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解説 一九七〇年代 ― - 日本国際問題研究所

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一.一九七〇年代の位置づけと評価

  まずは、国際情勢・国際問題の第二次大戦後の展開過程において、

一九七〇年代の大きな位置づけを行ってみれば、大戦終了後三〇年=一

世代を経て、まさに第二世代への決定的転換期に移行し、国際関係なか

でも国際経済関係において、その基本的前提や枠組のほとんどすべてに

対して根本的な挑戦が行われ、さらに新たな重大かつ解決の困難な課題

や要請が提起された一〇年であった。

  ここでは、この第二世代への決定的転換期に着目して、その意味・内

容と具体的な現実展開について手短に解明し、併せて『国際問題』にお

いて、どのような論議が展開されてきたのかをまとめてみたい。

二―一.グローバル・イシューの提起・重大化

  第一に、戦後の混乱・復興期を経て、一九七三年一〇月の第一次石油

危機発生に至る期間、世界全体としてみれば、未曾有の二%の人口増加、

五%の経済成長を持続し、大恐慌といった危機も経験せずに順調な発展

を謳歌してきた。特に日本は世界の二倍の一〇%もの経済成長を維持し て、欧米先進国へのキャッチ・アップを達成した。  ところが、順調な発展の裏側で、環境・公害問題が深刻化し、

一九七二年には、ストックホルムで「第一回国際連合人間環境会議」(U

NCHE)(六月)が開催され、ローマ・クラブの『成長の限界』が発表

された。

  この『成長の限界』は、もし世界で第二次大戦後このままのペースで

人口増加と経済成長とが今後も持続していくとすれば、資源枯渇、食糧

不足、環境悪化などによって一〇〇年以内に、悪くすると五〇年後には、

地球と人類は破局に到達せざるをえないとする警告であった。

  さらに、世界人口年の一九七四年には、八月にルーマニアのブカレス

トで「国連世界人口会議」が開催されたが、国連当局が進めていた人口

抑止の行動計画を採択することはできなかった。

  『国際問題』においては、大淵寛「人口思想と人口政策―その変遷と

国際的関連」(一九七八年六月号)では「現代の成長はすべての面であま

りにも急速であるため、地球の物理的限界がすでに射程距離の内にはい

り、人口扶養力の極限に近づきつつあるという人口危機の認識が一般化

した。〝宇宙船地球号〟といったグローバルな考え方やローマ・クラブ

―   解説   一九七〇年代  

深   海   博   明 渡   邉   昭   夫

(2)

