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Shakai jigyoka Kashima Toshiro to Chosen - Osaka hanai fushokukai kara Chosen fushoku noen e -

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract. Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 社会事業家加島敏郎と朝鮮 - 大阪汎愛扶植會から朝鮮扶植農園へ 小野, 修三(Ono, Shuzo) 慶應義塾大学出版会 2006 三田商学研究 (Mita business review). Vol.48, No.6 (2006. 2) ,p.67- 87 明治29年に汎愛扶植會と名付けた孤児院を大阪・今寺で始めた加島敏郎は,明治30年代末に財政 難のため財産を処分し,学齢児童のための汎愛扶植會は大阪・林寺に残す一方で,明治43年には 朝鮮・大邱郊外に農地を求め,出身者の就職先確保を目指した。その朝鮮扶植農園は当初は大阪 から連れて行った孤児たちだけのものだったが,次第に現地の孤児たちも収容した。さらに加島 敏郎は大阪の地で朝鮮人労働者のための社会事業をも展開し,時の政府に働き掛け,大正12年に は内鮮協和會を発足させた。この加島敏郎の日本と朝鮮にまたがる社会事業を支援したのは,同 時期に発足した朝鮮総督府,また国策会社の東洋拓殖株式会社だったのであり,政府による植民 地統治と加島敏郎の社会事業とがどう重なり,どう識別出来るのかについて,ここでは主観的意 図と客観的帰結の観点からの理解を試みる。 Journal Article http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-20060200 -0067.

(2) 67 2005年11月21日掲載承認. 三田商学研究 第48巻第6号 2006年 2 月. 社会事業家加島敏郎と朝鮮 ――大阪汎愛扶植會から朝鮮扶植農園へ――. 小 野 要. 修. 三. 約. 明治29年に汎愛扶植會と名付けた孤児院を大阪・今寺で始めた加島敏郎は,明治30年代末に財政 難のため財産を処分し,学齢児童のための汎愛扶植會は大阪・林寺に残す一方で,明治43年には朝 鮮・大邱郊外に農地を求め,出身者の就職先確保を目指した。その朝鮮扶植農園は当初は大阪から 連れて行った孤児たちだけのものだったが,次第に現地の孤児たちも収容した。さらに加島敏郎は 大阪の地で朝鮮人労働者のための社会事業をも展開し,時の政府に働き掛け,大正12年には内鮮協 和會を発足させた。 この加島敏郎の日本と朝鮮にまたがる社会事業を支援したのは,同時期に発足した朝鮮総督府, また国策会社の東洋拓殖株式会社だったのであり,政府による植民地統治と加島敏郎の社会事業と がどう重なり,どう識別出来るのかについて,ここでは主観的意図と客観的帰結の観点からの理解 を試みる。 キーワード 社会事業,大阪汎愛扶植會,朝鮮扶植農園,加島敏郎,岡山孤児院,石井十次,大原孫三郎,柿 原政一郎,松本圭一,植民地統治,朝鮮総督府,寺内正毅,東洋拓殖株式会社,朝鮮移住,内鮮協 和會,今宮,林寺,大邱府東村. はじめに. 昭和13年に刊行された相田良雄編『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』において,次 の一節がある。編者による説明である。すなわち, 大阪汎愛扶植會は加島敏郎翁が明治二十九年 立以來四十三年の星霜を經て現在に及んでゐる。……或る時代には故石井十次翁經営の岡山孤兒 院と比肩して全日本の双璧とも せられた程隆盛を極めたが,又或る時代には債権者の為め惨憺た る苦悩を めたものである。……かの日露戦争従軍将士の遺兒と東北三縣の大兇作地方の貧兒を殆 んど無制限に収容して辛苦艱難の大世帯を展開し……數百の孤貧兒を擁して財政窮乏を告げ餓死の.

(3) 68. 三. 田. 商 学 研. 究. 一歩手前まで追ひ詰められたが,一般社會の援助續かず,遂に破局の悲惨に 着したのである。が, 1). へすに家なき孤兒は如何ともするに由なく,加島翁は幾度か天下に哭する酸苦を め」た,と。 この社会事業家加島敏郎の大阪汎愛扶植會における困窮の程を窺わせる記事が「或る時代には ……全日本の双璧とも. せられた」 ,その石井十次の岡山孤児院側の,明治40年1月から明治41年 2). 3月までの「岡山孤児院大阪事務所」日誌のなかに見て取れる。なお,日誌の書き手は当時同孤児 院大阪事務所の中心にいた光延義民である。すなわち,. 大原孫三郎氏ヨリ金 千参百円ヲ送リ來ル,扶植會救済ノタメ也」。(明治40年5月19日) 扶植會ノ加島氏來訪,地所買戻シ困難トノコト,壱千圓ヲ仲人ニ出シ周旋ヲ托セラレテハ 如何ト注意ス」 。(5月22日) 古木氏ヲ再訪,加島氏一件ヲ懇談ス」。(同23日) 倉敷大原氏ニ金. 阡参百円ヲ返送ス。╱大坂毎日ニ角田氏ヲ訪ヒ(中略)石井氏ハ硬直ニ. ヤツテ居ラルゝト信ズル。扶植會ガ芝居ヲスルカラ相談會ニ來レトノコトナリシモ書クコトハ 書クガ行カヌト断ハツタ。何事モ山師的ニヤツテハ不可ナリ云々」。(同27日) 古木氏ヲ訪ヒシニ,加島氏ニ合併ヲ勸メシコトヲ話サル,競賣ニ附セラレシ地所買戻シハ 中々運バズトノコト,石井氏ニ其ノ経過ヲ報ズ。 」(6月1日) 加島氏來訪アリ,合同問題ノ話出ツ。負債ヲ償却シ後始末着カバ,合同ノ心ナキニアラズ ノ意ヲ述ベラル。」(同5日). 正確な事情はこの日誌からだけでは理解し難いが, 負債ヲ償却シ後始末着カバ,合同ノ心ナキ ニアラズ」の個所からは,明治40年6月以降に大阪汎愛扶植會側での「負債ヲ償却シ後始末着カ」 なかったが故に,加島の大阪汎愛扶植會と石井の岡山孤児院との合同は起こらなかった,とも読め よう。岡山孤児院との合同以外の選択肢として, 遂に之等孤兒と生死を共にすべく血路を開いた 3). ものが即ち朝鮮扶植農園であつたのである」と推測しても大過ないように思われる。 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』によれば,大阪汎愛扶植會がその「五千坪に餘 る敷地と建坪で百坪の舎屋を債権者に譲渡して,現在本會所在地三百餘坪の地域に幼少孤兒を移し, 4). 近親者に育兒の後事を托して年長少年を携へて渡鮮したのは實に明治四十二年の事であ」り, 朝 1) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』(相田良雄編,昭和13年)49−50ページ。本書お よび注 6)の二著とも,現在は『植民地社会事業関係資料集[朝鮮編] 』(近現代資料刊行会,2000 年)のなかに復刻されている。ただし,前者は第一部とも言うべき「財團法人大阪汎愛扶植會編」は 省略し, 財團法人朝鮮扶植農園編」の部分(原文71ページ以下)のみ収録している。 2) 小笠原慶彰,小野修三,松田隆行「岡山孤児院大阪事務所の開設(上) 日誌・自明治40年1月至 明治41年3月―」 ,『四天王寺国際仏教大学紀要』平成14年度,所収。 3) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』50ページ。 4) 同。.

