(1) 第 53 号 2013(平成25)年11月15日(金) 弘 学 時 報
学校法人弘前学院
理事長・学院長 阿保 邦弘
文部省訓令第十二号事件
日本は開国後、不平等条約の
時代が長く続いた。
不平等条約とは、二国間の条
約において相互条約ではなく、
一方の国が相手国より法権・税
権・最恵国待遇などの面で片務
的に不利な条件を認めた条約を
第 53 号
(年4回発行)
編集発行 弘 前 学 院 大 学 広 報 委 員 会
印 刷 所
㈲小野印刷所
いう。十九世紀に入り英国を先
頭とする欧米諸国は、軍事・政
治・経済的優位を背景に自由市
場の開放を目指し自国人の活動
を自由・安全・有利にするため、
アジアなどの後進国・従属国に
強制した。三本の柱があり、片
務的な最恵国待遇、領事裁判権、
協定関税である。
領事裁判権は、外国人が在住
国の裁判権に服さず、本国の法
に基づき、本国領事による裁判
を受ける権利。これをはじめと
する外国及び外国人の領土的特
権・地位を治外法権という。
一八九九(明治三十二)年八 月三日、文部省訓令十二号とし
て、次のような訓令を発した。
「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ
特立セシムルハ学政上最モ必要
トス、依テ官公立学校及び学科
課程ニ関シ法令ノ規定アル学校
ニ於テハ課程外タリトモ宗教上
ノ教育ヲ施シ宗教上の儀式ヲ行
フコトヲ許ササルベシ。」とい
うものであった。
訓令発布の背景は、一八九九
(明治三十二)年日本の治外法
権が撤廃され、外国人居留地を
廃止して、内地雑居が実施され
ることになった。これによって、
外国人宣教師が多数来日し、キ
リスト教の宣教とその学校教育
が発展して、従来の天皇制国家
の教育方針が乱されることを恐
10月 13、 14日に2013年度
の弘学祭が「夢幻∞」というテー
マで開催されました。今年は初 えて見ようというわけです。 疲労とは何か。疲労を学術的
な問題としてその専門学会もあ
りますが、大別して身体(肉体)
的疲労と精神的疲労になります。
さらに分類すると、中枢性疲労
と末梢性疲労、急性疲労と慢性
疲労、局所疲労と全身疲労にな
り、読んで字の如く、それらの
意味合いはおおよそ検討がつく
と思われます。中枢性疲労は精
神疲労に、末梢性疲労は身体性
疲労にほぼ対応するとしてもよ
いかも知れません。
疲労の特徴は、このところ多
くなった知(精神)的作業や汗
水を流して行う身体(筋肉・肉
体)的作業の結果としてからだ
に現れる生理現象であり、その
作業を中止すると必ず元の状態
に戻ることです。戻らない場合
はまさしく病気。よく疲労の蓄
積といいますが、慢性疲労も同
じような状態であり、その状態
が続くと遂には過労そして過労
死ということになってしまいま
疲れは健康の証
2013年弘学祭開催される
儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉
れ、基督教主義学校からキリス
ト教教育を放逐して、文部省統
轄のもとに全国の学校をおこう
としたものであった。
対象となった中学校は国民の
上層一部の男子のみの学校で、
高等教育への予備段階の性格を
そなえていたもので、一九〇〇
(明治三十三)年の学校数は
一九四校あり教員数三、七四八
名、生徒数七八、三一五名であっ
た。この中にあってキリスト教
主義学校は、中学校令に即して
学科課程を再編成し、官公立学
校と同等の資格を得るなどして
苦しい時代を切り抜けつつあっ
た。ところが、訓令十二号によっ
てキリスト教主義学校はこれに
従いその建学の精神であるキリ スト教教育を放棄して高等学校
入学や徴兵猶予などの特典をも
つ学校として存続するか、ある
いは宗教教育を続けることに
よって、これらの特典を剥奪さ
れ、各種学校として再び苦境の
道を歩むこととなるかという岐
路に立たされることになったの
である。
訓令十二号の発布に対して、
キリスト教主義学校の代表者た
ちは直ちに文部当局に対して激
しい反対運動を展開した。「護
教」によれば「青山学院、麻布
中学校、同志社、明治学院、名
古屋英和学校の代表者は文部大
臣を訪問すること三回、同次官
及び参与官を訪問する各一回そ
の志す所を告げて、当局の反省
儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉
を請ふた」のである。反対運動
