学校推薦型選抜(公募制)/ 2020
基礎学力テスト (家政学部 ライフスタイル学科・こどもの生活学科)
1
次の文章を読み、後の問いに答えよ。同時多発テロ事件のあとアメリカによるアフガン空爆が始まりました。
そのとき、「アメリカの立場」から一方的にものを見ないで、「爆撃され、家を焼かれ、傷つき、殺さ れているアフガンのふつうの人たち」の気持になって、この戦争を考えたら、ずいぶん違った風景が見え てくるだろうという意見が多くのメディアで紹介されました。同じことを新聞の社説でも投書でも知識人 や政治家のインタビューでも多くの人が口にしました。
戦争や内乱や権力闘争について、コメントするときに、一方的にものを見てはいけない。 ア 、ア フガンの戦争について「アメリカ人から見える景色」と「アフガン人から見える景色」はまったく別のも のだからだ、ということは私たちにとって、いまや「常識」です。
しかし、この常識は実はたいへん「若い常識」なのです。
Aこのような考え方をする人はもちろん 19 世紀にもいましたし、17 世紀のヨーロッパにもいました。
遡れば、遠く古代ギリシャにもいました。しかし、そういうふうに考える人は驚くほど少数でした。その ような考え方をする人、あるいはそのような考え方を受け容れられる人が国民の半数以上に達して、
「 イ 」になったのは、ほんのこの 20 年のことです。
例えば、いまから 30 年ほど前、アメリカはベトナム戦争でみじめな敗北を経験しましたが(注)、そ の当時、「アメリカ人から見たベトナムの風景」と「ベトナム人から見たベトナムの風景」は違うという ようなことは、ほとんどアメリカ国民のa脳裏に浮かびませんでした。アメリカにとって、ベトナムは「ド ミノ理論」という数式的な世界戦略の中での「ドミノ」のコマの一つに過ぎず、「生身のベトナム人はア メリカのアジアbセンリャクをどう評価しているのだろうか」というようなことを真剣に配慮している政 治家はほとんど存在しませんでした。
そのさらに 30 年前、当時の大日本帝国臣民にとって、「日本人から見た満州国」と「中国人から見た 満州国」が別様に見えるというようなことは少しも「常識」ではありませんでした。「中華民国の人々か ら見た満州国の評価」を尊重しつつわが国のアジア外交は展開され立案すべきだというようなことを説い た日本人はほとんどいませんでした。
A国人とB国人は同じ一つの政治的事件について違う評価をするということは「事実」としてはもち ろん誰にだって理解できます。しかし、ABそれぞれの国民のものの見方はとりあえず「等権利的」であ り、いずれかが正しいということはにわかには判定しがたいという意見を公言した人は、世界中どこでも、
近年まで、ほんとうに少数だったのです。
ヨーロッパでも事情はそれほど変わりません。
1950 年代のアルジェリア戦争のとき、ジャン=ポール・サルトルは「フランスの帝国主義的なアルジェ リア支配」をきびしくcダンザイしました。サルトルが「フランス人のものの見方」をB相対化したこと は確かです。しかし、サルトルは「アルジェリア人民の民族解放の戦いは断固正しい」と言ったわけであっ て、フランス政府の言い分にもひとしく配慮したわけではありません。
国際的紛争においては、抗争している当事者のうちどちらか一方に「絶対的正義」があるはずだ、と いうのがその時代の「常識」であり、その「常識」はサルトルにおいても、少しも疑われてはいませんで した。
この時期に「フランスとアルジェリアの言い分のいずれが正しいかは、私には判定できない。どちら にも一理あるし、どちらも間違っている……」と正直に語ったフランス知識人は、私の知る限り、アルベー ル・カミュただ一人でした。そしてカミュはこのときほとんど孤立無援だったのです。
それがどうでしょう。
「ジョージ・ブッシュの反テロ戦略にも一理あるが、アフガンの市民たちの苦しみを思いやることも必
要ではないか」というのは、d街頭でいきなりTVにインタビューされた場合のとりあえず無難な「模範 解答」です。人々はまるで判で押したように同じことを言います。「とりあえず無難」とみんなが思って いる意見のことを「常識」というのです。そして、このような意見が「常識」になったのは、ほんとうに ごく最近のことなのです。
世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも 正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考える ようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのはC構造主義であり、
それが「常識」に登録されたのは 40 年ほど前、1960 年代のことです。
