2002年12月の韓国大統領選挙に勝利し、翌年2月に政権を発足させた当時、盧武 鉉大統領が直面した最大の政治課題は、民主化でも、民主主義の定着でもなかった。
民主化が完了し、定着したかどうかは、通常、「2度の政権交代が民主的な手続きで 実現されたか」を基準に判断されるが、その意味では、韓国の民主化はすでに盧泰 愚政権によって達成され、金泳三、金大中政権によって確実なものとして定着して いたのである。事実、前任の大統領である金大中の功績は民主主義の定着であるよ りも、経済自由化による通貨危機の克服であり、歴史上初めての南北首脳会談の実 現であった。
したがって、韓国国民が盧武鉉大統領に期待したのは、民主主義の定着であるよ りも、むしろ時代の変化に即応した新しい形の政治統合であり、それを達成するた めのリーダーシップであった。いわゆる「三金」(金泳三、金大中、金鍾泌)は、権威 主義的な要素を残したり、地域的な基盤に依存したりしながら、政治対立の拡大を 抑制しようとしたが、盧武鉉は権威主義体制の遺産も、民主化闘争を指導したカリ スマ性も、確たる地域基盤も持たない最初の大統領であった。人権弁護士としての 名声こそ備えていたが、盧武鉉には韓国社会では必須とも言える学閥さえなかった のである。言い換えれば、それらの政治的資産を利用できない以上、そのリーダー シップは「改革を通じた安定」を志向せざるをえなかったのである。
しかし、そのことがかえって改革志向の青年たちにアピールしたのだろう。大統 領選挙の過程で盧武鉉候補の下に結集したのは、1960年代に出生し、1980年代の軍 事体制の時期に大学生活を送り、民主化闘争のなかで成長した政治的な野心家たち
(「386」世代と呼ばれる)であった。彼らは光州事件を目撃し、全斗煥政権を背後から 支えた米国に対して批判的であり、その分だけ北朝鮮に宥和的であった。また、そ の周辺には、サッカー・ワールドカップ大会での韓国チームの躍進に狂喜し、反米 的な色彩を帯びた「ろうそくデモ」に参加して、IT選挙を実践したより若い青年た ちが存在した。盧武鉉期の韓国政治には、間違いなく、驚くほど明確で、急速な世 代交代がみられたのである。
事実、盧武鉉政権期に展開されたのは、「パラダイム・シフト」を目指す「改革の
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◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎
Okonogi Masao
連続」であった。植民地時代にまで遡る現代史の真相究明、首都移転の推進、言 論・学園改革、不動産取得の大幅規制、対北宥和(脱冷戦)政策、在韓米軍の基地移 転、韓国軍の戦時作戦指揮権回復、高句麗をめぐる中国との歴史論争、竹島(韓国 名:独島)問題を含む対日外交の刷新、大統領任期に関する憲法改正の提起など、改 革はあらゆる分野にわたって同時並行的に推進された。そして、そのような「改革 の連続」が国内の左右対立を極限にまで押しやり、政治的、社会的に大きな混乱を 招来したのである。それは解放直後の韓国が経験した大混乱に例えられるほどであ った。
盧武鉉政権の施政に対する批判は早い時期に表面化し、政権発足後1年間を経過 したばかりの2003年3月には、野党ハンナラ党が提出した大統領弾劾決議が国会を 通過するほどであった。しかし、内外の激しい批判のなかで、実際に盧武鉉政権の 継続を可能にしたのは、改革志向の「新しいリーダーシップ」であるよりも、むし ろ盧武鉉が政治的な師匠である金泳三や金大中から受け継いだ古いタイプの伝統的 なリーダーシップであった。盧武鉉は二つの種類のリーダーシップをたくみに織り 交ぜながらも、政治的な決断が必要とされる重要な局面ではむしろ後者に依存した のである。そのような例は大統領選挙以前にまで遡ることが可能である。
