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ボリビアにおけるアンデス高地からユンガスへの移住 - CORE

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信 岡 奈 生

1.はじめに

南米の中央部に位置するボリビアの国土は西のアンデス高地から東の熱帯低地ま で高度差が大きく,先スペイン期から農耕が盛んな高地に人口が集中していたが,

20世紀半ば以降,先住民人口の多い高地から低地への移住が進展している。

そこで本稿では,ラパス県の高地アルティプラノからより低地のユンガスへの移 住に焦点をあて,聴き取り調査の結果を中心に移住の実態の一端を紹介したい1)

2.ボリビアの地理と人口

ボリビアは1,098,581 km2の国土面積をもち,その地形はアンデス高地,東部平 原地帯,およびその中間に位置する渓谷地帯という3つに大別される。

アンデス高地は,標高5,000mを超える高峰が並ぶ西アンデス山脈,東アンデス 山脈と,その間の標高3,800~4,000mのアルティプラノと呼ばれる高原地帯からな り,国土の29%を占める。東アンデス山脈が平原地帯に降りてゆく斜面の中腹地帯 はバリェと呼ばれ,コチャバンバ盆地,スクレ盆地,タリハ盆地はここに位置して いる。バリェの東の広大な平原地帯は国土の60%を占め,北部の熱帯湿潤低地,東 南部の乾燥低地,チキタノ台地に分けられる。

ボリビアの総人口約800万人の半数は先住民のアイマラとケチュアであり,アイ マラはアルティプラノのラパス県に多く居住し,ケチュアはアルティプラノ南部の オルロ県,ポトシ県からバリェのコチャバンバ県,チュキサカ県に広く分布してい る。バリェには白人やメスティソ(混血)も多い。現在,アルティプラノにはボリ ビアの人口の約40%,バリェには約30%が居住している。熱帯低地の東部平原はも ともと先住民が少なく,白人系住民が多い地域で,1950年当時,この地域のサンタ クルス県,パンド県,ベニ県の人口は,総人口の14%を占めるにすぎなかった2)

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図1 ボリビアの位置と地勢

3.国内移住

16世紀に現在のボリビア地域はスペインの植民地となり,1825年に独立した後も 大土地所有制は存続し,先住民の多くは大農園(アシエンダ)に所属していたが,

1952年にMNR(民族革命運動党)によるボリビア革命が起こり,翌年には農地改

革法が制定された。同法は伝統的な大土地所有制の廃止や,農業の発展と東部低地 開発を目標としていた。

東部低地開発計画の最大の目的は,大土地所有制の廃止に伴って発生した多数の 先住民の零細農民を人口の希薄な東部に移住させること,土地を開墾させて食糧の 自給化をめざすこと,政治・経済の中心であったアンデス高地地域から孤立してい たサンタクルス地方を国家に統合することであった。

同開発計画で設定された開発地域は,東部低地のサンタクルス地方,バリェのチ ャパレ=チモレ地方,ラパス県のユンガスと呼ばれる山麓地帯に位置するカラナビ=

アルト・ベニ地域である。この計画を契機として,1950年代後半から低地への移住 者が増加した3)

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図2 東部低地3大開発地域

4.ラパス県のユンガス

アルティプラノは高度3,800~4,000mの高原地帯で,気候は寒冷で,湿気は少な い。先スペイン期からジャガイモを主作物とする農業が盛んで,ティアワナコ文明 もアルティプラノに栄えた。実質上の首都であるラパス市もアルティプラノに位置 している。農地改革以降,農村部からラパス市への移住者も増加し,1987年にはラ パス市に隣接してエル・アルト市も誕生した。

一方,ユンガスはアンデス山脈の東側斜面の渓谷部に位置し,高温多湿の熱帯,

亜熱帯気候に属している。森林に覆われ,高度によって海抜3,300~2,500mの高地 ユンガス(ユンガス・アルトス),2,500~1,500mの中間の高度のユンガス(ユン ガス・メディオス),1,500~600mの低地ユンガス(ユンガス・バホス)の3つに 分けられる。アマゾン川からの風によって雨量が多く,湿度も高い。

ラパス県では,北ユンガス郡,南ユンガス郡,カラナビ郡の全域と,フランツ・

タマヨ郡,インキシビ郡,ラレカハ郡の一部がユンガスに含まれる。ユンガスは昔

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からコカの産地として知られているが,主要産地であるコロイコ,コリパタ,チュ ルマニはラパス県のユンガス・メディオスに位置している。ユンガスという名称は,

