• Tidak ada hasil yang ditemukan

第二章   結核と薬

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2023

Membagikan "第二章   結核と薬"

Copied!
16
0
0

Teks penuh

(1)

ゆまに書房、一九九三年

  高19

野義夫『朝日新聞<復刻版>明治編一二五

日本図書センター、一九九七年、一二八頁 明治三十六年八月』、

  吉野孝雄20

『宮武外骨此中にあり十

滑稽新聞 : 完全版五』

第一〇〇号、ゆまに書房、一九九四年、四〇二頁

  福田眞人『結核の文化史』21

、名古屋大学出版会、一九九五年

  福22

田眞人『結核という文化

二〇〇一年 病の比較文化史』、中央公論新社、

  常23

石敬一『結核と日本人―医療政策を検証する』、岩波書店、二〇一一年

  福田眞人『結核の文化史』24

、名古屋大学出版会、一九九五年、五七頁

  久25

保田正文『人物叢書

新装版

正岡子規』、吉川弘文館、一九八六年

  福26

田眞人『結核の文化史』二三五頁、名古屋大学出版会、一九九五年

  大伏肇27

『資料が語る

近代日本広告史』

、東京堂出版、一九九〇年

  吉野孝雄28

『宮武外骨此中にあり七

滑稽新聞 : 完全版二』

第二十四号、ゆまに書房、一九九三年、二九頁

  石29

川彦太『明治大正昭和

一九八九年、一九八頁 大阪人名録』上巻、日本図書センター、

  野30

口茂平『肺病新論』(第二刷)「緒言」、立志堂野口合名会社、一九〇一年 

  大阪大学『大阪大学二十五年誌』31

、天業社、一九五六年

  日32

本学士院日本科学史刊行会『明治前日本薬物学史

井上書店、一九七八年 増訂復刻版』、

  井土武久『大阪商工会議所百年史』33

、大阪商工会議所、一九七九年

  星野高徳「明治期大阪市における塵芥処理市営化―大阪市会におけ34

る衛生問題と財政問題への対応を中心に―」、『三田商学研究』第五四巻

第五号、慶應義塾大学出版会、二〇一一年

  天35

保山起業組「天保山私立遊園地略図」(大阪歴史博物館所蔵):大阪市港区ホームページ「港区のプロフィール・港区の歴史・歴史年表」参照〈http://www.city.osaka.lg.jp/minato/cmsfiles/contents/0000341/341901/tenpozanyuenchi2.jpg〉

  大阪市港区ホームページ「港区のプロフィール・港区の歴史・歴史36

年表」〈http://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000341901.html〉

  前掲注37

35「天保山私立遊園地略図」

  前掲注38

30『肺病新論』

(第二刷)

  羽39

島知之『新聞広告美術大系【明治編】第一巻

空社、一九九九年、二七八頁 医薬・化粧品』、大

  右同40

  二五六頁

  前掲注41

30『肺病新論』(第二刷)「病床日誌」

  前42

掲注

39『新聞広告美術大系【明治編】第一巻

一二四頁 医薬・化粧品』、

  藤田幸男『新聞広告史百話』43

、新泉社、一九七一年

  右同44

  前掲注45

30『肺病新論』

(第二刷)「緒言」

  前46

掲注

39『新聞広告美術大系【明治編】第一巻

一二四頁 医薬・化粧品』、

  前掲注47

30『肺病新論』(第二刷)「肺病新論」

  前48

掲注

39『新聞広告美術大系【明治編】第一巻

一二四頁 医薬・化粧品』、

  前掲注49

30『肺病新論』(第二刷)「藥と信用」

  前50

掲注

39『新聞広告美術大系【明治編】第一巻

一二四頁 医薬・化粧品』、

  吉51

野孝雄『宮武外骨此中にあり六

滑稽新聞 ゆまに書房、一九九三年、五二七頁 : 完全版一』第一九号、

  吉52

野孝雄『宮武外骨此中にあり八

滑稽新聞 ゆまに書房、一九九三年、一一一頁 : 完全版三』第四三号、

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

(2)

時日を費し知ず〳〵の間に手後れとなり非命の最後を遂ぐる者ある由なれば同病諸君十分御注意あらん事を

(50)

  新聞の広告などで宣伝されている民間療法の薬には、怪しいものが多

い為、注意する必要があると喚起している。結核患者の症状が短期間で完治した、又は何時のものか分からない全快復者の礼状を載せた広告が、世間に横行していることに苦言を呈している。しかし、ここで言及している広告手法は、共に野口自身の著作物に書かれている文と類似であり、自分で自分の広告を怪しげなものと紹介しているような形となってしまっている。

 

おわりに

て見てきた。   「肺労散」を巡る宮武と野口の主張について、お互いの出版物を用い   これほどまでに宮武が野口を筆誅するのは、私怨の可能性も考えられ

るが、次の文章を見るとそれは間違いであることが分かる。(前略)吾人が詐欺師を筆誅するは、詐欺師其人を憎むにあらず、詐欺其物を社会に跋扈するを畏るゝ也(略)吾人が一個の詐欺師を誅伐するは千百の同類をして反省改悟せしめんが爲也

(51)

詐欺を行う人物を憎んでいるのではなく、詐欺行為を行うことを憎んでいることが分かる。野口がどれだけ薬学に精通していても、予防環境を整えていても、宮武には、大きく宣伝した「肺労散」の効能結果が全てであった。次の文章も見てみたい。

    野口茂平に告ぐ余は汝に一言の忠告を與へんと欲す、汝が發賣する所の肺労散のイカサマ薬なる事は證據によつて世人の知る所なり、而して其イカサマ薬の此社會に存在するが爲め、如何程の害があるかを見るに甚だ多大なり、今其重なるものを擧げんに㊀肺労散を實効ある賣薬と信じて購求する地方人士の金錢上の損 害少からず㊁又實効ある賣薬と信じて服用するが爲めに治療の手後れとなりて死去する肺病患者あり(後略)

(52)

薬の効能の有無だけでなく、それに伴う影響や問題にも言及し、この後には猛省を促す文章が続いている。 

  では、本当に野口は宮武が言う「詐欺師」であったのだろうか。この

点について重要なのは「肺労散」が本当に効能の無い薬であったのかという点である。効能結果に関して、死亡した者もいる等の結果は既述したが、宮武が肺労散の実情を取材した結果を参考に詳しく見ていきたい。宮武が取材を行ったのは、『肺病新論』に礼状を送ってきた中で住所が判明している四十名である。結果、返信が三十一名、うち死亡しなかったものが三名のみと『滑稽新聞』に大きく見出しが付けられ、それぞれ手紙の内容と共に掲載された。内容を見てみると、「肺労散」を用いても死亡したという手紙もあるなか、一時的に快復がみられた者、自己判断で服用を止めた者、他の薬と併用した為完治のきっかけが「肺労散」であるか分からない者等、全く効能が無いとは言い切れない記述も少なからず存在している。薬の相性や、福田氏の言うプラセボ問題も考えられるので、効果の有無について、この結果のみで判断するのは難しい。

