〈論 文概 要書〉 宋代道教に お ける「道法」の研究 酒井 規史 (一) 中 国 史上にお いて 、宋代は 社会・文化 の各方面で 大きな 変 化が 起き た時 期 で ある。 そ し て、 中国社 会 で信仰 さ れ て きた 宗教 である道教 でも、 宋代 に は さ ま ざま な新 しい 動き が起 きた 。 道教の宗教活動の ひ と つで ある儀礼の方面に かぎると 、宋代以降に出現した新しい儀礼 が 道 教に取り入れられるよ うにな っ た こ とは大きな 変 化 で あった。宋代には、天心正法や 雷法といった、新しい儀礼が次々と生み出された。それらの儀礼の多くは、病気治療や雨 乞いと いった生 活 に密 着した問題を 解決す る のを目的と し て お り、当時の社会の要請にこ たえるも の で あ っ た。そのため、広く普及す る よ うにな り 、道教の聖職者 で ある 道士 た ち に も用い られるよ うに なった。 本論文 で は、天心正法や雷法と いった、①宋代以降に出現し、②崇拝する神 格を中心に し て 符や呪文と い ったさまざまな 道 術をまと め、③「某法」などとし て 体系づけられ て い る、そのよ う な儀 礼を「道 法」と総称 す る。そし て 、それらの「道 法」の儀 礼書の 分 析を とおし て 、 特 色を明らかにする。 ま た、 「 道 法」 が 普 及した こ とにより、 道 教の聖職者 で あ る道 士た ちの宗教活 動にい か な る変化 がお こ ったのか を解 明 す る。 「道 法」 の 研 究 を とおし て 、 宋代における道教の変化につい て 明らかにす るのが本 論文の目的で ある。本 論文は三 部構成とな っ て い るの で 、以下 、その構成に沿 っ て 概 要を 述べる。 (二 ) 第一部「唐宋時 代 における 北帝信仰の 展 開」 では 、唐代に「 北 帝」と い う神 格に対 する信仰 が盛ん と なった こ とに着 目 し て 研究 を行った 。 こ の 「 北帝」を継 承 した 神格 であ る北極紫微大帝は、 「 道 法 」 の うちもっ とも早 く出現した天心正 法 の 「 祖師」 と さ れ 、 そ の 配下 の北極四聖ともども 、 のち の「 道法 」で も 尊 崇され た 。第一部は い わ ば 「 道 法 」 の 前 史 と い えるもの で あり、 北 帝から北極紫微大帝への信仰の流 れ を考察し て い く こ と で 、「 道 法」のルーツの ひ とつを解明 す る こ とを意図し て い る 。 第一章「六朝時代から唐末ま で の北方に配 当 される神格」 では、はじめに六朝時代から 唐代の道典に見える「北方の領域にいる帝」と い う 性 格をもった神 格につい て 概観した。 そし て 、 杜光庭の残した資料を検討し、①鄷都山の北帝、②霊宝経の五帝のうち の黒帝、 ③北 極 の神 と いう 北 方 に 配 当 さ れて い た 神 格 が 、 唐 末 には 「 北 帝 」 の名 の下 に 統 合さ れて いた ことを示した。 そし て 、 その「北帝」の信仰 が 北極紫微大帝に継承され て いくことになる。第二章「北 帝から北極紫微大帝へ ―経典からの考察 ― 」 で は、 各種の経典の記述から、 北 帝から北極 紫微大帝への信仰の流れを明らかにした。本 章 で は、 まず 『太上元始 天 尊説北帝伏魔 神呪 妙経』 ( 以下、 『伏魔神呪妙経』 と 略称 する)巻 一の「叙議品」の内容と、そ こ に説かれる 北帝につい て その特色を明らかにし、 「 叙議品」に見える北帝が、第一章 で 述べたよ うな、 さまざまな神 格の性格を統合したも の で あることを指摘した。 次に、 『 伏魔神呪妙経』 を も とにした一群の経典 ( 本章 では 「七真系の経典」 と称 す ) が作られ、 そ れらの経典にも 「叙 議品」と類似した北帝が 記 され て い ることを明らかにする。そし て 最後に、北宋時代に書
