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3 私が研究者になった動機

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Academic year: 2023

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あなたは言語学の研究者になりたいの ? ある著名な言語学者のファンで終わりたいの ?

黒田 航

独立行政法人 情報通信研究機構 知識創成コミュニケーション研究センター

1 はじめに

これは主に若い研究者の卵向けのエッセイであ る.扱う話題は,研究方法に関係するものという より,心構えに関係するものである.基本的な論点 は,あなたが言語の研究者としての言語学者である ためには,あなたの憧れる言語学者の一ファン以上 のものでなくてはいけないということである.

ただし,このエッセイでの私の目的は,言語学の 愛好家をけなすことではなくて,若い研究者の卵に 一つのことに警告をすることである: 自称「言語学 者」,あるいは多くの人から言語学者と見なされて いる人の中にも,特定の言語学者のファン以上の存 在になり切っていない人は少なからず存在する.そ のような人々を正確に見極めるのは,自分の研究者 としての将来を決める際に—特に指導教官を選ぶ 際には露骨に—重要になる可能性がある.このこ とを知っておいて,損になるはずはないだろうとい う老婆心から,私はこのエッセイを書いた.

2 あなたは研究者志願か ? ある研究者の 一ファンか ?

2.1 二種類の人たち

別に言語学に限ったことではないが,学会に属し ている人には幾つかの種類にわかれる.言語学の場 合,言語学会員を構成している人々の一部は,言語 研究者である.彼らは実際に何らかの言語に関する 何らかの研究をし,その結果を学会で発表したり,

学会誌で論文を発表したりする.だが,この種の 人々は,構成員の割合としては,圧倒的に少ない.

このような人たちの蔭にゼンゼン違う振る舞いを する人たちがいる.この種の人たちは,典型的には 学会がある度に他人の発表を聞くために遠方まで出 かけることを厭わない熱心な人たちであることが多

いのだが,どういうわけか,自分ではまったく研究 発表をしない.

このグループの人々は研究者ではない.なぜか? それは彼らが言語学の研究成果を娯楽品,嗜好品と して消費しているだけで,自分からは何の貢献をし ないからである.彼らの貢献は,他人の研究成果に 対する—多くの場合,あまり適切とは言えない—

「批評」のみである.今どきなら2chで幾つかのス レッドを賑わすのが全活動といった程度の生産力,

貢献度である.

2.1.1 批評は研究にあらず

批評は研究とはまったく別の活動である.批評 するのに専門的な知識は不要である1).ド素人だっ て,批評はできる—ただし,見当違いで,何ら学問 的な進歩も伴わない,批評には,暇つぶしのための ただのおしゃべりで十分だからだ2)

2.1.2 批評家は研究者にあらず

彼らは何者か?彼らは当然,言語の科学者ではな いし,研究者ですらない.彼らはせいぜい言語学の 批評家である.

2.1.3 批評家以下の人たち

いや,一部にはそれ以下の人たちもいる.彼らは 何者か?彼らは言語学のファン,もっと正確には特 定の言語学者の—例えばChomskyの,Jackendoff の,Lakoffの,Langackerの, etc. —ファンの集 まりである.

ところが非常に皮肉なことに,言語学関係の学会 の運営を支えているのは,実はこういう研究者未満 の,言語学の愛好者の集団だったりする.どの学会

1)日本語ではいわゆる「文芸批評家」が専門家面をしている ことが多いので,この辺には大いなる誤解があるようだ.

2)人は原則としておしゃべり好きであるから,おしゃべり 自体が悪いことだというわけではない.彼らのおしゃべ りの本質的不適切性に本当の問題があるのである.

(2)

3 私が研究者になった動機 2

でも,大半の学会参加者は,この意味での愛好家た ちである.

彼らは,学会の運営にとっては大切な「お客さん」

かも知れないが,学問の実質的な進展にはあまり貢 献していないのは明白である3)

もちろん,彼らの存在が言語学にとって好ましく ないということではない.彼らは学問的進展に対し て益になることは実質的に何もしないが,かとって 何も毒になることもしない.だが,学会の大多数が こういう人たちで構成されるとなると,それは由々 しき事態である.そうなると学会は研究発表の場と いうより,アイドルのコンサートのような場になっ てしまう.