は明治学院総理井深梶之助、本
多庸一が中心になって進められ
た。青山学院としては、翌年三
月の学年末までは訓令に触れな
いように一時宗教教育を止め、
中学校を維持して最上級生を卒
業させ、それ以後は断然特典を
返上し、各種学校となって宗教
教育を続けていくことを決定し
た。明治学院、同志社、東北学
院なども特典放棄・キリスト教
教育堅持の方針を決定したが、
立教学院その他特典維持、宗教
教育中止を選んだ学校もあっ
た。九月から十月にかけて本多・
井深らは山県首相、樺山文相、
奥田文部次官、岡田文部省参与
など次々に会見し、陳情・請願 運動を続けた。 本多たちの努力にもかかわら
ず、文部省の態度は強硬であっ
た。キリスト教主義学校の苦境
は深刻化した。上級学校への進
学資格なく徴兵猶予の特典も認
められない学校に学生・生徒は
集まらなかったばかりでなく、
退学者も続出し、学校の存続さ
えも危ぶまれる状態となってき
た。
一九〇〇(明治三十三)年四
月、青山学院はキリスト教教育
を続けるため中学部を廃止して
新しく「中等科」とし、高等普
通学部を「高等科」と改称した。
そして、本多の努力は、各種学
校として中学校の名義はなくと
も、それと同等の特典(上級学 校入学資格、徴兵猶予)を実質
的に獲得する方向に向けられて
いった。かくて、青山学院中等
科は一九〇一(明治三十四)年
五月には中学校以上と認定さ
れ、在校生徒の徴兵猶予の特典
も再び認められ高等科の徴兵猶
予も回復された。明治学院その
他もほぼ前後して宗教教育を保
持したまま特典を回復したので
あった。こうして訓令第十二号
はその当初の掛け声の大きさに
もかかわらず、またその反響の
大きさと文部省の強腰にもかか
わらず、公布後三、四年にして
全く骨抜きとなり、訓令そのも
のの持つ拘束性は、数年を出で
ずして実質的に消失してしまっ
たのであった。 (以下次号) 日常生活の便利さは、なるべ
く体を動かさないで色々な用事
を済ましてしまうことかも知れ
ません。テレビの電源のオンオ
フ、音量調節やチャンネル切り
替えでさえソファに寝ころびな
がらできるし、力を必要とする
仕事も極端に少なくなり、工夫
された器具・機械がその役割を
担っており、各戸に一台はある
という自動車の普及により歩く
ことも少なくなってきています。
一方、一日中デスクに座ってパ
ソコンを見ながらの仕事が増え
汗をかいてやるような力仕事も
少なくなっています。
現代社会にありがちなあまり
からだを動かさないことで生ず 日があいにくの天気でしたが2
日目には晴れ、多くの高校生や
近隣の方々、学生教職員が集い、 るこのような「疲れ」、「疲労」、
「疲労現象」についてはどうで
しょう。からだを良く動かし汗
をかいた後の疲れとは異なる疲
れであり、精神的な疲れと言っ
ていいでしょう。
人間は動物。動くもの、動いて
いるもの、動かなければならな
いもの、なのです。年度初めのヒ
ロガク教養講話(この講話集は
本学笹森建英特任教授によっ
て編纂中)「私たちは何処から
来てどこへ行くのでしょう」と題
して話をしましたが、人類は猿人
から数十万年前を辿り現在のヒ
トに進化し、その間ヒトは食べ物
を確保するため野山を駆け回り
(活発にからだを動かし)獲物を
得ていました。数万年前から数
千年前までこのような生活をし
ていたのです。地球の成り立ち
から現代までを一年間に置きか
えている表を見ると今の時代は
大晦日の
12月
31日が終わる数秒 前にあたることから、山野を駆
けて獲物を追っている時代はほ
んの少し前と言っていいことに
なります。本能的にからだを動
かさなければ生きていけないし
子孫も残せず、疲れ果てて(疲労
困憊して)眠りそして次の日が
来ることの繰り返し。言ってみ
れば疲労と休養の毎日。その頃
の平均寿命は今の数分の一であ
り、多くのヒトはケガによる感
染症などで一生を閉じたと思わ
れます。現代は特に予防医学の
発展もあり平均寿命や健康寿命
の伸びは世界一になっています。
さて、「疲れはからだを守る
ために必要なものであり、疲れ
ることはヒト本来の持ち合わせ
ている現象」とも表現されてい
ます。すなわち疲労はからだを
守る一種の防御機構であり、こ
れ以上無理をするとからだが壊
れてしまうという警報です。疲
労は安全装置であり、疲労と健
康は車の両輪とも言われていま
す。疲労をプラス思考として考
学長 𠮷岡 利忠
す。過労死、この言葉はなんと
日本にしかない医学用語(?)