  このように「肺労散」の効果の実情が明瞭でないこと、大阪の環境配

慮、療法施設造営等の実績から、発言には少なからず怪しいものも存在してはいるが、野口が宮武の定義する効能の無い薬を売り捌き、金儲けをする「詐欺師」であるのか、またこれほどまでに筆誅されるべき人物であったのかについて、今回の研究では断定し難い。

  当時そういった薬が蔓延しているのであれ

ば、他の売薬人も同様に執拗に筆誅されるべきである。実際、他の売薬人に関しても繰り返しの筆誅は行われていたが、売薬人において野口のように、連載を組まれてまで筆誅されたものはいない。そのきっかけとなったのは野口が権力者であり、宮武との間に不当な裁判を起こしていることにあるのではないだろうか。両者に何らかの関係が無ければ、誹毀罪事件はあのような裁判結果にはならなかっただろう。民衆の信頼を受けるべき議員が、権力を不当に行使していることに攻撃の矛先は向かった。そして、この事件に

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

関連し、裁判官も密かに筆誅され続けていたのではないだろうか。誹毀罪事件をきっかけに始まった野口のさらし首は、掲載され続けることで、権力に屈した裁判官も同罪だと訴え続けた。これ以上不当な裁判は行わず、真っ当な判決を下すようにと、宮武なりの隠された攻撃とメッセージが込められていたのではないだろうか。

  最後に、

何故宮武は、野口を『滑稽新聞』に取り上げたのであろうか。この意味を考えると実に宮武らしいので考えを述べておきたい。この記事の中でその名の通り滑稽なのは、筆誅対象になった野口自身であり、『滑稽新聞』の読者であるのだ。

  自分に医学能力があると信じて疑わず、商売を続ける。しかし宮武や

民衆の目に映るのは、世間に多大な迷惑を掛けているにも構わず、自分は正しいと信じ、受け手側の迷惑に気付くことが出来ないでいる売薬人である。このように一人で空回りしているような姿は、滑稽に映ったのではないだろうか。宮武は、野口自身が信じているものはとんだ偽物で、そんな偽物を信じ続ける野口は滑稽だと作品を通して紹介した。それと同時に、野口に自分の滑稽さを気付かせるように書かれていた可能性も考えられる。滑稽なものを面白おかしく紹介するから、野口は顔無しになったり、野口茂平を略して野蜘蛛と称し蜘蛛の姿に描かれたりする。宮武の思考を読み取れた読者は楽しく読んだことであろうし、また、現在私たちが読んでも十分に楽しむことができる。

  そして対象は野口だけでなく受け手側の民衆にも向けられる。これだ

け『滑稽新聞』にて注意喚起をしているにも関わらず野口を信じ、薬を買う者が後を絶たなかった。二年にも及ぶ攻撃期間がそれを証明している。読者が『滑稽新聞』を信じ、すぐに購入を止めたのならば、ここまで長期間には及ばなかっただろう。だからこそこのような滑稽な野口を信じる読者である民衆も、滑稽であるのに違いない。読者までもが宮武にとっては、野口同様滑稽に見えており、対象がどのような人物であろうとその手を緩めることはなかったのである。

〈注釈〉

  厚1

生労働省HP〈http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth7.html〉

  吉野孝雄2

『宮武外骨

予は危険人物なり

宮武外骨自叙伝』

、筑摩書房、一九八五年

  吉3

野孝雄『歴史文化ライブラリー宮武外骨

川弘文館、二〇〇〇年 民権へのこだわり』、吉

  吉野孝雄4

『過激にして愛嬌あり「滑稽新聞」と宮武外骨』、筑摩書房、一九八三年

  木本至『評傳5

宮武外骨』

、社会思想社、一九八四年

  吉野孝雄6

『宮武外骨此中にあり一

スコブル上』

第二号、ゆまに書房、一九九三年、九十一頁

  高7

野義夫『朝日新聞<復刻版>明治編一八五

日本図書センター、二〇〇〇年、二二一頁 明治四十一年八月』、

  吉野孝雄8

『宮武外骨

予は危険人物なり

宮武外骨自叙伝』

、筑摩書房、一九八五年

  右同9

  吉野孝雄10

『過激にして愛嬌あり「滑稽新聞」と宮武外骨』、筑摩書房、一九八三年

  赤瀬川原平『学術小説外骨という人がいた!』11

、白水社、一九八五年、一四七~一五二頁

  木本至『評傳12

宮武外骨』

、社会思想社、一九八四年

  吉野孝雄『宮武外骨此中にあり六13

滑稽新聞 : 完全版一』第十号、

ゆまに書房、一九九三年、二七二頁

  吉野孝雄14

『宮武外骨此中にあり七

滑稽新聞 : 完全版二』

第二十四号、ゆまに書房、一九九三年、一一一頁

  吉15

野孝雄『宮武外骨此中にあり六

滑稽新聞 ゆまに書房、一九九三年、四一四頁 : 完全版一』第十五号、

  吉野孝雄16

『宮武外骨此中にあり七

滑稽新聞 : 完全版二』

第二十一号、ゆまに書房、一九九三年、三十頁

  右同17

  三十八号、五二三頁

  吉野孝雄18

『宮武外骨此中にあり八

滑稽新聞 : 完全版三』

第四十八号、

(3)

時日を費し知ず〳〵の間に手後れとなり非命の最後を遂ぐる者ある由なれば同病諸君十分御注意あらん事を

(50)

  新聞の広告などで宣伝されている民間療法の薬には、怪しいものが多

い為、注意する必要があると喚起している。結核患者の症状が短期間で完治した、又は何時のものか分からない全快復者の礼状を載せた広告が、世間に横行していることに苦言を呈している。しかし、ここで言及している広告手法は、共に野口自身の著作物に書かれている文と類似であり、自分で自分の広告を怪しげなものと紹介しているような形となってしまっている。

 

おわりに

て見てきた。   「肺労散」を巡る宮武と野口の主張について、お互いの出版物を用い   これほどまでに宮武が野口を筆誅するのは、私怨の可能性も考えられ

るが、次の文章を見るとそれは間違いであることが分かる。(前略)吾人が詐欺師を筆誅するは、詐欺師其人を憎むにあらず、詐欺其物を社会に跋扈するを畏るゝ也(略)吾人が一個の詐欺師を誅伐するは千百の同類をして反省改悟せしめんが爲也

(51)

詐欺を行う人物を憎んでいるのではなく、詐欺行為を行うことを憎んでいることが分かる。野口がどれだけ薬学に精通していても、予防環境を整えていても、宮武には、大きく宣伝した「肺労散」の効能結果が全てであった。次の文章も見てみたい。

