日本語漢字音に見る基本音と派生音
─
常用漢字音訓表の音をめぐって
─佐 藤 宣 男
1 は じ め に
日本語の漢字音には,一字に幾種類もの音形を もつものが多い。それは呉音・漢音・唐宋音といっ た漢字音の種類に関わる場合が主であるけれど も,それ以外の場合も少なくない。「納」のノウ に対するナッ(納入・納得),「早」のソウに対す るサッ(早春・早速)などである。
本稿は,これらの漢字音形の差異を基本音に対 する派生音と見ることのできるものについて論述 する。取り上げる範囲は,常用漢字表の音を主と し,「前書き」に「一字下げで示した音訓は,特 別なもの又は用法のごく狭いもの」(以下,これ を「特別音」(派生音に相当)という)と述べて いるものを中心に扱う。
ところで,このことを考えるきっかけは大学の 講義の中での,ある出来事であった。「地理」「地
震」:「規格」「格子」:「納入」「納得」について,
その読みを問い,その上でこれらの背後にある問 題点を表記の問題も含めて考えるという課題を出 した。
当然のことながら,読みは正確であったが,「チ リ」「ジシン」におけるチとジ,「キカク」「コウシ」
におけるカとコ,「ノウニュウ」「ナットク」にお けるノとナの関わりなどを的確に理解できていた ものはなかった。仮名遣い(「字音仮名遣い」を 含めて),音便,二重母音の長母音化,ハ行転呼 音等の,日本語学史の知識を的確に応用できない ということである。
漢字音の問題は,漢和辞典の記述などを見ても,
不確定的なところがいろいろとあり,完璧を期す るのはたやすいことではない。諸説を参看しなが ら及ぶ限りにおいて試行してみよう。常用漢字表
における「音」の問題点も視野に入れながら述べ ることにする。
2 音便,仮名遣い(特に「長母音オの開合」
との関わり)
ここでは音便が派生音を生み出す例を取り上げ る。上掲のノウ(納入)とナッ(納得)やソウ(早 春)とサッ(早速)などには仮名遣いの問題(現 代仮名遣いと歴史的仮名遣いとの関わり)が深く 関わってくる。発音の実際を重視する現代仮名遣 い「ノウ」「ソウ」と歴史的仮名遣い「ナウ」「サ ウ」との関わりである。加えて,二重母音の長音 化(ウ段拗長音の成立〜ィウ→〜ュウ(十 (ジフ)
→ジウ→ジュウ),オ段長音の開合の統合〜ァウ
〜→〜ォウ(合 (ガフ)→ガウ→ゴウ)やハ行 転呼音(語中語尾のハヒフヘホのワヰウヱヲへの 転化)のことにも留意しなければならない。
なお,漢字音では,「字音仮名遣い」として扱 うべきものであるが,その内容は「歴史的仮名遣 い」と同等ともいえるものなので,「歴史的仮名 遣い」と「現代仮名遣い」との相違という点から 見ていく。
ここで取り上げるのは,以下の例である。
○ウ音便 格 コウ ○撥音便 甲 カン
○ 促 音 便 合 ガ ッ 納 ナ ッ 法 ハ ッ 法 ホッ 合 カッ 十 ジッ 早 サッ 坊 ボ ッ ○ 促 音 便 の 自 立 形 雑 ザ ツ 冊 サツ 執 シツ *納 ナン
○格 コウ(格子) 漢音カクのウ音便形「カウ」
が基となる。二重母音[au]が長母音となってオ の開長音を形成し,後に[ou]から長母音となっ
た合長音と同音となることで,発音通りに表記す る現代仮名遣い「コウ」が成り立ったのである。
歴史的仮名遣いであれば「カウ」であり,『竹取 物語』には「かうしどもも人はなくしてあきぬ」,
『源氏物語』帚木巻には「かうしをあけたりけれ ど」,中世古辞書『頓要集』には「格子 カウシ」
と見えている。『大漢語林』『新大字典』のように 慣用音とするまでもないであろう。 参考 『広 韻』入声十九鐸韻。『韻鏡』三十一転開。
○甲 カン(甲板,甲高い) 常用漢字表の「備 考」には,「「甲板」は「コウハン」とも」とある。
漢音に「カフ」があり,その撥音便形である。
[kampan]と[p]に同化されて撥音便が生じた としてよいであろう。漢和辞典では呉音「ケフ」,
漢音「カフ」,慣用音「カン」とすることが多いが,
『大漢和辞典』は「カフ」を上げるのみである。
「甲板 カンパン」の例は比較的新しく,『日本 国語大辞典』(第二版)には,『和英語林集成(初 版)』や『西国立志編』(第八編)を載せる。なお,
