はじめに
アフリカとそれを取り巻く状況は、変転を繰り返してきた。他方で、日本の、政府開発 援助(ODA)を中心とする対アフリカ政策も変容してきた。その変容を、長期の時代の変遷 のなかに位置づけて考えてみようというのが、本稿の第一の目的である。
変転してきたとはいえ、アフリカが引き続き、貧困や紛争など大きな問題を抱え、外か らの支援を必要としていることには変わりがない。それらの諸問題との関係のなかで、変 容を重ねてきた日本のアフリカへの援助のあり方を、特に日本の側からの視点で検討し、
今後の課題について議論すること、これが本稿の第二の目的である。
以下ではまず、第
1節において、日本の対アフリカ援助政策を捉えるために、
「反応国家」の概念にあらためて注目し、日本を「反応国家」たらしめる内的要因、特に政治的意志の 欠如について検討する。その検討を踏まえて、第
2節では冷戦時代に展開した早い時期の日
本のアフリカ援助のあり方について、第3節では冷戦終焉を受けた対アフリカ援助の大きな 変化について、第4節では21世紀にかけての、新興国の台頭やアフリカの「成長反転」に応 じたさらなる変化について、それぞれ考察する。なお、本稿でアフリカと言う場合は、特に断わらない限り、サハラ以南のアフリカを指 すものとする。
1
「反応国家」の対外経済政策と対アフリカ政策(1)「反応」としての対外経済政策
日本の対アフリカ援助政策は、一種の「反応」として捉えることが可能だろう。
カルダーは、日本は、能力と誘因をもちながら、独自の対外経済政策をとることができ ず、「不規則で、系統的でなく、しばしば不完全なかたちで」、外圧に敏感に反応して政策を 変化させる「反応国家」(reactive state)であると形容した(Calder 1988, p. 519)。「反応国家」
論を応用しつつ対アフリカ援助外交を考察した佐藤は、カルダーが重視した対米経済交渉 などと異なり、対アフリカ関係は、第三者の影響を大きく受ける「(第)三者関係性」をみる ことなしには理解できないとする(佐藤
2007、9
ページ)。カルダーは、日本の開発援助の展開をも「反応」と捉え、日本の援助の原型である戦争 賠償は米国の指示の下に行なわれ、その援助の地域的拡大は米国の戦略的な利益に沿った
ものであったとしている(Calder 1988, p. 523)。そうであれば、日本の援助には、米国という、
日本の戦後史にとって最も重要な第三者の介在が重要な意味をもっていた、ということに なる。それは、佐藤が言う意味での「第三者関係性」の典型的な例であろう(オアー
1993、
参照)。
(2)「反応」性の要因とその問題性
では、なぜ日本の対外経済外交は、上に述べた意味で「反応」的となるのか。カルダー は、その要因として、自国の経済成長に集中しようとした戦後日本の方針と、日本を取り 巻く日米関係など国際システムの2つを挙げている。この国際システムによる規定が、上記 の「第三者関係性」に密接に関係しているだろう。これに加えて、彼は、日本では各省庁 間の明確な分担と強い統合機能が欠けているために、政策決定が分断され、統一的な意思 が形成されにくいという内的要因を挙げている(Calder 1988, pp. 528–529)。「行政あって政治 なし」と形容してもよい状況がそこにある(1)。
「行政あって政治なし」という状況は、対アフリカ支援政策のような国内政治で議論にな ることがまれな問題にはより妥当するように思われる。そのことは、日本が、アフリカが 抱える深刻な問題群への対処に確固たる政治的意志をもって取り組んできたのか、という 点から問われなければならないことを意味している。そして、それは上に述べた状況が遍 在する日本にとって今日的な問題であると言ってよい。
さて、上に記した以外に、日本の援助を、「反応」的で、また「系統的でない」印象を与 えるものとしてきた要因があるように思われる。それは援助対象国の国内問題への関与を 控えようとする傾向である。こうした傾向はいわゆる要請主義との関連で語られることが 多いが、より踏み込んで、これを、援助の経験のなかで形成されてきた、相手国の営為を 尊重しようとする態度の発露として捉える向きがある(渡辺
1991、参照)
。この捉え方は、「自助努力支援」という日本独自の理念の基礎となったという意味で重要なものである。が、
相手国の国内の政治や政策への関与を控える傾向は、むしろ日本の援助が植民地支配や侵 略という道徳的負債から出発し、相手の政策の良し悪しに口を出すことはそもそも問題に ならなかったという日本特有の履歴に決定づけられていることを思い起こすことが必要で
あろう(高橋
2003)
。この点で、日本の援助が賠償を原型とすることは、単にカルダーの言う米国の指示との関係からだけ重要なわけではない。他方で、相手国の政治や政策への関 与を控える傾向は、軍事や外交のコストを節約して、経済成長に専念しようとしてきた戦 後日本の方針に密接に関係していよう。
以上をまとめると、日本の対アフリカ支援政策の「反応」性を決定づける要因は、①経 済成長至上主義、②国際システムによって規定される「第三者関係性」、③行政を統合する 政治的意志と機能の欠如、という対外経済外交一般に共通するものに加えて、④歴史に規 定された対象国の内政への関与を抑制する傾向、と想定できよう。以下ではこれらを踏ま えて対アフリカ援助の変遷をたどってゆくことにしよう。
2
冷戦終焉以前の対アフリカ援助政策の展開(1) 対アフリカ援助の本格的開始
日本の対アフリカ援助の展開は「反応国家」論、特に「行政あって政治なし」という観 点からどのように捉えられるのだろうか。そのことを念頭に、冷戦時代の対アフリカ政策 を、対アフリカ援助が本格的に開始されたと言ってよい