本来,このユンガス・メディオスを指していた。コカ以外にも,ユンガスは野菜,

果物,穀物などをアルティプラノの人々に供給してきた。

アルティプラノに比べて,ユンガスの人口はもともと少ないが,開発の対象地域 となったカラナビ=アルト・ベニ地域は,低地ユンガスに位置する人口がきわめて希 薄な地域であった。

カラナビ地域は,カラナビ川の渓谷と周辺の山地を中心とし,中心地のカラナビ は首都ラパスから166km の地点にある。この地域へは1950年代後半から自発的な任 意移住が始まった。その当時,カラナビ地域は北ユンガス郡の一部であったが,人 口増加の結果,1992年にカラナビ郡となった。

アルト・ベニ地域は,カラナビ地域よりも東に位置し,アルト・ベニ川の渓谷と 周辺の山地を中心とし,ラレカハ郡,カラナビ郡,南ユンガス郡にまたがっている。

この地域への移住は,1961年の公的支援を受けた計画移住から開始された。

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図3 ラパス県の行政区分

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5. 聴き取り調査

5.1 ラレカハ郡コロニア・エルサレム

カラナビ郡に隣接するラレカハ郡テオポンテ地区にあるコロニア・エルサレムは,

ラパス県アロマ郡サンティアゴ・デ・ラウラニ村から移住した人々を中心に形成さ れた移住地,すなわちコロニアである。アルティプラノからユンガスへの移住の実 態を示す事例として,移住の経緯,移住地での生活,移住者の現況などを紹介した い。インフォーマントは,幼い頃に両親とともにコロニア・エルサレムに移住し,

現在はラパス市に住む40代のアイマラ女性フアナ(仮名)である。

5.1.1 移住

5.1.1.1 移住の背景

フアナの両親はともに1939年にサンティアゴ・デ・ラウラニ村で生まれた。農地 改革以前,この村は個人所有のアシエンダで,農地改革によって村人は1家族あた り10ha の土地を獲得した。そのうち5ha は放牧用の丘の土地で,農地は半分の5 ha だった。

移住した1965年当時,両親は4人の子供を持ち,家族を養うために農地を必要と していた。その頃フアナの父は自分の土地を持っておらず,また4人兄弟だったた め,親から相続できる土地はわずかだということが分かっていた。村には鉱山があ り,父は農業の傍ら鉱山でも働いていたが,昼夜交代制の12時間労働は過酷で健康 にも悪かった。

そんな時,同じ村に住むいとこの夫マヌエルがカラナビの近くに土地を探しに行 き,良い場所があるから移住しないかと父に話を持ちかけた。そして父と2人の弟,

マヌエルとその弟,さらに父のおじでマヌエルの義父にあたるシリロの6人が移住 を決意した。父の下の弟以外は全員既婚者で,皆,妻子を村に残してユンガスに向 かった。シリロは40代,他の5人は20代で,父は26才だった。移住には資金が必要 だったため,父は牛と羊を1頭ずつ売った。

5.1.1.2 移住地の形成

父たちが着いた場所は,カラナビの町から奥に入った人がまったく住んでいない 山林だった。道もない所を進んでゆき,小屋を1つ作り,そこに6人で寝起きして,

周囲の木を少しずつ伐採し,開墾していった。

2年目に各々が自分の家を建て,村に残していた家族を呼び寄せた。フアナの家

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族では,4才のフアナと兄は父方の祖父母の家に残り,母と2才の次女,生後3ケ 月の三女がまず移住した。フアナが移住したのは2年後の6才の時で,兄が移住し たのはそれからさらに2年後,10才になってからだった。また,移住2年目からサ ンティアゴ・デ・ラウラニ村や近隣の村の人々にも移住を呼びかけ,20数家族が移 住した。

移住3年目にはアルティプラノの村と同様に農業組合をつくり,マヌエルが初代 組合長になった。父はそれから2年後に組合長になり,その時にラパスから技師を 招いて土地の計測をし,区画を確定した。1家族が1区画10ha を所有することにな り,無料であった。