いや,アイドル視されている研究者の「実物」が 日本の学会に登場することは極めて稀れなわけだか ら,その場は,強いて言えばアイドルの仮装大会で あろうか.

2.2 二つの道

問題は,あなたが研究者の卵ならば,あなたの将 来には二つの可能性があるということだ:あなたは,

研究者になって科学的貢献をしたいのか? それと も,科学的貢献なしで言語学を娯楽品,嗜好品とし て消費する側に回り,自分のお気に入りの一人か,

二人の研究者のファンで終りたいのか?

重要な点をもう一度繰り返す: あなたが研究者を 自認するならば,あなたは研究をし,その結果を 発表しなければならない.研究者がそう呼ばれるの は,彼らの仕事が研究をし,それを発表することだ からである4).従って,研究成果を発表しない人は,

研究者の定義により,研究者ではない.

スポーツの世界を見ればすぐにわかるように,

ファンは大切である.と同時に,ファンとプロの違 いは歴然としている.あなたは,プロとしての言語 の研究者を見本にするべきなのか?それとも特定の

3)ファンの心理学は,スポーツでも学問的研究でも,次の ような性質をもつ点で,本質的に同じであると思われる:

(i)敵と味方を鋭敏に区別し,(ii)味方を無条件に贔屓し,

(iii)敵を無条件に無価値化する.(iv)その現われとして,

敵味方で,非常に瑣末な事柄に関してちょっとしたきっ かけで小競り合いを始め,決着が着かないと—といって もほとんどの場合そうななるが—罵り合い始める.

4)ただし,ここで私はXの仕事”Xの社会的存在理由”

という意味で使っている.従って,これはXが研究を主 な収入減にすることを意味しない.実際,Xの仕事がY でも,YXの主収入源である必要はない.

言語学者X (の言語学)のファン—例えばChomsky (の言語学)のファン, Jackendoff (の言語学)のファ ン, Lakoff (の言語学)のファン,Langacker (の言語 学)のファン—で終りたいのか? そのことを考える ために,どんなことが研究のプロの条件であるかを 知っておくのは,無意味ではないはずだ.

3 私が研究者になった動機

私は自分が言語学者だと言えると思うが,実は言 語学者になりたいと思ったことはない.言語学者 云々以前に,私は単に科学者になりたいと思ってい た.私が今現在言語学者なのは,言語学者が自分の なろうと思ってなれた科学者の一つだからだ.どう いう経緯で私がそう感じるようになったか,少し詳 しく記述してみよう.

3.1 人生モデルの決定

小学生ぐらいの子供が科学者になりたいと思うこ とは,特別なことだろうか?まったくそんなことは ない.子供が科学者になりたいと思う動機は,子供 が音楽アーティストになりたいと思う動機とまった く質的に変わらない.

単に音楽が好きなのではなく,実際に職業的アー ティストになろうとするのは,音楽が好きなだけで は十分ではない.世の中,アーティストになれない 音楽好きなど,溢れるほどいる.

単なる一音楽好き某がある日,一アーティスト志 願者になるには,たいてい典型的なきっかけがあ る.ある日,何かの偶然で,偉大な先人の作品の一 つを知り,それに身震いするほどの衝撃を受け,そ の人のようになりたいと強く感じることからすべて が始まる.その瞬間から,その先人は某の人生のモ デルとなる.この変身は説明がつかない,理解不能 な力で起こる.言わば,これは半ば宗教的な体験と でも言えるかも知れない.

私の場合,このような体験が正確にいつ起こっ たのかは覚えていない.だが,それは確実に起こっ た.私の場合,自分のモデルは第一に『昆虫記』

(Souvenirs entomologiques)を著した19世紀末の大 昆虫学者Henri Fabre (アンリ・ファーブル翁),第二 にブラックジャック(Black Jack: BJ),BJのドッペ ンルゲンガーの故手塚治虫だった.