解説 1970 年代

の〝成長の限界〟論はその典型であり、人口問題や人口政策が地球的な

視野で論じられるようになった」と明示している。

  また、〈焦点〉として「日本の資源問題」がいち早く一九七一年五月号で、

さらに「世界の農業・食糧問題」が七四年二月号で取り上げられ、興味

深い検討がなされている。

  現段階でも最重要視されているグローバル・イシューが、まさに

一九七〇年代において提起されたのであり、この地球の資源・環境制約

の重大性と緊急性をあらためて再認識し、真剣に取り組んでいかねばな

らなくなった。

二―二.根本的問題挑戦

  第二に、これまでの一見順調と思われた世界経済の成長・発展が、実

は種々の問題や歪みをその内部に累積し、それが一九七〇年代に入って

一斉に現出し、従来の基本目標・価値観、秩序・原則、組織体系、リー

ダー等のすべてに対して根本的挑戦が行われ、加えて新しい問題・要請

が登場しつつある第二世代問題の幕開けとなった。

(1)基本目標・価値観

  基本目標・価値観については、従来の狭い経済成長・物質的進歩至上

主義から福祉重視(くたばれGNP)ないし人間性豊かな成長へ、使い

捨て浪費は美徳であるといった価値観から節約・有効利用こそ美徳であ

るといった方向へ、無限から有限への発想の転換が模索され始めている。

  『国際問題』においては、残念ながら、こうした問題を正面切って捉

えて論究された個別論文は見出しえない。 (2)南北問題の多様化・複雑化と新展開

  一九六〇年代に入って東西の緊張緩和も一部で進み、七〇年代になる

と南北問題は一層多様化・複雑化し、第一次石油危機発生も作用して、

石油・エネルギー資源をもたざる途上国へのしわ寄せ構造も重大化した。

新たな世界的な正義・公正の要求が付加され、南北間そして南の国々間

での所得ないし生活水準格差の是正も重視されるようになった。国連は

七〇年代を「第二次国連開発の一〇年」(UNDDⅡ)として決議して

いる。  『国際問題』

では、七二年五月号で「開発途上国の苦悩」が取り上げられ、

期待していたように発展が現実には進展せず、東南アジア、ブラックア

フリカ、ラテンアメリカの地域別の苦悩のケースが考察され、UNCT

ADの会議が重ねられても、問題の解決が期待通りには進んでいない状

況が明確化されている。さらに七三年七月号では、「カリブ海諸国の動向」

が、そして七四年八月号では「アフリカの動向」が取り上げられている。

  しかし一九七八年五月号では、「アジア中進工業国の台頭」が取り上

げられ、韓国と台湾におけるケース・スタディと躍進するアジア中進国

の工業製品輸出に目が向けられている。

  一九七〇年代の総括として、七九年四月号の「南北問題の構造変化」

において、村上敦「国際経済関係における南々・南北・北々問題」、廣

野良吉「新しい世界開発戦略の模索―自立的国家開発戦略と国際協力」、

渡辺利夫「開発途上国における農村の貧困、都市の貧困―ベイシック・

ヒューマン・ニーズ・アプローチに関連して」が、見事な問題整理と今

後の方向づけを示唆している。

  しかし第一次石油危機を契機として、第二世代においては、全体とし

(3)

てみれば、南の成長率が北の成長率を上廻る傾向が持続している。

(3)世界経済運営原則への挑戦と新国際経済秩序(NIEO)樹立の攻

  この第二世代に入り、第一次石油危機の展開を背景として、南側の国々

は団結して、従来の世界経済の運営の原則である「自由・多角・無差別・

互恵」は、南北格差を発生・増大させるように作用するとして、根本的

に挑戦し、新国際経済秩序(NIEO)の樹立を強く要請し、「組織化(計

画化)・保護・特恵・一方的」原則を打ち出した。

  一九七四年五月一日の第六回国連特別総会で「新国際経済秩序樹立に

関する宣言」と「行動計画」がコンセンサス方式で採択された。しかし

この方式では投票にかけられたわけではなく、採択の後に先進国側が意

見表明により、問題の条項の多くに留保を行い、この決議の実効性は担

保されてはいなかった。形式的には南の原則・秩序は確立されたように

見えるが、現実的には南側の一方的な宣言となってしまい、新秩序の具

体化への大きな一歩とはならなかった。

  『国際問題』一九七五年一月号「模索する国際秩序」では、三好修が

大きく「国際均衡の変化と新秩序の模索―オイル・パワー台頭と五極体

制の動揺」を解明し、加藤義喜が「新国際経済秩序形成の可能性」を探

り、シンポジームで板垣雄三・岡部達味・島野卓爾・山本満・斎藤優に

よる多面的な論議がなされている。

  その後、これらの要請は部分的には実現されているが、NIEOの全

面的な樹立は今なお達成されているとはいえない状況にある。 (4)新国際法秩序の模索と第三次国連海洋法会議

  さらに国際法の分野でも、これ迄の先進諸国中心の国際法の形成や発

展への挑戦がなされ、特に包括的な新しい海の秩序を形成する目的で、

第三次国連海洋法会議が一九七三年から開催されたが、難航し、最終的

条約の採択は八〇年代に持ち越されている。

  『国際問題』は毎年〈焦点〉で国際法の問題が的確に取り上げられ、

論究がなされている。なかでも松井芳郎「国連における国際法の発展と

AA諸国」(一九七五年一二月号)は、AA諸国が独立し、国連加盟を達

成して、国連を中心とする国際舞台で一九七〇年代に入って影響力を行

使するようになった状況変化に着目している。本撰集収録の深津栄一「海

洋は管理できるか―海洋法論争の過去・現在・未来」(一九七三年一二月

号)は、第三次海洋法会議が開始される時点でAA諸国が中心のG

77が

なぜ根本的に海洋法を見直し、新しい条約を作成する会議を開催するこ

とになったのかを、過去、現在、そして未来にわたって見事に検討、整

理している。しかし新海洋法が決着する前に、七五年一〇月七日の国連

総会でエチェベリア=メキシコ大統領が二〇〇海里の「排他的経済水域」

の設定を宣言し、アメリカ、ソ連、EC諸国、カナダ、南アフリカ等が

追随し、日本も七七年七月一日に領海一二海里、漁業水域二〇〇海里を

施行している。

(5)世界経済の組織体系への挑戦とその改組

  世界経済の既存の組織体系である通貨・金融面のブレトン・ウッズ体

制と実物経済面のGATT体制への挑戦が、一九七〇年代に入って種々

展開された。

(4)