5.1.2 生業 5.1.2.1 作物

移住した最初の年に栽培したのは米だけで,その後,少しずつ作物の種類を増や していった。現金収入を得るための主な作物は,米,コーヒー,カカオ,バナナ,

トウモロコシで,最も収入が多かったのはコーヒーである。その他,ユカ,カボチ ャ,フリホール,ピーナッツ,サトウキビ,アボガドや,オレンジ,グレープフル ーツ,リマ,マンゴー,パイナップルなども栽培した。

5.1.2.2 家畜

両親はアルティプラノから羊10頭とロバ2頭をユンガスに連れていったが,暑さ や虫が原因で病気になったり,死んだりしたため,家畜を飼育することはやめた。

牛を飼っている家もあったが,普段の世話や予防接種を受けさせるのが大変なので,

フアナの家では飼わなかった。しかし,鶏はトウモロコシを飼料にしてずっと飼っ ていて,多い時は100羽くらいいた。鶏や卵は家族で食べるだけでなく,貴重な収 入源であった。

5.1.2.3 市場

農産物はカラナビまで運んでいって売った。カラナビでは木曜日から日曜日まで 市がたち,仲買人が農産物を買いに来ていた。農産物の運搬は重労働だった。移住 した当初,コロニアから幹線道路に出るには,徒歩で,荷を持たないでも1時間半 かかった。男性は50kg ほど,女性でも30kg 以上の荷を背負った。道端の丸太に何 度も座って休憩しながら幹線道路に出て,そこから車に乗ってカラナビまで2時間

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ほどだった。カラナビでは農産物を売る一方で,加工食料品,日用雑貨,衣類など を購入した。

5.1.2.4 労働

子供たちも農作業の手伝いをしたが,人手が足りない時には人を雇ったり,アル ティプラノの村と同様に,アイニ(労働交換)に頼ったりした。収穫時などには,

アルティプラノの村からおじやいとこなどが手伝いに来ていた。2週間から1ケ月 ぐらい手伝ってもらい,収穫物の一部を代価として渡していた。

一方,両親,とりわけ父は,アルティプラノの農繁期には村に帰って親の畑の仕 事を手伝った。アルティプラノでは9~11月はジャガイモの植え付け,1月は除草,

4~6月は収穫の時期である。ユンガスでの農作業の時期と重なることも多いため,

1週間ほど手伝いに行って,あわてて帰ってくるという感じだった。アルティプラ ノに行く時には米やトウモロコシや果物を持ってゆき,ジャガイモ,チューニョ(乾 燥ジャガイモ),ソラ豆,キヌアなどを持って帰っていた。

5.1.3 衣食住 5.1.3.1 衣服

アルティプラノでは,女性は襞がたくさん入ったポジェラと呼ばれるスカート,

男性はポンチョなどの民族衣装を着るが,ユンガスは暑いのでこうした衣服を着る ことはなかった。女性は普通の薄手のスカートをはき,さらに虫に刺されないよう にズボンもはいたり,上着も袖が手首まであるものを着たりしていた。帽子は藁で 作ったものを被っていた。しかし,アルティプラノに行く時にはフアナも母もポジ ェラやフエルト製の山高帽などの民族衣装を着用した。

5.1.3.2 食事

茹でたジャガイモやチューニョをアルティプラノでは毎食食べるが,コロニアで はその代わりに米,ユカ,トウモロコシ,バナナなどを食べた。朝食は,それらに 野草でつくったハーブ茶を飲むという簡単なものだった。昼食には,野菜,米,マ カロニなどが入ったスープを食べ,卵や鶏肉や魚の料理がつくこともあった。夕食 も主にスープを食べていた。アルティプラノからのジャガイモ,チューニョ,ソラ 豆などがある時は,それらも茹でたり,スープに入れたりしていた。

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5.1.3.3 住居

アルティプラノの家は日干しレンガ造りだが,ユンガスでは木や椰子の葉を利用 して家をつくった。はじめは1部屋だけで,炉も貯蔵場所もその中にあったが,後 になって台所と貯蔵庫の建物を別々に作った。寝室にしていた建物は1つで,そこ に3つのベッドを置き,両親,姉妹たち,兄弟たちで1つずつ使った。ケロシンを 燃料にして明かりを灯し,調理用の燃料には木や草やトウモロコシの芯を使った。

今でも電気はきていない。飲用水は近くを流れる川の水を利用した。

5.1.4 教育

1区画の土地をコロニアのメンバー全員で耕作し,収穫物を売って資材を購入し て学校を建設した。コロニアの子供たちは幼稚園(1年)と義務教育の小学校(5 年)の教育をここで受けた。教師は1人だけで,親たちがお金を出しあって雇った。