(3)

3.2 人生モデルは人生倫理を体現する

私は言語学に接するずっと以前から—まだ科学 というものが正確にどんなものであるかどうかがわ からないうちから—自分が科学者になるものだと 決めていた.それは子供の頃,ファーブル翁の伝記 を読んで,この人のようになることが自分にとって 宿命のように感じたからだったと思う5)

もちろん,これはあまりに尊大な夢想である.昆 虫学の分野でファーブル翁に比肩することなど,絶 対にできない.誰にもできない.

3.2.1 ある猛烈に偏屈な昆虫学者の影響

正確さに欠けていたとは思うのだが,私の読んだ 子供向けの伝記でも,ファーブル翁の人柄はよく描 写されていたと思う.

(1) ファーブル翁は

a. 猛烈な努力家だった,

b. 信念の人で,(少なくとも研究に関して は)妥協らしい妥協を一切しなかった,

c. 度重なる挫折に負けない,強靱な精神力 をもつ人だった,

d. どんな些細なことでも,可能な限り実 験,観察で確かめる筋金入りの実証主義 者だった,

e. 彼は権威というものをまったく受け入れ ず,自分の観察,実験で確かめられない ことは,誰の意見も鵜呑みにしなかった,

f. 反権威主義的性質故に,権力から遠く,

最晩年に至るまで名誉,名声には縁遠 い在野の人だった(最終的には Legion d’honneur賞をもらったけれど,彼自身 はあまり気に留めなかったようだ)

この人物像は,強烈である.私はこの人物に猛烈 に憧れた.この人が(自然)科学者(兼教育者)だっ たから,私は当然,自分が(自然)科学者になるも のだと信じ込んだ.私が(自然)科学者になるのを 心に決めた理由は,正真正銘,たったそれだけであ る.それ以外に理由はない.考えてみれば,人間の 人生の指針は,意外と単純に決まり,堅固に維持さ れるものである.

5)だが,どういうわけか,昆虫学でそうなる気は,始めから まったくなかった.自分が毛虫が嫌いだったから,昆虫学 ではやってゆけないと自覚していたのだと思う.

3.2.2 ある無免許外科医の影響

ファーブル翁は自然科学者だったが,別の形で,

二度目の刷り込みが起こった.今度のモデルは,架 空の無免許外科医師である.

BJの単行本を初めて読んだのは,私が中学校の 頃だった.親しい友人が手塚治虫の猛烈なファン で,当時刊行されていた手塚の作品—単行本にし て二百冊前後—をすべて揃えていた6).私は彼の家 に遊びに行くたびに,何時間もかけてBJの単行本 を読んだ.

ファーブル翁とBJ?何の共通性があるの?? と不 思議に思う読者も多いだろう.だが,この関係は 必然的なのである.実は,ファーブル翁のとまっ たく同じ性質が,手塚治虫の有名な漫画『ブラック ジャック』の主人公であるブラックジャック(Black Jack;本名「間 黒男」)という人物に体現されている のである7)

私は (1)でファーブル翁の特徴を幾つか挙げた が,どれもがBJのキャラクターにぴったりあては まるのである.BJの外科手術の腕前は「神業」と形 容されるが,ファーブル翁の観察もその賛辞にふさ わしいものである.翁の行った観察,実験はまさし く「神業」であり8),今でも追検証されていないもの が山ほどあるという.虫が活動する季節は一日も欠 かさず,南フランスの厳しい太陽が出てから沈むま で路上でしゃがみっ放しで12時間身動き一つせず,

気配を消して虫の行動を観察し続け,夜はその観察 をランプの明かりを頼りに—当時は蛍光灯などな い—ノートに克明に記載するいう生活を,あたり 前のように何十年も続けるのは,絶対に人間業では ない.更に彼は,時間を最大限に活用するため,可 能な限り多くの種類もの昆虫の飼育,観察を同時並

6)このような境遇から容易に推測できることかとは思うが,

彼も医者の息子であった.彼の部屋は漫画の巣窟だった.

