1955年4月30日投票の仙台市長選挙は、現職の岡崎栄松(東京市の区長、民. 1958年2月2日投票の仙台市長選挙は、島野武(弁護士、社会党公認)と松. 表4−3−2 島野市長と市議会会派の与野党関係.
その四、市長自身の広報公聴。1960年10月から、島野市長は『市政だより』. つまり、1958年2月から市政を担当した島野市長にとって、健康・衛生都市 の建設と、そのための市民団体の協力、市民の奉仕活動の活発化は岡崎市政か. 一、私たちは社会を清潔にしましょう.
社会党宮城県連・仙台支部は、1957年初めに島野を公認市長候補として決定 すると、革新市政実現のための市政綱領を作成し、仙台市政対策委員会を設置. 仙台市長候補を語る、未知数の新鮮味」. 仙台市長に島野氏」、同2月4日「微笑に筋金一.
を市長選挙に立候補させた。すると、社会・民社両党の動向を見守っていた共 産党は12月になって、「島野市政への対決」を主張して、県委員長を市長候補. づくりに総力を傾注して、その目標達成のためまい進しようとするものであ る。よって、ここに全市民とともに仙台市を健康都市とすることを宣言する. 1966年の市長選挙一野党共闘で島野三選.
おわりに一憲法集会から市民のつといへ. 島野市長は、飛鳥田市政に学んで(1966年6月横浜市でチビッコ広場第一号)、. 1967年5月、第2回憲法集会で、島野市長は「日ごろぜひともこういうもの.
た。そして、1971年1月福祉のまちづくり市民の会が発足し、同会は11月には 島野市長に対し1972年度予算への要求書を提出していた。仙台市が市民参加、. 補訂ll−4、革新市長会議の全国組織化. 市長たちがその全国市長会の会議をサボって、仙台の研究会に出かけてしまっ たことに対し、鈴木は激怒したのである。鈴木が革新市長たちを批判したのは、.
て都政調査会主催の革新市長の公開研究集会は2回目だった.
1号、1970年7月)。
は『革新自治の創造 社会党の自治体政策』を発表して1967年以来の都市政策 づくりの作業をまとめあげた. しかし、社会党の地方組織は、都市社会の変容と住民運動の激発のなかで. した社会党市政は、1970年代の革新市政とは異質の特徴をもっていたこと、そ して東北地方の社会党モデル市政でも、この停滞局面に選挙対策と自治体政策 で苦悩と模索をつづけ、1967〜70年を転換局面として挫折して退場した市政と、.
先駆的施策と野党共闘の選挙対策を実施して1970年代に生き残った市政に分岐 していったことを実証した。この社会党市政の特徴は、北海道や首都圏のモデ. 選挙政治、社会党市長と相乗り市長). 社会党は労組の居住地組織や自治体改革の市民運動を組織して、それを選挙地 盤にすることを方針としたが、それらはほとんどの都市で組織されなかった.
社会党推薦市長は「革新市長」としてというよりも、現職市長の失政に対する. 刷新市長」として登場し、市民に歓迎された. 社会開発」の先駆的モデルだった。社会党の自治体改革方針は党支部や地区 労に届きながら、支部や地区労が住民組織づくりと日常的地域活動という課題.
を抱え、社会党市長たちは全国市長会や中央政府交渉を舞台に革新市長連合の 政治運動を開始するだけの政治力をもてなかった。市政に関する交流活動や中 央政府交渉は1966〜70年の局面でも模索の域をでなかった. それで、4)市政の課題は都市によって多様だったが、一方で一部の社会党 市政は地場産業振興や地元負担軽減をめざして革新市政らしい模索を試みなが. 社会党の構造改革論=松下圭一の自治体改革方針は結局ほとんど実践されず、.
社会党市長の市民直結(広報公聴と官製市民運動)からは町内会やPTAの奉 仕活動しか派生しなかった。1966年に発足した全国革新市長会の実態は社会党 市長の情報交換・懇親会だった。これらは革新市政発展の主要な推進力にはな. らなかった。1967〜70年の転換局面でも、社会党市長や革新市長会が自力で革. 新市政の発展期を切り開いたのではなく、国民の世論と運動を後追いして発展 の契機をつかんでいった。社会党の革新モデル市政のなかには、1966〜67年か.