で、英語のつづりでも、カロウ
シ、と表現するようです。
疲労は年齢とともに変化する
ものであり、
10歳代では疲れを
知らない程に回復が早く、
50歳
代以上ではこれまでの経験が物
を言い、疲れの消去の仕方を自
分なりに確立している人とそう
でない人との間で個人差が広
がっています。ですから、他人
のやっている疲労回復方法は自
分には当てはまらないことを知
るべきでしょう。他人に無理強
いすべきではないようです。疲
労したら休養して元の状態にす
ればいいのであって、その回復
方法は個人によって異なります。
お酒を呑みながらテレビを見な
がらゴロゴロしながらお菓子を
食べながらは、決して疲労は回
復しません。良質な食べ物と少
しからだを動かす運動や散歩な
どは積極的疲労回復として最も
良い方法だと思っています。 楽しいひと時を過ごしていまし
た。
今年はスペシャルゲストとし
て、「青森最後の詩人」ひろや
さんと西弘商店街のテーマソン
グを歌っているHI
NAさんをメインイ
ベントとして、恒例
の「学長」にもご協
力していただいてい
る「じゃんけん大会」
などで歓声が上がり、
多いに盛り上がるな
どサークルの発表や
模擬店と、学生・教
職員が協力し楽しく、
賑やかな学祭でした。
(詳細は4面に続く)
(2) 第 53 号 2013(平成25)年11月15日(金) 弘 学 時 報
写真展を終えて 談話室 「しあわせの国ブータン紀行」 弘学祭協賛
看護学部 教授 片桐 康雄
公 開 講 座
「教科書 に は 載 っ て い な い
ケ ー シ ョ ン の 話」 本学 で 開 か れ る (!?) コ ミ ュニ
数年前から弘学祭で私の写真
展を開くのが恒例となってい
る。九年前に弘前学院大に赴任
してみると、キャンパス祭が屋
台だけが目につき学生中心の寂
しいイベントに見えた。写真展
を催して少しだけ盛り上げられ
たらという思いがあった。
今回は「しあわせの国ブータ 丸山の一つの研究テーマは、
「慈円の研究」です。
慈円は、(一一五五―
一二二五年)の人。父が藤原忠
通、慈円と同母兄に兼実、甥に
良経。慈円は、幼少期に両親を
亡くしてしまいます。その当時
の常として、長男は政治の世界
へ、次男以下の場合は、よく仏
教の世界へ行きました。慈円は、
ご多分に漏れず、仏教の世界に
入ります。
たらちねもまたたちちめも失
せはてて頼む影なき歎をぞする
(慈円『拾玉集』)
慈円は、比叡山延暦寺で修行
ン紀行」と題して、今年六月に
訪れたブータンの写真を展示し
た。ヒマラヤの小国ブータン
は九州よりやや小さな国土に
七四万人が暮らしている。二年
前に来日したワンチェク国王の
もと「国民総幸福度、GNH」
を目標に国づくりを進めている
というだけあって、道で会う老
人や子どもたちはみなニコニコ
して出迎えてくれた。本当に幸
せそうだ。子どもたちの瞳がキ
ラキラ輝いている。日本にもこ
んな時代があったように思っ 弘学祭にあわせて
10月 14日(月)、公開講座「教
科書には載っていない
(!?)
コミュニケーションの
話」が本学で開催された。
吉岡学長の挨拶が冒頭で
行われた後、教員3名に
よる講話がスタート。そ
の内容は、小川幸裕准教
授(社会福祉学部)によ
る「ソーシャルワーク
の世界とコミュニケー を積みます。生涯で四度も、そ
のお寺の頂点、天台座主になり
ます。片や僧侶として、片や文
学・芸術の世界で、努力に努力
を重ねて、数多くの歌を詠んで
いきます。生涯で六、000余
首も。又、慈円の著した『愚管抄』
では、こんな言葉があります。
「保元以後のことは、皆乱世に
て侍れば」と。この時代は、源
平の世で、「乱世」であったの
です。兄の兼実は、源頼朝の政
治と歩調を合わせて政治を執っ
ていきます。慈円は、宗教の世
界で兼実と協調して歩んでいき
ます。甥・良経の邸宅では、『六百
番歌合』が行われました。判者
は、藤原俊成です。彼はこの作
品の中で、「源氏見ざる歌詠み
は遺恨の事なり」と。この言葉
は、この時代の歌人達の指標と
儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉
儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉儉
た。仏教国だけあって自然を大
切にしており世界遺産級の歴史
的な僧院や王城などを撮影する
ことができた。そして日本では
見られない貴重な鳥たちにも会
い、その写真を撮ることができ
た。
ブータンでは俗化することを
嫌い、あえて世界遺産には登録
申請は行わないのだという。経
済ではしあわせは買えないとい
う選択をしているだけのことは
あるなと大いに感じ入った。
二日間の展示で記帳してくれ
た人が百人を越えた。七十人は
学外の人だった。その中で弘前
高校の私の同期生が十二名も来
てくれたことが嬉しかった。毎
年、「先生の写真展を楽しみに 2013年7月
31日から8月
4日まで、中国の寧夏回族自治
区銀川市にある寧夏医科大学附
属病院および寧夏人民病院を見
学した。訪問で知り得たことに
ついて、ごく一部だが紹介した
いと思う。
寧夏回族自治区は中国の西北
部に位置しており、十一世紀か
ら十三世紀にかけて西夏王国が
繁栄した地域である。首府の銀
川市は人口が約百三十万人であ
り、市の北側には黄河が流れる
乾燥地帯で、日本にも飛来する
黄砂のふるさとでもある。
銀川では二日間にわたって寧
夏医科大学附属病院と寧夏人民 なっていく言葉で