同辞典では「カン」を唐音とする。「甲高い」の 場合は,雅楽の音階における「甲・乙」に関わり,
その「甲」が後に「カン」といわれるようになっ たことに由来する。撥音便化したものの自立形の 枠の中には入るのであろうが,音楽の世界の特別 な事情も作用しているのかもしれない。漢和辞典 に「カン」を慣用音とするのは,このあたりとも 関連しようか。
常用漢字表では,「カン」を基本形である「コウ」
と同列に扱い「特別音」とは扱っていない。特別 音であることを明示すべきであろう。 参考 『広 韻』入声三十二狎韻。『韻鏡』四十転開。
○合 ガッ(合併・合宿・合点) 『大字源』,『学 研漢和大辞典』,『学研新漢和大辞典』では慣用音 ガフが示されており(『新大字典』は慣用音の記 載がない),その促音便形ということになる(『大 漢語林』(大修館書店)には,呉音「ガフ」,漢音
「カフ」を挙げるほかに,慣用音「ガフ」も挙げる)。
『運歩色葉集』には「合点」の例が見える。 参 考 『広韻』入声二十七合韻。『韻鏡』三十九転開。
○納 ナッ(納得,納豆) 『大字源』などは呉
音ナフとあり,その促音便形である。中世古辞書
『温故知新書』には「納豆」と,促音便形が見える。
『色葉字類抄』には,「納豆」は「ナウトウ」と,
非音便形が見える。『学研新漢和大辞典』は呉音 にナフ・ノフの両形を出し,『新大字典』は呉音 をノフとし,ナフは慣用音とする。 参考 『広韻』
入声二十七合韻。『韻鏡』三十九転開。
○法 ハッ(法度) 漢音ハフの促音便形とみ てよい。『大字源』『大漢語林』『学研新漢和大辞典』
は,「ハッ」を慣用音とするが,それには及ばな いであろう。「法度」の例は『文明本節用集』(ハ の部,態芸門)に見える。「法」の促音便形「ハッ」
は,他に「法堂 ハツタウ(諸寺)」(『色葉字類抄』
上),「法眷─(法)式」(以上,『文明本節用集』)
がある。 参考 『広韻』入声三十四乏韻。『韻鏡』
四十一転合。
○法 ホッ(法主 ホッス) 呉音ホフの促音 便形である。『大字源』『大漢語林』『学研新漢和 大辞典』は慣用音とするが,それには及ぶまい。「法 主」は「ホウシュ」ともいい,常用漢字表の,こ の例示はわかりやすいものではない。『色葉字類 抄』には「法華 ホツクヱ」「法橋 ホツケウ」
が見える。
○合 カッ(合戦) 漢音カフが基となり,そ の促音便形である。黒川本『色葉字類抄』には「合 戦 カツセン」(中)の例が見える。現在「合」
の字音には呉音系の「ゴウ」が用いられ,漢音(用 いられたとすれば,「コウ」(←カウ←カフ))は 用いられない。そのため,「ゴウ」と「カッ」の 間には大きな隔たりが生じてしまったのである。
○十 ジッ(十回) 各漢和辞典とも呉音を「ジ フ」としており,その促音便形である。「ジフ」
はハ行転呼音「ジウ」を経て,二重母音[iu]が 長母音となって「ジュウ」と変わる。この音に引 かれて「十回 ジュッカイ」のような音形(ジュッ)
も現れているが,常用漢字表では「ジッ」を標準 とし,「ジュッ」は「備考」に「ジュッとも」と 記す。「ジュッ」は一般化してきており,NHKで は「ジッ」「ジュッ」の両音を容認している(NHK 放送文化研究所編『NHKことばのハンドブック』,
347ページ,日本放送協会,1992)。促音便形「ジッ」
は,『撮壤集』には「十徳」,『温故知新書』には
「十刹」「十哲」などと見えている。 参考『広韻』
入声二十六緝韻。『韻鏡』三十八転開。
○早 サッ(早速・早急) 漢音に「サウ」が あり(『大漢語林』は呉音も「サウ」とする),そ の促音便形としてよいか。『大字源』は「サッ」
を慣用音とする。「早」は母音韻尾[u]をもち,
入声韻尾とは異なり促音便化しにくいところがあ る。直後にある音,[s][k]による逆行同化とし ての促音化と見てよいのではないか。『饅頭屋本 節用集』には「早速」とあり,『色葉字類抄』に は「早速 サウソク(遅速分)」,『日葡辞書』に は「sǒsocu.|sassocu. サウソクまたはサッソク(下 略)」と,促音便化しない例がある。『運歩色葉集』
の「早速 (××)ソク」も『中世古辞書四種研 究並びに総合索引』(中田祝夫・根上剛士)のよ うに「サウソク」と読むべきものか。 参考 『広 韻』上声三十二晧韻。『韻鏡』二十五転開。