解説 1970 年代

  一九七一年八月一五日にリチャード・ニクソン米大統領が厳しいドル

防衛策を含む新経済政策を発表し、世界的に「ニクソン・ショック」を

生じさせた。まず金とドルの交換停止措置は、国際通貨基金(IMF)

体制の根幹であったドル本位制(金為替本位制)を崩壊させ、最終的に

はSDR本位制に移行させることとなった。

  同時に、これまでの固定為替相場制はこのショックを吸収するために、

主要国は一時的に変動相場制に移行した。同年一二月八日の先進一〇カ

国蔵相会議でドルの大幅切り下げが合意され(スミソニアン合意)、固定

相場制への復帰がなされたが、結局主要先進国は一九七三年始めまでに

は変動相場制へ移行し、現在もそれが持続している。『国際問題』では、

問題を先取りした形で七一年八月号で「世界の通貨問題」が取り上げら

れ、赤松要は「ドル過剰と金の廃貨」で問題所在を明確化し金廃貨の展

望を打ち出している。さらに七三年三月号の「国際通貨体制の新展開」

でフォローアップがなされている。

  そしてアメリカの国際収支の悪化に対応するために一〇%の輸入課徴

金の導入や海外援助の一〇%削減も打ち出され、GATT体制にも打撃

を与えた。GATTでも保護主義の台頭を巻き返すために、一九七三年

九月に東京で開催された閣僚会議で、関税一括引き下げの新たな東京ラ

ウンドの開始が決定されている。しかしその直後に第一次石油危機によ

る混乱が生じ、やっと七九年七月に妥結し、関税引き下げのみでなく、

諸協定についても合意が成立している。『国際問題』では、七九年一月

号の「国際経済体制の将来」で、全般的な検討がなされている。 (6)インフレの亢進とスタグフレーション

  一九七〇年代に入ると従来の経済学の常識が覆される深刻な事態が生

じている。インフレ率と失業率とはトレード・オフの関係にあり、イン

フレ率を下げようとすれば失業率は上ってしまうし、失業率を下げよう

とすればインフレ率は上ってしまうと考えられてきた。しかし七〇年代

になると、不況(stagnation)になってもインフレ率(inflation)は下が らず、新たなスタグフレーション(stagflation)といわれる現象が生じ、

さらに第一次石油危機により、この事態は一層深刻化し継続している。

賃金と物価との悪循環が根深く存在し、労使にインフレ心理が定着化し

て、経済の実態に新たな構造変化が定着しつつあることを示すものであ

ろう。  『

国際問題』一九七四年七月号では「国際問題としてのインフレ」が

取り上げられ、川口弘は「現代インフレーションの構造」を解明し、シ

ンポジーム「現代社会とインフレーション」で飯田経夫・高坂正堯・新

開陽一がそれぞれの自説を展開して興味深い。

(7)石油危機の進展と石油武器論

  一九七三年一〇月六日の第四次中東戦争の勃発を契機として、OAP

EC(アラブ石油輸出国機構)が原油の禁輸と供給制限を内容とする石

油戦略を発動し、それに呼応する形でOPEC(石油輸出国機構)が大

幅な原油価格の引き上げを行い、世界を実質的にも心理的にも第一次石

油危機の狂乱状態に落とし入れた。日米欧の主要先進国は七四年にはマ

イナス成長となり、インフレはさらに亢進し、七三年一〇月から七四年

一月までの三ヶ月のうちに原油価格も産油収入も四倍に上昇した。

(5)