構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に屈しており、その条件が私たちのものの見方、
感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あ るいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団 が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属 する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、
私たちの感受性に触れることも、私たちのe思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律 性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なの です。
(内田樹『寝ながら学べる構造主義』、一部改変)
(注)この作品は 2002 年に発行されている。その約 30 年前の 1973 年、パリ協定でアメリカ軍はベトナ ムから撤退した。
問 1 傍線a~eにおいて、漢字は読みを書き、カタカナは漢字に直せ。
問 2 空欄 ア にあてはまる語を次の①~④より選び、番号で答えよ。
① つまり ② なぜなら ③ しかし ④ したがって 問 3 傍線部A「このような考え方」とはどのような考え方のことか、25 字以内で説明せよ。
問 4 空欄 イ にあてはまる語を文中から抜き出して答えよ。
問 5 傍線部B「相対化」とはどのような意味か。正しいものを次の①~④より選び、番号で答えよ。
① 一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないと見なすこと。
② 特殊なものを無視して、共通のものを取り出して概念などを作り出すこと。
③ 漠然としているものや考えていることを、客観的にあるものにすること。
④ 計画や考えなどを実際にはっきりとした形や内容で表すこと。
問 6 傍線部C「構造主義」とは何か。文中の語句を用いて説明せよ。
2
次の文章を読み、後の問いに答えよ。企業内における教育というものを考えたときには、経営者や上司からの部下に対する教育関係が基本 になるでしょう。しかし、経営者セミナーのような場で実感したことですが、このような教育関係では上 に立つ者がとにかくしゃべりすぎるaケイコウにあり、それが失敗を招いてしまうのです。
経営者は、自分にはある程度の経験値があり、部下にはそれがないと思っています。だから常にしゃ べるのは上の人間なのです。酒の席などでもそうですが、 ア 上の人間は自分の考えを
bテッテイして 相手に植えつけたいという思いにc駆られていて、しかも常に満足しきれない。あるいは、足りないので はないかというA強迫観念にd苛まれているのです。ですから、一方的にとにかくしゃべる。相手のこと などお構いなしにしゃべりまくるのです。
しかしそうやって上から押しつけられるだけの教えは、部下にとってなかなか受け入れにくいものに なってしまっています。しかも、B自分自身で何かと出会って学ぶ、という学習の構造を作れなくなって います。ひたすら受け身でいろ、と強制されているのと同じことになってしまっているのです。
これは教育関係として、非常に不健全です。ですから、例えば経営者は、部下に対して「これに関し てどう思う?」と相談をもちかけるようにしてみたらどうでしょうか。部下から意見やアイデアを出して もらうことによって、社内がeカッセイカするでしょうし、経営者にとっても、コミュニケーションを取 る中から決断できるといったメリットもあるはずです。部下にとっては、経営者に相談されれば必ずやる 気が出てきます。たとえ自分の意見が採用されなくても、経営者に頼りにされているという感覚があれば、
仕事をやらされるだけの社員ではなく、会社の利益を自分の利益として考えられる「C能動的な社員」に育っ ていくでしょう。
このように、相談とは必ずしも知識のない側からある側へ働きかけるばかりとは限らないのです。部 下に気軽に相談する、という心のスペースを空けておけば、部下はいつでもそこへ走り込んでいくことが できます。一つしかない決定事項を決めるのは経営者、そこにいたるアイデアもすべて経営者の考え、と いうことでは、会社全体が盛り上がるはずもありません。いつでも話は聞く、どんどんアイデアを出して くれ、というスタンスにしておいて、最終的な決断は経営者なり上司が行う。決定事項というのは最終的 には常に一つですが、そこにいたるアイデアはどんどん受けつける、という姿勢が理想です。部下からの アイデアを常に受けつけつつ、責任はそれを最終的に決定した上司が取る。そういった好循環を作ってお けば、たとえ会社がピンチを迎えたとしても、頼りにできる部下が大勢育っていることでしょう。そういっ た大きな目で見た社内の教育というものが、必要なのではないでしょうか。