(4) 社会事業家加島敏郎と朝鮮. 69. 鮮,臺湾,北海道の各地に渉りて調査せし結果,朝鮮大邱の地は南鮮に位し,大阪とは近く,従つ て交通頗る便利に,氣候及び土地の關係最も適好なるを以て,茲に同地有志諸氏の慫慂により,朝 鮮總督府及び東洋拓殖會社の後援を得て,明治四十三年十月三十一日,今の大邱府外東村に農園を 5). 立し,朝鮮扶植農園と命名せり」と。 そしてこの朝鮮扶植農園の 立10周年を記念して刊行された『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農 園』(大正10年4月)には――こちらの方が『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』より先 に刊行されたものだが――次のさらに詳しい説明がある。すなわち,. 園長加島敏郎氏は……薄倖無告の子女を収容して之を養育すること實に六百名の多數に達 し,畏くも曩に 先帝陛下より御下賜金拝戴の恩命に浴し,又内務省及び大阪府よりは毎年補 助金を下附せらる。而して其教養せる子女をして國民義務教育終了後,獨立自治の良民たらし むるためには如何なる方法を執るべきやに就きては,頗る熱心に研究を凝らせしが,結局農業 を課して勤. の習慣を作り,漸次に獨立の家庭を営ましむるの良策なるを感じ,朝鮮,臺湾,. 北海道各地に渉りて調査せし結果朝鮮大邱の地は南鮮に位し,内地と交通頗る便利に,氣候及 び土地の關係最も適好なるを以て,茲に仝地有志諸氏の慫慂により,明治四十三年十月三十一 日,今の朝鮮慶尚北道達城郡東村に農園を設立し,朝鮮扶植農園と命名せり,之れより先き十 月十九日(東村草分けの人たる―小野注)田中辰三郎氏より土地二町歩(一反歩拾五圓宛)を譲 り受け同じく十一月に入り麁造なる塾舎一棟,納屋一棟を建築せり,これ實にわが扶植農園始 6). めて朝鮮の地に呱々の聲を げたる揺籃なり。 」. なお,大正3年に大阪府が刊行した『大阪慈恵事業の栞』によれば, 當初加島氏は市内貧民窟 7). の随一なる今宮に居を卜し」たが,明治「三十五年には兒童の激増に連れ,校舎並に家族舎を新築 8). 9). して現在の地に移轉」したとあり,その時点での現在地は「府下東成郡生野村字林寺七二ノ二」で あった。 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』が言う「五千坪に餘る敷地と建坪で百坪 の舎屋」とは,今宮から林寺に移転後のことで,明治39年に「東北地方凶 に會するや,巌手,宮 城,福島の三縣下より兒童一百二十餘名を収容し,續いて……大阪慈恵院を合併し,更に五十三名. 5) 同書,73ページ。 6) 『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農園』(編輯者高見健一,発行者藤本松太郎,大正10年)7ページ。 なお,藤本松太郎の住所は大阪府東成郡生野村大字林寺229番地と印刷されている。 7) 『大阪慈恵事業の栞』159ページ。 8) 同。 9) 同。なお,この時の移転に関しては『大阪府公報』第1837号(明治35年11月10日)において,大阪 府告示第260号としてその旨が記載されている。移転先は確かに「東成郡生野村大字林寺七十二番地」 (8ページ)であった。.

(5) 70. 三. 田. 商 学 研. 究. 10). 11). の兒童を収容せ り」という, 財政上多大の困難を感ずるに至り し」出来事が起こり,その結果 「五千坪に餘る敷地と建坪で百坪の舎屋」から明治42年には「三百餘坪の地域」に転居,そして 「年長少年を携へて渡鮮」していたことになろう。 ところで「扶植農園」との命名を推奨した,留岡幸助はさらに将来は「扶植村」とするのが良い と,. 設の祝辞のなかで述べていた。 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』に紹介され. ている,明治43年10月20日付の留岡の書簡にはこうある。すなわち, 只今の所は農園としての名 かと存じ候間╱扶植農園╱は如何のものに候や,扶植と申す字は最も小供の發育又は農業に關係 のある文字にて繁昌を意味し候之れが發達して村ともなれるの曉には扶植村と致すも差支へ無之候 12). ╱御成功を祈り候」 ,と。単一の社会事業としての成功を越えて,村として存在を示すこと,まさ に植民地統治の一環として加島敏郎の仕事は周囲から評価されていたように推測される。 これに対して同書では,加島敏郎自身の文章として「加島氏の隠退挨拶の書簡」が紹介されてい る。すなわち, 愚生儀明治二十九年大阪に於て薄倖なる子女養育の為に汎愛扶植會を. 設以來社. 會事業に年を重ぬること四十年更らに明治四十三年同會出身青年及之と境遇を同ふする者の前途開 13). 拓を志して此の地に朝鮮扶植農園を新設以來二十有六年の春秋を送迎致候云々」 ,と。 前途開拓」 , すなわち出身者の就業先確保という目的での「朝鮮扶植農園を新設」という点のみが言及されてい た。昭和11年頃には事業主の地位から「隠退」することになる加島敏郎は,自らの事業の軌跡の細 部を書き遺す人物ではなかった。 また,この農園設立の候補地が朝鮮に決定するまでには,さらに次のようなエピソードがあった と,同書は伝えている。すなわち, 本農園設立の方針を決し,渡鮮するに際し,多年同情を寄せ られたる時の内務省衛生局長窪田靜太郎氏は,總督府兒玉秀雄氏,木内重四郎氏,石塚英蔵氏の各 局長並に東洋拓殖會社理事井上孝哉氏等へ紹介せらる。而して東洋拓殖會社は,始めより深く此 を賛せられ時の井上理事(後の大阪府知事,内務次官に歴任せらる)同社参事大橋重省氏等盡力せら れたり。╱當時千葉縣知事有吉忠一氏は,朝鮮總督府總務長官に任命せられ,東京の旅館に訪問せ しに有吉氏は,朝鮮の遠き地に行かなくとも近くに適地が澤山あるとの事,其れで何故今日 打捨 てあるやと御尋ねすれば,近くの千葉縣にもあるから見て來いとの事,更に農商務省に朝鮮の農業 に通ぜらる技師を訪問せば有吉氏の説に同感との事,再び内務省に相田良雄氏を訪ひ右様の報告せ ば,相田氏は迷はぬが良いと注意せらる,加島氏は既に渡鮮する事に決せることゝて即日夜行にて 14). 大阪に られた」 ,と。明らかに当時加島敏郎は国外殖民か国内殖民かに迷っていたことがわかり 興味深い。 10) 『大阪慈恵事業の栞』159ページ。 11) 同。 12) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』74ページ。 13) 同書,163ページ。 14) 同書,75−76ページ。.

(6) 71. 社会事業家加島敏郎と朝鮮 15). 当時「日本人の朝鮮移住を周旋した農業会社」には,大手としての東洋拓殖株式会社(1908年) の他に,いわば老舗としての韓国農業株式会社(1904年),また日本林業株式会社(1907年),韓国 興業株式会社(1908年),韓国実業株式会社(1908年)などがあったわけだが,加島敏郎の大阪汎愛 扶植會がいくつかの経緯を経て朝鮮総督府,東洋拓殖株式会社の援助の下,その「孤兒と生死を共 にすべく血路を開いたもの」としての発足した朝鮮扶植農園に関して,以下さらに垣間見たいと思 う。ただ,朝鮮総督府も寺内正毅が初代総督(兼陸軍大臣)に任命されたのが明治43年10月1日で あり,また東洋拓殖株式会社が設立されたのが明治41年12月28日であり,朝鮮扶植農園を含めた三 者はほぼ同じ時期に,同じ朝鮮半島で始動していた。その意味で見究められるべきは,同類的では ありながら,政府による植民地統治と社会事業家加島敏郎による朝鮮扶植農園とは,一体どこが異 なっていたのかという点である。. 第1章. 朝鮮扶植農園の発足当初. 大正3年5月19日,大阪府嘱託法学博士小河滋次郎が視察のために朝鮮扶植農園に来園している。 小河は明治30年代初頭に内務省監獄局に監獄事務官として勤務した際,その上司,つまり内務省監 獄局長が大久保利武だったのであり,大正2年4月に大阪府知事の大久保が監獄行政からは離れて 16). いた小河を大阪の地の社会事業のアドバイザーとして,招聘していた。したがって,小河の大阪赴 任後1年目の出来事だったが,『拾週年記念. 財團法人朝鮮扶植農園』によれば,大正3年5月19. 日に「小河滋次郎氏は知事大久保利武氏の希望により特に渡鮮來の上本園事業を詳細に視察せらる。 翌廿日は大邱官民有志と共に大邱高等小學校にて同博士の講演会を開く,聴衆約千余名,夜は友仁 17). 倶 部にて同博士を招待し各官衙の重なる諸氏と晩. 會を開けり」とのことだった。前年の大正2. 年11月には「大阪府知事大久保利武氏より本會(大阪汎愛扶植會)を經て金壹千圓を下附せられ, 18). 本園(朝鮮扶植農園)の事業が最も時機に適するものなりとして大に奨勵せられた」のであり,大 阪府知事大久保利武にとって大阪の社会事業家加島敏郎による,日本と朝鮮にまたがる社会事業は, 育成のための援助を惜しまぬ対象であったわけである。 19). さらに大正4年の来園者の名のなかに「岡山孤兒院 農學士 松本圭一」を見ることが出来る。 伝記によれば,東京帝国大学農科大学を大正2年に卒業した「松本が岡山孤児院から分院の茶臼原 20). 孤児院へ赴任したのは,大正3年(1914)の5月25日」のことであり, 松本を校長として. 立さ. 15) 尹 郁『植民地朝鮮における社会事業政策』(大阪経済法科大学出版部,1996年)122ページ。 16) 拙著『公私協働の発端 大正期社会行政史研究 』(時潮社,1994年)58ページ等参照。 17) 『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農園』17ページ。 18) 同書,14−15ページ。 19) 同書,37ページ。 20) 飯塚恭子『祖国を追われて ILO 労働代表《松本圭一》の生涯 』(キリスト教新聞社,1989年) 69ページ。.