  この第一次石油危機は、南側産油国の挑戦によって世界経済全体が決

定的に影響を受け動揺した初めての事例であり、南側の意気は大いに揚

がり、上記(3)で取り上げたように「NIEOの樹立に関する宣言」

と「行動計画」が一九七四年五月の国連特別総会で採択されている。一

時的には南側の国々で、特に石油を中心とする商品パワーの増大を背景

として、幻想が広く抱かれていたことは確かである。

  しかし、主要先進国は中長期的には転換・対応能力を発揮して、省エ

ネ特に省石油に努め、OPEC以外の地域での石油開発と代替エネル

ギーの開発を進め、結局持たざる途上国にしわ寄せは集中した。

  さらに一九七九年には第二次石油危機により原油価格は再び高騰した

が、第一次石油危機の学習効果と対応措置の整備により、冷静に対応し

た結果として、深刻なパニックの発生は回避されている。

  『国際問題』では、一九七四年九月号に小島清「石油危機と国際経済」

と七七年四月号に牛島俊明「原油値上げと世界経済への影響」の二論文

があったが、七八年一一月号の「石油危機以後五年」において、小峰隆

夫、船橋洋一、大畑弥七、小山茂樹がそれぞれ五年後の評価・まとめを

明快に行っている。

(8)技術革新と新しい技術理念・体系

  戦後第一世代の高度成長と相次ぐ技術革新の結果は、アポロの月面到

達でその頂点に達したが、その裏面でグローバル・イシューが深刻化し、

大量生産、大量消費、大量廃棄の二〇世紀文明への反省、問い直しが生

じ、新しい技術理念や体系が一九七〇年代には陸続して打ち出されるよ

うになっている。『国際問題』七九年九月号では「科学技術の周辺」が 取り上げられ、槌屋治紀「現代社会と技術の選択」で、現代技術は「資源の浪費」「生態環境の汚染」「格差の拡大」という問題で行き詰まりを

みせ、機械によって過剰に高速化し自動化していく傾向は、結局は失業

問題をもたらすことが指摘され、現代技術は社会的格差を拡大し、社会

の歪みをいやおうなく増大させる加速器となろうとしていると告発して

いる。そして現実に芽吹いてきている新しい科学・技術理念の事例を紹

介している。

  さらに、本撰集収録の斎藤一夫「『緑の革命』とは何か―農業技術

的側面」(一九七〇年五月号)は、途上国とりわけアジア諸国において、

一九六〇年代末に食糧問題について悲観論から楽観論へと決定的に転換

させた農業革命に着目し、その名に値するような持続性を持った歴史現

象に発展するものであるかどうか、そのためにはどうすべきかを実態に

即して見事に解明している。優れた新品種を実地に栽培して食糧増産の

効果をあげようとすれば、関連する数多くの近代的農業技術とこの技術

を媒介する有形・無形の資本が必要となる。したがって、新しい農業技

術の経済的・社会的意味を十分に理解・認識して総合的に対応し、究極

的には、この新技術が国内で再生産しうる自己のものとして国内に定着

させていくことこそが、志向されねばならないと結論している。

二―三.世界政治経済時代の到来―従来の政治・経済分離アプローチ

の崩壊

  世界政治経済時代の到来と言い立てられている現実展開が一九七〇年

代に入って明白となってきた。従来の政治・経済分離の二分法的アプロー

チにおいては、景気・貿易・通貨・為替・投資等の経済問題は、主とし

(6)

解説 1970 年代

て専門家に委ねて対応・処理されてきたのに対して、主要国の首脳達は、

安全保障問題や東西の対立・共存問題を専ら取り上げてきたが、このよ

うな分離が維持できなくなってきた。七五年から年一回定期的に開催さ

れるようになった先進国首脳会議(サミット)では、インフレ、不況、

国際通貨、貿易、石油エネルギー、南北問題等の経済問題が当初は主た

る対象となり、経済面でリーダー国となった日本が初回からメンバーと

して参加している。こうした事実展開が、決定的な変質を明示するもの

であろう。

(以上  深海記)

  このような政治・経済の二分法的アプローチが崩壊したことの結果、

日本外交が直面するようになった二つの新しい問題に鋭い分析を加えた

論文として高坂正堯「経済安全保障の意義と課題」(一九七八年四月号)

