福島大学地域創造
第30巻 第1号 97〜103ページ 2018年9月
Journal of Center for Regional Affairs, Fukushima University 30 (1):97-103, Sep 2018
調 査 報 告
1.は じ め に
飯舘村は,福島県の阿武隈山系北部の高原に位置 し,農業や林業,酪農を営んでいた。2011年3月の東 日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故による放 射能の被害で,全村が避難を余儀なくされた。現在は,
一部の帰還困難地域を除いて避難指示解除後2年がた ち,こども園や学校が開校して帰村が進められている。
家庭料理はその土地で取れた産物を使って作られる ことが多く,居住地を離れると食材が入手困難となり,
作られなくなることがある。また,家族の生活状況が 変化すると,家庭料理の喫食や行事食の伝承にも影響 する。飯舘村では,避難に伴って郷土料理や地域の産 物を利用した加工品が途絶える危機にあった。
そこで,本研究では聞き書き調査を行って飯舘村の 家庭料理を記録すると共に,昭和から平成にかけての 村の生活の変化を明らかにすることを目的とした。
2.方 法
聞き書き調査は,飯舘村に住んでいた3人の女性(50 代,60代,70代)を対象に,2014年5月から2018年3 月まで延べ50回実施した。季節ごとに女性らの飯舘村 の住まいに出向いたり,仮設の住まいに出向いたりし
た。その際,料理の話を聞くだけでなく,料理をご馳 走になり,また一緒に作る中で,料理の背景や思いを 聞き取った。
3.震災前の飯舘村の概況
1)飯舘村は,福島市から東へ35.6㎞,南相馬市から西 に26.7㎞の距離にあり,福島県の阿武隈山系北部の高 原に位置する。集落の生活基盤は,標高220mから600 mの範囲に分散している。地勢気候は高原地帯で冷涼 な気候である。人口は少子高齢化が進んでいた。農業 就業人口は,65歳以上が半数以上の高齢化の状況で あった。農林経営の多くは家族経営形態で,販売を目 的とした兼業農家であった。耕作面積は,3ha以下 の農家が8割を占めていた。野菜は高原野菜など,耕 作面積が狭くても収量が上がる作物が作付されてい た。
地勢気候を生かした酪農は,飯舘牛をブランド牛と して飼育していたが,近年は総農家数の20%に減って いた。林野面積が多いため,村世帯の半数は林業経営 体もしくは林家であった。これらのことから,飯舘村 の主要産業は農林業であった。1980年代から,稲作と 畜産の複合経営で農業所得の確保に取り組んでいた。
昭和から平成にかけての飯舘村の家庭料理と 村の生活について
福島市立西信中学校
籏 野 梨恵子
福島大学人間発達文化学類
中 村 恵 子 Cuisine and life of Iitate village from Showa to Heisei.
HATANO Rieko, NAKAMURA Keiko
4.飯舘村の家庭料理
家庭料理のレシピについては,別に記述した2)ので,
本論では食材や調味料についてまとめた。
⑴ 主食について
主食を表1に示した。餅の種類が非常に多く,ま た食べ方も多岐に及んでいた。同様に,季節の食材 を使ったおこわもよく作られていた。飯舘村では,
日常の主食は米飯が中心であった。戦後や冷害の年 は,自家栽培の小麦やそばを粉にした,すいとんや そばがきで飢えをしのいだ話も聞いた。1970年代か らは国の減反政策もあり,転用作物としてもち米を 多く作付するようになった。元来餅やおこわを行事 のたびに食べていた土地柄のため,様々な変わり餅 や季節の作物でつくるおこわの種類が豊富だった。
⑵ 汁物について
汁物を表2に示した。日常食の汁物はみそ汁であ
り,冠婚葬祭ではしょうゆ汁(すまし汁)だった。
