今回のテーマの ﹁家族の自立﹂と
は何でしょう︒﹁自立﹂を﹁自律﹂と
書く人もいます︒﹁家族のジリツ﹂と
声に出すだけでは自立なのか自律な
のか︑よくわかりません︒そこで︑
その両方の意味を含ませて︑ここで
はジリツを ﹁ひとりだち﹂と言いか
えてみることにします︒
しかし︑障害者本人の ﹁ひとりだ
ち﹂ は︑よく語られていても︑家族
の ﹁ひとりだち﹂ とは言わないかも
自立は﹁ひとりだち﹂ 家族の﹁ひとりだち﹂
しれません︒家族は ﹁ひとり﹂ では ありません︒親と子︑きょうだい︑ ときには祖父母や孫がいます︒なの に ﹁ひとりだち﹂ とは変な感じです︒ 家族の ﹁ひとりだち﹂ とは︑実は︑ 家族一人ひとりの ﹁ひとりだち﹂な のです︒障害者本人だけではなく︑ 母親の﹁ひとりだち﹂︑父親の﹁ひと りだち﹂︑きょうだいの﹁ひとりだち﹂ を意味します︒つまり家族の一人ひとりが ﹁ひと
りだち﹂していることが︑家族の﹁ひ
とりだち﹂ の目標になるわけです︒ 家族一人ひとりが ﹁ひとりだち﹂
するのは︑家族がバラバラになるよ
うでさびしいと感じるかもしれませ
ん︒しかし︑強い風の日も倒れない
森の樹の姿を思いだしてください︒
森の樹は︑一本一本が自分で大地に
根をはって立っています︒もし︑森
の樹が互いにもたれあっているのな
ら︑少しの風ですべての樹が倒れて
しまうでしょう︒
逆に︑何もない平原にたった一本
立っている樹ではどうでしょう︒森
のなかなら耐えられる風にも︑きっ
森の樹のたとえ
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特集/家族の自立
世間でいう﹁ひとりだち﹂ は経済
的自立であったり︑一人暮らしであ
ったりします︒しかし︑障害者やそ
の家族の運動のなかから出てきた﹁ひ
とりだち﹂ の考え方は︑それとは違
います︒私たちにとってもっと大事
な ﹁ひとりだち﹂ は ﹁自分の生活を
自分で整えること﹂ でしょう︒次に
具体的に説明してみます︒ と簡単に倒れてしまいます︒
ですから︑ひとりだちした家族は
強い風にも倒れない森の樹のような
もの︒家族の一人ひとりが ﹁ひとり
だち﹂した力強いつながりなのです︒
たとえば︑ここに一人のお母さん
がいます︒息子が病気になった︒そ
のことで自分を責め︑また自分の思
いどおりにならない息子に怒ってい
気持ちを整えること ﹁ひとりだち﹂とは
ます︒怒りと自責の念で心が揺れ︑ 冷静さを失い︑家族のささいな言葉 に激怒し︑そのことでまた自分を責 めてしまう︒そんな悪循環のなかで︑彼女の心
は深く傷つき︑もはや落ち着いて夫
や子どもの話に耳を傾けたり︑その
気持ちに配慮したりできなくなって
います︒座っていても涙が出るばか
り︒自分で自分の気持ちをどうする
こともできないのです︒
悲しみを押し殺して毎日をやりく
りしていても︑自分の気持ちを見な
いようにしている人が他の人の気持
ちに気づくはずがありません︒夫や
子どもたちとの気持ちのすれ違いが︑
きっと次々に起こってきます︒
こんな状態のお母さんが ﹁ひとり
だち﹂するためには︑まず自分の気
持ちを整えることが必要です︒それ
には同じ家族 ︵母親︶ 同士のわかち
あいが一番なのです︒ 自分の悲しみや怒りを押し殺して いても︑悲しみや怒りは心の奥で生 きています︒少しでも手をゆるめれ ば︑その指の聞から出てきて︑たち まちあなたや周りの人を傷つけるで しょ︑つ︒
子どもが心を病むことによって︑
親の心には︑不安やあせり︑恐れや
悲しみなど多くの気持ちが次から次
へと出てきます︒しかし︑それをど
こで発散することができるでしょう︒
社会の偏見や無理解のために誰にも
言えないかもしれません︒また︑病
に苦しむ子どもへの配慮から︑家族
のなかでさえ口にできないかもしれ
ません︒そんなときこそ︑家族会を
気持ちのわかちあいの場にしてみま
しょう︒胸いっぱいになった気持ち
を︑そこで発散させるのです︒それ
で心は少し軽くなり︑自分の生活を
わかちあいの場をもつ
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現実の家族会は多くの仕事を抱え
ています︒作業所の運営や講演会の
企画など仕事が山のようにあります︒
そのなかで気持ちを自由に語り合う
ことはむずかしいでしょう︒要する かた に仕事をする集まりは堅いのです︒
また︑その堅さは必要でもあります︒
仕事をする集まりは集まること自体
が目的ではなく︑そこで仕事をする
こと︑たとえば作業所の運営をして