(7) 72. 三. 田. 商 学 研. 究. 21). れた農場学校は,大正4年(1915)2月に完成した」が,その同じ大正4年に朝鮮への出張調査に 出掛けていた。主目的地は水原の勧業模範場だったようである。 水原は朝鮮農業の総本山で勧業 模範場(後の農事試験場)と高等農林学校があった。又民間では三菱系の東山農場の支社があり, 22). 小作料 一万石位も収納し,立派な精玄工場を持っていた」。松本圭一の伝記にはさらにこうある。 すなわち,. 大正4年(1915)10月には,農場学校から初めての遠足として,霧島登山に出かけた。/ それからすぐに,松本は本部の柿原政一郎と一緒に朝鮮へ行くことになった。╱この朝鮮行き は,大原(孫三郎)の外地殖民村設立計画による調査であった。╱大原は,院長として以前か ら孤児院出身者が独立自営出来る場所を国内で探していたが,適した広大な土地が見当たらな い上に,当時の地主勢力が相当なもので,殖民村を建設することは容易ではなかった。そこで, 大原は朝鮮に目を向けて,東洋拓殖会社に孤児の朝鮮殖民を申し込んで,松本と柿原を現地視 察に出した。╱外地での殖民村建設は,相当な資金を必要とするが,孤児院にそんな資金があ るはずはなく,すべて大原からの援助に頼るしかなかった……╱松本たちは,まず釜山に上陸 して,日本人経営の農場を見せてもらった。その後,水 原へ行き,勧業模範場を見学した。 この勧業模範場には,松本の大学の先輩が大勢,研究,指導に来ており,松本と柿原は意外な 歓待を受けた。╱そして,彼らによって多くの農場を紹介してもらって訪問することが出来た。 ╱しかし,各地を精力的に見て回った松本たちではあったが,殖民村を建設出来そうな場所を 見い出すことは遂に出来なかった。たとえあるとしても,開墾出来るような土地ではなかった。 ╱三週間の朝鮮視察を終えた松本と柿原は,朝鮮開拓は資本投資の領域で,労力投入の場所と 23). しては不適当と大原に報告した。」. この叙述のなかで, まず釜山に上陸して,日本人経営の農場を見せてもらった」というその農 場のなかに,加島の朝鮮扶植農園も間違えなく含まれていたと思われるが,岡山孤児院の松本圭一, 柿原政一郎の判断,そして石井十次の後継者大原孫三郎の判断は,まさしく大阪汎愛扶植會,朝鮮 扶植農園の加島敏郎のそれとは対照的であった。両者の違いはどこに淵源するものだったのだろう か。宮崎県茶臼原で石井十次が永眠したちょうどその大正3年1月30日に,時の宮崎県知事でキリ 24). スト者の有吉忠一は,茶臼原を訪れている。有吉忠一は,先に引用したように,明治42,3年に加 島敏郎に対して「朝鮮の遠き地に行かなくとも近くに適地が澤山ある」と述べた人物であり,同種. 21) 同書,81ページ。 22) 猪又正一『私の東拓回顧録』(龍渓書舎,1978年)43ページ。 23) 飯塚恭子『祖国を追われて ILO 労働代表《松本圭一》の生涯 24) 『基督教世界』大正3年2月19日付。. 』91−92ページ。.

(8) 73. 社会事業家加島敏郎と朝鮮. 類の判断を生前の石井十次に語っていたのかも知れない。 植民地がなくても日本がやっていける 25). 26). と気づ」く以前,つまり「先進諸国に伍していくには,やはり植民地がなくてはならない」と思わ れていた時代なのだから,加島敏郎の判断の方が石井十次の側のそれよりも時代の雰囲気には即し ていたと言うべきだろうが, 労力投入の場所」に対する合理的計算の結果は,そのスポンサーに 大原孫三郎がいた,またそのブレインに農学士松本圭一がいた岡山孤児院の側において尊重されて いたと言うべきであろうか。 ところで,朝鮮扶植農園では大正5年の出来事として,事業存続のために次のような寄付を募っ ている。すなわち, 大正五年二月二日加島理事は寺内總督を官邸に訪問し,農園の困難なる情況 を述べ,内地は世界戦争の為め好況なれば基金を募集せんことを謀りしに,寺内總督は大いに賛同 を寄せられ,自分からも東京や大阪の知人に話をしてやるとて大いに勵まされたり,之れぞ本園が 此の難關を切抜け更に朝野の名士の賛同を得て信用を 復し面目を一新するに至りし一大轉機とな 27). れり」と。岡山孤児院にとっての大原孫三郎や松本圭一の存在は,加島敏郎の大阪汎愛扶植會,朝 鮮扶植農園の場合にはやはり朝鮮総督府だった,と言えるように思う。 一方,朝鮮総督府にとっても大邱郊外の朝鮮扶植農園は,大切な存在であったと言わねばならな い。大正3年1月に朝鮮総督府が公表した『朝鮮統治三年間成績』にはこうある。すなわち,. 朝鮮ノ農民ハ只管ヲ天惠ニ依賴シ人力ヲ以テ何等改善ノ途ヲ講セサリシノミナラス山林ハ 濫伐ニ委シテ樹木ノ 乏ヲ來タシ之カ為メ淋雨ニハ洪水ノ害ヲ被リ旱魃ニハ潅漑ノ便ヲ キ随 ツテ穀類ノ品質ハ漸ク劣悪ニ流レ其ノ収穫ハ縦令ヒ減少セサルモ増加スルコトナク野菜果物ノ 栽培ニ至リテハ殆ト忽諸ニ附セリ是ヲ以テ本總督ハ就任ノ劈頭ニ於テ鋭意農耕ノ改善ニ盡瘁シ 勸農機關ノ. 張及新設ヲ図リ先ツ中央機關トシテハ一般農作ノ為メニ京畿道水原ニ設立セル勸. 業模範場ノ外其ノ支場ヲ慶尚北道大邱及平安南道平壌ノ二箇所ニ置キ又別ニ蚕業ノ為メニ龍山 支場ヲ京畿道ニ,棉作ノ為メニ木浦支場ヲ全羅南道ニ,……且ツ地方機關トシテ種苗場ヲ各道 28). ニ設置シ云々。 」. 大邱には勧業模範場支場があり,そして実際に朝鮮扶植農園は「大正元年……四月慶尚北道より 29). 水稻採種場一町歩を委託せら」れるに至っていた。朝鮮扶植農園は朝鮮総督伯爵寺内正毅がその 「就任ノ劈頭ニ於テ鋭意農耕ノ改善ニ盡瘁シ勸農機關ノ. 張及新設ヲ図」ろうとした,その「勸農. 機關」の一だったはずである。また一方, 明治41年(1908年)3月,第24帝国議会において可決 25) 古海忠之・城野宏『獄中の人間学』(竹井出版,昭和57年)125ページ。 26) 同。 27) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』88ページ。 28) 朝鮮総督府『朝鮮統治三年間成績』(大正3年)23ページ。 29) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』79ページ。.

(9) 74. 三. 田 商 学. 研 究. 『朝鮮半島五万分の一地図集成』(学生社,19 81年)145 ページ。右側やや上方に「扶植農園」の文字を見ることが できる。. された『東洋拓殖株式会社法』に基づき,同年1 2 月2 8 日,資本金1 , 00 0 万円をもって『韓国ニ於テ 拓殖事業ヲ営ムコトヲ目的』として設立された国策会社で,当初本店を京城(現大韓民国ソウル特 30). 別市)に置いていた」東洋拓殖株式会社とは, もともと移民会社として発足し,内地人移民を招 31 ). 3 2 ). 致し,これによって朝鮮の農業開発を図るのが目的であ」り,明治4 2 年「秋大邱に同社の支店」を 33). 「大邱府東雲町」に設置していた。朝鮮扶植農園はしたがって東洋拓殖株式会社大邱支店とは地理 的にもごく近く,連絡は取り易かったわけである。 大正1 0 年3月2 4日大阪毎日新聞社長・本山彦一は,朝鮮扶植農園 立1 0周年記念式の祝辞のなか で, 朝鮮扶植農園は明治四十三年十月大邱府外東村に. 立せられ内地移住者に農業教育を授け其. 成績頗る見るべきものあり,而して今や十週年の歳月を重ね之を記念せん為め更に内鮮人の不幸兒 34 ). 百名を収容せんとす」と述べていた。しかし,朝鮮総督府の飛鋪秀一によれば, 何しろ十三四歳 3 0 ) 大河内一雄『国策会社東洋拓殖の終焉』(續文堂出版,19 9 1 年)1 1 ページ。 3 1 ) 猪又正一『私の東拓回顧録』(龍蹊書舎,1 9 78年)3 4 ページ。 3 2 ) 韓國地理風俗誌叢書58 『大邱物語・大邱府勢一斑』( 景仁文化社,1 9 9 0年)3 39ページ。なお原著は 昭和6年河井朝雄著,朝鮮民報社刊『大邱物語』。 3 3 ) 同書,48 4ページ。 3 4 )『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌) 』 ,1 0 9 ページ。.

