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追悼西野泰司先生 - 駿河台大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2023

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西野泰司先生が亡くなられてから半年あまりが 過ぎた。亡くなられる10日前の11月15日に,東京 杉並の衛生病院にお見舞いをした直後だったから,

奥様から連絡をいただいたときも全く信じられず,

トンチンカンな応対しかできなかったことを鮮明 に思い出す。気持ちの整理もできないまま,11月 29日に行われたお通夜の席で,私は先生に次のよ うな弔辞を捧げた。いささか場違いであるが,あ えてここに紹介する

西野先生,先生の突然の訃報に,本当に驚きま した。

先週の月曜日,先生を病院にお見舞いしたばか りなのに,10日後になくなられたという知らせを 聞いたときは,まさかと,全く信じられませんで した。

西野先生と私は,1994年4月,新しく創設され た駿河台大学文化情報学部に共に勤務することに なりました。先生はNHKから,私は国立国会図 書館から,大学という未知の世界に飛び込んだわ けですが,私にとって大学は様子のわからないこ とばかりでした。そんな時,私は,同じ立場にあ る先生にしばしば相談に伺い,学生の指導や講義 の方法など数多くのご助言やご指導を頂き,力づ けられました。現在まで大過なく大学生活をすご せたのは,先生のお蔭と心から感謝しております。

以来,西野先生とはしばしば,お茶を,という よりお酒を中にしながらお付き合いいただく間柄 となりました。同僚や学生が先生のことを語ると き,枕詞のように言われるのは,「誠実な西野先 生」という言葉でしたが,酒席で先生とお話をし

ていると,話題の広さ,映画や写真,映像の解釈 など,いつも教えられることばかりでした。特に 1970年代のそれを語るときは,生き生きと熱を帯 びていました。ふと私は,当時のやくざ映画,高 倉健や鶴田浩二の仁侠映画の登場人物,「沈着な 頭脳」と「熱い心」を持った正義漢というイメー ジを,先生の中に見たような気持ちがしたことを はっきり思い出しました。

大学での先生の担当科目は,映像史料論や映像 アーカイブズ論など映像を中心としたものでした が,講義ではビデオや写真をフルに使い,わかり やすい面白い講義と,学生の評判も高いものであ りました。先生の研究室に参りますと,壁一面の ビデオラックには,毎日放映される番組から収録 したビデオが,映画・中国・アニメなどと細かく 分類整理されています。その着実な努力が,評判 の高い講義を支えたのです。西野先生は努力の人 でした。西野先生を失ったことは駿河台大学文化 情報学部にとって大きな痛手であると,私は思っ ています。

また昨年の夏,私は西野先生ご夫妻と短い台湾 旅行をいたしました。3泊4日の短い旅行でした が,故旧博物院では崔博士の宋代陶器の解説を聞 きながら見学し,台北の小学校の先生の招きで客 家料理を楽しみ,淡水というところにあるオラン ダ時代の城砦を見学し,台湾独立運動に熱心なお 菓子屋さんを訪問するという,むちゃくちゃな日 程で,とても観光旅行とはいえないものでしたが,

先 生 は 文 句 も い わ ず に 付 き 合 わ れ,『お 蔭 で ディープな台湾を体験できました』といわれまし た。8月の台湾の蒸し暑さは大変なものですが,

追悼西野泰司先生

広 瀬 順 晧

文化情報学 第10巻第1号(2003)

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今思えばそれが先生の体調を崩す一因になったの ではないかと,忸怩たる気持ちでいっぱいです。

この11月15日,西野先生と最後にお会いしたと き,先生はゼミの学生の指導のこと,12月に予定 されているお嬢様の結婚式のこと,3月の卒業式 のことを楽しそうにお話になり,その一つ一つの 区切りを目標に生きて生きたいとおっしゃられま した。本当に残念なことに,その目標の一つにも 到達することなく先生はなくなられました。伺う ところによりますと今日の先生は結婚式に着る予 定だった服を着ておられるとのことです。西野先 生,先生は最後まで目標を掲げ,誠実に,地道に 努力されました。西野先生,安らかにお休みくだ さい。

さて西野泰司先生は,1960年,60年安保闘争で 世情騒然たる時にNHKに入局した。西野泰司22 歳。配置先は編成局編成部。先生の著書『テレビ メディアの世界』によると,「編成機能は,経営 の方針を放送として計画化」するというものであ り,具体的には「経営意思を計画化,表現」し,