1970年代にさかのぼって考えてい
こう。1970年代には、戦後日本にとっての最大の経済危機であった石油ショックへの対処を主
旨として総合安全保障が掲げられた。石油ショックの引き金をひいたのは言うまでもなく アラブ諸国であり、石油資源確保の焦慮にかられた日本政府はそれまで等閑視していたア ラブ諸国等との関係強化に乗り出した。ところが、援助では1970年代に最も伸び率の面で 増えたのはアラブではなく、アフリカ諸国向けだった(今井1993、197― 198ページ、23ページ
第1図参照)。その後アフリカは日本の援助のなかで、10%前後の比率を長く保ち続けること になる。こうしたアフリカへの援助の拡大の要因は何か。そのことに関連して佐藤は、1974年に 外務大臣として最初のアフリカ諸国歴訪を行なった木村俊夫の述解を引用している。木村 は、資源供給先の多様化の要請に加えて、東南アジア諸国での反日暴動を受けて、未開拓 のアフリカとの外交関係構築に先手をとる必要性を感じていたと言う。この木村の指摘か ら、佐藤は、アフリカ外交の本格的拡大は、アラブやアジアという第三者に突き動かされ たものだとする。また、その後のアフリカ政策も国際社会や米欧という第三者との関係の 下で展開されてきた面をもつと言う(佐藤
2004、同 2007)
。当時の日本のアフリカ向け援助増大の理由として、今井はアジア偏重および譲許性の低 さを「国際社会」から批判されたことへの対応を挙げている(今井
1993、198ページ)
。この 場合の「国際社会」の中心は、経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)の成 員として援助国コミュニティーを構成する米欧諸国だと言ってよい。援助国のコミュニテ ィーは数のうえでは、圧倒的にヨーロッパ諸国によって占められている。旧宗主国かそう でないか、また福祉国家の理念に基づく貧困国援助への強い志向性をもつか否か、などに よってさまざまに異なるものの、ヨーロッパの援助諸国は、ほぼ一様にアフリカ諸国を主 要な援助対象としている。地理的な近接性に加えて、アフリカには貧困を抱えた国々が多 いことが要因となっていよう。そうしたヨーロッパ諸国の目からみれば、アジアを偏重す る日本は奇異に映っていた。アフリカの貧しい国々にとって日本が多用していた円借款の受け入れは容易ではなく、
供与する側としては贈与・技術協力といった無償援助を中心にして譲許性を高めざるをえ ない。アフリカへの援助を増やすことは、同時に低い譲許性に対する他の援助国の批判を かわすことに直結していた。この点を考えても、佐藤が言うような「第三者関係性」がア フリカ支援の増加に伴っていることは、否めない事実であろう。
要するに
1970年代の日本のアフリカ援助の本格的開始は、アジア諸国や援助コミュニテ
ィーの他の諸国との関係において、「第三者関係性」の側面を多分に抱えていた。ただ、注 目してよいことは木村元外相が、指導的政治家の一人としてアフリカとの外交の緊密化の 動機を明確に語っていることである。興味深いことに、木村は南北問題が今後の世界にお いてますます重要となるという認識を示し、日本として反植民地主義、反人種差別主義の 立場から、アフリカと手を携えることを唱え、この点で対米追従から脱することも示唆し ている(木村・福永
1975、同 1976)
。(2) アパルトヘイトへの対応―経済的国益と国際的正義のはざまで
問題は、木村の言うような経済的国益、国際的正義、あるいはその双方を統合したもの が、日本なりの対アフリカ経済関係を規定する政治的意志になりえたのか、ということで ある。その試金石だったのが、1980年代までの、アフリカの人種差別体制、とりわけ南ア フリカ(南ア)のアパルトヘイトに対する政策だろう。南アは、大きな購買力をもち、希少 金属の供給地であった。その一方で国際連合での反アパルトヘイトの決議に基づき、多角 的な制裁を科されていた。ここにおいて、日本の経済的国益と国際的正義のそれぞれの追 求は、相互に矛盾を来すことになったのである。1980年代前半までに、日本は一方では人 種差別反対を表明し、南アへの直接投資を禁止するなど制裁決議に従いながら、他方で南 アとの貿易関係を拡大し、批判を浴びた。
森川は、こうした日本の「道徳的に頽廃した」態度は、上に述べたような経済的理由に 加えて、米国との同盟関係と共産主義の脅威、「名誉白人」として扱われてきた歴史的経緯 などを背景として、著しい秘密性のなか、少数の政財官エリートによって形成されたもの だとする(Morikawa 1984, pp. 140–141)。この指摘は当時の対南ア政策の確信犯的な一貫性を 示唆するものである。しかし、上に述べたような「反応国家」、特に「行政あって政治なし」
という見方と整合的な、別の説明も可能だろう。それは、対南ア政策は、明確な政治的意 志の下で、周到な計算によって作られたのではなく、むしろ経済的国益と国際的正義の間 に明確な折り合いをつけられずに、状況対応的に矛盾を残したまま展開された、というも のである。1980年代半ば以降の事態は、後者の説明を裏付けているようである。日本政府 は、南アに対抗するフロントライン諸国への援助の強化を掲げ(例えば、外務省経済協力局
編
1988、353、394ページ)
、1984年にはフロントライン諸国の中心であるザンビアに当時の安倍晋太郎外務大臣が赴いた。なお、このとき安倍外相は、国際的にばかりでなく、国内 でも関心を集めた飢餓問題を受けて、ザンビアとともに、エジプト、エチオピアの旱魃被 災地を訪れている。1985年以降日本は、一部品目の禁輸および企業への自粛要請により、