    野口茂平に告ぐ余は汝に一言の忠告を與へんと欲す、汝が發賣する所の肺労散のイカサマ薬なる事は證據によつて世人の知る所なり、而して其イカサマ薬の此社會に存在するが爲め、如何程の害があるかを見るに甚だ多大なり、今其重なるものを擧げんに㊀肺労散を實効ある賣薬と信じて購求する地方人士の金錢上の損 害少からず㊁又實効ある賣薬と信じて服用するが爲めに治療の手後れとなりて死去する肺病患者あり(後略)

(52)

薬の効能の有無だけでなく、それに伴う影響や問題にも言及し、この後には猛省を促す文章が続いている。 

  では、本当に野口は宮武が言う「詐欺師」であったのだろうか。この

点について重要なのは「肺労散」が本当に効能の無い薬であったのかという点である。効能結果に関して、死亡した者もいる等の結果は既述したが、宮武が肺労散の実情を取材した結果を参考に詳しく見ていきたい。宮武が取材を行ったのは、『肺病新論』に礼状を送ってきた中で住所が判明している四十名である。結果、返信が三十一名、うち死亡しなかったものが三名のみと『滑稽新聞』に大きく見出しが付けられ、それぞれ手紙の内容と共に掲載された。内容を見てみると、「肺労散」を用いても死亡したという手紙もあるなか、一時的に快復がみられた者、自己判断で服用を止めた者、他の薬と併用した為完治のきっかけが「肺労散」であるか分からない者等、全く効能が無いとは言い切れない記述も少なからず存在している。薬の相性や、福田氏の言うプラセボ問題も考えられるので、効果の有無について、この結果のみで判断するのは難しい。

  このように「肺労散」の効果の実情が明瞭でないこと、大阪の環境配

慮、療法施設造営等の実績から、発言には少なからず怪しいものも存在してはいるが、野口が宮武の定義する効能の無い薬を売り捌き、金儲けをする「詐欺師」であるのか、またこれほどまでに筆誅されるべき人物であったのかについて、今回の研究では断定し難い。

  当時そういった薬が蔓延しているのであれ

ば、他の売薬人も同様に執拗に筆誅されるべきである。実際、他の売薬人に関しても繰り返しの筆誅は行われていたが、売薬人において野口のように、連載を組まれてまで筆誅されたものはいない。そのきっかけとなったのは野口が権力者であり、宮武との間に不当な裁判を起こしていることにあるのではないだろうか。両者に何らかの関係が無ければ、誹毀罪事件はあのような裁判結果にはならなかっただろう。民衆の信頼を受けるべき議員が、権力を不当に行使していることに攻撃の矛先は向かった。そして、この事件に

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

関連し、裁判官も密かに筆誅され続けていたのではないだろうか。誹毀罪事件をきっかけに始まった野口のさらし首は、掲載され続けることで、権力に屈した裁判官も同罪だと訴え続けた。これ以上不当な裁判は行わず、真っ当な判決を下すようにと、宮武なりの隠された攻撃とメッセージが込められていたのではないだろうか。

  最後に、

何故宮武は、野口を『滑稽新聞』に取り上げたのであろうか。この意味を考えると実に宮武らしいので考えを述べておきたい。この記事の中でその名の通り滑稽なのは、筆誅対象になった野口自身であり、『滑稽新聞』の読者であるのだ。

  自分に医学能力があると信じて疑わず、商売を続ける。しかし宮武や

民衆の目に映るのは、世間に多大な迷惑を掛けているにも構わず、自分は正しいと信じ、受け手側の迷惑に気付くことが出来ないでいる売薬人である。このように一人で空回りしているような姿は、滑稽に映ったのではないだろうか。宮武は、野口自身が信じているものはとんだ偽物で、そんな偽物を信じ続ける野口は滑稽だと作品を通して紹介した。それと同時に、野口に自分の滑稽さを気付かせるように書かれていた可能性も考えられる。滑稽なものを面白おかしく紹介するから、野口は顔無しになったり、野口茂平を略して野蜘蛛と称し蜘蛛の姿に描かれたりする。宮武の思考を読み取れた読者は楽しく読んだことであろうし、また、現在私たちが読んでも十分に楽しむことができる。

  そして対象は野口だけでなく受け手側の民衆にも向けられる。これだ

け『滑稽新聞』にて注意喚起をしているにも関わらず野口を信じ、薬を買う者が後を絶たなかった。二年にも及ぶ攻撃期間がそれを証明している。読者が『滑稽新聞』を信じ、すぐに購入を止めたのならば、ここまで長期間には及ばなかっただろう。だからこそこのような滑稽な野口を信じる読者である民衆も、滑稽であるのに違いない。読者までもが宮武にとっては、野口同様滑稽に見えており、対象がどのような人物であろうとその手を緩めることはなかったのである。

〈注釈〉

  厚1

生労働省HP〈http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth7.html〉

  吉野孝雄2

『宮武外骨

予は危険人物なり

宮武外骨自叙伝』

、筑摩書房、一九八五年

  吉3

野孝雄『歴史文化ライブラリー宮武外骨

川弘文館、二〇〇〇年 民権へのこだわり』、吉

  吉野孝雄4

『過激にして愛嬌あり「滑稽新聞」と宮武外骨』、筑摩書房、一九八三年

  木本至『評傳5

宮武外骨』

、社会思想社、一九八四年

  吉野孝雄6

『宮武外骨此中にあり一

スコブル上』

第二号、ゆまに書房、一九九三年、九十一頁

  高7

野義夫『朝日新聞<復刻版>明治編一八五

日本図書センター、二〇〇〇年、二二一頁 明治四十一年八月』、

  吉野孝雄8

『宮武外骨

予は危険人物なり

宮武外骨自叙伝』

、筑摩書房、一九八五年

  右同9

  吉野孝雄10

『過激にして愛嬌あり「滑稽新聞」と宮武外骨』、筑摩書房、一九八三年

  赤瀬川原平『学術小説外骨という人がいた!』11

、白水社、一九八五年、一四七~一五二頁

  木本至『評傳12

宮武外骨』

、社会思想社、一九八四年

  吉野孝雄『宮武外骨此中にあり六13

滑稽新聞 : 完全版一』第十号、

ゆまに書房、一九九三年、二七二頁

  吉野孝雄14

『宮武外骨此中にあり七

滑稽新聞 : 完全版二』

第二十四号、ゆまに書房、一九九三年、一一一頁

  吉15

野孝雄『宮武外骨此中にあり六

滑稽新聞 ゆまに書房、一九九三年、四一四頁 : 完全版一』第十五号、

  吉野孝雄16

『宮武外骨此中にあり七

滑稽新聞 : 完全版二』

第二十一号、ゆまに書房、一九九三年、三十頁

  右同17

  三十八号、五二三頁

  吉野孝雄18

『宮武外骨此中にあり八

滑稽新聞 : 完全版三』

第四十八号、

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

(4)