かれた『洞淵集』には、 「 紫微北極五霊帝君」 、 つまり北極紫微大帝につい て 記し て あ り、 その内容は『伏魔神呪妙経』や「七真系の経典」をもとにし て いることを指摘 す る。その ことにより、宋代の北極紫微大帝が北帝のイ メージ を 継承した 神格 であった ことを明らか にした。 第三章「宋代における北極紫微大帝の信仰」 では、宋代におい て 、 道教の神 格の体系に おける北極紫微大帝の位置付 け が完成 す る過 程を明らかにした。宋代におい て 、 道教の神 格体系が整理され て い く中、北極紫微大帝は 道教の最高 神 の「三清」に次ぐ高位の神格の グループ で ある「四御」の一員とされるようにな っ た。そし て 、 北極紫微大帝の地位が 高 まると同時に、北極紫微大帝の守護 神とし て 「北極四聖」と総称される神格のグループも 形成された。 また、 北 極四聖の 神格 はもともと北帝と何らかのつながりを持つもの で あり、 北帝を継承する北極紫微大帝の配 下 とし て再編 成 され て い った ことも示した。 なお、二つの補論 は 、いずれ も唐宋時代におい て北帝信仰 におい て 重要 な位置を占め る 『伏魔神呪妙経』 につい て 述べた も の で ある。 補 論一 「 『 太上 元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』 の成立年代 ―「叙議品」を中心に―」 で は、唐宋時代におい て 、北帝を主題とする経典の 代表的なもの である『伏魔神呪妙経』 、 とり わけ巻一の「叙議品」の成立年代を検討した。 資料の制約もあり、 厳 密な成立年 代 を明らかにす るのは 難 しいが 、「叙議品」 の 成立年 代の 上限 は玄宗朝の こ ろ、 そし て 、 下限 は九世紀 末の唐朝の滅亡寸前の頃 と 推 測 した。 そ し て 、 「叙議品」が 述作されたあと 、も しくは 同 時期に、同じような 世 界 観 を持った経典が 編 纂 されて い き 、 それらの経典が 、 道蔵本 の 『伏魔神 呪妙経』の 素 材とな っ たと 指摘した。 補論二「 『伏魔神呪妙経』に見える道術」 で は、 『伏魔神呪妙経』に記され て い る独自の 道術を取り上げ、その特色を明らかにした。ま た 、第一章で 述 べたように、唐末には「北 帝」はさまざまな由 来 を持つ神格の性格 を統合した 神 格 と なっ て い た が 、その 神 格の統合 が『伏魔神呪妙経』の道術 にも反映され て い る こ とを指摘した。 (三 ) 第二部 「 宋代における 「道 法」 の出現とその後の展開」 は 、「 道 法 」 の儀礼書の内容 を 検 討 し 、 「 道 法 」 の 儀 礼 の 構 造 と 、 「 道 法 」 が 次 々 に 形 成 さ れ て い く 仕 組 み を 明 ら か に し たも ので あ る 。 第一章「天心正法の形成と 展開 ―儀 礼書の比較からの考察 ―」 で は、 もっ ともはやく 出現した 「道 法」 である天心正 法の儀 礼 書の 分析をとおし て 、天心正 法によっ て 形成され た「 道法」のシステムとは一体どのようなも の で あったかを考察した。 本章 では、 『 道 蔵 』 に 見える天心正 法の文献の編 纂された 順番を整理し、 そ れにもとづき 天心正法の変遷を追った。その結果、天心正法 は、①天心正法を行う 道士(民間の宗教職 能者 で あ れば 「法師」 ) が 天界の機関で ある北極駆邪院に所属し、 神々を使役し て 問 題を解 決す ると いう 形 式を 持 つこ と 、 ②祖師 の 上 清 北極大帝(北極紫微大帝)や張天師といった 神格 を崇拝し、それらの神格 に 関連 する道術 を用い る 、 と い う 構造を持っ て いた ことを明 らかにした。また、その時々 で 効力があると思われ て いた道術を導入 す ることもあり、そ の場合は 上 記 のような 枠にはとらわ れ ず 、自由に 道術を 取 り込んで いたこ と も 指摘した。 以上のよ うな、天 界の機関や崇拝 す る神格 を 中核にし てゆるやかに道術 を統合し て い く と い う形式 が 天心正法によっ て 確立されると、南宋時代以降、その形式を模倣し て 数 々の 「道 法」 が生み出 され てい った 。 第 二章 と第 三章は、それらの新出の「道 法」がどのよ う