(齋藤孝『教育欲を取り戻せ!』)
問 1 傍線a~eにおいて、漢字は読みを書き、カタカナは漢字に直せ。
問 2 空欄 ア にあてはまる語を次の①~④より選び、番号で答えよ。
① あたかも ② とにかく ③ しかるに ④ かなり 問 3 傍線部A「強迫観念」の意味として正しいものを次の①~④より選び、番号で答えよ。
① 自分より強い相手にでも立ち向かうことのできる強い気持ち ② いくら打ち消しても、心につきまとって離れない不安な気持ち ③ ありがたいと感謝する謙虚な気持ち
④ 相手に対して常に怒りが湧いている気持ち
問 4 傍線部B「自分自身で何かと出会って学ぶ」とはどういうことか 50 字以内で説明せよ。
問 5 傍線部C「能動的」の反意語を記せ。
問 6 企業内教育において、どのようなことが重要だと述べているか要約して述べよ。
① ②
③ ④
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基礎学力テスト (家政学部 ライフスタイル学科・こどもの生活学科)
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次の文章を読み、後の問いに答えよ。現在われわれは、時間といえばまず時計を連想するのではなかろうか。それが腕時計であろうと、携 帯電話などにaナイゾウされている時計であろうと、基本的には刻一刻と量として測定される時間を、発 想の基本にしている。しかし現在でも、あらゆる社会に時計があるわけではないし、歴史的な過去の世界 では、機械仕掛けの時計がない時代の方が圧倒的に長い。
そのような機械仕掛けの時計がなかった社会では、一般的には日の出、日の入り、南中といった太陽 の動きや、月の満ち欠けに合わせて、時のはかどりを認識していたとみられる。あるいは、温帯に住んで いるわれわれに親しいような四季の移ろいであるとか、熱帯などでは雨季と乾季の周期的な反復が、時の 経過を意識させていたであろう。
こうした自然の円環的なリズムと不可分の形で、日々の暮らしのなかでの時間は感覚されていた。と いうよりも、生活のb営み自体が、自然の円環的なリズムに則して組み立てられていた。農業はもちろん のこと、牧畜や林業、漁業にしても、ながらく基本であったのは、自然と密着した環境とのやりとりであっ たから、世界各地の文化的な特質の違いを超えて、基層文化においてはA円環的な時間の感覚が共通して いたのである。
では、機械仕掛けの時計がない社会では、時間の捉え方は単純なものだったのだろうかといえば、そ んなことはない。世界各地にある歴史的な暦が示しているように、このような円環的な時間の感覚は、自 然における生死の反復との照応や、天空の動きと生命活動とのc呼応といった、しばしば呪術的とか魔術 的とかいわれるような、人間と世界の捉え方とも密接に関係していた。日本の八や お よ ろ ず百万の神々の世界をdソ ウキしてもらえば、分かりやすいであろう。
一神教であるキリスト教がひろく布教されたヨーロッパ世界でも、伝統的な性格を持った農村におい ては 19 世紀にいたるまで、いや場所によっては 20 世紀になっても、このような呪術的な信心を含みもっ たキリスト教の信仰が指摘できるのである。
自然のリズムに照応しながらも、一定の量として時間を測定しようとする欲望は、かなり古くから世 界各地で認められる。日本でも、天智天皇(626 ~ 671)が作らせたといわれる水時計は有名であるし、
中国の漏ろうこく刻といわれる水時計には、古くからかなり大規模なものがあったらしい。日時計は、紀元前から、
メソポタミアはじめ各地で使用の跡を残しているし、ロウソクなどの燃え具合で時間を測定する火時計や、
砂時計の類も、古くから存在したことはよく知られている。 ア 、人びとの時間の感覚、時間の意識 を大きく変えていったのは、一定のリズムで時を刻みつづける機械仕掛けの時計の出現であった。
その出現は、ほぼ 13 世紀なかばころのヨーロッパであったと見なされている。正確なところが分から ないのは、現物が残っていないのに加えて、文書にも正確に判定できるものがないからである。史資料が 欠けていると、正確な事実認定が困難であるということの、これは一例となる。「オロロギウム」という 時間測定装置を意味する単語は文書に出てくるのだが、それが機械仕掛けのものであるのか、日時計のよ うなものであるのか、それだけでは判定がつかない。14 世紀にはいると、いくつかの都市に塔時計が作 られていたことが分かっている。
