はじめに―なぜ中国が重要か
今後当面の間、日本の東アジア外交が中国との関係を軸に展開されることは、ほぼ自明 だろう。それは、日本の対中外交が、2国間関係の次元をはるかに超えて、総合的な東アジ ア戦略と同義でなければならないことを意味している。このことは、天安門事件と冷戦終 結が重なった1989年以来今日まで、一貫した時代趨勢であると言ってよい。
振り返ってみれば、1990年代の中国外交は、冷戦終結がもたらす戦略環境の変化への対 応で、天安門事件の後遺症に苦しみながら試行錯誤を繰り返した。その過程でアヘン戦争 以来の被害者意識が再生産され、国際秩序変動へのさまざまな不適合現象を示した。1992 年の「領海法」の設定と南シナ海の領有権問題での自己主張、東南アジア諸国連合(ASEAN)
の多国間外交への非協力的姿勢、着実に進展する台湾の民主化に対する古典的な威圧外交、
日米同盟「再確認」への猜疑心に満ちた反応、対日外交における歴史問題の乱用、等々で ある。
その間、中国外交の混乱ぶりに過剰反応するかのように、日本の政治と社会における対 中認識は悪化の一途をたどり、その結果、日本外交にも大きな歪みが生じた。そこでは、
中国に対する敵愾心や競争意識を直接的に反映した外交を日本の戦略と同一視するかのよ うな認識や言説が力を増した。その結果、外交戦略を総合的に構想すべき日本の政治が、
グローバルな、そして東アジア地域全体を見渡す視野を失った。
それ自体が日本外交の自由度を奪う重大な問題であったが、そこに生じた日中関係の悪 循環は、2つの意味で、日本外交をめぐる対外環境をさらに悪化させることになった。第一 に、諸外国が東アジアの地域秩序を語る際に、ときには地政学的な意味も含めた日中間の
「戦略的競争」を所与のものとする傾向が生まれた。それは、マスコミや学界での論調にと どまらず、東アジア諸国政府の対日外交に反映されることも少なくなかった。
第二に、第一の傾向と裏腹の現象として、日米同盟の「再確認」や国連平和維持活動
(PKO)への参加に象徴される冷戦終焉後の日本外交の変化を、伝統的な安全保障領域にお ける、軍事的役割も含めた日本の役割拡大とみなす「普通の国」論が、根強く定着してし まった。外交当局の自意識としては、日本の「普通の国」化とは、国際主義的動機に基づ く日本外交の地平の拡大にほかならなかった。しかし、それが伝統的な国家主義を衝動と する日本の「軍事化」路線であるとする諸外国の認識は、とくに日本の近隣地域において
はほとんど常識と化している面がある。それが日本外交の実像を歪めているだけでなく、
戦後日本外交の実績と日本の本来の強みを活かした外交にとって、大きな障害であること は明らかだろう。
以上のことを相手の認識の誤りとして批判することは、それ自体誤った批判ではないと しても、それだけでは片手落ちである。上述のような1990年代の展開は、外交問題をめぐ る日本政治の保守化現象とも密接に関連しているからである。日本の保守派が、基本的に 過去の伝統や歴史を基点とした内向きの衝動から現在や将来の外交問題への対応を論じて いることに、多くの説明はいらないだろう。保守派にとって、日本が国家として護るべき 価値や利益にとっての最大の競争相手や脅威は、ほかならぬ中国である。そして、日本と いう国家を軸に問題をみれば確かにその面は強いから、外交問題をめぐる保守的言説は、
そこに中国が批判の対象として組み入れられるとき、中国に対して少なからず違和感をも つ多くの日本国民の耳にはまともな議論に響くという言説空間が成立することになる。そ うした国内政治環境の下で、中国に対する厳しい言説や政策が政治や社会の支持を受けや すい一方で、総合的観点から中国との協力や歴史問題等での自制を訴える政策論は、簡単 に人々の胸に落ちないという状況が生まれた。
このことは、今後中国の存在を中心軸にすえて、長期的、総合的に外交戦略を構想すべ き日本が、中国問題に足をすくわれることで自らの手足を縛ってしまっているという逆説 的状況を示している。この逆説は、2000年代に入って、1990年代の対応の誤りをそれなり に総括した中国が、まさに戦略的に外交を立て直してきたことで、いっそう深刻な問題と して浮上することになった。たとえば中国は、2002年のASEANとのサミットで、南シナ海 における行動規範に関する共同声明に署名し、包括的経済協力でも合意した。そして翌年 には、ASEANとの戦略的パートナーシップに関する共同宣言に調印し、東南アジア友好協 力条約(TAC)にも署名した(1)。
実は中国政府は、その直前に、歴史問題をめぐる対日方針にも重要な変更を加えていた。
1998
年の江沢民訪日の「失敗」を総括した中国政府は、おそらく1999