例えば、政治家としての盧武鉉は地域的には慶尚道に位置する釜山の出身であり、
そこを基盤にする金泳三に師事して政界に進出した。しかし、それにもかかわらず、
やがて金泳三と袂を分かって民主党に入党し、全羅道を基盤にする金大中大統領の 下で頭角を現わした。これは釜山出身の政治家にとって危険すぎるほどの選択であ ったが、それが党派と地域を越える支持を勝ち取るための貴重な政治的資産になっ たのである。なぜならば、改革志向の青年たちがそこに新しい指導者像を見出した からである。盧武鉉が民主党の大統領候補の座を勝ち取り、ワールドカップの韓国 招致の立役者であった鄭夢準候補(無所属)との候補者一本化に競り勝つことができ たのも、また本選挙でハンナラ党の李会昌候補に2ポイントあまりの僅差で勝利す ることができたのも、IT選挙の実践に象徴されるような青年層の熱い支持があった からにほかならない。
大統領に就任した後の盧武鉉も決して単純な改革者ではなかった。民主党候補と して大統領に当選しながらも、彼は与党民主党を二分して、新たに自らの少数与党 を結成したのである。盧武鉉が率いた「開かれたウリ党」はわずかに43議席の第3 政党でしかなかった。しかし、この一見すると無謀な決定も、「金大中の遺産」の継 承を明確に拒絶し、「指導者中心の個人政党」を結成するという観点から見れば、そ れはむしろ韓国の政治的伝統を継承する行為であり、金泳三による新韓国党、金大 中による民主党結成の経験を踏襲するものであった。しかも、大統領弾劾という窮 地を逆手にとって、盧武鉉は2004年4月の国会議員選挙で43議席のウリ党を152議
◎巻頭エッセイ◎盧武鉉大統領の二つのリーダーシップ
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席(過半数)の大政党に拡大することに成功したのである。これは「三金」に匹敵す る天才的な政治的資質(カリスマ性)の存在を証明するものにほかならない。盧武鉉 こそ三金の「最後の弟子」だったのである。
もちろん、このような盧武鉉の成功は長続きしなかった。総花的な改革の推進は 抵抗勢力の拡大や「改革疲労」をもたらし、首都移転問題で挫折した後、2005年4 月と10月の2度の国会議員再・補欠選挙でウリ党は1議席も獲得できず、ついに過 半数を割り込んでしまったのである。よく比較されるように、それは小泉改革の成 功と対照的でさえあった。その後、盧武鉉大統領の支持率は20%前後まで低落し、
最近では、12月の大統領選挙を前にウリ党からの脱党者が相次いでいる。
しかし、それでも、盧武鉉大統領は憲法改正を提起して、野党ハンナラ党の二人 の大統領候補である李明博前ソウル市長や朴槿恵前代表を牽制したり、いま一人の 大統領候補である高建元首相を脱落させたり、米韓FTA交渉を妥結させて若干たり とも保守層の支持を回復したり、第2の南北首脳会談を構想したりして、二つのリ ーダーシップを織り交ぜながら、与党系大統領候補の決定に大きな影響力を発揮し ようとしている。盧武鉉は自分の改革政治を継承してくれる独自の候補者を擁立し、
退任後も一定の政治力を維持するために、いま一度古いタイプのリーダーシップを 発揮しようとしているのである。
韓国の次期大統領に誰が当選し、いかなる政策が追求されるかは予断を許さない。
「386」左派の退潮とともに、社会的な平等・公正、大きな政府、対北宥和政策を追 求する社民的な政策は後退するだろうが、改革右派による自由で効率的な市場、小 さな政府、対北変革政策の追求はまだ明確な姿を見せていない。しかし、「韓国政治 はカリスマ(政治であり)、それなしには何もできない」(金泳三)のであれば、明年 2月以後、新しいリーダーシップの下で、再び新しい政治的実験が開始されることは 間違いない。
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おこのぎ・まさお 慶應義塾大学教授