す。
慈円のことを考
える場合、少なく
とも二つのことが
言えます。一つ
は、平氏が滅亡し
たのが、文治元年
(一一八五年)。こ
の文治期(一一八五
―一一八九年)と、
その次の建久期
(一一九〇―一一九八年)のと
ころ。一つは、承久の変が、承
久三年(一二二一)。この承久
の変の前、建保期(一二一三―
一二一八年)から慈円没年の年
(嘉禄元年、一二二五年)まで。
この二つの所が、慈円を研究し
ていく場合に、特に重要となっ
てくると思われます。何故なら
ば、それは、一つは、慈円と文
学・芸術方面の世界から。一つ
は、慈円と宗教との世界から。
一つは、慈円と政治との世界か
らです。慈円を研究する場合は、
している」と言ってくれたリ
ピーターも何人か現れた。私自
身、心に残る楽しい写真展に
なった。
写真展にご協力いただいた弘
学祭実行委員の学生諸君および
総務課の方に深く感謝申し上げ
ます。 改めて実感させられた。 小児科病棟は二か所見学し
た。
1つは主に腎臓病の病棟
で、もう
1つは呼吸器感染症が
中心の病棟であった。どちらも
六十床ほどであり、六人部屋と
二人部屋、個室があった。日本
との違いを感じたのはベッドで
あった。日本では年少児の入院
の場合、転落事故を防止するた
めに高柵ベッドを使用するのが
一般的だが、ここでは転落リス
クが最も高い幼児の場合でも柵 絶えずこの三方面の世界が問わ
れているからです。
さめてきくこころそいととあは
れなる 衣うつなり夢かうつつ
か(慈円)
いつかわれ都の外の月を見て おもひしことを思ひあはせむ
(慈円)山かけやとはるる人もとふ人も
昔も今も夢かうつつか(慈円)
年たけぬ身のありさまもなきに
なりぬ うき山里をよそにみよ
とや(慈円) zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
zzzzzzz
研究紹介⑳ 慈円の研究
文学部教授 丸山 正道
病院を見学した。寧夏医科大学
病院では小児科病棟二か所、N
ICU、成人外科系病棟、IC
Uを見学し、寧夏人民病院では
小児科外来と小児科病棟、およ
び薬剤部などの部署を見学し
た。
寧夏医科大学附属病院は巨
大な病院で、広い
構内に複数の診療
科の入院病棟が集
まって病院団地を
形成していた。中
でも十年前に建設
された外科棟は
二千床を有する巨
大な建物で、その
大きさに驚いてい
ると、「中国では
これが普通」との
ことで、人口と国
土の規模の違いを
◆クリスマス礼拝
12月12日(木)16時より
◆クリスマス音楽の夕べ
12月12日(木)18時30分より 場所:弘前学院大学 礼拝堂 入場無料(整理券配布)
尚、音楽会については、
本学まで問い合わせ下さ い。男性合唱・パイ プオルガン演奏 他を予定して います。
クリスマス礼拝 クリスマス音楽の夕べ
お 知 ら せ
tttttttttttttttttt ttttttttttt
tttttttttttt
ttttttttttt ttttttttttttttttt
の低い通常のベッドが使用され
ていた。このことについて質問
すると、親が常に一緒にいるの
でベッドからの転落はほとんど
ないということであった。また、
点滴が頭皮静脈から行われてい
たことも非常に興味深かった。
看護については本質的には同じ
という印象であったが、業務は
診療の補助が中心であり、病院
の雰囲気としては、三十年前の
日本のような非常に懐かしいも
のを感じた。 ション―声なき声をきく―」、
鎌田学准教授(文学部)による「『星の王子さま』の恋愛論―異
性間コミュニケーションを考え
る」、そして遠藤ゆり子講師(社 会福祉学部)による「伊達政宗
のコミュニケーション力」で
あった。内外から約
20名が参加
し、そのうち
2名の高校生も熱
心に話に聞き入った。
(鎌田)
中国の病院 ―寧夏医科大学附属医院を見学して―
看護学部 講師 齋藤美紀子
患者さんと一緒に
寧夏人民病院
-2013年度-
学内就職セミナー
弘前学院大学独自の企業説明会
2014年 1 月 10 日(金)
午後1時~ 4時まで 場所 弘前学院大学 体育館 いながらにして企業を知るチャンス!!
合同就職委員会
(3) 第 53 号 2013(平成25)年11月15日(金) 弘 学 時 報
私が小児看護学実習で受け持っ
た患児は、母親と祖母が交互に付
きそいながら治療や看護を受けて
いました。しかし、在宅では様々
な社会資源を活用しながら家族が
中心となって世話をする生活にな
ります。そこで、看護統合実習で
は、小児の在宅療養を継続する上
での家族の抱える身体的及び精神 私は、8月
13日から9月
12日ま
で青森市雲谷にある、情緒障害児
短期治療施設「青森おおぞら学園」
で実習をさせて頂きました。情緒
障害短期治療施設には親の虐待
や、幼い頃に親を亡くしてしまい、
心のどこかに躓きを抱えている子
どもたちが入所しています。自分
私はこの実習を通して「自分の
弱さと向き合い、それに立ち向
かっていく事が出来た」と感じて
いる。と言うのも、私には2つの
癖があったからだ。1つは、これ
まで身に付けた「知識や経験」で
物事を判断してしまい、何事も自
己完結してしまう事である。もう
1つは、場面を意識しないで、よ
く「笑ってしまう」事である。前
者は、自分の視野や物事への捉え
方をつまらなくしている事に気付
いた。後者は、本来ならば楽しい
時に笑顔を見せるが、私の場合は 地域保健における「健康教育」