年から、歴史問題や 台湾問題等を対日関係の優先課題としないことを決定し、逆に日本重視の姿勢を打ち出す ようになるのである(2)。この対日方針の変更は、単に日中2
国間レベルで捉えるのではなく、上記の東南アジアへの融和的外交とセットで理解することが重要だろう。すなわち、2000 年代に入ってからの中国外交は、日本を含めた周辺地域との関係を安定させることに、当 面の戦略的照準を合わせるようになったのである。
そうだとすれば、そのことは、日本が腰をすえて中国問題への対応を軸にした中長期的 な東アジア戦略を策定するための格好の国際環境が生まれたことを意味していたはずであ る。しかし日本は、2000年代の前半を、小泉純一郎首相の靖国神社訪問で棒に振った。後 継の安倍晋三政権は、「主張する外交」というスローガンに基づく価値外交の推進で、日中 関係を「戦略的競争」関係として捉える認識をいっそう補強してしまった。しかも、同政 権が「戦後レジームからの脱却」を唱えつつ、実際に憲法改正や集団的自衛権の問題を優 先課題としたことで、日本が着実に伝統的な大国路線への道を歩んでいるという1990年代
以来の「普通の国」化をめぐる誤解が、さらに増幅されることとなった。
ただこのことは、過去20年間の日本外交が無為に展開されてきたということを意味しな い。それどころか、冷戦終焉後に起きた日本外交の変化の実態は、むしろ国際主義的な動 機に基づくものであり、東アジア外交も着実に地域協力と統合の流れに寄与するものであ ったと総括できる。そして、以下で論ずるように、そこに日本外交の戦略性を読み取るこ とも、あながち不可能ではない。
本稿は、以上の視点から、1990年代以降の日本外交の展開を概観し、そこに浮かび上が る日本外交の課題を整理しようとするものである。そのうえで最後に、2009年8月末の衆議 院選挙の結果誕生した民主党政権による外交の課題と可能性にも触れたい。
1
冷戦後の日本外交―「普通の国」論再考冷戦後の日本外交論は、その変化の過大評価と過小評価の間を揺れ動いてきた。日本国 内では、日本の国際的な役割と存在感の低下を指摘する議論が主流である。積極的な日本 外交を声高に主張する一部の議論に関しても、その一見勇ましい論調の前提にあるのは、
日本外交が主体性に欠けるという現状認識である。しかしながら、上述のとおり、国外に おいては、冷戦後の安全保障政策の変化を、軍事的領域も含めて日本の世界的な役割の拡 大として意義づける傾向は小さくなく、それは欧米においても必ずしも例外ではない(3)。
諸外国に優勢な「普通の国」論は、国内政治の保守化が冷戦後日本外交の変化を導いて いるという理解に基づいている。それは、中国においてはほぼ常識化しており、当面安定 した関係を演出しようとしている胡錦濤政権の対日政策を制約する大きな国内要因となっ ている。しかし、冷戦後日本外交の変化は、国際主義的動機に基づくものであったからこ そ起きえたのであって、とりわけその出発点となった1990年代当初の日本外交から国家主 義的衝動を読み取ることは、実証的にほとんど不可能である。以下、概観してみよう。
(1) 国際平和協力への参加
冷戦後の日本外交に起きた最初の重要な変化は、国際平和協力への自衛隊の参加であっ た。1990年
8
月にイラクがクウェートに軍事侵攻すると、当時の海部俊樹内閣は、多国籍軍 により軍事行動がとられた場合に備えて自衛隊の後方支援参加を可能にすべく、法案の検 討を始めた。しかし、日本の政治と社会における戦後平和主義の影響力は依然として強く、日本政府の試みは挫折した(4)。
1991
年1月に米国主導の多国籍軍がイラク攻撃に踏み切ると、日本政府は最終的に総額130億ドルに上る資金援助で急場をしのごうとしたが、それは「小 切手外交」と揶揄された。
そこで日本政府は、当時進行中のカンボジア和平に積極的にかかわることで、湾岸戦争 のトラウマから脱しようと試みた。1991年
10月にカンボジア和平に関するパリ合意が成立
し、その合意に基づきカンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設立されると、日本政府は、UNTAC
に自衛隊を参加させるべく、1992年6
月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(国際平和協力法)を成立させた。その結果、同年9月に戦後初の自衛隊によ るPKOへの参加が実現した。
当時日本の政治や社会は、この種の国際安全保障への参画を「国際貢献」と呼んだ。「普 通の国」論との関連で言えば、通常の主権国家であれば当然に果たすべき国際的義務を、
戦後日本がようやく果たすようになったという意味で「普通の国」に近づいた、というの が当局者の大方の感覚であった。