南アとの貿易量を抑制する措置をとった。事態を複雑にしたのは、1986年米国が反アパル トヘイト包括法を制定し、その翌年日本の南アとの貿易額が、円高も一部寄与して急伸し、
世界最大になったことである。1988年、米国議会をはじめとする海外における日本への批 判に危機感を抱いた外務省は、日本経済団体連合会(経団連)へのさらなる貿易自粛の直接 要請や貿易抑制のマニュアル化の提案などの踏み込んだ対応をみせた。これに対して通商 産業省(当時)は頭越し・押し付けだと反発し、両省の対立と各々の政界工作が表面化し、
新聞各紙によって報道される異例の事態となった(2)。
元外務審議官の小倉は、「名誉白人」としての自分が南アの虐げられた人々への連帯感を 表現できなかった若き日のもどかしさを回想している(小倉
2003、19ページ)
。日本のエリ ートのなかにも、木村や小倉のように個人的に反人種差別主義を胸にいだく人々はいた。安倍外相の歴訪も、一時的にせよ盛り上がったアフリカの飢餓問題への国内の関心の盛り 上がりを踏まえた政治的対応とみることができる。
1988年当時の外務省にも国際的正義である反アパルトヘイトの理念を進んで国内で広め
ようとする動きが一時的にみられた。しかし、はっきりしているのは、このときの外務省 の対応は、タイミングから言っても明らかに虐げられた人々への連帯感というより、むし ろ米国をはじめとする第三者への「反応」だったことである。他方、通産省の強い反発に は経済成長至上主義の表出をみることもできるだろう。第三者との関係性と経済成長至上 主義とのあからさまな衝突を生じさせたのは、大局的観点から行政の各部署の食い違いを 超克しようという、政治の指導的・統合的機能の不在である。そして、小倉が言うように、日本政府全体としては、アパルトヘイト廃絶には「事実上斜に構えた」(小倉
2003、13ペー
ジ)状態となったのである。恐らく「斜に構えた」状態が続くことは、森川も憂慮したように他のアフリカ諸国の反 感を招いただけでなく(Morikawa 1984, p. 140)、国際社会における日本のイメージを傷つけた だろう。それは、少数のエリートによる陰謀(と誤算)のせいであるよりも、長期的観点か らアフリカ政策を考えようとする政治的意志を日本が備えていなかったことに帰せられる べきように思われる。そうした状況から日本を救ったのは、南ア自体が、冷戦の終焉に直 面して、1990年にアパルトヘイトの廃絶に乗り出したことであった。
(3)「反応」としての
1980年代における対アフリカ援助の展開
さて、東西冷戦が終焉を迎えるまでの間に、日本の援助は急激に増大した。政府開発援 助(ODA)中期目標(3)が立てられ、それに応じて援助を拡充するための日本なりの努力が行 なわれた。しかし、援助の飛躍的な増大は、やはり第三者への「反応」としての性格を濃 厚に帯びていた。まず、オアーの指摘のように、大きな援助額を供与することは米欧に追 いつくことであるという近代化論的な動機が働いていたかもしれない(オアー
1993、167ペ
ージ)。より明確なのは、1980年代日本は、最大の貿易黒字を抱える国として、米欧からそ の還流を求められていたことである。円借款を主力とする開発援助はそのための有力な手 段のひとつだったのである。さらに1985年のプラザ合意以降の円高によって、日本の援助 は、ドルベースで、相当部分労せずして巨大化した。中期目標も外務省を中心とした行政 レベルの調整によって作られたものである。アフリカにかかわって重要なことは、1980年 代半ば、米国政府が、アフリカを特に指定して、日本政府に対して援助の拡大を求めたこ とである(オアー1993、156ページ)
。1970年代以降の変転極まりない世界の経済情勢は、主要先進国
(G7)間の財政・金融の協調を強く促し、還流資金を増大させた日本は国際協調の一角を担う国として次第に重き をなすようになった。アフリカの援助には、四省庁体制の下で円借款に最も強い影響力を もち、国際開発金融機関への対応を担当する大蔵省(当時)、特に同省国際金融局および日
本の対外金融機関(海外経済協力基金〔OECF〕等)が、世界銀行(世銀)と国際通貨基金
(IMF)などへの拠出者あるいはそれら国際開発金融機関との協調融資の担い手として、間 接的に関与するようになった。こうした世銀・IMFなどへの支援の相当部分は、構造調整 を後押しするために供与されたのである。構造調整は、資金支援と引き換えに、いわゆる ワシントン・コンセンサスに則った市場原理の導入などの政策条件を途上国に迫るもので ある。社会的な負の影響などへの批判はあったものの、構造調整の基本的な考え方はG7お よびOECD-DACに集う援助諸国の合意によって支持され、そのことが構造調整に強い推進 力をもたらした。日本の構造調整への支援は、アフリカの状況への対応というだけではな く、むしろG7等での合意を実施に移すために供与されていた面があっただろう。こうした 援助側の広い支持にもかかわらず、構造調整はアフリカを当時の深刻な停滞から救い出す 特効薬にはなりえなかった。
円借款以外に無償資金協力、技術協力も援助として供与され、対アフリカ援助は日本の 援助全体の一部として定着し、それにかかわる実務的な意思決定は組織的・日常的に、外 務省および実施機関の実務担当者によってなされるようになった。冷戦後の世界に向かう なか、経済停滞のせいもあって、アフリカの貧困諸国には円借款の供与は次第に難しくな り、無償と技術協力が主体となっていった。
3
冷戦後の展開―トップ・ドナー化から債務救済へ(1) 冷戦終焉による環境の劇的変化
東西冷戦の終焉は、日本の対アフリカ関係、特に援助を取り巻く状況を大きく変えた。