金三円五十銭、三週間文金五円、五十日分金十円

(38)

なっている。野口は同時期に、「神理丸」を十四日分五十銭

り五十銭 (39) 、「鎮咳散」を八十包入

(40)

それぞれ販売しており、肺労散は二つと比較すると高価なものだということが分かる。

  右のように肺労散について詳述された『肺病新論』は、野口が著者兼

発行人を務め、立志堂野口合名会社より発行された小冊子である。この他にも野口の薬学に関する考えや売薬に対する姿勢、感謝礼状等がまとめられており、郵便配送のみで手にすることができた。現在では明治三三年(一九〇〇)と明治三四年(一九〇一)に発行された第二刷が確認できている。

  治療についても『肺病新論』に詳述されており、肺労散を用いて全治

した人物の治療経過を記した「病床日誌」

(41)

掲載されている。対象は広島県に在住する中村俊造氏である。内容から、血縁関係の父方の祖父母、母方の祖父母、父母という以上の血縁者には結核患者がいなかったことが読み取れる。

三七度から三九度という高熱である。 り朝、正午、夕と三回の計温結果が細かく書かれているが、いずれも 時半頃帰宅するも腹痛に見舞われ、食欲不振が見られる。同月一七日よ が四一度まで上昇し嘔吐二回、下痢三回に見舞われている。翌日の一一 は明治三二年六月一五日のことである。某家を尋ね、その夜九時頃体温   「現症」の項目から読み解いていくと、結核らしい症状が出始めるの   八月一七日には広島内科病院にて診察を受け、右肺萎縮と結核性慢性

腹膜炎との診断がくだされている。薬を処方されたものの、同日には大阪市を訪れ元府立大阪病院長の医学士・清野勇氏の診断を受けているが、結果は変わらなかったようで、服薬を三日でやめている。

  九月三〇日一奇薬、肺労散を入手している。一〇月二日より服薬を始

め、次第に体温が降下、胸部や腹部も快方に向かい食欲増進が見られ、約一週間後の一〇月一一日には体温が平温に戻り、快復したと書かれている。

  肺労散を服用し快復したのは、このように詳細が掲載された中村氏だ

けではない。八歳の女の子から三十二歳の成人男性まで、幅広い人たち が快復を知らせる礼状を送ってきたとし、名前を挙げている。その人数は数一〇人に及び、同じく掲載された住所を見ると、大阪のみならず近隣県からも礼状が届けられていることが分かり、これらは全て『肺病新論』に掲載されている。

  しかし、この中村氏においても礼状を送ってきた人物においても、滑

稽社の取材によると治療結果は掲載されたものとは異なり、中村氏を含む殆どの患者は死亡したという結果が出された。あくまでこれらの結果は、野口の会社が発表したものなのである。

第三節  野口茂平の著作からみる主張   第一章では、

『滑稽新聞』を用いて宮武目線の、「詐欺師」としての野口を紹介した。この節では、これまで宮武研究では見落とされてきた『肺病新論』、「肺労散」広告といった野口が手掛けた資料を用いて、野口の薬についての考えや、売薬広告についての主張などを読み解いていく。

  はじめに、明治三六年(一九〇三)八月に掲載された「肺労散」の広

告を見てみる。先年独逸政府の開かれたる醫學博士達の大會席上で肺病には妙薬なしと斷定せられた事は其當時全世界の醫學に關係せる諸新聞雑誌等に由つて發表せられたるにも拘らず患者は矢張り醫者にかゝり澤山藥さへ服用すれば治するものゝ如く思ふて居るものが多い殊に醫者の多數は薬を賣るのが商賣の如きであるから自分の手に合ぬ様に成まで商賣氣取りで藥を飲ませ藥價を拂はせる抔は随分患者に氣の毒である

(42)

当時の医療の進み具合と、日本の医療体制についてよくわかる文章となっている。

其薬ヲ以テ有効ノ良剤ト定メ之ヲ世ニ証スルニ非ス」 テ発売ヲ禁セス、故ニ免状ヲ与フルハ只其害ナキヲ保ツノミニシテ必ス ノ方剤ヲ禁ズルに在リ、無害ノ方剤ハ効ナキモノト雖トモ姑ク之ヲ存シ   明治一五年(一八八二)頃の文部省の方針は「売薬検査ノ趣意ハ有害

(43) と云う

ものであり、また衛生局の見解も「薬用ニ妥当ナル方剤ハ僅少ニシテ無効ノ者大率十ノ八九ニ居ル、但其巨害ナキヲ以テ姑 しばらク之カ発売ヲ禁止セザルノミ」 宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

というもので、この頃の売薬には、無効であるものが多く、加えて政府もそれを取り締まることもしなかったことは事実であったようだ。

(44)

遺澤なり 輩が多年探究研鑽に心を用ひ力を盡せし結果且は故人が丹精發明の 事偶然に出でたり、否、仔細に之を思へば、決して偶然に非ず、余 余輩が此妙藥を發見せるは、神の授くる所か佛の與ふる所か、實に 新論』(第二刷)には次のようにある。   次に「肺労散」の精製や売薬についての考えをまとめていく。『肺病

(45)

  広告には、

(前略)遂に數百年以前の舊法に鑑み卓効奇拔の妙藥を發見せり是れが原料は藥種といふよりは寧ろ天然物にして即ち肺部の弱き人を助ける爲めに天が之を生ぜしめたるが極めて穏和なる滋養成分にして之を服すれば自然にバチルス即ち結核菌を撲滅するの力を有するものなり

(46)

と述べている。薬を精製するにあたって、野口が重視したのは天然物、古来より日本人が慣れ親しんできた漢方を使用することにあるようだ。文章中で登場する天然物や、天が生ぜしものというのはそういったものを指しているのだろう。しかし人体に影響がない上、大きな効果が見込まれると記しているにもかかわらず、具体的な原料名が明記されていないこと、天が生ぜしものという表現は曖昧であり、疑わしいと思われても仕方がないようにも思われる。

あったようで、『肺病新論』(第二刷)の記事「劇薬クレヲソートの濫用」   海外製の薬の多くは胃腸に影響を及ぼすもの、という考えが根強く

(47) 他、次の文章もその思考を強く反映している。

尤此事の起りは我邦に於ても其例のあることで醫者や藥屋のなき時代に於ては國民の生命長く緫じて健康にして肺病者の如きは決してあらざるが如し今日にても人の知る如く天保時代以上の西洋藥嫌ひの老人抔多くは壯健にして天壽を全うしつゝあるは一つの證據で有然るに醫學の進歩するにも拘らず益々病者の數年一年と多く成行は畢竟藥劑等に關係あると云ふ事になつて來るのである例へば肺病者に夫の惡臭味の甚だしき劇藥ケレヲソートとか又はグワヤコール其 他種々の劇しき藥を用ゆる等爲め膓胃を害し消化力を失はしむると其餘毒とに由り日を逐うて衰弱又は咯血症に陥らしむるものありと聞く