日本の自衛隊によるPKOへの参加実績が積み重なるにつれて、憲法改正をめぐる日本の 世論状況にも変化がみられるようになった。たとえば、読売新聞による世論調査によれば、
憲法9条の改正に賛成する世論は
1986
年の22.6%から1995年には50.4%へと倍増した。そし
て、より重要なことに、憲法9条の改正に賛成する世論のうち約6
割が、憲法が日本の「国 際貢献」への参画を妨げていることをその最大の理由としていたのである(5)。そもそも自衛 隊によるPKO
への参加問題は、国際安全保障問題に「貢献」できない日本外交の根本的な 問題として捉えられていたのであり、その感覚は、1990年代の経験を通して、憲法改正を 求める世論にもおおむね根づいていったと言ってよいだろう。(2) 日米同盟の「再確認」
続いて日本政府が取り組んだのが、日米同盟の「再確認」であった。冷戦終焉後に多極 化を志向する発想が各国に生まれたのはむしろ自然であり、それは日本も例外ではなかっ た。1994年
8
月に提出された首相直属の防衛問題懇談会による「日本の安全保障と防衛力の あり方」が、日本の多国間安全保障への対応を強調する視点を打ち出すと、米国は日米同 盟が弱体化するのではないかという危機意識を抱いた。そこで当時のクリントン政権は、1995年 2
月に発表した「第3次東アジア戦略報告」
(通称「ナイ・レポート」)で、多角的安全 保障はあくまで2国間同盟を補完するものであるとする論点を明示的に打ち出した。それに 対して日本政府は、同年11月にまとめた「新防衛計画の大綱」で日米同盟の中核的重要性 を「再確認」し、米国と歩調を合わせた。以上の流れを決定的にしたのが、1994年にピークに達した朝鮮半島危機であった。それ は、具体的には、1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(通称「ガイドライン」) の改定という動きを生んだ。1978年の「ガイドライン」は、「侵略を未然に防止するための 態勢」、「日本に対する武力行使に対しての対処行動等」、および「日本以外の極東における 事態で日本の安全に重要な影響を与える場合の日米間の協力」という
3つの領域での日米協
力のあり方を定めた。しかし、戦後日本の特殊な法的、政治的、社会的制約により、第三 のいわゆる「極東有事」の際の協力については、中身に関する実質的な協議は停止状態に あった。そして、1994年にクリントン政権が北朝鮮の核施設に対する空爆を真剣に考慮す ると(6)、日米の当局者の間で、「極東有事」の際の軍事協力に関する協議がまったく進んで いなかったことが、危機意識をもって捉えられたのである(7)。こうした経緯を経て始まったのが、周辺事態への対応に備えた「ガイドライン」の見直 しであった。とりわけ、1978年の「ガイドライン」では具体的に触れることのできなかっ た「極東有事」を「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える 場合(周辺事態)」として規定し、周辺事態への対応を具体的に取り決めたことは、冷戦後 の新しい展開であった(8)。しかしながらその内実は、本来であれば制定当初に整えられるは
ずのものが、憲法の制約を抱えたままようやく実現したという意味で、基本的に「再確認」
の域を出ないとも言えるのである。
ところが、日米同盟の「再確認」が進行する1990年代半ば、台湾の民主化をめぐって中 台関係が緊迫していたことで、日米同盟の「再確認」が、中国に対して、なかでも台湾問 題に対して向けられた日米同盟の強化であるという誤解が広く信じられるようになってし まった(9)。とりわけ、1996年
3月に台湾で初の総統直接選挙が実施され、中国が大規模な軍
事演習で威圧外交を展開した直後の同年4月に、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領 が「日米安全保障共同宣言」(10)に署名したことは、不運なめぐり合わせであった。日本の「普通の国」化とは、国際舞台での軍事的役割の拡大を求める路線であると同時に、日米同 盟を利用して中国と対抗するための軍事化路線への傾斜であるという認識が生まれてしま ったからである。
(3) 人間の安全保障と国連外交
国際平和協力への自衛隊参加と日米同盟の「再確認」は、日本外交の「軍事化」とは程 遠く、その実態は安全保障政策の最低限の基盤を整備しようとしたものであったと言うべ きである。そうだとすれば、そのことだけをもって冷戦後日本外交の変化を意義づけても、