(10) 75. 社会事業家加島敏郎と朝鮮. から,十五六歳の少青年で,オマケに農業には經験の無い之等の者を相手に百姓をするのであるか ら,中々思ふ様に 働能率が上らないし,其處へ持て來て度々の旱魃や水害等で,思はしく収穫が 35). 無く大正元年は當地方稀に見る旱魃云々」という現実があった。そして,同じ飛鋪は「内鮮人の別 なく収容すること」になってからは, 小學校へ通學させる傍之を農民に仕立てる為め指導を為し, 又附近の朝鮮人中生活に困つて居る者は,精々之を農場に雇傭して生活扶助の方法を採り,一面又 36). 病弱者には施薬も為して居る」と記している。加島敏郎は「學齢兒童」は大阪からは連れて来な かったのであり,現地の「學齢兒童」を収容することになって以後に,事業のプログラムが拡大し たということだったと言えよう。 また『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農園』には,日本本土から朝鮮扶植農園の所在地大邱府東 村までの当時の旅程が「扶植農園來訪案内」との見出しで地図と共に掲載されている。『最新大東 37). 亜鉄道案内図』を見ると,大邱と慶州を結ぶ東海中部線で大邱の次の停車駅が東村であることが確 38). 認出来る。朝鮮総督府が作成した大邱の地図 (大正7年)には「果園」たる扶植農園を見ることが 出来る。 入園者数を次に示そう。『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農園』の31−32ページに「 立以來入退 異動年別表」がある。斜線(╱)で示したのは男子╱女子の収容人員数。なお計の箇所の(括弧内 は離園者)は独立した者,死亡した者,その他の理由で「救助ヲ廢シタル人員」であり,原表では. それらの数を区別して記載されているが,ここでは区別せず,合計して記載した。なお一部計数に 誤りがあり訂正している。 前年起 明治44年. 内地人. 朝鮮人. 計(括弧内は離園者). 14╱2. 14╱2. 大正元年. 14╱2. 6╱0. 20╱2. 大正2年. 20╱2. 7╱3. 27╱5. 大正3年. 27╱5. 4╱2. 31╱7(4╱2). 大正4年. 27╱5. 0╱1. 1╱0. 28╱5(5╱0). 大正5年. 23╱5. 1╱1. 1╱0. 25╱6(1╱1). 大正6年. 24╱5. 2╱2. 1╱0. 27╱7(0╱2). 大正7年. 27╱5. 3╱2. 2╱1. 32╱8(5╱3). 大正8年. 27╱5. 2╱4. 0╱1. 29╱10(0╱2). 大正9年. 29╱8. 1╱0. 5╱2. 35╱10(5╱3). 35) 同書,112ページ。 36) 同書,114ページ。 37) 『決定版 昭和史 別巻Ⅰ』(毎日新聞社,1985年)3ページ。 38) 『朝鮮半島五万分の一地図集成』(学生社,1981年)145ページ。.

(11) 76. 第2章. 三. 田. 商 学 研. 究. 東洋拓殖株式会社による植民地経営. 大正13年刊行の大阪市社會部調査課編纂『朝鮮人. 働者問題』にはこうあった。すなわち,. 働者が經濟幼稚にして,生活程度の低き地より,其高き地に,移動するは,自然の勢である。國内 に於て,農村 働者が都市に移動すると同様に,國際間に於ても貧國より富國に移動するは 働者 39). 移住の自然の方向とも謂ふ可きである。 」 つまり,ほぼ同時代の人間たちの目からも,朝鮮扶植農園の企て,ひいては朝鮮移住は, 貧國 より富國に」という経済的合理性には欠けるものと写っていたわけである。 金が在りや朝鮮なん 40). ぞへとは」と日本国内では一般に思われていたのであり, 金かあれば來す,無ければ來られず」 であった。 自然の方向とも謂ふ可き」労働者の流れについて,同書はこうも記している。すなわ ち, 大正六年以後關門入港船舶の便乘者(従來朝鮮より内地へ航海する船舶は必ず第一に關門に碇泊 せしものなり)についての朝鮮人來住統計(山口縣外事警察係調査)により,内地來住者の數を測定. ……別に大正十二年二月より,朝鮮濟洲島と大阪とを直航する朝鮮人専用汽船の航路開けてより, 之を利用して來住せし朝鮮人の數を測定し,以て双方の計を通算せしに,實に十二萬餘人の残留者 41). を算出する事が出來たのである」 。 この統計は大正12年末現在のものであったが, 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』 (昭和13年)によれば「大阪汎愛扶植會並に朝鮮扶植農園支部は夙に其等(在阪朝鮮人保護機関)の. 問題に先鞭を着け大正九年より鮮人の無料宿泊所,施療施薬,職業紹介等を為し來りしが今回(大 42). 正12年)更に此等の事業を. 張して,家なき食なき不幸の在阪鮮人を救濟せんとす」とあり,その. 新しい事業計画として「天幕共同宿泊所新設」 , 夜學校新設」(日本語教授)また「職業紹介所増 43). 設」があると挙げていた。 その大正9年に始まる大阪汎愛扶植會と朝鮮扶植農園の協同新規事業について,『拾週年記念 財 團法人朝鮮扶植農園』はこう記している。すなわち, 九月一日,在大阪市内外の鮮人は約. 九千. 人の多きに及び,中には財界不振の為め多數の失業者あるを調査し,當局の賛同を經て,大阪汎愛 扶植會と協同して,朝鮮人の為め救濟保護機關を開設することゝし,多年勤務せる主事藤本松太郎 44). 氏を大阪出張所の主任として赴任せしむ」と。. 39) 大阪市社會部調査課編纂『朝鮮人 働者問題』(弘文堂書房)6ページ。 40) 共に明治43年12月発行の『満韓之實業』第60号に掲載された「東洋拓殖會社の移住民に就て」(6 ページ)のなかの一節。 41) 『朝鮮人 働者問題』15−16ページ。 42) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』118ページ。 43) 同書,118−119ページ。 44) 『拾週年記念 財團法人朝鮮扶植農園』31ページ。.

(12) 社会事業家加島敏郎と朝鮮. 77. また大正12年11月には大阪汎愛扶植會のイニシアチブで「内鮮協和會」が発足した。これは「大 阪府下ニ在住スル朝鮮人ヲ扶掖善導シ生活ノ安定ト品性ノ向上ヲ図リ内鮮融和ノ實ヲ クルヲ以テ 45). 目的トス」という団体で,事務所は大阪府庁舎内に置かれた。 この内鮮協和會については,加島敏郎は次のような回想をしている。すなわち, 大阪にて在阪 鮮人保護事業を. 張せんとて,(小河滋次郎)博士に相談せしことあり,其時博士は東京の 資協調. 會(總裁床次内務大臣,會長澁澤子)が大阪にて何にか へ居る筈なり,幸に澁澤子爵は扶植農園の 顧問であり相談して見よとのこと,そこで東上して澁澤子に計れば子爵は何んとかなるように思ふ が,幸ひ斎藤總督も在京のことなれば,總督より床次内相へ話してもらへとのことで,斎藤總督よ り床次内相に相談せられたことあり。╱澁澤子爵は更に協調會理事添田敬一郎氏へ計られた,此時 池上大阪市長は土地は市有地を使用するもよからうとのこと,其の後今の内鮮協和會が大阪市に生 46). れたのです。 」 ところで「内鮮融和」の動きに関しては,このように大正12年に社会事業家加島敏郎の尽力が核 となって内鮮協和會が生まれる以前から,ある意味で,明確に確認出来る。というのは,明治43年 からの政府による植民地朝鮮統治こそ, 内鮮融和ノ實ヲ. クル」ことなくんばそもそも実現不可. 能な事柄だったからである。東洋拓殖株式會社が大正4年に編集・発行した『改正 朝鮮移住手引草』 と,大正6年に同じく東洋拓殖株式會社が編集・発行した『朝鮮移住案内』という二つの冊子から, それぞれの冒頭個所を引用しよう。そこにはしかしながら, 内鮮融和ノ實ヲ. クル」方向と,そ. れと反する方向との二つが窺えるはずである。この後者の方向性は,加島敏郎には窺えない性質の ものだと言えると思う。 まず『改正 朝鮮移住手引草』である。すなわち,. 本社の募集する移住民は朝鮮に永住土着して自ら農業又は半農半漁を営む者に限り,日雇 稼, 働人夫等の目的にて一時出稼する者を募集する趣旨にはあらず。又本社が移住民を世話 する所以は移住民各自の便宜を計ると共に,之に依りて自然に内地人の來住を誘致し農事の改 良,土地の開發並に地方經濟の發達を図らんとするに在り。従て移住民は鮮農の模範たるべき 農業者たらざるべからず。是れ本社が移住民の選 並に其の分配に意を用ゆる所以なりとす。 而て本社の移住民は……孰れも地主たるべきものにして其の割當つる土地は将來は未墾地原野 等を開墾して之に充つる場合もあるべしと雖,現在に於ては總て既墾地にして,朝鮮人が廣き 面積の土地を極めて粗末に耕作するを集約的に耕作せしめ,其結果餘裕を生じたる土地を移住. 45) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』 ,123ページ。 46) 同書,38−39ページ。なお,これ以前の明治35年に加島敏郎は中央政府側からの社会事業の組織化 のための動きに対して,社会事業側の受け皿として大阪の地で運動していた。その様子は『窪田静太 郎論集』(日本社会事業大学,1980年)457−458ページ等で窺える。.