一党独裁制のいわば本山であるソ連の崩壊は、同様の政治体制をとっていたアフリカ諸国 に深甚な影響を与えた。アフリカの全域にわたって複数政党制への移行、政治的自由化の 波が生じた。米欧の援助諸国はこぞって、援助の停止や削減をテコに既存の権威主義政権 の抵抗を抑えつつ、その波を後押しした。これは、援助側が一致して政策条件を援助と引 き換えに迫る構造調整的なアプローチが、経済的次元から政治的次元にも及んだものと言 える。
そのかたわら、政府開発援助は最大の援助国である米国で危機を迎え、日本が額のうえ で援助国の首位となった。米国国内では、戦略上の理由づけが難しくなった政府開発援助 の不要論が噴出し、1990年代半ばには国際開発庁(USAID)の廃止までもが議会で議論され る事態となった。当時のクリントン政権は、援助の増額よりも「アフリカ成長機会法
(AGOA)」の下で、むしろ米国の市場の開放による輸入の拡大によってアフリカ開発を支援 しようとした。日米の間では、1993年から、共通の関心であるグローバルな問題で二国間 協力を行なおうとする「日米コモン・アジェンダ」が官民連携の下で展開しているが、冷 戦時代のように米国が強い圧力をもって日本に対して援助の増額と再配分を迫る必要性は、
著しく弱まった。
こうした援助の重要性低下の影響は、世銀などの国際機関やヨーロッパの援助諸国にも 波及した。世銀やヨーロッパ諸国にとっては、援助が開発や貧困削減に効果を挙げてこな
かったことへの幻滅、すなわち「援助疲れ」も深刻な意味をもった。とりわけ、世銀にと って、構造調整がアフリカを停滞から救い出すことができず、むしろ新しい貧困を作り出 しているとの批判が痛烈な意味をもった。こうした援助の危機のなか、米欧諸国の援助は 量の面で停滞することになったのである。
(2) 冷戦後の日本の援助と対アフリカ関係
これに対して、主要な援助対象である東アジア諸国が高度の経済成長を遂げるなか、少 なくとも1990年代前半の日本は「援助疲れ」とはほぼ無縁の状況にあった。米欧の援助の 停滞を穴埋めするように日本の援助は拡大していった。日本は、1990年代を通じてほぼ額 の面で最大の援助国であり続け、一時は、二国間援助の5分の1から4分の
1は日本の援助が
占めるまでになった(4)。1992年、日本政府は、
「政府開発援助大綱」を閣議決定した。そこでは先述のような「自助努力の支援」が謳われた。それまで援助の理念の欠如が批判され、外務省や通産省はそ れに応えようと行政レベルでの文書を通じて援助についての考え方を表明してきたが、そ こに盛り込まれたものは、「人道的配慮」や「国際的相互依存の認識」など正当化事由を語 るだけのもので、援助の内容について明らかにするものではなかった。ODA大綱は、行政 主導の性格は否めないものの、曲がりなりにも政治レベルでの決定であり、また「自助努 力の支援」は、日本なりの援助アプローチのあり方を表明するものだった(高橋1998、参照)。 同大綱の閣議決定は、巨大化したODAの規模に応じて、それまでの縦割りの運営を乗り越 え、全体としてのまとまりを何とか形作ろうとする苦心の表われだったとみることができ よう。
1980年代以降の東アジア諸国の順調な成長を受けて、通産省を中心として形成されてき
た考え方のひとつは、日本の円借款を中心とした援助がインフラ整備や技術移転を通じて、貿易・投資と連携し、東アジアの経済発展、とりわけ輸出志向型の製造業発展と域内経済 関係の緊密化を促してきたのであり、こうした経験を広げてゆくべきだという見方である。
こうした考え方は、後に「ジャパン・
ODAモデル」と称されるようになる
(5)が、「自助努力 支援」の理念が想定しているものも、過去の東アジアでの経験として語られるように、貿 易や投資など民間の経済主体の活動が援助によって支えられ、途上国の自立的な製造業発 展が生起していくというものであったろう。同理念の主唱者である渡辺は、今後の援助の 展開過程でアフリカなどの地域に合わせた「自助努力支援」のかたちが作られていかなけ ればならないと述べている(渡辺1991、95―96ページ)
。また、ODA大綱策定と同じ
1992
年、OECFは、パートナーとしての立場から構造調整支 援に関する世銀の考え方を批判する文書を発表した。この文書に込められているのは、東 アジアの経験を踏まえ、それ以外の地域、すなわちアフリカなどでの構造調整の失敗を念 頭において、貿易や投資の振興に対し、政府がより大きな役割を果たすべきであるという メッセージである(海外経済協力基金1992)。それは、構造調整の背後にある市場原理主義的 なワシントン・コンセンサスへの部分的な異議申し立てと言ってよい。OECFが、所管官庁 であり、世銀・IMFへも理事を送り出している大蔵省と無関係に世銀批判をすることは難しいことを考えれば、上記の文書は大蔵省の意向も何がしか反映していると推測すること が可能であろう。
さらに翌1993年、日本政府は外務省を中心として第
1回の東京アフリカ開発会議
(TICAD)を主催した。そこでは、「アジアの経験の移転」が課題とされ、アジアとアフリカとの南南 協力を推し進めることが打ち出された。
これらの
1990年代初頭の一連のできごとは、日本の最大援助国化と援助対象国である東
アジア諸国の経済発展によって日本の行政が、全体としてかつてない自信をもち、援助に おける自己主張を開始したものだ、とみることができる。また米国における援助の戦略的 価値の低下や、それに伴う日本の対アフリカ政策への同国の関心の弱まりによって、日本 は一定の自律性をもちえるようになったと考えられる。外務省は、日本を「ODAのリーダ ー」であると呼ぶようにさえなった(外務省経済協力局編