実態の半分も説明していないということになる。では、「普通の国」の日本が能動的に果た そうとした役割は何であったのか。その点で示唆的なのが、「普通の国」化が進行するとと もに1990年代後半に登場した、人間の安全保障である。日本が人間の安全保障を提起した 際に、その基本的動機として重要であったのは、冷戦後の国際社会において日本の強みを 活かした役割を模索しようとする発想であった。
日本のリーダーとして人間の安全保障を強調したのは、小渕恵三であった。その契機と なったのは、1997年のアジア通貨危機に端を発する一連の経済危機であった。小渕は、
1998
年5月4
日、シンガポールにおける「21世紀への展望―日本と東アジア」(11)と題する 政策演説で、外務大臣として人間の安全保障を唱え、1998年12
月には、首相として、日本 国際交流センターが主催する「アジアの明日を創る知的対話」で基調演説を行ない、日本 外交の柱としての人間の安全保障の考え方を詳細に説明した(12)。さらにその2週間後、ハノ
イで開催されたASEANプラス3首脳会合に出席した小渕は、国連に「人間の安全保障基金」を設立する構想を発表した。そして、翌1999年
3月に、小渕の提案どおり、国連に「人間の
安全保障基金」が設立されたのである。残念ながら、小渕は2000年
5月に死去するが、その志は、後継の森喜朗内閣に継承された。
2000
年9月に国連ミレニアム・サミットに出席した森は、
「我が国は、人間の安全保障を外交の柱に据え、21世紀を人間中心の世紀とするために全力を挙げていく考えです」との決 意を表明した(13)。その時期日本政府は、国連の場における人間の安全保障の推進を、国連 安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本外交の柱としても意識していた。国連安保 理の常任理事国を目指す日本外交の基本的動機は、人間の安全保障が代表するような経済 社会分野でこそ重要な役割を果たしうるという自覚であったのである。
しかし、中国の認識と反応はまったく異なった。とりわけ、国連創設
60
周年にあたる2005年の常任理事国入りを目指して国連外交を活発に展開していた日本に対して、同年 4月
に上海や北京で数万人規模の反日デモが発生したことは象徴的であった。小泉首相による 靖国神社訪問、歴史教科書問題、2005年2
月の外交防衛閣僚による日米安全保障協力委員会(いわゆる2プラス
2)
による共同発表(14)などを背景として、2005年3月21日にアナン国連事
務総長が記者会見で、安保理常任理事国の増加が実現すれば「アジア地域の割り当てのひ とつは日本」であると発言したことで、中国人の日本に対する鬱積した猜疑心に火がつい た。それと前後して、在米中国人団体と中国の反日ネットの動きが連動して、1ヵ月も経た ないうちに、日本の常任理事国入りに反対する3000万人の署名が集まったという(15)。中国で大規模な反日デモが発生する直前、2005年3月
1
日に、韓国の盧武鉉大統領も、歴 史および領土問題で日本を激しく批判し、日本の常任理事国入りにも明確に反対を表明し ていた。そこにある日本像と、人間の安全保障を推進する日本の国連外交の実像との乖離 は、絶望的に大きかった。2
日本の東アジア外交(1) 近隣外交の歪み
冷戦後日本外交の実像が額面どおりに理解されない最大の理由が、日本の内政の保守化 現象に対する誤解と曲解に基づいていることは上述した。しかし、中国や韓国の反応に理 由がないわけではない。なぜなら、日本の保守派が政治的攻撃を向ける対象は、戦後憲法 や戦後日本外交に関してリベラルな立場に立つ日本国内の論者や政治アクターであり、外 交面では、とりわけ近隣諸国との歴史問題や領土問題がやり玉に挙げられることが多いか らである。それは結局のところ、中国や韓国の人々の日本への誤解を正すという効果より は、彼らの固定観念をいっそう補強し、日本との感情的悪循環を増幅させる結果しかもた らさない。韓国の多元的な民主社会を反日で束ね、中国の
13億の民を反日でひとつの塊に
しても、日本外交が得るものはほとんどなく、事実、近年の保守化現象の下で、韓国や中 国に対する日本の近隣外交には大きな歪みが生じた。振り返ってみれば、1999年に故小渕恵三首相の下に設置された「21世紀日本の構想」懇 談会は、翌年1月に官邸に提出した報告書で、韓国や中国に対する「隣交」の重要性を説い た。日本がアジアで「自前の信認」を築きつつあるとの認識に立って、韓国や中国との領 土問題や思想と認識の差異を乗り越えて、国民的交流を促進しつつ新しい協力枠組みを形 成すべきことを唱えたのである(16)。
事実、上述のように、その時日本は、国際主義的発想から自衛隊の
PKOへの参加を実現
し、日米同盟の「再確認」を進め、通貨危機に苦しむアジア諸国を懸命に支援するなど、冷戦後の世界やアジアの情勢変動に、基本的に国際主義的発想から対応していた。そして