中学・高校で勉強するには徒歩で1時間ほどのマルカパタまで行かなくてはなら なかった。フアナと2人の妹は小学校までの教育しか受けなかったが,4人の兄弟 は高校まで進んだ。しかし,高校を卒業したのは一番下の弟だけで,それもラパス の夜間高校だった。

スペイン語は小学校に入ってから学んだ。父はスペイン語を話したが,母はまっ たく話せず,家族の間での会話はすべてアイマラ語だった。

5.1.5 宗教

ユンガスではプロテスタントの活動が盛んで,多くの信者がいる。両親はアルテ ィプラノにいる時にカトリックからプロテスタントに改宗していて,子供たちも10 才になると,カラナビにあるプロテスタントのセブンスデー・アドベンティストの 教会で洗礼を受けた。父と一緒に移住した親族たちもプロテスタント信者だった。

コロニアでは,最初はマヌエルの家に信者が集まっていた。その後,信者全員で 小学校の区画の半分の土地を利用して作物を栽培し,それを売って得たお金で資材 を購入し,教会を建てた。

信者たちは金曜日に夕方からの集会に参加し,土曜日は午前中から集まり,昼に 食事をしにいったん家に帰ったあと,午後にまた集まった。3ケ月に1度,カラナ ビからパストール(牧師)がやってきた。

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5.1.6 病気

ユンガスにはさまざまな病気がある。家族全員が罹ったのは貧血で,栄養失調が 原因だといわれている。胃腸の具合が悪くなることも多かった。妹や弟は皮膚病に 罹り,妹は頬にかなり大きな痕が残っている。父は黄熱病にも罹った。コロニアで はマラリアに罹る人もいた。こうした病気を病院で治療してもらうにはカラナビま で行かなくてはならなかった。

5.1.7 家族・親族の現況

父方の祖父が1989年に亡くなり,父は1992年にコロニアに所有していた2区画の 土地を売却して母とともに故郷のサンティアゴ・デ・ラウラニ村に戻った。相続と 購入により,父は村で2ha の土地を所有し,牛も牡雌2頭購入した。父は1999年に 亡くなったが,母は今も健在である。

コロニアでフアナにはさらに3人の弟が生まれたが,きょうだい7人のその後は 以下の通りである。

長男は17才でラパスに出て,現在はホステルの守衛をしている。

長女フアナは14才でラパスに出て,2年後ユンガスに戻り,5年後に再びラパス に出て,結婚し,家事労働で収入を得ている。

次女も16才でラパスに出て,結婚し,フアナと同様,家事労働をしている。

三女は20才で同じコロニアの若者と結婚し,翌年にアルト・ベニのコロニアに移 住した。

次男も三女が移住した翌年,独身で,三女と同じアルト・ベニのコロニアに移住 した。2年後にラパスに出て,アルティプラノのアチャカチ出身の女性と結婚し,

アルト・ベニのコロニアに戻ったが,妻が低地の気候に適応できなかったため,現 在はラパスで建設の仕事をしている。コロニアに所有していた土地は,三女の長男 に売却した。

三男は18才頃にラパスに出て,航空会社の従業員送迎用のミニバスの運転手をし ている。

四男は6才からラパスにいる長男の家で世話になり,長男が勤めるホステルの雑 役をしながら夜間高校を卒業した。兵役から戻った時に父が亡くなり,母がアルテ ィプラノの村で1人になったため,村に移り住んでそこで結婚した。

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このようにフアナのきょうだいのうち,現在でもユンガスに残っているのは妹1 人だけである。妹が結婚後移住したアルト・ベニのコロニアはパロス・ブランコス の町の近くにあり,ここには妹の夫のおじが住んでいた。土地は区画されていて,

1区画10ha を購入し,夫の弟たちも同時期に移住した。

フアナの父とともにユンガスに移住した父の2人の弟も,父に続いてサンティア ゴ・デ・ラウラニ村に戻った。父のいとことその夫のマヌエルも村に戻ってから亡 くなり,マヌエルの弟は息子たちとともにラパスにいる。父のおじでマヌエルの義 父であるシリロは,フアナの弟と同時期にアルト・ベニの同じコロニアに移住した が,そこで妻を亡くして1人になり,アルティプラノのビアチャにいる息子のもと に身を寄せた。