味噌は,専用の蔵で貯蔵していた。しょうゆは購入 しなければ手に入らないため貴重品とされ,とって おきの行事にのみ使用した。来客や祭りで食べるう どんやそばのかけ汁はごちそうとされ,しょうゆ味 にすることが多かった。
⑶ おかずについて
おかずを表3に示した。日常食のおかずは漬物と,
畑でとれた野菜や家の周りに自生している山菜・茸
表1 主 食 餅
餅の種類 上餅(上質なもち米で作った餅・主に正月用)
凍み餅・ごんぼっぱ餅(凍みさせないできたて のもの)・柿餅・豆餅・海苔餅・ごま餅・ゆか り餅
餅の食べ方 あんこ・くるみだれ・砂糖醤油たれ・ずんだ・
じゅうねんだれ・大根おろし・納豆・のり 餅の変化形 ぼた餅・大福・柏餅・かき餅・おから餅 おこわ
冠婚葬祭 赤飯・白蒸かし 季節の食材 年中…五目おこわ
山菜…わらび・たけのこ・ふき・こしあぶら きのこ… 香茸(いのはな)・あみこ(紫しめじ)・
まいたけ・しめじ・やまどりもたし(く りたけ)
その他 自家栽培の利用…そば・うどん
表2 汁 物 汁物〈日常食は味噌味)
しょうゆ味 冠婚葬祭や客用。用途により具材がほぼ決まっ ている。
味噌味 具材は芋や大根などの根菜を複数使用。畑でと れる野菜,家の周りに自生している山菜や茸の 使用が日常的。
麺のかけ汁 鉄砲撃ち(狩猟)で得た山鳥や,ウサギなどで だしを取ったしょうゆ味。主に来客や祭りの際 の料理。じゅうねん味噌だれ…夏の冷たいかけ汁。
表3 おかず
煮物〈冠婚葬祭や来客用〉
(彼岸)葬式 切り方が決まっている…食品数は4を避ける。
忌食材…玉ねぎ・きのこ・肉
切り昆布の煮もの… ネバつきを出さぬよう,熱湯 で下処理をする。
通常 自宅にある根菜(大根・里芋・ごぼうなど)・人参・
昆布・凍み豆腐・さつまあげ・油揚げ・鶏肉・こ んにゃくなど
春 通常の煮物に,凍み大根・たけのこ・ふき・わら び・ぜんまいなど
秋 通常の煮物に,しめじ,しいたけなど
きゅうり(大きくなったきゅうりを煮つめた佃煮)
冬 通常の煮物に,乾燥させておいたきのこ,山菜 など
おひたしと和え物〈日常食と,冠婚葬祭や来客用〉
おひたし 春…葉物… たち菜(くきたち)青菜(かぶれ菜・
ゆき菜・アスパラ菜・ちぢみ菜・ほう れん草)など。
山菜… 蕗の薹・たらのめ・うど・わらび・こ しあぶら・ぜんまいなど
秋…きのこ… 紫しめじ・しめじ・まいたけ・しい たけ・赤きのこ(桜しめじ)
(和え衣)和え物 じゅうねん和え・白和え・大根おろし・かつお ぶし
炒め物〈日常食・味噌味が主〉
間引き菜 大根葉・大根・にんにく・ほうれん草などの葉物・
わらび
夏野菜 うど・小芋(小さいじゃがいも)・茄子・しそ・
だいず(豆味噌)
冬 大根葉・大根・白菜漬けや高菜やキムチ(乳酸発 酵したもの)
揚げ物〈主に天ぷら〉
春 山菜が主(たらのめ・こしあぶら)・小女子のか き揚げ・間引き人参・筍
夏 うど・ささぎ(さやいんげん)・しそ・ピーマン・
なす・かぼちゃ
秋 きのこ(まいたけ・しめじ)
を使用したお浸しや炒め物,あるいは作り置きでき る煮物だった。
煮物は,農作業の合間に台所仕事をして作り置き できたので重宝だった。日常は自宅にある食材を使 うため,あれこれと入れているうちに量が多くな り,二日三日食べていた。来客や結(田植えなど農 作業をお互いに共同で行うこと)の際に食事を出す ときは,煮物が欠かせなかった。葬式の煮物は食材 や切り方などが決まっていて,地域の先輩の女性が 仕切った。塩漬けした山菜を塩出ししたり,干した 山菜やきのこを戻したりして,煮物を作った。
浸し物や和え物は,日常食はお浸し,来客や冠婚 葬祭に和え物は欠かせなかった。一時期にたくさん 収穫できる野菜や山菜やきのこを食べ飽きた時,目 先をかえたおかずとして和え物が調理されることも あった。
炒め物は,日常のありふれた家庭料理だった。味 噌で味付けすることが多かった。調理時間が短く,