○坊 ボッ(坊ちゃん) 「坊」は『広韻』平声 下十陽韻(『韻鏡』三十二転合)に属し,鼻音尾[ng]
をもつ。日本語ではこれを母音「ウ」に置き換え て受容したのである。呉音は「バウ」,漢音は「ハ ウ」であり,呉音「バウ」を基に二重母音[au][ou]
が長母音化し,開長音「ォ-」と合長音「ォ-」の 差異の消滅に伴い,「ボウ」に転じて促音化した と見られる。『大漢語林』は「ボッ」を慣用音とし,
『学研新漢和大辞典』は「バウ」「ボッ」(呉音・
漢音「ハウ」に対して)を,『新大字典』は「ボウ」
「ボッ」を慣用音とする。江戸期の例には,「ぼん さま(坊様)」(浄瑠璃『歌祭文』(長町の段)など)
と撥音便の例が見えている。「ぼっちゃん」と促 音便になるのは,「ちゃん」の頭子音「t」に同化 された結果である。
○雑 ザツ(雑談・雑音・混雑) 各漢和辞典 とも「ザツ」を慣用音とする。「雑」は入声韻尾[p]
をもち,『大字源』など,呉音ザフ・漢音サフと する。「合 ガッ・カッ」などは促音便形の状態 に留まったのであるが,「雑」ではそれが自立し,
「混雑」のような用法にまで発展したものといえ
よう。その結果本来の漢字音からは大きくかけ離 れ,慣用音といわれるに至ったのである。入声韻 尾[p]をもつものとしては大きな変容をとげた のであるが,その過程に促音便形があることでは,
上掲の諸例に変わることがない。
「ザツ」の古例は少なく,『文明本節用集』には
「乱雑」(ラの項,態芸門)が見える。後に「ザツ」
の形をとる「混雑」「雑談」「雑用」も「コンザフ」
(色葉字類抄),「ザフタン」「ザフヨウ」(撮壤集)
のように「ザフ」とある。「雑誌 ザッシ」のよ うに前部要素となる時,促音便化することはいう までもない。ただし,常用漢字表はこれを記載す ることはなく,自立形の「ザツ」を「ゾウ」と並 べていて,特別形として扱うこともしない。 参 考 『広韻』入声二十七合韻。『韻鏡』三十九転開。
○冊 サツ(冊子・別冊) 「冊」は『広韻』入 声二十一麦韻(『韻鏡』三十五転開)に所属し,[k]
韻尾をもっていて,「サク」が本来の姿である。
これが促音便化し,さらに自立的に用いられるよ うになって,「サツ」が成り立つ。「冊 サツ」の 例は,「小冊」(平賀源内『放屁論』後篇),「大 冊」(『文明本節用集』タの部,態芸門)があり,『近 世紀聞』十二・二には「別冊」とある。
「冊子(さっし)」のように促音便形もあるが,
常用漢字表ではこれを掲出せず,「サク」に並べ て「サツ」のみを上げ,しかも特別音の扱いもし ない。漢字音本来の姿ではないのだから,そのこ とへの配慮は必要だろう。
○執 シツ(執務・執筆・確執) 『広韻』入声 二十六緝韻(『韻鏡』三十八転開)に所属し,呉音・
漢音ともに「シフ」となる。これが促音便化し,
さらに自立形として定着したものである。古辞書 には,『運歩色葉集』に「執権」「執事」,『温故知 新書』に「 執 」「執筆」が見える。『色葉字類抄』
では本来の形で,「確執 カクシフ」「執権 シフ クヱン」「執政 シフセイ」とある。「執筆(しっ ぴつ)」のような促音便形もあるが,常用漢字表 はこれを例示はするものの表示せず,「シュウ」
と同格に扱い,特別音とすることもない。配慮に 欠けるところがある。
なお,以上の諸例との関連で,「納 ナン(納 戸 ナンド)」についても言及してみたい。一見 したところ,これは呉音「ナフ」の撥音便形のよ うに見える。しかし,音訓交用の重箱読みの形を もち,異様なところがある。語の成り立ちも必ず しも明らかでない。以前から,「納戸は本,納殿 なりしを」(『俚言集覧』),「今俗になんどゝ呼は,
もと納殿の音転なるべし」(『倭訓栞』)と,「納殿」
を考慮することがあった。「納殿(をさめどの)」
の例は,『宇津保物語』藤原の君の巻や『源氏物語』
須磨の巻などにある。この「納殿」が何らかの形 で「なんど」に関わっている可能性はあるのかも しれない。けれども,どのような過程を経て,「納 殿(をさめどの)」から「納戸(なんど)」に行き つくのか,不明といわざるを得ないのである。『角 川古語大辞典』には「「のうどの」(納殿)の音便 形の略」とあるが,「のうどの」の実例は見出し がたい。「納戸」については,存疑といわざるを えない。ちなみに「なんど」の例は,『日本国語 大辞典』(第二版)によれば,『満佐須計装束抄』(一)
