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化学と生物 Vol. 53, No. 1, 2015
伝統的発酵における麹菌スフィンゴ脂質の酵母への移行とその生理的意義
麹の新たな品質管理指標 , グルコシルセラミド
麹(こうじ)は蒸した米などの穀物に麹菌が生えたも のである.麹は醤油や味噌,日本酒,お酢,黒酢,鰹 節,焼酎,塩麹など日本の多くの伝統発酵食品の製造に おいて使われる.したがって,麹は日本の発酵食品の基 盤であり,麹菌は「国菌」に指定されている.
10世紀に編纂された延喜式や和名類聚抄には麹の技 法が記述されており,日本において麹の技術開発には 1000年以上の歴史がある.しかし,麹菌の存在が発見 され(1876年)学術研究の対象になったのは明治時代 に入ってからである.麹の製造の品質管理は難しく,熟 練の技術を要するものであり,コストがかかるが最終品 質を大きく決定する最重要工程でもある.蔵人の中で受 け継がれる「一麹,二もと,三造り」という言葉は,麹 の品質が酒の最終品質を左右することを何よりも物語っ ている.では,「麹の品質」とは何か? 麹の品質とは 穀物の高分子成分を分解する酵素力である,という理解 が,高峰譲吉博士のタカジアスターゼの研究(1894年)
以来の多くの研究により業界,学会で共有されるように なった.このことから,麹の製造を酵素力の観点から合 理化して制御する試みが機械工業の普及に伴って多く行 われてきた.これらには第二次世界大戦後(1950年代 後半ごろ)から普及した機械を使った製麹や,1980年 代後半〜1990年代から普及した,最初に原料を酵素で 液化してから発酵を行う液化仕込みなどがある.しかし こうした「酵素力」のみに着目し合理化した方法で造っ た発酵食品は,伝統的な製造方法で造った麹を使って 作った発酵食品とは微妙に品質が異なることを,造りに 携わっている製造技術者の多くは普及の初期から感じて いたことと思われる.このことは,現在も酵素力に着目 した新技術が既存技術を完全には代替していないことに も表れている.また事実,多くの杜氏にとって麹造りは 最も重要度・秘匿度の高い技術であるが,各杜氏は酵素 力以外にも独自の麹の品質の指標をもっている.
これらの事実は「麹の品質」とは酵素だけでなくほか の物質もあることを想定させるものである.したがっ て,麹の酵素以外の役割に関する研究が一部の研究者に より行われてきた.たとえば,麹や穀物の不飽和脂肪酸 は酵母による吟醸香の一つである酢酸イソアミルの生成
を酵素活性・遺伝子発現レベルで抑制すること(1)や,オ レイン酸やエルゴステロールの添加が酵母によるエタ ノールの生産を向上させること(2)が明らかになってき た.これらの知見は,麹の脂質成分が発酵に重要な影響 を与えていることを示唆するものであるが,麹菌研究の 長い歴史にもかかわらず,研究手法の困難さもありその 報告の数は非常に少ない.
一方,生体膜の中でスフィンゴ脂質は物理化学的にも 生物学的にも重要な役割をもっていることが報告されて いる.スフィンゴ脂質はスフィンゴシン塩基をもった脂 質の総称である.スフィンゴ脂質の化学構造は非常に多 様であり,しかも生物種ごとに違いがあり全体像は複雑 である.スフィンゴ脂質の存在自体は1884年には発見 されていたが,その生合成の基本的な酵素や遺伝子がモ デル生物である酵母を使って明らかになったのは1990 年代初頭〜中盤と最近のことであり,現在も新たな構造 をもった分子や生合成経路が次々と報告されている(3)分 子種でもある.発酵・醸造学の研究の中で,スフィンゴ 脂質の研究はほとんどなく,われわれの研究(4)以外では 麹菌のスフィンゴ脂質の存在と構造決定が1976年に報 告された(5)のみである.
麹の酵素以外の影響を明らかにすることができれば,
より精密な発酵の品質管理につながると同時に,新規発 酵生産システムの構築にも応用できるのではないかと考 え,麹の脂質が発酵におよぼす影響を研究することにし た.
まず麹(20 mg相当)から抽出した脂質画分をエタ ノールに溶かした溶液を1%(v/v)で最小培地1.5 mL に添加し,酵母にアルカリ条件(pH 8.0)でエタノール 発酵を起こさせたところ,麹から抽出した脂質画分を添 加した試験区ではエタノールのみを添加した対照区より も統計的に有意に酵母の増殖が亢進しており,麹の脂質 には酵母のアルカリ条件での発酵を増進する効果がある ことを見いだした.そこで以後,酵母のアルカリ耐性を 指標に麹の脂質の解析を進めることにした.