(13) 78. 三. 田. 商 学 研. 究. 民に割當つる方針なり。されば移住民はよく其の模範を示して,従來の粗笨的耕作法を改良し, 収穫の著しく増加する事實を覺らしめ,かくて附近の鮮農を誘掖して,相共に地方の發達を期 47). し,兼ねて大和民族の勢力扶植を図らざるべからず云々。 」(原文には句読点なし). 次に『朝鮮移住案内』である。すなわち,. 本社は毎年移住民を募集す。其移住民は土着永住の意志堅く朝鮮に渡來し,専心に農業を 営むか,若くは本業の傍ら農業に従事せむとする,勤勉にして身體強壮の者に限る。……本社 が廣く移住民を誘掖指導する所以のものは,移住民の事業に付き諸多の便宜を計るは勿論,是 に依りて土地を開發し以て,其進展を計らしむるとともに,地方經濟の發達を期せむとするに 外ならず,故に移住民たる者は,進んで従來の粗笨的耕作法を改良し以て収穫を大ならしめ, 鮮人の模範となりて,農事の發達を図らざるべからず,これ軈て大和民族の勢力を扶植し,延 48). て鮮人をして我に倚賴し共に其發展を為す所以なり。 」. ここに見える「大和民族の勢力扶植を図らざるべからず」 ,また「鮮人をして我に倚賴」せしめ るとの発言こそ,政府による対朝鮮植民地政策貫徹の意思表示であった。その政策は,しかし, 附近の鮮農を誘掖して,相共に地方の發達を期」す努力なくんばそもそも不可能であった。日本 人が「鮮人の模範となりて,農事の發達を図」る努力なくんばそもそも不可能なことだったのであ る。これらの努力は「内鮮融和ノ實ヲ クル」営みそのものだったはずである。こうした努力,つ まり「相共に地方の發達を期」し, 農事の發達を図」ることでの 出身者の就業先確保> が加島 の利益のすべてであって,たとえいかに周囲からそれが期待されていようが, 大和民族の勢力扶 植」を指向する雰囲気は加島からは漂って来ないように思う。 先に引用した大正13年刊行の大阪市社會部調査課編纂『朝鮮人労働者問題』が記すように,移住 の方向が日本から朝鮮へというのは「自然の方向」に反するのである。同書より13年前の明治44年 4月に発行された『満韓之實業』第64号の「東洋拓殖會社の移住民に就て」には,その「自然の方 向」にさらに一層反する出来事を見て取ることが出来る。すなわち「昨秋或は今春,團体をなして 49). 無資者が無謀に渡來して東拓移民たり得べきと思ふの憐むべきならずや」 ,と。そうした「無資者」 , つまり「日雇稼, 働人夫等の目的にて一時出稼する」移住者たちは「無謀」だったのである。し かし,そうした「無謀」な移住が実際になされていたということは,その種の移住であっても「軈 て大和民族の勢力を扶植」するものとして,つまり政府による植民地政策の一環として黙認されて 47) 『改正 朝鮮移住手引草』(東洋拓殖株式會社,大正4年)1−2ページ。 48) 『朝鮮移住案内』(東洋拓殖株式會社,大正6年)1−2ページ。 49) 『満韓之實業』明治44年4月号,5ページ。.

(14) 79. 社会事業家加島敏郎と朝鮮. いたということであろう。 一方, 『朝鮮移住案内』のなかには実際の移住プログラムが示されている。すなわち, 而して今 後移住民の指導に一層力を用ひ,常に社員を巡回せしめ,農事上の指導,副業の奨勵は勿論,組合 を組織して,共同購買,販賣を斡旋し其の生活の向上を計ると共に,移住地の選定に一層周到なる 注意を拂ひて,将來なるべく十五,六戸以上集團せる部落を作り,以て其連絡を図り,教育,宗教, 50). 衛生及交通等の設備を完整せしめん事を……期したり」 。 大正7年12月に刊行された東洋拓殖株式会社の社史『東拓十年史』によれば,その発足には次の ような経過があった。すなわち, 桂侯爵ヲ始メ平田男爵,小松原英太郎氏等ノ諸氏熱誠事ニ當リ 奔走盡力セラレタル結果明治四十一年三月第二十四回帝國議會ニ於テ東洋拓殖株式會社法案ノ通過 51). ヲ見ルニ至リ同年 月二十六日日韓両國ハ法律ヲ以テ東洋拓殖株式會社法ヲ公布シ云々。 」. そしてそこに至るまでの事情として,同書は次のように説明する。すなわち,. 日韓両國ノ歴史的關係ハ其ノ由來スル所蓋シ極メテ遠シトスルモ韓國ニ於テ我カ確固タル 優越権ノ認メラルルニ至リシハ實ニ明治三十七 年役戦捷ノ結果ニ外ナラス爾来協約ノ締結ヲ 見ルコト二回ニシテ両國ノ國際的關係 密接ヲ加フルト共ニ我國ハ獨リ政治的方面ニ止ラス經 濟的方面ニ於テモ之ヲ扶掖啓發シテ文明ノ恩澤ニ浴セシムルノ責任一層重キヲ加フルアリ殖産 興業ノ途ヲ振興シテ富源ヲ開拓シ民力ノ滋養ヲ図ルヲ要スルノ議漸ク朝野ニ盛ナルニ至レリ╱ 日韓両國政府茲ニ見ル所アリ韓國ニ於テ拓殖事業ヲ営ムヲ目的トスル會社ヲ起シ日本政府ハ 立後 年間毎年金三十萬圓ヲ補給スルコトトシ韓國政府ハ事業用地ノ一部ニ供スル為國有地ヲ 出資シ以テ拓殖事業ノ改善振興ニ當ラシメ我國ヨリ善良ナル農民ヲ移植シテ進歩セル農業ノ模 範ヲ示スト共ニ企業者ニ對シテハ低利ナル拓殖資金ヲ供給シ時代ノ必要ニ應セシムルコトトナ 52). レリ是レ本社 立ノ根源ナリトス。 」. ここでは「經濟的方面」は「政治的方面」を助けるためにあるという位置付けが前提だが,現実 の経済が「自然の方向」に反した経済であれば,むしろ逆に政治が経済を助けねばならなくなる。 日本から朝鮮へ> という方向は,経済ではなく,政治の力によって推進されたのである。 朝鮮扶植農園は言うまでも無く 日本から朝鮮へ> の農業移民なのであり,これまでの引用から 53). もわかるように「朝鮮總督府及び東洋拓殖會社の後援を得て」行なわれていた。大正13年4月17日 50) 『朝鮮移住案内』3−4ページ。 51) 東洋拓殖株式会社『東拓十年史』1−2ページ。 52) 同書,1ページ。 53) 本稿注 5)参照。例えば大正3年に朝鮮扶植農園が法人化される際,理事は加島敏郎一人で,評議 員10名のうち大邱商業会議所会頭が1名,他の9名は朝鮮総督府と東洋拓殖会社の関係者だった。.

