢力である井上衆の元就 13)。元就の家督

第三節  誅伐後の対応

  元就は井上衆誅伐の経緯を大内氏に報告した。大内氏の宿老である内

藤興盛に対し、その娘の隆元夫人を通して井上衆誅伐の詳細を報告した。

  実は元就は天文六年(一五三七)年ごろから、井上衆打倒を計画して

いた。そして、西条代官弘中隆兼を通じて大内義隆に援助を求めていた。しかし、その頃から、平賀氏父子の争いや頭崎上合戦(一五四〇年)などが起こり、その後も尼子勢の安芸国への南下や大内氏の出雲遠征などの軍事に追われたため、元就は井上衆誅伐を果たせないでいた。井上衆の誅伐は、決して一朝一夕になされたことではなかったのである。この

戦国期毛利氏「家中」の形成

ことから元就の井上衆に対する恐るべき執念が感じられる。

  ところで元就は、井上衆は山名、赤松殿内の浦上にも似た存在となっ

たため放置できなくなった、といっている

て、みておこう。 係を考えるために、山名殿内の垣屋氏、そして赤松殿内の浦上氏につい 14)。毛利氏と井上衆との関   垣屋氏は桓武平氏系の家系であり、室町時代前期に山名氏に従って但

馬に移り住み、以後代々山名氏の家老となる。垣屋氏が最も活躍したのは明徳の乱(一三九一年)である。これは、将軍足利義満が強大な山名氏を押えるため、山名氏を挑発して山名氏清・満幸に挙兵させ、その勢力を削ぐことに成功した事件である。このとき、山名氏の家臣の大部分は氏清・満幸に属したのに対し、幕府方の山名時熙方に属したのは垣屋氏だけであった。その結果、明徳の乱を契機に垣屋氏は十万石以上を手にし、躍進を遂げることになった。

  室町時代後期になると、垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、山名

氏を陰で支える立場となる。さらに、応仁の乱以降は、守護代の地位から、山名氏を押えて但馬の戦国大名となった。垣屋氏は、これまで仕えていた山名氏を出石地方に追いやることで自立を果たしたのだ。こうして垣屋氏は、山名氏を小土豪と同然に扱うようになった。

  次に浦上氏をみておこう。浦上氏は播磨・備前国の豪族である。南北

朝時代に赤松氏の被官となったが、嘉吉の乱(一四四一年)で赤松氏が滅ぼされた。その後、艱難辛苦のあげく赤松政則(一四五五~九六)が赤松家の再興に成功するが、そのとき浦上則宗が側近にあってその再興を主導した。応仁の乱で、赤松政則は播備美三国の守護、侍所所司の任に復すると、浦上則宗は所司代となり、また山城守護代も兼ねて、赤松家中に重きをなした。

  しかし、浦上則宗の孫浦上村宗は備前守護代として三石城(岡山県備

前市三石)に在り、大永元年(一五二一)には赤松政則の嗣子義村を討った。こうして浦上氏の勢威は、ついに赤松氏を凌ぐようになっている

15)。   こうした垣屋・浦上両氏の動向を見てみると、元就が山名―垣屋、赤

松―浦上の関係を、自身と井上氏の関係性を重ねて、危惧の念を覚えたのは当然だろう。垣屋氏・浦上氏はともに、主君に仕えるなかでその勢 力を拡大していった。その様子は、井上氏の状況と酷似している。井上氏が下剋上を目指していたかは定かでないが、毛利氏らにとって、家臣の「自立」を目指す行動をどのようにして抑えるのかが重要な課題であった。

  井上衆の誅伐から間もない同年七月二十五日、大内氏の奉行人である

小原隆言は、大内義隆が元就の処置を承認した旨を毛利氏に伝えている

たこと賢慮奇特で御一家長久の基」だといっている。 せて井上の者どもを打果たした由、ことに一人も漏らさず存分にまかせ 同月二十三日付で義隆から元就宛の書状があり、そこには「遠慮めぐら 16)。これとは別に『長府毛利家文書無名手鑑』という史料によれば、   井上衆の誅伐から七日目の天文十九年七月二十日、福原貞俊をはじめ

とする毛利「家中」の二百三十八人が連署の起請文を元就・隆元に提出した。元就は家臣に、今度の処断は当然であり、家臣一同は表裏別心を抱かず、今後は主家の命令に一切従う、と誓わせている