(48)

した、というのが正しい解釈だと考えられる。 これもまた、効能の無い薬を服用するため病気の進行が止められず喀血 である。また西洋薬が人体に影響を及ぼし、喀血するというのは誤りで、 たとされているため、全ての不具合を西洋薬に結論付けるのは些か暴論 か。流行こそなっていないものの、日本には弥生時代から既に結核があっ かった時代に、国民の生命は長く健康であったというのは本当であろう   この文については疑問に思う部分がいくつかある。医者や薬屋がな   野口は自分の薬に自信を持っているからこその発言が度々見られる。

(前略)薬とか銀行とか云ふものは信用が第一である、其信用を俄かに得んが爲めに、世間の賣藥業者中には些少の身代もなき者が、無効の時は藥價を幾倍にして返すとか、甚だしきは大金を進呈する抔の駄法螺を吹き、新聞の廣告を利用して、無稽の大言を書き立てる破廉恥漢の横行するは慨げかわしき次第である、(中略)かかる奸商輩跋扈は永続すべきものにあらざれども、余輩が今般世に公にする肺労散の如き、夫れと同一部類と見らるる如き事ありては大ひに迷惑千万なり(中略)今回立志堂の名義に依って発売せる肺労散が果たして世の詐欺者流のものと其趣を異にする所以を御確認あらんことを望む

(49)

  世間に溢れている紛い物を批判した後、自分はそれらとは異なり、違

いを確認してほしいと主張している。この後には自分は十分な収入が既にあるので、売薬は金儲けの為に行っているのではないという説明に続く。さらに宮武が攻撃対象としたような広告についての言及は、「肺労散」の広告にも現れる。近來新聞の廣告に依て野師的に何々の妙薬で自分の肺病が治つたとか或は一週間で有効とか二週間で治するとか乃至肺病者の全快禮狀だ抔と貧民に金を摑まし幾年前に拵らへた手紙か分らぬ様な年月もなきものを幾度も仰山らしく廣告するものあり随つて世間の病者も亦價の安い物やら効能書の駄法螺等に迷はされ之を服用して徒らに

(5)

金三円五十銭、三週間文金五円、五十日分金十円

(38)

なっている。野口は同時期に、「神理丸」を十四日分五十銭

り五十銭 (39) 、「鎮咳散」を八十包入

(40)

それぞれ販売しており、肺労散は二つと比較すると高価なものだということが分かる。

  右のように肺労散について詳述された『肺病新論』は、野口が著者兼

発行人を務め、立志堂野口合名会社より発行された小冊子である。この他にも野口の薬学に関する考えや売薬に対する姿勢、感謝礼状等がまとめられており、郵便配送のみで手にすることができた。現在では明治三三年(一九〇〇)と明治三四年(一九〇一)に発行された第二刷が確認できている。

  治療についても『肺病新論』に詳述されており、肺労散を用いて全治

した人物の治療経過を記した「病床日誌」

(41)

掲載されている。対象は広島県に在住する中村俊造氏である。内容から、血縁関係の父方の祖父母、母方の祖父母、父母という以上の血縁者には結核患者がいなかったことが読み取れる。

三七度から三九度という高熱である。 り朝、正午、夕と三回の計温結果が細かく書かれているが、いずれも 時半頃帰宅するも腹痛に見舞われ、食欲不振が見られる。同月一七日よ が四一度まで上昇し嘔吐二回、下痢三回に見舞われている。翌日の一一 は明治三二年六月一五日のことである。某家を尋ね、その夜九時頃体温   「現症」の項目から読み解いていくと、結核らしい症状が出始めるの   八月一七日には広島内科病院にて診察を受け、右肺萎縮と結核性慢性

腹膜炎との診断がくだされている。薬を処方されたものの、同日には大阪市を訪れ元府立大阪病院長の医学士・清野勇氏の診断を受けているが、結果は変わらなかったようで、服薬を三日でやめている。

  九月三〇日一奇薬、肺労散を入手している。一〇月二日より服薬を始

め、次第に体温が降下、胸部や腹部も快方に向かい食欲増進が見られ、約一週間後の一〇月一一日には体温が平温に戻り、快復したと書かれている。

  肺労散を服用し快復したのは、このように詳細が掲載された中村氏だ

けではない。八歳の女の子から三十二歳の成人男性まで、幅広い人たち が快復を知らせる礼状を送ってきたとし、名前を挙げている。その人数は数一〇人に及び、同じく掲載された住所を見ると、大阪のみならず近隣県からも礼状が届けられていることが分かり、これらは全て『肺病新論』に掲載されている。

  しかし、この中村氏においても礼状を送ってきた人物においても、滑

稽社の取材によると治療結果は掲載されたものとは異なり、中村氏を含む殆どの患者は死亡したという結果が出された。あくまでこれらの結果は、野口の会社が発表したものなのである。

第三節  野口茂平の著作からみる主張   第一章では、

『滑稽新聞』を用いて宮武目線の、「詐欺師」としての野口を紹介した。この節では、これまで宮武研究では見落とされてきた『肺病新論』、「肺労散」広告といった野口が手掛けた資料を用いて、野口の薬についての考えや、売薬広告についての主張などを読み解いていく。

  はじめに、明治三六年(一九〇三)八月に掲載された「肺労散」の広

告を見てみる。先年独逸政府の開かれたる醫學博士達の大會席上で肺病には妙薬なしと斷定せられた事は其當時全世界の醫學に關係せる諸新聞雑誌等に由つて發表せられたるにも拘らず患者は矢張り醫者にかゝり澤山藥さへ服用すれば治するものゝ如く思ふて居るものが多い殊に醫者の多數は薬を賣るのが商賣の如きであるから自分の手に合ぬ様に成まで商賣氣取りで藥を飲ませ藥價を拂はせる抔は随分患者に氣の毒である

(42)

当時の医療の進み具合と、日本の医療体制についてよくわかる文章となっている。

其薬ヲ以テ有効ノ良剤ト定メ之ヲ世ニ証スルニ非ス」 テ発売ヲ禁セス、故ニ免状ヲ与フルハ只其害ナキヲ保ツノミニシテ必ス ノ方剤ヲ禁ズルに在リ、無害ノ方剤ハ効ナキモノト雖トモ姑ク之ヲ存シ   明治一五年(一八八二)頃の文部省の方針は「売薬検査ノ趣意ハ有害

(43) と云う

ものであり、また衛生局の見解も「薬用ニ妥当ナル方剤ハ僅少ニシテ無効ノ者大率十ノ八九ニ居ル、但其巨害ナキヲ以テ姑 しばらク之カ発売ヲ禁止セザルノミ」 宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