5.2 インガビ郡カジャマルカ村

ラパス県インガビ郡のカジャマルカ村は世帯数133のアイマラの農村で,この村 からはカラナビ地域のコロニア・コリャスーヨ,コロニア・サンタ・アナ,コロニ ア・サン・サルバドール,アルト・ベニ地域のコロニア・チャルカスに約20人が移 住している。

ここではアルティプラノからユンガスへの移住,およびアルティプラノの人々と 移住地やユンガスとの関わりについて,4名のインフォーマントの話を紹介したい。

5.2.1 インフォーマントⅠ(40代男性)

アルト・ベニのコロニア・チャルカス(2区)に20ha の土地を所有しているが,

10ha は山林である。コロニアの土地は買売され,居住者の入れ替わりは多い。現在,

コロニア・チャルカスでは,OSCAR(Obras Sociales de Caminos de Acceso Rural)

プロジェクトの活動が行なわれており,いろいろな作物を植えて土壌に適した作物 を探したり,橋の建設などもしたりしている4)。共同作業の負担は大きい。また同 プロジェクトの開始以降,近隣の木を自由に伐採して売ることは禁止された。

1982年から1年間,コチャバンバ州のチャパレで働き,その後カラナビでも農業 労働者として働いたあと,1987年にいとこのテオドロがいたアルト・ベニに妻と娘 1人を連れて移住した。アルト・べニにはテオドロの手伝いに何回か行ったことが あった。1990年に妻が長男を出産した直後に亡くなったため,息子はカジャマルカ 村にいる両親に預け,コロニアで娘と2人で暮らしている。5人きょうだいで,弟 1人,妹1人もそれぞれカジャマルカ村の人間と結婚して,同じコロニアに移住し

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た。最初の10年くらいは息子のこともあって村とコロニアをよく往復していた。今 でも毎年,祭りがある8月上旬に村に戻って1週間ほど滞在している。病気をした ことがきっかけで,3年前にプロテスタントの信者になった。

5.2.2 インフォーマントⅡ(50代男性)

1986年は雨が少なく,不作になりそうだった。2月から4月にかけて,親戚のテ オドロがいるアルト・ベニのコロニアに農作業の手伝いに行き,移住することも少 し考え,集会にも参加した。しかし4月にジャガイモの収穫のために村に戻ったと ころ,まあまあの収穫があったので移住する気はなくなった。

1990年頃から牛の飼料としてアルファルファを栽培するようになって,以前より も多くの乳牛を飼えるようになり,牛乳を特定の業者に毎日売ることで収入が増え,

生活が少し楽になった。

テオドロは昔からよくユンガスに働きに行っていた。そして1980年代にまず単身 で移住し,家や畑を準備してから妻と息子2人,娘1人を呼び寄せた。息子たちは 村で高校を卒業してから10代でアルト・ベニに移住したが,2人とも結婚した相手 は村の娘である。

現在,テオドロはアルト・ベニで米,バナナ,オレンジ,蜜柑などを栽培し,牧 草も育てて牛を50頭ほど飼っている。カジャマルカ村にも2ha の土地を所有し,次 男の妻の父に耕作を頼み,収穫は折半している。村の土地を所有していると,村の 役職につく義務があるが,本人が他所にいてできない場合は,耕作者が代理でこう した役職も引き受けなくてはならない。

5.2.3 インフォーマントⅢ(40代男性)

1978年に,ユンガスへの移住に関心のあるカジャマルカの男たちがまとまってユ ンガスに下見に出かけた。20代から50代までの25人で,そのうちの4人の妻たちも 食事をつくるために同行した。食料としてチューニョ,ソラ豆,ピトゥ(大麦を焙 って粉にしたもの)などを持っていった。お金を出しあって村からユンガスまで車 をチャーターした。

到着した場所はカラナビの町の少し手前で,そこに村人の1人がカラナビで知り 合った人物が待っていた。町の近くの土地はすでに開墾されていたので,その案内 人を先頭に山林に入り,道がなかったので山刀や斧で木や草を切りながら進んでい った。野宿をしたが,夜でもひじょうに暑くて喉が渇き,最初の夜は,朝方3時頃

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まで水のある場所を探して歩き回った。2日目に見晴らしのよい場所に着き,案内 人が川の向こうに良い場所があると目的地を指し示したが,立ち止まったその場所 に着くまでで疲労困憊だったので,先には進まず,そこから全員引き返した。帰り はばらばらで,果物が安かったのでカラナビで買って帰った。良い果物だったが,