あくのある食材も味噌で味付けすることで,おいし く食べられた。使用食材は単品だったり,卵を加え たりした。
揚げ物は,てんぷらが主だった。来客や,冠婚葬祭・
彼岸やお盆には欠かせなかった。山菜や野菜,芋類 やきのこなど身近な食材全てがてんぷらになった。
⑷ 漬物について
漬物を表4に示した。日常食のおかずは漬物であ り,漬物には保存食とするものと,比較的すぐに食 べるものとがあった。
保存食としての塩漬けは,旬の時期に大量に収穫 した食材(山菜・野菜・きのこ)をあく抜きや下茹 でなどをした後,隠れるほどの大量の塩で漬け込ん で長期保存した。塩出しの後,お浸し・煮物・漬物
で食べた。味噌漬けには,作って4〜5年経ち古く なった味噌を使った。味噌も捨てることなく食べき る工夫があった。
比較的すぐに食べるものに三五八漬けがあり,味 噌を作る際に作る米麹を利用した。
キムチ漬けは,村で主催した「キムチの旅」3)で 村の女性が習ってきたキムチを,村の食材を使って 飯舘ブランドにアレンジした。七味漬けは,味噌漬 けや塩漬けの残りを細かく刻み,しょうゆで漬け直 したものである。これは,残さず食べ切る工夫だっ た。
漬物は,人にちょっとくれてやるものであり,婦 人会の集まりなどで情報交換して様々な漬物を作っ てきた。やがて,このくれてやるものが,農産加工 品として売られるようになり,家庭の現金収入源に なった。
⑸ 調味料について
調味料を表5に示した。味噌は一年中食べる分を 自宅で作り,専用の蔵で貯蔵していた。「食の原点 である米と味噌さえあれば生きていける」と言い伝 えられていた。米が貴重な時代は,大豆をゆでて杵 と臼でつぶし塩を混ぜ合わせたものを,円柱系に固 めて味噌玉を作った。少し乾燥したらわらで十字に 包み,玄関先の土間や縁側の梁に下げ,カビが生え るまで乾燥させた。山吹の花が咲くころ杵と臼で味 噌玉と甘酒をついて合わせ,樽に仕込み貯蔵した4)。 1980年代に入り,食料改良普及員の勧めで米麹を 使った味噌作りが普及し,自家用のくず米を利用し て米麹を作り,茹でた大豆に加えることでおいしく できるようになった。国の減反政策が厳しくなった ころ,飯舘村がグループによる農産加工の取り組み を進めた。味噌も対象の一つとなり,直売所で売っ たりミートバンク(ふるさと宅配便)で売ったりし た。ニンニク味噌も自家製のたれとして各家それぞ 表4 漬 物
漬 物
(保存食)塩漬け ふき・ぜんまい・わらび・あみこ(紫しめじ)きゅ うり・ヤーコン
味噌漬け (古くなった味噌に塩出しした漬物を漬け込む)
きゅうり・ヤーコン・唐辛子・大根・しその実・
にんじん・はやとうり・しょうが・かぶ いろいろな
漬物 三五八漬け(きゅうり・なす・かぶ)
キムチ漬け(白菜・ねぎ・だいこん・きゅうり)
しょうゆ漬け(凍み大根・みょうが・わらび・
あみこ(紫しめじ))
七味漬け(塩出しした古漬けを薄く切り5〜7 種類混ぜたしょうゆ漬け)
酢漬け(大根)・白菜漬け・高菜漬け
表5 調味料 調味料
味噌 各家庭で大豆・塩・米麹の配合や,種類が異 なる。寒仕込みでは,米麹の代わりに甘酒を少量加 え,味噌玉を作り軒下や玄関先の土間の上で 吊るし5月ごろに樽につめ2年目から食べ始 めた。
にんにく味噌 味噌と米麹,すりおろしたニンニクと少しの はちみつを混ぜ合わせ1年目から食べ始め た。調理法…みそ汁・炒め物・鍋もの・肉の下味
れの配合と材料で作られていた。
5.食から見る飯舘村の生活について
⑴ 農産加工品の販売による嫁を取り巻く家族関係の 変化
家庭料理やくれてやる物が農産加工した販売品に 変わったことで,嫁を取り巻く家族関係が変化した。
昭和40年代までの飯舘村の農家では,嫁は家長が たてた農業計画の働き手であった。それは,賃金が 得られない中での過酷な労働だった。家事労働も女 性なら当然と考えられ,無償の行為だった。嫁は姑 に言われるがまま,家事や農作業に明け暮れていた。