というもので、この頃の売薬には、無効であるものが多く、加えて政府もそれを取り締まることもしなかったことは事実であったようだ。

(44)

遺澤なり 輩が多年探究研鑽に心を用ひ力を盡せし結果且は故人が丹精發明の 事偶然に出でたり、否、仔細に之を思へば、決して偶然に非ず、余 余輩が此妙藥を發見せるは、神の授くる所か佛の與ふる所か、實に 新論』(第二刷)には次のようにある。   次に「肺労散」の精製や売薬についての考えをまとめていく。『肺病

(45)

  広告には、

(前略)遂に數百年以前の舊法に鑑み卓効奇拔の妙藥を發見せり是れが原料は藥種といふよりは寧ろ天然物にして即ち肺部の弱き人を助ける爲めに天が之を生ぜしめたるが極めて穏和なる滋養成分にして之を服すれば自然にバチルス即ち結核菌を撲滅するの力を有するものなり

(46)

と述べている。薬を精製するにあたって、野口が重視したのは天然物、古来より日本人が慣れ親しんできた漢方を使用することにあるようだ。文章中で登場する天然物や、天が生ぜしものというのはそういったものを指しているのだろう。しかし人体に影響がない上、大きな効果が見込まれると記しているにもかかわらず、具体的な原料名が明記されていないこと、天が生ぜしものという表現は曖昧であり、疑わしいと思われても仕方がないようにも思われる。

あったようで、『肺病新論』(第二刷)の記事「劇薬クレヲソートの濫用」   海外製の薬の多くは胃腸に影響を及ぼすもの、という考えが根強く

(47) 他、次の文章もその思考を強く反映している。

尤此事の起りは我邦に於ても其例のあることで醫者や藥屋のなき時代に於ては國民の生命長く緫じて健康にして肺病者の如きは決してあらざるが如し今日にても人の知る如く天保時代以上の西洋藥嫌ひの老人抔多くは壯健にして天壽を全うしつゝあるは一つの證據で有然るに醫學の進歩するにも拘らず益々病者の數年一年と多く成行は畢竟藥劑等に關係あると云ふ事になつて來るのである例へば肺病者に夫の惡臭味の甚だしき劇藥ケレヲソートとか又はグワヤコール其 他種々の劇しき藥を用ゆる等爲め膓胃を害し消化力を失はしむると其餘毒とに由り日を逐うて衰弱又は咯血症に陥らしむるものありと聞く

(48)

した、というのが正しい解釈だと考えられる。 これもまた、効能の無い薬を服用するため病気の進行が止められず喀血 である。また西洋薬が人体に影響を及ぼし、喀血するというのは誤りで、 たとされているため、全ての不具合を西洋薬に結論付けるのは些か暴論 か。流行こそなっていないものの、日本には弥生時代から既に結核があっ かった時代に、国民の生命は長く健康であったというのは本当であろう   この文については疑問に思う部分がいくつかある。医者や薬屋がな   野口は自分の薬に自信を持っているからこその発言が度々見られる。

(前略)薬とか銀行とか云ふものは信用が第一である、其信用を俄かに得んが爲めに、世間の賣藥業者中には些少の身代もなき者が、無効の時は藥價を幾倍にして返すとか、甚だしきは大金を進呈する抔の駄法螺を吹き、新聞の廣告を利用して、無稽の大言を書き立てる破廉恥漢の横行するは慨げかわしき次第である、(中略)かかる奸商輩跋扈は永続すべきものにあらざれども、余輩が今般世に公にする肺労散の如き、夫れと同一部類と見らるる如き事ありては大ひに迷惑千万なり(中略)今回立志堂の名義に依って発売せる肺労散が果たして世の詐欺者流のものと其趣を異にする所以を御確認あらんことを望む

(49)

  世間に溢れている紛い物を批判した後、自分はそれらとは異なり、違

いを確認してほしいと主張している。この後には自分は十分な収入が既にあるので、売薬は金儲けの為に行っているのではないという説明に続く。さらに宮武が攻撃対象としたような広告についての言及は、「肺労散」の広告にも現れる。近來新聞の廣告に依て野師的に何々の妙薬で自分の肺病が治つたとか或は一週間で有効とか二週間で治するとか乃至肺病者の全快禮狀だ抔と貧民に金を摑まし幾年前に拵らへた手紙か分らぬ様な年月もなきものを幾度も仰山らしく廣告するものあり随つて世間の病者も亦價の安い物やら効能書の駄法螺等に迷はされ之を服用して徒らに

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

(6)

のは、結核に有効なのは肝であるということだった。まむしや川獺の肝をはじめ、江戸時代には、処刑された人間の肝までもが高値で取引されたと言われている。   費用の高額なサナトリウム療法を受けられない庶民や、治療を受けな

がらも完治しない、好転さえしない当時の医療に不満があった患者は、いきおい安価で魅力的な宣伝文句に満ちた通俗療法を試さない手はなかったのだろう。新聞や雑誌広告が活発に利用されるようになるのは、明治二〇年以降

(27)

事であり、新聞や雑誌において急速に広まった肺病特効薬の宣伝は、完治を求める人々には最後の希望のように映ったのではないだろうか。

  これら通俗療法が流行した背景には、一九四四年にストレプトマイシ

ンが発見されるまで、どのような薬・療法も決定的な効果が見られなかったことを強く裏付けさせる。医学的に施される新薬や療法にせよ、通俗の売薬や民間療法あるいは迷信療法にせよ、その効果の程度には差が無い場合が多かったと言える。そうした通俗・民間、迷信療法と言われるさまざまな売薬や療法に対して、正当な医学的治療効果の評価が困難であったことも問題であった。その理由として一つ目に、そうした治療効果に対する科学的な判断基準がまだ確立していなかったこと、二つ目に人間の精神状態が、薬やその他の治療法の効果に少なからぬ影響を与える場合がある、という二点が挙げられる。後者は、かたく薬の効果を信じてそれを服用する人には、たとえ似せ薬であっても程度の効果を上げることがある、というプラセボ効果の問題であると福田氏は言う。

第三章「詐欺師」の正体

第一節  野口茂平について   この章では、筆誅対象であった野口茂平の経歴の他、薬学や当時の医

療について、どのような知識や考えを持っていたのかを見ていく。

  野口茂平は嘉永六年(一八五三)八月生まれ

(28)

富山県出身である。立志堂、野口合名会社代表社員であり、売薬商としての肩書

(29)