アルティプラノに着く頃には痛んでいた。目指した場所は遠く,道もなかったし,

作物をつくっても運搬が難しいことも分かった。往復3日の旅だった。

この当時は結婚したばかりで自分の土地を持っていなかったし,きょうだいは6 人いるが,父親の所有する農地は5ha くらいしかなかった。他に丘の土地もあった が,石ころが多くて放牧にも使えない場所だった。とにかく,土地が欲しかった。

ユンガスに関しては,「あそこには土地がいっぱいある。すばらしい」と聞いていた。

ユンガスでは30~50ha もの土地が所有できるという話だった。村では,少ない場合 は0.5~2ha 程度の土地しか所有できないこともある。

結局,ユンガスに行ったのはこの時だけだった。行く前にもっと準備する必要が あったと思う。もっと良い場所に出会っていたら,移住していたかもしれない。

5.2.4 インフォーマントⅣ(30代男性)

ユンガスには4回行った。最初は20才の時で,カラナビの近くのコロニア・コリ ャスーヨに行った。妻のいとこのレオナルドに誘われ,2人の妹,妹の許婚,妻の 弟妹とともに7人で出かけた。コロニアにはレオナルドの姉のアナが住んでいた。

アナは独身時代にこのコロニアにいたおばのところに手伝いに行き,その時に知り 合った男性と結婚していた。アナの家に泊めてもらい,人手の足りない家を探して 仕事をもらった。行ったのは6月で,コーヒー豆の収穫を手伝った。1日の収穫量 に応じて現金で日当が支払われたが,慣れない仕事なので,はじめの頃は1日に1 缶しか収穫できず,3ボリビアノしか貰えないこともあった。日曜日を除いて,朝 8時から夕方6時頃まで働いた。ユンガスでは果物がたくさん食べられて嬉しかっ た。この時はお金は二の次で,遊び気分が強かった。2週間働き,オレンジ,蜜柑,

リマ,ユカをたくさん貰い,土産に持って帰った。

2回目に行ったのはコリパタで,妻の弟の知人がここにいて,妻のもう1人の弟 も一緒に,3人で出かけた。12月に2週間,コカ畑で除草の仕事をした。この時は 雇い主の家に泊めてもらった。3,4回目は,ともに26才の時で,1月にコリパタ の近くのコスコマ,3月には再びコリパタで働いた。コカ畑の仕事は少し収入が良 かったが,4回目の時に湿疹が出たり発熱したりしたため,それ以来ユンガスには

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行っていない。

6.考察

6.1 ユンガスへの移住

1953年の農地改革によりアルティプラノでは1家族につき概ね5ha の農地が与 えられた。しかし複数の子供による土地の相続は土地の細分化に繋がり,多くの人々 にとって生まれ育った村で生計をたてるのに十分な土地を確保することは困難であ り,ユンガスで広い面積の土地を所有できることは,アルティプラノの農民にとっ て大きな魅力であった。

インフォーマントの話から,ユンガスへの移住者は20~30代で,結婚して子供を 持っていた人々が中心であったことがわかる。1960年代のオリエンテの移住地の調 査でも25~30才の時に移住した者が多く,その大部分は出身地で結婚していたと報 告されている5)。1980年代のアルト・べニ IV 区における調査でも,家長の移住時 の年齢は21~30才が35%,31~40才が27%であった6)

農村部では,親族関係の紐帯が強く,農作業をはじめとするさまざまな事柄にお いて親族間で相互扶助が行なわれているが,移住する際にも親族関係が大きな役割 を果たしている。フアナの父は,兄弟,いとこなど計6人の親族で移住し,アルト・

べニIV区の調査でも,「単独」での移住は32%で,単独でない場合は,一緒に移住 したのは「友人」が18%,「親族」が49%にのぼっている7)。インフォーマントI もいとこを頼って移住し,その後,弟妹も同じコロニアに移住している。

また,アルティプラノでは,近年,プロテスタント信者が増加しており,信者が まとまって移住して形成されたコロニアもある。フアナの両親やともに移住した親 族たちもプロテスタント信者であった。