に形成されて いったのかを明らかにす る も の で あ る。なお、天心正法からの展開がわ かり やす いよ うに、 い ずれも天心正法と関連のある 「 道法」 の 儀礼 書を考察の材料とし て いる。 第二章 「 「道 法」 の形成と派生 ― 「 上 清 天 蓬 伏 魔 大 法 」 と 「 紫 宸 玄 書 」 を 中 心 に 」 で は 、 はじめ に 「上清天蓬伏魔大 法」 で 使 役される神格 につい て 検討し、 この「道 法」には神格 のグループが大きく分けて 二つあることを明らかにした。さらに、もともと存在し て いた 神 格 のグループに、新しい道術に関す る 神 格 のグループが 加 わ った ことに よっ て 、神 格の グループが 二つにな った ことを 指 摘した(ま た 、その こ とは、 こ の「道 法 」が少なくとも 二つの 段 階を経 て 形成された こ とも示し て い る) 。 次に、 「紫宸玄書 」 とい う「道 法 」の儀 礼 書 の中で は 、その二つの神 格 のグループが融 合 し て 一つのグループにな っ て い ることを 指摘した。ま た、新しい道術が 登場す ると 共 に、さらに 新 たな神 格 が 考 案されて いること も 述 べた。 こ れらの考察により、先行 す る「道 法 」に対し て独自性を出 す ために、新出の 「道 法」 が新しい道術 と新しい 神格 を導入し て い った ことを明らかにし、 南 宋以降、 「道 法」 が次々に形成され、さらに派生し て い った過程の一端を述べた。 第三章 「「道 法」 における道術の交流 ―玉堂大 法 と童初正 法を中心に―」 で も 「 道 法 」 が 派生し て いく過程の一端を明らかにした。本 章で は 、 新出の「 道法」が 、その「 道法」独 自の新たな 道 術だけで なく、既 存の道術をも 導 入 して 儀礼 書を 形 成 して い っ た事 例 を と り あげた。 まず 、『 无 上 三天玉堂大 法 』 と 「上 清童初五元素府玉冊正 法 」 と い う 二つの 「 道 法 」 の儀 礼書 を 分 析し、 以 下の ことを指 摘 す る。 第一 にそれぞれの「道 法」の起 源につい て独自の 伝承を形成し て い ったこ と 、 第 二に それらの伝承などを反 映させなが ら 、 既 存の経典や 「 道 法」から道術 を導入し て い る こ と で ある。そ の結果、さまざまな 由 来を持つ道術を含んだ 「道 法」 が形成され て い っ た こ とを明 らか にした 。 さらに、 玉 堂 大 法 と童初正 法のよ う な 「 道 法 」 が 出現した原因につい て も考察 を 行った。 まず、 唐 代 ま でに整 備 された道 士の位階制度 におい て は、そ れ ぞれの位階 ご とに伝授 され る道術 が 固定し て いた ことを示した。 そ れに対し、 「 道 法 」 は 従来の位階制度 とは別に伝授 され て いたため、 位階制度の枠組みにとらわれることなく、 「 道法」 同 士 で 道術の交流 が 自 由に行わ れて いたと 推測 し た。 第三章における 考 察からは 、 さまざまな 由 来をもつ 道術をふくむ 「 道 法」が 道 士の間で 伝授される よ うにな っ た こ とに より、道士が用いる 道 術が より多彩なも のとな っ て いった ことを示唆した。 続く第四章 「 「 道 法」 における儀礼 書の伝授」 で は 、 その考察を裏付ける ため、 「 道 法 」の儀礼書の伝授の仕組みについ て 明らかにした。 先述したよ う に、唐代の道教における位階制度 で は、道士は経籙を伝授されることによ って 法 位 を あ げて いき 、 経 籙と と も に 道 術 の 方 法 を 記 し た 儀礼 書も 伝 授 さ れ て い っ た 。 し かし、宋代の筆記資料には、道士 で はな い民間の宗教職能者が「道 法」を用いる例が多く 見受けられる。 そ れらの例 からす る と 、「 道 法」 の伝授を受けるに際し て 、 道士と し て 経 籙 の伝授を受けて い ることは 必ずしも 要求されて い な か ったようで あ る。 本 章 で は 、 そ の 点 を確 認す る た め、天心 正法 ・玉 堂 大 法 ・ 童初 正法 ・霊 宝 大 法 の 儀礼 書 に見 える伝授の規定につい て 検 討した。 その結 果 、 い ず れの儀 礼書 におい て も、 「道 法」 の 儀礼 書のみを伝授 する規定が 記 され て い ることがわ かった。つまり、天心正法なら天心正 法の儀礼 書、童初正法なら童初正法の儀礼 書 を伝授されれば、経籙の有無に関係なく道術