や『犬子集』(五,月)に見え,『信長公記』(十五)
には「南戸」とある。『運歩色葉集』には「暖戸」
の当て字がある。
3 鼻音韻尾「ン」の省略形
「仁 ニ」「南 ナ」「分 ブ」を取り上げる。「ニ ン」「ナン」「ブン」の撥音尾ン[n]が省略され た形である。関連して「懸 ケ」にも触れる。
○仁 ニ(仁王) 各漢和辞典とも「ニン」を 呉音としており,「ニ」はその撥音尾「ン」の省 略されたものとなる。『大漢語林』『新大字典』で は「ニ」を慣用音とする。一方,「ニン」ととも に「ニ」を呉音と扱う例も見えているが(『学研 漢和大辞典』『学研新漢和大辞典』),その当否は 定かでない。『色葉字類抄』には「仁和寺」を「ニ クワシ」(諸寺)と読んでいる。 参考 『広韻』
平声上十七真韻。『韻鏡』十七転開。
○南 ナ(南無) 各漢和辞典とも呉音「ナン」
(『学研漢和大辞典』『学研新漢和大辞典』では「ナ ム」)とし,「ナ」はその鼻音尾「ン」の省略され
たものとなる。『新大字典』『学研新漢和大辞典』
では「ナ」を慣用音とする。『大漢語林』には呉 音ナン・漢音ダンのほかに呉音・漢音ともに「ナ」
となる例も挙げているが,その論拠は不明である。
「紫宸殿」の別称としての「南殿」を「ナデン」
ということもある。『書言字考節用集』には,「南 殿櫻」の右に「ナンテンノサクラ」,左に「ナテン」
の振り仮名がある。参考 『広韻』平声下二十二 覃韻。『韻鏡』三十九転開。
○分 ブ(一分一厘・五分) 各漢和辞典とも
「ブ」を慣用音とするが,『大字源』『大漢語林』
に見る呉音「ブン」の省略形と解して良いであろ う。
『新大字典』は「呉音ホン・漢音フン」と「呉 音ボン・漢音フン」に対して慣用音を「ブ・ブン」
の両音とする。『大字源』『学研漢和大辞典』は,「呉 音・漢音フン」(他に「呉音ブン・漢音フン」も)
に対する慣用音として「ブ」を挙げている。
「分限」は『黒本本節用集』『伊京集』『饅頭屋 本節用集』には「ブンゲン」とあるが,『天正本
節用集』 では「ブゲン」と読んでいる。 参考 『広
韻』平声上二十文韻「賦也施也與也説文別也府文 切六」,去声二十三問韻「分剤扶問切又方文切五」。
『韻鏡』文韻・問韻ともに二十転合。
「懸念」「懸想」における「懸(ケ)」については,
問題がある。「懸念」は「繋念」(『雑阿含経』巻 三十九「繋念明想」)が基であり,「繋」の呉音「ケ」
によって「ケネン」と読み,その「繋」に「懸」
が当て字とされたという(佐藤喜代治『日本の漢 語』,46ページ,角川小辞典28)。『書言字考節用 集』には「ー(懸)念」(十一9オ)が見えている。
また,「懸想」については,『大漢和辞典』には
「遥看塞北雲,懸想闕山雪」(痩信「擬詠懐詩」)
の例示があり,「遠く思いやる・空しく思う」の 意とする。この転義と解することも可能なのでは ないか。
『角川 古語大辞典』は,「けんさう」の「撥音 の無表記によってできた語形」とする見解を否定 し,これを「語源俗解による当て字」として,『黒 川本色葉字類抄』に「気装 ケシヤウ(夫婦部
結政所有々々間)仮借 同」とあるものを「もと の形に近い」と説明している。この説にどのよう な論拠があるのか,明らかにしがたいのは遺憾で ある。「懸想 けさう」の例は,『伊勢物語』三段
(「けさうしける女のもとに」)や『源氏物語』夕 顔巻(「わたくしのけさうも」)に見える。『温故 知新書』には「懸相」(好色 白文),『書言字考 節用集』には「ー(懸)想」とある。
4 母音韻尾の省略形
二重母音の後部要素としての[i]や[u]が省 略される形である。「再 サ」「太 タ」「登 ト」
「納 ナ」を取り上げ,関連して「数 ス」「通 ツ」
「想 ソ」「世 セ」にも触れる。
○再 サ(再来年・再来月・再来週) 呉音・
漢音ともに「サイ」であり,その母音イが省略さ れた形である。『大漢語林』『新大字典』『学研新 漢和大字典』は慣用音「サ」を認めるが,それに は及ばないであろう(旧版の『学研漢和大辞典』
では慣用音「サ」を載せない。一つの見識といえ よう)。古辞書には「サ」を見出すことがむずか しい。 参考 『広韻』去声十九代韻。『韻鏡』
