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論点先取の可能性

以上の議論を踏まえて,認知意味論/CMT の研究者にお願いしたいことがある.メタ ファー写像=概念領域間の対応づけがオッカムのカミソリで切れないことを示して欲しい.

つまり,次のことを原理原則論によってではなく,データに基づく実証的議論によって示し て欲しい:

(48) メタファー写像=概念領域間の対応づけを,他の概念によって特徴づけられない基本

概念(primitives)として仮定しなければ,メタファー表現の存在は説明できない.

従来の認知意味論/CMTの議論は,こうであった:

(49) ここにこれこれのメタファー表現がある.これはこれこれのメタファー写像 =領域 間の対応づけ(e.g.,「怒りは火(である)」)を仮定すれば,正しく説明できる.

これは仮定の十分性のみに基づく議論であって,仮定の必要性に基づく議論ではない.

「これはメタファー写像= 領域間の対応づけを仮定しなければ,これこれのメタファー表 現だけでなく,どのメタファー表現も説明できない」ということが示されて初めて,説明 は必要十分になる.だが,この意味での仮定の必要性は認知意味論/CMTの今までの研究 で,ただの一度も経験的に実証されたことはない.認知意味論/CMTで言語の多くの言語 データが概念メタファーの体系が存在していなかったら説明できないという意味で概念 メタファーが必然的なのは,チョムスキー派言語学者にとって言語の多くの言語データが 生得的な普遍文法が存在していなかったら説明できないという想定がそうであるように,

それが正しくないと枠組み全体が成立しない仮定である.これはほかでもなく,認知意味 論/CMTの論法が論点先取の誤りを犯している可能性が高いということである(実際,後述 の[Glucksberg & Keysar 1993]のモデルは,CMTに特有の仮定(48)が論点先取であること を示唆している).

認知意味論/CMTでは「動機づけ」に基づく説明が必要性の議論の代用になっているが,

それには控え目に言っても経験的根拠がない.私としては単なる「こじつけ」と正真正銘 の「動機づけ」との違いを明白にして欲しいと思うわけである40.動機づけが説明になると 信じない者にとって,CMTの説明は「説明」という名で呼ばれるべきものではない.私の 使っている物差しは「短い物差し」[鍋島2007, p. 68]かも知れないが,自分ではそれは認知 言語学の外でも通用する物差しであると思っている.鍋島氏の使っている物差しがどれぐら い長いかは知らないが,それが無用の長物でないことを祈りたい.

4.3.1 (認知)言語学の限界を知る必要性

誤解のないように言っておきたいが,私は動機づけの研究に価値がないと言っているので はない.私が問題にしているのは一言で言えば資格の問題,すなわちメタファーの動機づ けの解明のような,言語の下部構造に関係する根本的に難しい研究を,認知科学者/心理学 者としての専門的な訓練を受けていない認知意味論/CMT研究者に正しく実践できるとは思 えないという懸念である.自分の能力の限界を知る言語学者の一人として,私は認知意味 論/CMT研究者,並びに同様の高望みをする認知言語学者の一派に忠告したい: 言語学者が 自らの直観のみに基づいて,言語の表層分布以上の事実—例えば言語を支える認知の下部 構造—を説明しようとするのは,言語学者の力量を越えた,危険な企図である可能性が高 い.私が強く感じるのは,(認知)言語学者は自分が認知科学の専門的な教育も訓練も受けて

いないという事実に,もっと謙虚になる必要があるのではないのか?という点だ.

認知意味論/CMTは、認知心理学者たちに理論的示唆を与えることで,認知科学におけ る比喩研究の活性化に貢献した可能性がないとは言えない41.だが,自分が認知科学者と しての専門的な訓練を受けていないという事実を素直に認めることができない言語学者 は,伝統的な研究(e.g., 認知心理学)との整合性を無視した研究をしがちである.これは単 に危険であるばかりか,場合によっては関連領域に対する敬意に欠けた横暴に映る危険が ある.伝統的認知心理学との整合性を意味を考えず,勝手気ままな研究を進める認知意味 論/CMTは,言語学内での受容者が分野外の動向への無知につけこんで,知的な誠実さに欠 ける過剰般化を拡大再生産し続け,自滅に向かって独自路線を突っ走る研究プログラムに 見えるというのが,私の正直な感想だ.これは私のバイアスかも知れない.だが,もっと穏 健な形ではあるが本質的に同じ趣旨の批判は,認知意味論/CMTに批判的な認知心理学者 [Murphy 1996, Murphy 1997]から発せられている42§4.2で示したように,CMTに賛同的 な認知心理学の研究がないわけではないけれど,無条件にCMTを全面支持するような研究 を認知心理学に見つけることはできない43