とは、個人・家族・集団または地
域が直面している健康問題を解決
するために、一人ひとりが健康を
管理し向上していけるよう働きか
けることです。
統合実習では、昨年の地域看護
学実習よりも密に地域住民と関わ
ることができ、先生のご指導のも
と、地域との事前打ち合わせから
実施後の挨拶まで、認知症をテー
マとした健康教育における保健師
活動の一連のプロセスを学生が主
体となって行いました。
対象地区に適した支援の基盤と
なるのは、地区の把握と住民との
コミュニケーションであることを
実感しました。地区の把握とは健
康問題だけでなく、例えば人的組
織を知ることも大きな要素です。 的な負担や、経済的な負担を軽減
するために訪問看護師がどのよう
な役割を果たすのかを学びたいと
思いました。
今回の看護統合実習で受け持っ
た患児は、およそ3年近く病院で
医療処置などの援助をうけ、在宅
に移行してきました。在宅への移
行の準備として、母親は、様々な
介護技術を看護師から指導を受け
ていました。しかし、在宅の場で
の沐浴の援助は、母親と一緒に父
親も協力して行われていました。
私は、訪問日に看護師と一緒に同 の気持ちを上手く表現できずにイ
ライラしてしまう子やかまってほ
しくて自傷行為をしてしまう子、
対人関係に苦手意識をもっていて
人と話すことがあまり得意ではな
い子など、それぞれ様々な事情を
抱えています。
実習が始まる前に、他県の情緒障
害児短期治療施設の様子を見まし
た。その時は、子どもたちが職員に
「うっせ」などと暴言を吐いたり、壁
を叩きながら叫んでる子どもの様
子をみて、情緒障害児短期治療施設
私は、5月
13日から6月7日ま
での4週間、母校の秋田県にあ
る学校法人敬愛学園 国学館高校
で教育実習をさせていただきまし
た。母校なので、私が通っていた
頃の先生方がいらっしゃいまし
た。先生方も私のことを覚えてい
てくださったのでコミュニケー
ションをとるのに苦労はありませ 「自分がピンチになった時」や「こ
の場を切り抜けたい」と感じた時
に自分を守る為に見せてしまって
いた。その為に、いざ当事者(こ
こでは精神障がい者の事)の方と
話をしても上手くやり取りが出来
ずに、苦しい毎日が続いた。
しかし、自分の弱さに目を向け
て立ち向かい続けたお陰で、自身
の課題も見えてきた。例えば、「当
事者の抱えている「心の痛み」を
自分の中に落とし込めているの
か?」、「当事者を自分と同じ人間
として捉えているか?」、「自分は
心にゆとりが持てているだろう
か?」というものである。きっと、
「当事者と人としての関わりが無
いと、心の痛みは落とし込めない。
そして、落とし込むには心のゆと 地区によって組織構成や活動は
様々ですが、組織や人間関係が機
能しているという特徴は支援する
過程においてプラスに働きます。
支援することによって、住民の輪
を活かした主体的な活動に繋げて
いくことができるためです。地域
に介入するためには、もともとあ
るコミュ二ティを、事前に十分把
握することによって住民との信頼
関係の構築や住民の声を活かし
ニーズに応えた支援に繋がること
を学びました。
今回対象とさせていただいた地
区では、本学看護学部学生による
四回の健康教育が実施されており、
住民の方から多くの協力を得るこ
とができました。その環境のもと
で実習できたことは、単発的な関
わりに終わらず今後の継続した支
援に繋げることができるのではな
いかと考えます。継続して地域住
民の健康を支えていくという視点
を持ち、住民の方の意識の高さを
健康づくりに活かせるような支援 行し、患児の身体状況の観察や沐
浴、ガーゼ交換などの処置を行わ
せていただきました。主な介護者
である母親は、患児以外の子供の
世話や家事も行わなければいけな
いため、訪問看護師は、母親の休
息時間や睡眠時間から疲労の程度
も観察していく必要がありまし
た。また、沐浴時の洗髪には、介
護の負担を軽減するために、ペッ
トボトルに穴をあけシャワーにす
るなど物品の工夫も指導していま
した。さらに、家族が長期的に在
宅でのお世話が継続できるよう、
訪問看護の利用時間中は、母親が、
患児以外の子供の迎えや家事、余
暇時間等に充てられるように調整
もしていました。患児の症状の悪
化が見られた場合の、入院ベッド に恐いイメージしか抱くことがで
きませんでした。私には、小学6年
の弟と高校3年の妹がいます。施設
にいる子どもたちも妹や弟と同じ、
いたって普通の小学生や中学生、
高校生だと思いました。けれども、
自分の気持ちを上手く表現できな
かったり、かまって欲しいけどどう
すればよいか分からないといった、
心の躓きが子どもたちのどこかに
あるんだと感じました。
実習中には、青森県中央児童相
談所と児童発達支援センターやま
ぶき園に見学に行きました。児童
相談所は児童に関する相談機関の
中心となっています。
青森県中央児童相談所には、秦
一時相談所紳というのがありま
んでした。また、教育実習で緊張
していた私に、優しく接してくだ
さいました。思い出話や先生方一
人ひとりに教師になった理由など
ちょっとした裏話を聞いたりし
て、とても楽しかったです。
生徒との関わりについては、歳
もそれなりに近かったので、生徒
達とすぐに打ち解けることができ
ました。休み時間だけでなく部活
動でも生徒達と交流し、学年問わ
ず多くの生徒達と関わることを心
がけました。また、生徒の悩みを
聞くなど相談に乗ったりもしまし
りも必要である」。これが出来て、