十三転開。
○太 タ(丸太) 呉音・漢音ともに「タイ」
であり,その母音イの省略形である。各漢和辞典 とも慣用音「タ」を認めていて,「再」とは様相 を異にする。不統一といわざるを得ない。『色葉 字類抄』には,姓氏としての「佐太 サタ」,国 郡名としての「雑太 サフタ」「信太 シタ」を 見るのみである。『書言字考節用集』には,「往古 未任官者止稱ーー次郎(下略)」の注記を伴って,
「太郎」(第四冊)が,正月の俗称としての「太郎 月」(第二冊)が見える。 『広韻』去声十四泰韻。
『韻鏡』十五転開。
○登 ト(登山・登城) 呉音・漢音ともに「ト ウ」であり,各漢和辞典とも慣用音「ト」として いるが,母音ウの省略形としてよいであろう。『色 葉字類抄』には,「ト」の形は姓氏としての「登美」,
国郡名としての「能登」を挙げるのみで,一般語 彙は「登天 トウテン」「登用 トウヨウ」と,「ト
ウ」が用いられる。「登山」は『易林本節用集』
には「トウザン」と,「登城」は『書言字考節用集』
には「登 城 」とある。「登山 トザン」の例に,『日 本国語大辞典』(2版)は,『椿説弓張月』拾遺・
附言や『近世紀聞』五・一に見る振り仮名付きの ものを掲出する。 参考 『広韻』平声下十七登韻。
『韻鏡』四十二転開。
○納 ナ(納屋) 呉音の本来の形「ナフ」から,
ハ行転呼により「ナウ」(現代仮名遣いでは「ノウ」)
に転じたものの母音ウの省略形である。「納屋」
は『書言字考節用集』に見え(第一冊),雅楽の 曲名である「納蘇利」を「ナソリ」と読んだ例も 同書に見える(第十冊)。「納蘇利」は『文明本節 用集』にも見え(ナ,態芸門),『文明本節用集研 究並びに索引』の「索引篇」では「ナフソリ」の 形で掲載する。『色葉字類抄』にあるように,単 独形「納言」は「ナウゴン」(中)であり,前部 要素「大中少」がつく時は,一般には「ナゴン」
となる。同辞書に「大納言」は「ダイナゴン」(中)
とあるが,「中納言」「少納言」については,「チ ウナウコン」(上),「セウナウコン」(下)とあっ て,統一されていない。
「納」の漢字音「ナ」の扱いは,漢和辞典によっ て異なるところもある。佐藤喜代治は「ナフ」の
「略音」とし(『字義字訓辞典』,角川小字典4),
筆者もそれに賛同するのであるが,『大字源』『新 大字典』は慣用音とし,『学研新漢和大辞典』(旧 版も)は唐音に「ナ」を認める。
「数 ス」(人数 ニンズ 備考には,「人数」
は「ニンズウとも」いうとある)は,一見以上と 同種に見えるが,漢和辞典によれば,むしろ慣用 音の方が「スウ」となっている。ただし,「数」
の漢字音については諸説があって不確定的でもあ る。『大字源』は6種の音を挙げるが,関連する 2種を見ると,「呉音シュ,漢音ス,慣用音スウ」「呉 音・漢音ス,慣用音スウ」とある。「呉音シュ,
漢音ス,慣用音スウ」とするのは『大漢語林』『学 研新漢和大辞典』(旧版も)であり,『新大字典』
は7種の音を挙げるうち,(一)と(二)には「呉 音ス,漢音シュ」とあって,「スウ」は慣用音と
する。『色葉字類抄』には,「数奇 スキ」「数珠 スス」「算数 サンス」が見える。 参考 『広韻』
上声九虞韻。『韻鏡』十二転合。
「通 ツ」(通夜)も諸説のあるところである。
旧版の『学研漢和大辞典』は「呉音ツウ,漢音ト ウ」(慣用音は載せない)としていて,「ツ」は母 音が略された形となる。ところが,『大字源』『新 大字典』は「呉音ツ,漢音トウ,慣用音ツウ」と し,『大漢語林』は「呉音ツ・ツウ,漢音トウ」
として慣用音を載せず,『学研新漢和大辞典』は「呉 音ツウ,漢音ツ・トウ」として慣用音は記載しな い。
「通」は『広韻』平声上一東韻(『韻鏡』一転開)
の所属で,同韻の字に呉音「〜u」の形をとる「公・
工・功・豊」がある。呉音ツを認める可能性はあ るのである。ただし,『類聚名義抄』は「和音」
としながらも「ツウ」としていて,これが一般的 な漢字音であったのである。『色葉字類抄』には,
「通夜」は「ツウヤ」とあり,他に「トウ」を用 いた「通天 トウテン」「密通 ヒツトウ」が見 える。「通夜」は『温故知新書』にもある。「ツヤ」
の例は,『伊京集』や黒本本・天正本・饅頭屋本・
易林本の『節用集』に見える。