文によって、元就は「家中」に対する支配権を確立した。 17)。この起請

第二章   毛利氏の「家中」の成立と展開

第一節  家臣連署起請文から見る「家中」

なのであろうか。 た地域的な結合とされる。では、毛利氏の「家中」が成立したのはいつ であるが、一般的には、「家」支配権を有する者の下に領主層が形成し   本章では、毛利「家中」について検討したい。「家中」の性格は複雑   毛利氏は、元就が家督を継承した大永三年(一五二三)以降、急速に

勢力を拡大する。形成期の毛利氏「家中」を示す史料には、享禄五年(一五三二)七月十三日の「福原広俊以下家臣連署起請文」

貞俊以下家臣起請文」 禄期起請文」と略称)と、天文十九年(一五五〇)七月二十日の「福原 18)(以下「享 とらえたい。 そこで、この二つの史料を分析し、毛利氏「家中」の成立とその展開を 19)(以下「天文期起請文」と略称)の二つがある。

  まず、井上衆誅伐前の「享禄期起請文」

(一五三二年)をみていく。

(6)

   謹言上候、⑴一、御家来井手溝等、自然依洪水、年々在所々々相替事多々候、然時者、井手者見合候而、不論自他之分領、せかせらるへき事可然候、溝者改掘候者、田畠費候ハても不可叶候之条、みそ料をハ相当可立置事、⑵一、各召仕候者共、負物に沈、傍輩間へ罷却候而居候へハ、其負物者すたり果候間、不可然候、他家他門え罷却候ハん事者、無是非候、於御家中如此候ハん儀をハ、互無御等閑申談候而、有様可有沙汰事、⑶一、忰被官、小中間、下人至而、其主人々々のよしみを相違候而、傍輩中え走入々々、構聊尓候儀、口惜子細候間、如此企之時者、本之主人々々に相届、依其返事、取捨之両篇、可有覚悟事、右条々、自今已後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、対各可忝候、若偽候者、(中略)神罸冥罸、於各身上可罷蒙也、仍起請如件、

    享禄五年七月十三日

        福原左近允

       広俊(花押)

       

(以下署名、三二名略)

まれている。 名者は三十二名(うち無署判人三名)で、庶子・譜代と共に中群衆も含 堅可被成御下知事、対各可忝候」と、違反者の処分を依頼している。署 力して処理する方法を取り決めている。毛利氏に対しては、「於違犯輩者、 者の負債問題、⑶被官・下人の逃亡問題、つまり人返について相互に協   「享禄期起請文」は全部で三か条あり、⑴用水路に関する規定、⑵従   ここには毛利氏の重臣も名を連ねているが、毛利家内で絶大な勢力を

有していた井上衆の惣領である元兼が署名していない。このことから菊池浩幸氏は、「享禄期起請文」について「当時における毛利氏すべての家臣が作成したものとはいえない」と指摘し、「家中」分析の材料として最適ではないとしている

しており、「家臣」による「上意」への委任がみられる。 20)。ただし、違反者の処分を毛利氏に依頼

  次に、井上衆誅伐直後の天文十九年(一五五〇)七月二十日に作成さ

れた「天文期起請文」をみてみる。

      言上条々⑴一、井上者共、連々軽

  上意、

大小事恣振舞候付、被遂誅伐候、尤に奉存候、依之、於各聊不可存表裏別心候 事、⑵一、自今以後者、御家中之儀、有様之可為御成敗之由、至各も本望存候、然上者、諸事可被仰付趣、一切不可存無沙汰之事、⑶一、御傍輩中喧嘩之儀、

  殿様御下知御裁判、不可違背申事、

付、閣本人、於合力仕之者者、従

⑹一、於傍輩之間、当座々々何たる雖子細候、於 上様よりも、傍輩中よりも、是をいましめ候ハん事、 ⑸一、仁不肖共傍輩をそねみ、けんあらそいあるへき者ハ、 ⑷一、御弓矢付而、弥如前々、各可抽忠節之事、 之事、 付、御家来之喧嘩、具足にて見所より走集候儀、向後停止 様親類縁者贔負之者共、兎角不可申之事、   殿様可被仰付候、左

⒀一、井手溝道ハ ⑿一、鹿ハ、里落ハたをれ次第、射候鹿ハ、追越候者可取之事、 ⑾一、河ハ流より次第之事、 ⑽一、山之事、住古より入候山をハ、其分ニ御いれあるへき事、 候者、其牛馬可取之事、 ⑼一、牛馬之儀、作を食候共、返し可申候、但三度はなし候てくい 男女共、 ⑻一、人沙汰之事、 御下知之事、 ⑺一、喧嘩之儀、仕出候者、致注進、其内ハ堪忍仕候而、可任 談合等、其外御客来以下之時、可調申之事、   公儀者、参相、