1998
年10月に小渕首相と韓国の金大中大統領との間で日韓の歴史的和解が演出され
(17)、よ うやく近隣外交の再構築が動き出すかにみえた。続いて翌11
月に訪日した中国の江沢民主 席は、日韓共同宣言と同様に謝罪を文書化するよう執拗に要求し、それが受け入れられな いとなるや、歴史問題で日本国民を刺激するちぐはぐな外交を展開した。しかし、日中の首脳が署名した日中共同宣言では、「中国への侵略」に対する「深い反省」が明記され、未 来志向の協力の重要性が強調されていた(18)。基本的に小渕政権の対中外交は、中国との安 定的な協力関係を構築しようとする志向性を示していたと言える。
しかし、21世紀に入ってからの日本の近隣外交は、1990年代とは逆のベクトルに突き動 かされるようになった。ただここで、小泉政権の外交に関する諸外国の一般的理解に関し ては、重要な但し書きが必要である。小泉は、自衛隊のイラク派遣に代表されるように米 国ブッシュ政権のいわゆる「ネオコン(新保守主義)外交」との緊密な協力を推し進めつつ、
靖国神社参拝を継続したがために、諸外国においては、「普通の国」化路線を推進した保守 派の権化であるかのように語られることが多い。しかし、小泉の歴史認識、対中認識、そ して日本の防衛安全保障政策に関する認識は、日本の政治家の間では、むしろリベラルな 立場に近い。
その小泉外交の大きな成果のひとつは、2002年9月の「日朝平壌宣言」であった(19)。小泉 は、国交正常化に向けての青写真で金正日国防委員長と合意し、5人の拉致被害者の帰国を 実現させたのである(20)。北朝鮮がそれまでは予想もされなかった対日譲歩に踏み切った背景 として最も重要であったのは、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の有用性を見限った ブッシュ政権の強硬な北朝鮮政策であったと言えるだろう。いわばコーナーに追い込まれ ていた北朝鮮が、生存戦略のための出口を日本に求めたのである。
しかしその後、日本の政治と社会では、拉致問題の未解決の部分が大きくクローズアッ プされるなかで大局的な見取り図は見失われ、北朝鮮に対する強硬論が優勢となる。こう して2000年代に入って、中国問題に加え、北朝鮮問題が日本政治の保守化現象を一気に後 押しすることとなる。
こうした保守的な衝動に基づく外交政策を明示的に展開したのは、安倍政権期(2006年
9
月―2007年9月)の安倍首相と麻生太郎外務大臣であった。安倍外交の最大の逆説は、安倍 首相の歴史問題にこだわる思想や保守的な信条とは裏腹に、靖国神社参拝に関しては否定 も肯定もしないという戦術的対応によって、就任早々中国および韓国との関係改善に踏み 切ったことだろう。ただそれは、靖国神社参拝を外交問題とみなすことを頑なに拒絶した 小泉政権時代の空白を埋めること以上の意味をもたなかった。むしろ、安倍政権が中国を意識して力を入れたのは、価値外交であった。安倍は、首相 になる前から、日本、米国、オーストラリア、インドによる「民主主義同盟」の考えを表 明していた(21)。また、麻生は外務大臣として「自由と繁栄の弧」構想を展開した(22)。その いずれも、中国を対象として名指しすることは注意深く避けていたが、そこには強い反中 意識が透けてみえていた。多くのアジア諸国は、そこに日中「戦略的競争」をみて取った。
本来であればアジアで最も先進的な民主国家である日本が堂々と展開すべき価値外交に、
国際的にほとんど支持が集まらなかったのは、まさにそのためであった。日本政治の保守 化が、中国問題に足をすくわれて日本外交の手足を縛った好例であったと言えるだろう。
(2) 東アジア共同体をめぐる外交
以上のように近隣外交が混乱する反面、1990年代終盤からの日本の東アジア外交は、地
域協力の推進で大きな役割を果たした。東アジアの地域協力が新段階に発展するきっかけ となったのは、1997年
7
月初めに表面化したタイのバーツ危機に端を発するアジア金融危機 であった。橋本政権は、その直前に日本の東アジア外交の要とすべく、日本とASEAN
の首 脳会談の定例化を提案していた。それに対してASEAN
は、日本に中国と韓国を加えたASEANプラス 3
という逆提案で応え、同年12月にクアラルンプールで、第 1回 ASEAN
プラ ス3首脳会議が開催された(23)。その後、アジア通貨危機の最中に日本が提案し頓挫した「アジア通貨基金」構想の実質 は、ASEANプラス3主導の「チェンマイ・イニシアティヴ(CMI)」として結実した。1999 年11月の第3回
ASEANプラス 3
首脳会議が「東アジアにおける自助・支援メカニズムの強 化」を謳い、2000年5月のチェンマイにおける第 2
回ASEAN
プラス3