1995)
。しかし、こうした自信は、受け入れ国の国内政治への関与の自己抑制を払拭しようとい う動きにはつながらなかった。日本は平和主義的原則とともに、民主化・人権の考慮を
ODA
大綱に盛り込んだ。平和主義の面からは、その後相次いだ中国、インド、パキスタン の核実験について無償資金協力の停止など、独自の措置に踏み切った。他方、アフリカ諸 国等の政治的自由化については、後押しに積極的な米欧諸国に歩調を合わせるだけの場合 がほとんどであった。また、対ケニア援助のように、円借款を含む巨額の援助を供与し続 けたために、権力の座にあって野党の抑圧を続ける従来の権威主義政権の指導者を支援し ていると批判されたケースもあったのである。4
暗転と反転―ODAの冬の時代とアフリカ・中国関係の深まり(1) 援助改革、債務救済、および貧困削減
1990年代、米欧の援助諸国政府は「援助疲れ」を超えて援助の存在理由を証明すること
を迫られた。そして、援助の効果を高めるための改革をめぐる多国間の論議が、OECD-DAC
を中心に始められた。そこで念頭におかれたのは、アフリカの援助の現場における諸 問題である。その諸問題として、ひも付きに起因する高いコスト、多過ぎるプロジェクト が互いの連携なしに実施される「援助の氾濫」、援助で生じた途上国側の資金的余裕の非生 産的な費消(ファンジビリティー(6)の負の効果)、援助の供与自体が途上国の主体性を奪う援 助依存などが挙げられる。こうした問題を克服するためにヨーロッパ諸国が中心となって、援助効果を向上させるための改革が追求されたのである。日本も総論としては、援助改革 の動きに賛同し、2005年の援助効果向上にかかわるパリ宣言にも署名した。
だが、援助改革の議論の過程ではヨーロッパ諸国と日本の間に軋轢が生まれた。1997年 の労働党政権成立後新たに省として独立した英国の国際開発省(DFID)のショート初代大 臣が、日本をはじめとする他の援助国のひも付きを厳しく批判した。また援助改革の柱と して提案された、多様な次元での援助国・機関相互の協調の急激な進展に対しては、日本 が「顔の見える援助」の国内的要請を無視し、特に米欧のコンサルタント等を利するもの だと疑問を呈した。
1990年代後半にはアフリカの低所得国を中心に、1980
年代以降に借り入れた構造調整融 資を含む債務の返済期日が訪れ、支払いが滞る場合が増えてきた。返済負担が債務国の貧 困削減を妨げているとして、2000年の節目に低所得国の債務を帳消しさせようという運動 が、ヨーロッパを中心に広まった。これに対して、1990年代低所得国への資金貸与の相当 部分を担った日本政府は、債務帳消しはモラル・ハザードを引き起こし、対象国の信用を 失墜させ、資金のさらなる借り入れを難しくするものだとして抵抗し、米欧の債務救済運 動関係者から強い批判を浴びた。貧困国債務帳消し問題の決着は主要国(G8)首脳会議に持 ち込まれ、英国などの多数派工作のために日本は劣勢に立たされた(Short 2004, p. 84)。最終 的には1999年のケルン・サミットで、貧困削減戦略の策定とそれに従った改革実施を途上 国側に求めることを条件として広範な拡大重債務貧困国救済スキームが発足した。日本は 押し切られたかたちで決定を受け入れ、債務の帳消しを進めていくことになる。借款援助 の担当であった財務省や国際協力銀行(JBIC)はこれを境にいったんアフリカや貧困国の支 援への関心を大きく喪失し、債務救済後の対応で日本は大きく立ち後れることになる(高橋2008参照)
。低所得途上国の債務の帳消しとその背景にある財政破綻は、行財政の改革および政府の 最低限の役割である教育・保健へと、多くの援助諸国の関心を集中させた。2000年に国連 特別総会で採択された「ミレニアム開発目標(MDGs)」で、教育および保健の面での貧困
(人間貧困)の削減に重点がおかれたのはそのことを象徴している。特に英国を中心とする ヨーロッパ諸国は、こうした貧困削減の潮流を牽引し、MDGsに記された国民総所得(GNI)
の0.7%への援助増額のための努力を重ねた。日本の外務省は
MDGs
に総論は賛成しながら も、教育や保健のみを重視する傾向に対しては違和感を隠さず、「経済成長を通じた貧困削 減」を掲げ、インフラ整備や職業訓練の重要性を唱え続けた(外務省2002)
。それは「アジ アの経験」を踏まえ、東アジア諸国の産業発展の支援に多用された円借款および経済部門 の援助の存在意義を強調するために主張されたと言ってよいだろう(高橋2009)
。「アジアの 経験」の重要性は、1998年、2003年、2008年と回を重ねたTICADでも繰り返し強調された。
東アジア諸国の目覚ましい成長と生活水準の向上は紛れもない事実であったが、1997年の アジア金融危機の後では、その魅力は陰らざるをえなかった(小倉
2003)
。さらに、こうした動きと並行して1997年から進んだのは、日本における援助予算の削減 であった。米国の日本の援助への関心の低下、アジアの高度成長、そして何よりも日本の 財政危機が、日本の政治・行政に広範に存在していた援助の増額という目標についてのコ ンセンサスを崩壊させたと言ってよいだろう。その背景には、すでに米欧に追いつくとい うことが日本の政策形成の誘因として強く作用しなくなったことや長引く経済不振で日本 のエリートの自信がもろくも崩れたことがあるかもしれない。援助増額路線を守るべき外 務省は、21世紀初頭の機密費流用事件等のスキャンダルで発言力を低下させた。
したがって、上述の
MDGsの援助増額の目標は、日本国内においては国際公約としての意
味を実質的にもっておらず、日本の援助は、GNIの0.2%前後で低迷している。すでに述べ
