11月23日 三田市上本庄 駒宇佐八幡宮 新穀祭 百石踊 駒宇佐八幡の百石踊の現在の構成。
上谷と下谷と2組ある。1年交替で受持つ。本年は上谷の組、この2組で太鼓の打ち方も、音頭も少し違っている。
受持った 1 年間に出演しなければならぬ事情が起ると何回でも出場する。その用意として平素でも時々集って練 習をする。最近は実際の雨乞御返に出るというようなことは、大正13年以降ない。その代りというわけでもないが 駒宇佐八幡宮の秋の新穀祭(11月24日)には演ることになった。これは 5~6 年前から、その外に例へば11月 1 日のように伊丹市の市制30周年記念大会に招かれるようなことがあると、やはり、その組(本年は下谷組)が出る。
太鼓打が中心である。男子8~14才位(小学校の生徒)。組中の少年の希望者は全員出る。本年は18人、昔は50 人位出たこともあった。太鼓打のうち「太鼓の頭」1 人、「尾頭オ ト ウ」2 人だいたい太鼓打のうち年長のものがこの役に つく。
音頭。若い衆の役。これも数は一定していない。本年は16人。太鼓打同様、希望者全員がなる。音頭のうち、最 も上手な年期を入れたものを大音頭、脇音頭といゝ、各1人。
シンボウ打ち。2人。そのうち1人を本シンボウ、他の1人をコシンボウという。大てい太鼓の頭をやって熟練し たものが、後継者に太鼓の頭を引継いでシンボウ打ちの役につく。シンボウ打ちはまた太鼓打の指導の役にも当る。
百石踊の主要構成はこれだけであるが、道楽のときこの外に鬼2人(赤鬼面と青鬼面)、鉄砲2人、法螺貝2人がつ く。
また百石踊の構成ではないが百石踊を神に奉納する際神の依代として"カサマク"を立てる。青竹高さ3m位。先に 榊の葉枝をつけ、これに御幣紙(白)と小さな鏡を掛け、その下に鐘型の竹枠を組み、これにカイドリ(うちかけ)
3枚を被せる。氏子総代、踊りのとき、その下に紋付袴で立つ。
由来。文亀 3 年(1503)にこの地方に大旱魃があった。偶々そのとき諸国修業中の天台元信僧都が駒宇佐八幡神 社へ立寄り雨乞祈願参籠の夜、歌鼓風流の踊を夢に見て大雨を戴いたという伝説がある。宝永 7 年(1710)にも大 旱魃があって駒宇佐八幡神社の宮寺常楽寺の僧都が百穀踊奉納の雨乞祈願を立て神前にて祈願をしたところ慈雨を 戴いたので、宮もとの男の子、童べを集めて1ヶ月余も踊りの伝習をして旧8月吉日に大願ほどきをしたと伝えら れる。また享保14年(1729)の雨乞には全氏子200戸が上谷、下谷の2組に分れて終日、祈願踊をした。
雨乞願済の踊奉納をしたうち、記録に残っているものは
宝永7/8/某日(1710) 1714年にもやった 享保14年 (1729)
延享4/8/1 (1747) 宝暦5/8/6 (1755) 宝暦13/8/12(1763)
明和3/8/25 (1766) 安永9/8/28 (1780) 文化4/8/吉 (1807)
文政4/巳/15(1831) 嘉永6/8/22 (1853) 安政2/8/22 (1855)
明治16/8/27(1883) 明治19/8/27(1886) 大正2/9/28 (1913)
大正13/9/28(1924)
最近これを保存しようという運動が起って毎年11月23日の駒宇佐八幡宮の新穀祭に奉納することになった。
