日本国際問題研究所が設立された一九六〇年とその後の一〇年間は、
世界の政治情勢においても、また日本の外交においても、きわめて特徴
のある時期であった。
一.一九六〇年代の世界情勢
一九六〇年代は、世界情勢の観点で言えば、大きな状況としては、
四〇年代末以来の東西冷戦構造が厳然と確立しており、その中で、キュー
バ危機(一九六二年)という米ソ間の熱核戦争の瀬戸際まで行くとい
う危機的状況が発生した(石塚博「キューバ危機とその波紋」一九六二年
一二月号)。またそれが契機となって、ワシントン=モスクワ間のホッ
ト・ライン設置、部分的核実験停止条約の締結(一九六三年)、核不拡
散条約の締結(一九六八年)(前田寿「核拡散防止条約の意義」一九六七年
五月号、市岡克博「核拡散防止問題の経緯と現状」同)、戦略兵器制限交渉
開始(一九六九年)といった米ソ間の緊張緩和の動きも見られた。さらに、
五〇年代半ばからくすぶっていた中ソ間のイデオロギー対立が六〇年代
に入って顕在化し(家田重蔵「中ソ論争とモスクワ声明」一九六一年一月号)、
六三年頃から、中国はソ連指導部の対米政策を「修正主義」として公然 と批判し、また、ソ連は中国指導部を「極左冒険主義」と非難し、冷戦構造の一方の極であった東側陣営に大きな亀裂が生じた。他方で、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)、第二次中東戦争(一九五六年)と続いた冷戦
の中での「熱い戦争」が、五〇年代後半以降にはインドシナ半島に飛び
火し、カンボジア、ラオス、ベトナムなどで、イデオロギーがからむ内
戦が激化し、とくにベトナムではアメリカが六〇年代に入って次第に軍
事的関与を深めるようになった(たとえば、丸山静雄「アメリカと南ベト
ナム」一九六三年一一月号)。
また、一九六〇年の国際連合総会による「植民地独立付与宣言」採択
(一九六〇年)を追い風に、数世紀にわたって西欧列強の植民地支配の
下にあったアフリカやアジアの人民が独立闘争を勝ち取って政治的独立
を達成し、次々と国連に加盟するようになったのも、六〇年代であった。
その結果、六四年の第一次国連貿易開発会議(UNCTAD)において、
早くも新興独立諸国を中心に七七カ国グループ(G
77)が結成され、そ
れまで西欧の先進工業国が支配的地位を占めていた国連総会において圧
倒的な発言権を手にし、その後顕著になる、東西対立とは別軸の南北対
立の構図の端緒が生まれたのもこの頃であった(林雄二郎「日本と南北
― 解説 一九六〇年代 ―
横 田 洋 三
解説 1960 年代
問題に関する一考察」一九六四年七月号、西野照太郎「AA諸国の動向を展
望する―その現実を正視するために」一九六五年九月号)。
二.一九六〇年代の日本の外交
日本に目を転じてみると、一九六〇年代に入る少し前の五六年に、日
本は念願の国連加盟を達成し、また、ソ連との間では国交正常化交渉が
進展し、領土問題の決着がつかなかったために平和条約締結にまでは至
らなかったが、日ソ共同宣言の署名(一九五六年)により、両国間の戦
争状態は終結した。さらに、六〇年には片務的であった旧日米安全保障
条約が改定され、より双務的な内容の日米関係が設定された(神川彦松
「安保改定後のわが国際的地位」一九六〇年六月号)。そして、日本は、敗
戦、占領、復興という日本独自の外交不在の時期から脱却し、六〇年代
には高度成長によって急速に巨大化した経済力を背景に、戦後賠償から
途上国開発援助へと、積極的な援助外交を展開するようになった。他
方、六五年には、懸案であった韓国との間に日韓基本条約を中心とする
一連の二国間協定(漁業に関しては和田正明「日韓漁業交渉の経過と問題点」
一九六五年五月号、経済協力に関しては仁尾一郎「日韓経済協力とその問題点」
同)が結ばれ、戦後ぎくしゃくし続けてきた日韓関係を一応正常化路線
に乗せることに成功した。
日本はまた、一九六三年にはガット一一条国となって原則として輸入
制限ができなくなり、また、国際通貨基金(IMF)の為替自由化義務
が課される八条国に移行し、さらには、先進国のクラブと言われた経済
協力開発機構(OECD)への加盟が認められ、経済先進国としての地
位が国際的に公認された。この経済力を背景に、日本の国際経済金融機 構(IMF、世界銀行、ガットなど)における発言権は、一挙に増大した
(河合俊三「東京IMF総会の経緯と成果」一九六四年一〇月号)。
このように、一九六〇年代は、日本が、戦後復興というそれまでの内
政重視の政策から目を外に向け、新たに手にした経済力を武器に、独自