だが,CMTがメタファー表現から区別された実体として(概念)メタファーがあるという 突飛な想定を行なわずに,その実体を(認知心理学の研究を受け入れて)アナロジーと特徴づ け,例えば(34)のように定式化していたら,まったく事情は異なっていただろう((34)は実 際に[Gentner, et al. 2001]が示唆している方向でもある).端的に言うと,CMTでは—提唱 者たちの思慮不足故かどうかはわからないが—自説の見かけの独自性のために,通説との 互換性が犠牲にされている.これは今さら言っても「覆水盆に返らず」であるが,このこと を機会に触れてCMT研究者が自覚するだけで,多くのことが別の形を取って展開するため の下地となると私は考えるし,そうなることを強く期待している.

CMTの研究者が,人文学研究の枠の中に閉じ籠り,その中で「井の中の蛙」になりたい のであれば,例えば分野外に出て行って,認知心理学者や認知科学者とヒトの心の仕組み解 明のために知恵を絞り合いをするのを回避したいのであれば,私はそれを止めはしない.分 野外の研究者との論争を避け,自分の城で威張っているのは,確かに気楽だ.自分よりも言 語の本質についてよく理解している可能性のある研究者に自尊心を脅かされることもない.

だが,そういった「他流試合」を始めから放棄するなら,CMTが研究者には,「概念メタ ファーがヒトの思考のパターンを説明する」と称して大言壮語を続ける資格はないと私は考 える(いや,私でなくても正気の人間なら,そう考えるはずだ).「ヒトの(語りではなく)思 考がメタファー的である」という大胆なテーゼを本気で主張するなら,仮定の十分性を示す だけでなく,それ以外の可能性が不可能であることの正当化,つまり (49)で指摘したよう に,仮定の必然性も示すべきである.

4.3.2 認知言語学内部での見解の不統一

CMT が認知言語学のメタファー観を代表していない証拠を追加する.[Taylor 2003, pp. 528–530]は.認知心理学者である[Glucksberg & Keysar 1993]の説「比喩の認知的基盤 は領域間の写像ではなく,言及された二つのカテゴリーに対する上位カテゴリーの形成にあ る」を紹介し,この論がCMTとは相容れないが,[Langacker 1987, 1991]の認知文法の考 えと整合性があると述べている44.また,Taylorは2005年の国際認知言語学会の招待講演 の中で,動機づけの研究は空虚であるとCMT流の研究方向に批判的な見解を示しているこ とも併記しておく.鍋島氏が一貫しているならば,彼の言う「認知言語学の諸前提」を私と

同じくTaylorも理解していないと言うべきであろう.

このように一部の認知心理学者と姿勢を共有しながら,私が不完全ながらも原論文で試み たのは,メタファー写像なしで,認知科学にはどの道でも必要な最小限の前提の集合(is-a,

part-of関係の利用)からメタファー表現の理解プロセスを説明する試みである45.また,私

の試みたモデル化は認知文法のメタファーのモデルの明示化という側面もないわけではな い46.この試みを強く動機づけているのは,現在の認知言語学が認知科学の主流から孤立傾 向にあるという強い危惧である.だが,これは鍋島氏が代表する認知言語学の一派とは共有 されていないようだ.

4.3.3 FOCALモデルの狙い

私は自分のモデル化で,認知科学の関連分野との整合性を考慮に入れ,争点になっている 論点先取は避けてしかるべきものだと私は考えた.これを実現するため,私は先領域 T を 元領域Sに対応づける概念メタファーM:S→T を,用語sで喚起された概念構造S(タイ プは状況)と,用語t で喚起された概念構造T (タイプは状況)について,[T instance-ofS0] の関係が満足されるようにSが抽象化(h:S→S0)されるプロセスとしてモデル化した.こ の際,特に重要だと思われるのは,抽象化は自動的なものではなく,(おそらく共合成,意味 調節に由来する)S,T の間の整合性を確保するために「必要に応じて生じる」(別の言い方を すれば,(概念的にと言うより)個々の語の用法に動機づけられている)という点と,このモ デル化はh:S→S0の抽象化への制約が特定されて始めて意味をもつという点である.抽象 化への制約の特定はCMTで「動機づけの解明」と言われているものに対応すると考えて良 いと思うのだが,私とCMT支持者とでは想定している答えの形が明らかに異なる.私のモ デル化では,CMTが述べるすべての[[T isS]]に関して[T instance-ofS0]かつ[Sinstance-of S0]となるようなS0の内容の明示化が不可欠だが,S0の内実はCMTでは不問のままである.

この点に関して,少し説明を補う.

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