今でこそそういう人は少なくないだろうが,私の世代に はまだそういう少年は非常に少なかった.

彼は手塚漫画のファンであるばかりでなく,猛烈なSF 映画のファンであり,その方面に関しても,いろいろオモ シロイことを教えてもらった.彼に誘われて一緒に見に 行ったStanley Kublikの『2001宇宙の旅』の映像の記憶 は,今でも真新しい.

7)因みに私の父は外科の開業医であり,それによって私の BJへの親近感は,いっそう深まったようにも思う.

8)現代では,ファーブル翁の仕事は,その高頻度の再現性の 欠如故,しばしば批判される.この点に関しては,私は今 となっては完全に門外漢であり,その評価の正当性を云々 する資格はない.

(4)

3 私が研究者になった動機 4

行に続けた.このような生活は,ほとんど「研究す る機械」である—にも係わらず,ファーブル翁の 著作には巷に溢れる三流文学者9)風情には真似でき ないほど豊かな感受性,ユーモアが横溢している.

これは偶然か?? それとも,手塚治虫はBJ を ファーブル翁を知っていて,翁のような人物として 彼を造形したのか???手塚氏が亡くなってもう7年 近くになるが,その答えはもうわからない.

3.2.3 ある偉大な漫画家の影響

だが,よくよく考えてみると,実は手塚治虫も ファーブル型の人間だった.BJが医師「脱落者」と しての手塚の分身だったという説を証拠づける資料 は色々ある.手塚治虫がBJに自分を投影していた とすれば,BJとファーブル翁の類似性は,手塚治虫 とファーブル翁の類似性になる.

実際,手塚治虫の仕事も神業の領域に達している: その仕事量,集中力,創作力,作品の構想力,どの 面をとっても,手塚はファーブル翁顔負けの仕事の 鬼であった.完成度に関して見ても,手塚治虫の達 成した偉業に肩を並べられる日本人は,おそらく葛 飾北斎ぐらいであろう.

3.3 言語学者には「狂気」が足りない

繰り返しになるが,私は(1)に挙げた特徴をもつ 専門的な職業人を自分のモデルとしている.科学者 の分野での典型はファーブル翁,医術の分野10)での 典型はBJであり,創作の分野では手塚治虫という ことになる.BJと手塚氏に関しては,偉大な日本 人としてのモデルという意味もある.

この基準に照らしてみると,言語学は,明らかに モノ足りない.言語学には,ファーブル翁,BJ,手 塚治虫のような「狂気じみた活動力」をもつ研究 者は少ない.内外問わず,一発芸的な研究をする

9)余談だが,私はいわゆる文学者がなぜ文「学者」と呼ばれ るのか,サッパリ合点がゆかない.彼らはどう考えても,

学者ではない.どうも,文字を扱う人々が学者と呼ばれる 誤った傾向があるようだ.確かに言語は学に不可欠な要 素ではあるかも知れないが,それは学問の十分条件では ない.

しかし,まあ,古くは「学問」とは僧になるための勉強 のことで,「学生」(読みはガクショウ)とは若い修業僧を 指して,「大学」とは彼らの寝泊まりしていた場所だった わけだから,文学は「修業を必要とする」という意味では 確かに学かも知れないのだが.

10)BJの世界は「医術」の世界,高度な職人芸の世界である.

彼は近代「医学」の世界,科学の世界には属していない.

もちろん,これは近代的な「学」の意味での話であって,

修業の話とはちがう.

人が多すぎるような気がする.de Saussureですら,

ファーブル翁に較べたら,圧倒的な凡人だ.