「想 ソ」(愛想)にも検討の余地がある。仏教 語「愛想 アイサウ」に由来すると解すれば,呉 音「サウ」に基づき,長母音オの開合の差異が失 われて「サウ」「ソウ」同音となり,それを介し て成り立ったと考えることができる。しかし,「あ いそ」に「愛崇」を当てる説もある。
『角川古語大辞典』には,見出しに「あいそう 愛崇」があり,「近世以後に,開合音が混同され て「愛想」の字を当てる。短音化して「あいそ」
とも」とある。また,『邦訳日葡辞書』(岩波書店)
には,アイソーは「古くは合長音形が多く,開長 音形は少ない」「愛相や愛想の例は近世に入って 多くなるが,古くは見えない」「もとは合長音形 であって,それが開合の混同によって開長音形を 生じ,それに愛相・愛想などの漢字があてられた ものらしい」といって,妙法寺・日我の著作,『い ろは字』から「愛崇 アイソウ」「愛崇尽 アイ
ソウツキル」「無愛崇 アイソウナシ」の例を示 している。この『いろは字』の記述をどう評価す るか,ということであろう。
『日本国語大辞典』では,『蒙求抄』に「毅ハ,
アイソモナウ,シヤレラレヌ,ハツタトシタ者ゾ」
(三 魯褒銭神)と仮名書きであることから,本 来和語であった「あいそ」が長呼されて「あいそ う」となり,それが「漢語と意識されるようになっ たのかもしれない」と推測している。
「世 セ」については,『大字源』『大漢語林』『新 大字典』『大漢和辞典』はこれを慣用音とする。
一方,『学研漢和大辞典』や佐藤喜代治『字義字 訓字典』のように,呉音「セ」(漢音「セイ」)を 認める例もある。『色葉字類抄』の例を見ると,
「世々 セヽ」「世俗 セゾク」「後世 ゴセ」「濁 世 ヂョクセ」「来世 ライセ」と,呉音を用い たと理解しやすいものがあり,漢音を用いた「世 途 セイト」「世路 セイロ」に対照される(た だし,「遁世 トンセイ」もある)。呉音「セ」と する説も棄てがたい。漢音「セイ」の例には,「清 世 (セイ)セイ」「世利 セイリ」「五世 ゴセイ」
(文明本節用集),「世網 セイマウ」「世事 セイ ジ」もある。
「世」は『広韻』去声十三祭韻,『韻鏡』十三転 開に所属し,このグループの漢字は一般に呉音・
漢音とも「〜ェイ」の音をもつ。しかし,「偈」「衛」
のように「ゲ」「ヱ」の音をもつものもある。「世」
もその同類である。
「偈」については慣用音説・呉音説があり,慣 用音「ゲ」を認めるのは『漢語林』『新大字典』『大 漢和辞典』である(呉音「ゲイ」,漢音「ケイ」)。
『大字源』『学研漢和大辞典』では呉音「ゲ」,漢 音「ケイ」として呉音「ゲ」を認める。「衛」に ついては,各漢和辞典とも呉音を「ヱ」とし,慣 用音は認めていない。同一グループの漢字であり ながら,その理解に差異があるということである。
5 母音の付加
「由 ユイ」「女 ニョウ」「夫 フウ」「露 ロ ウ」を取り上げ,関連して,「詩 シイ」「富 フ
ウ」にも言及する。
○由 ユイ(由緒) 「呉音ユ,漢音イウ」であ り,母音「ウ」ではなく,「イ」を加えたところ が特殊である。各漢和辞典が慣用音とする所以で あろう。「ユイショ(由緒)」の例は『文明本節用 集』(ユの部,態芸門),『温故知新書』にあり,『色 葉字類抄』には漢音に基づく「イウショ」が見え る。 参考 『広韻』平声下十八尤韻。『韻鏡』
三十七転開。
○女 ニョウ(女房) 呉音「ニョ」に母音「ウ」
を加えた形である。各漢和辞典は慣用音「ニョウ」
を認める。「女御」は『色葉字類抄』に「ニヨコ(后 妃部)」とあるが,黒川本には「私云,ニヤ(傍 記 ヲ也)ウト引ガ名目遣也」と注記する。前田 本には「女」に平声,「御」に平声濁の声点を付 している。『運歩色葉集』には「女后」(ネの部)
とあり,続けて「女房」を掲出する。「ネウバウ」
と読ませるつもりなのだろう。『文明本節用集』
には「 女 御 ー院 ー房」とあり,「女院」「女房」
も「ニヨウイン」「ニヨウバウ」と読ませるもの であろう。 参考 『広韻』上声八語韻。『韻鏡』
十一転開。
○夫 フウ(夫婦・工夫) 各漢和辞典ともに「フ ウ」を慣用音とする。実際には呉音・漢音「フ」
に母音ウを加えた派生音である。『色葉字類抄』