の外交を意識的に展開し始めた時期として位置づけることができる。そ
の場合によりどころとしたのが、五〇年代末に打ち出されたいわゆる「外
交三原則」(国連中心主義、アジア重視、西側陣営との連帯)であった。
三.日本外交の展開に関する論稿
本撰集に収録された一九六〇年代の『国際問題』誌に掲載された論稿
七編は、いずれも、上記のような国際政治および日本外交の時代的背景
を反映ないし特徴づける性格を持っているものである。
なかでも、池田勇人の「特別寄稿―『外交づいた』ということ」(一九六三
年一一月号)は、短い随想的な文章であるが、一九四九年から一一年間
大蔵大臣を務め、六〇年から六四年まで総理大臣として、日本の戦後経
済復興から高度成長期まで、とくに経済政策の面で指導的役割を果たし
た人物による「日本外交論」として、特別の意義がある。池田は、サン
フランシスコ講和会議(一九五一年)、IMF世界銀行のメキシコ・シティ
総会(一九五二年)、コロンボ・プランの第一〇回シアトル総会(一九五八
年)に日本政府代表として出席するなど、戦後の日本外交の重要な場面
に立ち会ってきているが、本来は、大蔵官僚として、経済通の政治家で
あった。その池田が、この論稿において、経済と外交には共通するもの
があるとして、その共通項に「正確さ」、「正直」、「良識」の三つをあげ、
それならば自分にも外交ができると納得したと書いている。そして、「経
済の成長と繁栄とがあって初めて、日本は自主的な外交ができることを
痛感し」た、と述懐している。池田のような経歴と実績をもった政治家
による実体験から得られた教訓として興味深いが、同時にそれは、六〇
年代に始まる日本の独自外交が、政治力よりは経済力を背景に進められ
るようになったことと符合する。
たとえば、本撰集に収録されている林三郎の「現段階のアジアと日本
外交の目標」(一九六七年三月)は、ヨーロッパでは「多少の波瀾こそあ
れ、東西は次第に接近し、対立は緩和し、解消する方向に向かっている」
が、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジアなど「アジア―というより
も中国の周辺地区において―緊張は衰えるどころか、ますます高まる傾
向にある」と分析する。そしてその理由としては、中国の膨張主義とそ
れを抑えようとするアメリカの対立があるが、日本外交の役割としては、
「米中の橋渡し」となる実力はないので、「東南アジアの社会不安の軽減、
そのための生活水準の向上に努力を集中」すべきであるとして、日本の
適切な開発援助の実施を説く。つまり、政治力よりは経済力を日本の外
交に生かせという論調である。
本撰集にある田中直吉の「二つの朝鮮と日韓正常化」(一九六五年五月
号)は、当時日本において強い反対論のあった日韓交渉について、その
反対論の中心にある「南北朝鮮の統一を阻害する」という主張に対して、
感情論ではなく冷静な世界情勢分析に基づいて、二つの朝鮮の存在は、
「東西冷戦の産物である」と結論づけ、日韓交渉による統一阻害という
主張に反論する。そして、南北朝鮮のうちなぜ北ではなく南の韓国を選
ぶのかという問いかけに対しては、「国連が韓国政府を朝鮮における唯
一の合法政府であると認定し、北(朝)鮮政府を非合法政府とみなして いるのみならず、朝鮮戦争に際して、国連が北(朝)鮮を侵略者として
の刻印を押したこと」、および、国際社会において韓国を承認する国の
方が北朝鮮を承認する国よりも三倍以上も多いことなどをあげて、答え
ている。
同じく本撰集で取り上げた高野雄一の「戦後日本外交と領土問題」
(一九六七年一〇月号)は、第二次世界大戦の敗戦により国土を大幅に縮
小させられた日本の領土問題を扱う。高野は、すでに『国際問題』誌の
四五号(一九六三年一二月号)から四八号(一九六四年三月号)まで四回
にわたって日本の領土問題を扱う論文を執筆しており、本論文は、その
一連の論稿では正面から扱わなかった「沖縄」問題を取り上げている。
周知の通り、第二次世界大戦後の沖縄、小笠原の地位に関しては、平和
条約第三条が国連の信託統治制度の下に置く可能性を示唆していたが、
高野はこれを、東西対立の構図の中で生まれた「実質的にピッタリしな
いし、政治的なゆがみを感じさせる」規定と批判する。そして、信託統
治を経ない沖縄返還への展望を行っている。冷戦構造という当時の日本
にとっては動かしがたい客観情勢の中で、領土問題という国家にとって
枢要の課題解決に向けて、独自の外交を展開すべきであると、国際法の
分析を通して論じている。