蔵相会議が、2国間通 貨スワップ取り決めのネットワークの構築等を内容とするCMI
に合意したのである。こうした地域主義の流れは、世界貿易機関(WTO)交渉の行き詰まりへの補完として自 由貿易協定(FTA)が注目されるという趨勢によって、いっそう弾みがついた。まず日本は、
1998
年にメキシコおよび韓国とのFTAの検討を始めた。翌 1999
年には、シンガポールが日 本とのFTAを正式に提案し、政府間交渉が始まった(24)。当時中国は、こうしたFTAの展開を、WTOへの加盟に全力を挙げつつ横目でみていた。
そして、WTO加盟の目途が立ったとき、それまでWTO加盟のために動員していた知識人等 の勢力をFTAに振り向け、東南アジア諸国に対するFTA攻勢を開始した。そして、2000年
11
月のASEANプラス3
の場における中国・ASEAN
首脳会合で、ASEANとの自由貿易圏を 提案したのである。それは、2002年11
月に「包括的経済協力枠組み協定」として結実し、同協定は2003年
7月に発効した。
日中関係を「戦略的競争」関係として捉える認識が定着してしまっているためか、中国 国内はもちろん多くのアジア諸国の間で、日本は中国が先鞭をつけたFTAの流れに乗り遅 れまいとして後追いしているという理解が主流となってしまっている。しかしそれは、上 述のとおり日本外交の実態を反映していない。それ以上に、ASEAN諸国からみれば、中国 と日本とのFTAによって得られる経済的利益は、競争的というより補完的である。
ただ、中国のFTA攻勢が東南アジア諸国に好意的に受け止められる風潮が高まるなかで、
日本政府が包括的な東アジア外交の必要性をいっそう痛感したことは間違いない。それは、
中国と張り合うというよりは、中国の存在を包摂する東アジア外交の枠組みを提示すると いう動きを生んだ。その最初の代表的ケースが、2002年1月の小泉首相によるシンガポール での政策演説であった(25)。
小泉は、中国とASEANを含めた「東アジア」における「共に歩み共に進むコミュニティ」
の構築を唱え、オーストラリアとニュージーランドも「コア・メンバー」として含めるこ とを提案した。日本が東アジアにおける共同体のメンバーとしてオーストラリアとニュー ジーランドを含めたことには、日本の対中戦略を東アジア戦略と同期させようとする発想 が示されていた。外交当局者の実感としては、「将来的な共同体が拠って立つ民主主義的価 値や貿易・投資のルールを作っていく」ためにオーストラリアとニュージーランドの存在
が重要であるという判断になるが(26)、そこには、ASEANプラス
3
では中国主導の閉じた東 アジア秩序形成が進む可能性を排除できないことへの不安があったと解釈できるだろう。それは、日中間の「戦略的競争」というよりは、望ましい東アジアの将来像をめぐるコ ンセプトやヴィジョンをめぐる競争であった。それは、東アジア首脳会議の設立をめぐる 過程においても再現された。その契機となったのは、韓国の金大中大統領の提案で1999年 に東アジアヴィジョングループ(EAVG)が結成され、同グループが
2001
年11
月のASEAN
プラス3首脳会議に提出した報告書が、東アジア共同体に向けて東アジアサミット(EAS)の創設を提言したことであった。
その後日本政府は、EASに関して、その目的や
ASEANプラス3
との関係の整理等につい てより議論を深めるべきであるとの慎重論を唱えた。そして、2005年5
月に京都で開催され たASEANプラス3非公式外相会議で、ASEAN
プラス3
諸国に加えて、オーストラリア、ニ ュージーランド、およびインドの首脳を招聘することで合意を形成することに成功したの である。こうしてASEANプラス6としても知られるようになる第1回目のEASが、2005年 12月に、クアラルンプールで開催された。その過程で、アジア太平洋における米国の軍事プ
レゼンスの必要性で日本と認識を同じくするシンガポールが、積極的に日本案を後押しし たことは、望ましい東アジア秩序のあり方をめぐって両国の間に重要な共通認識があること を暗示していた。EAS
にインドが加わったのは、シンガポールの働きかけによるものだった。EASをいったん受け入れた中国は、その後 ASEANプラス 3
を東南アジア外交の主軸にすえて、EASの機能を相対化させようとする動きをみせるようになる。ただ、EASを推進した 日本の東アジア外交に中長期的な戦略的発想があったとしても、日本が
ASEANプラス 3を
舞台にした機能的協力を積極的に推進すべきことに変わりはない。重要なのは、EASに仕込 まれた中長期的な戦略的思考と、ASEANプラス3
による機能的地域協力の推進とを、総合 的な東アジア戦略として明示的に組み上げることだろう。おわりに―民主党外交の課題と可能性