「時代の動向を的確に読み対応」し,さらに「視 聴者の意向を把握しそれを放送に反映させる」こ とが編成の3大機能というべきものであるという。

いわば放送の司令塔とも言うべき部局に配置され たことは,西野先生の本懐とするところであった ろう。以来1992年にいたるまで,先生は一貫して 編成部門で過ごした。

西野先生が編成部門で過ごした32年間は,テレ ビメディアが幼年期を脱し青年期・円熟期へと成 長する時代でもあった。NHKの朝のテレビ小説 がスタートしたのが1961年4月,モーニングショ ウがスタートしたのが1964年4月であり,1970年 代後半にはスペシャル番組が新しい潮流として登 場したことを思えば,テレビは黄金時代のさなか にあったことが実感できるだろう。西野先生の20 代30代は,次々と新しい試みに挑戦するテレビメ ディアの成長期と期を一にしていた。この時期を 先生は次のように記している。

編成の時代

日本のテレビは70年代に入ると安定期に入り,

テレビは人々にとってもはや珍しいものではな くなった。それまで増えつづけてきたテレビの 視聴時間量も,76年にはピークを迎え,その後 は減少のきざしを見せ始めた。人々のテレビへ の興味は低下し,テレビの見られ方も,日常化 し,慣習化した。また個人化,選択化傾向が見 えてきた。それまでの定時番組を中心とした番 組編成はテレビの安定化をもたらしたが,一方 で,人々の意識面での テレビ離れ を生み出 した。

こうしたテレビをめぐる状況の中で出てきた 編成の新しい動きがスペシャル番組の編成であ り,これによりテレビ編成はふたたび,活性化 した。テレビは新しい時代に入り,編成という 行為がメッセージ性を強く持っていたことか ら,70年代後半を 編成の時代 と呼ぶ人もい る。(『テレビメディアの世界』第2章「テレビ 放送の時代」)

「編成の時代」の中核的戦力としてNHKで活躍 した西野先生は,つづく80年代の「報道の時代」

でも編成の仕事を担当した。「事故・事件,ビッ グ・イベント等の緊急報道も編成の大きな仕事 で,24時間なにが起こっても,報道現場といっ しょに迅速に対応していく体制」の中で緊張に満 ちた日々を送ったことと推測できる。

また編成局在勤時代の最後,西野先生はJICA の専門家として,インドネシア共和国ラジオ・テ レビ放送訓練センターで,国営ラジオ・テレビ局 の職員などに対して指導教育をおこなっている。

その詳細を先生は詳しく語っていないが,南国で の3月間を楽しんだようで,お茶を飲みながらよ く当時の話をきいたものだ。

1992年,NHK最後の2年間を,先生はNHK放 送文化研究所で過ごした。着任直後から先生は,

自らが体験した30数年の編成暮らしを総括しよう と考えていたらしい。それまで雑誌『放送文化』

に25年にわたって「放送の動き」と題して,時代 広瀬:追悼西野泰司先生

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とともに変化する編成の動き を 観 察 し て き た が,1993年に「テレビ編成40年の軌跡」を『放送 研究と調査』に発表された。

こうした豊富な現場経験とその後のJICA専門 家としての体験,NHK放送文化研究所における 研究を基礎に,西野先生は駿河台大学文化情報学 部で教鞭をとることになったのであるが,これば 学生にとって幸せなことであったろう。西野先生 が担当された映像資料論や映像アーカイブズ論な どは,まさに現在発展途上にある学問領域であり,

そこには現場でしか分からない発想や論理,ある いは現実と切り結ぶその方法が議論を進化させる,

そういう領域であるように思われる。そうした最 先端の領域を,先生は学生に伝えようとしたので

ある。先生の講義はいつも学生でいっぱいであっ たという。豊富な映像や画像の提示,朴訥ではあ るが説得力のある口調は,経験と思考に裏付けら れて学生に強いインパクトを与えたであろう。最 後の2回,西野ゼミを引き継いだ私は学生諸君と 話しながら,その感を深くした。

「1993年に放送開始40周年を迎えた日本のテレ ビは,いま,新しいメディア状況の中にある」と,

先生が『テレビメディアの世界』の冒頭に記され てから,今年で10年が過ぎた。半世紀を過ぎたテ レビメディアの世界をいま,西野先生はどのよう に解明されるであろうか。

あまりにも早すぎた西野泰司先生の冥福を祈る ばかりである。

文化情報学 第10巻第1号(2003)

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