駒宇佐八幡宮百石踊は氏子の各部落が上谷、下谷の2 組に分れ毎年交替で奉納することになり、本年は上谷の番 に当っている。
上谷=大音所、幡尻、上須磨田、下須磨田 下谷=田中、西安、勝谷、東向。
駒宇佐八幡宮は大音所部落から、山裾へ少し登った所にある。楼門を入ると横長拝殿があって長床風になってお り、中央の床下を石段で通り道に造って、すぐ神庭に出る。長面石段で本殿に上る。神庭の左に舞殿があり、これ は今日は百石踊を参観する客殿となる。
百石踊諸役の衣装、持物。
太鼓打 水玉模様の短衣、荒い格子縞の軽袗、脚のところは膝より下割れていて、膝下と足首のところで脚絆の ように共紐で結える。手甲、白足袋、後掛草履、頂に銭型を置いたしゃぐまを被る。赤褌を背で大きく結ぶが 再にその上から白襷を前に十文字にかけ、背に赤青白3色の御幣を負う。径40㎝位の締太鼓、締組の穴1ヶ所 に把手をつけ、これを左手にもつ。右手に長さ45㎝位の木の撥、打つ方の先は赤い布で包んで結える。
太鼓の頭 尾頭2人 共に衣装、持物に変りはない。
音頭 女装する。紺絣の着物、本帯、しごき、手甲、白足袋、草履ばき、周辺の縁に幅20㎝位の赤の引幕をつけ た菅笠を被る。引幕の前の所は紐で絞る。右手に扇子、左手には長さ2.5m位の棒(竹か)を3色の紙を綾に貼 り巻いたもの。その天辺に 3色の4段に切った幣紙をつけたもの。これをいつも鉾に立ったように自分の左前 方に真直に立てゝ持つ。
大音頭と脇音頭の杖は他の音頭のものよりは少し長く日の丸の開いた扇3ヶを円にした鏡の前に幣紙を垂らし、
更にその後に長さ60㎝位の横木と、斜にこの横木に屋根形に渡した枠を付けて、大音頭はその上に2つ折にし た丸帯を掛け、脇音頭は赤い布を掛ける。
シンボウ打 2人とも黒の僧服を白衣の上に重ね白襷を背で大きく結ぶ。日・月の形を切紙を左右に貼付けた編笠 を被り、白の手甲、脚絆、白足袋、わらじばき、左手に長さ1.5m位の藁杖つきの笹に短冊を数ヶ所つけたもの を持ち、右手には2房ばきの軍配を持つ。
鬼 赤、青の面をつけるが赤は茶褐色、青は緑色の筒袖の短衣、軽袗で、青の方はどうやら獅子舞の胴幌の模様 の布をそのまゝ流用しているらしい。銭を置いたしゃぐまをつけ、わらじばき、手甲、ビニールの短かい腰蓑、
鉄棒は1.7m位の青竹太いのを紙で綾に巻き、上の方の先には紙の総玉をつける。左手に扇子を持っている。
鉄砲 洋服の上から、黒の陣羽織様のものをはふり、陣笠を被る。杖田銃を持つ。
法螺貝 山伏様の黄衣、袈裟をかけ、兜巾をつける。
下駄ばき、法螺貝を持つ。
新穀祭の祭典は本殿内で踊に先立ち行われるが、踊子の方は諸役ともこれには参与しない。はっきり拝観しなか ったが、氏子達からの献供が一々宮総代によって取次がれて可なり長くかゝる。大てい餅を献納し、すぐその場で、
お下りを戴き、銘々が持ち帰るらしい。
踊り子達の宿は参道下の社務所で行われる。横長床の床下の本道を通らず、右側を迂回して、神座へ入る横道か ら入る。
1つの鉄砲が打放されて道歌となる。行列は
赤鬼 鉄砲 貝 音頭 ←旗← ← 本シンボウ←
青鬼 鉄砲 貝 太鼓打
で以下音頭は1列に右側、太鼓打は1列に左側に並んで進み、最後はコシンボウチである。音頭の列の中央に本音 頭、脇音頭の順に並び、太鼓打の方は1番前と後とが尾頭、列の中央が太鼓の頭である。