には「フウ」の音形は見えず,「夫婦 フウフ」「夫 子 フウシ」は『文明本節用集』『温故知新書』『運 歩色葉集』『書言字考節用集』に,「工夫 クフウ」
は『文明本節用集』『運歩色葉集』『書言字考節用 集』に見える。また,『温故知新書』には「功夫 クフウ」として掲出する。 参考 『広韻』平声 上十虞韻。『韻鏡』十二転開合。
○露 ロウ(披露) 『大字源』は「呉音・漢音 ロ」,『学研 漢和大辞典』は「呉音ル,漢音ロ」
としている。「ロウ」はその漢音「ロ」に母音「ウ」
を加えた形となる。『大漢語林』『学研新漢和大辞 典』,『新大字典』は慣用音「ロウ」とするが,そ れには及ばないであろう。『色葉字類抄』には「披 露 ヒロウ」(雑部)とあり,『運歩色葉集』にも
「ヒロウ」と見える。 参考 『広韻』去声十一暮
韻。『韻鏡』十二転開合。
「詩 シイ」(「詩歌 シイカ」)は常用漢字表「備 考」に「「詩歌」は「しいか」とも」とあるのみで,
音訓表では取り上げられていない。しかし,事情 は上掲のものと同等である。「詩」は呉音・漢音 ともに「シ」であり,母音「イ」を加えて「シイ」
となる。「詩歌 シイカ」は,世阿弥の『風姿花伝』
(六)に仮名書きの例があり,『日葡辞書』には
「xijca」とある。古辞書にも『運歩色葉集』,『文 明本節用集』(時節門「文月」の説明の中に「詩 歌ノ文」とある),『天正本節用集』『饅頭屋本節 用集』に見えている。「詩歌 シカ」の例は,『平 家物語』三,少将都帰の「この古き詩歌を口ずさ み給へば」に,高良本では振り仮名「しか」があ るという(日本古典文学大系『平家物語』)。 参 考 『広韻』平声上七之韻。『韻鏡』八転開。
「富 フウ」(富貴)には検討の余地があるよう だ。『大字源』は「呉音・漢音フ,慣用音フウ」,『新 大字典』は「呉音フ,漢音ヒウ,慣用音フウ」と して,慣用音「フウ」を認める。それは呉音「フ」
に「ウ」を加え長母音化したことでもある。しか し,『大漢語林』『学研新漢和大辞典』(旧版も)
は漢音に「フウ」を認める。漢音「フウ」を是と すれば,この項では扱えないことになる。『類聚 名義抄』は和音として「フ」を挙げる。
「フウキ(富貴)」は『日葡辞書』の「Xixei(死 生)」の例文に「死生命あり,fǔqi(富貴)天に あり」とある。『文明本節用集』は「フウキ」の 例のみであり,『温故知新書』『運歩色葉集』には,
促音便形の「フッキ」が見えている。 参考 『広 韻』去声四十九宥韻。『韻鏡』三十七転開。
6 お わ り に
漢字音は古典中国語音である呉音・漢音・唐音 を基本にして理解すべきである。そこから逸脱す る日本語漢字音のうち,呉音・漢音・唐音からの 派生と理解できるものは,その派生音として捉え,
安易に慣用音とは扱わない方が好ましい。
常用漢字表においても,呉音・漢音・唐音を基 本に据え,派生音・慣用音は基本音とは区別でき
るように記載すべきである。「前書き」に「一字 下げ」にして,「特別なもの,用法のごく狭いもの」
としている類がそれに相当することになろうが,
常用漢字表ではそれが統一を欠き,わかりにくい ものになっている。
「合」については,「ゴウ」に対する「カッ」「ガッ」
のうち,「ガッ」は「ゴウ」に並べて同等の扱い をし,「カッ」のみ一字下げに特別なものとして 扱っている。漢音「カフ」に基づく「カッ」は「かっ せん(合戦)」のような特定の語にしか現れない から,このような扱いになったのであろう。しか し,「ガフ」に対する「ガッ」と,「カッ」とは同 じ事情を有しており,ともに派生音である点で変 わるところがない。
派生音としての促音便形の表示は,「合」の
「ガッ」「カッ」のほかには「十 ジュウ」に対す る「ジッ」だけである。「ジュウ」と「ジッ」と の音形の隔たりがそうさせるのであるが,促音便 形のうち,これらのみを特別扱いするのは当を得 たものではない。
入声韻尾「〜k」をもつ「〜ク」は,「学」では 音に「ガク」を示し,例として「学習,科学,大 学」を上げるのみで,「学校」のような促音便形 の現れるものには全く触れることがない。「楽」
では音「ガク」「ラク」,例に「楽隊,楽器,音楽」
を上げ,語例には促音便形「楽器 ガッキ」を示 してはいる。しかし,「ガク」に対する「ガッ」
には言及しないのである。
