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5 月 1 日 豊岡市日撫(ヒナド)巡遷観音講採訪

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Academic year: 2023

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5月1日 豊岡市日撫(ヒナド)巡遷観音講採訪 神戸新聞「兵庫探検 民俗編」(S46.4.8)によれば

京都の空也堂から預ったと伝える観音像がある。日撫他近在10ヶ村に住んでいる同族のものの共同所有で定 った順で、これを迎えて念仏が行われる。昔は災害や疫病流行のとき招いたが今は順送りになっている。当っ た村の本尊会で管理し祀る。観音講といっている。送り迎は同じ村へ年に1回は廻ってくることになっており、

日撫には約 2 ヶ月滞在する。その間に日撫の定った数軒の家を廻る。迎えた日と送る日には部落の男女が集ま り念仏をあげる。

とある。

今日、佐野の雷神社の御田植祭が思いの外早く済んだので、或いはとあまり希望も持たず日撫(ヒナド)という 珍しい地名の部落へ入る。お寺か公民館で訪ねれば分るであろうと思ったが両方共留居。その隣りの家の庭先で話 をしていた 2 人のお主婦さん風の女の人に訪ねて見たところ、多分まだ観音様は日撫に居る筈、世話人の人に聞い て見てあげましょうと、行き掛ける所へ向うから年配の婦人がやって来て、その女の人と話した所、そこの家に居 られる、多分明2日、六地蔵から迎えに来るという。偶然の好運に、その婦人に案内されて早速そのお宅へ行く。

鈴木一郎さんという宅で、その婦人丈で主人は外出中で夕方しか帰らず、世話人の家へも行って呉れたが、その 人も留守で、詳しいことは聞けなかったが、聞いた所を次の通りノートする。

観音像は高さ50㎝位の木彫坐像で真黒になっている。これを最近の新調と思われる厨子に入れ、前面に仏壇を設 けて荘厳を施し、夏蜜柑と林檎を供へ、蝋燭立を置き、下壇に木魚と*〈*は「聲」の耳の部分が金の字〉子とが 置いてある。

現在観音像が巡遷する村は日撫の他に六地蔵、下鴨井、森津庄境、等ある。各村に観音講の世話人があって、世 話人の間で巡遷の順序について話合が出来ているらしい。1村のうちに幾軒か廻る家がある。大てい4、5軒で日撫 へやって来られたのは4月の初め頃、鈴木さんのお宅へは1週間ばかり前にやって来られた。明日(2日)頃、六地 蔵から迎えに来るらしい。送り迎えは迎える方の村の世話人がやって来て背負って帰る。御厨子の外に観音様の祭 具や旗等柳行李に2杯あるが、それも背負うて帰る。

観音様に来て頂くと流行病が治まるというので昔は来て呉れという所が多かった。昔は気比まで行かれたが洪水 があったとき海に流されて岩の間に、はさかって居たのを見付けてお祓いしたことがある。それから気比へは行か ぬようになった。「いざ」(この地名不明)では火事に逢われた黒焦になったのはそのときで、それからはいざにも 行かれない。

お迎えしたときはその村の人が多ぜいやって来てお念仏をあげた。

日撫では観音講の世話人が留居で正確な巡遷制については聞き得なかった、が、なお少し時間があったので、九 日市町の汝代神社へ廻って、もう雷神社から帰っていた宮司坪内久憲さんを訪ねた。

汝代神社は円山川の堤防のすぐ下にあって幾度か水害に逢って社殿も新しく、秋祭に昔は神輿 3 台が練廻ったが 丁度祭日(10月15日)は豊岡の日吉神社、小田井神社と同じ日で豊岡三社祭といって、よく他社の神輿の喧嘩した。

現在は神輿1基、神輿祭に供奉した、鼻高面、鬼面も壊してしまって現在はない由である。

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