(15) 80. 三. 田. 商 学 研. 究. に斎藤實朝鮮総督が来園した際に,その総督秘書官の視察記にはこうあった。すなわち, 加島老 人の扶植農園といへば,朝鮮の孤兒救濟事業として,誰知らぬ者がない程,鳴響いてゐる。慶州か ら大邱への途中こゝに立寄ることにした。大邱郊外には到る處に内地人經営の林檎園があるが,そ の中に我が扶植農園もあるのである。白髯の加島老は丁度サンタクロースのお爺さんのやうに,軟 かな感じを與へる人だ。一行を極く御粗末な事務所に案内して,事業の概況を説明してくれる―― 農園は五十町歩,現在園兒は内地人十一人,朝鮮人四十一人,學業を了へて獨立の生計を営む者十 二戸である……獨立生計者は相集りて,自営會を組織し尚東村の貯金組合,家畜組合,養蚕組合等 54). の一員となつて,その運命の開拓に努めてるんださうな。 」 しかし,東洋拓殖株式会社が唱道し,朝鮮総督府が支援する「朝鮮移住」と,社会事業家加島敏 郎が志向した「扶植農園」とは,同じ出来事の二側面だったのだろうか。 東洋拓殖の移民事業については,その「目的は,(日本から)朝鮮へ指導的農民を収容すること にあった。(中略)水害,旱魃,虫害,米価の下落等により,移民は苦境に陥り,脱落者が多く出 55). て,結局移民事業は失敗に終わった」との評価が昭和七年(一九三二年)五月に東洋拓殖の入社し, 56). 昭和二十二年(一九四七年)に引揚げるまでの十五年間,私は朝鮮・満州で暮した」という大河内 一雄によって今日なされているが,その東洋拓殖による移民事業と加島敏郎の社会事業とは,戦前, 戦後と同じ「失敗」の運命を ったのだろうか。 明治政府による移民政策は,従来の北米移民が事実上停止されたことに伴い,南米移民に転換さ れ,さらに第二次桂内閣(明治41年7月14日∼明治44年8月30日)の小村寿太郎外相が提唱した「満 57). 韓移民集中論」と共に, 遠方外国に移民するより朝鮮,満州に移民を行うべき」との方針が東洋 拓殖や満鉄といった国策会社を生むに至る。北米や南米への移民とは異なり,朝鮮,満州へのそれ 58). は小村寿太郎が言う所の日本「政府の容易に手の届く方面」なのであり,大河内一雄は「東拓の移 民事業は韓国農業経営の指導者の役割を果たしたが,経済移民であって,後に行われた満州開拓移 59). 民とはその本質を異にするものがあった」と述べているが, 政府の手> が届く政治的行為であっ たことは認めざるを得ないはずである。 なお韓國地理風俗誌叢書58『大邱物語・大邱府勢一斑』によれば,大邱・南山町には慶北救濟會 60). などがあり, 迷兒棄兒等ヲ救濟教養ス」といった児童保護を行なっているとあるが,朝鮮扶植農. 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』81―82ページ。 54) 同書,135−136ページ。 55) 大河内一雄『幻の国策会社東洋拓殖』(日本経済新聞社,昭和57年)23ページ。また同書59ページ を参照。 56) 大河内一雄『遙かなり大陸―わが東拓物語―』(績文堂出版,昭和56年)19ページ。 57) 大河内一雄『幻の国策会社東洋拓殖』58ページ。 58) 同。 59) 同書,58−59ページ。 60) 韓國地理風俗誌叢書58『大邱物語・大邱府勢一斑』520ページ。.

(16) 81. 社会事業家加島敏郎と朝鮮. 園についての言及はない。その所在地であった「東村」については, 琴湖江ニ沿ヘル芳村洞ヲ中 心トスル沃野一帯ノ總 ニシテ之ヲ解東村ト シ内地人農場經営者ノ集合部落ニシテ果樹蔬菜ヲ栽 培シ果實ハ 果,桃,櫻桃,李,栗ヲ主トシ大邱名産ノ 果ハ主ニ此ノ地ヨリ産シ産額ノ豊富及風 味ノ佳良ナルコトハ日本一ヲ以テ セラレ其ノ名内外ニ高シ府営乘合自動車ハ毎日定期運轉ヲ為シ 春ノ桃花,夏ノ水泳納涼,秋ノ栗拾等大邱府民ノ郊外 園トシテ行客絶ヘズ,又東海中部線ノ停車 場ヲ控ヘ尚本年度ニ於テ竣工スベキ大邱飛行場完成ノ暁ニハ一躍シテ國際航空路ノ『エヤーステー 61). ション』トシテ國際的ニ認識ヲ高メ益々多忙ナ明日ヲ約束サレテ居ル地デアル」と紹介される際に, 何故に「加島老人の扶植農園といへば,朝鮮の孤兒救濟事業として,誰知らぬ者がない程,鳴響い てゐる」という評価が一方にありながら,その加島の名が,また扶植農園の存在が『大邱物語・大 邱府勢一斑』ではまったく無視されるのか,訝しい限りである。. おわりに. 昭和3年12月に刊行された『東洋拓殖株式會社二十年誌』にこうある。すなわち,. 明治四十三年 月日韓併合ノコトアリ政府ノ産業奨勵ト相俟テ本社ノ事業モ順調ニ向ヒ資 金ノ需要著増シタルヲ以テ遂次第二回第三回ノ株金拂込ヲ為シ大正二年四月ヲ以テ全額ノ拂込 ヲ了シ以テ資金ノ充実ヲ図リタリ╱然レトモ時勢ノ進展ハ本社 立當時ノ営業範囲ヲ墨守スル ヲ許サスシテ其ノ經営方法ヲ改善スルト共ニ営業地域及種類ヲ 張シ以テ業務ノ伸暢ヲ図リ国 策ニ順應スルヲ緊要トスルノ機運ニ至リタルヲ以テ政府ハ之ニ適應スヘキ施設ノ要ヲ認メ大正 六年七月本會社法ニ改正ヲ加ヘラレ営業地域ニ對スル制限ヲ撤廃シ且業務範囲ヲ 張セラレタ ル結果同年十月本店ヲ東京ニ移シ京城ヲ支店ニ改メ新ニ奉天及大連ニ支店ヲ開設シ朝鮮及外國 62). ニ於テ拓殖業務ヲ営ムコトトナリタリ」. そして国策会社として, 国運ノ進展ニ寄與スル所アラムトシ更ニ営業區域ヲ支那,東部西伯利 63). 亞,南洋方面ニ. 張スルト共ニ支店ヲ増設シ著々業務ノ發展ヲ図リ」,そして昭和14年8月刊行の. 61) 同書,553−554ページ。また同書には明治42年1月5日付の大邱新聞の記事が引用され,東洋拓殖会 社の理事につき「各理事の憺當大体左の如く決定したり╱事業部長 井上孝哉,庶務部長 林市蔵, 金融部長 岩佐程三╱而て右三部制を採るか将調査部を設けて四部制となすべきや否に就ては未定な るも若し調査部を設くるに於ては同部長には韓國側理事韓相龍氏其衝に當る可く云々」(339ページ) とある。これらの理事の名前は『東拓十年史』(大正7年)117ページにも記載され,韓相龍は井上ら と同じ明治41年12月28日付で就任したとある。また岩佐の名は 蔵となっていた。東洋拓殖会社の初 代理事の一人林市蔵は大正7年の米騒動の際の大阪府知事であり,当時は小河滋次郎も大阪府嘱託で あったので,加島と林と小河の三者は,大正期に大阪の地で旧交を温めていたと想像される。 62) 『東洋拓殖株式會社二十年誌』(昭和3年)3ページ。 63) 同書,4ページ。.

(17) 82. 三. 田. 商 学 研. 究. 『東洋拓殖株式会社三十年誌』では「昭和七年三月一日満州國ノ生誕ヲ見同國内ニ於ケル本社業務 ハ同國ニ於ケル治安ノ 復,法制ノ整備ニ伴ヒ本格的伸暢ノ情勢トナリタルヲ以テ 年九月國都新 64). 京ニ支店ヲ設置シタリ」という展開の軌跡を記した。 さらに同書は日中戦争の開始に際して,次のように業務の展開を記録している。すなわち, 尚 本社ハ昭和十二年七月北京郊外盧溝橋事件ニ端ヲ發セル今次支那事變ノ情勢推移ニ鑑ミ該地方ニ於 ケル社業ノ進展ヲ企画スルノ要アルト国策ノ線ニ沿ヒ大陸政策ノ使命達成ヲ期スル為十二年十月天 津出張所ヲ十三年三月青島出張所ヲ夫々支店ニ昇格シ尚十三年七月北京ニ支店ヲ新設シテ現地機構 65). ノ整備 充ヲ行ヘリ」。 この流れを同社の社員であった大河内一雄はその『国策会社東洋拓殖の終焉』のなかで,こう説 明していた。すなわち,. 東拓の外延的発展は日本軍部の外地侵略に随伴して行われた。当然,東拓の拠点は臨戦地 帯化した。日中十五戦争の発端となった柳条湖事件以後は,朝鮮半島は軍の輸送基地,補給基 地となり,華北の各支店は派遣軍の治安工作の支援業務と兵站業務,軍需輸送の各種業務を 行った。╱関東軍管下の旧満州においても,張鼓峰事件,ノモンハン事件によってソ満国境が 緊張し,特に……いわゆる『関特演』では,在満支店,関係会社は急激に高まった軍需補給業 務に応じなければなかった。また,大東亜戦争開始とともに,東拓は南方派遣軍と一緒になっ て,幾多の犠牲を払いながら陸海軍占領地域各地に向けて,危険海域を渡航して軍の兵站,特 66). に糧秣の補給業務に従事した。 」. 昭和16年に出版された松澤勇雄『國策會社論』(ダイヤモンド社)によれば,国策会社とは「資本 67). 主義社會において民間の営利的發意によつては行はれ難い國策事業を遂行せんとするもの」であり, そしてその日本の国策とは「海外發展にある。その海外と云ふ言葉によつて,具體的に示されるも のは,満州支那の地域,表南洋,裏南洋とに二大別される南洋の諸地域である。かゝる地域へ日本 68). 民族が政治的に經濟的に文化的に發展すること」であった。そして,明治時代に設立された国策会 社としては南満州鐡道と東洋拓殖の二社が,大正時代に設立されたものに同じく台湾電力と国際電 気通信の二社が,そして昭和に入り,昭和16年までに24社が設立されていたが,そのなかで「臺湾 には臺湾拓殖株式會社が,南洋には南洋拓殖株式會社が,何れも昭和十一年(一九三六)から同様 の目的を以て営業を開始したから,之れと競争になるやうな事業は東拓もせぬことに事實上し 64) 『東洋拓殖株式会社三十年誌』(昭和14年)13ページ。 65) 同書,13−14ページ。 66) 大河内一雄『国策会社東洋拓殖の終焉』15ページ。 67) 松澤勇雄『國策會社論』(ダイヤモンド社,昭和16年, )序2ページ。 68) 同書,5ページ。.