と山本正「民間国際交流の新しい意義と課題―交流の現場からの問題提

起」(一九七八年七月号)を本撰集に収録した。

  高坂によれば、自由貿易体制の発展によって、「自給自足」という言

葉とともにほとんど聞かれなくなった「経済安全保障」ということがふ

たたび問題にされるようになったのは、一九七〇年代に入るころからで

あり、資源問題を契機としてであった。七三年の「石油危機」が劇的な

形で資源不足への懸念をかきたてたが、文字どおりの資源有限時代が到

来したわけではないと冷静に説き、資源問題は、基本的に相互依存の枠

組みにおいて考察し対処できる、すなわち、相互の利益になる国際経済

秩序の維持の問題だと言う。しかし、自由貿易体制の維持・運営のよう

な「公共財」の創出は、アメリカでさえ一手に引き受けられない難事業 であり、日本のような総合的安全保障政策の能力に限界のある国には手に余ることをよく弁えて、経済的利益の共通性だけに頼るのではなく、

文化や政治を含む高次の共同体を日米間に作り得るかどうか(その際

もっとも基本的なものは安全保障をともにするという意識である)が日本の

経済安全保障にとって決定的に重要だと結論づけている。

  他方、山本正は、これまでのべてきたような新しい国際政治・経済シ

ステムの形成に向かって世界が模索するなかにあって、経済大国として

国際的影響力を増しつつある日本により大きな役割を期待する声が海外

で高まってきているが、それに日本人として的確にこたえていないので

はないかと、国際交流センターの理事長としての一〇年を超える民間交

流の豊富な経験に基づきながら、「相互依存性をますます増大しつつあ

る国際社会のなかで、経済大国であるわが国が、平和国家として主体的

な行動をしていくためには、諸外国との相互理解と協力関係を築き上げ

ていくことが最大の条件」のはずだが、この「国家的課題」に取り組む

ためのわが国の国際交流推進のための体制はお寒いかぎりだと警鐘を鳴

らし、幾つかの貴重な示唆を行っている。三〇年後の今日、こうした問

題は改善どころか、ますますなおざりになっていはしないだろうか。

二―四.中国の核武装

  これまで取り上げてきたのは、国際経済における相互依存の深化がも

たらす様々な問題であったが、これとは全く異質の一つの問題が、この

時期の国際関係に付け加わった。中国の核武装がそれである。一九七〇

年代の『国際問題』についての論評の最後に、この問題に触れておきたい。

  中国は第一回の核実験を一九六四年一〇月に実施して以後、七〇年

(7)

一〇月までに一一回に及ぶ実験を行い、米ソ、英仏に次いで核武装国の

仲間入りをした。アジアに核武装国が登場したことを告げるこの事件は、

七〇年代以降の核不拡散条約(NPT)体制の成立とその展開に大きな

影響を与えたし、近隣の非核保有国である日本の安全保障政策や日米軍

事関係にも影響するところが大きかった。本撰集に収録した関野英夫「中

国の核戦略と軍備管理」(一九七一年七月号)は、軍事専門家の視点から、

この問題を分析している。七〇年代末から八〇年代には、対米報復力を

持ち、ある程度の相互抑止関係がアメリカやソ連との間に成立するとす

れば中国の核戦略は第二段階に入るが、そこに行くまでの第一段階(対

周辺報復力を手にしている状態)でも、アメリカが日本などの同盟国を守

ることを目的として核政策を実施するのであれば、中国の十数基の中距

離核で圧倒的なアメリカの戦略核を十分に抑止できるという判断が示さ

れている。また、核不拡散や核軍縮との関連では、非核国に対する有効

な保障を与えていないというNPTの欠点が、中国の核武装化によって

露呈したと指摘している。核なき世界が語られるようになっている二一

世紀の今日、日本の核政策のありかたに衝撃を与えたこの事件と、それ

への当時の日本の専門家の反応を振り返ってみる上で、意味のある論文

として本撰集に収録した。

(以上  渡邉記)

Referensi

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3 はじめに 現在、ニート問題や大学生のアパシーなど様々な青年期の問題が指摘されている。毎日 新聞(2009)では、国が公表した 2008 年の学生・生徒の自殺者数は 972 人で、1978 年の 調査以来過去最多であることを報告している。このような問題に対して、できることの一 つとして、個人個人の強い心を育てることが考えられる。山本(2009)はスポーツが、レ