民主党は
2009
年8
月末の衆議院選挙で、480議席中308議席を獲得して大勝した。他方自
由民主党は、300から119
へと議席を大幅に減らした。1955年の結党以来、自民党が第1党
の座から滑り落ちたのは、初めてであった。選挙結果は、最近保守化しつつあった自民党 主導の外交が、国民のこれまでの自民党支持とはほとんど無関係であったことを示した。多くの論者が指摘するように、今回の選挙結果が、民主党への期待の高さというよりは、
国民が自民党を見放したことを意味しているからである。
民主党外交が今後どのような変化をもたらすのかについては、やや不透明なところもあ る。とりわけ、「対等」な日米関係をスローガンに掲げ、その勢いでアジア外交に「主体性」
を見出そうとする鳩山由紀夫政権の初期の発想からは、意味のある変化は生まれそうもな い。他方で鳩山外交は、内政のみならず外交でも、斬新な変化には政治主導が欠かせない ことを示した。たとえば、2020年までに温室効果ガスを
1990
年比で25%削減するといった、ほとんど達成不可能に思える目標を掲げるような外交は、官僚による積み上げの発想から
は生まれようがない。政治主導外交の真価は、必ずしも目標や課題の実現可能性にではな く、どこまで本質的な中長期的方向性を示せるかにかかっていると言える。
鳩山が唱える東アジア共同体論にも、同様の潜在性があるように思う。東アジア共同体 論に関し、鳩山自身に明確な枠組みがあるわけではないことは、今や多くの論者が指摘す るとおりだろう。しかし、東アジア共同体論とは、基本的に長期的なヴィジョンやあるべ き姿を論ずるものであり、具体的形態や実現可能性はそれほど重要な評価基準ではない。
その意味で、鳩山が東アジア共同体論の一環として近隣外交を重視していることには、重 要な意味があるようにみえる。
鳩山は、2009年
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月、シンガポールでの政策講演で「私の東アジア共同体構想の思想的 源流をたどれば、私自身が大切にしている『友愛』思想に行き着きます」と述べ、「ほかな らぬ日本が、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた 後、60年以上がたった今もなお、真の和解が達成されたとは必ずしも考えられていない」ことを強調した(27)。日本が歴史和解に関し、依然として大きな問題を抱えているのはほか ならぬ中国と韓国である。つまり、東アジア共同体構築に向けて、鳩山が「友愛」思想で 真っ先に違いを乗り越えるべき相手である。
鳩山は、10月の韓国訪問の際に「日韓両国は、価値観を共有する重要な隣国関係であり、
アジア外交の核となるものである。更に多くの分野で協力を深めることにより、東アジア 共同体構想の実現に一歩踏み出すことが出来るものと考える」と述べ、「新政権は歴史をま っすぐ正しく見つめる勇気を持った政権である」と明確に語った(28)。この鳩山の思いは、
単に日韓
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国間関係の脈絡においてではなく、「友愛」思想に基づく東アジア共同体論とい う大枠のなかでこそ、戦略的な意味合いを帯びてくる。この種の戦略的枠組みと方向感覚は、政治主導でしか示せないだろう。多国間主義に立 脚した世界政策や、自立外交の舞台をアジアに求める志向性は、民主党外交の、そして日 本外交の新たな方向性を的確に示していると思う。戦略的にはほとんど意味のない対米
「対等化」の試みによって、アジア外交まで混乱することは大変もったいないことである。
今後民主党外交が、対米「依存」への反動としてではなく、日米関係を積極的に活用する 視点に立って再設計されることを望みたい。それは、保守化現象がもたらす混乱にもかか わらず機能してきた日本の東アジア外交を、外交戦略として明示的に顕在化させる作業と なるのではないだろうか。
(1) 白石隆「東アジア共同体の構築は可能か―日米同盟との両立を探る」『中央公論』第121巻第1 号(2006年1月)、125ページ。
(2) 岡部達味「日中関係の過去と将来―誤解を越えて」『外交フォーラム』No. 151(2001年2月)、 20ページ、五百旗頭真「反中 原理主義 は有害無益である」『中央公論』第119巻第5号(2004 年5月)、87ページ。
(3) たとえば、Kenneth B. Pyle, Japan Rising: The Resurgence of Japanese Power and Purpose, New York:
Public Affairs, 2007.