初めて人を支援する事を考えられ
るのではないだろうか。
よく「精神保健福祉士(以下P
SW)の専門性とは?」という話
になる。勿論、その中には専門的
な知識や面接技法等もあると思う
が、私は「自分自身を磨いていく
事」も含まれると考える。PSW
は医療行為が出来ないし、介護技
術も持ち合わせていない。つまり、 をぜひ今後の学生に期待します。 私は卒業後、看護師として臨床
で働きますが、在院日数が短縮化
され、疾患を抱える人も地域で暮
らそうという現代において、患者 の確保など病院との連携について
も説明を受け学ぶことができまし
た。
今回の実習では、利用者の方か
ら相談される場面は経験できませ
んでしたが、在宅で患児が療養を
継続する上で、家族が不安に思う
ことは、経済面の問題も予測され
ます。障害者総合支援法や居住す
る地域の乳幼児医療助成制度、病
院の通園事業などの社会制度や資
源の知識や情報を解りやすく提供
し、療養者や家族の経済的負担や
不安の軽減を図っていくことが大
切であることを学びました。これ
らの看護統合実習での学びは、小
児看護学以外においても、今後、
臨床で看護師として働く際に活か
していきたいと思います。 す。最初は、一時保護所にいる子
どもたちは暗く、対人恐怖があ
り、警戒心が強い子たちばかりだ
と思っていました。しかし、子ど
もたちは思った以上に元気で、本
当は辛いはずなのに…と虚しい気
持ちになりました。
私は、1ヶ月間青森おおぞら学
園の子どもたちと触れ合いまし
た。虐待を受けてきた子が多かっ
たので、初めはお互いに警戒して
いたけれども徐々に気持ちを近づ
けていくことができました。そし
て、実習では、改めて秦親紳とい
う存在の偉大さを気づくことがで
きました。今後は、この経験を生
かして自分の夢に向かって努力し
ていきたいと思います。
また、国学館高校の学校行事で ある「歩こう会」という行事に
参加しました。この行事は健やか
な身体と精神を磨こうという目的
で毎年2回あります。もちろん私
も国学館高校に通っていた頃、歩
こう会に参加していました。学校
から往復約
26kmを完歩します。
だいたい、午前、午後
13キロ歩き
ます。とても疲れましたが、生徒
達と会話しながら歩いたので、と
ても楽しかったです。
この教育実習は、教員免許取得
のために行うものとなっています
が、私は1人の人間としても必要
なことを学ぶことができました。
ビジネスマナーや場合に応じて臨
機応変に対応する行動力など大切
なことを学ぶことができました。
おそらく教職をとっていなけれ
ば、この様な経験をする機会はな
かったと思います。四週間という
短い期間でしたが、私のこの先の
人生に間違いなくプラスになるも
のだと思います。この経験を活か
し、自分の人間性を豊かなものに
していこうと思います。この貴重
な体験をさせていただいた国学館
高校の皆さまに深く感謝したいと
思います。
在宅療養を受けている 小児と家族への支援
看護学部 四年 高橋 智子
社会福祉実習の感想
社会福祉学部 三年 奥崎 萌美
精神保健福祉士実習を終えて
社会福祉学部 四年 向中野 永
教育実習を終えて
文学部 日本語・日本文学科四年 越後 駿
地域の人々の健康を支える
看護学部 四年 榊 麻衣
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さんと地域は非常に密接なもので
あり、地域保健活動の実習は、患
者さんの退院後を見据えた看護
に活かせる貴重な経験となりまし
た。
PSWという自分自身が武器であ
ると言える。だからこそ、自分の
強みや弱み、行動の癖や言動を振
り返る事、何より当事者や他の専
門職から「学ぶ」という姿勢を忘
れてはならないのだと思う。
今後は自分の目標に向かって専
門的な部分も磨いていきたいが、
それと同じくらいに人としての幅
を広げていきたいと思う。 た。生徒達と関わる中で、教師は
生徒と友達ではないので、ちゃん
と教師と生徒との一線を引く大切
さを知りました。
国語の授業をするにあたって、
まずは生徒に興味を持たせるよう
な授業をすることを重要視しまし
た。他にも机間巡視を必ずするこ
と・漢字の書き順を正確に、文章
の読み間違いをしない・一番後ろ
の席の人にまで聞こえるように大
きい声でハキハキと話すこと・板
書は色使いなどをして見やすく
し、何処が重要なのかを生徒にわ
かりやすくすることなど基礎的な
ことをしっかり行えるように心が
けました。この4つはできないと
教師は務まらないと自分に言い聞
かせ、必死に練習しました。実際
に生徒に授業を行ってみて、
50分
という短い時間の中で、生徒に自
分の伝えたいことを伝えなければ
ならないという責任の重さを知り
ました。また、自分が授業をした
ところがテストの問題となるので
生徒にきちんと理解させければな
りません。そこで、生徒に自力で
問題を解く力をつけさせるために
は、どう授業を工夫して展開して
いこうかなど、授業に対する考え
が深まりました。
(4) 第 53 号 2013(平成25)年11月15日(金) 弘 学 時 報
44444444444444444444444444444
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2013年度の「文学散歩」は、
1泊2日で恐山方面へと向かった。
前年度は日帰りで、金木方面への
旅であった。今年度も同様に日帰
りであれば、もっと気を楽には出