  上様之也、

   従上様弓矢付而条々、⒁一、具足数之事、

  付、御動

具足不着ものゝ所領御没収之事、⒂一、弓之事、

戦国期毛利氏「家中」の形成

  付、感之事、

⒃一、可有御褒美所を、

⒅一、御使之時、同前之事、 ⒄一、内々御動之用意候て、被仰懸候者、則可罷出之事、 上之事、   上様於無御感者、年寄中として可被申

起請如件、 忝候、若此旨偽候者、(中略)神罸冥罸、於各身上可罷蒙也、仍 右条々、自今以後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、対各可   以上

    天文十九年七月廿日

        福原左近丞

       貞俊(花押)

      

(以下署名、二三八名略)

  「天文期起請文」を見てみると、

家臣団が毛利氏に対し、「御家中之儀、有様之可為御成敗之由、至各も本望ニ存候」、「諸事可被仰付趣、一切不可存無沙汰之事」と述べている。すなわち、毛利氏の「家中」成敗権の承認と、その命令への服従を誓っており、これが主調をなしている。これについて朝尾直弘氏は、「本望二候」とあることから、「この段階では『下知』服従することが家臣たちの共同利害にかなうとしてとらえられていた」と解している

みすぎであろう、と批判的である 21)。それに対し、池享氏は、朝尾氏の解釈は読み込

家臣の共同利害によって支えられる性格を崩していなかったといえる。 で定められた実行に家臣がかかわっていることから、「公儀」は、なお だけの主体性が感じられるか、疑問である。ただし、この「天文期起請文」 直後で、血の粛清の恐怖にとらわれていた家臣たちの「本望」に、どれ 22)。井上衆誅伐というクーデターの している 利氏が大内氏とは独立して自らの公権力確立の自信を得た」ことを意味 利氏からすれば、「公儀」は大内氏にあったはずである。このことは、「毛 利氏の評定の場を「公儀」と呼ばせていることである。大内氏麾下の毛   「天文期起請文」で注目すべきは、元就が「上様」と呼ばれ、また毛

23)

  「享禄期起請文」の第一条の井手溝修復に関しては、この計画が結ば に定められた毛利元春置文には「山河不分別自他」とみえ れた歴史的背景を考える必要がある。南北朝期末の康暦元年(一三七九)

なった。それを物語る史料が、執権であった志道広良の言上状 行う段階になれば、井手溝の維持と管理は惣領の権限に属するように 一族の共同支配下にあったと考えられる。しかし、惣領が「家」支配を 24)、用水は ることができる。 しその権限が次第に家臣たちによって浸食される傾向にあったことを知 は、用水・市場・通行路の支配が惣領家の権限に属していたこと、しか 駒足銭の徴収そのものが途絶えた、と歎いている。広良言上状から我々 が、また北で北就勝が駒足銭を取るようになり、最近では毛利氏による 下されていたという。広良は続けて、その後、領内の三日市で井上元兼 「駒之足」を徴収できたが、その収入は「ミそ」(溝)の整備のために投 のミそニ相はかられ候つ」とある。すなわち弘元は、領内の商品通行税 そこには、「弘元さま御代ニハ、所々駒之足を役人より被申付之、年中 25)である。

元就はそれを断ち切ろうとしたのである。 殺害するほど、「領所」に対する私的支配が強くなっていた。そのため 害したためであった。「領所」を支配する者が、隆元配下の者を無断で が、それが罪状に数えられたのは、元兼が「隆元領所」の者を無断で殺 状」の⑬で、井上元兼が河原者を仇敵として殺害したことを挙げている 給地において私的支配権を強めたことが原因であろう。元就は井上衆「罪   この惣領家の支配権の侵害は、なぜ起きたのか。家臣が自己の本領・

  また、中群衆である内藤氏領の例では、明応六年(一四九七)高田郡

長田郷の内藤泰廉状によると、田畠は惣郷親類中の「分々」たりといえども、山河其外は「地頭敷」の計らいであるとしている

とするのを阻止するためであった。 いるのは、親類中による惣郷田畠の私的分割がさらに山河にまで及ぼう いて応仁の乱後は用いられなくなった「地頭敷」がここで持ち出されて 26)。安芸にお   毛利家中衆は元就の家来であると同時に、それぞれが被官・中間・下