四.アジア、アフリカの地域主義と政治的、経済的発展に関する論稿
一九六〇年代は、アジア、アフリカの植民地が独立を達成し、結束し
てそれまでの大国支配に挑戦するようになった時期でもある(たとえば、
蝋山芳郎「客体から主役へ―AA諸国と国際政治」一九六四年五月号)。本
撰集に収録されている入江啓四郎の「AA諸国の興起と結集」(一九六五
解説 1960 年代
年九月号)は、第二次世界大戦前に欧米列強の植民地支配のもとにあっ
たアジア、アフリカ、アラブ諸国が、第二次世界大戦後独立を達成する
だけでなく、地理的、政治的、経済的、宗教的共通性を基盤として結集
し、国際政治の舞台に主役として登場してきた経緯を、実証的に論じて
いる。その場合、諸国の結集の機会を提供した国連の役割に留意すると
ともに、バンドン(一九五五年)とアルジェ(一九六五年)の二次にわ
たるAA諸国会議を比較し、その間の一〇年間の地域主義の急速な発展
に注目する。それまでの国連を中心とする普遍主義の進展と、それにも
かかわらず台頭してきた地域主義の力強さの背景を知ることのできる論
文である。
一方、本撰集収録の原覺天による「アジア経済の近代化とその戦略原
理」(一九六八年七月号)は、ラウル・プレビッシュ国連貿易開発会議(U
NCTAD)事務局長(当時)が一九六八年の第二回UNCTAD会議
に先立って発表した「新しい開発戦略をもとめて」と題する報告書に盛
られている開発戦略が、どの程度アジア経済の近代化に適用できるかを
検討している。プレビッシュは、主にラテン・アメリカの経験をもとに
「発展のためには構造と態度の変革が必要である」という主張を展開し
ているが、原はこの理論がアジアにも妥当するかどうかを検証する。原
は「アジアの人たちは一般に労働意欲に乏しく、そのうえ創意に欠けて
いるので労働の生産性がひじょうに低いとよくいわれる」が、それは「(ア
ジアの)民族の本質にもとづくものではな」く、むしろ、「社会的後進
性」にその原因があると論ずる。そして、具体的に、アジアの中でも経
済成長率の高い台湾、タイ、マレーシアと、成長率が低いインド、ビル
マ、セイロン(現スリランカ)、インドネシア、フィリピンとを比較し、 後者の重化学工業や大規模開発中心の国家開発政策よりは、前者の農業や私企業中心の民間重視の開発戦略の方が、アジアの実情に対応して発展の可能性が高いと結論づける。
五.国連の新たな活動に関する論稿
一九六〇年代は、日本が国連加盟を達成し、「国連中心主義」を外交
の三本柱の一つに掲げたこともあり、『国際問題』誌においても国連に
焦点をあてた特集が組まれた。すなわち、六一年四月号「法的に見た中
共の国連加盟」、同年五月号「国連の任務と改組問題」、同年一〇月号「ブ
ロック外交と国連」、六二年九月号「国連をめぐる諸問題」、六五年三月
号「転期にたつ国連」、六六年五月号「平和の維持と国連の機能」、六八
年一〇月号「国際連合の当面する課題」である。
とくに一九六〇年代は国連において、朝鮮国連軍型の大規模な制裁軍
ではなく、小規模で休戦監視型の平和維持活動(国際警察活動、PKO)
が注目されるようになった時期であり、そのこととの関連で、六六年五
月号は「平和の維持と国連の機能」という特集を組み、入江啓四郎「安
全保障理事会と総会」、内田久司「共産圏諸国と国連の平和維持活動」、
久住忠男「国連軍構想と軍縮」、吉田長雄「国連軍と日本」、高橋悠「国
連と米州機構」などの論文を掲載した。
その中でもとくに注目されるのは、本撰集に収録されている香西茂の
「国連の平和維持活動と国連軍」(一九六六年五月号)である。日本にお
ける国連研究、とくに平和維持活動(PKO)研究の草分けであり、かつ、
第一人者である著者が、まだ学界や実務界において国連の強制軍と平和
維持活動(PKO)との区別があまり明確に認識されておらず、一部に
はその両者を混同して「国連のPKO活動は憲章違反」との主張さえ有
力に展開されていた時期に、違反国に対する軍事的強制活動とは一線を
画する国連の防止活動としてのPKOを概念化し、その意義を評価した
先駆的論文である。香西がこの論文で、スエズ国連緊急軍(UNEF)、
コンゴ国連軍(ONUC)、西イリアン駐留国連保安軍(UNSF)、キ
プロス駐留国連平和維持軍(UNFICYP)などの国連PKOの具体
例の分析を通して定式化した、国連PKOの特徴、すなわち、イ同意原
則、ロ政治的中立性、ハ自衛目的のためだけの武器使用、それに、ニ原
則として中小国の兵力の利用は、その後のPKO研究の基本的概念枠組
み(伝統的PKOの原則)となったという点でも、価値のある論文である。