そのような生活の中では,規格外や余剰の農作物す ら嫁の采配で自由にすることはできなかった。たく さん採れたものは,漬物などの保存食に加工した。
それでも食べきれないものは,せいぜい親せきや,
知り合いに分けた。それは「ある物をくれてやる」
「余ってるからタダで与える」という発想でしかな かった。すなわち,嫁の労働は貨幣価値を生み出さ ない無償の行為で,農産加工品の生産は自家消費の 範囲に限定されていた。
しかし,加工グループの取り組みや直売所ができ て,農家の嫁の働き方が変わった。家庭の食事や保 存食として作っていた漬物を少し多く作って売るこ とで,今までは家族のために作っていただけのもの が貨幣価値を生むようになった。米以外の生産品が 貨幣価値を生み,通年現金収入が得られるように なった。それまでは,現金収入を得ることができる のは,お米を出荷した時期だけという農家の暮らし が変わった。
直売所での農産物や漬物等の加工品を生産するの は嫁の仕事だったので,家族に作っていた食事づく りの延長でお金を生み出し,家計を助けるように なった。その上嫁自身が自由に使えるお金ができ,
自分や子供のための買い物が自由にできるように なった。すなわち,農産加工品の生産と販売は,家 族の中で嫁の位置づけを,舅・姑・夫との上下関係 から,自分で判断できる対等の関係にも変えるもの であった。
嫁は加工品の販売量を増やすために,農業計画に も積極的にかかわるようになった。例えば,加工品 となる農産物の作付面積を増やしたり,その収穫時 期を長期化させるために作付を何度かに分けたりな どを,提案するようになった。そのことにより,直
売所への納品品目と量を増やし,売り上げを増やす ようになった。すなわち,嫁は家族の中で単なる労 働力ではなくなった。農家の暮らしに,主体的に関 わるようになった。家計の担い手として,農業計画 にも意見を言ったり,新たな作物の作付を提案した り,加工品の生産販売の主体者となった。
以上のことから,無償労働に貨幣価値を持たせた ことで,家庭内の弱者である嫁の存在価値が高めら れ,自主性や発言力も生まれた。農家の嫁自身も生 活に張りが出た。従来無償労働といわれた農作業や 家事労働に対し価値づけをするということは,担い 手の存在そのものを認めることに繋がり,嫁をとり まく家族関係の改善にもつながったと考えられる。
⑵ 加工グループでの農産加工品生産時の作業分担に よる個性尊重と効率化
農家の嫁たちが,農産加工品の生産販売をする際 には,一人ひとりの個性や家庭の事情を尊重した作 業分担によって,作業の効率化が図られていた。
自家製の農産加工品作りは,調理加工作業を家庭 内で,一人でこなす家内生産だった。飯舘村は,昭 和59年に村営の加工所を作り,農業婦人たちが地域 で農産加工品を作ることを奨励し,支援した3)。そ れによって,地域の女性たちが加工グループを作り,
協力して農産加工品を作るようになった。加工グ ループにおいて大量の農産加工品を作る過程で,自 然発生的に作業を分担するようになった。
味噌作りを例にすると次のようになる。大豆は,
まず弱火で長時間煮る。この仕事は,気の長いおっ とりした人が向いている作業である。作業分担や工 程の段取り,準備物の手配などは,作業工程全体を 見通すプロデュース能力のある人が向いている作業 である。各人の個性にあった分担は自然に決まって いったが,得意分野を分担することで,それぞれが その分野で工夫を凝らして技術向上に努め,生産効 率が上がった。