を習得 す ることができた わ けである。 ただ し、 霊宝大法に関 して は 経 籙の伝授を受けて いるこ と が 前 提 条 件とな る 規定があるが 、 テキストによっ て 、どの経籙ま で の 伝授が 必 須とされ て い るかは違う よ うである。南宋時 代の道士 である金允 中は霊宝大法を伝授される前 提条件 と し て 、洞玄部ま で の経籙を伝授 され て い ることが 必要 であるとし て いる。 そ れは 、 霊 宝 大 法 が 黄 籙 斎 を 主 軸 と す る 「 道 法 」 だか ら で ある。 従 来の道 士の 位 階 制度 で は黄籙 斎 の儀 礼書 は洞 玄部 で伝授 さ れ て い た ため 、 金允 中は霊宝大法を洞玄部に配 当し て い た。金允 中は、道 士が伝授された経籙と、その道 士が用いる「法」が対応しな い と い けな いと い う 厳格 な意見を持っ て いたため、霊宝大法 の伝授に際し て 洞 玄部の伝授を受けて い ることを 要求したので ある。 ま た、 「 太上天壇玉 格」 と い う 資 料にも 、 道士 の伝授されて いる 籙と「法 」が 一致して いるこ と を 要求す る意 見が 記されて いる。 しかし、 本章 で 見 てきた 「 道 法 」の儀礼書 を 見 て も、霊宝大 法をのぞい て法籙の伝授 は 必須と さ れて いな い。 南宋 時 代 に お いて 、 道士 の 間で 「 道法 」 の 普 及が 急 速 に 広 ま る のも 、 「道法」の儀礼 書 を伝授されれば、経籙の有無にかか わらず容易に新しい道術を習得 でき たからで あると推測した。 (四) 第三 部「宋 代 の 道 士に よる 「 道 法 」 の 受 容」で は 、宋 代にお い て 道 士が 「 道 法 」 を 受容 することにより、道士の修行の形態や宗教 活動にどのよ うな変化が 起 きたのかを明ら かにす る 。 第一章「宋代における 道士の概況」で は 、宋代の一般的な 道士がど のよう に 宗 教活動を 行っ て いたかを述べた。とくに道士の宗教活動を考えるにあ た っ て 重 要 となる、道観の制 度、道士の位階制度、そし て 教 派につい て 検討を行った。 まず、宋代の道観の制度の概要を述べた。宋代の道観には、十方住持と甲乙住持の二つ の制度 が あった。十方住持の制度とは、ある道観の住持を決める際に、その道観 で 修 行を 積ん だ 道 士にかぎらず、優秀な 人 材 を他箇所から招聘し て もよい と い うもの である。それ に対し、甲乙住持の制度 で は、住持が師弟によっ て 継 承され て いくと い う形式を持っ て い た。しかし、宋代の資料を見ると、甲乙住持の道観から十方住持の道観へ道士が移籍 する 例が よく 見受けられるの で 、道観の制度は違っ て も 、 道士 た ち の宗 教活動の基盤には 共通 した もの があると推測した。 さらに、宋代の道士 た ち の 共通した基盤とな っ て いた教法は 、天師 道の整備 した受法の カリキュラ ム と位階制度に沿っ て 習 得される で あ ったと推測し、宋代の資料に見える道士 の 法位 が 天師道 の もの である こ とか らそ れを裏付 けた。道 士はほかの道観 に 移籍 する こと もあ ったが 、 共通の修行を行っ て いた こ とに より、問題なく宗 教活動を行うことがで き た よ う である。 つ ま り、 宋代 の道 士 はみ な 天 師 道 の道 士 である こ とを明 らか にした 。 また、南宋時代、龍虎山・閤皂山・ 茅山の三山 が 経籙の伝授を独占し て いた とい う記事 につい て 考察した。結果、三山が主要 な 聖地 であったのは間違い な い が 、ほかの地域の道 士た ちが帰属意識を持つほどの影響力はなか った と推 測した。さらに、三山 と教 派の 関係 につい て も検討した。従来、三山それぞれを独立した教 派とし て とらえるの が 一般的 で あ った が、 三山 でも天 師道 の 位 階 制度 に した がっ て道 士た ちが修 行 し て い た よ う であり、 独 自の教理を持っ て 活動 し て いたわけで は な い ことを明らかにした。