たように、日本は一連の国際的な援助改革、貧困削減理念の主流化にも一定の距離をおいている。ここで、重要なことは、日本が援助改革や増額への、特にヨーロッパからの国際 的な圧力にはそれほど敏感に「反応」していないことである。むしろ日本の側には、ヨー ロッパ主導の路線への疑義や反発が生じた。
それは、東アジアへの支援という「成功体験」など自国なりの経験を重ねた日本が、ヨ ーロッパとは立場を異にしていることの反映と言えるだろう。反面、これらのことは、先 に述べたような援助の効果にかかわる諸問題に関して日本側に十分な理解がないという、
ヨーロッパ側の不信をより強めることになった。それは、日本がもはやヨーロッパに追随 するだけの国ではなくなったことを意味する一方で、日本が従来のように第三者に対して
「反応」する余力を失っていったことの反映でもあったろう。
(2)
21
世紀における対アフリカ支援の変化と課題21世紀に入って、日本の対アフリカ政策はまた新しい展開を遂げようとしている。
2001年の米国同時多発テロ以降の「テロとのたたかい」の下で、日本は、平和的手段を
交えてイラクやアフガンへの支援を強化してきた。海外派兵を自制している日本において、ODA
を通じた平和構築支援への期待は大きく、日本の援助は新しい局面に入ることになっ た(7)。そこでは、明らかに、途上国への関心を取り戻した米国への協力という要請が強く作 用しており、過去と同様の「反応」性、「第三者関係性」を指摘しなければならない。しかし、ODAの平和構築分野への拡大を米国との関係の側面からのみ説明するのはやや バランスを失しているだろう。2003年には、新たな
ODA大綱が閣議決定され、
「人間の安全 保障」が日本の援助の内容を規定する理念として盛り込まれた。そこには、人間、すなわ ち援助対象国の「個々人」を支援の対象とするという考え方が明記されている。それは、1990年代以降に相次いだ国家の破綻と人権の蹂躙、貧困の放置という状況を受け、国家主
権を絶対不可侵のものとみなすのではなく、貧困の削減のみならず平和の定着の点から 人々の保護と支援を強化するべきであるという考え方が力を得てきたことに共鳴したもの でもあろう。第三者のお仕着せでも、日本の過去の経験でもなく、今日の貧困国の状況に 向かい合おうとする考え方の芽生えをそこに垣間見ることもできるように思われる。ただ、理念上の変化と現実の対応には常に食い違いがある。人間の安全保障が最も深刻
第 1 図 日本のサハラ以南のアフリカ向けODAの推移
3000 2500 2000 1500 1000 500 0
40 35 30 25 20 15 10 5 0 1960 1962 1964 1966 1968 1970 1972 1974 1976 1978 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008
(100万米ドル) (%)
二国間援助全体に占める サハラ以南のアフリカの割合(%)
サハラ以南のアフリカに対する援助額
OECD, Stat Extract (http://stats.oecd.org/).
(出所)
(年)
な問題となる地域は、言うまでもなくアフリカである。しかし、日本は破綻状態にあるア フリカの国家の問題に関与する姿勢を目に見えて強めているわけではない。また、額を指 標にするには慎重になる必要があるが、第1図にみるように、21世紀に入ってアフリカへの 援助純額(供与額から円借款の返済額を除いたもの)は、むしろ絶対額・比率ともに落ち込み、
比率のほうは
26年ぶりの低さとなった。これは、アフリカ向け援助の主体となってきた無
償資金協力・技術協力が、予算抑制の影響を受けたことが影響しているだろう。こうした状況を動かしたのは、再び第三者であった。まず米欧の主要国は、2005年に英 国で開かれたグレンイーグルス・サミットにおいて、2010年までにアフリカへの支援を倍 増させることで合意し、日本もこれに同調することになった。しかし、2000年代半ば以降 の対アフリカ支援を取り巻く状況がそれまでと違うのは、中国という新しい第三者が登場 したことである。
(3) 新たな第三者の登場
中国はまず、その高度経済成長によってアフリカの状況そのものを変えつつある。中国 の成長は先進国が低迷するなか、世界経済の牽引役となっている。特に、自国の鉱物資源 の輸出を手控え、生産できない資源を大量に輸入することによって資源ブームを引き起こ し、米国の資源輸入先多様化も相まって、アフリカの資源への需要を大きく拡大させるこ とになった(8)。資源ブームは2003年に始まるアフリカの「成長反転」(平野
2009)
の大きな 要因となった。さらに中国は、資源確保の意図を隠すことなく、アフリカとのかかわりを大きく拡大さ せた。顕示効果の高い政府施設や経済インフラの建設に加えて、製品輸出の急増、その見 返りとしてのアフリカ産品への市場の開放、債務の減免、また双方向の人の動きの増加に よって、中国のアフリカにおけるプレゼンスは飛躍的に大きくなっていると言ってよい。
それだけに、中国が平等互恵、政経分離の名の下にスーダンなどの抑圧的政権と親交を結 んでいることには米欧ばかりでなく、アフリカのなかでも批判がある。
2008年に横浜で開かれた第4
回のTICAD