(18) 83. 社会事業家加島敏郎と朝鮮 69). 70). た」。いずれにせよ,国策会社は「民間と政府の協同によつて經営せられ」,そしてその目的は「私 的會社の夫れが営利第一であるのに對して,それが生産し若しくは提供する物又は役務である。利 71). 益の獲得は第二である」だった。 こうした国策会社の大手たる東洋拓殖は1945年8月15日をどう迎えたのだろうか。朝鮮半島での 事情について,大河内一雄は次のように記している。すなわち,. 朝鮮半島は何といっても東拓発祥の地である。╱明治四二年から昭和二〇年まで三六年間 にわたり,東拓がその業績を積み重ねて来たところであって,移民事業,農業経営,林業経営, 牧場経営,鉱山開発,都市経営,水力発電,電力配電,私鉄経営を初め,鉄鋼,造船などの重 工業経営の外,酒精工業などの各種工場を直営または関連会社の形態で全鮮に事業網を廻らす, 一大企業体を築き上げていたのであるが,終戦により統治権を失い,すべての事業基盤を失っ てしまった。╱全会社資産を失うとともに,東拓及び東拓関連会社の社員は,個人全財産を捨 てて日本に引揚げたのであるが,米ソ両軍の占領地域が三十 度線によって南北に岐れたため, 72). 日本人社員の内地引揚について,南と北で特段の差を生じることになった。 」. 同じ大河内一雄によれば,その38度線以南の「東拓が米軍管理の会社(新韓公社)になった時, これら(それ以前から在職していた朝鮮人)職員が総裁,理事,部長,課長などに任命され,社業を 73). 立派に引継いだ」とのことであるが,38度線以北ではソ連軍による「占領後直ちに各道知事に,各 道に結成された人民委員会に政権を移譲させ,主要な企業はその従業員に管理させる形式で接収さ 74). せ,これらを母体として統一政権の樹立を図った」ので,東拓の痕跡はまったく消滅し,人民委員 会(ソヴィエット)による計画経済に移行していったわけである。 なお森田芳夫著『朝鮮終戦の記録――米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』では,その新韓公司につ いて一層詳しく次のように説明されている。すなわち,. (昭和二十年)十二月十九日に……米軍部隊および米軍政庁の代行機関が接収した農地は,. そのままそれらの統制管理下におくが,その他の農地は,新韓公司の管理下に収められること が公示された。新韓公司については……一億円の資金をもち,同株式全部は,軍政庁が単独で 応募し,二十年 月九日以降,東洋拓殖株式会社の所有した全財産および同会社が所有してい. 69) 70) 71) 72) 73) 74). 同書,24ページ。 同書,12ページ。 同書,14ページ。 大河内一雄『国策会社東洋拓殖の終焉』25ページ。 同書,15ページ。また大河内一雄『幻の国策会社東洋拓殖』14ページも参照。 同書,30ページ。.

(19) 84. 三. 田. 商 学 研. 究. た朝鮮内法人の日本人財産全部は,新韓公司に帰属することが規定された。のちに,二十二年 七月三日付で,軍政庁に帰属していた農地も新韓公司で管理することになった。╱朝鮮人の一 部から,新韓公司は東洋拓殖会社に代わるもので,東インド会社の性格をもつものという非難 があったが,二十一年三月十二日に,米軍政庁の李勲求農商局長は,この会社の土地および他 の日本人所有地は,いっさい朝鮮小作民に長期償還の方法であたえられることを明らかにした。 また,三月十四日に,ラーチ軍政長官は,新韓公司は,将来米軍政が廃止され朝鮮政府が設立 された際に,朝鮮政府の下に移されることになっており,土地はかならず農民に払い下げると 75). 言明した。╱この誤解をとくために……『新韓公司』を『新韓株式会社』と改称し云々。」. また同じ「日本人財産の問題」の章で, 北朝鮮における日本人財産」についても詳しい説明が, 947ページ以降で行なわれている。朝鮮扶植農園の場合には勿論38度線以南だったのだから,人民 委員会による接収はなかったはずであるが,一体どんな状況となったのだろうか。これらの点につ いて,また本体の大阪汎愛扶植會のその後について,現在までに判明している限りの若干のことを 以下記して,ひとまず本稿を終えたい。 大邱の朝鮮扶植農園については,1946年12月15日付『朝鮮日報』に次の記事が載っている。すな わち,現在の韓国政府保健福祉部長官に当たる「保健厚生部長の李容尚(イ・ヨンソル)氏の14日の 発表によると,前大邱府社会課長の李健栄(イ・ゴンヨン)氏が家の無い子供たちの教育のために, 先般,その職を辞し,同市内の厚生院という孤児院の院長に就任したという。この厚生院は約二百 名の孤児を収容することが出来,自足自給をすることが出来るだけの果樹園と山林などもあるが, この財産は大邱商工会議所会頭・李鐘完(イ・ジョンワン)氏が寄付したものだという。現在,大邱 市内には約四百名の孤児が四箇所の育児院に収容されている。 」この『朝鮮日報』が伝える大邱の 厚生院が朝鮮扶植農園を継承するものであることは,同僚の野村伸一・文学部教授の友人である韓 国・建国大学の李東律教授の調査によって判明した。野村教授,李教授のご好意に感謝申し上げる。 また現在大邱広域市東区検沙(コムサ)洞962-5(地下鉄1号線・東村駅4番出口から100m)に所在 する韓国 SOS 子供村/大邱村の HP によれば,同村は1963年5月10日に大邱厚生院の施設敷地 6,878坪をオーストリア人の M aria Heissenberger 女史が購入して,設立されたものである等々, その誕生の経緯が説明されており,同子供村は現存している。朝鮮扶植農園は地上からまったくそ の痕跡を消失したわけではないと言える。 一方,大阪汎愛扶植會については,昭和28年刊行の『生野區誌』には区内の児童保護施設として, 財団法人汎愛扶植会(元生野区南生野町四丁目)との見出しの下,次の説明がある。すなわち, 孤 児の収容保護のために遠く明治二十四年に設立されたが,その後経営困難となり,設立代表者加島. 75) 森田芳夫『朝鮮終戦の記録―米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂,1964年)947ページ。.

(20) 社会事業家加島敏郎と朝鮮. 85. 敏郎氏は収容孤児と共に渡鮮し大邱に農園を経営された。残留の年少孤児は林寺二丁目に移転した。 後に母子保護と共に里子,托児などを事業としたが昭和二十年の空襲にて焼失し,同二十二年九月 76). 解散した」と。確かに昭和22年6月13日付『大阪府広報』第2878号の「大阪府告示第297号」にお いて「昭和二十一年十月一日をもつて,生活保護法第七條による保護施設として認可」された40箇 所の施設のなかに,汎愛扶植會の名を見ることは出来ないので,汎愛扶植會は戦後まもなく解散し たとの『生野區誌』の記述は裏書されていると言える。 77). 大阪市生野区は「昭和十 年四月一日東成区から分区し」て誕生しており,分区以前の昭和11年 の「最新東成区地図」(和楽路屋製)では汎愛扶植會は東成区林寺町283番地に所在していると見て 取れる。昭和3年の『大阪市私設社會事業便覧』(大阪市社會部調査)によれば,大阪汎愛扶植會の 78). 所在地は「東成區林寺町229」で,昭和9年の『社會事業要覧』(大阪府社會課)でも所在地は同じ 79). 「東成區林寺町229」であった。また大正11年に刊行された『東成郡誌』(大阪府東成郡役所)でも所 在地は生野村大字林寺229番地となっている(486ページ)が,同郡誌の「財團法人弘濟會」に関す る個所に,その育児部は生野村「大字林寺七十二番地に在り。大正二年二月,元大阪汎愛扶殖會の 土地建物其他附屬物を合せ買収し云々」(479ページ)とある。この生野村大字林寺72番地とは本稿 注 9)にあるように,汎愛扶植會が明治35年に今宮より移転した当時の所在地であり,林寺という 大字のなかでの再移転の様子が窺われる。 昭和6年の『大阪社會事業年報』(大阪社會事業聯盟)には昭和5年度の大阪汎愛扶植會の昼間保 育事業成績として,定員120名,実数124名とある。ちなみに愛染幼稚園は定員120名,実数168名と 80). あった。また昭和9年の『社會事業要覧』(大阪府社會課)の101∼102ページには代表者が藤本松太 郎である大阪汎愛扶植會について次の説明がある。すなわち,明治「四十三年朝鮮大邱府東村に扶 植農園を開設し大正三年總督府より財團法人の許可を得。次で東成郡生野村の事業所を現在の地に 移し,大正九年九月在阪鮮人保護救濟を目的として共同宿泊所,職業紹介所等を開設す。大正十一 年四月私立汎愛幼稚園を設立し同十四年四月之が許可を得大正十五年三月加島敏郎氏理事を辞任し 藤本松太郎氏就任す。昭和五年十月母子保護部を設け窮迫せる孤立無援の婦人を子女と共に収容し, 同年十一月許可を得て汎愛家政婦會を設け是等婦人を適當に派出就職せしめ,會費其の他の負 を 免除し其の収入を以て專ら子女の教養の資に充てしむ。昭和七年更に母子保護事業の徹底を期せん がため汎愛寮を建設し授産部を設け余暇に雑巾塵拂ひ等の製作に従事せしむ。昭和 年六月施療及 實費診療所を建築し救療を開始す。 」 さらに昭和16年の『大阪府社會事業施設一覧』(大阪府厚生事業協會)では大阪汎愛扶植會の代表 76) 『生野區誌』(昭和28年)120−121ページ。 77) 同書,1ページ。 78) 『大阪市私設社會事業便覧』(大阪市社會部調査,昭和3年)17ページ。 79) 『社會事業要覧』(大阪府社會課,昭和9年)101ページ。なお,本稿注6)参照。 80) 『大阪社會事業年報』(大阪社會事業聯盟,昭和6年)67ページ。.