塔時計を製作することは、当時としてはたいへん経費のかさむ、したがって都市が豊かでなければで きない事業であった。それまでの教会の鐘が知らせる時間とは別に、都市の独自の時計をもとうという、
B都市生活上の必要性や意欲がまた必要でもあった。はじめから時計職人がいたわけではないから、各種 の職人を招聘して作業を組織するだけの力量も問われただろう。一種の大規模な公共事業であった。
時計の製造は、時代が進むとともに進歩しつづけ、18 世紀末までにはきわめて精巧なものが作られる ようになった。置時計や掛時計はもちろん、指輪のような装身具に組み込まれた小さな時計、そして懐中
時計。やがて 20 世紀前半には腕時計がeフキュウする。
時計のない時代、教会の鐘は日本の近世までの寺の鐘と同様、C季節によって鳴らされる間隔は一定で はなかった。不定時法である。つまり、日の出と日の入りを基本にするから、季節によって時刻は異なる のである。機械仕掛けの時計は、季節にも天候にも左右されない等量でリズムを刻む定時法の世界を実現 した。
時計が示す時間は、等間隔の世俗化した時間であり、単位としての時間に特別の意味があたえられる ことはない。それを基準に、数学的な合理性を持ってものごとを組み立てる姿勢を、社会に広めていくこ とになる。
(福井憲彦『歴史学入門』、一部改変)
問 1 傍線a~eにおいて、漢字は読みを書き、カタカナは漢字に直せ。
問 2 傍線部A「円環的な時間の感覚」とは何か。30 字程度で説明せよ。
問 3 空欄 ア にあてはまる語を次の①~④より選び、番号で答えよ。
① そして ② ところが ③ やがて ④ しかし
問 4 傍線部B「都市生活上の必要性や意欲がまた必要でもあった」理由としてふさわしくないものを次 の①~④より選び、番号で答えよ。
① たいへん経費がかかったため ② 時間は教会の鐘が知らせてくれていたため ③ 都市が豊かでなかったため ④ 各種の職人を招聘する必要があったため
問 5 傍線部C「季節によって鳴らされる間隔は一定ではなかった」理由を文中の言葉を用いて簡潔に説 明せよ。
問 6 筆者は文中で時計をどのようなものとしているか、説明せよ。
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次の⑴~⑽までの各文章の空欄にあてはまるものをそれぞれ①~④の番号で答えよ。⑴ は夏目漱石の作品である。
① 金閣寺 ② 草枕 ③ 山椒大夫 ④ 羅生門
⑵ 酸性とアルカリ性の水溶液が反応し水ができる反応を という。
① 溶解 ② 中和 ③ 生成 ④ 蒸発
⑶ から脱退した日本は、2019 年 7 月から 31 年ぶりに商業捕鯨を再開した。水産庁はニタリクジ ラ、イワシクジラ、ミンククジラの 3 種の捕獲枠を設定した。
① WTO ② OECD ③ UNICEF ④ IWC
⑷ 20 世紀最初の年は 年である。
① 2000 ② 1900 ③ 2001 ④ 1901
⑸ 日本列島へ季節変化をもたらす 4 つの気団のうち、冬など西北の強い季節風をもたらす気団を という。
① シベリア気団 ② 揚子江気団 ③ オホーツク海気団 ④ 小笠原気団
⑹ 主に日本料理で煮物をする時に、材料の上にかぶせて使う蓋ふたを という。
① 天蓋 ② 落し蓋 ③ 綴じ蓋 ④ 合わせ蓋
⑺ 2019 年 6 月 30 日、朝鮮半島中間部の板門店でアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と北朝鮮 の金正恩朝鮮労働党委員長による米朝首脳会談が開催された。板門店は北緯 度の休戦ライン 付近に位置する。
① 17 ② 35 ③ 38 ④ 50
⑻ 生産手段が私的に所有され、私的利潤の追求を認める自由競争社会の市場経済を という。
① 社会主義経済 ② 資本主義経済 ③ 労働主義経済 ④ 自由主義経済
⑼ 国税の内訳で最もパーセンテージの高いのは である。(平成 30 年度予算)
① 消費税 ② 所得税 ③ 法人税 ④ 相続税
⑽ 落ち着いて物事に取り組むという意味の慣用句は である。
① 腰が低い ② 腰を据える ③ 腰が重い ④ 腰が軽い
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次の⑴、⑵の問題に答えよ。⑴ x2+ 6x = 0 この二次方程式のxの値を求めよ。
⑵ たて 20 m、よこ 26 mの長方形の土地がある。この土地の内に、たて 2 本、よこ 1 本のどちらも同じ 幅の道を作り、 2 か所の交差点ができるようにした。残った土地の面積が 396㎡の場合、道の幅は何 mか求めよ。