道歌を唄いつゝ神庭へ入った行列は、そのまゝカサマクを中心に本殿前寄りの方へ半円形に、本殿の方を背にし て隊形を整え新発意2人は中央に出て向い合う。
このとき氏子総代の1人紋付袴で、カサマクの下に入って、棹に左手を添える。
鬼は赤青とも客人が椅子についている舞殿に上り鉄砲と貝とは舞殿の前に並ぶ。頃を見て、鉄砲再び 1 発ぶつ放 す。
舞殿の前面で庭の方を向いて鬼の問答とある。
赤鬼 床を金棒でトントンと突いて「東西々々、東西南北ともに、なりを鎮めてことの由を聴聞し候へ」
青鬼 トントンと突いて「本年は当八幡様のお影を以ってトントン五穀豊穣、有難く厚く御礼申上候、よって こゝに百石踊を奉納仕るべく候」トントントン。済むと鬼はすぐ社務所へ引返して、平服と着換えて百石 踊の見物に来ていた。
本日は一ばんの世の中踊のみが奉納された。その他の8番はまだ練習を積んでいないということであった。
百石踊上谷保存会が、昭和43年7月に編集した。「駒宇佐百石踊歌本」には次の歌詞章が記録されている。
道歌
一ばん 世の中踊 二ばん 小鷹踊 三ばん 具足踊 四ばん 忍び踊 五ばん 五色踊 六ばん たんじゃく踊 七ばん くだ踊 八ばん かたびら踊 九ばん 十二月踊
各踊の始めにまづ「跳びちがいの太鼓」がある。
尾頭2人が中央に進み出て向合い、新発意2人の補導によって踊る。それから世の中踊となる。道歌から世の中 踊までの順序を歌本と録音によって改めて記録する。
道歌
保存会長(黒の紋付袴、宮座に列席したまゝの服装)の合図でまづ鉄砲が1発(2人同時に)ぶっ放される。続い て貝を吹く。
新発意(本シンボウ打)笹を1振して「はあー」
一息入れて太鼓打ツン、ツン、ツンと3つ打つ。
この「つん つん つん」は太鼓打が口へ唱える。
一息入れて歌となる。
大音頭「此の音頭の」
音頭一同合唱
「お寺通いに
よう鳴る しゃくはちょ 得てきた よう鳴る しゃくはちょ 得てきた」
脇音頭「とりあんげて」
一同合唱
「吹いて見たれば
よう鳴る 初ふしが三つ出た よう鳴る 初ふしが四つ出た」
大音頭「先づよいにい」
一同合唱
「殿御待つ星
夜なかにまちえて寝る星 夜なかにまちえて寝る星 脇音頭「あかつんきにい」
一同合唱
「離れ星とや
夜明けて浮名の立つ星 夜明けて浮名の立つ星 大音頭「榎の木んぎにい」
一同合唱
「つたがからまく
かけごにかもぢがからまく」
歌の出の 1 句は大音頭と脇音頭とが交互に出すようであった。また本は実際にはこゝまでを歌った。所が歌本に はなお以下の歌章がある。これは踊の庭に隊形が整うまでの距離によって長短があるようである。
合唱
「かけごにもぢがからまく
「ひよひんよと」
「鳴くひよどり
鳴かぬは小池のおしどり 鳴かぬは小池のおしどり」
「まわれんげよ」
「廻りゃいちよに 後からしぐれがして来る 後からしぐれがして来る」
道歌の終るとき太鼓打は
「いやてぃてぃてぃ」(・印は太鼓を打つ)
と口々に唱えながら3つ太鼓を打って、その場にかがむ。また道歌の歌われている間も、太鼓打は16拍子、太鼓を 7つ打つが、そのときも、口々に次のように唱えながら囃す(・印太鼓を打つところ)
次いで舞殿へ上った鬼が前述のように2人で口上をいう。