6.2 移住地での生活

カジャマルカ村からアルト・べニに移住したテオドロのように,ユンガスで牧畜 をかなり大きな規模で行なっている移住者もいるが,その数は少なく,移住者の大 部分はアルティプラノの農民と同様に,自給自足型の零細な農業を営んでいるのが 現状である。

生活環境は厳しく,道路は雨季には通行不能になったり,河川に橋が架かってい なかったりする所も多い。電気は通っていないコロニアが多く,飲用に適した水が ない所では川の水などを飲料に利用している。

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また,アルティプラノと異なりユンガスの気候は高温多湿で,マラリア,黄熱病 などの熱帯特有の病気があることに加え,栄養状態や衛生状態の悪さから,栄養失 調,貧血,寄生虫,皮膚病,赤痢などの罹患率も高い。フアナの家族もさまざまな 病気にかかっていた。

教育面では,2001年の国勢調査においてラパス県の先住民で初等教育しか受けて いない人口の割合は49.7%であるが,アルト・べニの農民を対象とする調査では,

男性の59%,女性の70%が初等教育しか受けていないといった報告がある8)

6.3 移住後のアルティプラノとの関係

ユンガスに移住した後も,アルティプラノの出身地との関わりはさまざまな形で 維持されている。アルティプラノの村に土地を所有する場合もあるが,そうでなく てもジャガイモの収穫期や,村の祭りの時などに帰郷することが多い。

一方,アルティプラノの人々も主にアルティプラノの農閑期にユンガスを訪れ,

移住地に住む親族の農作業の手伝いをする。親族の畑の仕事を手伝うだけでなく,

短期の賃労働で収入を得る場合もある。

6.4 移住地からの移動

別のコロニアに移動したり,ユンガスから離れたりする人も多い。フアナの親や きょうだいは,現在は1人の妹を除いて全員がアルティプラノに居住しており,イ ンフォーマントⅠも移住地での住民の入れ替わりが激しいと述べている。移住開始 から約20年後のアルト・べニⅠ区における調査でも,移住者の半数以上が購入によ って土地を入手しており,土地所有者の変動が大きいことが分かる9)

移住地にはさまざまな問題があるが,移住地を離れる理由として第一に挙げられ るのは農地の肥沃さの低下である。ユンガスの移住地では焼畑耕作が行なわれてお り,休耕地にして地力の回復を図るが,熱帯地域で必要とされる長い休耕期間をと らずに耕作し,収穫量が大幅に減少するという現象が見られる。とくに米やコーヒ ーの栽培地で顕著である。

さらに,移住地の土地は分割することが認められていないため,子供が成長し,

独立して生計をたてるために土地を求めて移動することも一般的である。フアナの 妹夫婦も結婚を契機に他のコロニアに移り住んだ。

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7.おわりに

1950年代以降のアルティプラノからユンガスへの移住の進展により,現在,カラ ナビ郡の人口は5万人を超え,アルト・ベニの移住地は7つの地区に広がっている。

自給自足型の農業の枠を超えることは難しいとはいえ,ユンガスへの移住はアルテ ィプラノの農民にとって農業によって生計をたてるための重要な選択肢の一つであ ったと言えるだろう。

1)聴き取り調査は2007年8~9月に実施した。

2)2001年度のボリビアの国勢調査では,サンタクルス県の人口は総人口の約25%

を占めている。

3)国本伊代『ボリビアの「日本人村」』中央大学出版部,1989年,27頁。

4)OSCAR プロジェクトは,アルト・べニ地域において,道路・橋梁,保健,農 業,教育の分野で活動するNGO団体である。

5)Kelso L. Wessel, Socioeconomic comparison of eight agricultural communities in the Oriente and the Altiplano,La Paz,1966,p.9.

6 )Rodolfo Soriano López, Diagnostico Socioeconomico Alto Beni‐Area 4,AIPE/PROCOM‐CEDLA,1988,p.28.

7)MinisteriodeDesarrolloSostenible,Taller de Coordinación Interinstitucional sobre Ordenamiento Territorial,Anexo 1,1993.

8)Milton Vega y Eduardo Somarriba, “Planificación agroforestal de fincas cacaoteras orgánicas del Alto Beni, Bolovia”. En Agroforestería en las Américas No.43‐44, 2005,p.23.

9)Rodolfo Soriano López, op.cit., p.25.

Referensi

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川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに霧ふたがりて、道も見えぬしげ木の中を分けたまふに、いと荒ましき風の競ひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるもいと冷ややかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかる歩きなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。