3.3.1 Jakobsonの狂気度を評価する

言語学に関して私のモデルと言える存在にイチバ ン近い存在はRoman O. Jakobsonだったし,今でも そうだ.彼の思考には本当の科学者としてのキラメ キがあるし,何より,彼の言語に関する思考,研究 には狂気染みた活動力がある.彼はいつまでも,い つまでも,いつまでも言語について執拗に考え続け た.ただ,彼にどれぐらい信念があったかどうかは わからないし,あまり実証的な研究スタイルは取っ ていなかった.だが,彼が猛烈な量の観察を行った のは,おそらくまちがいない.

Jakobsonは比較的早くから名声を得て,あまり

ハッキリと反権力という立場も採らなかった.ロシ ア革命を嫌って亡命した点を考えると,どっちかと いうとブルジョア系だったのかも知れない.ただ,

彼はそもそも権力/反権力のような次元を超越して た可能性もある.

3.3.2 McCawleyの狂気度を評価する

現代的な言語学者では,もっとも自分のモデルに 近いのは故Jim McCawleyだ.それは彼が自分が何 を研究しているのか,他の誰よりも明確に理解し ていたからだ.ただ,彼の限界は,既存の形式的モ デルにあまりに忠実だったことだろう.この点で,

Jimは(1b)が弱いとも言える.Jim McCawleyに関 してもっともモノ足りない点は,(1b)だと思う.彼 はあまりにバランスが取れていて,狂気が足りな いのである.もちろん,これは普通の場合,長所で ある.

3.3.3 Chomskyの狂気度を評価する

Noam Chomskyにもまったく憧れなかったわけ

ではない.特に彼の数学的洞察力には素直に感嘆 した.だが,今となっては彼の言語学は,言語学 のエセ科学化のためのプロパガンダに過ぎない.

Chomskyは—本人にとって幸か不幸か— (1f)が妥 当しない: 彼は若くして名声を手にしてしまった.

だが,彼に関して決定的に私の好み合わないのは,

(1d)がまったく妥当しないことである.彼は自分の 理論—というより世界観—にとって都合の悪い事 実が無視するばかりか,それが存在するという事態 そのものを無化するための巧妙な論法を作り上げ,

現在主流の「手抜き言語学」の元祖となっている研

(5)

究者だからだ.

4 結論らしきもの

このエッセイには結論と言えるようなものはな い.ただ,次のようには言っておきたいと思う: (1) の研究倫理を当然視する私が見る限り,自称「言語 研究者」に関して,彼らがプロ野球選手に相当する 研究者なのか,それとも阪神ファン,巨人ファンに 毛が生えた程度のものであるかどうか,甚だ怪し い.少なくとも,私が日本の言語学関係の学会発表 を聞き,学会誌の内容を見る限り,そのことを否定 的に示す証拠は何一つ挙げられていないように思わ れる.

一つ,誤解を招かないように,注意をつけ加えて おきたい:言語研究者の卵が言語学者の一ファンか ら始まることは,それ自体はぜんぜん悪くない:そ のまま特定の個人の一ファンで終ることがお勧めで きないだけである.それはもったいない.

どんなに偉大な先人でも,最初は猿真似から始め た.おそらく手塚治虫だって,ファーブル翁だって そうだったに違いない.ただ,そのような情報はな かなか伝わらず,知られていないことが多い.

身近な例を取り上げるならば,このことは音楽 アーティストのことを考えれば理解できるのではな いだろうか?いろいろな優れたアーティストが自分

がteenagerの頃,○○の曲を何十回,何百回と練

習したという逸話は繰り返し繰り返し現われ,様々 なメディアを通じて語られ,よく知られてると思 う.例えば偉大なグループThe Beatlesの影響は,

現代のどんなアーティストに対しても絶大だ11).で

も,Beatlesのメンバーに影響を与えた人々も確かに

いた.例えば,Chuck Berryがその一人だ.Chuck

Berryにも誰かが絶対にモデルを提供しているは

ずだ.

言語学だって,例外ではない.Chomskyですら,

モデルはいたはずだ.

研究も芸術も,そういう面ではまったく変わらな い.どんな活動も絶対に無からは生じない.

11)彼らの影響が認められない偉大なグループはKraftwerk ぐらいか??

Referensi

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