また,家庭状況を考慮した,フレックスタイムも 活用した。味噌作りは作業時間が長くかかる。学童 期の子を持つ人は,登校させてから作業に入る。反 対に,朝は3時から作業できるが,孫守りで午後早 く家に帰る人もいる。グループの中で,作業時間帯 を分担することで,一人ひとりが効率的に時間を活 用することができたと同時に,家庭と加工作業の両 立をも図ることができた。この働き方の自由度が加 工作業の負担を軽減し,効率や生産性が上がること になった。
加工グループで,収益を上げることによって,田 植えの農繁期でも味噌作りができた。それまでは,
嫁が家の田植えをしないということは考えられな かった。しかし,商品価値の高い味噌を作るには山 吹の花が咲くころが最適の時期とされ,この時期を 逃すことはできなかった。味噌作りの実績が上がる につれて,田植え作業に嫁の労働を当てにできなく なり,田植え作業は地域の男性のみで行うように なった。
キムチ漬けの場合は,加工グループの中で,白菜 や大根を計画的に栽培し,それらを持ち寄ることで 一定の品質の原材料の確保ができるようになった。
キムチの加工にも個性を反映させた。白菜の塩ぶち
(白菜の下ごしらえをする際の塩づけ)がうまい人,
キムチの具を均一に混ぜる人,白菜にキムチの具を はさみ仕上げる人,それぞれの技術がないとおいし いキムチ漬けはできず,一人ひとりの存在価値が高 まった。さらに,男性が加工作業の手伝いをするよ うになった。主に加工品の運搬作業などであるが,
車を持ち力仕事を手伝うことで,効率が上がった。
以上のことから,農産加工品の生産販売において,
集団の中で自分の得意分野や個性を生かす場,家庭 の状況を考え無理なく作業ができると,各自が積極 的なかかわりを持つようになった。お互いを尊重し 合い助け合う関係性も育った。結果として加工品の 品質の向上と作業効率も上がったと考えられる。
⑶ 商品価値を高めるための農産加工品生産時の製法 の改善や品質の向上
おいしさと安全や,身近にある物の有効利用にこ だわった製法によって,農産加工品の品質が向上し た。
かつて味噌は,飯舘村に限らずどこの家でも作っ ていた。手前味噌という言葉があるように,その家 独特の作り方のこだわりがあった。また,味噌を切 らす事は,家事一般をつかさどる主婦として,恥ず かしいこととされていた。飯舘村では,味噌の材料 の豆,米は自家栽培のものを使った。豆を煮る薪は,
山野を持つ家も多いため,自分の家の周りの山から 取ってきていた。家の土蔵にある胡桃や杉の樽で貯 蔵した。熟成が大切とされる発酵食品には最適な貯 蔵環境にあった。すなわち,味噌は自家生産し,家 族で食べきる加工品でしかなかった。自家用味噌を 加工品として販売するものではなかった。
しかし,加工品として一般へ販売するにあたって,
わざわざ買ってまで食べたいと思わせる必要があ
り,おいしさと安全にこだわった。そこでまず,変 えないものと変えるものを決めた。
変えないものとしては,施設面でいえば,凍み豆 腐の作業施設と,蔵と樽,既存のものを最大限に利 用した。原料面でいえば,村内の大豆,自家製の米 を使い,燃料は自分の家の周りの山から取ってきた 木を使った。施設と,自家製農作物の原材料を変え ないことで,作業スペースを確保し,作業工程をス ムーズに行うことができた。
変えたものは,米麹と塩だった。それまでも味噌 に限らず,甘酒や,納豆,どぶろくなど発酵食品を 作る技術が従来から生活に根ざしていた。従来の味 噌作りでは少しの甘酒と,常在菌による発酵だった ものを,米麹に変えた。おいしい味噌があると聞く と作り方を学んで来た。米麹を作る際の米と麹の割 合や発酵時の保温方法など試行錯誤も繰り返し,作 業効率がよく,失敗しない米麹づくりの技術を習得 した。塩はおいしいと言われているものを取り寄せ て試作し,旨みがあるミネラル分の多い塩に変えた。
すなわち,おいしい味噌づくりのために変えるもの と変えないものを決めて研究を重ねたことで,品質 の向上と作業効率がよく失敗しない米麹づくりの製 法が確立できた。