人を抱える小領主であり、農業経営者でもあった。そのため、自領の田畠に水を引く用水の管理に関心が深かった。彼らは洪水で混乱した井手溝の改修普請に当り調停者となり、また互いの被官・中間・下人の逃亡

戦国期毛利氏「家中」の形成

(7)

   謹言上候、⑴一、御家来井手溝等、自然依洪水、年々在所々々相替事多々候、然時者、井手者見合候而、不論自他之分領、せかせらるへき事可然候、溝者改掘候者、田畠費候ハても不可叶候之条、みそ料をハ相当可立置事、⑵一、各召仕候者共、負物に沈、傍輩間へ罷却候而居候へハ、其負物者すたり果候間、不可然候、他家他門え罷却候ハん事者、無是非候、於御家中如此候ハん儀をハ、互無御等閑申談候而、有様可有沙汰事、⑶一、忰被官、小中間、下人至而、其主人々々のよしみを相違候而、傍輩中え走入々々、構聊尓候儀、口惜子細候間、如此企之時者、本之主人々々に相届、依其返事、取捨之両篇、可有覚悟事、右条々、自今已後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、対各可忝候、若偽候者、(中略)神罸冥罸、於各身上可罷蒙也、仍起請如件、

    享禄五年七月十三日

        福原左近允

       広俊(花押)

       

(以下署名、三二名略) まれている。 名者は三十二名(うち無署判人三名)で、庶子・譜代と共に中群衆も含 堅可被成御下知事、対各可忝候」と、違反者の処分を依頼している。署 力して処理する方法を取り決めている。毛利氏に対しては、「於違犯輩者、 者の負債問題、⑶被官・下人の逃亡問題、つまり人返について相互に協   「享禄期起請文」は全部で三か条あり、⑴用水路に関する規定、⑵従

  ここには毛利氏の重臣も名を連ねているが、毛利家内で絶大な勢力を

有していた井上衆の惣領である元兼が署名していない。このことから菊池浩幸氏は、「享禄期起請文」について「当時における毛利氏すべての家臣が作成したものとはいえない」と指摘し、「家中」分析の材料として最適ではないとしている

しており、「家臣」による「上意」への委任がみられる。 20)。ただし、違反者の処分を毛利氏に依頼

  次に、井上衆誅伐直後の天文十九年(一五五〇)七月二十日に作成さ

れた「天文期起請文」をみてみる。

      言上条々⑴一、井上者共、連々軽

  上意、 大小事恣振舞候付、被遂誅伐候、尤に奉存候、依之、於各聊不可存表裏別心候 事、⑵一、自今以後者、御家中之儀、有様之可為御成敗之由、至各も本望存候、然上者、諸事可被仰付趣、一切不可存無沙汰之事、⑶一、御傍輩中喧嘩之儀、

  殿様御下知御裁判、不可違背申事、

付、閣本人、於合力仕之者者、従

⑹一、於傍輩之間、当座々々何たる雖子細候、於 上様よりも、傍輩中よりも、是をいましめ候ハん事、 ⑸一、仁不肖共傍輩をそねみ、けんあらそいあるへき者ハ、 ⑷一、御弓矢付而、弥如前々、各可抽忠節之事、 之事、 付、御家来之喧嘩、具足にて見所より走集候儀、向後停止 様親類縁者贔負之者共、兎角不可申之事、   殿様可被仰付候、左

⒀一、井手溝道ハ ⑿一、鹿ハ、里落ハたをれ次第、射候鹿ハ、追越候者可取之事、 ⑾一、河ハ流より次第之事、 ⑽一、山之事、住古より入候山をハ、其分ニ御いれあるへき事、 候者、其牛馬可取之事、 ⑼一、牛馬之儀、作を食候共、返し可申候、但三度はなし候てくい 男女共、 ⑻一、人沙汰之事、 御下知之事、 ⑺一、喧嘩之儀、仕出候者、致注進、其内ハ堪忍仕候而、可任 談合等、其外御客来以下之時、可調申之事、   公儀者、参相、   上様之也、

   従上様弓矢付而条々、⒁一、具足数之事、

  付、御動

具足不着ものゝ所領御没収之事、⒂一、弓之事、

戦国期毛利氏「家中」の形成

  付、感之事、

⒃一、可有御褒美所を、

⒅一、御使之時、同前之事、 ⒄一、内々御動之用意候て、被仰懸候者、則可罷出之事、 上之事、   上様於無御感者、年寄中として可被申

起請如件、 忝候、若此旨偽候者、(中略)神罸冥罸、於各身上可罷蒙也、仍 右条々、自今以後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、対各可   以上