麹の脂質を抽出してシリカゲルカラムで分画し,それ らのどの画分を添加したときに酵母にアルカリ耐性が賦 与できるかを調べた.その結果,いくつかの画分が酵母
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にアルカリ耐性を賦与したので,そのうち最も高い活性 を示す画分の一つをさらに精製した.その画分を精製し てその分子構造を決定したところ,スフィンゴ脂質の一 種であるが酵母には存在しない構造の,麹菌特異的な glucosylceramide( -2′-hydroxyoctadecanoyl-l- -
β
-D- glucopyranosyl-9-methyl-4,8-sphingadienine) を 含 む こ とが明らかになった.本当に麹のglucosylceramideが酵母に移行するかを 調べるため,麹と酵母を混ぜて発酵させたのち,酵母を 取り出してその脂質を解析したところ,確かに酵母に麹 菌特異的なglucosylceramideが検出された.このこと から共培養することで麹菌のglucosylceramideが酵母 に移行することが明らかになった.そこで,精製したさ まざまな種のglucosylceramideを4 mg/mLの濃度で界 面活性剤の存在下酵母に添加してアルカリ耐性を調べ た.その結果,麹菌特異的なglucosylceramideに加え て,穀物由来のglucosylceramideも酵母に統計的に有 意にアルカリ耐性を賦与することが明らかになった.ま た,エタノール高濃度の条件でもglucosylceramideの 添加は酵母に統計的に有意に耐性をもたらすと同時に,
発酵中の酵母の香気成分プロファイルもglucosylce- ramideによって変わることがわかった.
以上のことから,多くの生物種の素材が共存して進む 日本の伝統発酵食品の製造において,麹および穀物の glucosylceramideが酵母に移行して酵母の発酵特性を改 変すると考えられた.
これらの知見を利用して,今後,「麹の品質」の実態 が物質レベルで解明され,麹の製造がより合理的に行わ れるようになると同時に,麹を使った新たな発酵生産シ ステムの開発(6)にも結びつくことを期待している.
1) T. Fujii, O. Kobayashi, H. Yoshimoto, S. Furukawa & Y.
Tamai: , 63, 910 (1997).
2) K. Ohta & S. Hayashida: , 46, 821 (1983).
3) H. Kitagaki, L. Cowart, N. Matmati, S. Vaena de Avalos, S. Novgorodov, Y. Zeidan, J. Bielawski, L. Obeid & Y.
Hannun: , 1768, 2849 (2007).
4) M. Hirata, K. Tsuge, L. Jayakody, Y. Urano, K. Sawada, S. Inaba, K. Nagao & H. Kitagaki: , 60, 11473 (2012).
5) Y. Fujino & M. Ohnishi: , 486, 161 (1976).
6) 北垣浩志:特願2013-170560
(中 畑 絵 里 子*1,北 垣 浩 志*1, 2,*1 佐 賀 大 学 農 学 部,
*2 鹿児島大学大学院連合農学研究科)
プロフィル
中畑絵里子(Eriko NAKAHATA)
<略歴>2014年佐賀大学農学部卒業/同 年同大学院農学研究科修士課程進学,在学 中<研究テーマと抱負>麹の機能性を追求 したい<趣味>管弦楽
北垣 浩志(Hiroshi KITAGAKI)
<略歴>1993年東京大学農学部農芸化学 科卒/1995年同大学院農学生命科学研究 科修了/同年国税庁醸造研究所/1996年 大阪国税局鑑定官室鑑定官/2001年酒類 総合研究所研究員/2005年米国サウスカ ロライナ医科大学(文部科学省長期在外研 究員)/2008年佐賀大学農学部准教授(鹿 児島大学大学院連合農学研究科併任)/
2010年日本学術会議連携会員/2011年文 部科学省・学術調査官<研究テーマと抱 負>日本の伝統発酵微生物のポテンシャル を明らかにすること<趣味>異なる分野の 考え方を勉強すること
Copyright © 2015 公益社団法人日本農芸化学会 図1■伝統的発酵における麹菌スフィン ゴ脂質の酵母への移行
穀物や麹,酵母など多数の生物種が共存し て発酵が行われる伝統的発酵において,麹 菌 の ス フ ィ ン ゴ 脂 質(glucosylceramide)
が酵母に移行することおよび,glucosylce- ramideの酵母への移行は酵母のアルカリ・
エタノール耐性を引き起こすことが明らか になった.