やがて,味噌作りから派生した,二次的な漬物も 作るようになった。三五八漬けは米麹を用いる漬物 であるが,これに味噌作りで改善したおいしい米麹 を使うことで,漬物がさらにおいしくなった。これ によって,夏野菜の三五八漬けも商品として生み出 すことができた。さらに,味噌漬けの作り方を変え た。従来の味噌漬けは,味噌作りの際,味噌樽の下 にきゅうりなどを置き,味噌ができたころ桶の下か ら取り出して食べていた。しかし加工グループでは,
売る味噌は2年味噌と決めていたため,3年目の味 噌に唐辛子や三五八漬けのきゅうりを漬けこんで,
味噌漬けにした。すなわち,おいしい味噌を使い切 るという発想でさらなる加工品を作った。
以上のことから,おいしさと安全,身近にある物 の有効利用と情報収集,試作を繰り返し研究するこ とで商品価値を高めていったことが明らかになっ た。おいしい味噌作りがさらに,三五八漬けをおい しくし夏場の加工品を生み出した。また,味噌漬け をよりおいしく漬ける製法にも発展させたのである。
⑷ 餅やおこわはご馳走の象徴
餅はご馳走として他の料理とは異なる別格の意識 があり,餅料理が非常に豊富であった。飯舘村史5)
によると,名のある日(祝い日)たとえば,正月・
節句・お盆・秋祭などは必ず餅をついた。神仏に供 えた後に,家族みんなで感謝して食べたので,餅を つく日はうれしく,楽しみであった。ご馳走の一番 は餅であり,祝い日に餅を食べて体に力をつけてま た仕事に励んだ。
聞き取った話では,餅と名付けてかて(豆,雑穀,
よもぎ,ごんぼっぱなど)を加えカサを増やしたり,
餅のつなぎが入ったものも,ご馳走として食べてい た。例えば,豆餅,よもぎ餅(菱餅),雑穀餅など である。これらはもち米を原料とするだけでなく,
うるち米のくず米を粉にし原料に使っていた。これ らの餅は,日々の慎ましい暮らしのなかで,楽しみ を盛り上げる食べ物であった。
凍み餅は,ご馳走である餅を保存して長く食べら れるよう,飯舘村の風土を生かして,加工したもの である。寒冷地の飯舘村では,くず米を粉にしてご んぼっぱをつなぎに用いて餅に加工し,凍らせた後 乾燥させることで保存できる凍み餅を作った。凍ら せることによって内部が多孔質構造となるため,中 心部まで充分に乾燥させることができ,カビが生え ずに長期間の保存が可能になる。そして,農繁期の 忙しい時に水に入れて戻してこびる(おやつ)に食 べた。忙しい時でも餅というご馳走を食べることが できた。
餅とあんの組み合わせは格別なご馳走であった。
あんこ餅のほかに,あんを入れた柏餅,大福などが ある。高価な砂糖をたくさん使うあんの料理は,ぜ いたくで最高のご馳走という意識は日本各地でみら れ,飯舘村でも根強い。お客があるときは,あんこ 餅を作り振る舞う。お土産にあんを入れた大福を用 意する。このようなもてなしは,飯舘村では,最高 の待遇だった。佐須の山津見神社のお祭りの茶屋で,
お土産として,9㎝もある大きな大福を作ったのも,
この理由からと考えられる。お祝いやお祭りなど大 きな祝い事には欠かせないご馳走だった。
柏餅も,旧暦の節句になると必ず各家で作られて いた。「柏餅を作る地域は福島県内では浜通り,福 島県中通り南部と阿武隈山地」と聞き書きの際に話 を聞いた。柏は新しい葉が出たあとで去年の葉が枯 れるので,転じて子孫繁栄につながるという意味を 一般的にもつ。飯舘村では,早苗ぶり(田植えが終 わったお祝い)の時に柏餅を作り,それを持って嫁 が実家に帰った。子どもを連れて実家に帰れると思 うと,ワクワクした気持ちで柏餅を作った。柏餅に
代表される餅とあんの組み合わせには特別な思い入 れがあった。
餅と共に,ご馳走の意識があるものにおこわがあ る。冠婚葬祭のお赤飯や白ぶかしはもちろんのこと,