    天文十九年七月廿日

        福原左近丞

       貞俊(花押)

      

(以下署名、二三八名略)

  「天文期起請文」を見てみると、

家臣団が毛利氏に対し、「御家中之儀、有様之可為御成敗之由、至各も本望ニ存候」、「諸事可被仰付趣、一切不可存無沙汰之事」と述べている。すなわち、毛利氏の「家中」成敗権の承認と、その命令への服従を誓っており、これが主調をなしている。これについて朝尾直弘氏は、「本望二候」とあることから、「この段階では『下知』服従することが家臣たちの共同利害にかなうとしてとらえられていた」と解している

みすぎであろう、と批判的である 21)。それに対し、池享氏は、朝尾氏の解釈は読み込

家臣の共同利害によって支えられる性格を崩していなかったといえる。 で定められた実行に家臣がかかわっていることから、「公儀」は、なお だけの主体性が感じられるか、疑問である。ただし、この「天文期起請文」 直後で、血の粛清の恐怖にとらわれていた家臣たちの「本望」に、どれ 22)。井上衆誅伐というクーデターの している 利氏が大内氏とは独立して自らの公権力確立の自信を得た」ことを意味 利氏からすれば、「公儀」は大内氏にあったはずである。このことは、「毛 利氏の評定の場を「公儀」と呼ばせていることである。大内氏麾下の毛   「天文期起請文」で注目すべきは、元就が「上様」と呼ばれ、また毛

23)

  「享禄期起請文」の第一条の井手溝修復に関しては、この計画が結ば に定められた毛利元春置文には「山河不分別自他」とみえ れた歴史的背景を考える必要がある。南北朝期末の康暦元年(一三七九)

なった。それを物語る史料が、執権であった志道広良の言上状 行う段階になれば、井手溝の維持と管理は惣領の権限に属するように 一族の共同支配下にあったと考えられる。しかし、惣領が「家」支配を 24)、用水は ることができる。 しその権限が次第に家臣たちによって浸食される傾向にあったことを知 は、用水・市場・通行路の支配が惣領家の権限に属していたこと、しか 駒足銭の徴収そのものが途絶えた、と歎いている。広良言上状から我々 が、また北で北就勝が駒足銭を取るようになり、最近では毛利氏による 下されていたという。広良は続けて、その後、領内の三日市で井上元兼 「駒之足」を徴収できたが、その収入は「ミそ」(溝)の整備のために投 のミそニ相はかられ候つ」とある。すなわち弘元は、領内の商品通行税 そこには、「弘元さま御代ニハ、所々駒之足を役人より被申付之、年中 25)である。

元就はそれを断ち切ろうとしたのである。 殺害するほど、「領所」に対する私的支配が強くなっていた。そのため 害したためであった。「領所」を支配する者が、隆元配下の者を無断で が、それが罪状に数えられたのは、元兼が「隆元領所」の者を無断で殺 状」の⑬で、井上元兼が河原者を仇敵として殺害したことを挙げている 給地において私的支配権を強めたことが原因であろう。元就は井上衆「罪   この惣領家の支配権の侵害は、なぜ起きたのか。家臣が自己の本領・

  また、中群衆である内藤氏領の例では、明応六年(一四九七)高田郡

長田郷の内藤泰廉状によると、田畠は惣郷親類中の「分々」たりといえども、山河其外は「地頭敷」の計らいであるとしている

とするのを阻止するためであった。 いるのは、親類中による惣郷田畠の私的分割がさらに山河にまで及ぼう いて応仁の乱後は用いられなくなった「地頭敷」がここで持ち出されて 26)。安芸にお   毛利家中衆は元就の家来であると同時に、それぞれが被官・中間・下

人を抱える小領主であり、農業経営者でもあった。そのため、自領の田畠に水を引く用水の管理に関心が深かった。彼らは洪水で混乱した井手溝の改修普請に当り調停者となり、また互いの被官・中間・下人の逃亡

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オレは、新の苦しみをわかっていなかった。わかろうとしなかった。 「おしまいにする」 「はっ?」 「もう新とは走らない」 「なに言ってんの?」 「……勝手なこと言ってるのはわかってる。けど、ごめん。これ以上、自分に 幻 げん滅 めつしたくない」 新は朔が手にしているロープを握 にぎった。