持つ。 次の文を見てみたい。余輩幼より藥物探求と藥學の研鑽を好み、業務の餘暇ある每に、山野を跋渉し、典籍を飜讀して、些か得る所なきにあらず、一二の醫藥を發見して、刀圭社會に少しは名を知るゝに至る過る十九年の頃より、愈藥學の世に功あるを悟り、同志を皷して斯學の隆盛を謀り、藥劑師養成の爲に設立されたる今の私立大阪藥學校(元關西藥學校と私立大阪藥學校と合併後の稱)に力を致し、其身の不肖を顧みずして、同校々主の任に當ると數年、其間常に斯學に精通せる諸先生と往來し、親しく斯學の蘊奥を探り(後略)

(30)

と自ら述べている。右の資料では、私立大阪薬学校となっているが、これは明治三四年(一九〇一)に改称された為であり、一九〇〇年に発行された『肺病新論』には、同所は大阪共立薬学校と記述されている。大阪共立薬学校は、明治二三年(一八九〇)に設立された共立薬学校の改称であり、明治二五年(一八九二)に誕生している。この学校で野口は校主(学校の経営責任者。主に私立大学にいう)を務め、その間も薬学の勉強を進めたことが読み取れる。

た調査で、従来の薬品取扱業者は既得権を認められていた 野口が薬学校で学んだ可能性もあるが、明治六年(一八七三)に行われ   大阪で初の薬学校は明治一九年(一八八六)に創立されているため、

(31)

で、幼いころから精通していた野口は、この時点で既得権を認められていた可能性も皆無とは言えない。どちらにしても、薬学に精通している諸先生と、親しく斯學の蘊奥を探ることのできた野口には、相応の知識があったと考えられる。

  売薬商として、今回取り上げる「肺労散」以外にも、胃腸に効く「神

理丸」や喘息の薬「鎮咳散」といったいくつかの薬を精製・販売している。また、明治一六年(一八八三)七月には大阪における薬学雑誌の嚆矢として『新薬発売新報』を発行している

(32) 。   薬学関係以外にも明治三二年

(一八九九)三月~明治三四年(一九〇一)三月、明治三四年(一九〇一)四月~明治三六年(一九〇三)三月の二期にわたって大阪商業会議所の会員を勤めている。

(33)

の他にも大阪市議会議員として、当時の大阪塵芥処理問題に大きく尽力した

(34)

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

が分かっている。この尽力についても、同じ会員からは消極的な意見もあったが、売薬人としての野口の考えからか、塵芥から人々の健康が害されないよう、予防の意味合いを込めて処理にこだわったのではないかと考えられる。

  また健康を考える方面では、

明治二一年(一八八八)大阪天保山に「天保山私立遊園地」を、天保山企業組の一員として設立したことでも読み取れる。施設を利用するにあたり、一口三円の該地遊覧権を購入する必要があった。遊園地という名前だが、今日のような遊具があるテーマパークのようなものとは異なり、例えるならば大型複合温泉施設という方が近い。防衛省より、天保山砲台跡を地域民に貸下げした場所に造られている。遊園地の目的用法を「天保山遊園地略図」より抜粋したものが次のものとなっている。該地を私立遊園となし且つ此處欧米文明諸國に行はるゝ所の海水浴海水温泉場並に倶樂部を設け洽 あまねく府下の人民をして常に此の園内に散策せしめ一は以て疾病者として其治療を完からしむるの媒介たらしめ一は以て健康者をして益々其健康を保たしむるの幇助たらしめんと欲す

(35)

  疾病者が病を治す場所だけでなく、健康者はより健康体を保つ、病に

罹らぬような身体づくりを目的としている。病人のみの施設ではなく、健康的な身体維持も目的の一つとしていたようで、予防の意味あいが強いのだろう。温泉入浴だけでなく魚釣りや潮干狩りといった季節ごとのレジャーを楽しむこともできたようである。

(36)

二十七種にも及び、肺労つまり結核も含まれている。(図4参照) 諸皮膚病、喘息、痛風、脚気、胃及び腸の疾患、神経病等その種類は   この「天保山遊園地」はあらゆる病に効果があったと宣伝しており、

(37)

見受けられる。結核の転地療法地先として有名であったのは、須磨や 核に効くとされていたのを考えると、この場所は最適であったように 程度身体を動かすことのできる場所も確保されている。海辺の潮風が結 いた温泉療法は存在している。加えて魚釣りや潮干狩りが出来、ある んに行われていた転地療法である。実際転地療法のなかにも温泉を用   温泉入浴を用いた病の回復と聞くと思いだされるのが、この当時盛 ことになる。 より閉園される 港工事の開始に (一八九七)に築 の明治三〇年 遊園地は九年後 残念ながらこの はないだろうか。 けたかったので 転地療法地を設 にとって身近な 設け、大阪の人 に転地療法地を 盤でもある大阪 新たに自分の基 いるが、野口は とは既に述べて 鎌倉であったこ

が判明した。 売以前においても、病と健康に関心を持った事跡を積み重ねてきたこと 野口は肺労散発   以上のように、

第二節  野口茂平と「肺労散」

  野口が精製・販売した肺労散はどのように服用し、また、それを用い

た具体的な治療はどのように行われていたのか見ていきたい。

  野口が発売した肺労散の主治効能は肺労、肺結核、肋膜炎、肺炎加答

兒、腸結核、肺炎、喉頭結核、その他気鬱症や身体虚弱と結核だけでなく、多岐に効能があると書かれている。用法は大人一日三包、十五歳以下はその半量、五歳以下は三分の一量を毎食後二時間後にオブラート又は浅草海苔に包み微温湯で服用する。値段は一週間分金二円、二週間分

図4 「天保山遊園地」

(7)

のは、結核に有効なのは肝であるということだった。まむしや川獺の肝をはじめ、江戸時代には、処刑された人間の肝までもが高値で取引されたと言われている。

  費用の高額なサナトリウム療法を受けられない庶民や、治療を受けな

がらも完治しない、好転さえしない当時の医療に不満があった患者は、いきおい安価で魅力的な宣伝文句に満ちた通俗療法を試さない手はなかったのだろう。新聞や雑誌広告が活発に利用されるようになるのは、明治二〇年以降

(27)

事であり、新聞や雑誌において急速に広まった肺病特効薬の宣伝は、完治を求める人々には最後の希望のように映ったのではないだろうか。

  これら通俗療法が流行した背景には、一九四四年にストレプトマイシ

ンが発見されるまで、どのような薬・療法も決定的な効果が見られなかったことを強く裏付けさせる。医学的に施される新薬や療法にせよ、通俗の売薬や民間療法あるいは迷信療法にせよ、その効果の程度には差が無い場合が多かったと言える。そうした通俗・民間、迷信療法と言われるさまざまな売薬や療法に対して、正当な医学的治療効果の評価が困難であったことも問題であった。その理由として一つ目に、そうした治療効果に対する科学的な判断基準がまだ確立していなかったこと、二つ目に人間の精神状態が、薬やその他の治療法の効果に少なからぬ影響を与える場合がある、という二点が挙げられる。後者は、かたく薬の効果を信じてそれを服用する人には、たとえ似せ薬であっても程度の効果を上げることがある、というプラセボ効果の問題であると福田氏は言う。