家庭によって,季節によって,具材が異なる様々な おこわを作っていることが特徴的だった。餅を作る までではないが,家族の誕生日,山菜やきのこを取っ てきた時,お客さんのもてなしにと,各家で様々な 異なる具材を組み合わせたおこわを食べていた。お こわもご馳走として食生活の中に位置づいていたこ とが聞き書きからは,明らかになった。
以上から「餅はご馳走」という意識が基本となり,
少ない餅米にかてを入れカサを増やしてかて餅を 作ったり,くず米を粉にしてつなぎにごんぽっぱを 入れ,風土の気候を生かし保存もできる凍み餅を作 り出していた。大切な行事食やおもてなしでは,餅 とあんを組み合わせた大福や柏餅になった。ささや かな祝い事やもてなしには比較的手軽に作ることが できるおこわを作った。このように餅料理は家族の 節目には欠かせないご馳走であり,バラエティー豊 かな餅料理になったと考えられる。
⑸ 郷土愛の原点は家族への愛
聞き書き調査を通じて,家族を思う気持ちを食事 に込めたものが郷土食であり,その気持ちが発展し たものが郷土愛と考えられた。
つつましい生活の中で,ご馳走を食べることは楽 しみだった。現代のように買って来れば何でも手に 入る時代とは違い,自分の生活圏内にある限られた 生産物を食材として工夫して食べていた。その工夫 はかて餅・凍み餅・餅とあんの組み合わせなどバラ エティー豊かな餅料理にあらわれている。
また,今日の生活にとどまらず,冬に食べ物に困 らないように,一年後に食べるようにと家族を思い ながら漬物などの保存食を作ってきた。
家族は皆で家の仕事に関わっていた。当然子ども にも役割があった。中でもご馳走を作る時は家族全 員で作った。柏餅を例にすると,子どもは柏の葉を 取ってくるという役割があり,柏餅を作るのに適し た大きさ,形にこだわって選ぶと家族に褒められた。
家族に自分の存在が認められる大切な役割だった。
米を精粉し柏餅の材料を準備するのは男性,あんを 煮たり,柏餅を作ったりするのは女性の役割だった。
このように,おいしいものを食べるためには,家族 総出で作っていた。その作業は家族の楽しみであっ た。
あんを使った料理は甘いものが少ない暮らしの中 ではめったに食べられないご馳走である。嫁に来た ときは手のかかるあんを作るのは苦労だったが,や がて家族のためには苦でなく作るようになる。それ は一家総出で作る餅つきも同じである。家族を思う 気持ちが,作る苦労を作って食べさせる喜びに変え ていった。
家族が楽しみにしている食事をおいしく作って食 べさせたい,家族の喜ぶ顔が見たいと,自分達の風 土にある限りある作物を余さず利用し,工夫してお いしいものを作ってきた。それは,代々受け継がれ てきた知恵の積み重ねでもあった。そのようにして 食べ継がれたものが郷土食であり,これは地域限定 の独特の食事である。またこうして作られた郷土食 を食べることで感謝をしたり楽しみを分かち合った りし,家族を思う気持ちから家族愛が育まれていく。
この家族愛の延長上に,知人や親せきのために食べ させたいとか,地域の行事に持ち寄ってみんなで食 べたいなど地域住民としてのきずなや郷土を大切に する気持ちが育まれ,郷土愛も培われてきたと考え る。
謝 辞
聞き書き調査に当たっては,市澤美由紀さん,菅野 榮子さん,菊池利江さんにご協力いただき,心より感 謝いたします。
参 考 文 献
1)飯舘村ホームページ,村の概要(http://www.
utsukushii‑mura.jp/iitate/iitate‑index),2014年10 月15日閲覧
2)籏野梨恵子;までぇな食づくり,民報印刷,2018年.
3)市澤秀耕,市澤美由紀;山の珈琲屋 飯舘椏久里 の記録,言霊社,2013年.
4)籏野梨恵子;までぇな食づくり,民報印刷,2018 年,16頁.
5)飯舘村史編纂委員会;飯舘村史,第三巻民俗,飯 舘村,1976年,90頁.
「原稿受付(2018年7月17日),査読なし」