なお、補論「三山における経籙の伝授」 で は、現在残され て いる史料から、三山の宗壇 における経籙の伝授につい て 検討した。その結果、経籙の伝授が決まった日(三元日かそ のいずれか) に行 われ て い た こ と、 在俗信者も伝授の対象となっ て いた可能性 が ある こと、 経籙 が印刷 され量産され て い た こ とを指摘した。 ま た、 時代 が下った元代の史料によっ て 、 龍虎山の張 天師が三山の符籙につ い て の 権利を掌握したこ とも 述べた。 以上に述べ て きたよ う に、宋代の道教は天師道 で あった。た だ し、北宋の末期から、道 士の間で 「道法」の伝授がなされるよ う になり、それ以前の道士とは 修 行の形態に違い が 生 ず る よ うにな っ た。その変化につ い て は 、第二章以下で 詳 しく 検討した。 続く第二章「南宋時代の道士の称号―経籙の法位と「道 法 」の職名―」 では、南宋時代 の道士の称号を分析 し、 そ れらの称号が 経籙の伝授による天師道の法位と 、「 道 法」 に由来 す る 職名から成っ て い ることを明らかにした。 天心正法をは じめとす る「 道法」 で は、道士は天界の機関に所属す ると 考えられ、その 機関の職名を持っ て い た。 そし て 、「 道 法」 を用い て 功績を上げると職の ラ ンクが上がると いう 、 独 自の位 階 制 度をも って い た 。 そ の た め 、「 道 法 」 の位 階制 度にも と づ く 職名も 道 士 の称号に加 え られるよ うになったの である。 つまり、 南宋時代の道士た ちは天師道の位階 制度 によっ て 修行 する一方 で 、「道 法」 の伝 授 も 受けるよ うになったの である。そし て 、 時代 が下った元代や明代の碑文にも南宋時代 と同 様 の 道 士の称 号 が 見 出 せ る ことか ら、そ のよ うな修行の形態が一般化した こ とも指摘 で き る。 「 道 法」の出現は、道士の修行の形態に大きな 変 化をも た らしたの で あ る。 補 論 「 「 道法 」 の 伝 授 の事例 」 で は 、 「 道法 」 の 伝 授 の 具 体的な 状 況がわ か る 史 料を紹 介 した。結果、南宋時代の道士 た ち は 天師道の位階制度と「 道法」の修行を平行し て 行っ て いた こと、そし て 、師となる道士によっ て 伝授される「 道 法」の数も種類も異な っ て いた ことを示した。 ま た、 複数の師から別々の 「 道 法 」 を 伝授された 例 もあげ、 「道 法」 を伝授 する側と伝授される側の両方から 「 道 法 」 の伝 授 につい て 検討した。 さ らに、 「 道 法 」 の伝 授が繰り返されるうち 、科儀書のテキストや道術による分派が 起 きて いた ことも明らかに した。 なお、それらの事例からは、天師道の位階制度 によ る経籙の伝授 と「道 法 」の伝授の ち がい も見 え て く る 。 天 師道 の 位 階 制度 によ る 経 籙 の 伝 授 で あれ ば、 どの道 士 でも ほぼ同 じ よう な 経 典 や 符 籙 を 伝 授さ れ た は ず で あ る 。 それ に対し、 「道法」 の伝 授におい ては、 法 統 や 道 術に よって 伝 授される 儀礼 書の テキ スト の内 容には違 いが生 じ て い た。 そして 、 それ ぞれ伝承者た ちが正 当 性を主張する こと で 、 分派を繰り返し て いったよ うである。 (五 ) 最後に、附録と し て「真 武神の 図像の 新 資 料―北 京 大学所 蔵 の拓 本三種―」を収め て い る。南宋時代の石碑の拓 本 により、第一部と第二部 で 言及した真武神の図像を紹介 す るもの で ある。また、碑文の内容から、真武神に対する信仰 につい て 具 体的に示 すことを 企図 して いる 。 以上が本論文の概要 で ある。