来たのだろう。
しかしながら宿泊を伴う「文学
散歩」は全くの手探り、企画から
何まで、当日以外は大苦戦という
ありさまだった。結果として、得
るものは得たのだから問題はない。
「
文学散歩」で得たものは何か。
この拙文を書くにいたった理由は、
これが問われ、答えを求められた
2013年度 オ ー プ ン キ ャ ン パ ス を終 えて 今年の最新データによると、平
成
22年に就職した若者のうち3年
以内に会社を辞めた人は、大学を
卒業した人が
31%、高校卒業した
人でおよそ
39%と言われています。
このデータが意味しているのは、
一体何なのでしょう。意思が弱い
のか、それとも会社あるいは上司
が悪いのか…どこにいってもつい
てくるのが人間関係…それは「出
会い」です。考えてみてください、
人生のほとんどは「出会い」です。
人との出会いで、新たに教えら
れ学ぶこともあれば、間違って
いることに気づくこともあります。
また、他人との共感といった今ま
でに感じたことのない瞬間に出会 今年は、
10月 13・ 14日
にて弘学祭を開催し、
皆様のご協力のもと無
事に終了することがで
きました。
今年の学祭のテーマは「夢 むげん幻∞」とさせてい
ただきました。私達学
祭実行委員会や本学の
全学生、本学の教職員、
地域の皆様やスポン
サーの皆様といった幅
広い方々と短いながら
も夢のような楽しい時
間を共に過ごしていた
だきたい、学祭を通し
て多くの方々と触れ合
ためである。得たものは、私個人
のもので構わないだろうか。私は
青森県への愛着と、青森近代文学
への興味だ。
地元は津軽であるが、青森県在住
ということで、青森とまで地元を広
げたい。同じ青森県といっても遠方
ながら、恐山の岩場や極楽浄土を思
わせる湖の、美しくもどこか寂しい
風景や、尻屋崎の寒立馬と絶景、大
間崎のマグロのモニュメントなど、
刺激を受けるものが多く見られた。
海が多かったのも感慨深い。山ばか
り見ている身としては実に新鮮で、
各所で創作意欲がくすぐられた。青
森はおもしろいところだと、臆さず
言える。
得たものの二つ目は、青森近代
文学への興味と前述した。私は グラスに彩られた荘厳な礼拝堂
で、学長挨拶、学生のお話、ハンド
ベル・パイプオルガン演奏。会場を がいまの私に課せられた課題で
しょうか。「私」から相手に広げ
発信し、人と人とをつなぎ一つの
大きな「輪」へ、そして輪がつな
がった時にはきっと平「和」で新
しい世界が待っているような気が
します。 「
私」「輪」「和」この3つの「わ」
のこころをモットーにこれからも
子どもソーシャルワーカーとして
子どもたちを始め地域の方々と関
わっていきたいと思います。
すべては人と人との繋がりです。
「出会い」は自分を大きく変えて
くれるチャンスです。どんな仕
事に就いても自分の「心」、芯さ
えぶれなければきっと前に進める
と思います。人と人とのつながり
がきっと大きな輪になり多くの人
の心に届き響くと思います。そう
願い信じ、今後も活動を続けたい
と思います。皆さんも自分を信じ、
目指す方向をしっかり見ていって
ください。これからも活躍をお祈
りしています。きっとこの文章を
読んでくれた方は、「いま」新し
い自分に出会っていると思います。
そう、今がチャンスです。 のテーマソン
グを歌ってい
る、同じく青
森県で活動し
ているHIN
Aさんをスペ
シャルゲスト
としてお招き
してのライブ、
そして二日間にわたってのカラオ
ケ大会、三年目となる吉岡学長先
生とのじゃんけん大会や、片桐康
夫先生の写真展を始めとする学内
展示、学内音楽サークルによるバ
ンドライブやコンサート、昨年好
評だったスタンプラリーなど多く
のイベントを企画しました。また
屋外ではたくさんの模擬店が出店
しました。そして今年は弘前学院
大学の教員による公開講座や統合
失調症バーチャルハルシネーショ
ンが併催され、大学が一丸となっ
て参加者の皆様はもちろん主催者
のどちらもが楽しめるような学祭
となったと実感しております。
古典、おもに和歌文学に親しむ身
である。近代文学といえば授業で
触れることはあれど、そう深く知
らない。専攻する学生に比べたら、
及ばないところだ。そのうえ青森
県まで焦点をしぼってしまうと、
では浮かぶのは太宰治か、といっ
た具合のものだった。このような
状態だったのが、いざ行ってみる
となかなか面白い。もっと知りた
い、作品を読んでみたいと思うよ
うになった。考えてみれば、青森
県内にいながら青森県の近代文学
作家を知らないで卒業してしまう
など勿体ない。視野を広げること
ができた。
今年度の
「文学散歩」、
私は企画側か
ら関わってい
た。行き先の
決定、日程の
調整、バス会
社への連絡、
ソ ー シ ャ ル ア ク シ ョ ン ~自分 と の 出会 い ~ 社会福祉学部 社会福祉学科 卒業 乘田麻衣子
に立ってよかったもの」では、在
学生との懇談、学科企画が多く挙
げられました。アンケートから学
科企画の内容がより充実し、学生
スタッフに対する評価が年々高く
なっていることが印象深く感じら
れます。
最後になりましたが、オープン
キャンパスの企画・運営された学
科長始め関係教職員、学生スタッ
フの皆様に心から感謝申し上げま
す。(文責:入試広報センター長
荒木関) 会計との相談と、手伝い中心で仕
事を勧めていた。このようなもの
は友人たちと旅行する際にも役に
立つ。旅行の下準備の手際も、「文
学散歩」で得たものとして追加し