入声韻尾「〜t」をもつ「一」などでも,「イチ 一度,一座,第一」「イツ 一般,同一,統一」
のように促音便形(一般)は上げるものの,「イッ」
の提示はない。促音便形を一々示すのは煩瑣に過 ぎ,その必要はないかもしれない。しかし,「前 書き」か「備考」で触れておいた方が好ましかろ う。また,「窒」「褐」は「チツ」「カツ」と「〜ツ」
の形を表示する。ただし,例は「窒息・窒素」,「褐 色・茶褐色」と,促音便形「〜ツ」をもつものの みある。実際に「統一」のような「〜ツ」の形を 示すものはあるのだろうか。
日本語漢字音の問題は理論上のことと実際の姿
とを正確に合致させるのは難しいかもしれない。
しかし,できる限り合致させられるように努力し たいものである。
我々は日常の中では漢字音だけを意識して日本 語を運用することはほとんどない。「統一 トウ イツ」と「一般 イッパン」の差異は語として理 解しており,そこに誤りがない限り問題はおこら ない。しかし,日本語学の知識などを援用するこ とにより,より深い理解が可能となる場合には,
それを追究することも怠ってはならないのだと考 える。
(2011年10月11日受理)
参 考 文 献
『常用漢字表』(文化庁),ぎょうせい,2011.3
『角川大字源』(尾崎雄二郎他編),角川書店,1992.2
『 大 漢 語 林 』( 鎌 田 正・ 米 山 寅 太 郎 編 ), 大 修 館 書 店,
1992.4
『学研新漢和大字典』(藤堂明保・加納喜光編),学習研究社,
2005.5
『学研漢和大辞典』(藤堂明保編),学習研究社,1978.4
『新大字典』(上田万年他編),講談社,1993.3
『色葉字類抄 研究並びに索引 本文・索引編』(中田祝夫・
峯岸明編),風間書房,1964.6
『中世古辞書四種 研究並びに總合索引 影印篇』,『同 索 引 篇 』( 中 田 祝 夫・ 根 上 剛 士 著 ), 風 間 書 房,
1971.7
『文明本節用集 研究並びに索引 影印篇』『同 索引篇』
(中田祝夫著),風間書房,1970.7
『書言字考節用集 研究並びに索引 影印篇』『同 索引篇』
(中田祝夫・小林祥次郎著),風間書房,1973.3 亀井孝編『五本対照 改編節用集』(私家版),1974年に
勉誠社より復刻される
『増補語林倭訓栞』上・中・下,名著刊行会,1990
『増補俚言集覧』上・中・下,名著刊行会,1965,1966
『校正宋本廣韻 附索引』(宋陳彭年等重修)校正六版,藝 文印書館,中華民國75.12
馬淵和夫『韻鏡校本と廣韻索引 新訂版』,巖南堂書店,
1970.1
三沢諄治郎『韻鏡の研究』,韻鏡研究会刊行,1960.3 佐藤喜代治『日本の漢語』(角川小辞典28),角川書店,
1979.10
佐藤喜代治『字義字訓辞典』(角川小辞典4),角川書店,
1985.1
Basic sounds and derivative sounds in JOUYOUKANJIHYOU(常用漢字表)
SATOU Nobuo
This paper treats derivative sounds (派生音) of kanji (漢字) in JOUYOUKANJIHYOU.
Derivative sounds of kanji are usually called kan’youon( 慣 用 音 ) in Chinese-Japanese dictionaries. But kan’youon are derivative sounds from go’on(呉音) and kan’on(漢音), which are basic sounds of kanji.
The ways in which the derivative sounds are made are the following four :(1)onbin(音便), (2)omis- sion of nasal ‘n’, (3)omission of vowel and (4)addition of a vowel.
Ex. 格 コウ kou←(kau)←kaku ; 甲 カン kan←kou(←kau←kafu); 合 ガッ gat←gou
(←gau←gafu); 南 ナ na←nan ; 登 ト to←tou ; 露 ロウ rou←ro