(21) 86. 三. 田. 商 学 研. 究 81). 者は「岩本文助」で,所在地は「東成區林寺町二丁目六六」となった が,戦後の昭和21年度版の 『大阪市社會事業要覧』(大阪市社會部,昭和22年)においては,大阪汎愛扶植會は生野區林寺町三 82). 丁目六六」にて「産院,母子寮,診療所」を営む財団法人であった。同地は,生野区役所の調べで, 現在の住所表示では生野区林寺三丁目12番地である。その地に汎愛扶植會がかつて存在した痕跡は 83). 今日見当たらない。 『生野區誌』が語る「昭和二十年の空襲にて焼失」という出来事に遭遇せずに 終戦を迎えたならば,おそらく汎愛扶植會は戦災孤児や浮浪児を救い,昭和22年の関西行幸では博 『毎日新聞』大阪版,昭和22 愛社や中央授産場と並んで行幸の対象となっていたのではなかろうか。( 年6月3日付,同6日付参照。). 最後に二人の人間の加島敏郎への注文を紹介しておこう。一人は明治44年の時点の社会事業家原 胤昭であり,もう一人は昭和13年の時点の『社会事業界の先覚を語る(加島翁古稀記念誌)』の編者 で内務官僚の相田良雄である。 原胤昭は言う。 生ハ加嶋氏ニ切言シタリ,断然阪地ニ残レル事業ヲ捨テ. 朝鮮ノ青年移植ニ勤. ムヘシ,残レル孤児ハ他團体ニ托スヘシ或ハ渡鮮ニ適スル年長児ト換フルモ可ナラン,阪地ニ名計 84). リヲ遺シテ不完全ナル設備ヲナスハ可ナラスト」。 相田良雄は言う。 私の面前には一幅の畫圖が展開された,酒屋に三里豆腐屋に二里の山村で, 油揚を買つて るさに,少しの油 から鳶にその油揚を攫はれた構圖である,餘りに皮肉な構圖で 何とも評しやうもない。然しそれは油 ではなく餘りに社會事業以外にまで公共心を發揮し過ぎた 為ではあるまいか,是の如きは往々にして 業者として免れ能はざる道程であつたかも知れぬ…… 私は此編纂者としてこんなことまで書くことは妥當でない又跋としてはこんなことを書くべきもの 85). でないと思つたけれども腹の虫が承知せぬまゝに書き終つた。 」 原胤昭に対しては昭和20年までは大阪の地で汎愛扶植會が活動を継続していたことを知らせれば よいが,相田良雄の奥歯に物が挟まったようなもの言い ―― そこに問題があったことは「ドライ 86). に」証言している――には今日何と返答すれば良いのだろうか。われわれの手元には,残念ながら, 大阪汎愛扶植會,朝鮮扶植農園に関する第一次資料は皆無に等しい状態であり,また加島敏郎その. 81) 『大阪府社會事業施設一覧』(大阪府厚生事業協會,昭和16年)49ページ。なお『社會事業界の先覺 を語る(加島翁古稀記念誌)』によれば,岩本文助は「内鮮協和會に在職十年,鶴橋隣保館長として 活躍し來りしが昭和七年七月本會に轉じ」(59ページ)た人物であった。 82) 『大阪市社會事業要覧』(大阪市社會部,昭和22年)91ページ。 83) 2005年夏,私は林寺三丁目に戦前からお住いの古老とのお話しのなかで,戦後間もない頃の汎愛扶 植會に係わる事柄をお聞きした。 日本人かどうか判然としない人物」が汎愛扶植會の財産処分に当 り,同地から去ったと。 84) 『全國慈善事業視察報告書』一,[明治44年] 。 85) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』203−204ページ。 86) 保谷六郎「相田良雄と三好豊太郎―戦前社会政策の一側面―」 , 『聖学院大学論叢』10巻2号(1998 年)140ページ。.

(22) 87. 社会事業家加島敏郎と朝鮮 87). 人についてもその生年,没年が現在判明する程度であり,さらに調査を続ける必要がある。 本稿の「はじめ」の個所で問うたところの 同類的ではありながら,政府による植民地統治と社 会事業家加島敏郎による朝鮮扶植農園とは,一体どこが異なっていたのか> については,双方の客 観的帰結ではなく,それぞれの主観的意図(動機)において異なると,私は の人間の営みを. える。歴史のなかで. える時,それは加島敏郎の場合には,日本政府による植民地統治という枠組から. 離れて営み得なかった社会事業の制約があった。その枠組の内部の事業だった限り,植民地統治の 一翼を担ったという事実は否定しようもない。しかし,その事実が同時に事業当事者の事業への動 機 出身者の就業先確保> を認めない,という立場に必ず到達するということはないように思われ 88). る。主観的意図とは,特に伝記執筆によって明らかにされる側面といえようが,客観的帰結と主観 的意図の両側面について,さらなる研究調査の必要性を感じている点を指摘して,本稿は閉じたい と思う。. [追記] 本稿は2005年8月27日に高鍋中央公民館で行なわれた「国家と社会」研究会での報告「大阪汎愛 扶植會から朝鮮扶植農園へ ―― 加島敏郎と朝鮮」に加筆訂正したものである。同研究会は2005年度日本学 術振興会・科学研究費補助金・基盤研究 C「明治・大正期における岡山孤児院の大阪事業展開――地方行政 との協働関係を中心に」(代表小野修三)からの補助を受けて実施された。なお,本稿では歴史的資料の引 用において,すべて原文のままとした。ご了承を願う。. 87) 『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』1ページに「慶應二年 月 日兵庫縣但馬國豊 岡町に生る」とある。また調査によって没年は昭和20年2月3日と確認できた。なお『東成郡誌』の なかでも, 加島敏郎は兵庫縣豊岡町の人なり」(487ページ)とあるが,それ以上の伝記的データを 見い出すことは出来ない。汎愛扶植會の歴史で『社會事業界の先覺を語る(加島翁古稀記念誌)』が 触れていない事柄に,明治34年3月11日付『大阪府公報』の大阪府告示第63号が示す後見人の交代が ある。 汎愛扶植會ニ在ル孤兒其他ノ未成年者ニ對スル後見職執行者服部淸助辭任ニ付更ニ左記ノ者 ヲ後任ニ指定ス」とあり, 汎愛扶植會理事 加島敏郎」の名が挙げられている(24ページ)。明治30 年代の汎愛扶植會については,平田隆夫「明治大阪慈恵事業史資料(4)」 , 『大阪市史紀要』第22号 (昭和44年8月)が詳しい。 88) 戦前から戦後にかけての朝鮮半島における児童保護を中心とする社会事業当事者ないしその関係者 にインタビューを行ない刊行された戦後の出版物で,私が入手出来たものに次の諸著がある。刊行年 順に挙げる。日能光子『聖愛一路』(教文館,1940年),鮫島盛隆『韓国孤児の慈父―曽田嘉伊智翁』 (牧羊社,1975年),上坂冬子『慶州ナザレ園―忘れられた日本人妻たち』(中央公論社,1982年),森 山諭『真珠の詩―韓国孤児の母 田内千鶴子の生涯』(真珠の詩刊行委員会,1983年), 『韓国孤児とと もに―支援者による望目カズ追憶』(38度線のマリアの会,1986年),黒瀬悦成『知られざる懸け橋 ―枡富安左衛門と韓国とその時代』(朝日ソノラマ社,1996年)。.

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