ていいだろう。まだまだ出際が良
いとは言えないけれど、経験とし
て2回積んだ。
「
文学散歩」で得たものは、青
森県への愛着と、青森近代文学へ
の興味、旅行企画と運営の経験値
である。時間と手間もそれなりに
掛かったけれど、低予算で視野が
ひろがり、良い勉強になった。 今年度のオープンキャンパス
は、第1回が前年度より一ヶ月繰
り上げて6月開催とし、文学部と
社会福祉学部によるオープンキャ
ンパスを新規に企画しました。こ
の6月に開催した目的は、4大進
学を考えている高校生に、より早
く本学を理解してもらうことにあ
りました。
第1回6月
16日(日)、第2回
7月
20日(土)、第3回9月7日
(土)、文学部・社会福祉学部デー
8月3日(土)に開催し、年間参
加者延べ数は高校生168名・保
護者
58名となりました。
全学部によるオープンキャンパ
スは、受付と「全体会」をステンド うこともあります。皆さんは、直
感的に劇的な出会いを感じたこと
はありますか。「出会い」の中で
も何よりも大きいのは「新しい自
分」に出会うことです。人との出
会いを通じ、今まで知らなかった
自分に気づくことができます。ま
た何かにチャレンジすることで
「新しい自分」に出会うことがで
きます。
ふと、振り返ると私は数えきれ
ないほどの出会いをしてきている
と感じます。子どもが好きで、普
段は子どもソーシャルワーカーと
して、子どもたちや地域の方々と
向き合った活動をしています。そ
こでもたくさんの出会いがあり、
日々新しい出会いの連続に感謝し
ながら過ごしています。ただ、大
事なのは、そこで歩みを止めては
いけないと言うことです。相手の
思いを次に「つなぐ」という役割 生活を過ごせていること、学祭を運
営できることは皆様のご協力、ご声
援をいただいているおかげです。学
祭を通して多くの方々と触れ合い、
喜びや賑やかさを含んだ夢のよう
な楽しい時間を分かち合うことで
皆様への感謝の気持ちも伝えたい
と思うのは私たち学祭実行委員だ
けではなく、弘前学院大学学生全員
が思っていることです。
その思いを学祭実行委員が受け
取り、委員が先頭に立ち、それぞ
れが精一杯準備・運営に勤しむこ
とができました。
また、今年は、学祭実行委員の
メンバーが二年生十一名、一年
生五名、当日スタッフ八名の計二
十四名と大変少ないながらもメン
バー同士が連携し、より良い学祭
を作り上げていくように勤めてい
きました。
今年のイベントは青森県で活動
している青森最後の詩人ひろやー
さんのライブをメインイベントに、
カラオケ大会内では西弘前商店街
移して「学部・学科紹介」、「学科企
画」、「在学生との懇談」という内
容です。その中で、「学科企画」は、
模擬講義、ゼミ演習体験、体験学習、
ヒロガクトークなどが行われ、参
加者に学科の特色がきちんと理解
されるよう、各学科においていろ
いろ工夫し運営されました。
新規の文学部・社会福祉学部
デーのプログラム内容は次のとお
り、開催時間は午前中とし、礼拝
堂での「全体会」後、学食ライト
ホール・会議室において「学部カ
フェ」を開催。「学部カフェ」で
は、「学科紹介」と軽食・コーヒー
等を飲食しながら和やかに「在学
生との懇談」が行われました。
参加者アンケートの「参加し
た感想」では、とても楽しかっ
た、学生のスタッフがとても感じ
よかったとする回答が多く、「役 昨年度は芸人ライブをメインイ
ベントに行ってきていた反面、今
年のイベントを考えることに一番
苦労しました。準備では、かなり
遅れてのスタートで、準備段階か
ら多くの反省点が挙げられました。
しかしその反省点に対し来年度の
学祭を見据えてどのように改善し
ていけば良いかを委員全員で考え
意見を出し合うように努め、無事
学祭を楽しく終えることができま
した。
今年はオープンキャンパスと併
催ではなかったため、例年よりも
来場者数が少なくなるのではない
かと心配していました。 さらに、運悪く学祭一日目はあ
いにくの雨。しかし雨の中でも多
くの方が来場し、二日目は私たち
の思いが届いたのか、快晴となり
模擬店からも活気のある声が聞こ
えていました。
そして、今年の来場者数は私た
ちが予想していたよりも、多くの
学生や地域の方々が足を運んでく
ださり大盛況となりました。
昨年度とは違うところもたくさ
んあり、戸惑うところも多々あり
ましたが、試行錯誤を重ねて作り
上げた学祭を迎え無事終えること
ができた喜びが大きく、忙しさの
中にも充実感が有り、委員の中に
は無事学祭を終えたことに喜びの
涙を流す人もいました。
今回ご協力いただいたスポン
サーの皆様、各サークルの皆様、
教職員の皆様、そしてご来場いた
だいた地域の方々一人ひとに感謝
申し上げます。
本当にありがとうございました。
弘学祭はこれからもどんどん進化
していきます。来年は今年よりも
もっともっと素晴らしい弘学祭に
なると期待し、楽しみにしています。
2013年 文 学 散 歩
秦 青森近代文学館、 大間崎、 尻屋崎、 海峡いざりび公園、 恐山レポート 紳
日本語・日本文学科 三年 和田 翔子
2013年度『弘学祭』 を終えて
学祭実行委員長 弘前学院大学 看護学部 2年 鈴木 清霞
い、喜びや賑やかさを含んだ夢のよ
うな楽しい時間を分かち合うこと
で皆様へ感謝の気持ちも伝えたい、
皆様に楽しんでいただける、いつま
でも心に残るような学祭を協力し
て作り上げていけるようにという
思いをこのテーマに込めています。
日頃、私達が楽しく充実した学校