第三章「詐欺師」の正体

第一節  野口茂平について   この章では、筆誅対象であった野口茂平の経歴の他、薬学や当時の医

療について、どのような知識や考えを持っていたのかを見ていく。

  野口茂平は嘉永六年(一八五三)八月生まれ

(28)

富山県出身である。立志堂、野口合名会社代表社員であり、売薬商としての肩書

(29)

持つ。 次の文を見てみたい。余輩幼より藥物探求と藥學の研鑽を好み、業務の餘暇ある每に、山野を跋渉し、典籍を飜讀して、些か得る所なきにあらず、一二の醫藥を發見して、刀圭社會に少しは名を知るゝに至る過る十九年の頃より、愈藥學の世に功あるを悟り、同志を皷して斯學の隆盛を謀り、藥劑師養成の爲に設立されたる今の私立大阪藥學校(元關西藥學校と私立大阪藥學校と合併後の稱)に力を致し、其身の不肖を顧みずして、同校々主の任に當ると數年、其間常に斯學に精通せる諸先生と往來し、親しく斯學の蘊奥を探り(後略)

(30)

と自ら述べている。右の資料では、私立大阪薬学校となっているが、これは明治三四年(一九〇一)に改称された為であり、一九〇〇年に発行された『肺病新論』には、同所は大阪共立薬学校と記述されている。大阪共立薬学校は、明治二三年(一八九〇)に設立された共立薬学校の改称であり、明治二五年(一八九二)に誕生している。この学校で野口は校主(学校の経営責任者。主に私立大学にいう)を務め、その間も薬学の勉強を進めたことが読み取れる。

た調査で、従来の薬品取扱業者は既得権を認められていた 野口が薬学校で学んだ可能性もあるが、明治六年(一八七三)に行われ   大阪で初の薬学校は明治一九年(一八八六)に創立されているため、

(31)

で、幼いころから精通していた野口は、この時点で既得権を認められていた可能性も皆無とは言えない。どちらにしても、薬学に精通している諸先生と、親しく斯學の蘊奥を探ることのできた野口には、相応の知識があったと考えられる。

  売薬商として、今回取り上げる「肺労散」以外にも、胃腸に効く「神

理丸」や喘息の薬「鎮咳散」といったいくつかの薬を精製・販売している。また、明治一六年(一八八三)七月には大阪における薬学雑誌の嚆矢として『新薬発売新報』を発行している

(32) 。   薬学関係以外にも明治三二年

(一八九九)三月~明治三四年(一九〇一)三月、明治三四年(一九〇一)四月~明治三六年(一九〇三)三月の二期にわたって大阪商業会議所の会員を勤めている。

(33)

の他にも大阪市議会議員として、当時の大阪塵芥処理問題に大きく尽力した

(34)

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

が分かっている。この尽力についても、同じ会員からは消極的な意見もあったが、売薬人としての野口の考えからか、塵芥から人々の健康が害されないよう、予防の意味合いを込めて処理にこだわったのではないかと考えられる。

  また健康を考える方面では、

明治二一年(一八八八)大阪天保山に「天保山私立遊園地」を、天保山企業組の一員として設立したことでも読み取れる。施設を利用するにあたり、一口三円の該地遊覧権を購入する必要があった。遊園地という名前だが、今日のような遊具があるテーマパークのようなものとは異なり、例えるならば大型複合温泉施設という方が近い。防衛省より、天保山砲台跡を地域民に貸下げした場所に造られている。遊園地の目的用法を「天保山遊園地略図」より抜粋したものが次のものとなっている。該地を私立遊園となし且つ此處欧米文明諸國に行はるゝ所の海水浴海水温泉場並に倶樂部を設け洽 あまねく府下の人民をして常に此の園内に散策せしめ一は以て疾病者として其治療を完からしむるの媒介たらしめ一は以て健康者をして益々其健康を保たしむるの幇助たらしめんと欲す

(35)

  疾病者が病を治す場所だけでなく、健康者はより健康体を保つ、病に

罹らぬような身体づくりを目的としている。病人のみの施設ではなく、健康的な身体維持も目的の一つとしていたようで、予防の意味あいが強いのだろう。温泉入浴だけでなく魚釣りや潮干狩りといった季節ごとのレジャーを楽しむこともできたようである。

(36)

二十七種にも及び、肺労つまり結核も含まれている。(図4参照) 諸皮膚病、喘息、痛風、脚気、胃及び腸の疾患、神経病等その種類は   この「天保山遊園地」はあらゆる病に効果があったと宣伝しており、

(37)

見受けられる。結核の転地療法地先として有名であったのは、須磨や 核に効くとされていたのを考えると、この場所は最適であったように 程度身体を動かすことのできる場所も確保されている。海辺の潮風が結 いた温泉療法は存在している。加えて魚釣りや潮干狩りが出来、ある んに行われていた転地療法である。実際転地療法のなかにも温泉を用   温泉入浴を用いた病の回復と聞くと思いだされるのが、この当時盛 ことになる。 より閉園される 港工事の開始に (一八九七)に築 の明治三〇年 遊園地は九年後 残念ながらこの はないだろうか。 けたかったので 転地療法地を設 にとって身近な 設け、大阪の人 に転地療法地を 盤でもある大阪 新たに自分の基 いるが、野口は とは既に述べて 鎌倉であったこ

が判明した。 売以前においても、病と健康に関心を持った事跡を積み重ねてきたこと 野口は肺労散発   以上のように、

第二節  野口茂平と「肺労散」

  野口が精製・販売した肺労散はどのように服用し、また、それを用い

た具体的な治療はどのように行われていたのか見ていきたい。

  野口が発売した肺労散の主治効能は肺労、肺結核、肋膜炎、肺炎加答

兒、腸結核、肺炎、喉頭結核、その他気鬱症や身体虚弱と結核だけでなく、多岐に効能があると書かれている。用法は大人一日三包、十五歳以下はその半量、五歳以下は三分の一量を毎食後二時間後にオブラート又は浅草海苔に包み微温湯で服用する。値段は一週間分金二円、二週間分

図4 「天保山遊園地」

宮武外骨による筆誅とその対象 ―野口茂平の肺労散事件を題材に―

Referensi

Dokumen terkait

さんにとって納得のいく結果になります様、慎重 にそして賢明なご判断をして頂くことが必要であ るのではないかと思われます。既に伝えさせて頂 いたと思うのですが、トゥイリー様の事はとても 快く素敵な方であるとパーティでお会いした時か ら思っており、同時にベンソン様との間に何か確 執があるとも思っており、たとえ彼があなたの傍 にいなくとも一人の社会人として生活することが