いくことが目的です︒集まりは︑そ
の目的の道具にすぎません︒
ところが︑わかちあいの集まりは︑
もっと自由なものです︒わかちあい
の集まりは︑集まり自体が目的です︒
集まって気持ちを発散して︑﹁わか
る︑わかる﹂ と︑うなずきあって元
気がでたら︑それでいいのです︒前 整える余裕ができてきます︒
仕事をする集いと わかちあう集い
障害者本人の合に家族の人が参加
したら障害者たちは︑たちまち ﹁本
音﹂を言えなくなるでしょう︒同じ
障害をもつ者だけが集まる安心感が︑ もって話し合う順番もありません︒ 集まりに︑やっと初めて勇気をもっ て来ることができた人が︑いちばん の主人公です︒なぜなら︑いままで 言えなかった気持ちを︑いちばん重 く抱えている人だからです︒
仕事の集まりと︑わかちあいの集
まりは︑こうして決定的に違うもの
です︒これまで家族会でも ﹁わかち
あい﹂ が必要だと言われながら︑実
際には︑それはむずかしかった︒そ
の原因の一つは︑仕事の集まりと︑
わかちあいの集まりという︑あまり
にも性格の違う二つの集いを同時に
同じ場所で行おうとしていたからか
もしれません︒
本人と家族の違いを認めよう
その地域にはないからなのかもしれ ません︒しかし障害者本人が家族の集まり
にいては︑家族は ﹁本音﹂を言えま
せん︒家族は本人たちを目の前にし
て遠慮してしまうのです︒ですから
家族会でわかちあいの集いをもつと
きは︑家族だけで集まった方がいい
と思います︒
家族と障害者本人とが別々に集ま
ることは市民運動としてマイナスに
見えるかもしれません︒しかし仕事
の集まりと︑わかちあいの集まりと
を区別することを忘れないでくださ
い︒行政への要請運動などを目的と
した仕事の集まりは︑家族の含も本 家族が一人でも参加することによっ 24 て損なわれるのです︒
では︑その道はどうでしょう︒私 6 は︑家族会の集まりに呼ばれたとき︑服
そこに障害者本人が参加されている
のをよく見ます︒障害者本人の合が︑肋
特集/家族の自立
そこで︑私は三つのことを提案し
たいと思います︒
一つは家族会が仕事の集まりとは
別に︑わかちあいの集まりをもつこ
とです︒現実の家族会はさまざまな
仕事を抱えています︒役員の負担は
大きいことでしょう︒しかし︑それ
でも仕事の集まりとは別に︑わかち
あいの集まりをもつ価値はあります︒
﹁私たちの全は仕事の集まりでも堅
くない﹂と︑あなたは反論するかも
しれません︒しかし︑繰り返して言
いますが︑仕事の集まりは︑もとも
と堅い感じで行うべきものです︒あ
らかじめ設定した議題を議論し︑次々
と採決をとっていく合議は堅くて当
然です︒ただ︑それでは気持ちの発 人の合と協力すべきでしょう︒ただ︑ わかちあいの全は︑それでは双方と もに ﹁本音﹂ がいえないのです︒
≡つの提案
散を行う︑わかちあいの集いにはな らないのです︒もうひとつは障害者本人という考
え方に対して︑家族本人という考え
方をすることです︒障害者でなけれ
ばわからない障害者の気持ちがある
ように︑家族でなければわからない
家族の気持ちがあります︒家族のわ
かちあいの集いは家族だけで集まっ
て行って初めて ﹁本音﹂ が出せます︒
さらに︑わかちあいの集いは小さ
なグループで行うことです︒一人ひ
とりの話を聞いていたら時間が足り
なくなったというのでは集いが大き
すぎます︒小さく︑いくつもの会に
わかれて︑その間を自由に行き来し
て自分が居心地のよい集いを選んで
もらうようにします︒
以上の三つのことを︑すでに実践
している会があります︒大阪府枚方
市に集う﹁家族本人の会﹂ は︑第一
金曜会︑第二金曜合︑第三土曜会な 家族の ﹁ひとりだち﹂ の問題は気
持ちの問題だけではありません︒制
度面の改善をはかり社会への働きか
けが大前提です︒しかし多くの家族
は思いもかけなかった子どもの障害
を目の前にして︑混乱し︑落ち着き
を失っています︒
最初の一歩として︑家族同士のわ
かちあいによって孤立感から解放さ
れ︑気持ちの上で自分を整えること
から︑家族の ﹁ひとりだち﹂ は始ま
るのでしょう︒わかちあいを中心に
行う集いは︑新しいタイプの家族の
集いとして︑家族の ﹁ひとりだち﹂
に︑きっと役立つと思います︒ どと時間を変えた小さなわかちあい の集いをいくつも開いています︒家 族だけが集い︑涙で始まり笑いで終 わるという︑気持ちのわかちあいを 中心にした合です︒
最初の一歩として
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