口上が終って鬼が舞庭から降りると尾頭2人が庭の中央に進み出て、向合い「跳びちがいの太鼓」となる。
と唱えながら太鼓を打つ。その間2人は往き合い、向替ってまたもとの位置に返る。次いで口上。
本新発意「まづ最初は世の中踊でござるぞやー太鼓打ち、かっこう打ち、音頭の姫たち、切り、拍子を揃えて、
かいしっぽりと踊らっしゃれやー」
小新発意「左様ござれば太鼓の頭をいれさっしゃれやー」
と笹を上下左右に輪を描くように振りつゝ跳びはねるように庭の中央を巡る。
本新発意の口上の最初の「まづ最初は」と唱える所は2番以上の踊のある場合は「今度は・・・」となる。(歌本 による)
小新発意の口上が済むと太鼓の頭が列より1歩ばかり進み出て半かがみの姿勢になる次のように3度打つ。
頭「はあー」
この3つ目の太鼓を打つとき同時に鉄砲が打放され、貝がなって踊に入る。
大音頭「世の中踊をおどうろうよ」
音頭一同合唱「いやおどろうよ」新発意「いやー」
脇音頭「これのお庭に池掘れば」
合「やあ これのお庭に池掘れば やあ みづは出でいで黄金が出でる やあ しろがね桝でよねはかる やあ しろがねますで米はかる
合(切)「やあ世の中踊をおどろうよ、いやおどろうよ
以上の音頭の歌に合せて、太鼓打は口で拍子をとりつゝ太鼓を打つ。
音頭一同合唱の(切)が終ると、これで世の中踊の 1 節が終ったのであるが続いて「シメ」と称える太鼓打の囃 しに入る。
新発意が「いやー」と掛声をかける所で太鼓打は、立つ。1拍子打って、その位置で右に向き直り1拍子、次に後 向き、次に左向きを替えて打つ。
新発意 2 人は中央を笹を振りつゝ交互入乱れて跳める。音頭は並んで立ったまゝであるが(切)を歌うとき全員 が2歩右へ移り、また2歩もとへ返る。前方を向いたまゝである。
太鼓打の(シメ)が終るとそのまゝ続けて次の歌に移る。以下歌章のみを記すと次のようである。
新「いやー」
大「ことしの歳は目出度いとしで ござるよの」
合「やあ ことしの年は目出度い年でござるよの やあ 世の中ようて陣ニ立ち無うて
やあ みな殿たちのおよろこび やあ みな殿たちのお喜び」
合(切)「やあ 世の中踊をおどろうよ いや踊ろうよ」
(シメ)
新「いやー」
大「ことしの稲の葉色のよさよ」
合「やあ今年の稲の葉色のよさよ
やあ あぜよりかゝる殿御におかたがよりかゝる やあ あぜよりかゝる殿御におかがたよりかゝる 合(切)「やあ、世の中踊をおどろよ いや踊ろうよ」
(シメ)
新「いやー
大「いちわの稲に三石六斗」
合「一把のいねに三石六斗」
やあ五もんのさけが七跳子 やあ五もんのさけが七跳子
合(切)やあ世の中踊をおどろうよ、いや踊ろうよ」
(シメ)
新「いやー」
大「ばくちうちの さいたるかたな」
合「やあ博打うちの差いたる刀 やあうえ青貝の赤銅目抜の なかには柳の木をさいた やあなかには柳の木をさいた
合(切)「やあ世の中踊はこれまでよ、やあこれまでよ」
(シメ)
最近の(切)は歌は「これまでよ」となるが拍子は変わらない。(シメ)を打って、その次に本日は退場となった。
新発意「さんやりさんやり」
で退場した。
復活して何分時日が浅いので 2 ばんの小鷹踊以下はまだ充分、練習をする隙がないということであった。拍子も 世の中踊と同じものをあれば、独特の打方のものもあるという。