では、「経済成長の加速化」と「元気なアフリカ」の支援が掲げられ、日本政府から円借款を含むODAの増額やインフラ整備、農業分野の拡 充とともに、日本からのアフリカ向け民間投資の増大のための政策措置が表明された。過 去3回に比べ、この会議にはより国内の大きな注目が集まったが、それには、アフリカの資 源ブームと成長が、経済的観点からの関心をかき立てたことが大きく関係している。端的 に言って円借款増額や投資促進措置の表明には、アフリカ支援に冷淡であった経済産業省 の姿勢の転換およびその背後の民間企業のアフリカへの関心の高まりが作用している。ま た、財務省もG8のアフリカ支援増強の動きへの対応のなかでアフリカへの関心を強めざる をえなかった。他方で、円借款の増額は、援助予算の拡大が望めないなか、アフリカ支援 の飛躍的拡大を演出するための苦肉の策であった面は否めない。しかし、アフリカでの優 良な円借款案件の形成は必ずしも容易ではない(9)。ましてや援助によるインフラ整備と貿易、
投資を連携させたジャパン・
ODA
モデルをアフリカで再現する道は、はるか遠いと言わな ければならないだろう。財源難にあえぐ日本がアフリカ支援の強化を表明したことには、間違いなく中国のプレ ゼンスの拡大が作用している。密接な関係にある隣人でありながら、米欧と異なり、対ア フリカ協力において、日本に具体的な行動を求めはしない中国は、新たなかたちの第三者 であろう。対アフリカ協力において、中国とは競合や協調などさまざまなかたちでの、ア ジアの2大援助国としての、まったく新しい関係が成立しうる。言うまでもなく、中国の台 頭は国際システムの変化につながるものであり、そこで問われているのは、日本がその変 化にどう積極的に対応するか、であろう。援助国としての両国の関係はその試金石になる。
おわりに
日本の経済の低迷を目の当たりにすると、関係の薄いアフリカ等への援助の拡大を政治 課題にすることは難しい―これは、今日の多くの政治家の思いであろう(10)。そして、ア フリカなどの貧困国への支援を各行政部署の意図を超えて維持強化しようとする政治的意 志の欠如は、1997年以降の日本の
ODA
の退潮の主因である。自由民主党政権末期の海外経 済協力会議の設置・実施機関の統合(新JICAの設立)
などもそうした政治的意志の形成には 功を奏さなかった。その政治的意志の欠如の背景には、冷戦時代から一貫して貧困国援助 を政治課題とすることに日本の社会全体が失敗していることがあるだろう。しかし、その 失敗が果たして、日本社会の体質によるものなのか、それとも政治の側の怠慢によるのか は、今後議論を深めなければならない論点である。いずれにしても、必要不可欠なことは、アフリカの抱える問題を国内での議論の俎上に上せると同時に、対アフリカ支援がどのよ うなメリットないし意義を日本国民にとって持ち、アフリカの人々にどのように役立つの かを明らかにしていくことだろう。
経済取引と合わせて援助を拡大させている中国とアフリカの関係を、過去の日本と東ア ジアとの関係になぞらえる向きがある(例えば、小林
2007)
。それはそれで重要な点である が、もっぱら一次産品を輸出し、中国からの輸入製品によって競争力の低い自国製品が圧 迫されつつある多くのアフリカ諸国の状況は、日本との間で重層的な産業内国際分業を確 立しえた東アジアの過去の軌跡とはかなり隔たっていることが注意されなければならない。さらには、1970年代から
80
年代にかけて、鉱物資源輸出への依存がアフリカ諸国に多くの 禍根を残したことが想起されなければならないだろう。日本は、中国のアフリカとのかかわりを羨むのでもなく、また過去の自らの成功体験に 寄りかかるのでもなく、アフリカの現実のなかで「経済成長を通じた貧困削減」を実現す る道を、アフリカの人々とともにみつけ出していかなければならない。狭い意味での人間 貧困の削減はそれだけでは成長を喚起できず、持続的でないが、経済成長もかたちによっ ては貧困削減をもたらさず、人間の安全保障状況を複雑化し、困難にする。
経済成長を貧困削減・人間の安全保障に結び付けるのには各国の政治が重要な意味をも つ。米欧の内政への深い関与がアフリカの主体性を損なう面があるのは事実だろう。しか し、過去の日本の経済成長至上主義と内政への関与の抑制を増幅したような中国の政経分 離アプローチは、決して手放しで認められるものではない。日本はそのどちらにおもねる
のでもない、自らのアフリカへの政治支援のあり方を確かなものにしなければならない。
そのためにはどの第三者によるのでもなく、日本人、特に政策決定者自身がアフリカと直 接の対話をする必要がある。そのことをアフリカの持続的な開発と貧困削減に向けた政治 的意志を築き上げるための最初の一歩にするべきであろう。
(1) オアーは「反応国家」概念を踏まえつつ、日本の援助政策の決定過程に対する米国の関与を分析 する際に、日米双方の官僚組織がそれぞれ組織的意思をもって、外圧や外国の事情を自己の目的 に合うよう解釈し直し、行動するという見方をとっている(オアー1993、130ページ)。
(2)『朝日新聞』1988年2月18日、同2月27日、『日本経済新聞』1988年3月10日(夕刊)等。
(3) 日本政府は、1978年から97年までの間、5次のODA中期目標を掲げ、援助額のほぼ目標どおり の増額を達成した。中期目標は、援助予算の削減が開始された1997年以降は、考え方や課題を示 す中期政策に置き換えられた。
(4) 例えば日本のODAの米ドルベースの純額が最大となった1995年には、同金額がDAC諸国の合計 に占める割合は、約24.7%となっている(OECD Statistics〔http://stats.oecd.org/Index.aspx〕、2010年3 月23日閲覧)。
(5)「ジャパン・ODAモデル」については「産業構造審議会貿易経済協力分科会経済協力小委員会の 中間とりまとめ」(2005年7月22日)参照。