(4) 信田智人『冷戦後の日本外交―安全保障政策の国内政治過程』、ミネルヴァ書房、2006年。
(5)『This is 読売』1995年5月、149ページ。
(6) Don Oberdorfer, The Two Koreas: A Contemporary History, New York: Basic Books, 1998, pp. 312–316.
(7) 船橋洋一『同盟漂流』、岩波書店、1997年。
(8)「日米防衛協力のための指針の見直しの終了」、1997年9月23日(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/
usa/hosho/kyoryoku.html、以下Webアドレスへの最終サクセス日は、いずれも2009年12月12日)。
(9) Yoshihide Soeya, “The China Factor in the U.S.-Japan Alliance: the Myth of a China Threat,” Journal of East Asian Studies, Vol. 2, No. 2(August 2002).
(10)「日米安全保障共同宣言―21世紀に向けての同盟」、1996年4月17日(http://www.mofa.go.jp/
mofaj/area/usa/hosho/sengen.html)。
(11) 小渕外務大臣政策演説「21世紀への展望―日本と東アジア」、1998年5月4日(http://www.
mofa.go.jp/Mofaj/press/enzetsu/10/eo_0504.html)。
(12) 小渕総理大臣演説「アジアの明日を創る知的対話」、1998年12月2日(http://www.mofa.go.jp/
mofaj/press/enzetsu/10/eos_1202.html)。
(13) 森総理大臣演説「国連ミレニアム・サミットにおける森総理演説」、2000年9月7日(http://www.
mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/12/ems_0907.html)。
(14) それは、「地域における共通の戦略目標」として、「台湾海峡を巡る問題の対話を通じた平和的解 決を促す」、「中国が軍事分野における透明性を高めるよう促す」と述べた。日米安全保障協議委員 会「共同発表」、2005年2月19日(http://www.mofa.go.jp/mofaJ/area/usa/hosho/2+2_05_02.html)。
(15) 毛里和子『日中関係―戦後から新時代へ』、岩波新書、2006年、196―197ページ。
(16) 21世紀日本の構想懇談会(河合隼雄監修)『日本のフロンティアは日本のなかにある―自立と
協治で築く新世紀』、講談社、2000年。
(17)「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」、1998年10月8日(http://www.
mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html)。
(18)「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」、1998年11月30 日(http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_98/c_kyodo.html)。
(19)「日朝平壌宣言」、2002年9月17日(http://www.mofa.go.jp/Mofaj/kaidan/s_koi/n_korea_02/sengen.html)。
(20) 田中均『外交の力』、日本経済新聞社、2009年、124―130ページ。
(21) 安倍晋三『美しい国へ』、文藝春秋社、2006年、160ページ。
(22) 麻生外務大臣演説「『自由と繁栄の弧』について」、2008年3月12日(http://www.mofa.go.jp/policy/
pillar/address0703.html)。
(23) 田中明彦『アジアのなかの日本』、NTT出版、2007年。
(24) 宗像直子「日本のFTA戦略」、添谷芳秀・田所昌幸編著『日本の東アジア構想』、慶應義塾大学 出版会、2004年。
(25) 小泉総理大臣のASEAN諸国訪問における政策演説「東アジアの中の日本とASEAN―率直な パートナーシップを求めて」、2002年1月14日(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/14/ekoi_
0114.html)。
(26) 田中、『外交の力』、163ページ。
(27) 鳩山総理によるアジア政策講演「アジアへの新しいコミットメント―東アジア共同体構想の 実現に向けて」、2009年11月15日(http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200911/15singapore.
html)。
(28)「日韓首脳共同記者会見」、2009年10月9日(http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/09 kyoudou.html)。
そえや・よしひで 慶應義塾大学教授