(6)「ファンジビリティー」の原義は、価値の代替可能性のことである。例えば、ある額の援助の供 与は、それと同じ価値の資金的余裕を受け入れ国の財政に与えることにある。もし受け入れ国政 府が、それを非生産的な目的に費消してしまうと、援助の与える効果は減殺されることになる。
ファンジビリティーの負の効果の詳細については、高橋(2005)参照。
(7) 難民支援・平和構築の経験が豊かな緒方貞子氏が国際協力機構(JICA)の理事長に就任し、声 望を確立したのも、そうした時代の流れを反映したものと言ってよいだろう。
(8) アフリカから中国への輸出は、米ドルベースで2002年から08年の間に年間約50.1%、同じく輸 入は年間約56.8%という急速な勢いで増加している(International Monetary Fund, Direction of Trade
Statistics Yearbook 2009)。輸出のなかでも石油等の輸出は、年率89.9%という猛烈な伸びを示してい
る(UN ComTrade)。
( 9 ) 2004年以降、アフリカ援助は絶対額・比率ともに回復した。特に2006年には全体の約35%を占 めるに至った(第1図参照)。これは、大国ナイジェリアへの過去の債務の減免を行なったことが 大きい。
(10) 例えば、2007年2月27日参議院政府開発援助等に関する特別委員会における犬塚直史議員の質問 参照。
■参考文献
今井健一(1993)「日本」、北村かよ子編『国際開発協力問題の潮流』、アジア経済研究所、185―212ペ ージ。
オアー、ロバート・M(1993)『日本の政策決定過程―対外援助と外圧』(田辺悟訳)、東洋経済新報 社。
小倉和夫(2003)「アフリカを見る目の転換―逆転の発想によるアフリカ外交を求めて」『外交フォ ーラム』10月号、12―19ページ。
外務省(2002)『政府開発援助(ODA)白書―「戦略」と「改革」を求めて』。
海外経済協力基金(1992)「世界銀行の構造調整アプローチの問題点について―主要なパートナーの 立場からの提言」『基金調査季報』第73号、4―11ページ。
外務省経済協力局編(1988)『我が国の政府開発援助〔下巻〕』、国際協力推進協会。
―(1995)『我が国の政府開発援助(ODA白書)〔上巻〕』、国際協力推進協会。
木村俊夫・福永英二(1975)「対談 木村外務大臣のアフリカ歴訪」『月刊アフリカ』2月号、6―11ペー ジ。
―(1976)「対談 ケニアのナイロビで開かれた国連貿易開発会議(UNCTAD)に出席して」『月刊 アフリカ』10月号、6―9ページ。
小林誉明(2007)「中国の援助政策―対外援助改革の展開」『開発金融研究所報』第35号、109―147 ページ。
佐藤誠(2004)「日本のアフリカ援助外交」、北川勝彦・高橋基樹編著『アフリカ経済論』、ミネルヴァ 書房、241―259ページ。
―(2007)「日本のアフリカ外交―歴史にみるその特質」『成長するアフリカ―日本と中国の視 点』(http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2007_03_03_3_sato_j.pdf、2010年3月21日 閲覧)、1―11ページ。
高橋基樹(1998)「日本の対後発途上国向け援助の再検討―援助の理念と自助努力支援」、今岡日出 紀編『援助の評価と効果的実施』、アジア経済研究所、73―119ページ。
―(2003)「援助協調―日本の対貧困国協力への問い」『IDCJ FORUM』第23号、29―43ページ。
―(2005)「ファンジビリティと開発援助―貧困国家に対する一般財政支援の課題」『国民経済雑 誌』第191巻第6号、68―86ページ。
―(2008)「アフリカをめぐる国際援助の潮流についての一試論―『国家の破産』を超えて」、吉 田栄一編『アフリカ開発援助の新課題―アフリカ開発会議TICAD IVと北海道洞爺湖サミット』、 アジア経済研究所。
―(2009)「日本の貧困国援助の比較論的考察―援助レジームの変遷をめぐって」『国際開発研究』
第18巻第2号、111―128ページ。
平野克己(2009)『アフリカ問題―開発と援助の世界史』、日本評論社。
望月克哉(2007)「日本の対アフリカ開発援助―その受動性とイニシアティブ」『成長するアフリカ
―日本と中国の視点』(http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2007_03_03_4_
mochizuki_j.pdf、2010年3月21日閲覧)、1―15ページ。
渡辺利夫(1991)「自助努力支援の理念を高く掲げよ」『中央公論』10月号、85―96ページ。
Calder, Kent E.(1988)“Japanese Foreign Economic Policy Formation: Explaining the Reactive State,” World Politics, Vol. 40, No. 4, pp. 517–541.
Morikawa, Jun(1984)“The Anatomy of Japan’s South African Policy,” Journal of Modern African Studies, Vol. 22, No. 1, pp. 133–141.
Short, Clare(2004)An Honourable Deception?: New Labour, Iraq, and the Misuse of Power, London: Simon and Schuster.
たかはし・もとき 神戸大学教授 http://www.gsics.kobe-u.ac.jp/tstaff/takahashim.html [email protected]